続・寺田的陸上日記     昔の日記はこちらから
2009年12月  年末の終末と出発

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◆2009年11月20日(金)
 11月1日を最後に日記が途切れてしまいました。
 過去の例を見ても、11月に書けなくなることが多かったと思います。毎週のマラソン・駅伝取材が始まりますし、実業団駅伝と箱根駅伝の雑誌用の取材と締め切りも続くのが11月です。そういえば昨年は、書籍2冊の締め切りが重なったので学生駅伝関係の取材と仕事はできませんでしたっけ。
 取材した大会やチーム・選手をざっと書き出すと、下記のような感じになります。
・東日本実業団駅伝(11/2-3)
・D社H監督の電話取材
・S社N監督代行の電話取材
・T社Sコーチの電話取材
・東洋大(陸マガ箱根駅伝増刊用)
・中部&北陸実業団対抗駅伝(11/8)
・小出義雄佐倉アスリート倶楽部代表インタビュー(実業団駅伝公式ガイド用)
・青学大(陸マガ箱根駅伝増刊用)
・横浜国際女子マラソン前々日会見&K監督インタビュー(11/13)
・早大(陸マガ箱根駅伝増刊用)
・横浜国際女子マラソン(11/15)
・W大W監督の電話取材
・S社Oコーチの電話取材
・T社S監督の電話取材


 このほか、毎週ある会議にも出席していましたし、営業にも行きましたから、3日に2日は取材に行くか都心に行くか、という感じでした。一概に言えませんが、我々の仕事で週に4日取材に行ったら、かなり忙しくなります。5日行ったら書く方が追いつきませんね(いつも?)。
 昨日までに陸マガ箱根駅伝増刊と、実業団駅伝公式ガイドの女子の方は、原稿を終わらせました。今週末に入ると思っていた取材が来週になったので、少しだけゆとりができたわけです。
 と、忙しさを理由にしていますが、原稿を書くのが遅い、時間の管理が下手クソというのが日記を書けない要因でしょう。

 でも、11月1日で途切れたのには、もう1つ理由があります。2日は東日本実業団駅伝の前日取材でしたが、そのときに富士通・福嶋正監督からカマシ選手に関するいい話を聞いたので、それを丁寧に書きたいと思ったからです。
 季節柄(?)、来春入社するダニエル選手(日大)の話になったとき、福嶋監督がカマシ選手の話を始めました。ダニエル選手と入れ替わりで、ケニアに帰国するのがカマシ選手です。寺田もかねがね、カマシ選手について、もう少しクローズアップされてしかるべきだと思っていました。2001年の世界陸上エドモントン大会1万m金メダリストにもかかわらず、ほとんど取り上げられていません。
 実際、金メダルを取った頃のスピードは、来日後はありませんでした。富士通に入社した2005年以降はヘルシンキ世界選手権代表にはなっていますが、ニューイヤー駅伝では区間5位が最高です。
 にもかかわらず、福嶋監督は「カマティ(※)には感謝している。4年間でやるべきことをやってくれた」と言います。
※福嶋監督はカマシでなくカマティと言います。そちらの方が正しい発音なのだと思います。

 福嶋監督のコメントを紹介するのが、カマシ選手について一番理解できそうです。
「キャリア的にカマティに残っているのは、マラソンでケニア代表になることなんです。実績としても2時間7分台で2回走っていますし、ゲブルセラシエが世界記録を出したベルリンのレースでは35kmまで食い下がった。2時間5分台も出せる選手なんです。ロンドンやシカゴで勝ったり、ケニア代表になるには日本でやるよりも、ケニアに帰国してレベルの高い選手の中でもまれてやっていく方が良い。今のうちに戻った方が良いと、本人とも話し合って決めました。決してクビにするわけではないんです。ルールは守るし、こちらの言うことも理解してくれる。人間的にもいい奴です」
 東日本実業団駅伝は滞在日数が180日に満たなかったため出場できませんでしたが、ニューイヤー駅伝には出られます。金メダリストの最後の駅伝に注目したいと思います。


◆2009年11月23日(月・祝)
 国際千葉駅伝の取材で天台の陸上競技場に。ヘルシンキ世界選手権と重なって行けませんでしたが、4年前のインターハイ会場です。来年の国体会場でもあります。そういったことを思うとちょっとだけ緊張します。
 スタート前は指導者の方たちに接触して情報を入手する絶好の機会です…が、今年は指導者の方の数が例年よりも少なかったです。レース後に中国電力・坂口泰監督の話を聞けたのですが…。また、電話取材ですね。
 その代わりというわけではありませんが、マラソンの賞金について情報を入手することができました。今年3月の東京マラソンから賞金が導入されましたが、横浜国際女子マラソンでは賞金が出ていませんでした。
 レース終了後にS記者から質問されて、そういえばどうなったんだろうと思ったのです。取材中、特に質問する記者もいませんでしたし。
 非公式な会話中だったのでここで書くことはできませんが、なるほどと思える理由でした。

 レースは日本が快勝(学生選抜というのなら日本チームも陸上界の慣習的にいえば、日本代表ではなく日本選抜なのですが、一般世間にアピールすることを考えると日本代表とした方が効果的です。ここも現実的な選択)。陸マガ記事にも書く予定ですが、国際駅伝らしいレースでした。ひと言でいえば、選手権駅伝のようなプレッシャーはかからないけどトップ選手らしいレースをした、ということだと思います。
 レース中に、競技場に帰ってきた選手を取材できるようになりました。小林祐梨子選手、竹澤健介選手、赤羽有紀子選手を取材。優勝が決まっていないので、優勝の感想を避けてのコメントを聞くことになります。那須川瑞穂選手には実業団駅伝に向けての話を聞かせていただきました。
 レース後は坂口監督、佛教大・森川監督、日本チーム会見、赤羽選手にぶら下がり、学生選抜3選手会見という順番で取材しました。
 森川監督の話が面白かったです。今大会で一番驚かされたのは、学生選抜アンカーの吉本ひかり選手(佛教大)。中村友梨香選手と新谷仁美選手に、30秒近い差をつけての区間賞です(2人とも実業団駅伝に向けて追い込んでいる最中のようですが)。
 森川監督の話は多少の謙遜はあったと思いますが、練習は量的にも強度的にも、それほどやっていないと言います。それよりも、メンタル的な要素やチーム力学(?)的な部分を重視されてやっているようです。かといって、ピリピリした雰囲気でもないといいます。
 吉本選手が強くなった理由として、「去年の選抜駅伝に3秒差で負けて、プリンをやめたこと」を挙げていました。最初は冗談かと思ったのですが、その後の話を聞いているうちに納得できました。そういうところに、競技に取り組む姿勢が表れるのでしょう。
 機会があったら取材してみたいチームだと思いました。

 あとは坂口監督の話から、佐藤敦之選手が世界選手権の頃よりもさらに良い状態になってきていることがわかりました。これも明るいニュースです。


◆2009年11月24日(火)
 午前中は旭化成・宗猛監督に電話取材。昨日の九州実業団駅伝で大野龍二選手と岩井勇輝選手が出場しなかった経緯や、ニューイヤー駅伝の展望を取材させていただきました。昨日の結果を見たときは、今回の旭化成は苦しいかなと感じていましたが、取材後は印象が違ってきましたね。
 陸マガの展望記事に反映させたいと思います。

 夕方から都内某所である会議に出席。
 終了後、Aコーチに電話取材。
 その後、書店に行って上海のガイドブックを購入。金曜日からの上海マラソン取材の準備を、少しずつ進めています。初めて行く場所は地図を見て、取材時の動線を確認できてくると、イメージが明確になってきます。


◆2009年11月25日(水)
 午前中に電話を数本。13時にはW社N監督に電話取材。
 それから八王子ロングディスタンスの取材に。駅でいうと自宅最寄り駅から3駅の近さなので、13:45からのC組に間に合いました。
 昨年は関東学連の記録挑戦競技会と合同開催でしたが、今年は再び、元の単独開催に。理由は実業団の現場サイドから、元の水曜日開催の要望があったからだといいます。学生の大会は土日開催が原則ですが、今週末まで開催をずらすと、合宿に入るのがその分、遅れてしまう。僅か3〜4日の違いですが、この時期になるとその3〜4日が大きいのだそうです。
 水曜日の八王子ロングディスタンス、週末の日体大長距離競技会へ連続出場することも可能になります。

 B組では信田雄一選手がトップ。苦しそうな表情をしていましたが、粘りのある走りを続けて、クレーマージャパンの副賞をゲットしました。聞けば、日立電線の選手の副賞ゲットは3人目。ニューイヤー駅伝でも頑張りそうです。
 A組は木原真佐人選手が28分09秒38で1位。昨年の日本選手権で出した記録に次いで自己2番目。今日は八王子にしては風がない日でしたが、気温が20℃くらいあり、コンディション的には決してよくありませんでした。
 実際、レース直前にペースメーカーのタイム設定が、400 m毎が69秒に変更されました。木原選手は途中、66秒台に上げる周回もあったほどの好調ぶり。2位選手とのタイム差が46秒01もあることから、木原選手の走りがすごかったことがわかると思います。
 カネボウ入社後は故障も多く、学生時代の走りができませんでした。東日本実業団駅伝も4区で区間11位。復活の理由をレース後に、音喜多監督と木原選手に取材させてもらいました。


◆2009年11月26日(木)
 重川材木店の取材。
 先日の北陸実業団駅伝は1区選手のインフルエンザもあって3位と敗れ、ニューイヤー駅伝出場権は獲得できませんでした。
 寺田のサイトのルポは、同駅伝出場を想定して始めたものですが、出られないからと尻切れトンボで終わるわけにはいきません。
 今日の取材でも良い話を聞くことができました。10日くらいでアップしたいと思います。


◆2009年11月27日(金)
 上海出発。7:40に羽田空港に着。羽田の国際ターミナルは初めてです。次の更新は上海から。

 上海に11:45頃に到着。東京と同じくらいの気候だと聞いていましたが、ちょっと温かい感じ。20℃くらいはあるでしょうか。
 空港は上海に2つある国際空港のうち小さい方。入国手続きを終えて外に出ると、本当に上海? と思うくらいの規模です。日本の地方空港に毛が生えた程度でしょうか。
 でも、隣接する国内線のターミナルは、かなり大きいようにも見えました。正確ではありませんが。
 地下鉄がまだ開通していなくて、バスも宿泊ホテルの近くには行っていないようです(ガイドブックを見る限り)。空港からはタクシーを使わざるを得ません。
 このタクシー乗り場がびっくり。200 mくらいの人の列です。東京ディズニーランドも真っ青……かどうかわかりませんが。でも、タクシーもものすごい数が待っていて、7列で乗車させていく効率的なシステム。30分待ちは覚悟しましたが、10分ちょっとで乗れてしまいました。
 ホテルまで40元。1元14円で計算すると560円。まあ、いいでしょう。

 中国は昨年も、北京に行きました。タクシーから見る光景はちょっとですけどイメージに違いがあります。北京のビルの方が横に大きくて、上海のビルの方が縦に長いという印象。日本の臨海地区と同じような雰囲気のビルが多かったです。
 北京の方が軍事的なことを意識しているのか、単に土地面積に余裕があるのか。
 ホテルは1920〜30年代の名門ホテルとのこと。ガイドブックにも“レトロムード満点のクラシックホテル”として載っています。
 これがホテルの部屋から見た中庭(?)と向かいの棟、これも窓からの風景。部屋の中はこんな感じ(   )で超豪華です。
 でも、楽天トラベルで調べたら1泊1万円ちょっとの金額。去年の北京五輪はものすごく汚いホテルで1万7000円だったか1万9000円でした。ところ変わればというよりも、時期が変われば、という感じでしょうか。本来、中国では外国人は、綺麗なホテルにしか泊まれないと聞いています。

 ホテルに着いたらさっそく打ち合わせ。一応、行動予定は日本にいるときに立ててきました。今日はこれから東レ上海マラソンの展示会(エクスポだと思います)に行って、その後で交歓会に出る予定です。

 展示会会場はホテルの最寄り地下鉄駅から4駅のところ。
 地下鉄ではかなり時間をロスしました。券売機で切符を買うのには一発で成功しましたが(降車駅を表示させてから料金をチェックする方法も、外国人にはちょっとわかりにくいのですが)、自動改札でエラー表示。何度やってもダメ。インフォメーションデスクのようなところに行きましたが、10分くらい待たされました。
 待つ人間が立つスペースが広かったこともあり、平気で割り込んで駅員に声をかける輩があとを絶ちません。でも、そのおかげで切符の磁気異常が多いことがなんとなく理解できました。寺田の切符にも駅員が簡単に入力(?)し直して、「プリーズトライアゲイン」。北京の地下鉄よりも英語が通じそうな雰囲気でした。
 ホームはこんな感じ
 降車駅で自動改札を出るときにもエラー。有人改札で待つこと5分。「タッチじゃなくて○○に入れてください」。よく見ると、カードの挿入口が下の方にあります。ほとんどの人は、定期券なのかプリペイド式なのかわかりませんが、タッチして出ていくのですが、そのとき限りの切符の場合は挿入して回収されるようです。
 海外で電車に乗るときは、この手のことはつきものですね。

 地下鉄の外はこんな感じ
 展示会は、東京マラソンでいうEXPO。メーカーや他のロードレース大会、地元観光協会や商工会議所などが、所狭しとブースを出店している……はずですが、会場に足を踏み入れるとこんな光景が目に飛び込んできました。入り口のお兄さんに会場地図を見せて「ここだよね」と確認。間違いはないはずです。
 確かにシューズやウエアなどスポーツ用品も売っていますし、ジェレミー・ウォリナーもセールの札には載っています。でも、スポーツとは関係のない普通のシャツやシューズもたくさん置いてある。会場のレイアウトからして、単なるマーケットの雰囲気なのです。
 ところ変わればこういうものか、と思いながら写真を撮っていたら、親切なお兄さんが「オマエはあっちだよ」と、同じ建物の隣の入り口を教えてくれました。
 その入り口は明らかに東レ上海マラソンです。大会の目玉選手である白雪(ベルリン世界陸上金メダリスト)選手が手を振って出迎えてくれました。
 EXPO会場はこんな感じで、ナンバーカードを配布するデスクが壁に沿ってズラッと並んでいて、それに囲まれるように展示スペースがあります。展示していたメーカーは冠スポンサーでもある東レミズノ大塚製薬日清オイリオと日本のメーカーがほとんど。最後にニューバランスがありました。それと、すでに交歓会会場になっていたスペースに、東京マラソンなどいくつかのマラソンのブースがありましたが、これで全部です。東京マラソンのブース数を思い浮かべていたので、あまりの少なさにビックリしてしまいました。
 これは、その後の交歓会を見ていても感じたのですが、まだまだこれから、という大会なのでしょう。と同時に、参加者は2万人以上なのにEXPOがこの規模ということは、マラソンがまだまだ世間に浸透していないのだと思いました。
 逆にビジネスをする側にとっては参入する余地があるというか、期待できる市場なのだと思います。

 その後の交歓会の写真を4枚ほど。
 まずは女子ハーフに出場する大塚製薬の伊藤舞選手。自己ベストが目標だと話していました。日本ケミコンの正井裕子選手も出場するようです。
 この2枚( )は招待選手が壇上で紹介されているところ。このときだけでなく、つねにバンドが壇上にいて、生演奏の音楽を会場いっぱいに響かせていました。上海流でしょうか。
 チアリーダーたちの演舞など、アトラクションもかなりありました。レベルは…よくわかりません。


◆2009年11月28日(土)
 午前中は東レ上海マラソンのコース下見をしました。
 7:10にホテルを出発してスタート地点の世紀広場に。この広場だけでなく、上海のメインストリートである南京東路を利用してのスタートということになります。これがスタート地点の後方の南京東路。走り出す方向を撮ろうとしましたが、パラパラをやっているおばさんたちの集団や、行き交う人々、ジョギングをする人が多くて…。単に、広角で撮らなかっただけですね。
 その後はバスでコースを見学。
 移動中の写真は撮れませんでしたが、5km地点の静安寺まではそれなりに上海らしい景観だったと思います。人民広場や特徴あるデザインのマリオットホテルなどですが、我々がイメージする上海とは少し違います。さらに10km付近の中山西路を過ぎると、何というのでしょうか、これという特徴がなくなるのです。外人の目から見たらそれなりに中国っぽい要素もありますが、変哲がないと言われても仕方のない景観です。
 これは来年以降、コース変更を検討しているということなので、改善されていくことを期待したいと思います。やはり上海といえば租界時代の建造物が残る外灘や、明代に造られた中国式庭園の豫園浦東の超高層ビル群などを巡るコースにしないと参加者の増加は見込めないでしょう。マラソンはマラソン、観光は観光と分けて考える人もいるとは思いますが。
 フィニッシュ地点の体育館はかなり大きな施設で、広さ的には問題なさそうです。すでに看板広告や関係設備の設営がほぼ終わっていました。
 写真を4枚掲載しておきます。   

 フィニッシュ地点から昨日も行った展示会会場に移動。
 着いたのは11時頃で、クローズまで残り1時間というタイミングでしたが、昨日よりも盛況でした。ナンバーカード交付デスクの一番手前は日本人用でした。メインスポンサーが東レということもあり、昨年は100人以上が出場しています。
 ブースでは、昨晩は開いていなかった地元工芸品のブースが目につきました、ミズノのブースも昨晩とは違って大盛況でした。

 11:30に隣接しているオリンピック倶楽部ホテルに。選手や関係者の宿泊しているホテルです。しばらくロビーで待っていましたが、日本関係者は誰も通りません。某マラソン事務局のT氏のアドバイスで日本食レストランに行くと、富士通のワウエル選手と高橋健一コーチ、大塚製薬の伊藤舞選手と天羽恵梨コーチがいらっしゃいました。
 昨日の日記に書き忘れましたが、高橋コーチには昨日の交歓会で少し話を聞かせてもらいました。富士通は東日本実業団駅伝で9位と振るわなかっただけでなく、個人レースでもパッとしません。しかし、昨年も11月は同じような感じでしたが、ニューイヤー駅伝では優勝しました。そういう調整をしているのではないか、という仮説を持っていたので、それをぶつけてみました。その答えは陸マガの展望記事かどこかで書きます。
 伊藤選手には食事後にインタビュー取材。内容はこちらに記事にしました。取材後に天羽コーチとのツーショット写真を撮らせていただきました。

 伊藤選手取材後にT氏と昼食(寺田は秋刀魚定食)をとっていると、シスメックスの藤田信之監督やトスプランニングの坂井社長たちが食事に来られました。藤田監督には電話で取材のお願いをしようと思っていた矢先で、さっそく取材のお願いをしました。
 ロビーでの原稿書きをはさみ、15時過ぎから3階のチャイニーズカフェで藤田監督に取材。K通信Y記者と一緒に、たっぷりと話を聞かせてもらいました。
 寺田が一番聞きたいと思っていたことは、故障からの“戻し”について。野口みずき選手の復帰がずれ込んでいることもありますが、最近その手の話を取材中に聞くことが多かったのです。竹澤健介選手のことで誰かかから話を聞きましたし、昨年は土佐礼子選手のことも。つい先日、トヨタ自動車・佐藤敏信監督にも故障中のトレーニングについて聞きました。
 藤田監督の話では、野口選手の場合走ったり補強をしながら治すのが難しい個所だったそうです。詳しいことは、いずれ、何かの記事に生かしたいと思います。
 藤田監督の経歴に関してこちらの知識が断片的な部分も多く、良い機会だったので質問させてもらいました。グラウンドの部分を除いてもすごく面白い話の連続でした。指導者として成功する方にはやはり、原体験ともいえるすごい経験があります。酒井勝充監督しかり、坂口泰監督しかり。
 海外に来ると、国内にいるときよりも取材時間をとってもらえることがあります。今日の藤田監督も***分も話をしてくださいました。2002年のロンドン・マラソン翌日の土佐選手取材を思い出しました。

 夜はホテルで原稿書き。
 1つ書き忘れました。昼食後にロビーで原稿書きをしているとき、明日の優勝候補であるマチャリア選手が外出から戻って来ました。2〜3年前の福岡国際マラソンでちょっとだけ、話をしたことがある選手。正確にいうと英語のできる記者の隣で立っていただけですが。
 今日は突撃取材。その成果はマチャリア選手が勝ったときに。
 書いて問題ないネタを1つ。サムエル・ワンジル選手が明日、オーストラリアで15kmのレースに出るという情報を教えてもらいました。たぶん、ゴールドコーストでしょう。ゴールドメダリストinゴールドコーストです。


◆2009年11月29日(日)
 東レ上海マラソンの取材です。
 7:30スタートなので5:17に起床して、6:10にはホテルを出発しました。6:30には現地に到着。スタートまで1時間ありましたけど、その辺をうろうろ。初めての大会はまず、色々と見て歩くことが大切です。たぶんですけど、東京マラソンやシカゴ・マラソン(寺田がスタート地点を取材したことのある都市型マラソンがこの2つです)よりも、選手の近くで取材できたと思います。
 中国らしかったのが、人垣を軍隊が担当していたこと。6:30にはスタート地点の100 mくらい前方にこんな感じで隊列をつくっていました。スタート地点に向かっていくと、道路の両脇にこんな仕掛けが。きっと、何かが飛び出してくるのでしょう。
 スタート地点に行くと、6:40頃でしたがすでに、このように一般参加選手たちがスタートラインに着き始めています。ストレッチをするおじさんがいると思えば、思いっきり踊りまくっているお兄ちゃんもいます。後でわかったのですが、早い者勝ちで前から並んでいたようです。
 ちなみに、参加人数はフル、ハーフ、健康(5km)と全部門で2万677人です。そのうち日本人は184人。

 その後は、隣接する選手のウォームアップエリアに。エリート選手も市民ランナーも同じです。これは市民ランナーのクラブでしょうか? お揃いのTシャツで旗を振り歌を合唱していました。こんな感じの集団がいくつかありましたね。何かのコミュニティでしょう。
 日本のシスメックス・藤田監督、日本ケミコン・泉田監督、大塚製薬・河野監督らの指導者の方たちに加え、イベント関係の方も含めた日本の関係者たちにも挨拶。
 富士通・高橋健一コーチには、ペースメーカーのワウエル選手のタイム設定を聞きました。5kmを15分15秒(プラスマイナス10秒)で25kmまでという契約だそうです。てっきり、今日の気象コンディションを見てから最終決定があったのかと思っていたのですが、数週間前に決まっていて、その後は特に指示はなかったそうです。予想よりも寒いコンディションだったはずなのですが。

 スタート直前にはこの写真のように、スタート地点脇の雛壇に役員の方たちがズラリと並びます。
 スタート10分前にエリート選手が位置に着き、そのうちの有力選手数人が紹介されていました。先日の横浜国際女子マラソンも同じように選手紹介がされていましたね。
 7:30にスタート。大都市マラソンお馴染みの光景です( )。スタート直後のこの雰囲気は全世界共通なのでは?
 7:45には健康マラソン5kmの部がスタート。爆発音とともに、紙テープと紙吹雪が打ち上げられました。

 バスでフィニッシュ地点に向かったのですが、ハーフマラソンのフィニッシュには間に合いませんでした。これは予想していたことで、今回はエリート選手の取材もしますが、大会全体を見ることが一番の仕事でしたから仕方ありません。女子のハーフマラソンで伊藤舞選手と正井裕子選手のワンツーを人づてに聞き、さっそく取材に。選手の表彰控え所に自由に入ることができ、2人の話を聞くことができました。
 どうやら、ミックスドゾーンは設けられていません。IDを持っている関係者はほぼ入ってこられるようですが、取材するメディアの数も多くないようで、この数ならまったく問題ないと感じました。
 お国柄の違いが、表彰式に選手を連れて行くときに表れました。日本では表彰担当の役員が取材をしているところへ声を掛けます。記者たちもすぐに取材をやめようとしますが、最後に二言三言、話しながら取材の輪を解く感じになります。今日は中国語で声を掛けられたわけですが、表彰だということはわかります。いつものように話をしながら取材を終わりにしようとしていたら、いきなり5人前後の役員(女性が多かったと思います)が「表彰だよー」と合唱するのです。もちろん、何を言っているのかわかりませんが、同じ言葉を一斉に発したのは間違いありません。
 すぐ近くで大勢から大声を発せられることが、これほど圧倒されることとは知りませんでした。一種の人海戦術でしょうか。中国式なのか、上海式なのか。
「これはまずい」と思わず思ってしまいますから、確かに効果はあると思います。日本人の中庸的なスタイルとは合いませんが(…中庸は中国で生まれた思想?)。表彰する側の、偉い人を待たせたらいけない、という慣習でしょうか。
 でも、表彰後も自由に選手とは話ができたので、取材にはなんら問題ありませんでした(泉田監督のダジャレも面白かったです)。表彰の写真も、選手のフィニッシュして歩いてくるエリアから撮影ができて、ありがたかったです。
女子ハーフマラソンの1、2位
テレビのインタビューを受ける伊藤選手
 記録がいまひとつ伸びなかったわけですが、その辺のことはこちらに記事にしました。

 女子ハーフマラソンの取材中に男子のフルマラソンがフィニッシュ。優勝はアスファ選手(エチオピア)で、2時間10分10秒で2連勝。昨日、話を聞かせてもらったマチャリア選手が2時間11分36秒で2位。アスファ選手は英語があまり話せないようで(寺田もですが)、ノリのいいコーチ兼エージェントのエチオピア人が通訳してくれました。15km付近からリードを奪ったといいます。ペースメーカーの富士通・ワウエル選手が25kmまで先導すると聞いていたので、あれ? っと思いました。
 そこで表彰になって、その間にワウエル選手と高橋健一コーチを運良く見つけることができました(ID規制がないからです)。聞けば、10kmまではワウエル選手に誰もついて来なかったといいます。いよいよ謎が深まりました。いったい、どんなレース展開だったのか。
 2位のマチャリア選手は昨日の取材時も、左脚のふくらはぎ(アキレス腱の上のあたり)が気になると話していました。マチャリア選手にはレース展開と、先頭集団がペースメーカーに着いていかなかった理由を聞こうとしましたが、ここまで突っ込んだ内容になると寺田の英語力では難しくなります。元陸連事務局の砂原さんが近くにいらしたので、通訳していただきました。この辺は記事にしたいと思います。

 女子は世界陸上優勝の白雪選手が欠場。大会の看板選手だけに主催者にとっては痛かったと思いますが、その辺も考慮してかスタート地点には姿を見せていました。優勝は2時間27分49秒で魏亜楠選手(表情が豊かな選手です)。そこそこ長く頑張っている選手です。大会主催者と、日本の代理店が通訳を用意していてくれたので、話を聞くことができました。
 来年は中国でアジア大会が開かれます。その代表がどうなりそうなのか質問しましたが、選考の仕方などははっきりしていないようです。まあ、そういう国が多いですよね。

 表彰の合間には、集まった観客(とフィニッシュした選手)向けに、表彰用の舞台でアトラクションも行われていました。前々日の交歓会のときにも出演したマイケル・ジャクソンのそっくりさんが登場。この人はかなり上手いです。
 一般参加選手たちのフィニッシュシーンも1枚載せておきます。これも万国共通でしょうか。達成感を感じている人が多かったように思います。
 スポンサーのブース(日清オイリオ 大塚製薬)も盛況でした。人の集まり方は、日本よりも激しいというか、密度が高い感じがしました。
 今回はエリート選手だけでなく、日本から参加した市民ランナーの方も取材しておきたいと考えていました。幸い、先ほども書いたように選手がフィニッシュ後に進んで行くエリアに入ることができたので、日本語を話している人を見つけることができました。
 話を聞かせてもらったのは加賀陽一さん(左)と上野勝宏さん。記事の体裁にするのか、日記で書かせていただくのがいいのか、少し迷っています。どちらかの形で紹介する予定です。

 会場を後にしたのが11:45頃。日本のマラソン取材の感覚だと16時頃ですが、朝が早かったので午前中に終了。午後にもう1つ、何か行動ができそうです。


◆2009年11月30日(月)
 東レ上海マラソンの取材から帰国しました。フライト所要時間も3時間くらい。時差1時間というのは本当に楽ですね。

 昨日の午後の行動を紹介しておきましょう。
 ホテルで原稿を2時間半ほど書いた後、上海を代表する観光スポットである外灘(ワイタン、またはガイタン。英語名The Bund)に。わざわざ書くまでもないのですが、目的は観光ではありません。その土地を代表する場所のカフェで原稿を書くのが、外国に行ったときの定番仕事法です(国内でもやっていますけど)。観光よりも原稿。カフェで原稿さえ書けば、その場所に行った気分に十分浸ることができます。
 ホテルの最寄り地下鉄駅から2つ目の人民広場駅で乗り換えて(この駅は地下鉄にしてはすごい大きさでした)、そこから1つ目の南京東路で下車。上海一の繁華街と聞いていますが、そこには目もくれず東へと歩きました。黄浦江(揚子江の支流。川幅400 mとか)まで300〜400mの距離のはず。黄浦江西岸を走る中山東一路沿い、全長1.1kmほどの地域が外灘です。
 クラシカルな西洋風の建物が現れてきて、いよいよという雰囲気に。前方には東方明珠電視塔(467.9mでアジア第1位、世界では第3位)をはじめとする黄浦江東岸の近代的なビル群も見えてきました。
 でも、曇っているんです。こればかりは、どうしようもありません。

 数分で黄浦江西岸に出ました。黄浦江をはさんで見えるビル群がこれ。曇っているし、もやもかかっている感じでイマイチどころかイマサンくらい。南を見ると1920年代に建てられた西洋風街並みが見えるのですが……。こんな感じでした。微妙というよりも、期待をかなり下回りました。こうして工事をしていない建物だけを撮るとそれなりなのですが、実際はこんな感じで工事をしているので、レトロな雰囲気はまったく味わえません。道の反対側(黄浦江西岸に接している部分)も工事用の塀で視界が遮られています。最初はもやだと思っていたのですが、工事の影響かほこりっぽいのです。すかさずマスクをつけました。
 南に数百m歩くと有名なRICOHの看板が見える交差点に出ました。写真を撮るとそれなりの雰囲気を醸し出していますが、実際にはそんなことはまったくありません。さらに、どんなに歩いてもカフェなどありません有名ブランド店でいくつか営業している店もありましたが、飲食店の営業はあれだけ近くで工事をしていたら無理でしょう。
 帰りは1本裏通りを歩いてみましたが、ただ暗いだけの路地通りでした。晴れていたりして、光線が違えば少しは違った雰囲気になるのかもしれませんが。
 来年の上海万博に向けて、大規模な補修工事が行われているとは聞いていたのですが、これほどとは思いませんでした。現状ではマラソン・コースに組み入れることなどできません。
 結局、1時間ほど歩いても外灘にカフェは発見できず、繁華街の南京東路に戻りました。百貨店らしきビルに入ると、こんな吹き抜けのあるお洒落なファッションビルでした。その1階にダンキンドーナッツ(ちょっと自信なし。ドーナツの有名チェーン店)がありましたが、上海まで来てそれはどうかと思って南京東路をもう少し歩きました。昨日まで何度も見かけたスターバックスが、こういうときに限って見つかりません。上島珈琲で妥協することに。昭和の雰囲気のする店で、原稿を1時間半書きました。

 19:00からホテルの近くの上海料理店で、東京マラソンや広告代理店、SEIKOの方たちと会食。
 今回の取材でわかったことの1つに、多くの日本人の方が中国の大都市マラソンを支えていることが挙げられます。当日の早朝まで東奔西走されていたと聞きました。そのご苦労をよく表しているエピソードを1つ、お聞きしました。陸上ファンや関係者が読んだらものすごく面白いエピソードなのですが、向こう5年(10年?)間くらいは書くわけにはいきません。
 そのエピソードとは直接関係はしていませんが、SEIKOの担当者の1人のI澤さんは、関東インカレ2部で3位に入った400 mハードラーでした。ベスト記録は52秒台。電通の庄形和也さん(48秒95がベスト)とも仕事をすることがあるそうです。


◆2009年12月1日(火)
 今日の昼までに陸マガの横浜国際女子マラソン原稿を書き上げました。
 それほど多い文字数ではありません。レース展開と選手・指導者のコメント、大会の位置づけの説明など、基本的な要素を書いたら埋まってしまうくらいの分量です。
 しかし、今回の横浜のように記録が悪かった大会は、通常の書き方だと平凡な記事になってしまいます。何かしらの特徴を明確に出す書き方にしないと、読んでも何の印象も残らなくなってしまう。
 もちろん、些細なことを無理矢理に誇張するのではありません。今回のレースに表れていたのに、注意しないと見落としてしまうような要素にスポットを当てるのです。

 嶋原清子選手に関しては、自己新で優勝した北海道マラソンから2カ月半のインターバルだった点を書き込むことで、彼女の特徴がわかるように書いたつもりです。
 レース記事の方が難しかったですね。優勝が2時間27分台と記録的には物足りないレースでしたが、北京五輪の金銀メダリストを抑えてのアビトワ選手(ロシア)の優勝と嶋原選手の2位。ただ記録が良くなかった、というだけのレースではなかったと思います。
 かといって、どんなレースにも価値があるという書き方だと、「選手を甘やかしている」というご批判をいただきます。
 それとは別に風や周回コースの影響、有力日本選手の出場が少なかったことなどが問題点として指摘されていました。世間的に評価しにくいところを、専門誌でどう書くべきか。今回に関しては横浜に移ってまだ1回目ということで、風や周回コースが記録に影響する、という断定的な書き方はしていませんが…。

 とにかく、陸マガ1月号をご購読願います。文字数は少ないですけど、それ以上の価値は込められた(?)かもしれませんので。


◆2009年12月2日(水)
 Hondaの明本樹昌監督に電話取材。面白い話を聞くことができました。陸マガのニューイヤー駅伝展望記事に反映させます。TBSサイトのコラムにも生かせるかもしれません。陸上競技ファン以外にはマニアックと映るかもしれませんが、そういった類のネタをわかりやすく書ければ価値はあると思いますので。
 元日産自動車監督の加藤宏純さんにも電話で、少し話を聞かせていただきました。ここでも奥深い話を聞けました。文字にするのは難しいネタですが、話をするときには適した内容だと感じました。

 東レ上海マラソンも、そろそろまとめないといけません。11月29日の日記にも紹介した市民ランナーの加賀陽一さん(左)と上野勝宏さんの取材に、参考になる話が多かったと思います。

 加賀さんは4回目、上野さんは5回目のマラソンで、加賀さんが3時間17分36秒(自身による計時)で約5分、上野さんが3時間19分59秒(同)で約7分、自己記録を更新しました。加賀さんは「40歳になってから健康のため」に走り始め、市民ランナーのクラブには入っていないそうです。練習での走行距離は週に70km程度。仕事の担当エリアが上海ということで、東レ上海マラソンに出てみようと思ったそうです。
 まずは記録が出やすいかどうか。
「天気が良く涼しかった。2個所ある陸橋以外はほとんどフラットで、走りやすいコース」というのが加賀さんの感想。エリート選手たちは、寒さや向かい風が記録に影響したと話していました。両者の感想の違いは、スタート直後に速いスピードが必要なエリートのレースと、徐々に体を温めていける市民ランナーのレースの違いかもしれません。
 次に路面の硬さについて。加賀さんは「15km以降がコンクリートのような路面になった。いつもはそんな早い段階で太腿に来ることはありませんが、今日は25kmで来ました」と言います。伊藤舞選手は「足底が張ったかな、と思います。レース中に来ることはあまりないので、(路面が)硬かったからかもしれません」という話し方でした。

 コース後半の風景については、両者とも良い印象はなかったようです。
「後半が寂しかったですね。沿道の人がコースを横切りますし、排気ガスも気になりました」と上野さん。
 スタートも改善の余地があります。エリート選手たちはウォーミングアップ場が狭いことを指摘していましたし、市民ランナーの2人はスタート位置での並び方が大問題だと言います。
「日本ではタイム順に前から並んでいくのが普通なのですが、ここは早い者勝ちで並んでいきますし、ハーフマラソンのランナーも一緒です」(上野さん)。「我先にと割り込んで走り出しますから、ものすごく危険です」(加賀さん)

 個人的に一番感じた課題は、外灘や豫園などの上海を代表するスポットを走らないことです。外灘が工事中で今年走れないのは仕方がありませんが、上海マラソンと銘打って海外から参加者を募るのであれば、著名な観光スポットを外すのはマイナスだと思われます。まして、今のコースは後半の景観がよくありませんし、市民ランナーの方たちが感じたように路面の問題があるならなおさらです。
 これらの問題点は、寺田の感想も交えさせていただいて、日本でのPRを担当している代理店に伝えておきたいと思います。


◆2009年12月4日(金)
 朝のJAL便で福岡入り。福岡国際マラソンの会見に臨みました。
 13:26に会見場の西鉄グランドホテル2階の鳳凰の間に行くと、「開場は1時半からです」と受付でストップをかけられてしまいました。一種のフライングです。寺田の福岡取材に懸ける思いが強すぎたのでしょう。
 5分後に「一番乗りは俺だ」と勇んで鳳凰の間の扉を開けると、朝日新聞・増田記者がすでに最前列でスタンバっていました。主催新聞の特権ってやつです。「ちょっとずるいぞ」と思いましたが、“掃除好き”の増田記者のこと。会場を綺麗にしてくれていたのかもしれません(増田記者は名前が“そうじ(創至)”。全日中優勝だったか2、3番)。

 そんなことは実はどうでもよくて、重要なのは受付で受け取った福岡国際マラソンのプログラムです。この日記でも何度か書いているように、寺田がコラムを書かせてもらいました。タイトルは「平和台の坂」。サブタイトルが「瀬古利彦と高岡寿成」。ドキドキしながらページをめくりました。
 プログラムの後ろの方に過去の成績が数ページにわたって載っているのですが、そのページの直前に、3ページにわたって掲載されていました。これはもう感動しました。自分の書いた文章が載って感慨にひたることは最近ではほとんどありませんが、福岡国際マラソンだけは別格です。
 その記事中にも書いたのですが、寺田が専門誌を読むようになったきっかけが福岡国際マラソンの記事でした。瀬古局長が優勝して2位が喜多秀喜監督、3位が宗茂さん。瀬古局長の福岡での強さは書くまでもありませんが、最近のファンは詳細を知らないだろうという前提で、簡単に紹介しました。寺田にとっては“簡単な紹介”のつもりですが、知らない読者にとっては“念入りな紹介”だったと思います。それでも、かなり文字数を削ったんですが。
 瀬古局長自身からも福岡の思い出を聞くことができましたし、レース中のエピソードの確認をとるために喜多監督にも電話をしました。この取材は嬉しかったですね。自分が一読者だった頃に読んだ記事の裏側を、色々と聞くことができたのですから。

 コラムの執筆依頼を受けたのは瀬古局長だけでなく、高岡寿成コーチとセットで書けると思ったからです。高岡コーチは皆さんの記憶に新しいと思いますが、4レース連続で2時間8分を切りながら、2003年の福岡で国近友昭選手と諏訪利成選手に敗れてアテネ五輪代表を逃しました。
 トラック長距離種目の日本記録を全て更新し、シドニー五輪では1万mで入賞した選手。その足跡も全て、マラソンで世界と戦うための準備とまで位置づけました。福岡で五輪代表切符を取ることも、当初からのプラン通りです。そのくらいに強い思いで臨みながら、あと一歩のところで勝利の女神に見放された選手でした。
 当初増田記者とは、サブタイトルを「福岡に愛された男、愛されなかった男」とする方向で話をしていましたが、コラムを書いていて変更しました。その理由を説明するのは難しいのですが…。
 瀬古局長優勝の福岡記事が陸上競技記者の道に入ったきっかけだとするなら、高岡コーチは一番長く取材した選手。どちらも、思い入れの深い人物なのです。その2人を福岡国際マラソンのプログラムで書けたらもう、何もやり残したことはない…と言ったら大袈裟ですが、それに近い感覚になったのは事実です。そのくらい、寺田にとっては大きなことだったのです。
 ここまでの文章では「平和台の坂」というタイトルの意味がわからないと思います。平和台に坂なんかあるのか、と思われた方も多いのでは? これは、平和台陸上競技場への取り付け道路の坂のことです。ほんの少しの坂なのですが、その坂が苦しかったと高岡コーチから何度も聞いていたのです。その話を瀬古局長にしたら……というのがコラムの一番の核となる部分です。いずれ、このサイトでもきっちり紹介したいと思います。

 ということで、記者会見以降の出来事は省略……したらいけませんね。
 会見はTs・ケベデ選手とバラノフスキー選手、国内招待の佐藤智之選手とモグス選手の4人が出席。全体会見後に個々の選手のカコミ取材ができる九州&毎日方式。福岡と別大とびわ湖で実施されていますが、東京と女子3大会も導入してほしいやり方です。カコミ取材はモグス選手のところに。来年3月あたりに記事を書くかもしれない選手なのです。
 佐藤選手とTs・ケベデ選手のコメントも、他の記者から聞かせてもらうことができました(間接的なコメントはサイトには載せない主義です)。
 会見後は部屋にこもって原稿書き(初めて西鉄グランドホテルに泊まりました)。書きかけだった陸マガのシーズン総括の記事を書き上げました。総括といっても短めの記事です。
 その原稿を書く前に、プログラムの他のページもざっと目を通しました。
 増田記者も3個所くらいに記事を書いています。福岡のメイン担当ですから当然なのですが、ここでも「ちょっとずるいぞ」と思いました。今季の男子マラソンを振り返ったページがあって、その書き始めがとってもインテリジェンスな香りが漂う文章なのです。
 ベルリンの世界選手権のことを書いているのですが、「ブランデンブルク門」「18世紀末」「ナポレオン」「東西ドイツ統一」といった歴史的な言葉を惜しげもなく使っている。寺田のこてこての陸上競技文章とは大違いです。歴史路線で書くなら書くと言ってくれれば、ユンカーとかビスマルクとかアウステルリッツ(三帝会戦)とか、こちらも書き込むことはできたのです(こう見えても西洋史専攻)。後で抗議をしておきました。
 でも、増田記者のおかげで一生の思い出となる仕事をすることができたのです。こんなところで恐縮ですが、心から感謝の意を表したいと思います。


◆2009年12月5日(土)
 福岡国際マラソン前日。
 今日は大会本部ホテルの西鉄グランド・ホテル滞在を最大限に利用できた1日でした。といっても、午前中は原稿書き。福岡に持ち込んだ原稿量は過去最多かもしれません。
 昼頃、ロビーに行くと、ペースメーカーの三津谷祐選手がコースの下見に行くところに出くわしました。さすがに、車には同乗できないので、戻ってくるのをロビーで原稿を書きながら待ちました。
 その間に、河野匡長距離・ロード特別対策委員会副委員長に、今回の福岡に日本人有力選手の参加が少なかった理由を取材できました。
 三津谷選手が戻ってきたところで、少し取材ができました(ホテルの取材禁止区域外で)。すでに皆さんご存じと思いますが、2月に初マラソンを予定しているので、それに向けて参考となるデータを収集するのが狙いです。「マラソンの雰囲気や、強い選手のアップを見ること」が目的だと言います。
 9月の全日本実業団の際に夏までの練習について取材させてもらっていますが、その後の練習の流れを聞かせてもらいました。夏までは1本1本で距離の長いメニューをこなすのでなく、継続的な量の多さを求めていました。しかし、11月に入ってからは「40km走も2本」走るなど、個々のメニューも長い距離をこなすようになったそうです。

 15時頃に部屋に戻って原稿書きの続き。知り合いのHディレクターとWディレクターにも、ちょっと事情があって電話取材。
 夕方、またロビーに行ってサイトの更新作業(無線LANで)。部屋でもネットはつながりますが、サイトにデータのアップができません。ホテルではときどき、そういうことがあります(海外でそうなったらかなりやばいです)。
 今回はエレベーターで旭化成・宗猛監督と一緒になりました。ロビーで宗監督の仕事が終わるのを待って、カフェで取材をさせていただきました。この取材も、福岡の日本人選手がここまでひどくなった理由を聞かせてもらうことが目的でした。
「マラソンに本気で取り組む選手が少なくなっている。きちんと練習して出るのではなく、チョコチョコっとやって出ている。特に福岡に出るとなると、夏場の暑い中でトレーニングをする必要があります。涼しい時期に楽にやろうと思うと、2〜3月のマラソンになってしまうのでしょう。自分たちが現役だった頃は、福岡は体調が悪くても、無理をして走りたい大会だった。事実上の世界一決定戦だった。今の選手にはそんな思いはないですから。マラソンへの思い入れ自体も、小さくなってしまっている。選手の“マラソン離れ”が進んでしまっているように思う。今回はアジア大会の選考に入っているのも一因。来年11月のアジア大会には出たくないのでしょう。ウチは佐藤も、来年のびわ湖に出る予定の清水(清水将也)も、アジア大会を走りたいと言っているし、佐藤などは福岡を走ってニューイヤー駅伝を走るのが当たり前になっている」
 選手の“マラソン離れ”という部分は、現場の指導者でないと実感できない部分ですが、福岡に思い入れをもって走ったという部分は、立場は違っても共感できる部分でした。

 夜も部屋で原稿書き。福岡だからなのか、珍しく集中できて筆が進みました。
 一安心してぶらっと外に食事に行きました。サイトの更新はドコモの無線LANができるモスバーガーで。
 部屋に戻った後も原稿書き。


◆2009年12月25日(金)
 今年も残すところあと僅か。やっと日記が書けるので(日記上は20日ぶりですが実際は9日ぶり)、福岡国際マラソン以降を駆け足で振り返ろうかと思ったのですが、それも難しそうなのでクリスマスらしい“心温まる話”を1つ2つ紹介したいと思います。

 福岡国際マラソンはご存じの通りの結果です。Ts・ゲベデ選手(エチオピア)は2時間05分18秒の国内最高記録で優勝したのに対し、日本勢は下森直選手の9位が最高。8位以内の日本選手がゼロというのは、同マラソン歴史上初めてだそうです。タイム的にも、瀬古さんが大学2年で初めて日本人トップになった1977年以来の低さ。三津谷祐選手のペースメーカー記事は別として、日本勢には明るい話題が皆無でした。
 陸連幹部の会見時には当然、その部分を突っ込まれました。駅伝偏重の現状や、日程の問題(これも駅伝が絡んできますが)など、関係者が認識していないわけではありません。でも、どうすればいいのか、これという解決策があるわけではない。あれば、とっくに実施しています。
 陸連幹部の口からは具体的な実業団のチーム名まで出て、こういう部分まで会社がお金をかけて大変なのだという説明までありました。陸上競技ファンもそうだと思いますが、我々メディアも実業団の現場が置かれている状況を、肌で実感していません。駅伝を頑張らないといけない大変さを知らずに、口だけ「駅伝よりもマラソンだよ」と言うのは簡単です。それだけでは、何の解決にもならないということです。それでも、言い続けないといけない部分でもあると思いますが。
 実は今日も、このあと秘密結社Fの集まりがあります。テーマは福岡国際マラソン再建。集まる全員が、福岡国際マラソンのプログラムに名前の載ったことのある人間たち(寺田が一番回数は少ない)。福岡への思い入れのある人間ばかりです。
 主催者や関係者が聞いたら「なんだよ」と思われるのでしょうが、非公式の集まりですからやるのはこちらの勝手です。この手の集まりが日本で何百とできたら、問題は解決するかもしれません。初めの一歩だと思っていますし、いつかは福島千里選手のように「小さな一歩です」と言えるときが来ると信じて参加したいと思います。

 すみません。心温まる話題を書くのでした。
 日本人トップの下森直選手は最後まで、日本人トップということを自身でも評価しませんでした。日本人トップに対して記者たちは「どこがよくてこの結果が出たのか」という聞き方をします。下森選手が話したのは自己新が出た理由として、こういう取り組みをした、という話でした。記事によっては、日本人トップになれた理由のようなニュアンスでそこが書かれてしまっているかもしれません。
 繰り返しになりますが本人は最後まで、日本人トップという点を評価しませんでした。
 しかし、火曜日に追加で電話取材をさせてもらったときに、走り終えるのを待っていた家族とのやりとりを聞かせてもらうことができました。それが陸マガで記事にした、
 取材が終わるのを家族が待っていた。レース前はいつも「1番になってね」と送り出してくれる6歳の長女が、花束を渡してくれた。「日本人で1番だったよ」と父親は報告した。
 という部分です。
 会社や陸連のサポートは順位や記録によって左右されますが、家族は見返りを求めているわけではありません。「日本人で1番だったよ」というコメントが心にしみたような気がしました。

 福岡では表彰式のときに聞いた川内優輝選手の話も、ほのぼの系の話題でした。陸マガに書くことはできませんでしたが、朝日新聞には記事が出たのでよかったです。機会があったら紹介したいと思います。
 心温まる話……というよりも、ちょっと良い話かもしれませんがもう1つくらい、全日本実業団対抗女子駅伝から紹介できればと思っています。


◆2009年12月26日(土)
 昨日の非公式福岡国際マラソン再建会議ですが、さすがに「これで問題解決だ」といえる案が出たわけではありません。ただ、「これは!」と思える案が1つ出ました。寺田もまったく思いつかなかった考えです。実現するには選手の頑張りが必要なのは当たり前ですが、成功したら男子マラソンの起爆剤となるかもしれません。
 ストレートに書いても良いのですが、今日一日考えていて、フィクションの体裁をとるのも面白いかなと考えるようになったところに、クリール樋口編集長から電話が来ました。箱根駅伝速報増刊号の打ち合わせで、さっそくその案を話しました。速報号にはふさわしくないということで却下されましたが、少しは興味を持ってくれたようで、何かの形で公にできるかもしれません。

 話は変わって福岡国際マラソン後にあった“ちょっと良い話”は、全日本実業団対抗女子駅伝の取材時のことです。
 その話の前に書いておきたいのは、今回の3区が素晴らしく面白かったということです。先行する資生堂の藤永佳子選手を三井住友海上の渋井陽子選手が追い上げていると、天満屋・中村友梨香選手と第一生命・勝又美咲選手が後方から追い上げてきて渋井選手と3人の集団になりました。その3人が追い上げて、藤永選手とデンソーを吸収して5人の集団になりました。
 世界選手権欠場から復帰レースとなった渋井選手は、この区間を10回以上も走っている“3区の永世女王”的な存在。中村選手は日本選手権5000m優勝、世界選手権1万m7位と今年のトラック実績ではナンバーワン。藤永選手は世界選手権マラソン代表。
 勝又選手は2年前の1区区間賞で、その後は故障に泣かされましたが山下佐知子監督が「3区に使ってみたい」と言い続けていた選手。須磨学園高出身で、県西宮高の中村選手とは高校時代のライバルでした。
 これだけの選手だけでもすごかったのですが、藤永選手とデンソーが後れて渋井、中村、勝又の3選手が競り合っているところに、中村選手から28秒も後方でタスキを受け取ったワコール・福士加代子選手が6.3kmで追いついたのです。4人が横1列に広がったシーンは迫力がありましたね。
 福士選手のすごかったのは、そこで休まなかったこと。5kmを15分14秒で通過したときは「あとは死ぬだけだな」と思ったと言いますから、ゆとりがあったわけではないはずです。個人種目だったら追いついたところで休んで、終盤勝負に備えたのでしょうけど、そこはチームで戦う駅伝ということで、スピードを緩めず突き進みました。
 久しぶりに手に汗握ったというか、興奮しましたね。その後ことあるごとに、あの3区はすごかったですね、という話をしまくっています。監督さんたちは全員、同意してくれています。そのうちの1人は「前の日の日本酒がなかなか抜けなかったんですが、あれで目が覚めましたね」と話してくれました(大会前日というのは、選手の親御さんや関係者たちと、付き合いがあるのです)。

 全日本実業団対抗女子駅伝の取材は、選手や指導者たちを相当数、話を聞かないといけません。少なく見ても20人は聞きます……正確に数えたら今回は22人でした。フィニッシュ後にすぐに優勝チームの会見があり、その後に長良川国際会議場で表彰式があります。徒歩で5〜7分くらいの距離があることと、スタンドの応援団に挨拶をする時間を主催者が考慮してか、表彰式まで少し時間があります。それで、これだけの人数の取材が可能になるのです(ニューイヤー駅伝はここまでの人数は取材できません)。
 表彰式が始まる直前だったと思います。日本ケミコンの泉田利治監督とすれ違いました。 泉田監督といえばダジャレの名手。陸上界3大ダジャレ好き指導者の1人に数えられています。
 日本ケミコンは一昨年は6位と10何年ぶりかに入賞をしました。環境面、活動予算面で制約のあるなか、大健闘でした。翌年の実業団駅伝公式ガイドで取り上げさせていただき、利府まで取材に行きました。昨年は17位と順位を落としてしまいましたが今年は10位。健闘の部類と言っていいと思います。
 監督とすれ違う際に「ベストテン返り咲きですね」と声を掛けました。寺田なりに含みを持たせたつもりでした。

 話は少しさかのぼらないといけません。
 11月3日の東日本予選の際に、あるチームのことを「日本ケミコンとは対照的にエリート軍団ですね」と寺田が言ったところ、泉田監督が「いとしのエリート軍団だね」と返してくれました。サザンオールスターズのいとしのエリーは、今の選手にも通用するとは思いますが、微妙になってきているのも事実です。
 11月末の東レ上海マラソンでもお会いしました。女子ハーフマラソンで大塚製薬の伊藤選手が優勝し、日本ケミコンの正井裕子選手が2位でした。
 表彰待機所で2人に取材をしていると泉田監督がやってきて、何か話をされて、そのオチに「コンドルは飛んでいく」という、昔流行った南米の曲名を言ったのです。たぶん、今の選手は知らないだろうと思って伊藤選手に聞くと、案の定「わかりません」とのこと。すかさず「優勝したら(取材などで)忙しくててんてこ舞いと、次の矢を放ってくるあたりはさすがでしたけど…。
 とはいえ、音楽ネタですべったのは事実です。そういった経緯もあり、10位と健闘した岐阜の駅伝後に、往年の名物歌番組である「ザ・ベストテン」(TBS系列でした)を出してみたのです。
 泉田監督はそれには応えず、「選手たちには言ったんだよ」と切り出してきました。
寺田「なんて言われたのですか?」
泉田監督「おれたちゃ犬猫病院だからよ、って」
寺田「犬猫病院……ですか?」
泉田監督「そう。ペットの病院」
寺田「???」
泉田監督「おれたちは10位(獣医)だからよ」


 2年前の6位の直後は、泉田監督もかなりテンションが上がってたのでしょう。「ダジャレばっかり言っているただの親父ではないことを示すことができた」とレース後に話してくれました。本人が公の場でそう言われるのなら、選手に質問しても良いと判断。利府に取材に行った際に質問させてもらいました。ある選手が「日本ケミコンは監督がサプリメントだと、他チームの選手から言われます」と教えてくれて、公式ガイドの記事にもしました。
 日本ケミコンの練習量はかなり多いと思います。高校時代に実績のない選手がエリート選手に勝つためには、地道に走り込まないといけないという考えが泉田監督の基本方針です。地味できつい練習にどう前向きに取り組めるかで、日本ケミコンで強くなるかどうかが決まってきます。程度の差こそあれ、長距離はどこでもそうなのでしょう。そのために指導者もあの手この手を考えます。
 そのうちの1つがダジャレだとは言いませんが、泉田監督が自身のダジャレ好きのキャラを選手と接する際に役立てているのは確かだと思います。

「おれたちは10位(獣医)だからよ」と、記者に平気で言い放つ。そんな泉田監督の生き方と言ったら少し大袈裟ですが、何かが寺田の琴線に触れました。「そういうのもいいな」と思いました。
 何が“そういうの”なのか説明するのは難しいのですが、自身の置かれた環境のなかでできることを精一杯やればいいのかな、という気持ちに、少しだけなれたような気がします。泉田監督と日本ケミコンがそうだと言っているのでなく、寺田が勝手にそういう生き方もいいと思っただけです。
 昨年の北京五輪以降、目標を見つけられずにいる寺田です(以前に書きましたっけ?)。これまで以上に大きな大会(オリンピックとか)の取材ができるわけでもないし、今の仕事がビジネスとして拡大できないことは、独立してからの9年間でよくわかりました。
 自身に閉塞感を感じていたところに福岡国際マラソンのプログラムの仕事がありました。この道に入るきっかけとなった瀬古局長の福岡優勝と、最も長く取材した高岡寿成コーチのことを書くことができ、「これって区切りにするのにちょうどいいかもしれない」という文字が、頭のなかでうっすらと点滅しました。
 でも、他にやりたいことがあるわけではありません(仕事に追われない生活には憧れますけど)。

 そういう心理状態で取材した全日本実業団対抗女子駅伝で、3区の争いを素直にスゴイと感じることができ、泉田監督のいつものダジャレに接して……という話のどこが“ちょっと良い話”なんだと思われるかもしれません。客観的には“どうでも良い話”の部類に入るかもしれませんが、寺田にとっては“ちょっと良い話”でした。


◆2009年12月27日(日)
 考えてみたら今週末は、試合取材がない数少ない週末でした。個人的にもある終末が近づいていまして(単なるダジャレと受け取ってください)、そんなときに赤坂の本屋で購入したのが「終末のフール」(集英社文庫)です。
 著者は伊坂幸太郎坂水千恵選手(ナチュリル)がブログでお気に入りと書いていた作家で、寺田も何冊か書店でぱらぱらとページをめくったこともありました。いつか読んでみたいと思っていた作家の1人です。
 実際に読んでみたら、面白かったし上手かった。上手かったというのは、読者をまったく飽きさせないことを指しています。ストーリーテラーってやつですね。
 面白かったというのはもちろん内容のこと。3年後に小惑星が地球に衝突して人類が滅亡する背景設定と、そういった極限状態のなかで顕在化する人間の行動や心理、ちょっとした偶然が引き起こすドラマといったところを、実にうまく描いています。作っているのか、伊坂氏の自然な思考なのか。いずれにしても、才能を感じました(でも、「肉体マネジメント」<朝原宣治著、幻冬舎新書>の方が面白いです。陸上競技ファンには)。
 元々、寺田の好きなミステリーでデビューした作家と聞いています。何冊か読むことになるでしょう。

 全日本実業団対抗女子駅伝後の話題としては、12月15日の陸連のアスレティックアワードがありますね。銀メダルの尾崎好美選手でなく、銅メダルの村上幸史選手がアスリート・オブ・ザ・イヤーでした。この点は陸連が、投てき種目史上2人目のメダリストを積極的に評価したということです。ほとんどの人が納得できる選考でした。
 疑問を感じたのは優秀選手賞に福島千里選手が選ばれなかったこと。K通信T記者や何人かの記者が疑問の声を挙げ、陸連にも問い質していました。
 優秀選手賞は全員が世界選手権入賞者です。判断の“物差し”を完全に一本化しましたが、アスリート・オブ・ザ・イヤーを世界選手権の順位にこだわらずに選んだように、ここでも陸連の積極的な評価が欲しかったところです。
 主催者が自由に選んでいい賞ですが、だからこそ単純でない線引きをしてもよかったと感じています。陸マガのアスリート・オブ・ザ・イヤー投票では、間違いなく福島選手が上位に入ると予想しています。

 そもそも、賞の選考は投票にした方がいいでしょう。
 陸連は賞を選考する組織……かもしれませんが、強化をする組織でもあります。今年は村上選手で不満は出ないと思いますが、複数選手が甲乙つけがたい成績を残すケースも出てくるでしょう。92年バルセロナ五輪の年のように森下広一選手と有森裕子選手が2人とも銀メダル、04年のように野口みずき選手と室伏広治選手の2人が金メダル、というシーズンもあります。
 そういうとき、強化を担当している組織が「こっちのほうが優秀だよ」と決めてしまったら、選手は「なんだ。陸連はそう思っているんだ」と考えます。陸連にとっても選手にとってもいいことはない。「投票の結果だから」と言えば、選手も納得するしかありません。
 投票でどうしても陸連が選びたい選手が入らなかったら、特別賞(陸連賞)を設定すれば漏れてしまうことはありません。
 A新聞O田記者も投票派。陸連内部からも「外部の有識者も入れて、選考委員会を作った方が良い」という意見も出ていましたし、やはり陸連内部から「書いていただければ、より良い賞にしていける」というご意見もいただいています。

 小心者の寺田が陸連にもの申すのは4年ぶり。前回は世界選手権男子1万mの選考ミス(大森輝和選手と三津谷祐選手)のときでした。国体のサブトラック取材を求めているのは、普通のお願いです。


◆2009年12月28日(月)
 昼頃に市役所に行って所用を済ませたあと、バスで作業部屋に移動。
 インターハイ予選への協賛について知りたいことがあったので、東京リレーフェスティバルで知己を得たK先生に電話。外からではわからない部分をいくつか教えていただきました。続いて陸マガ編集部にも。12月の出張精算につて事務的なことと、箱根駅伝取材の担当について確認。
 16時に日清ファルマを訪問。まずはサーバー変更後、エラー表示が頻繁に出る件に関してお詫びをしました(※早急に解決すべく全力を尽くしていますので、いましばらくお待ち願います)。続いて来年の活動計画(?)について案を出し合いました。1つ、これは面白そうだという提案ができたと思います。また、寺田のサイト展開についても1つ、ご提案をいただきました。実現すると良いのですが。

 打ち合わせ後は大手町駅につながっている経団連ビルのスタバで原稿書きと思ったのですが、その前に電話を4本。SWAC大角コーチとは会報誌取材の打ち合わせ。日刊スポーツ事業部には校正の修正個所の報告。朝日新聞・増田記者には福岡国際マラソン・プログラム掲載コラムの、本サイトへの転載許可をもらいました。
 スポーツ報知・遠藤記者には明日の箱根駅伝区間エントリー発表時間の確認。15時過ぎに記者クラブに投げ込みがあるとのことです(関東学連のサイトにも載る?)。遠藤記者からは、MTC20周年イベントと重なって行けなかった23日の早大共同取材のときの様子も聞かせてもらいました。

 翌日の新聞に八木勇樹選手の5区起用の可能性がある、という記事が載りましたが、渡辺康幸監督や八木選手自身が明言したわけではないようです。取材した側がいくつかの話を照合したりして、その可能性があると判断したのです。
 もちろん、その可能性はあるのですが、11月下旬の渡辺康幸監督への取材では
「5区は1年生と上級生を用意している」
「八木には負担の掛からない区間で」

 と寺田は聞いています。2年生の八木選手を上級生とは言わないと思うのですが……。
 23日の取材で渡辺監督が「オレを信じろ。スーパースターにしてやるから」と八木選手に話したことが判明。記者たちには「これで駄目なら後悔しない。この区間配置で優勝を狙う。山登りに入れた選手と心中します」と言い切ったという。
 この1カ月で八木選手の状態が良くなった可能性もあります。近年の箱根駅伝では5区の重要度が増しているのも事実ですが、その区間が渡辺監督の指す“スーパースター区間”なのかどうかは疑問です。東洋大・柏原竜二選手のことを“化け物”と言っているのが渡辺監督。区間賞をとらずに“スーパースター”と言うのかどうか。
 いくら山登りの重要度が増しても、エースは平地区間という早大の伝統的な考え方もあります。それに、陸マガ増刊号にも書いたように、今季の早大は“誰がラッキーボーイになっても不思議ではない”というチーム状況(箱根駅伝全体的にも言えることですが)。どの区間でもスーパースターになる可能性があるわけです。
 5区ではないような気がしますが、まあ、答えは明日わかります(当て馬選手が入ったらわかりませんが)。

 明日は15時に記者クラブに行って箱根駅伝区間エントリーリストを入手。夕方にラジオ出演(TBS)して、ニューイヤー駅伝と箱根駅伝について話をする予定です。12月11日にも文化放送で話しましたが、寺田にしてはまあまあの話し方でした。それまでがひどすぎたということですけど。内容的にも少しだけ、陸上競技記者らしいネタを話せました。
 そのときは収録でしたが、明日は生放送らしいです。「ライブ感を出したい」というディレクター氏の意向。ライブ重視は「65億のハートをつかめ!」の取材時に何度も聞かされて、理解もしているつもりです。が、出演者の“向き不向き”も考えないといけないのでは?と思うのですが…。
「一般聴取者向けの基本的な話を」というラジオ側の要望ですが、優勝候補がどことどこで、強い選手が誰と誰で、と話すだけなら雑誌を見ればいいこと。最近の精神状態から、過激なことを話してしまう予感がなきにしもあらず。


◆2009年12月29日(火)
 15時過ぎに記者クラブ投げ込みと聞いていた箱根駅伝の区間エントリー発表が、14時前には関東学連サイトに掲載されました。こちらとしては、記者クラブに行かなくて済んだので、ありがたかったです。
 驚かされたのは早大・八木勇樹選手の5区起用です。昨日の日記に「5区はない」と書いたばかり。その根拠にも自信があったのですが…。ものすごく反省しています。
 これは、ラジオ出演前に情報を得ておいた方がいいと思い情報収集をしました。具体的には書けませんが、寺田の推測が完全におかしかったというわけではありませんでした。ちょっとだけホッとしました。早大側の事情で5区起用となったようです。
 横田真人選手の日本新に続き、この記事(「箱根山登りの5区 早大は八木を起用か」)を書いた日刊スポーツ・佐々木一郎記者に脱帽しないといけないでしょう。今回の教訓は、1カ月前に取材したことや、その大学の伝統的な考え方よりも、直前の直接取材を大切にしないといけない、ということです。

 17:16から17:24までラジオ生出演。
 WEBサイトでも聞けるようになっていて先ほど聞き直したのですが、うーんという感じです。上手くしゃべれていませんし、案の定、時間が足りませんでした。本当に基本的な情報だけ。基本的な情報の間に、いかに踏み込んだ話ができるかが重要だと思っていたので、失敗の部類に入るでしょうか。
 出演を終えて1時間後くらいに、別のラジオ局から31日朝の出演オファーが。
 中2日で同じことは話せません。
「どこが優勝候補とか、注目選手は誰かを僕の口から言うのなら遠慮します。基本的な情報は事前に出してもらって、踏み込んだコメントをするのなら承諾します」
 と伝えたところ、1時間後に「駅伝の話題は他の曜日でやるから」という理由でオファーは取り下げられました。仕事が1本なくなったわけですが、仕方ありません。浅い話をしても陸上ファンが増えるわけではないので。

 夜は秘密結社Aの会合。秘密結社ですからあやしげな話もありましたが、ためになる話がいっぱいでした。そのうち紹介できそうなネタもあります。某選手の就職ネタとか。これは、佐々木記者に抜かれないようにしないと。


◆2010年1月1日(金)
 明けましておめでとうございます。
 寺田の今年の抱負は……追い追い書いていきたいと思いますが、実は何もなかったりするかもしれなくて、いわゆる無の境地というやつですが、そんな気持ちになれたらどんなにいいだろう、と新年に真剣に思う今日この頃です。
 すみません。2010年が思いやられます。

 元旦は恒例のニューイヤー駅伝取材。
 日清食品グループが優勝しましたが、ここ数年、同チームを取材することも多かったので、白水昭興監督もこちらの顔を見るなり「今年負けたらまたあなたに……」というお言葉をいただきました。
 日清食品グループに限らずどのチーム、どの選手に対しても、扱き下ろしたりけなしたりするような記事は書いていません。“なかなか勝てない日清食品グループが、今回は…”という記事は何度も書いていますので、そのことを指してらっしゃるのだと思います。笑いながらだったので、大丈夫でしょう。
 日清食品グループの共同会見では、徳本一善選手のコメントに注目していました。つねにポイントをわかりやすく話してくれる選手です。為末大選手と共通するものを感じます(出身県と所属事務所も同じですが)。
 優勝メンバーで唯一、ベテランと呼べる選手。スポニチ・鈴木記者がその点を質問していましたが、もしもその話題が出なかったら、寺田が突っ込もうと思っていました。その部分はこちらの記事には書きませんでした。陸マガ2月号の記事に使う予定です。

 ニューイヤー駅伝は女子の実業団駅伝と違って、フィニッシュ地点と閉会式(表彰式)会場が同じなので、記者会見から閉会式までのインターバル時間が短いのが難点です。10分かそこらの違いかもしれませんが、我々にとってその10分はとてつもなく大きい10分なのです。上手くすれば2〜3人の話を聞くことができます。それによって記事の内容が大きく変わってくることもあります。
 と愚痴を言っても始まりません。閉会式直前に4区区間2位の今井正人選手と油谷繁選手(兼コーチ)の話を聞くことができたので、まずまずでした。

 記者にとって好都合なのは、監督は閉会式に出席せず、会場の後方で立って見学していることです。そこで何人かの監督の話を聞くことができます。
 今日の監督立ち話取材は良かったですね。2位のコニカミノルタ酒井勝充監督、3位の富士通福嶋正監督と話を聞いていきましたが、2人とも表情が明るかったです。特に酒井監督。こちらの顔を見るなり「見たでしょ」というノリで話し始めてくれました。福嶋監督はいつものように超プラス思考で、それがテンションに現れます。
 ニューイヤー駅伝の2、3位のチームの監督取材は、“敗戦の弁”が多くなるのですが、ここまで明るかったのは初めてかもしれません。陸マガの記事には書ききれない話も出てきそうなので、できればコメントを紹介したいと思います。
 続いて5位のトヨタ自動車佐藤敏信監督と、6位のHonda明本樹昌監督にも話を聞かせてもらいました。前述の2監督とは違って“敗戦取材”になりましたが、2人とも冷静に話してくれました。
 寺田が日清食品グループに対抗する一番手に挙げさせていただいたのがHondaで、トヨタ自動車もそれに近い位置づけでした。2区の外国人選手がゲディオンに対抗でき、ベテラン選手が充実してきているところが似ていると感じた2チームです。
 その2チームが4区で首位争いをしたときは、我ながら良い着眼点だったと思ったのですが…。トヨタ自動車は5区で、Hondaは6区で大きく後退してしまいました。日清食品グループだけでなく、コニカミノルタ、富士通、中国電力にも置いていかれてしまったわけで、優勝経験のあるチームの底力の前に屈した形です。その辺は、両監督も話してくれました。

 しかし、わからないものです。外国人とベテランが充実しているHondaとトヨタ自動車よりも、4区に若手を抜擢したコニカミノルタと富士通が好成績を収めました。これだから駅伝の展望記事は難しいですね。我々の予想を超える事態が当たり前のように起こる。だから見ていて面白いのですけど。
 まあ、駅伝は放っておいても盛り上がる構造になっています。問題はマラソンをどう面白くするか(頑張れグッシー!)。陸上競技全般に言えることだと思いますが、見る側をいかに能動的にできるか、だと思うのですが、それが簡単にできたら誰も苦労はないわけです。
 今、思いつきましたが駅伝はサッカーなど球技に近いですね。ゲーム性が高い。それに対しマラソンは、陸上競技に近いといえるでしょうか。

 閉会式終了後は4区区間賞の佐藤敦之選手を取材。快活な会津の青年といった感じの取材対応でした。会津の青年を他に知っているわけではありませんが。5区区間賞の岡本直己選手も話を聞きたかったのですが、すでにホテルに引き揚げていました。
 川久保コーチが段取りをしてくれて、1時間後くらいにホテルで取材をさせていただきました。予定外でしたが坂口泰監督にも取材ができて、新年早々ついていました。坂口監督も“敗戦取材”ではありませんでした。ポスト・ビッグ3(尾方剛・油谷・佐藤)のチームの形が見えてきたようです。
 2010年初日は、こちらも良い気持ちで取材を終えられました。
 読者の皆さまにとっても2010年が、良い年となりますように。


◆2010年1月2日(土)
 箱根駅伝往路をテレビ取材。日刊スポーツ・佐々木記者やライバルのO村ライターが芦ノ湖に取材に行っていると思うと居ても立ってもいられませんが、どうしようもありません。
 芦ノ湖まで行って往路のフィニッシュ後に取材をして、1本くらい原稿を書いて、とやっていたら間違いなく夕方の5時か6時になるでしょう。帰宅するのは早くて20時過ぎ。ニューイヤー駅伝の原稿を書く時間がなくなります。箱根駅伝よりもニューイヤー駅伝の記事を書く量が多い数少ない記者としては(毎日新聞・I沢記者を筆頭に日本で3、4人くらい)、あきらめざるを得ません。
 それでも、しっかりとメモを取りながらテレビを見ています。今日一番のニュースは1区のハイペースですね。森本選手(関東学連選抜・神奈川大4年)が最初から行って、中盤から矢沢曜選手(早大2年=国際千葉駅伝の際に増田明美さんが褒めていた選手です)が行きました。スローペースになって最後の叩き合いも面白いといえば面白いですけど、個人的にはハイペースからのせめぎ合いの方が感動します。

 寺田の好き嫌いよりも、重要なのは集団がバラけたことです。本当に久しぶりという印象です。おそらく日体大の鷲見知彦選手(豊川工高OB)が飛ばした大会以来でしょう。
 東海大の佐藤悠基選手(現日清食品グループ)が2年時に独走しましたが、集団は超スローペースで団子状態ならぬ饅頭状態でした。大西智也選手(東洋大)が佐藤選手を追ったのはナイストライでしたが。ナイストライというのは昨年、大後栄治監督が取材中に使われていた言葉で、印象に残っていたので書かせていただきました。トラ年ですし…。
 その結果、ここ数年とは違うレース展開になりました。1区にとどまらず、往路全体がちょっと違いましたね。今年も陸マガ増刊の箱根駅伝速報号に「寺田的○○○」という記事を書きますので、そこで紹介したいと思います。データ的に面白かった点を寺田の視点で紹介するページです。もちろん、できる限り現場で取材するネタも織り込む予定です。

 5区の柏原竜二選手の爆走もニュースです。競技的な価値はこちらの方が上でしょう。1区区間賞の北條選手(明大4年)のタイムは、ハイペースでしたが歴代5、6番です。柏原選手は向かい風が強かった場所もあったにもかかわらず、昨年マークした区間記録を更新しました。2位との差も現行コースとなって最大です。何より、チームへの貢献度は絶大でした。
 先ほど、1区のハイペースを今日一番のニュースと書きました。柏原選手の山登りでの爆走はある程度予想されたことですが(正直、予想以上でした)、1区ハイペースは最近では珍しいという意味で、ニュースとしました。

 箱根駅伝テレビ取材後は、細々した仕事をいくつか片づけて(これが結構、時間がかかりましたが)、その後は陸マガのニューイヤー駅伝原稿を進めました。半分は進みましたが、日清食品グループ記事は書き始められませんでした。ネタが多すぎて、どう絞って展開するか、悩みに悩んでいます。
 2010年も遅筆との戦いになりそうですが、昨年のコーチングクリニック大後監督記事を最後に、とんでもなく迷惑をかけた締め切り破りはしていません。


◆2010年1月3日(日)
 箱根駅伝取材のため8時には大手町の読売新聞社に。プレスルームに行くと今年初めて顔を合わせる記者も多く、新年の挨拶などもさせていただきます。
 陸マガ・K編集者とはニューイヤー駅伝原稿の最終打ち合わせ(日清食品グループ以外は書き終わっていますが)。毎日新聞・I沢記者とはニューイヤー駅伝取材時に生じた問題に、昨日ちょっと展開があったので報告。
 久しぶりに顔を見る記者も多いのも箱根駅伝取材ならでは(陸上競技のメイン担当以外も駆り出されます)。スポーツ報知・E本記者、中日スポーツ・K村記者、東京新聞・Y岡デスクたち。しかし、レースがスタートしているので旧交を温める時間はありま……したね、今回は。少しですけど。ここ数年と復路の様相が違っていたからです。

 今日の復路には“懐しさ”を感じました。久しぶりに箱根駅伝らしいレースだったと思います。具体的にいうと首位交替がありませんでした。3年前の順大優勝時もそうでしたが、8区まではもう少し差が小さいところで推移して緊迫感がありました(9・10区の連続区間賞で圧勝したのですが)。今日の東洋大の方が“まったく危なげなく”逃げ切った印象が強かったです。2004年の駒大優勝以来だと思います。
 もう1つ、とっておきのネタがあります。往路の上位10チームがそのまま、総合上位10チームになった点です。つまり、シード圏外からシード圏内に入ってきたチームが1つもなかった。これもかなり珍しい。正確に調べていませんけど、もしも最近そういう事実があったなら、どこかからメールが来るでしょう。ライバルのO村ライターとか。

 優勝争いも変化がなく、シード争いもそこまで白熱しなかった。ですけど、初シードを狙う城西大や、41年ぶりシードのかかった青学大がシード圏内に踏みとどまるかどうか、という興味は持てたと思います。
 特に青学大は前回9区区間6位の辻本選手と、8区区間11位の小林選手を故障で欠いていました。予選会でもチーム3、4番。寺田は陸マガ増刊で4年生の荒井、米沢2選手でなく、その2人を取り上げさせてもらいました(4年生コンビは秋の増刊で取り上げていたこともあって)。
 往路は1区が好位置につけて、2区の米沢選手が1時間8分台の快走がありましたが、復路は厳しいだろうというのが大方の予想でした。その予想を見事に覆す健闘ぶり。シード圏内チームの入れ替わりはありませんでしたが、青学大の踏ん張りは見応えがありましたね。

 レース後は14時からの優勝チーム会見の前に、青学大と中央学大の陸マガ担当校の取材を少しでもいいから進めようと思いました。幸いなことに青学大・米沢選手に取材ができました。お目当てのチーム、選手をまったく見つけられない年もありますから。
 14時からは優勝チーム会見。
 続いて金栗賞の柏原竜二選手の会見ですが、これは「後で取りに来るから」と言ってボイスレコーダーを置いて退出。他の取材を優先しました。2年前にも取材したことがあったので、中央学大の集合場所に行きました。8区区間賞の木之下選手はすでにいませんでしたが、川崎監督の話を聞くことができました。
 これもラッキーでしょう。優勝チーム会見に出ると、その他の取材がゼロになってしまうこともあります。

 ボイスレコーダーを回収して(1年前の全日本実業団対抗駅伝では置き忘れました)、閉会式会場の後楽園ホテルに移動。久しぶりの箱根駅伝取材のY岡デスクや、地方紙記者たちからは「取材しにくい」という非難の声が挙がっていました。寺田は少し慣れてきましたが、実際取材しにくいです。ただ、そのおかげでプレスルームが広くなりました。文句ばかりも言えないのですけど…。
 後楽園ホテルでは閉会式開始前に木之下選手を取材することができました。青学大・原晋監督は陸マガに一問一答を○行載せることになったので、それなりにまとまった話を聞かないといけません。時間がなかったので、閉会式後に取材をお願いしました。
 閉会式は会場に入ることもできるのですが、外で色々としていました。普段は会えない人と情報交換ができる貴重な時間です。新聞記者たちの間では5区の距離の話題が出ていました。監督会議で距離を短縮する話が出たといいます。寺田は、そこは深追いしませんでした。
 閉会式後は原監督に話を聞き、その後は再度、東洋大の取材に。酒井俊幸監督に、ご自身の“運”について聞きたかったのです。運、縁、出会いといったことが、スポーツには(人生には)絶対に影響してきます。
 佐藤コーチ(当時監督)にスカウトされて、インターハイ出場経験がないのに東洋大に入ったことから始まって、4年時にはキャプテンをして、コニカミノルタで実業団駅伝優勝を経験して、福島に戻って高校の指導者となり、そこで柏原竜二選手と同じレースを走るなど接点ができ、東洋大陸上部員の犯罪で監督が代わることになり、東洋大に監督として戻ってきて、今度は柏原選手を指導する立場になり……と、今の酒井監督があるのは、色々な縁が重なった結果です。その点を酒井監督がどう感じているのか。
 そこを聞いてみたいと思ったのは、12月の全日本実業団対抗女子駅伝で優勝した三井住友海上の渡辺重治監督が、“運”も重要だと話していたからです。記者としてもそうですが、一個人としても聞いてみたい話でした。寺田も今の仕事に就いているから、そういう機会に恵まれるわけです。「頑張ろう」と思えるときですね。


◆2010年1月4日(月)
 朝の7:10にラジオに出演(電話です)。FM東京のクロノスという番組で箱根駅伝の結果についてコメントしました。
 昨晩21時過ぎに電話がかかってきて、急きょ出演が決まりました。早朝なので二の足を踏みましたが、当たり前のことを言うのなら出ても意味がない、というこちらの言い分を理解してくれるディレクターだったので承諾しました。
 今朝は6:30には起床して、しっかりと目を覚ましておきました。以前、国際千葉駅伝について早朝のラジオ番組で話したときに、それを聞いていたスズキの岩本照暢コーチから「眠そうでしたね」と言われてしまったので。その時間帯の番組は、朝練習帰りの指導者が運転中に聞いていることがあるので要注意です。

 話したのは1区のハイペースで選手間の間隔が開いたことと、東洋大圧勝の要因、柏原竜二選手がトラックでも速いということ、シード権争いは当事者にとって意味があることでも客観的にはあまり意味がない、ということを話したと思います。
 4分の尺だったので、予定していた話題を1つカットしました。MCがサッカー出身の中西さんで、隣にいたディレクターが話題の進行をコントロールしていたのだと思います。
 1つ失敗したのは、中西さんが「東洋大は全員が区間10位以内ですごいですね」と振られたときに、否定できなかったこと。実際は区間10位が3区間というのは、かなり多いのです。それでも圧勝できたのが今回の特徴なのですが、そこまで話す時間はないと判断しました。
 東洋大圧勝の要因に早大や駒大が有力選手を起用できなかったことを指摘していたので、「層が厚いのが東洋大の特徴ですから。東洋大も故障者が出ていたのに、控えの選手と力の差がない」という話でごまかしたと思います。

 その後は陸マガ本誌の急ぎの原稿を書き(簡単なコメントです)、箱根駅伝速報号の「寺田的箱根駅伝トピックス」の原稿を書き上げました。途中で神奈川大・大後栄治監督と佐久長聖高・両角速監督に電話取材をしながらです。ページのタイトルに「寺田的」と名前を付けられたら、手を抜けません。
 夜はニューイヤー駅伝の日清食品グループ原稿。


◆2010年1月5日(火)
 陸マガの箱根駅伝原稿書きと、作業部屋の引っ越し準備でてんてこ舞い。東レ上海マラソン女子ハーフマラソン優勝は伊藤舞選手(泉田監督のパクリです)。


◆2010年1月8日(金)
 10時からSWAC事務所で会報誌の取材。川越学監督と嶋原清子選手、スタッフの真鍋未央コーチと大角コーチに話を聞かせてもらいました。
 今回のメインはホノルル・マラソン……だけではないのですが、寺田がホノルルについての知識が少なかったので、昨晩から必死で予習をして臨みました。幸い、陸マガ時代の後輩S藤氏がS社時代につくったフルマラソンチャレンジブックVol.1がホノルル・マラソンの特集で、本棚の“捨てない雑誌コーナー”にありました。めちゃくちゃ役に立ちましたね。
 コース図を見たのも初めてですし、コース解説を読んだのも初めてです。聞くと勉強するでは大違い。日本にもあまた市民マラソンがありますが、ホノルルの風景と雰囲気の良さは別格のようです。朝の5時とものすごくスタート時間が早いのですが、日の出を見ながら走るマラソンは他にないと言います。魅力がなければ日本から何千人も行きませんよね(参加者の6割が日本人)。制限時間もない。
 フルマラソンチャレンジブックVol.1は表紙が真鍋コーチですし、真鍋コーチと川越学監督のホノルルについての対談や、参加した市民ランナーたちとの座談会も載っていました。S藤氏に感謝して抱きつきたいくらいでした。
 ハワイへは日本を夜発つ便が多く、時差が問題だと聞いていました。しかし、朝の5時スタートなので、逆に日本時間で生活して、眠らずにスタートラインに着く手もあるそうです。観光ができなくなってしまうかもしれませんが。

 ただ、今日の嶋原選手の取材はエリートレースの話がメインです。ロシア選手との熾烈な優勝争いのこととか、横浜国際女子マラソンから3週間のインターバルで出場したこと等々。しかし、そこはホノルルですから、ホノルルらしい話も聞くことができました。
 2010年の目標も聞きました。アジア大会がどうなるかは、なんともいえないところです。が、同選手の場合、走る価値観は国際大会代表だけではありません。マラソンの自己記録更新はもちろんのこと、5000mの自己記録も縮めたいと話してくれたので、●◇▼□するのはどうかと勧めておきました。


◆2010年1月9日(土)
 陸マガ箱根駅伝速報号の発売日。陸マガ増刊ですが、編集担当はクリール編集部ということで、樋口編集長のブログに紹介コメントが載っているわけです。
 つくりもかなり違いますね。まず目につくのが写真を大きく使用していること。引き気味(広角)の絵柄を掲載するときは効果が大きいですね。都心のビル街と、箱根山中の温泉街との対比がよく出ていますし、湘南の海浜道路や沿道の応援風景も大きくしないと雰囲気が出ません。かつては本誌でも写真が大きく使えたのですが、ページ数を徐々に減らさざるを得ない状況になり、近年はこういった写真掲載ができなくなっています。
「Voice! Voice! Voice!」というコメントを集めたページも面白かったです。4ページあって最初の見開きが選手で、後ろの見開きが選手以外。この選手以外のページの人選が多岐にわたっています。青葉会長、OBの佐藤悠基選手、補助員の東女体大生、日本テレビの新井プロデューサー、表彰式に来た中学生、森下広一トヨタ自動車九州監督、瀬古さん等々。それぞれの立場で箱根駅伝を見ているのがわかります。
 あとはページによって“色”がはっきりと分かれていること。書き手の“色”とも言える部分ですが、近年の本誌ではやはりなくなってきている部分です。これもページ数が少なくなっていることが原因ですが、長い記事を敬遠する中高生に合わせているのも大きな理由の1つ。情報誌(タウン誌?)の感覚で専門誌を見ているのだそうです。
 まあ、本誌と同じ物を作っても意味がないわけですから、違いが出るのは当然といえば当然です。

 寺田も「寺田的箱根駅伝トピックス」という2ページの企画を担当しました。ここ数日の日記でも簡単に触れていますが、
@1区がハイペースになったことの影響
A2区の1時間8分台が最多になった経緯
B5区の区間1・2位のタイム差が、現行コースになって最大だったこと
C佐久長聖高OBが活躍したこと
D復路のタイムが低調だった背景

 を分析したり、取材して紹介しています。
 このページは机上の分析に、取材で入手した情報を加えて出したいというのが基本方針です。@は矢沢曜選手、Aは米沢類選手に大手町で取材しました。Cは佐久長聖高・両角速監督に、Dは大後栄治関東学連駅伝対策委員長に電話取材。Bは以前に取材していた柏原竜二選手のコメントを紹介しています。
 失敗したのは往路の上位10校が、そのまま総合の上位10校になったことを書けなかったこと。それに気づいたのがレース翌日の夕方で、データを調べることも関係者の取材をするのも時間的に不可能なタイミングでした。レース中に気づいていたらなんとかできたかもしれないのですが。
 4日の日記に「寺田的」と企画のタイトルに名前を付けられたら手を抜けない、と書きました。名前が付いていなければ手を抜ける、と受け取られてしまう書き方です。字面を追えばそうなってしまいますが、書いている本人としては“つねに手を抜けない”ことが当たり前になっているので……上手く説明できませんが、念入りに書きすぎるのも問題ではあります。

 前述の「Voice! Voice! Voice!」ページに新井プロデューサー(筑波大出身。元ハイジャンパー)の「例年になく安定したレースでCMもVTRも事前の構成通りに流せた、という意味でとても珍しい箱根駅伝だったと言えます」というコメントが載っていました。テレビ関係者の方が気づきやすい部分だったのでしょう。それも1区のハイペースの影響だったと思います。


◆2010年1月13日(水)
 13:30から後楽園ホテルで、三村仁司さん(元アシックス。“現代の名工”に選出されたシューズ作りの職人です。石本文人さんブログのミムラボ記事)のアディダス専属アドバイザー契約締結に関する記者発表会。
 実は元旦に前橋で、近々発表があるという情報をゲットしていました。12月にも岐阜か京都で、そうなるのではないかという話を小耳にはさみました。この件に関しては日刊スポーツ・佐々木記者に先んじていましたが、公表できないのではあまり意味がありません。
 情報を入手していたにもかかわらず、5分ほど遅刻してしまいました。強風の影響で電車に遅れが出ていたのです。
 会場に着いて驚かされたのが、会場全体のデザインにお金をかけていること。かなりの広さで、集まった記者も100人近くいたのではないでしょうか。あとでアディダスの方(尾崎好美選手担当のY氏)にその点を質すと、「ブランドイメージを大切にしているから」という理由でした。細部はピーアール会社(東レ上海マラソンと同じ会社でした)がセッティングするのですが、かなり厳しい注文がアディダス上層部から出されているようです。
 そういえば寺田も、交通費をケチっているような話をあまり書かない方が良い、というアドバイスをいただいたことがあります。

 すでにマルタン社長の挨拶が始まっていました。空席もありましたが、真剣に話を聞いている記者の前を通らせてもらって着席するのは気が引けますから、後ろの方で立ったままメモをとればいいと判断しました。
 ところがすぐに、主催者サイドの方がこちらに気づいて、席に案内してくれました。自分では行けなくても、主催者側の人間が案内してくれれば別です。こういう気遣いはさすがです。
 マルタン社長の挨拶に続いて三村さんが壇上に招かれて、MCの女性の方がインタビュー。続いて、谷口浩美監督と青木沙弥佳選手……ではなくて、ヤクルトスワローズの青木宣親選手が登場し、3人のトークセッションとなりました。記者の数が多かったのは野球担当記者も来ていたからでしょう。
 これらの模様はAll Aboutで記事になっているのでそちらをご参照ください。記事にも出ていますが谷口監督が「翌年のアクシデントは靴が悪かったわけではありません」と言って笑いを誘っていました。91年の東京世界選手権で金メダルを取った谷口監督は、翌年のバルセロナ五輪では給水で他の選手と接触して転倒してしまったのです。
 記事になっていない部分で笑いが起こったのは三村さんが、「『脱げない靴を作ってくださいよ』と報道陣の前で言われてしまった」と、エピソードを披露したときでした。選手にとってオリンピックは人生の一大事です。そこで転倒した後にそういったジョークを言えるところが、谷口監督が大舞台に強かった理由ではないでしょうか。「コケちゃいました」もそうですけど。
 ではありますが、その谷口監督も88年ソウル五輪代表選考会は、前年12月の福岡で敗れ、続いて2月の東京国際にも出場しましたが、やはり失敗しています。その辺の話をチャンスがあったらお聞きしてみたいところです。

 会見終了後のカコミ取材がないのは、アディダス方式のようです。しかし、前述のY氏から色々と話を聞かせていただくことができました。佐々木記者の取材ぶりも目の当たりにして、参考になりました。バンクーバー冬季五輪が終わったら陸上競技担当から外れると言います。今のうちに盗めるものを盗んでおかないと。


◆2010年1月14日(木)
 陸上競技マガジン2月号発売日です。
 今月号は男女の実業団駅伝と箱根駅伝を少し(青学大と中央学大)担当しました。
 男女の実業団駅伝は文章が反省材料です。もう少し洗練させられたと、読み直して感じました。少ない文字数でいかに充実させるか。どうしてもネタを詰め込みがちになりますが、もう少し流れるように書けたと思います。内容には自信があるのですが…。
 個人的には三井住友海上・渡辺重治監督の特徴を出せたのが良かったと思っています。大崎千聖選手とのエピとか、良い話ですよね。書けなかったネタもたくさんあるので、チャンスがあれば紹介していきたいと思います。

 渡辺監督は就任2年目。それ以前は鈴木秀夫前監督の下、コーチを10年以上務めていました。コーチ時代にも記事のヒントとなる視点を教えてもらったり、何度か協力していただいたこともありましたが、「自分がこういう考えで」という部分の話はなかったと思います。それが、コーチという立場での仕事の仕方なのだと言います。
 それが監督という立場になったら、我々の印象が一変するような部分も出てきます。コーチと監督の役割の違いが、メディアの人間にそう感じさせるのでしょう。
 選手への接し方も違ってきます。方向性やキャラ的なところは同じだと思いますが、それまでは母親的な温かさで接していたのが、父親的な厳格さも加わるようになります(ものの例えですので、ご理解をお願いします)。これは、渡辺監督よりも積水化学の野口英盛監督代行が当てはまるかもしれません。
 そういえば、女子の記事で積水化学に触れることができませんでした。取材をさせてもらったのですが、申し訳ありません。

 箱根駅伝はレース前は“超戦国”という予想でした。寺田もご多分に漏れず、「これまで戦国駅伝という言葉を使ったのが恥ずかしいくらいに今回は混戦」と文化放送で話した記憶があります。「11時間5分くらいを出せる可能性があるのは東洋大、駒大、早大の3つだが、優勝記録が11時間10分をこえれば山梨学大、明大、日体大、日大の4校にも可能性がある」と。中大も入れておけばよかったと、後から思いましたけど。
 実際は東洋大が“注文通り”のレース展開で快勝しました。2位とのタイム差(2分46秒)以上に圧勝と言って良い内容でした。陸マガ本誌には載っていませんでしたが、速報号や某専門誌では“東洋大時代到来”というニュアンスの表現もあったと思います(総評的なページがなかったせい?)。
 今回の勝ちパターンを確立されたら、他の大学は厳しいでしょう。目の前で今回のようなレースをされたら誰でもそう感じます。5区の選手がなかなか育てられないという認識が、5区の距離短縮を求める現場だけでなくマスコミにも多いのだと思います。
 しかし、駒野亮太選手が2年前に1時間18分台で走っていますし、前回の小野裕幸選手も1時間19分台。そうした選手が出てきたら、ここ2年のパターンは崩れます。

 それと、潜在能力ではやはり早大が一番でしょう。年末の全国高校駅伝で1区区間賞の大迫選手(佐久長聖高)と3区で村澤明伸選手の日本人最高記録を更新した志方選手(西脇工高)が入学します。京都でも取材した人間としては、東洋大黄金時代とは言いにくいですね(大手町では東洋大時代到来か、と思いましたけど)。
 “名前のある”選手だけでも10人くらいになるわけです。本当にすごい顔ぶれです。
 ニューイヤー駅伝の日清食品グループを見ればわかるように、強い選手がしっかりと走ったら絶対に強いです。毎回、そう上手くいかないところが駅伝の面白さでもあるのですが。
 来年の箱根の優勝候補は? と聞かれたら、「早稲田ですよ!」と言い続けます。インカレが始まる前までは。


◆2010年1月15日(金)
 今日も陸マガ2月号からのネタです。
 この号はどうしても駅伝報道が大半を占めることになりますが、そのなかでトラック&フィールドファンも楽しめるのがアスリート・オブ・ザ・イヤーの投票結果発表です。
1位・村上幸史
2位・尾崎好美
3位・福島千里

 というのが上位3選手の顔触れ。陸連のアスレティックアワードのときに福島選手を優秀選手に選ばないことにクレームをつけましたが、投票では予想通りに上位に入りました。まあ、2つの賞がまったく同じでは面白くありませんが。

4位・渕瀬真寿美
5位・佐藤敦之
6位・中村友梨香
7位・横田真人
8位・塚原直貴
9位・加納由理
10位・江里口匡史

 というのが4位以下の顔触れ。寺田が投票した選手でこの中に入っていないのは、池田大介選手と戸邊直人選手。ちなみに池田選手は19位、戸邊選手は11位でした。
 ベルリン世界選手権を現地で取材したら、池田選手は入れたくなります。寺田は4位で投票しました。世界大会で混成選手が自己記録を更新することは、そのくらいに難しいことだという認識です。

 4人の編集者の投票内容が掲載されています。これは2〜3年前から始めていること。投票結果だと「平均的になって面白くない。個々の投票結果がわかれば投票者の考えがわかって面白い」と、高橋編集長に具申した記憶があります。
 陸連のアワードのときには、「陸連が選んだら選手が納得できないが、投票で選べば選手も納得するしかない」と書きました。陸マガには「平均的で面白くない」と言っているのですから勝手なものです。
 その編集者の投票内容を見ると、戸邊選手を3人が投票しています。高校生も評価対象にするのは専門誌関係者の特徴だと思います。国体を担当した菊池編集者は4位で投票していますね。ほかにも柏原竜二選手を2位、高校生の新宮美歩選手を7位、中学生の土井杏奈選手を9位、村澤明伸選手を10位に推すなど、その年代の大会で活躍した選手に投票しています。

 しかし、これらの選手は残念ながらベスト10入りはしませんでした。結果的に、上位10選手中9人が世界選手権代表。唯一の例外が800 mで15年ぶりの日本新をマークした横田真人選手でした。そのくらいに価値がある記録です。
 そのレースは日体大最終フィールド競技会(特別レース)。日刊スポーツ・佐々木記者に「日本新が出るかもしれませんよ」とおどかされて取材に行きましたが、同記者の慧眼に改めて敬意を表するとともに、もう少し記事が多くても良かったのではないかと(2ページでした)、陸マガには苦言を呈しておきます。寺田も元編集者ですから、突発的に誕生した記録にページを割く難しさはわかっていますが、それにしても……。
 そのくらいの判断をされてしまうところが、中距離のつらいところです。


◆2010年1月22日(金)
 為末選手が自身のサイトで、「冬は如何に走るべきか」というタイトルで2回、コラム(?)を書かれています。どうしても“ぼやかして”書きがちな部分を、はっきりと書ききっているところがすごいというか、インパクトがありました。
 寺田もそれを見習って“どうして箱根駅伝だけが特別に人気があるか”という設問に、これだ! という答えを書いてみたいと思います(クリールの樋口編集長が同じようなテーマで書いていましたが、視点が違うと思うので)。実は暮れのラジオ出演時にニューイヤー駅伝と箱根駅伝の両方を話してほしいと言われて、両駅伝の違いを頭の中で整理したのです。結局、両者の比較を話すことはできませんでしたけど。
 言わずもがなですが、箱根駅伝はレベルが一番高い駅伝ではありません。でも、人気は駅伝で一番というだけでなく、日本の陸上競技団体が主催する競技会では断トツのトップです。どうしてか。結論を最後に書くか最初に書くかで48時間くらい迷いましたが、先に書くことにしました。
 感動が伝わりやすい駅伝だからです。

 伝わり“やすい”という部分が重要です。
 選手・指導者が一生懸命に取り組んでいるのは実業団駅伝も一緒です。ニューイヤー駅伝に初出場しようとものすごい情熱をもって取り組んでいるチームが、箱根駅伝に初出場しようとするチームの情熱に劣るとは思えません。上位チーム下位チームに限らず、選手によっては競技生活を懸けているケースもあります。今回ヘタな走りをしたらクビになる、というのは選手自身も感づきますから。
 でも、世間一般では箱根駅伝の方が、選手は一生懸命に取り組んでいると思っています。
 その理由の1つは、実業団のトップ選手はニューイヤー駅伝だけが目標ではないからです。世界を目指すとなると、そのためのステップとなる大会はいくつかあります。福岡国際マラソンとか日本選手権ですね(これは2001年に藤田敦史選手を取材した際に、同選手が箱根駅伝との違いということで話してくれたことです。※下にそのときの記事の抜粋)。
 駅伝も一生懸命に取り組んでいるのですが、世間もそれだけでないことはわかっているので、箱根駅伝を見る目とは違ってきてしまうのです。

 箱根駅伝でも竹澤健介選手とか、実業団選手と同じ取り組み方でした。世界を経験した指導者に多いのですが「箱根駅伝は通過点」と位置づけるケースもあります。
 それでも、選手は周囲の影響を受けます。チームメイトは箱根駅伝を最大目標にし、OBや大学、後援組織など、通常では考えられない支援をしてくれますし、メディアを筆頭に社会全体もそれに向かって熱病に冒された状況になりますから、どうしても影響されてしまいます。
 もしかしたら、世間の熱さに影響されていない学生選手もいるかもしれませんが、世間は「この選手も箱根駅伝に最大の情熱で取り組んでいる」と思いながらテレビを見てしまうのです。
 選手たちはこの駅伝しか目標にしていない、というイメージを世間が持っていることが、人気が出ている要因の1つになっています。
 この話題、続けるつもりです。

※ニューイヤー駅伝2002公式ガイドから
藤田 (箱根ほどの雰囲気がないもう1つの理由として)実業団選手には目標とする試合が、他にもあるからかもしれません。学生は箱根に向けて年間を通してチーム一丸という感じです。実業団は駅伝の時期にはチームとしてまとまりますが、それ以外は各選手がそれぞれの目標に向かっています。個人の目標が優先されるわけです。去年の僕みたいに福岡(国際マラソン)を走ってニューイヤーの選手もいれば、ニューイヤーのあと別大や東京(のマラソン)を走る選手もいる。でも、うまく利用できれば、マラソン練習の中に刺激の練習として組み込むことはできます。極端な話、スピード練習の一環としてとらえることも可能です。
 大学時代、箱根では勝てませんでしたが、出雲(全日本大学選抜駅伝)や伊勢(全日本大学駅伝対校選手権)では勝てて、優勝できた嬉しさがものすごくあった。しかし、ニューイヤーの優勝はそこまでのものがなかった。大学がまとまって練習するのに対し、実業団では全部がそうではありませんが、個人練習が主体でレースの日だけ一緒という感じがします。その違いだと思います。もしも、入社して5年かかって優勝したら、嬉しさも違ってくると思うんですが…。大学に入学したとき駒大はまだ弱いチームでしたが、僕が富士通に入ったときはもう、勝って当たり前の雰囲気がありました。



◆2010年1月23日(土)
 明日の全国都道府県対抗男子駅伝の区間エントリーが発表されました(公式サイト参照)。
 埼玉、兵庫、長野、広島、福島が5強と言われています(信頼できる筋の見方)。
 寺田の感想としては、埼玉は高校生が服部選手と設楽兄弟、中学生も打越選手と強いだけに、一般区間のHonda勢の出来がカギを握りそうです。
 その逆が福島で、一般区間は柏原竜二選手と佐藤敦之選手。箱根駅伝とニューイヤー駅伝の“最強”選手2人が走りますから、中高生の出来がカギを握りそうです。
 長野は一般区間の佐藤悠基選手と村澤明伸選手に加え、1区に高校駅伝1区区間賞の大迫傑選手と高校生・一般とも強豪選手を揃えましたが、インフルエンザとノロウィルスで高校生選手がベストメンバーではありません。その辺がどの程度影響するか。
 兵庫広島は似通ったメンバー構成になりました。兵庫は高校駅伝3区日本人最高記録の志方文典選手と国体優勝(高2最高)の西池和人選手に、一般が竹澤健介選手。広島は高校駅伝優勝の世羅から竹内一輝選手と北魁道選手に、ニューイヤー駅伝5区区間賞の岡本直己選手。兵庫の方が少し豪華という印象ですが、2人目の一般選手がどうか。広島は全日中3000m優勝の箱田幸寛選手もいます。

 さて、今年のニューイヤー駅伝が盛り上がったのは、佐藤悠基選手、岡本直己選手らの新しい力が台頭したからです。佐藤選手が3区で、岡本選手が5区で区間賞。優勝候補チームでは富士通の堺晃一選手が4区で区間2位、コニカミノルタは黒崎拓克選手が4区で区間4位。この2人は良い意味で周囲の予想を裏切りました。
 昨日から書いている“どうして箱根駅伝だけが特別に人気があるか”という理由の1つに“エースが入れ替わる”ことが挙げられると思います。今年のニューイヤー駅伝のような現象が、箱根では毎年のように起こっています。
 柏原竜二選手が区間記録を更新したり、村澤明伸選手が2区で日本人1位になったり。それがレース前の期待感にもつながっています。
「早稲田は竹澤が卒業したけど八木っていうのが才能があるらしいぞ。派手さはないけどキャプテンの尾崎は20kmの距離なら八木以上だし、八木と同じ2年生の矢沢も期待を裏切らないって記事にあったし」ということをファンは考えるわけです。
 竹澤選手ほどの力はなくても、有力チームのエース級というだけで、ワクワクすることができる。人気があることの方が前提かもしれませんが、強い選手が“卒業する”という部分が大きな要素でしょう。
 日本人は若い世代に期待したがる国民だと思います。マラソン選手の年齢が高くなると不安になりますからね。高度経済成長の神話が、人々の気持ちの奥底に残っていると寺田は感じています。たぶん、ヨーロッパは違うと思います。

 その点、実業団駅伝はなかなかスター選手が代わりません。“卒業”が毎年あるわけではありませんし、レベルが高くなればトップが交替することも簡単ではありません。「今年もこの顔ぶれか」と見ている側は思うわけです。一方の箱根は、実際のレベルは低いのに「今年も新しい力が台頭しているぞ」と感じます。
 トップ選手がメダリストレベルであれば、話は違ってくると思います。イチローや松井を、野球ファンは何回でも繰り返して見るわけです。高橋尚子選手や野口みずき選手が駅伝に出れば、絶対に注目されると思います。

 “どうして箱根駅伝だけが特別に人気があるか”という設問に対する答えが「感動しやすい駅伝だから」だと書きました。新しい選手が出てくるのが感動といえるかどうかは難しいですけど、そういった選手がしっかりと走ると「オオッ」と思うのは確かです。心を揺さぶられるのは間違いないと思います。
 この話題、まだ続けます。


◆2010年1月24日(日)
 全国都道府県対抗男子駅伝をテレビ観戦。面白かったです。同意見のメールも来ました。
 1区(7km)は服部翔大選手(埼玉栄高)が全国高校駅伝1区3位の雪辱。2年連続区間賞を獲得しました。西池和人選手(須磨学園高)と市田孝選手(鹿児島実高)の2年生が区間2、3位。2人とも全国高校駅伝よりも良い順位でした。
 2区(3km)はジュニアオリンピック優勝の前田晃旗選手(福岡)が区間1位で20人抜き。地元広島は1区で34位と出遅れましたが、全日中優勝の箱田選手が区間2位で18位まで浮上しました。中学生区間に不安のあった福島も、佐藤選手が区間3位で7位にまで浮上。3区の柏原竜二選手が“良い位置”でタスキを受けました。

 3区(8.5km)の柏原選手はトップと15秒差でスタート。距離にすると100 m近くありますから、普通なら徐々に差を詰めるところです。それを、わずか1.3kmで詰めてしまいました。「何も考えずに突っ込む」という同選手の本領が発揮されたレース展開です。山登りばかりがクローズアップされてしまいますが、こちらの方が柏原選手の“本領”でしょう。箱根駅伝以外であそこまで上るコースはありませんが、“速い突っ込み”はどんなレースでもできる走りですから。
 村澤明伸選手(長野・東海大)にも驚かされました。柏原選手よりも先に中継所を出たとはいえ、その差はわずか3秒。引っ張ってもらったとはいえ、かなりのハイペースで突っ込んだのは間違いありません。それでも、5km過ぎから積極的に走り(積極性は村澤選手の特徴)、終盤でスパートも決めて1位で中継。区間タイムでも柏原選手を1秒上回り区間2位でした。
 その2人と最後まで競り合って2位で中継した秋山羊一郎選手は、本来ならそのくらいの力はある選手です。が、ニューイヤー駅伝のメンバーに入れないくらいの不調だったことを考えれば、予想以上の走りだったと思います。
 柏原&村澤の学生コンビがテレビ画面の主役となった区間でしたが、区間賞は大西智也選手(岐阜・旭化成)。17人抜きで岐阜を8位に浮上させ、実業団選手の意地を見せた格好に。ニューイヤー駅伝5区区間賞の岡本直己選手(広島・中国電力)も区間4位の走りで、出遅れた広島県チームを5位にまで引き上げました。
 今大会3区は区間1位から4位まで、それぞれの差が全て1秒でした。一般選手には短めの区間ということもありますが、タスキをもらった位置が違う4人がここまで接近したタイムで走ったのですから、力の差はなかったと見ていいでしょう。4人が区間賞だったと寺田的には思っています。

 4区(5km)は埼玉の設楽悠太選手(武蔵越生高)がトップを奪い返しました。埼玉は4・5区の設楽兄弟でどこまで貯金ができるかで、優勝の行方を左右すると思われていました。しかし、3区で13位に後退していた兵庫が、延藤潤選手の区間2位(区間新)の快走で息を吹き返し、4位まで上がってきました。“須磨・西脇以外の兵庫県選手”です。以前は“西脇・報徳以外の兵庫選手”と書きましたが…。神戸新聞・大原記者と同じ地区出身のようです。
 この区間に起用されたことで不調と思われた田村優宝選手(青森)が区間1位。14分10秒で延藤選手を4秒上回る区間新でした。
 5区(8.5km)は設楽啓太選手(埼玉・武蔵越生)が区間1位と快走。ここ数年、5区でトップに立ったチームが優勝しているそうですが、今大会の埼玉は、アンカーに日本代表を擁す兵庫と福島に安全圏といえる差をつけるまでには至りませんでした。
 高校駅伝優勝メンバーの北魁道選手(広島・世羅高)に、志方文典選手(兵庫・西脇工高)、油布郁人選手(大分・大分東明高)といった名前のある選手が今ひとつで区間4、5、6位でした。
つづく

 6区(3km)では町澤大雅選手が8分31秒の区間新。これにはビックリ。名前の読み方が“たいが”選手と知ってまた驚かされました。どんな選手なのか慌てて戦績を調べたところ、全日中3000mが9位でジュニアオリンピックは14位。8分31秒で走ってもおかしくないといえばおかしくない戦績ですが…。取材もしていないので断定するような評価はできませんが……区間記録を7秒も更新し、区間2位とは15秒差ですから、トラックの戦績以上の走りだったと言っていいと思います。
 兵庫は中谷選手が区間7位でしたが、トップを行く埼玉と3位の福島との差を詰めました。特に福島と1秒差で中継できたのは大きかったと思います。

 そしてアンカーの7区(13km)。3位の福島・佐藤敦之選手(中国電力)と4位の兵庫・竹澤健介選手(エスビー食品)が2人で前との差を詰めていきました。つねに佐藤選手が前で引っ張りました。トラックのラスト勝負だったら竹澤選手は日本で3本の指に入る選手です(上野裕一郎選手と松岡佑起選手が勝てるかどうか)。途中で振り切るしか佐藤選手に勝ち目はありません。タイプの違いが明確なだけに、わかりやすい争いでしたし、それが面白かったと思います。
 さらに佐藤選手は、2月末のマラソン出場を控えていますから、練習の流れからそれほどスピードはない……と考えるのが日本の常識ですが、2007年福岡前の佐藤選手はかなりのスピードがありました。それと比べてどうだったのか、テレビ画面だけで判断するのは無理です(東京マラソン時の取材で突っ込むポイントの1つですね)。
 ただ、竹澤選手の方がスピードが出そうだな、と感じられたのは確かですし、佐藤選手もスピードのピーク時であれば、もう少し伸びるストライドだったと思います。この辺は指導者ではないので、単なる感想と受け取ってください。
 それにしても、早大OB2人のデッドヒートは見応えがありました。それに比べて現役は…という声も早大関係者から聞こえてきそうですが、この大会はそこまで結果を求めるべき大会ではありません。その時点でできる走りをするしかないでしょう。
 しかし、3区と同様7区でも、トップ争いをした2選手が区間2位と3位。区間賞は後方で追い上げを見せた長野の佐藤悠基選手(日清食品グループ)でした。37分12秒は区間記録に3秒と迫るもので、同学年の竹澤選手に21秒も差をつけていました。
 これまでは、箱根駅伝ですごい走りをしても、この駅伝では調子を落とすこともあった佐藤選手。7区には保科光作選手(宮城)、小野裕幸選手(群馬)ら日清食品グループ勢が5人出ていましたが、区間ヒト桁順位は佐藤選手だけ。また、今大会は各カテゴリーの駅伝優勝チームの選手が今ひとつでした。それらを考えても、この冬の佐藤悠基選手は違いますね。

 駆け足で7区間を振り返りましたが、その他にも面白いシーンは多々ありました。青森の田村兄弟が3区と4区で、埼玉の設楽双子兄弟が4区と5区でタスキリレーをしました。2組とも、兄弟のうち1人が区間賞というのは初めてのケースかもしれません(調べ切れませんでしたが)。
 上位5チームは“5強”と目された県でしたが、千葉の6位はライバルのO村ライターも予想外だったと言います。5区の伊藤祐哉選手(区間2位)と、前述の6区・町澤選手の2区間で13人も抜きました。以前は市船橋高などが全国でも上位の常連でしたが、近年の高校駅伝で千葉勢は低迷しています。ただ、それは選手が分散しているのが要因です。今回の快走で、選手が弱くなっているわけではないことがわかりました。
 アンカーでは駒大勢も多く出場していました。その中では三重の高林祐介選手が区間4位でトップ。2人を抜いて三重を8位入賞に導きました。栃木の宇賀地強選手は区間8位ですが、高林選手とは8秒差ですから激戦だったことがわかります(ここでも佐藤悠基選手の強さがわかります)。それにしても、高林選手の安定した強さは関係者に評価されているのでは? 学生駅伝3大会では4年間で7個の区間賞。以前はエース区間以外での区間賞が多かったのですが(選手層の厚いチームの特徴です)、先の箱根駅伝では復路エース区間の9区で区間賞。テレビ画面からの判断ですが、貫禄さえ感じられるようになってきました。
 駒大OBでは大分の治郎丸選手が区間12位、千葉の安西選手(JAL AGS)が区間16位。安西選手の力からするともう少し行けたはずですが、早大OBコンビに付きすぎたのかもしれません。福井の大西雄三選手(日清食品グループ)が区間20位、岡山の田中宏樹選手(中国電力)は区間29位。早大とは逆に、現役学生選手が頑張りました。

 アンカーで「おっ?」と思ったシーンがありました。佐藤悠基選手に佐藤秀和選手(愛知・トヨタ紡織)がしばらく食い下がったところをテレビが映し出したときです。高校3年時には“ダブル佐藤”と評された2人で、5000mの高校記録を秀和選手が、1万mの高校最高記録を悠基選手がマークしました。駅伝でも大活躍。
 その後の2人の軌跡は書きません。今回、秀和選手の方が37秒も前でタスキを受け取りましたが、今の力関係では悠基選手が抜くのは当然です。それでも、秀和選手は食い下がりました。駅伝でなければ、こういうシーンは見られません。願わくば、今回の走りをきっかけに秀和選手が再び力を取り戻すといいのですが。
 寺田が気づかなかった面白さもあったと思いますし、見る人によっても面白い点は違っていたと思います。とにもかくにも、都道府県対抗駅伝は見どころが満載の駅伝でした。男女とも。


◆2010年1月25日(月)
 本当は昨日の日記に書きたかったのですが、箱根駅伝が人気が出る要因の1つが、全国都道府県対抗男子駅伝のテレビ中継にも表れていました。タスキ中継のシーンを思い出してください。選手が次から次へと中継所に飛び込んできます。テレビ画面はどうしても多人数を入れなければいけなくなります。広角の絵柄になり、選手個々の表情まではわかりにくくなります。
 その点、箱根駅伝はまったく違います。待っている選手の表情をアップで映し出します。走り込んでくる選手の必死の形相も、アップで映し続けられます。中継時の2人がかわす言葉や、その瞬間の表情がお茶の間にストレートに届けられる。
 個人種目との違いが一番顕著に出るのが、このタスキ中継です。選手のピュアな思いが交錯するシーンは、見ている者の胸を打ちます。その感動が伝わりやすいのが箱根駅伝なのです(1区間の距離が長くて差が大きくなるからですが)。

 しかし、参加チーム数が多くなると、そういったシーンを丁寧に紹介できなくなります。
 今年は1区のハイペースによりタイム差が大きくなりましたが、最近は1、2区でタイム差がつかなくなっています。箱根駅伝の参加校が15校から20校に増えましたが、人気という意味ではマイナス要素となっているかもしれません。
 中継時のみならず、参加校が少ないのは視聴者には“わかりやすい駅伝”と感じられる要素だと思います。
 視聴者は陸上競技ファンではありませんから、我々のように集中して画面を見ているわけではありません。むしろ、他のことをしながらテレビを見ている“ながら視聴者”の方が多い。テレビの前から離れて、戻ってきたときに「この学校が映っているなら上位争いだ(あるいはシード争いだ)」とすぐにわかれば、レースを理解しやすくなります。
 距離が長くてじっくりと紹介できることも、同じ理由で視聴者にはわかりやすい駅伝となる要素です。

 対照的に都道府県対抗駅伝は、距離が短いので、ちょっとテレビの前を離れたらレース展開の理解が追いつかなくなる。集中しないと面白さが伝わってこないし、昨日までの日記で紹介したような話題は、駅伝をよく知っているファンでないと理解できない部分です。
 ところが今日の新聞を読んだら、7区区間4位だった高林祐介選手の記事が載っていました。さすが朝日新聞です。高林選手のような存在を全国紙が取り上げてくれると違ってくると思います。


◆2010年1月26日(火)
 17:30から日清食品グループのニューイヤー駅伝優勝報告会に出席しました。
 この手のパーティーはホテルで行われることが多いのですが、今日は日清食品グループ本社での開催。行けば地下一階に、そうしたイベントができるスペースがあるではないですか。場所は地下鉄の東新宿駅近くの超一等地です。
 それもすごいことですが、もっとすごいのは日清食品グループの陸上界への貢献度でしょう。駅伝チームを持つだけでなく、全国小学生にもずっと協賛しています。それが評価されて、昨年末の陸連アワードでは特別賞を受賞したのです。陸上界にはなくてはならない企業になっています。実業団の試合の優勝報告会にもかかわらず、陸連関係者が多数来場していたのもうなづけます。

 会の進行は定番パターンでしたが、後半のTBS土井アナによる選手への突っ込みは面白かったです。諏訪利成選手と同学年の佐藤文康アナは、仕事が重なったのか来られなかったようです。
 寺田は小川博之選手(JAL AGS、元日清食品)を皮切りに、色々な方たちと、ずっと話をしていました。おっと、その前に日清食品グループ・岩佐広報に、岡村マネへの取材をお願いしましたね。とにかく、挨拶や取材のきっかけ探しで多くの人たちの間を歩き回っていました。
 ナイキの荒嶋さんとは、エスビー食品最後のニューイヤー駅伝出場時の、ある選手の走りについて質問しました(電車の車内で過去の成績表を見ていて気づいたことです)。荒嶋さんは早大競走部出身で元エスビー食品マネジャー。知っている情報があるはずだと予想したのですが、これが大正解。エスビー食品が駅伝に復帰したら使えるネタですね。
 佐久長聖高・両角速先生もいらしていたので、一昨日の日記に書いた佐藤悠基選手の“一皮むけた”強さについて、どう見ているかをお聞きしました。両角先生の分析ではなかったものの、佐藤選手自身がその点について「プロ意識」だと話していたそうです。
 佐久長聖・高見澤勝コーチの話題も出ました。佐久長聖高OBのマラソン最高記録を寺田が質問したら、「もちろん高見澤です」という答えが返ってきたのです。エスビー食品最後の駅伝の重箱の隅ネタに気づいていながら、最近のメジャーなネタに気づかないとは。うかつでした。本人にはしばらく会う機会がないと思うので、友人の方に会ったら謝っておきたいと思います。
 毎日新聞事業部の橋本さんには、寺田が箱根駅伝よりも実業団駅伝の原稿量が多い数少ない記者であることをさりげなくアピール。営業活動も重要です。
 メーカーの人たち、陸連事務局の方、他の記者たちとの情報交換と、話は尽きません(相手は1人ではありませんけど)。

 東洋大・佐藤尚コーチとはスカウトの話題で盛り上がりました。前々日の全国都道府県対抗男子駅伝4区で区間新(区間2位)をマークした延藤潤選手(三木高)が東洋大に入学します。兵庫県ですが西脇工でも報徳学園でも須磨学園でもない選手。坪田智夫選手や大坪隆誠選手、中川剛選手と“兵庫3強”以外の選手もいますが、どうやって見つけたのか知りたいところです。
 詳しくは教えてくれませんでしたが、「2年生の頃から接触していましたよ」と、してやったりの話しぶり。設楽兄弟も、武蔵越生高が全国高校駅伝初出場を決める前に接触していたわけです。箱根駅伝1区の宇野選手の母校だからですが、伝統的に名門校以外の一匹狼的な選手を勧誘するのが東洋大の方針です。箱根駅伝2連勝で、今後はインターハイの上位選手や高校駅伝名門校のエースクラスが東洋大を希望するケースが増えそうですが、「方針は変えない」と言います。
 実際、今度の新入生は上記3人以外も、やりそうな面々ばかりです。
 そうではあっても「来年は早稲田!」という持論を寺田は展開。普通はそういうことをライバルチーム関係者の前では話せないのですが、佐藤コーチの人柄に甘えて話してしまいました。
 何度でも書きますが、現有勢力だけでもキラ星の選手が揃っているところに、全国高校駅伝3区日本人最高の志方文典選手、同駅伝1区区間賞の大迫傑選手が加わります。熊本工高の工藤選手は全国都道府県対抗男子駅伝4区で区間3位。延藤選手とは6秒差の好走をした選手です。ニューイヤー駅伝の日清食品グループのように、強い選手が入ってしっかり走れば、やっぱり強いのです。これだけの名前を挙げられたら、さすがの佐藤コーチも同意せざるを得ませんでした。
 それでも佐藤コーチは、不敵な笑みを浮かべていたように見えました。
 記事になっていないネタも2つ3つ、話してくれました。
 全国都道府県対抗男子駅伝の柏原竜二選手は、脚に痛みを抱えた状態で臨んでいたようです。本番でどこまで影響したかはわかりませんが。同選手の○年後にもちょっとだけ言及してくれましたが、これはまだ書くべきことではありません。
 箱根駅伝の優勝で酒井俊幸監督がクローズアップされましたが、谷川嘉朗コーチの頑張りも大きかったそうです。鬼が笑うかもしれませんが、次回箱根駅伝の展望記事では突っ込みどころの1つですね。こういうネタが入手できるのが、多くの関係者が集まる場に行くメリットです。

 選手たちにも、ちょこちょこと声を掛けます(まとまった取材は不可です)。
 毎日新聞・井沢記者が最後に北村聡選手のところに挨拶に行ったので、寺田も便乗させてもらいました。2月の初マラソン(東京マラソン)、3月の○○の話題に。佐藤悠基選手とは静岡関連の話をしました。
 帰りは広告業界の方お2人と駅までご一緒しました。箱根駅伝の視聴率が高い理由を話し合いました。その内容は日を改めて。


◆2010年1月27日(水)
 昨日の日清食品グループ優勝報告会の会場で、全国都道府県対抗男子駅伝の視聴率が9%とか11%と聞きました(地区や調査会社によって違いが生じます)。箱根駅伝の半分くらいの数字です。半分なら御の字という感じも受けますが、視聴率=実際の人気とは言い切れない部分もあります。あくまでも、そのとき駅伝にチャンネルを合わせていた世帯のパーセンテージです。
 それでもこれだけの数字が取れるのは、都道府県対抗という部分が視聴者の郷土愛精神を刺激するからだと思われます。高校駅伝も各都道府県1代表だから関心を集めるのでしょう。記録の良い順に上位50校がレースをしたら、レベルは上がっても視聴率は落ちるかもしれません。その可能性が高いと思います。
 世界選手権を今よりも高い標準記録制にした方が面白い、という意見をたまに聞きます。1国3人の参加枠を取り払い、短距離のアメリカやジャマイカ、長距離のケニアやエチオピア、投てきの旧ソ連諸国などの選手が大挙して出場できる“リアル世界一決定戦”です。国際陸連がそうできない理由も同じではないでしょうか。普及という部分も重視しないといけませんし。
 NHKの全国都道府県対抗駅伝(男女)や全国高校駅伝放送は、全チームのタスキリレーを映すという方針。一昨日の日記で、中継時の表情のアップが映せないので箱根駅伝ほど感動が伝わらないと書きました。駅伝の魅力(の一部分)は伝わりませんが、全チーム平等方式は確実に視聴率を稼ぐ方法ではあるのでしょう。

 ニューイヤー駅伝も全国都道府県対抗駅伝ほどではありませんが、箱根駅伝に比べれば距離が短いので、1つのチームや個々の選手を丁寧に追いにくくなります(箱根駅伝と比較した場合です)。中盤以降の区間では中継時の選手をアップにできますが、そこは箱根駅伝の若い選手の方が気持ちが表れやすい気がします。
 決定的に違ってくるのはVTR挿入の困難さです(TBSのSディレクターが以前に話していました)。テレビで全国放映されている駅伝の中で、箱根駅伝の一番の違いは放送時間の長さです。1区間あたりの長さと言った方がいいかもしれません。その区間を走っている選手やチームのVTRを入れることで、視聴者は感情移入がしやすくなります。それが生中継との相乗効果を生んで、視聴者が感動するのです。
 レベルの高低よりも、選手の一生懸命さが伝わるかどうかが、視聴者の感動に影響している。尾方剛選手がよく「テレビ局が上手いんですよ」と話していたことを思い出します。テレビ批判というよりも、テレビに助けられて人気が出ているのに、それを自分たちの頑張りだと勘違いするな、という後輩への戒(いまし)めです。

 今日はとんでもないニュースが飛び込んできました。
 午前中にT記者からスズキが男子駅伝から撤退するという記事が毎日新聞に出ているという電話が入ったのが皮切りです。ネットにも出ていました。
 急いでスズキの知り合い2人に電話。現場はまだ、何も知らされていませんでしたが、少しは事情がわかりました。
 夕方になって、男子駅伝からの撤退ではなく、今年度いっぱいで実業団陸上から撤退すると表明したことが判明しました。実際に取材をした記者からの情報では、クラブ制度や地域密着型の運営を目指すビジョンに意欲的だったというよりも、実業団連合との意見の違い、確執が原因だということでした。
 実際はケンカ別れでも、その部分を隠して、大人同士がお互いの立場を認め合って縁を切った、としたがるのが普通です。しかし今回は、記事を見てもそれを隠そうとしていません。実は寺田にも思い当たる節がありました。あの人が話していたのはこういうことだったのか、と。


◆2010年1月28日(木)
 今日も記者仲間からスズキ関係の問い合わせがいくつかありました。なんで寺田に電話が来るのかというと、それなりの理由があるからなのですが、今回のことを知っていたわけでもなんでもないので答えられることは限られていました。
 それにしても、ここまでスズキが思い詰めているとは、考えもしませんでした。スズキこそ、実業団システムに最も理解のある会社だと感じていましたから。
 スズキは同じ静岡県の大昭和製紙の廃部に際して、静岡陸協からの依頼もあってチーム(おもにトラック&フィールド)を引き継ぎました。現在、男子と女子の駅伝チームを持っている会社はいくつかあります(スズキ、四国電力、大塚製薬といったところでしょうか)。駅伝とトラック&フィールドの双方の選手を抱えている会社もいくつかあります(スズキと富士通とトヨタ自動車といったところ)。でも、その全部を持っているのはスズキだけです。実業団登録人数も日本で1、2だと聞いています。
 さらに、実業団競技会伝統の対抗得点を続けているのは、地区実業団では中部地区だけ。国際グランプリ大阪の翌日の中部実業団対抗に河村英昭選手や池田久美子選手が出場していましたし、中部実業団個人選手権(10月に多治見開催)にも出場していました。全日本実業団の対抗戦にも積極的な数少ない企業でした。
 全日本実業団対抗女子駅伝の冠スポンサーでもあります。
 そんな会社がどうして、実業団陸上から撤退すると言い出したのでしょうか?

 スズキが実業団登録しなくなれば、実業団陸上の相対的なポジションが低下するのは間違いないでしょう。特にトラック&フィールドの打撃は大きいです。
 全日本実業団はすでに、トップ選手の一部が出場しなくなっています。専門誌でさえ、ページ数をどんどん減らしています。記者たちが行くのは夏の国際大会で活躍した選手を追いかけることと、冬の駅伝・マラソンで活躍しそうな選手を取材するのが目的になりつつあります。その傾向に拍車がかかるのは間違いないでしょう。
 スズキのトラック&フィールドの選手にとっては、実業団の試合に出られなくてもそれほどモチベーションが落ちることはないかもしれません。日本代表や日本選手権など、目標は設定できます。しかし、長距離選手は違います。駅伝がなくなっても活躍の場があるのは、マサシ選手や松岡範子選手らごく一部だけです。
 経営者の立場になって考えても、駅伝をやらなかったら選手たちを抱え続けるメリットがあるとは思えません(そこの発想を転換していたら別ですが)。
 もしも本当に撤退するとしたら、実業団連合にとってもスズキにとっても、良いことなど何もないのです。

 今回ばかりはそれぞれの言い分をどうこう論じる段階ではないと思います。スズキが振り上げた拳を降ろす場所を用意しなければ、実業団陸上に最も理解のあった会社が撤退してしまうのです。それを認めてしまっていいのかどうか、という段階です。歩み寄る姿勢を見せなければ、そうなります。

 などと、人の心配をしている場合ではなくなりました。
 週末は大阪国際女子マラソンの取材を予定していましたが、今日、日本選手権20km競歩と大阪国際女子マラソンの梯子取材をすることにしました。以前から一度、やってみたいと考えていましたが、マラソンの記事を書くことを考えるとそれもできませんでした。
 今回はマラソンで外部からの依頼がないので、チャンスだと判断しました。森岡紘一朗選手が日本新に意欲を見せていましたし、写真を撮っておけば日清ファルマのタイアップ記事がまたできるかもしれません。
 ところが、夜になって腰痛がひどくなってきました。ここ10日間ほど、引っ越しとその後の荷物整理をずっとやっていて、かなり負担がかかっていたのです。でも、まさかここまで痛みが出るとは思いませんでした。
 腰全体というよりも、ある1点の周辺です。腰を曲げるのがしんどいし、歩くのも痛くてゆっくりしか進めません。寝ころべば痛みはありませんが、座っていてもジワーっと来ます。カメラマンをやるのは難しい症状です。


◆2010年1月29日(金)
 朝起きたときの腰の状態は最悪でした。自力で起きあがるのもしんどくて、14時からの記者会見取材はあきらめました。今回の取材は日本選手権競歩と大阪国際女子マラソンに加え、月曜日にO選手とN選手の対談取材もあります。カメラも使いますし資料もそれなりに多い。それらの荷物を持って移動するのは無理と判断しました。
 外部からの仕事依頼があれば、無理をしてでも行ったと思いますが、体のことを考えると不幸中の幸いです。
 昼頃に少し良くなって、今日のうちに大阪入りだけでもしようかと考えましたが、新幹線が止まっているとニュースで知りました。運転再開のメドが立たないようなので、大阪入りも断念。予約してあった京橋のホテルに電話を入れて、新幹線が止まっていることを告げた上で「キャンセル料を払いますから」と申し出ました。日程短縮の場合は取られることはないと思いますが。この辺はJALとは違います(最近は改善されたそうですが)。

 自己流ですが治療の成果も出て、夕方には外出できるまでになりました。
 カフェで原稿を書いている最中にある指導者の方から「会見に来ていませんでしたね」と電話をいただきました。不在に気づいていただけるのは光栄なことです。
 その電話で、赤羽有紀子選手の会見欠席を知りました。すでにネット上には情報が出ていますが、ギリギリの判断をしないといけない状況なのでしょう。寺田も夜になってまた、腰痛がひどくなってきました。大阪国際女子マラソンは連続取材を続けている大会なので、なんとか行きたいのですけど…。


◆2010年1月30日(土)
 夜遅くに大阪入りしました。
 まずはJR東海に謝らなければいけません。最終の1本前の新幹線(のぞみ)の、13号車最後部座席の床に紙くずを落としたままにしたのは寺田です。申し訳ありません。
 腰を曲げて拾うことができなかったのです。上体は立てたまま膝を曲げて、フルスクワットのような動きをすれば拾えないことはないのですが、降りる直前に落としてしまって拾う時間がありませんでした。JR東海に知り合いはいないので、代わりに藤原新選手(JR東日本)に会ったら謝りたいと思います。

 腰の状態は起床時にはあまり良くありませんでしたが、朝食後に一仕事をしてから、再度3〜4時間横になったら少し良くなりました。大阪までの移動は可能と判断して仕度をしましたが、普段は30分でできる仕度に1時間以上かかりました。緩慢な動きに自分でもイライラします。締め切りを抱えていないのが不幸中の幸いです。
 出発前に赤羽有紀子選手の大阪国際女子マラソン出場を確認。周平コーチのブログにも、経緯と決意の文章が載っていました。決意といっても無理をするというニュアンスではありません。夫妻はベルリン世界選手権でもレース直前に故障があり、それを気にしすぎたことが脱水状態につながったと分析しています(取材でそう話してくれたことがあります)。その反省を生かす好機と考えたのでしょう。
 もちろん、本当にまずいと感じたら途中棄権するのだと思います。

 出発直前にまた、腰が痛くなる場面が多くなったので、陸連H広報に電話を入れました。日本選手権20km競歩は沿道に腰掛けてレースを見るのは難しいことがわかりました。2時間立ちっぱなしは苦しいと思うので、日本選手権競歩には行かずに、座ってテレビ取材ができる女子マラソンの方に最初から行くことになると思います。
 取材申請をしてあった主催サイドに、お詫びの電話を入れないといけません。

 新幹線車内で今日の記事をチェック。最近はN700車両ののぞみで無線LANができますし、10月にNTTドコモのMzoneの定額制契約をしたので時間を気にせず使えます。大崎悟史選手(NTT西日本)にも胸を張って取材ができます。
 大阪国際女子マラソンの他のマラソンとの一番の違いは、主催系列の新聞・テレビが大々的に事前報道をする点です。この盛り上げ方は本当にすごいです。一般の人たちも、ここまで詳細な記事やVTRを見たら興味を持つと思います。
 ただ、盛り上げすぎだという意見もあります。今回の系列以外のメディアの扱いは、かなり冷静です。冬季五輪などとの兼ね合いもあるのでしょう。これが五輪イヤーとかになると、系列以外のメディアも独自の記事を出してくるのですが。

 大阪・京橋のホテルに24時少し前に到着。ほとんどのビジネスホテルはチェックイン時に宿泊料を払います。まさか昨日分のキャンセル料を請求されることはないと思っていたのですが、約8割の金額を請求されました。JALのように融通のきかないホテルです。
 でも、椅子の形状が腰に優しいので我慢します。
 関西テレビで赤羽有紀子選手の特集と、千葉真子さんと高橋尚子さんの展望番組をチェック。
 ぬるめのお風呂に入って、アンメルツを塗って寝ます。


◆2010年1月31日(日)
 大阪国際女子マラソン取材。
 レース前は恒例の指導者取材です。ノーリツ・森岡監督は橋本康子選手(日本生命→セガサミー)を指導していた頃、練習量を多く行っていました。それに対して小崎まり選手は練習量が少ないタイプです。どう小崎選手に合わせた練習をしてきたのかに興味がありました。返ってきた答えは、こちらの記事に反映させました。
 アコム長沼監督にはラストランの小幡佳代子選手(38歳)のマラソン回数を確認。主催紙には26回目のマラソンと出ていましたが、こちらの資料では27回目です。2001年11月の土山での大会が、まったく準備をしないで出場したレースで(ゲストランナー?)、回数に入れていないことがわかりました。
 補欠だったシドニー五輪前に、シドニー・マラソンを下見目的で走っていますが、これは代表選手としての参加ということで回数に入れているとのことでした。
 この写真はレース直前の、小幡選手を見送る長沼監督。右は関西テレビサイトでブログを掲載中の選手招聘担当の松本光正さん。

 レース後は日本人上位3選手がテレビ出演していたので、そのコメントをメモ。有力選手が記者が入れないエリアから出てくるのを待ちましたが、なかなか出てきません。その間に小出義雄佐倉アスリート倶楽部代表に話を聞いていました。
 最初に小崎選手が現れましたが、すぐに会見に移るようでした。それでも、会見の前に三村仁司さんに挨拶をしていました。足元を見るとミムラボのロゴ入りシューズを履いていました(写真)。4月からはadidasロゴになりますから、これは貴重な写真になりますね。
 会見場に行くとすでに、陸連幹部2人の会見が始まっていました。
 続いて小崎選手と森岡監督が同席しての会見(写真)。MCの大阪陸協の方が森岡監督を紹介するときの話し方に、親しみが感じられました。以前に日本生命で監督をされていたので、大阪とのつながりがあったのでしょう。
 小崎選手の次にゴベナ選手とバロス選手が同席して会見。後半の雨と低温がどのくらいタイムに影響したと感じているのか、確認させてもらいました。ゴベナ選手は「2時間22分台くらい」、バロス選手は「2時間23分台を出せたと思う」と話していました。マイナス3分前後ということでしょう。それを他の選手にも当てはめると小崎選手が2時間23分台、小幡選手と木崎良子が2時間24分台ということになります。

 上位3選手会見後に小幡選手の会見があると思っていたら、ありませんでした。木崎選手はカコミ取材を、記者立入禁止エリアの外で行うと主催者サイドが言っていたので、小幡選手はてっきり会見なのだと思っていたのです。公式会見に出てもいいと思える走りでした。
 あとで別の記者から、小幡選手はミックスドゾーンで話をしたと聞きました。おそらく、木崎選手は何らかの事情でミックスドゾーンで話ができなかったため、記者たちからリクエストがあったのでしょう。こういうことはよくありますから、他の記者たちの動向も把握しておかないといけません。失敗でした。
大阪国際女子マラソン関連ネタつづきます

 パーティー(会場の外)で何かしら取材ができるだろうと気を取り直して、元独身ライターのソワっちと大会本部ホテルのニューオータニへ移動。
 パーティーではK監督とビジネスの話もしましたが、基本的には引退した小幡選手に注目していました。取材ができるかな、と期待してきましたが、パーティー会場での取材はNGです。でも、雑談くらいはOKですし、写真も場合によっては大丈夫です。選手や関係者サイドからの依頼されることもありますし。
 ということで、写真を紹介しながら小幡選手ネタを書いていきます。

 パーティー写真@ 表彰式後の入賞者たち。ともに大阪10回目のシモン選手と小幡選手が並んでいます。小崎選手、木崎選手、堀江選手と関西出身トリオも並んでいます。堀江知佳選手は5kmを過ぎて先頭集団から遅れましたがイーヴンペースでまとめて7位。勝負には絡めませんでしたが、後半は一番速かったのです。中間点が1時間14分08秒で、後半が1時間14分21秒でした。
 パーティー写真A 10年前の2000年大会は自己新を出したレース(こちらの記事に小幡選手マラソン全成績)ですが、こうしてメダルを持つ写真があったような気がします。外見はまったく変わっていません。
 パーティー写真B 小幡選手には増田明美さんから、特別にインタビューがありました。2人の共通点は……南関東(千葉と神奈川)出身ということくらいしか思いつきません。
 パーティー写真C 長沼祥吾監督夫妻に囲まれて記念写真。長沼一葉さんと小幡選手が筑波大で同級生。長沼監督が2学年か3学年上です。長沼監督が大学院時代に高地トレーニングに関する研究を行ったのが評価され、営団地下鉄の監督に推挙されました。その縁で学生時代は低迷していた小幡選手も、営団地下鉄に入社できたわけです。
「大学は走れなくて辛い4年間でしたが、当時の人脈があって今があります。当時の私はブクブクで、営団地下鉄以外に誘いはありませんでしたから」
 典型的な縁故入社でしたが、長沼監督が小幡選手の資質を見抜いていたからでもあったようです。昔、そんな話を聞いた記憶があります。
 パーティー写真D パーティーが終わって会場から出ると、大阪陸協の役員の方たちが拍手と歌(何の歌だったのか不詳)で迎えてくれました。大阪に10回出場し、上位にも何回か入っているからですが、それだけではなかったように思います。小幡選手の人柄の良さもあってのことでしょう。寺田が営団地下鉄入社時のことを「営団の英断でしたね」というベタな駄洒落を言ったときも、引かずに笑ってくれました。
 パーティー写真E 最後は大阪陸協の方たちがアーチを作ってくれて、その下を通って大阪国際女子マラソンに別れを告げました。実はもう1シーン、小幡選手の人柄を示すエピソードがありました。小幡選手がパーティー会場を出る直前に国内某マラソン選手招聘担当のO氏(A新聞O氏とは別の方)が、「本当にお疲れさまでした」と言って握手を求めました。そのマラソンは小幡選手が駆け出しの頃に出場していた大会です。長い握手をしている間に小幡選手の目から涙があふれ出ました。小幡選手が去った後、O氏の目にも涙がうっすらと浮かんでいました。ここまで感傷的になるO氏は初めて見ました。

 話は寺田に戻ります。腰痛のため立った状態での取材が厳しいと考えていましたが、右脚に体重をかけていれば大丈夫でした。ある程度動き回っていた方が痛みは出ません。逆に長時間座っていると、立ち上がるのが苦しくなりますし、しばらくは腰を少し曲げていないとダメです。まあ、なんとか取材ができたということです。
 宿泊ホテルに戻ると、昨日徴収されたキャンセル料4000円ちょっとが、「新幹線事故の影響だったお客様からはいただいていません」と、フロントのお姉さんが返してくれました。小幡選手ほどではありませんが、普段の行いが良かったからでしょう。


◆2010年2月1日(月)
 大阪で某大学活動報告冊子用にO選手とN選手の対談。ちょっと年輩の方なら「ON対談か」と感動すると思います。
 名前は明かせないのですが、O選手はオリンピックにも出たことのある実業団選手です。N選手は学生で今はまだ箱根駅伝レベルです。現時点では格が違いますが、将来N選手が日本代表選手に成長すれば、2010年の段階で「ON対談をやっていたのか」と、価値が出る対談だったと思います。

 取材中にあることに気づきました。ツーショット写真を撮っていて何かおかしい。O選手が近くにいるのです。2人とも寺田のカメラからは同じ距離にいるはずなのに。で、よくよく見たらO選手の顔が大きいのに(ちょっとだけです)気づいたわけです。
 それに対してN選手は、180cmの長身選手ですが、よく見ると顔が小さい。
 高平慎士選手や石野真美選手がそうだと言われていますが、顔が小さいのは速く走るのに有利です。N選手はその点をとっても有望といえるでしょう。O選手は走るのに不利なはずですが、そこは根性と創意工夫で克服しています。顔の大きさのわずかの違いが、決定的な要素にはならないことを物語っています。
 対談の様子はいずれ、ネット上にも載ると思うので、そのときは紹介します。

 夕方のこだまで帰京。
 ネット上を見ると、小幡佳代子選手の走りへの反響が大きいです。世間よりも関係者間のインパクトが大きかったのだと思います。評価されてしかるべき走りでした。


◆2010年2月3日(水)
 夜、富士通の「ニューイヤー駅伝報告会兼木内総監督感謝の会」に出席。
 駅伝報告会ということでまず、ニューイヤー駅伝メンバーが壇上に上がって挨拶。福嶋正監督はマラソンに取り組みながらの駅伝だったことを強調していました。これは、ことあるごとにアピールすべき点だと思います。世間一般に対しても社内に対しても。
 マラソンも走って当然なのだという雰囲気になることが重要です。そうしないと選手たちは、駅伝だけで満足してしまいますから。選手の意識形成には、周囲の雰囲気が重要だと思います(箱根駅伝を見れば明らかですね)。

 壇上での挨拶の後、選手たちが各テーブルを回っていました。寺田がいたテーブルには、堺晃一選手と太田貴之選手が来てくれました。堺選手は合宿(どこかの島)で好調だったという情報が入っていたのですが、本人は謙遜気味。昨年10月の北京マラソンに続いて今週末の別大マラソンにも出場しますから、実際はどうだったのかがわかります。
 太田選手も福岡国際マラソンに続いて、3月のびわ湖マラソンに出場します。太田選手も佐久長聖高OB。先日の日清食品グループ優勝報告会で、佐久長聖高OBのマラソン最高記録は高見澤勝選手(現在同高コーチ)の2時間12分10秒と両角速先生から教えていただきました。太田選手に佐久長聖高OB最高記録が目標かと質問すると、「ええ、まあ、はい」という感じの答え方。あまり意識していなかったのか、もっと上の記録(サブテンとか)を目標にしているのか、どちらかでしょう。

 今日のメインは駅伝報告会よりも、「木内総監督感謝の会」だったように感じました。あらためて紹介するまでもないと思いますが、木内さんは富士通の創部以来、監督・総監督として20年間にわたり手腕を振るわれてきたきました。
 最初に、現役時代の写真が紹介されたのには驚かされました。集めた人はかなり苦労されたのではないでしょうか。とはいえ、日本インカレ5000m4連勝など、当時はスーパースターだったと思います。レースパターンも確立されていて、ラスト勝負で勝ち続けたとお聞きしています。
 現役時代の勝負師のイメージとは裏腹に、我々と接するときの木内さんはいつも笑いを取ろうとされていました。シスメックス・藤田監督、日本ケミコン・泉田監督と並び、陸上界の駄洒落好き3巨頭と言われていたくらいです(寺田が命名したわけではありませんので)。今日も、我々のテーブルに挨拶に来られたときの第一声は○○ネタでした。面白いですけど、ちょっと書けません。

 しかし、選手への指導は厳しかったと思います。
 今日、挨拶に立った苅部俊二監督や簡優好先生は、「45秒台を出さなかったらクビだ」と言われていたそうです。後で紹介する笹野浩志選手の話なども合わせて考えると、どの選手にも相当に高いノルマを課していたようです。最近の例を見ていると、2年間これという成績がなければ肩を叩いていたように思います。
 選手たちと対立することもいとわなかった、と聞きました。
 理由までは明かしませんでしたが、苅部監督も97年に意見が衝突し、その年の日本選手権前の合宿に参加しなかったそうです。その日本選手権で400 mHの日本新を出し、木内さんの鼻をあかしてやったという気持ちになったと言います。しかし、最初に握手の手を差しのべてきたのは木内さんで、苅部監督も感じるものがあったようです。
 木内さんがどこまで計算して、それをされていたのかはわかりません。が、ケンカをしてもあと腐れなく、胸襟を開いて人と接することができる人だったのは間違いないでしょう。
 110 mH日本記録保持者の岩崎利彦さんも、現コーチの高橋健一さんも、衝突したことがあったと話しています。対立した人間がそれを普通に話せるのは、その人間の度量の大きさだと思います。

 一番の功績は富士通という日本を代表する企業を、陸上競技へ理解のある企業にしたことです。1989年の創部から20年。正確な数字は後で書き足しますが、140人前後の陸上選手がが富士通に入社しました。その半数がトラック&フィールドの選手です。ここまで多数のトラック&フィールド選手を採用している企業は、近年では他にありません。
 その間、会社の売り上げが落ちて厳しい状況になった時期もあったようです。陸上部の採用が少なくなった時期もあったといいますが、部の縮小などをするような気配は、外部からは感じられませんでした。内部でのご苦労が、ないわけはありません。
 最近特に感じるのですが、会社の内部をしっかりと固められるスタッフがいる会社は、競技も強くなるのだと思います。コニカミノルタの酒井勝充監督、中国電力の坂口泰監督らも、その点に腐心したと話してくれています。

 今夜の出席者は富士通社員が中心でした。岩崎さんや苅部監督といった初期のメンバーをはじめ、歴代の富士通陸上競技部員が全員招かれていたようです。全員が出席できたわけではありませんが、かなりの人数が集まっていました。
 出席した現と元の陸上競技部員を入社年ごとに壇上に招いて行くシーンは壮観でした。オリンピック選手や日本記録保持者から、まったく芽が出なかった選手たちまで、壇上に招きながら紹介していきました(写真)。ユーモアたっぷりに、そして選手の近況もまじえて。
 それを見ていて感動しました。ここまで、選手たちの人生に影響を与えていたのだと。もう少し1人1人の顔がわかるといいのですが、この写真を見たらそのすごさがわかるはずです。これまでで見た感動的なシーンのなかでも、間違いなく上位に来るものでした。
 最後のオリンピックとなった北京五輪には、6人と単独チーム最多人数を代表として送り込みました。醍醐直幸選手には2005年(当時大学卒業後3年目)に声を掛け、翌2006年に同選手が富士通入社。その年に2m33の日本記録を出しました。高平選手と塚原選手という短距離の有望選手をしっかりとサポートしたことで、北京五輪銅メダルのメンバー中2人が富士通選手になりました。最後の集合写真は、木内さん夫妻の両脇をメダリストが固めました。

 会場には元陸上競技部マネジャーの青柳剛さんや、昨年で現役を退いた佐藤光浩さんの姿も。青柳さんは名古屋勤務2年目で、佐藤さんは仙台勤務です。佐藤さんの仕事内容をお聞きしましたが、大企業ではそういう業務もあるのかと、中規模出版社勤務しかサラリーマン経験のない寺田にはビックリの内容でした。
 そうした勤務を頑張っていると、岩崎さんや渡部充さんのハードルコンビのように、社内でのポジションも上がっていきます。渡部さんは慶大OB。横田真人選手の入社にも尽力されたのではないでしょうか。個人的な推測ですけど。
 08年いっぱいで引退した笹野浩志さんにも話を聞きました。何度か日記に書きましたが、1分47秒台を出したシーズンに引退したので、もったいないと思っていた選手です。元々、仕事にも意欲的な選手でした(岩崎さんもそうですが、名門高校出身)。セカンドキャリアを考えての決断だったと聞いていましたが、それも木内さんのアドバイスで最終決断をしたと言います。
「オマエは世界で戦えない。仕事を頑張って陸上部をサポートしろ」と言われたそうです。日本のトップでやっていける選手の肩を叩くのですから、厳しいとも受け取れます。しかし、笹野さんは「それが富士通なんです」と言います。目指すのは日本のトップではなく世界と戦うこと。それを徹底させていますし、選手のその後の人生を考えてのアドバイスでもあったのでしょう。
 会社で頑張ってポジションが上がり、渡部さんのようにポジションが上がれば、有形無形に陸上競部のサポートができるようになります。そういう会社は、業績が多少悪くなっても、陸上部をなくすようなことはありません。駅伝も同じです。旭化成の陸上部がなくなるのは、会社がつぶれるときだと旭化成関係者は言います。カネボウも会社自体は危機的な状況になりましたが、陸上部はなくしませんでした。

 藤田敦史選手も木内さんとの思い出を話してくれました。
「福岡国際マラソンで日本記録を出したとき、舞い上がってしまって、木内さん(当時監督)に挨拶もしないでウイニングランを始めてしまいました。トラックを200 mくらい走ったところで木内さんが追いかけてこられて、こっちも挨拶してなかったことに気づいて、お礼を言いました」
 これは別のスタッフから聞いた話ですが、レース展開をテレビで見ていた木内さんが終盤、「もしも本人が新記録ペースと気づかず日本記録を逃したら、悔いが残るだろうから」と、スタッフに声をかけることを徹底させたそうです。
 藤田選手はトレーニング面での指導にも言及してくれました。
「大学を卒業してすぐの頃、ジョッグの日は軟らかい場所を走るように言われたんですが、僕はロードのリズムを大事にしたかったので、『何言ってるんだ』と思ってロードを走っていました。今から考えると、木内さんの言うことを聞いていれば、(慢性的な)アキレス腱痛に悩まなくても済んでいたかもしれません」
 マネージメントの功績が大きい指導者ですが、トレーニング面でも慧眼の持ち主でした。
 次の役員改選までは陸連の仕事は続けるとお聞きしましたが、ずっと陸上界と関わっていってほしい方です。


◆2010年2月7日(日)
 別大マラソン取材。
 今年からコースが変わって「うみたまご」という観光施設(別大マラソン中継中によく紹介される猿山の近く)からのスタートに。スタート地点に行くと、フィニッシュ地点の大分市営陸上競技場に移動する間のレースが見られない可能性があるので、行くかどうするか迷いに迷いましたが、変更1回目ということで行くことにしました。ペースメーカーのつく最近のマラソンは、前半はそれほどあれですから(だから視聴率が落ちる? という説も)。
 大分市営陸上競技場に一度行き、10:30発のバスで一路「うみたまご」に向かいました。車内から風の吹き具合を見る限り、それほど強くなさそうです。
 うみたまごは思ったよりも大きな施設で、選手の着替える場所やウォーミングアップの場所も確保できます。この辺は、日本のマラソン主催者はぬかりないはずです。報道陣は選手の表情も近くで見られるのでありがたかったです。実業団駅伝同様、毎日新聞主催のいいところです。それに甘えて記者たちがスタート前の選手に声を掛けたりはしません。
 レース前には他の記者たちと一緒に、森下広一監督の話を聞きました。犬伏孝行ヘッドコーチからは、井川重史選手のネタを仕入れました。最近のエピソードでは、9月中旬に中足骨を疲労骨折した同選手が、1カ月ちょっとで走れる状態に戻してきたといいます。意識の高さを物語っているということで、井川選手の記事を書く際には使えそうなネタです。昨日のうちに大塚製薬の先輩である岩佐敏弘選手や細川道隆選手との違いも、取材させてもらっていました。

 スタート地点真上の歩道橋から、別府方面を撮った写真がこれ(スタート直前は取材不可なので、ちょっと前に撮りました)。さすが観光都市という感じの風景です。ちなみに、三菱重工長崎・黒木純監督がスタート前にうみたまごの2階から別府湾を眺めていました。長崎の海とどちらが綺麗かと質問しましたが、その答えは……書くまでもありませんね。
 景観の良い長崎でのロードレース開催が望まれるところですが(これは寺田の個人的な意見で、黒木監督や十八銀行・高木監督のご意見ではありません)、大きな道路がないのが難点です。長崎とハウステンボスを結ぶコースとか、とれないのでしょうか? と思ってマピオンで距離を検索したら64kmもありました。
 仮に大規模なロードレースを開催するとなるとベッド数も重要になりますが、長崎&ハウステンボスなら宿泊施設は多いと思うのですが。
 今思いついたのですが、ハウステンボス・マラソンとか、東京ディズニーランド・マラソンとか、いけるかもしれませんね。
 ハウステンボスの地図を今見たのですが、道幅とかどうなのでしょう。大衆マラソンを行えるほど広くないのでしょうか。ハウステンボス内の周回だけではもちろん無理で、スタート地点とフィニッシュ地点、あるいは中間点も加えて3回くらいハウステンボスを走るようにコースを設定すれば面白いと思うのですが。
 赤字で苦しんでいるという報道がちょっと前にありました。大衆マラソンを開催して、その参加者はホテルに1泊1万円くらいで泊まれるようにしたらどうでしょう(通常は安くても1泊3万円とかです)。リピーターも増えると思いますし、良い宣伝になると思うのですが。

 話が逸れました。せっかくうみたまごに行ったので、スタートの写真( )も撮影。朝日新聞・増田記者と一緒にアップのときから、別大マラソンに出場している東京中日新聞・川村庸介記者を探したのですが見つけられませんでした。
 増田記者は今回はカメラマンも兼務。普段から白いライカを首に下げている写真好きの記者です(ファッションもキメていて、かなりのお洒落記者。駄洒落もあまり言いません)。昨年の福島千里選手の100 m日本新(スプリント挑戦記録会 in TOTTORI)の際は、同記者の写真が朝日新聞にデカデカと載りました。世界選手権前の特集でも。今回も「初マラソン日本最高が出たら、俺の写真がずっと載ることになる」とはりきっていました。
 などと、あまり同記者のことを書くとまた、Hデスク(さすらいの○○デスク)から抗議のメールが来るのでこの辺でやめておきます。話がまた逸れていますし。
※別大マラソン取材ネタが続きます

 スタート後はバスで大分市営陸上競技場に。車内でもテレビ中継を見ることができたので助かりました。15kmの手前くらいで陸上競技場のプレスルームに到着してからは、いつもと同様の取材パターンです。
 レース後は三津谷祐選手が最初に会見室に誘導されましたが、ちょっと段取りのミスがあって後回しに。その間に日本人2位の林昌史選手と中本健太郎選手のカコミ取材ができたのはラッキーでした。
 続いて優勝したキプコリル選手の会見。気になっていた1万mの記録と、海外のメジャーマラソンに出ていない理由を質問しました。1万mの記録がないのは予想通りで、ロードレース専門に近いランナーだったからです。ときどきあるパターンです。ロンドンやシカゴには「出させてもらえないのか?」という質問には、「そうではなくて、出る準備ができたら出たい」と話していました。力がないうちに出て下位で走るよりも、格下のマラソンでも優勝争いをした方が良いという判断でしょう。色々な意味で。
 続いて日本人1位の井川重史選手の会見。犬伏孝行ヘッドコーチも同席してくれました。時間があったら一問一答か、コメントを整理して記事にしたいと思います。陸マガ記事はちょっと別の方向から書くことになりそうなので。
 公式会見は優勝者と日本人1位の井川選手で終了。三津谷選手は順位が下過ぎたためか、公式会見の間に隣の部屋でカコミ取材が行われていました。注目度を考えたら公式会見に呼んでくれても良かったと思うのですが…。急いでいる社があったのかもしれませんし、選手を待たせたらいけないという配慮だったのかもしれません。
 三津谷選手と森下監督のコメントはH記者と、公式会見2選手のコメントと交換しました。「脚に来て止まってしまいました。想像していたとおりです」というのが三津谷選手の第一声だったそうです。森下監督によれば、40km走では後半の失速が続いていたそうです。昨日の話とはニュアンスが違いますが、その点は後で触れます。
 会見後も廊下で粘っていたおかげで、河野匡大塚製薬監督と、ダニエル・ジェンガ選手のカコミ取材をすることができました。特にジェンガ選手からは、ヤクルト・チームとして頑張った部分や、自身の将来についてもじっくりと話してもらうことができたので、いずれ取材や記事に役立てられそうです。ただ、早くしないとH井記者(硬派記者と大阪国際女子マラソンのブログには書かれていました)に先を越されてしまうかもしれません。

 大会本部ホテルに移動して表彰式とさよならパーティーに出席。
 ヤクルト・奥山光広監督には林選手がこのところ、安定している理由を取材。これは陸マガ記事に反映させます。「今回の練習はいつもの半分」と前日の会見で話していた諏訪利成選手にも取材。2時間13分16秒という結果だったので、おそるおそる話を聞きましたが、「上出来です」という第一声で安心して、どんどん突っ込ませていただきました。これも陸マガ記事に。
 念のため書いておくと、取材は表彰式やパーティーが終わった直後に、パパッと行なっていますので。決してパーティー中にはしていません。
 三津谷祐選手と森下広一監督にも話を聞くことができました。囲み取材時コメントを教えてもらっていたので、さらに一歩突っ込んで質問できたと思います。実は表彰式前に10分くらい集中する時間があって(寺田がです)、陸マガ記事のアウトラインというか、キモの部分を決めることができました。それでポイントを絞って、集団から後れてからの走りについて聞くことができたかな、と思います。

 森下監督からはマラソン練習について色々とお聞きしました。トラックとの動きの違いや、三津谷選手と同様に集団から後れてからの走りについても。その間に森下監督から、昨日のコメントについて申し訳なかったというニュアンスの言葉をいただきました。特に40km走の練習内容を、正確に話せなかったことを指しているのでしょう。
 その点はこちらも心得たところです。試合直前になって弱気なコメントができないのはわかっています。選手や指導者も、ウソを話しているわけではないのです。仮に練習内容に不満があっても、結果が出るまでは極力、前向きに解釈しようとするわけです。今回の三津谷選手でいえば、40km走の後半で大きくペースダウンしたそうですが、三津谷選手はその点を「我慢する練習ができた」と考えるようにしていました。
 そういう練習ができていれば、いざレースになったとき、三津谷選手の持ち味であるスピードや勝負強さ、集中力と融合して好結果が出る可能性もあったのです。
 そういった点を理解できず、選手や指導者のコメントを表面だけで追っているようでは記者は務まらないと思います。レース前のコメントから実際の練習内容の良し悪しまで推測することはできませんが、結果が出た後の取材中に“そうだったのか”と感じられる能力は必要だと思います。

 深夜まで陸マガ・カラーページ用の原稿書き。井川選手と三津谷選手の初マラソンを2ページで書きます。短くまとめる必要もあり、初マラソンへのトレーニングというテーマに絞りました。それでも、力みに力んでしまい、100行と短いのに書き上げたのは3時に。


◆2010年2月8日(月)
 朝の8:30から大分市内某所で井川重史選手の単独取材。カラーページはすでに書き上げてあったので、モノクロのレースドキュメント・ページ用の取材が中心でした。約30分のインタビュー。
 しかし、昨日の会見中のコメントで1つ、解釈を間違えていたものがあって、カラーページを大幅に手直し。10時の締め切りに30分後れてしまいました。
 かなり力んで書いたので少しだけ休憩。その後、モノクロのレースドキュメント100行を一気に書き上げました。井川選手だけでなく三津谷選手やその他の選手についても触れていますが、あちこちに話が飛んでいる印象にはならなかったと思います。続いて60行で諏訪利成選手、林昌史選手、中本健太郎選手の3人を書き上げました。締め切りの15時に遅れること8分と、許容範囲内(?)で仕上げました。

 昨日は別大マラソン以外にもニュースがありました。
 パーティーから部屋に戻ってネットをチェックすると、丹野麻美選手結納記事が目に飛び込んできました。「えええぇぇえー」と、人目もはばからずに驚きました。すみません、1人で部屋にいるときでしたから人目はありませんでした。
 選手のプライベートな情報は知らなくて当然ですが、昨秋の日本選手権リレーの際に川本和久監督が「丹野結婚とか? ないない」と話してくれたのです。10月25日の日記に次のように書きましたね。

 今年も何かあるのなら先に聞いておきたいと思い、会場入りしてすぐにナチュリルのテントに(スタンド裏なので正確にはテントはありませんが慣用句です)。川本和久監督に聞くと「T野結婚とか?(笑) 今年はないですよ」とのこと。

 しかし、これも川本監督がウソを言ったわけではありません。寺田の質問が「昨年の木田真有選手の結婚発表や、一昨年の杉森美保選手のナチュリル退社の発表のようなことが、今回もありますか? 花束贈呈などがあったら、写真を撮る手配をしないといけないんですが」という質問でした。実際、そうしたことはありませんでした。コメントの受け取り方については、昨日の日記に自分で書いたばかりですね。
 それは寺田も理解していたつもりですが、実際に結婚の報に接してうろたえてしまったわけです。

 お相手は福島大の先輩で“千葉”という名前の方だそうです。寺田は記憶力が良いので、福島大で千葉といえば記憶がありました。青森出身だけど千葉、とか覚えていましたね……すみません、それは女子選手です、400 mHの。
 実は丹野選手とはまったく関係ないところで、川本監督が千葉選手のことを話していた記憶がありました。「○○(種目名)がどうやったら跳べるか、勉強しないと」といった種類の話でした。
 ただ、福島大の歴代記録リストを見ると千葉という名前の選手が2人います。どちらかはわかりませんし、他にもいたかもしれません。

 実は同じような話が小幡佳代子選手の結婚のときにもありました。こちらの日刊スポーツのスクープ記事をまずご覧ください。
 2008年の2月ということなので、その年1月の大阪国際女子マラソン後のパーティーでのことだったと思います。小幡選手が結婚されると長沼監督か誰かから教えてもらったので、相手は誰? と小幡選手本人にお聞きしました。名前は明かしてくれなかったのですが、営団地下鉄時代の同僚で、マラソンの記録が2時間何分くらいで、というヒントを教えてもらいました。
 そこで寺田は外のクロークに走り、パソコンを取り出してデータベースで検索。藤原呂圭選手のことだと特定できました。再度パーティー会場に戻って、「イニシャルはFとかTとかですか?」と突っ込みました。小幡選手は「さあ、どうでしょう」ととぼけていましたが、反応の仕方は肯定しているようなものでした。まさか、あの程度のヒントで特定されるとは思わなかったようです。
 プライベートなことですし、そのうち発表すると聞いたのでそれ以上は詮索しませんでしたが、そうこうするうちに日刊スポーツ・佐々木記者に先を越されてしまったのです。ちょっと悔しかったですね。
 すみません。今回の丹野選手とは同じではありませんでした。


◆2010年2月9日(火)
 原稿を書き終えてからでなんですが、別大マラソンのリザルツをじっくりと見ました。東京中日新聞・川村庸介記者は2時間34分18秒で66位。陸上記者のなかでは最速タイムでしょうか? 元箱根駅伝ランナーの記者も何人かいるのでなんともいえませんが、記者の仕事をこなしながら走り込めるかどうかがタイムを左右します。そういう意味では尊敬すべき存在です。
 川村記者の所属は一橋陸上競技倶楽部。クラブをカタカナでなく、倶楽部と漢字で表記すると何となく格調が感じられます。今回のタイムが一橋大学OB最高記録かどうかは知りませんが、スプリットを見るとものすごいイーヴンペースです。
▼川村記者の5km毎の通過&スプリット
5km 0:18:02 18:02
10km 0:36:05 18:03
15km 0:54:18 18:13
20km 1:12:49 18:31
中間 1:16:51  
25km 1:31:06 18:17
30km 1:49:19 18:13
35km 2:07:34 18:15
40km 2:26:04 18:30
42.195km 2:34:18 08:14

 川村記者の前後の選手を数人見てみましたが、40kmまでの5kmは20分、21分かかるのが当たり前。最速スプリットと最遅スプリットの差は29秒です。これは全参加選手中最も小さいタイム差という可能性も否定できませんが、そこまで調べるほど暇ではありません。
 それにしても、ここまで頭脳的なレースを展開できるとは思っていませんでした。ただ、本当に力を出し切ったのかどうかという疑問は残ります。17分30秒くらいで入って、なだらかな右下がりのスピード曲線を描くようにした方がフィニッシュタイムは速くなるはずです(風の影響もありますが)。
 仕事柄、レース翌日に筋肉痛で歩けないとか、体調不良で取材ができないという事態は避けないといけないからかもしれません。

 昨日の日記で丹野麻美選手の結納記事に驚いたと書きましたが、もう1つ、驚いたニュースが別大マラソンの日にありました。丸亀ハーフマラソンの日本人トップに小川雄一朗選手(カネボウ)が1時間01分53秒で入ったことです。
 正直、小川選手の名前は知りませんでした。仕事柄、ニューイヤー駅伝の結果は頻繁にチェックしますが、カネボウの小川選手という名前を見た記憶はありません。マラソン取材のときはニューイヤー駅伝公式ガイドを持ち歩いているので、さっそくカネボウのページを開きました。
 1987年5月21日生まれの22歳。5000mが14分10秒67、1万mが29分07秒30。入社後、ニューイヤー駅伝には一度も出場していません。
 記録の出やすいコースなのでタイムだけでは評価が難しかったと思いますが、絶好調の高林祐介選手(駒大)やチームの先輩の入船敏選手に勝ったのですから、いきなりのブレイクと言っていいでしょう。本当にビックリです。

 でも、こういう選手は高校時代に活躍している可能性もあります。出身は強豪の豊川工高(愛知県)。寺田はインターハイや全国高校駅伝の成績も持ち歩いています。インターハイの中・長距離種目の決勝には出場していません。
 駅伝は豊川工高が3位となった2005年に3年生ですが、5区で区間23位という順位。1区は2年生の清水紀仁選手で、3区は1年生(国体少年B3000m優勝)の三田裕介選手、4区は3000mSCの岡部寛之選手でやはり2年生。
 2年時の2004年はチームは全国2位ですが、小川選手は走っていません。
 チーム内でもエース格ではなかった選手ということですが、ひょっとしたら記録だけはすごいタイムを持っていた可能性があります。東京に戻ってから陸マガの全国高校駅伝直前号の付録をチェックすると、5000mは14分37秒53がベストでした。チーム内では8番目。まったく、すごくありません。
 うーん。どういう経緯、理由でカネボウがスカウトしたのか、興味がわいてきました。音喜多監督に会ったら突っ込んでみたいと思います。179cmの長身選手ということが関係しているのでしょうか?


◆2010年2月10日(水)
 1月末から続いている腰痛が2月に入って少しは良くなったのですが、痛みの場所が背中の左側に変わってきて、「これは腎臓かどこかの結石だろう」と判断して病院に行きました
 先にレントゲン写真と尿検査をしてから医師の診断です。レントゲンの写真に石らしい影は見あたらず、尿検査の結果にもまったく異常はないということで、ドクターは最初から「問題ないですね」モードの対応。
 一応、エコー(超音波?)の検査もしてやはり異常なし。
「腰掛けている姿勢から立ち上がるときなんか、しばらく腰を伸ばせないくらいに痛いんですよ」
「それだったら内臓ではないね。内臓は動きと関係ないから。痛みが取れないようだった○○外科だね」
 こちらの不安を取り除こうとしているのか、軽い口調で話してきます。
 まあ、こちらも内臓ではないとわかって気が楽になりました。
 陸マガ記録集計号の名鑑の作業がすでに佳境に入りつつありますが、拍車を掛けて頑張れるでしょう。


◆2010年2月12日(金)
 今日は2つのニュースが気になりました。
 1つは大阪マラソン開催が決定したこと。2011年の10〜12月に第1回大会が開催されるということです。ずいぶん前から話は出ていましたし、先日の大阪国際女子マラソンの表彰式の際にも大阪府知事がその旨、壇上で発言していました。
 今日の記事では大阪国際女子マラソンとの兼ね合いをどうするかが、明記されていません。エリートの部が設けられるのかどうかも。陸連側からも何も発表はありません。
 開催時期からするとエリート(国際大会の選考レース)のことはあまり考えていないような気がしますが、短期間に2つのマラソンを1つの都市で開催できるかどうか。それが可能なら、東京国際女子マラソンも横浜に移らずにすんだのです。大阪がランニングに理解が深いというのなら、是非とも大阪国際女子マラソンも残してほしいと思います。
 こちらの記事にもあるように、大都市での大衆マラソンを開催すれば、歓迎ムード一色になります。盛り上がるのはいいことですが、留意してほしいのは既存の大会を支えてきた人たちへの配慮です。大阪国際女子マラソンをここまで発展させてきたのは関西テレビと産経グループの熱意であり、参加した選手の頑張りであり、主管してきた大阪陸協や補助員たちのサポートです。

 もう1つはHISがハウステンボス経営支援に合意したというニュース
 陸上競技とは直接関係ありませんが、先日の日記でハウステンボス再建策として、大衆マラソン開催を提案したばかりでした。なんというタイミングの良さ。
 記事によると、ハウステンボスは設立以来一度も黒字になったことがないとか。だったらなおさら、ですね。ハウステンボス=ランニングの街というイメージ作りに成功すれば、安定した集客が見込めるのでは? そんなに甘くない?
 ハウステンボスはオランダの街並みを模して造られています。ロッテルダム・マラソンと提携するとか、ナイブール(オランダ人で1980年に2時間09分01秒と当時の世界歴代2位。宗茂選手の記録を数秒上回りました。青梅マラソンでも優勝しましたが、オープン参加の瀬古利彦選手に負けました)を呼ぶとか、長崎の実業団チームとタイアップしてランニング教室をするとか。
 ナイブールはともかく、あとの2つの案は現実的だと思うのですが。


◆2010年2月13日(土)
 小川雄一朗選手の情報を数人の方が寄せてくださいました。ありがとうございます。
 小川選手は豊川工高から亜大に進んだ選手でした。2年時(2008年1月)の箱根駅伝では7区で区間5位(チームも5位)。1年時には出場していません。亜大が優勝した後の4月に入学した学年になります。
 カネボウ・サイトの同選手プロフィール欄の写真も、亜大のユニフォームで走っている絵柄でした。2008年入社となっていますから、2年で大学を中退して実業団選手としての道を選択したわけです。どういう事情、経緯だったのかは人づての情報は書けませんので、やはり音喜多監督に確認しないといけないでしょう。

 関東の大学を中退した選手では大森輝和選手や中尾勇生選手が頑張っています。丁寧にチェックするともう何人かいますが、おそらく、一流大学での箱根駅伝路線からドロップアウトした選手は我々が気づく以上に多くいるのだと思われます。これは長距離に限らず一般種目の選手にもいえるでしょう。残念なのはそういった選手のほとんどが、陸上界から去ったり競技力が落ちてしまうことです。
 競技力が落ちたことが“路線”から外れる要因になっていることも多いので、そういった選手が再度、力をつけるのは大変なことだと思います。“路線”から外れると競技環境が悪くなることもほとんどです。
 ただ、なかには指導者と“合わなかった”ことが要因で“路線”から外れた選手もいるわけで、そういった選手は意地を見せてほしいですね。今読んでいる「4スタンス理論」(ベースボール・マガジン社)によれば、動きに関する感覚が指導者と選手で違ってしまい、それが原因で伸び悩むことも多いのだそうです。
 指導者側も、自分や自分のチームとは合わなかったけど、去った選手が頑張るなら応援したいと思っているケースもあるように思います(ありますよね)。

 バンクーバー冬季五輪が開幕しました。
 陸上担当記者のなかにも、現地に行っている記者、日本で“受け”をしないといけない記者といるようです。“受け”というのは社内にいて、現地から送られてくる記事を補足する情報を加えたり、訂正や見出しづけや写真選びなどの編集作業をすることです。“内勤”ともいわれ、現場取材にやり甲斐に感じている記者は敬遠したがる傾向があるようです。
「千葉国際クロスカントリーに○○選手が出れば、そっちの取材に行けるのに」と言っていたのはH紙のE記者ですが、果たして明日は千葉に来られるのでしょうか?
 K通信の前陸上競技担当のM記者は、バンクーバー臨時支局長だと聞きました。日刊スポーツ・佐々木記者もバンクーバーです(北京五輪ではチーフでした)。得意のスクープ記事が紙面を飾るでしょうか。

 佐々木記者といえば8日の日記で小幡佳代子選手の結婚をスクープしたことを書きました。醍醐直幸選手の結婚のときも、してやられましたね。情報自体はこちらの方が早くつかんでいたのですが、ネタを富士通にぶつけるという正面突破を佐々木記者がするとは思いませんでした。周辺取材で裏をとるときと、正面突破をするときの使い分けが上手いのでしょう。
 高橋尚子選手の引退発表や、渋井陽子選手のベルリン世界選手権欠場を、公式発表より先に記事にしたのも同記者です。この2つは正面突破ができない類のスクープですから周辺取材だったはずです。
 寺田の場合は正面突破が多いです。特に人事ネタは複雑な事情がからんでいることも多く、当事者の了解をとってから出すようにしています。金丸祐三選手の大塚製薬入社も9月頃に聞いていました。10月1日にどこかの新聞が報じるかと思っていたのですが、記事が出ませんでした。河野匡監督に電話をすれば「決まったよ」という言質を得られるかもしれません。
 新潟の国体会場から同監督に電話を入れましたが公表できない段階だったようで、はっきりした事実はつかめませんでした。逆に「佐々木記者から聞いたの?」と質問されてしまいました。“抜きの佐々木”として名前が浸透しているのでしょう。
 冬季五輪が終わったら陸上競技担当からも外れるということなので、今のうちに持ち上げておきたいと思います。


◆2010年2月14日(日)
 千葉国際クロスカントリーの取材に。
 現地に着くまでに2人ほどマラソン業界関係者の方(1人は記者)と一緒になり、新設される大阪マラソンと大阪国際女子マラソンの兼ね合いがどうなるか、話を聞かせてもらいました。昨日も在阪の某記者に電話をして情報を入手しています。
 それらを総合すると、
@来年の大阪国際女子マラソンの実施は決定している(大阪マラソンの第1回は2011年10〜12月ですから当然です)
A現時点ではエリートマラソンを一緒に行うという話は表面には出ていない(水面下ではわからない、ということです)
B将来的にどうなるかはわからない

 現時点で2011年に大阪で2つのマラソンが実施されるのは決定しています。東京もずっと男女2大会を開催してきましたが、結局、年に2回のマラソンはダメとなりました。交通事情が主な理由になっていますが、男女を一緒にやろうとする力が働いたのかもしれません。
 大阪がどう判断するか。2つのマラソン開催を続ければ、東京との違いがはっきり示せます。3万人規模のマラソンとレベルの高いエリートマラソンを1つの都市で開催すれば、世界的にも例はないのでは? 東京とも、海外大都市マラソンとも違う。大阪にとっては良い話ではないでしょうか。

 昭和の森に到着したのは中学男子のレース後半。打越雄允選手が優勝したので、会見テントに顔を出しました。父親はJR東日本コーチの打越忠夫コーチです。
 打越コーチとの関係なども聞きましたが、走高跳1m88のバネを生かさないのか、ということも再度聞きました。ジュニアオリンピックのときにも聞いていましたが、某専門誌O編集者からの情報だったので、本サイトに掲載するのは自粛しました。
 “二世選手”という視点だけで扱うのは好きではありませんが、実力が伴っている場合はしっかりと取材をします。記事も書きました。
 ジュニア男子8000mは西池和人選手(須磨学園高)が優勝。2位に大迫傑選手(佐久長聖高)、3位に留学生のカルノ選手(仙台育英高)、4位に1年生の両角駿選手(佐久長聖高)。日本の上位3選手が異なる学年だったことと、西池選手が佐久長聖高OBの村澤明伸選手が憧れであり目標であると話したことで、記事の視点ができてきました。ただいま鋭意執筆中です、が筆の進み方は鈍いです。

 ジュニア女子は伊沢菜々花選手(豊川高)がスタートから独走。前回の2位、インターハイ3000m優勝、全国高校駅伝1区区間賞と実績を重ね、自信がついたのか、プレッシャーがなくなったのか。フィニッシュでは2位と7秒差でしたから、周りも完全に独走を許したというわけではなかったのですが。
 伊沢選手の会見にも出席。順大進学を決めた理由などを聞かせてもらいました。鯉川なつえ監督の熱意が一番の理由だそうです。「この監督なら一緒に世界を目指してくれる」と感じたそうです。

 シニア男子12000mはカロキ選手、ムクレ選手、ディランゴ選手と在日ケニア選手が3位までを独占。4位に鎧坂哲哉選手(明大)が入って、世羅高現役&OBが上位4選手中3人を占めました。
 日本選手2位以下は野口拓也選手(日体大)、出口和也選手(同)、大石港与選手(中大)、早川翼選手(東海大)と学生が上位を独占。実業団勢では門田浩樹選手(カネボウ)の9位が最高。今年から世界大学クロスカントリー選手権(4月11日・キングストン=カナダ)に選手を派遣することになり、今大会が唯一の選考会。それが学生選手のモチベーションになったのか、別に理由があるのか。今日一番のビックリでした。
 選考対象学年は現時点での1・2・3年生と、大学院に進学予定の4年生。4月から学生の伊沢選手らは選考対象になりません。レース前に今日、学連がから代表発表があると聞いていたのですが、新入生をどうするのかは聞いていませんでした。玉川大・山下誠監督に「どうなるんですかぁ?」と勢い込んで質問すると、「聞かれると思っていましたよ」という反応。次は、予想できないような質問をしようと思います。

 注目の佐藤悠基選手は18位。日清食品グループ岡村マネジャーに話を聞くと、この大会は調整をしないで出場したとのこと。そういえば工藤一良コーチが、佐藤悠基選手の調整法はかなり練習を落とすと話してくれたことがありました。全国都道府県対抗男子駅伝、千葉&福岡両クロカンと調整をしたら、追い込む練習をする時期がなくなるという判断のようです。

 シニア男子のレース後は関係者が集まっているスタート地点に行きました。女子のレースの間も男子長距離関係者に話を聞いたりしていました(岡村マネジャー取材もそこでしました)。
 伊沢菜選手取材中に話の出た鯉川監督にもお会いしました。著書の「「4スタンス理論」」を読む約束をしていたのですが、読み終わっていませんでした。「ハンマー投まで読みました」と弁解しましたが、ぐずぐずしているうちに陸マガで取り上げられてしまいました。反省しています。
 小川雄一朗選手(無名選手でしたが丸亀ハーフマラソンで日本人1位)のことも知りたかったので、カネボウ関係者を捜しました。予想通り、背の高い高岡寿成コーチを一番に見つけられましたが、音喜多監督は来られていないとのこと。アメリカへのコーチ留学を希望していることが新聞記事に出た高岡コーチによれば、小川選手の亜大中退と実業団入りは個人的な事情もあってのことのようです。なぜカネボウなのかは、音喜多監督に確認しようと思います。
 同じ長身ですけど、高岡コーチとは違って、どちらかといえば長い距離が得意なタイプだそうです。びわ湖マラソンにも出場するようなので、密かに注目したいと思っています。

 女子のレース後にフィニッシュ地点に戻ると、ちょうど勝又美咲選手のカコミ取材が始まったところでした。個人では初の全国タイトルであることや、将来的にはマラソンに取り組みたいこと、尾崎好美選手の世界選手権銀メダルで意識が変わったことなどを話してくれました。
 確か2年前の横浜国際女子駅伝のときでした。全日本実業団対抗女子駅伝の1区で区間賞を取り、トラックでも好タイムを出し、山下佐知子監督も同選手をプッシュしていたので、会見で寺田が「日本のトップクラスという評価ですが…」と前置きを言って質問をしたら、首を横にプルプル振っていたそうです(日刊スポーツ・佐々木記者の目撃談)。
 その頃と比べたら、意識面でかなりの違いがあると感じました。

 勝又選手といえば全国中学駅伝で2回、全国高校駅伝で1回の優勝をしています。全日本実業団対抗女子駅伝でも2位と3位が1回ずつ。つねに駅伝強豪チームに身を置いてきました(大学だけ違いますが)。体格にも恵まれて、個人的も期待の大きかった選手がようやく、花を咲かせようという段階になってきました。
 面白いことに全国高校駅伝2連勝を達成した伊沢菜々花選手も、順大入学後は個人で頑張りたいということを強調していました。
 かなり個人的な意見ですが、駅伝に優勝することで「勝たないといけない」という気持ちの足かせから解放され、個人で頑張ることに意識が向かっていくケースがあるのだと思います。名前は書きませんが、男子のF選手やM選手、O選手やS選手も、駅伝優勝後に記録を出したりメダルを取ったりしています。サンプルが少ないので言い切ることはできませんが。
 結果的に個人の力を上げることで、駅伝でも楽に勝てるようになる好循環も生まれます。90年代の旭化成や近年のコニカミノルタがそうだったと思います。
 今、思い出しました。旭化成の佐保希選手とか、典型的な例だと思います。93年のニューイヤー駅伝1区で区間賞を取って、トラックで27分台を連発して、世界選手権シュツットガルト大会の代表になりました。
 森下広一選手や油谷繁選手は個人の成績が先で、駅伝の優勝が後ですから、全ての選手にあてはまるわけではありませんけど。

 取材後にシャトルバスで土気駅に移動。千葉クロカンの日は記者たちのたまり場になるモスバーガーで一緒に原稿書き。打越雄允選手の記事を書き上げ、ジュニア男子の記事にも取りかかりましたが、19:14発の東京直行電車で移動しました。車内では毎日新聞・井沢記者から“毎日新聞のいろは”を教えてもらいました。
 買い物をして自宅に戻ったのは22時過ぎ。バンクーバー冬季五輪でフリースタイルスキーの女子モーグルで上村愛子選手が4位となり、インタビューを各局が繰り返しオンエアしていました。
 上村選手は4大会連続五輪出場で7位・6位・5位・4位。
「なんでこんな、一段一段なんだろう」
 というコメントが、聞いている我々の涙を誘いました。
 寺田は油谷選手のアテネ五輪時のコメントと同じだと感じました。01年のエドモントン世界選手権、03年のパリ世界選手権、そして04年のアテネ五輪と3大会連続5位入賞。
「また5位かよ」
 吐き捨てるように言った油谷繁選手ですが、生来の人の良さから、吐き捨てた感じがいまひとつ出ていませんでした。それが、我々の胸を打ちました。
 この5位は絶対に評価しないといけないと思いました。
 順位を上げてきた上村選手と違うとは、寺田は思いません。


◆2010年2月15日(月)
 昨日の千葉国際クロスカントリーには、別大マラソン出場を紹介した東京中日スポーツ・川村庸介記者も来ていました。2時間34分18秒は一橋大OB最高記録ではないそうです。
 陸上記者最高記録かどうかも、現時点では不明です。その可能性のある記者として川村記者が挙げていた1人、某専門誌のSライター(東農大OB)はサブスリーがまだないと言っていましたが、早大競走部OBの読売新聞・近藤記者(袖ヶ浦のプリンス)や中日新聞・桑原記者の記録がわからないことには断定できません。
 前半のペースが遅すぎたのではないか、という寺田の指摘に対しては、次のように言っていました。
「もともと今回のレースは2時間35分切りが目標で、そのために3分40秒、18分20秒を刻むという設定でした。後半の失速が予想より少なかったという点がうれしい誤算ですが、想定通りであり、力を出し切ったレースでした。ただ、今回持ち記録が悪く、後方からのスタートでそもそも17分台の集団に追いつけなかったというのも、今になって思えばありました」
 話を聞いていてすごいと思ったのは、中間点を過ぎてから40人前後を抜いたことです。市民マラソンならよくあることでしょうけど、まがりなりにも別大マラソンで、相手は2時間30分前後のランナーたちです。
 たぶん、記事を書くときも同じなのでしょう。締め切りまで2時間で100行を書かないといけないケースでは、前半1時間では10行しか進まないタイプと見ました。


◆2010年2月16日(火)
 陸マガ集計号の名鑑作業が佳境ですが、バンクーバー五輪も作業の合間についつい見てしまいます。スピードスケート男子500mでは日本が銀と銅。同一種目でメダル2個は史上初かと思って調べたら、過去にもあったのですね(こちらの記事参照)。
 しかし、韓国も1、4位に入って、4位までをアジア勢が占めたのは初めてらしいです。
 日本と韓国、東アジアの2国で上位独占――と聞いて思い浮かぶのは、ケニアとエチオピアの東アフリカ2国の選手がトップレベルの大半を占めている陸上競技の長距離種目です。スピードスケートにおける日韓2カ国は、陸上競技長距離におけるケニア、エチオピアなのでしょうか?

 と思うと居ても立ってもいられません。それにネット時代になってこの手のことは簡単に調べられそうです。国際スケート連盟にスタティスティクスのページがありました。それも、全種目が1つのファイルでダウンロードできたのはラッキーでした。
 ケニア、エチオピアほどではありませんが、日韓は強いですね。しかし、長距離になるとリスト上位に入る選手が少なくなっています。代わりにオランダが強くなっていきます。
 これは意外でした。近年でこそ男子リレーが世界で戦っていますが、陸上競技では日本や東アジア諸国は、短距離よりも長距離が強いというのが定説です。先日のNHKの遺伝子情報の番組でも、持久系種目に向いている筋肉を持つ割合が、アフリカ系やヨーロッパ系の人種よりも多いというデータが紹介されていたと思うのですが。
 筋肉云々という部分よりも、伝統やトレーニング法、あるいは体型(小柄な方が抵抗を受けにくいと思われます)の方がパフォーマンスへの影響が大きいのかもしれません。

 長距離種目になるほど日本選手の順位は下がっていますが、それでもトップとの秒差は5000mで18秒、1万mでもその倍くらい。ベスト記録でこの差なら、一緒に滑れば食らいつくことができるのでは? と思ってしまうのですが、どうなのでしょうか(この後のオリンピック中継を見ろって?)
 もっと驚いたのが、記録が出ている場所のほとんどがソルトレイクシティとカルガリーということ。陸上競技のように、記録の出やすい競技場が各地にあるわけではないのですね。

 スケートの話が長くなってしまいました。名鑑作業をしていて気がついたことを書こうと思っていたのですが。
 今回の作業で一番の驚きは、女子砲丸投の白井裕紀子選手の実績です。白井選手は昨年の日本選手権優勝者&日本リスト1位(15m44)で名鑑の掲載基準を満たしました。
 掲載基準は昨年とは違っています。一昨年、昨年と五輪&世界選手権の標準記録突破者が掲載基準の1つになっていましたが、今年はそれがなくなり、アジア大会イヤーということで、日本リスト2位選手でアジアリスト10位以内も掲載基準になっています。そのほかでも細かい変更がありますが、昨年も日記に書いたように、人数を調整しないといけないという事情が判断基準の1つになります。

 白井選手に話を戻すと、日本インカレに出場していないのが驚きでした。国士大は同学年に高校記録保持者の市岡寿実選手がいて、1学年下に日本記録保持者の森千夏さんがいて、豊永陽子選手も2学年上にいました。これでは、出場が1種目2名だった日本インカレには出られません(現在は1種目3人)。
 名鑑に掲載するレベルで、日本インカレに出場していない選手は珍しいでしょう。長距離種目では何人かいたと思いますが、一般種目ではちょっと記憶にありません。
 強力なチームメイトがいただけでなく、白井選手自身もそれほど強かったわけではありません。インターハイは3年時の出場だけで予選落ち。投てき種目ではインターハイ上位者が、そのまま強くなるケースがほとんどですから、こちらも珍しいケースです。
 日本選手権は大学2年時から出場していますが、初入賞が4年生のとき。その年に初めて14mを越えていますから(66cmの自己記録更新)、何かをつかんだのだと推測できます。それで砲丸投が面白くなって卒業後も頑張って続けたのかもしれません。これも推測の域を出ませんが。
 それでも、日本選手権のトップ3に入るのに4年を要し、初優勝まで8年です。選手層の薄い女子砲丸投だからともいえますが、白井選手の強い気持ちがなければできなかったことだと思います。滋賀県の先生方のサポートもあったのでしょう。世界との距離は大きいですけど、こういった選手も評価される世の中になってほしいと思いました。

 滋賀県といえば、セカンドウィンドACの大角コーチも同県出身。川越学監督が鹿児島県出身なので、“オオスミ”コーチも鹿児島と誤解されがちですが、滋賀県です。白井選手とは1学年違いでしょうか。
 その大角コーチの名前を1995年の全国高校長距離1万m1組に見つけました。18位です。記録は……書かないでおきます。


◆2010年2月17日(水)
 陸マガ記録集の名鑑作業が、マラソン全成績を除いて終了。作業手順で手違いをしてかなり焦りましたが、しっかりとやり直したのでミスはないはずです。マラソン全成績が残っていますが、プレッシャーはなくなりました。
 昨日の日記で白井裕紀子選手のことを書かせていただきましたが、もう1つ面白いと思ったのは2004年のインターハイ近畿大会の成績です。
 今まで内緒にしてきましたが実は、4〜5年前のインターハイ地区大会の成績を見るのは、かなり面白いことなのです。その典型的な例が今回紹介する2004年の近畿大会。優勝者に大物選手がたくさんいるのです。ざっと挙げると以下のような感じです(一部、優勝者でない選手も)。

▼男子
100 m:木村慎太郎(添上2年)
200 m&400 m:金丸祐三(大阪2年)
800 m:口野武史(清風3年)
1500m:渡辺和也(報徳学園2年)
5000m:木原真佐人(報徳学園3年)
竹澤健介(報徳学園3年)
400 mH:吉田和晃(県西宮2年)
八種競技:池田大介(太成学院3年)
▼女子
100 m&200 m:和田麻希(西京3年)
800 m&1500m:小林祐梨子(須磨学園1年)


 ベルリン世界選手権代表が6人に北京五輪代表の竹澤選手。これだけ豪華な地区大会も珍しいのではないでしょうか。つねづね、レベルが高いことと参加選手数が多すぎて(6府県)“負担が大きい”と書いている近畿だからでしょう。
 本当に壮観ですが、それは今の視点で見た場合に言えること。5年前の時点では木村選手は全日中優勝者でもそこまで注目されていませんでした。金丸選手も前年の国体少年B200 m優勝者とはいえ、その年に高校新を出すことまで期待されていた選手ではありませんでした。木原、竹澤、渡辺の報徳トリオも注目されたのは卒業後ですし、口野選手と和田選手も同様です。
 池田選手と小林選手のマシンガントーク・コンビ(と池田選手が自身のブログに書いていました)が、一番注目されていたのではないでしょうか。
 実際に取材した記者の目には、どのように映っていた大会なのか興味があるところです。今度、曽輪ライターに会う機会があったら聞いておきましょう。

 今日もバンクーバー五輪の話題を1つ。
 男子フィギュアスケートのショートプログラムが行われて、高橋大輔選手が2位につけました。織田選手も4位。ここ数年のテレビのフィギュア報道を見ているせいか、「スイスの選手のスピンが速いな」とか「高橋選手のステップは上手いな」とかわかるようになってきました。実況中にアナウンサーが言っているから、そう思うのかもしれませんけど。
 マイナー競技(とフィギュアスケートを言っていいのかわかりませんが、要は野球とサッカー、ゴルフ以外の競技です)でも、テレビで見る機会が多ければ、視聴者が面白く感じられるようになるということでしょうか。
 陸上競技中継を見ていた視聴者が「今の踏み切りはハードルに近すぎたな」と感じることができる日も、いつの日か来ると信じたいと思います。
 フィギュアスケートでもう1つ気づいたことは、ジャンプの回転方向です。


◆2010年2月19日(金)
 今日もバンクーバー五輪の話題から。男子フィギュアスケートで高橋大輔選手が銅メダルを獲得しましたが、フィギュアスケートを見ていて気づいたのは、ジャンプの回転は左回りが多いということです。日本の3選手をはじめ、優勝した背の高いアメリカ人も、前回金メダルのロシア選手も左回りでした。スピンの回転も同じです。右回りはアメリカ選手で優勝した方ではなく、若いイケメン君の方だけでした(寺田が気づいた範囲では)。
 これは、投てき選手のほとんどが右投げということと同じ理由ではないかと思った次第です。といっても、右投げが多い理由の定説も聞いたことがないのですが(どなたかご存じでしょうか?)。
 相当に個人的な見解ですが、左投げの見本がないことと関係している気がしています。実際の投てきを見る機会も、ビデオや連続写真も少ない。それで左利きの選手がイメージしにくい状況になっているのではないかと。
 野球では左投げの選手がそれなりの数います。さらに陸上競技の投てき種目の場合、助走やターンやグライドがあるので、より複雑な動きです(と言っていいのでしょうか?)。その点が左投げ選手が現れにくい理由ではないかと。

 左投げの投てき選手が皆無というわけではありません。ここ2〜3年で、何かの大会で右回りのハンマー投選手を見たような気がしますし、砲丸投では16m05の日本歴代5位(97年水戸国際)の記録を持つ篠崎浩子選手が左投げでした。
 この疑問を篠崎選手に質問したことがあって、「大学のコーチが器用で、左投げの見本を見せてくれるから」と話していました(ときどき記憶力が良くなる寺田です)。

 ジャンプの回転方向も興味深かったですけど、そんなことよりも感動したのは高橋選手のパフォーマンスです。その競技の普及や強化に重要なのが、感動だというのが寺田の持論です。「採点競技はよくわからん」と思っている人間まで感動させるのは、やっぱり映像の力でしょうか。織田選手の無念さも、あの表情を見せられたら伝わってきます。
 大阪世界選手権と北京五輪の男子4×100 mRも、同じように多くの人たちを感動させたのだと思います。
 知識がなければ陸上競技は面白く見られない、というのも寺田の持論で、それが変わったわけではありませんが、方法がないわけでもないと思い始めました。


◆2010年2月21日(日)
 午前中に横浜方面で人と会った後、東横線と南武線と青梅線を乗り継いで青梅市総合体育館に。青梅マラソン取材は3回目か4回目ですが、前回は10年以上前だったと思います。最寄りの河辺駅を出たときはまだ「こんな光景だっけ?」という感じでした。
 最近、日記上では記憶力が良いと自慢していますが、なんでもかんでも覚えているわけではありません。フィニッシュ地点が近づいて来るにしたがって「そういえば、こんな感じだった」と記憶が甦ってきました。フィニッシュ地点も通常のロードレースと違って特徴がありますから。

 フィニッシュ地点に着いたのは13時頃。11:50スタートですから、残り20分くらいでフィニッシュです。プレスルームに行くと意外なことにモニターがあってレースの映像が見られます。移動カメラの映像はかなり粗い画面ですが、レース展開はチェックできます。これは、前回の取材時にはなかったことです。
 寺田がプレスルームに到着したときは固定カメラの鮮明な映像で、ちょうど高岡寿成コーチが映し出されていました。これにはビックリ。現役時代と同じ必死の形相。5000mの日本記録を松宮隆行選手に破られたので、松宮選手の30kmの日本記録を破り返そうとしているように見えました。引退の原因となった脚の故障が癒えて、密かに練習していたのかもしれません。
 と、興奮していたら映像が先頭に切り替わって、太田崇選手(コニカミノルタ)が独走していました。
 女子はマーラ・ヤマウチ選手が独走していましたが、大南博美選手(トヨタ車体)との差はそれほど大きくないようでした。

 太田選手は中盤まで大会記録(1時間30分44秒=R・トーマス1980年)も望めるペースで進みましたが、「21kmから」(太田選手)ペースダウンして1時間31分54秒のフィニッシュ。風も終盤は向かっていたようですし、3kmから1人で走り続けたことを考えると、まずまずのタイムだったと思います。
 久しぶりの青梅ということで、どのタイミングで選手の話を聞けばいいかわかりませんでしたが、選手が引き揚げる通路(道路ですが)でつかまえていいとのことだったので、主催紙記者と一緒に太田選手の話を聞かせてもらいました。30kmは4回目ですが、これまでの30kmとは違う取り組み方をしているそうです。
 太田選手のレース直後取材が終わってフィニッシュ地点を見ると、カネボウの高岡コーチが上武大・花田勝彦監督に労をねぎらわれているところ。シドニー五輪1万m決勝を走ったコンビです。この機を逃したら次はいつあるのかわからないと思い、写真を撮らせていただきました
 高岡コーチの話も聞かせていただきました。
「現役時代も2回エントリーしていましたが、1回は体調が合わず、もう1回は雪で大会が中止になって2回とも走ることができませんでした。最初にエントリーしたのが2004年でしたが、走ってみて、このコースだったら本当に、(坂のきつい)仮想アテネになったなと感じました」
 現役を退いた今も、アテネ五輪への思いが口をついて出ます。そのくらい、アテネ五輪に懸けていたのでしょう。詳しくは福岡国際マラソン・プログラムに書いたコラムをご覧ください。
 オープン参加でしたが1時間42分34秒は公認記録に。大会出場は引退後3レース目。今回走ったのは、来週の東京マラソン(2km)への調整の一環だそうです。2kmレースへの調整を30kmで行うのは、常識にとらわれない練習をしてきた高岡コーチならでは。話を聞いていた記者たちも「さすが高岡」という表情でした。寺田の気のせいかもしれませんが。

 2人の写真を撮り終えて振り返ると、2位の大南博美選手がカコミ取材を受けていたので急いで合流。1時間43分49秒は、自己ベストの1時間40分39秒(2時間23分26秒で走った2004年のベルリン・マラソンの30km通過時)とは差がありましたが、練習の一環ということでした。12月の山陽女子ロード10km、1月の全国都道府県対抗女子駅伝、2月第1週の丸亀ハーフに続く出場です。
「名古屋に向けての練習と位置づけて追い込みました。レースをポンポンと入れて調整するのは久しぶりです」
 高橋昌彦監督によれば、「これからマラソン練習に入ります」とのこと。走り込んでから練習を落としていくのではなく、レースを使って速い動きをしておいてから走り込むパターンなのでしょう。11月の横浜を走ったからかもしれません。
 と思って、今、高橋昌彦監督に電話をしたら、その通りでした。これまでのマラソン練習にないパターンを試したそうです。廃部を控えてレースを1つ1つこなしていく状況もあってそうしたようですが、かなり良い流れで持ってこられているようです。
青梅マラソン取材ネタ、まだあります

◆2010年2月22日(月)
 スポーツ報知サイトに昨日の青梅マラソンの記事が出ています。昨日のレース後の取材は寺田も一緒に行っていたはずですが、知らないネタがたくさん盛り込まれています。男子優勝の太田崇選手が2位につけた差が過去最大だったことや、マーラ・ヤマウチ選手が故障をしていた間に夫の成俊さんと口論が絶えなかったとか。
 主催紙は展望記事で個別取材も行っているはずです。レース後だけの寺田と差があるのは当然といえば当然です。寺田1人ではとても手が回りませんが、10kmレースの取材もしっかりと行っています。E記者が高校男子10km優勝の塩田英輔選手の話を聞いているところに少しだけ合流できました。國學院久我山高は4月に打越雄允選手も入学するのでちょっと興味がありましたが、高岡コーチと花田監督の写真を撮ることを優先しました。
 男子10kmの優勝者が、東日本実業団駅伝で女子に抜かれた選手だなんて、思いもよりませんでした(はっきり言えばノーマーク)。

 しかし、寺田も何もしないでぶらぶらしていたわけではありません。昨日の日記では大南博美選手師弟の取材をしたところまで紹介しました。
 体育館の招待選手控え室に移動しようとすると、JR東日本・打越忠夫コーチとお会いしました。隣にいらしたのは國學院久我山高の有坂好司先生。雄允選手の4月以降のことでも相談されていたのでしょうか(とっくにやっている?)。
 青梅取材と同じで、有坂先生とお会いするのは10何年ぶりかもしれません。武井隆次選手(5000m高校生初の13分台選手。インターハイ2冠。早大で箱根駅伝4年連続区間賞。エスビー食品でマラソン釜山アジア大会代表)たちの頃も久我山のコーチで、その後、三和銀行(女子長距離)で監督をされていました。細かいところまではお聞きしませんでしたが、現在は再び、久我山のコーチです。以前は別の仕事をされながら久我山のコーチでしたが、今は久我山の教員ということです。
 以前とは違った指導もできるのでは? と思って、あることを質問させていただきました。しかし、基本的には武井選手の頃と変わっていなくて、朝練習は学校の規則でできないとのこと。短い時間の中でのトレーニングです。それでも、武井選手や弟の武井康真選手、植井孝秀選手らレベルの高い選手を輩出しました。
 昨年は8年ぶりに全国高校駅伝に復帰。教え子の武井さんが指導する早稲田実高と争うことになったのは複雑な気持ちでしょうが、今後が楽しみな高校チームです。

 お2人と話をした後は招待選手控え室に。大塚製薬の尾池政利選手と久しぶりに話をさせていただきました。フランクフルトでカレーをご馳走になったこともあります。取材というよりも、奥さん(1500m元日本記録保持者の田村育子さん)のことや、チームのスタッフのことなどです。
 続いて、部屋に川越学監督がいらしたので、寺田が仕事をさせてもらっているSWAC会報誌のことで、ちょっとした話し合い。実は、青梅に来た目的の1つがそれでした。

 15時からの表彰式に合わせ、再び体育館の外に。
 遠目にもカネボウ高岡コーチがいるのがわかりました。昨日の日記で書き忘れましたが、高岡コーチが出場する東京マラソンの2kmというのはファミリーの部です。
 隣には大塚製薬・犬伏孝行コーチも。マラソン2時間6分台コンビです。これも貴重なシーンなので写真に撮らせていただきました。ただ、日本の2時間6分台選手は3人。藤田敦史選手がいませんから、2時間6分台というくくり方は少し不満が残ります。ここは、日本人初の2時間7分突破選手(犬伏コーチ)と、日本人初の2時間6分35秒突破選手(高岡コーチ)とのツーショットと書かせていただきます。
※青梅ネタ、あと少しありますが書けるかどうか


◆2010年2月23日(火)
 昨日の日記で犬伏孝行コーチと高岡寿成コーチのツーショット写真を載せた際に、
日本人初の2時間7分突破選手(犬伏コーチ)と、日本人初の2時間6分35秒突破選手(高岡コーチ)
 と紹介しました。2時間06分35秒というのは1km平均3分00秒(時速20km)で走りきったときの42.195kmのタイムです。当時のマラソンはそのペースが基準であり、そのペースで押しきることが目標となっていました。目標でしたが簡単にできることではなく、それを初めて成し遂げたのが高岡コーチでした。
 我々はどうしても、「6分台の次は5分台だ」と考えがちです。寺田も高岡コーチにヒントをもらうまでは気づきませんでした。

 青梅マラソンの取材ネタをもう少し続けます。
 6分台コンビの後は北海道コンビに遭遇しました。表彰式を待っている男子の1・2位選手が太田崇選手(コニカミノルタ)と片岡祐介選手(大塚製薬)で、ともに北海道出身選手。大学も太田選手が札幌学院大、片岡選手が北海道教育大で、関東の大学から実業団へ進む多数派ではありません。これも、次にいつこういう機会があるかわかりませんから、ツーショット写真を撮らせていただきました。
 聞けば、マラソンの記録は2人が北海道出身選手歴代2位と3位なのだそうです。太田選手が2時間12分10秒で片岡選手が2時間12分28秒。1位は太田選手と同期の高塚和利選手(小森コーポレーション)で2時間08分56秒。3分以上の差がありますが、今年の青梅ワンツー・コンビがどこまで差を詰められるか。

 続いて表彰式。これは女子の表彰。スターターを務めた元プロテニス選手の杉山愛さん(中央)も記念撮影に加わってくれました。3位の嶋原清子選手は1時間49分14秒。ヤマウチ選手と大南博美選手が1時間43分台ですから、大差をつけられてしまいました。
 原因は風邪をひいていたこと。レース後もゴホゴホせき込んでいて「近寄らない方がいいですよ」と気を遣ってくれるほど。普通の選手なら欠場しているケースです。嶋原選手とセカンドウィンドACらしいところだと思います。

 表彰式後には男女の優勝者公式会見でしたが、記者の数が5〜6人でカコミ取材に近かったですね。
 まずは太田選手。レース展開の確認や、今回の30kmに向けた練習内容、故障や年齢の影響で練習がどう変わってきたか等を話してくれました。今回の優勝で4月のボストン・マラソンにも派遣されます。ただ、この冬はマラソンというよりもスピード系のメニューが多い流れでやっているので、ボストンも「練習の一環」(太田選手)で出場し、勝負は1年後に出るマラソンになりそうだと言います。
 ただ、「元々、距離を踏めるタイプではないし、年齢的にも疲労がとれにくくなっている」という状態なので、単に距離を踏むのではなく、工夫をして距離をこなす練習をしていくのだと思います。
 太田選手と高塚選手の同学年は、世に言うところのゴールデンエイジ。オリンピック入賞が油谷繁選手と諏訪利成選手、世界選手権入賞が藤田敦史選手と大崎悟史選手。細川道隆選手と小島忠幸選手も世界選手権代表で、サブテン選手が11人もいます。その世代の一員であることにも言及してくれました。

 続いてヤマウチ選手の会見。
 青梅では10kmで3連勝中でしたが今回初めて30kmに出場した経緯や、海外では30kmレースが少ないこと、昨年のロンドン・マラソン後の故障のこと、ロンドン五輪の代表権獲得に必要なことなどを話してくれました。青梅の特徴や30kmの特殊性を踏まえて話してくれるので、記者はもちろんのこと大会関係者も助かります。
 さらに感心させられたのは、フィギュアスケートの高橋大輔選手や野口みずき選手を話の引き合いに出せる当意即妙さです。高橋大輔選手は大けがを乗り越えて強くなった例として、自身の故障の話の途中で名前を挙げていました。野口みずき選手は青梅の大会記録保持者。自己新で走った昨年のロンドン・マラソンの30kmの途中計時よりも、今回の方が遅かったことを質問されたときに次のように答えていました。
「今は絶好調でなく、9週間後のロンドンを目標にしている過程です。青梅のコースは上りで頑張って、休んで、また頑張るというコース。ロンドンは前半が下りでリズムに乗って走れます。レース前からロンドンの30km通過タイムは難しいと思っていたので、気にしていません。それでも、野口さんのコースレコードはすごいと思います。上りが得意だから走れたタイムではないでしょうか」
 クレバーな選手であることは以前からわかっていましたが、あまりにも冷静に分析し過ぎると、スポーツのパフォーマンスにはマイナスになることもあります。ヤマウチ選手はそこのバランスが上手いのではないかと感じました。

 会見後は体育館隣の敷地へ移動して、展示会会場を見て回りました。東京マラソンと比べてしまったら規模は小さいですけど、市民マラソンに理解のあるメーカーや、地元の特産品をアピールしたい組合などが出展していました。アシックスBBM社(クリール)のブースへ寄って挨拶。
 その後は体育館のプレスルームに戻って原稿書き。


◆2010年2月24日(水)
 昨日、JAL グランドサービスの廃部が発表されました。
 JALは以前、市川良子選手と市橋有里選手をスポンサードしていた時期もありましたし、陸連のスポンサーだった時期もありました。絶対に潰れっこないと思われた巨大企業でした。そういった企業がスポーツから撤退してしまうのです(現時点では全競技ではないようですが)。
 予算の規模からいったら、陸上競技部の予算はそこまで大きな額ではないと第三者的には感じますし、実際、そう言ってくれている自動車メーカーもあるそうです。でも、現実にはそんなに甘くなかったということでしょう。これまでも、巨大企業の撤退はいくつかありましたから。公的資金が入ったら難しい、という話も耳にしました。

 実業団チームの廃部の話が出ると必ず“企業スポーツの問題点”という論調が出てきます。地域密着型クラブやプロ化のシステムを構築すべきだという主張を目にしますが、実業団システムと同じ選手数の受け皿となれるとは思えません。
 将来的には主流となる可能性もあります。現在頑張っているクラブやプロ的な選手の活動はぜひ続けてほしいと思いますが、現実的な理想としては実業団システムだと思います。抱えている選手数は、世界でもトップクラスでしょう。
 その辺の一般学生が逆立ちしても就職できないような企業に入社できて、引退後も働ける。引退後の仕事も保証されているのは、特別な国を除けばほとんどないのではないでしょうか。頑張れば出世もできます。競技をしていることが一般社員に比べてハンディだと考えるようでは、なんのためにスポーツを頑張っているかわかりません。

 それでも、廃部が続く事態はなんとかしないといけません。
 選手が頑張って結果を出すことが一番の方法です。駅伝で上位に入ったり、日本代表になれば会社も簡単には廃部にできないはずです(競技成績と廃部は関係ない、という調査結果も出ているそうですが、そうは思えません)。
 もう1つは陸上部出身のOBが多数、社内で活躍することです。旭化成のように「陸上部がなくなるのは会社が潰れるとき」と言えるようになることが理想だと思いますが、ある監督は陸上部出身の選手が仕事を頑張るようになって「“陸上部で数年間、研修をした”と考えてもらえつつある」と話しています。社内でそういった考えが支配的になれば、長期的な強化が可能になります。
 廃部になったとき、選手は移籍できるのが一番良い形ですが、もしも会社に残って仕事をすることになっても、堂々と仕事を頑張ってほしいと思います。それが将来的に、陸上部復活につながらないとは言い切れないのですから。

 ある監督が話してくれた案も、一考に値すると思いました。その監督は廃部という辛い経験をしたにもかかわらず、企業スポーツこそが選手強化の最善策だと言います。「スポーツ選手を抱えている会社の法人税を何パーセントか安くする」というスポーツ政策を提案しています。
 現在のスポーツ政策は、強くなった選手、強くなりそうな選手にお金を分配するシステムです。それよりも、企業がスポーツ選手を雇用しやすい環境をつくることで、幅広く選手の強化ができるようになるということです。集中的にお金をかけた方がいいのなら、それは企業が判断する。行政や組織としては選手に直接お金を渡したいのかもしれませんけど…。


◆2010年2月25日(木)
 急きょ16時から、新宿の京王プラザホテルで打ち合わせをすることに。京王プラザは東京マラソンの大会本部ホテルですが、東京マラソンとは関係ありません。某新聞事業部の方との打ち合わせ。例年の4本以外にも、少し追加があるかもしれないとのこと。このご時世ですから、ありがたい話です。
 打ち合わせ後、近くのヒルトン東京に移動。某選手のインタビューです。これは陸マガ次号とAJPS(日本スポーツプレス協会)マガジン用。残念ながらネットには出ません。
 今日も面白い話を聞くことができましたが、文字にするのが難しそうです。それをするのがライターの腕だと言われればそれまでですが…。今度、そういうときにどうしているか、O村ライターに聞いておきましょう。企業秘密かな。

 夕食会に45分ほど後れてルミネのイタリア料理レストランに合流。シチリアのワインを飲んで、ボローニャ風のスパゲティを食べましたが、デザートは控えめにしました。


◆2010年2月26日(金)
 12時からニューヨークシティ・マラソン主催者であるNEW YORK ROAD RUNNERS主催の昼食会に出席。場所は新宿です。多くの日本選手のマネジメントを手がけているブレンダン・ライリー氏が声を掛けてくれて、数人の記者たちと一緒に参加させていただきました。過去のニューヨークシティ・マラソンの成績(30年分)をプリントアウトしたり、同じメイジャーズであるベルリン・マラソンの歴史や運営に関する記事を読んだりして、それなりに予習をして臨みました。
 NEW YORK ROAD RUNNERSからはメディア部門のディレクターであるRichard Finn氏が来日。我々の質問に丁寧に答えてくれました。こういう機会はめったにありませんから(世界クロカンのとき以来です)、貴重ですね。
 まずはNEW YORK ROAD RUNNERSが主催する大会の1つであるニューヨークシティ・ハーフマラソンが従来の秋開催から、今年は3月(21日)開催に変更されたことについて説明がありました。日本からは嶋原清子選手が出場しますし、マーラ・ヤマウチ選手もロンドン・マラソンへの最終チェックレースとして出場します。

 次にフィン氏は東京マラソンについて意見を求められました。歴史のある欧米の大衆マラソンは、最初は本当に小規模なレースからスタートしていますから、東京のように最初から3万人も走るマラソンはすごいと映ったようです。「世界一(クラス)の都会である東京と、日本のマラソンの伝統が融合して可能になった」と分析していました。
 寺田は1つ、かねてから気になっていたことを質問しました。ボトムアップで発展してきた欧米の大衆マラソンは、社会に根付いた存在です。日本は民間にもその気運はあったにせよ、政治家主導のトップダウンで始まっています。運営も欧米のように民間のクラブではなく行政が運営の中心になっています。詳しく書くと長くなるので、この点はまた機会があればということで。

 ニューヨークシティ・マラソンが、記録があまり出ない大会であることについても質問が出ました。過去の成績を見ても男子の優勝記録はだいたいが2時間9分台。大会記録が2時間7分台終盤だったと思います。アップダウンが多いからです。この点についてのフィン氏の見解は勝負こそがマラソンの面白さということで徹底していました。「最初の1mからが勝負」「プロのランナーは強い意思、タフさが重要」という言葉が印象的でした。
 もう1つ強調していたのはエンターテインメント性という視点。「ペースメーカーがいると誰が本当の競技者なのか、見ている人にわかりにくいし、25kmや30kmまでは面白くない」ということです。
 同じメイジャーズのなかでも、記録の出やすさを売りにしているベルリンなどとは違いがあるということです。選手招聘についても、ロンドンやシカゴとは違いがあります。国のバランスや選手の力のバランスを考えていて、日本のマラソンと共通する要素がありました。

 14時からは場所を京王プラザ(大会本部ホテル)で東京マラソン招待選手の会見を取材。車椅子の副島選手と土田選手、男子招待のキスリ選手・キプサング選手・佐藤敦之選手・藤原新選手・大西雄三選手、女子招待のビクティミロワ選手・グタ選手・那須川瑞穂選手・尾崎朱美選手。
 この大会のエリート部門は女子よりも男子に強い選手が揃っています(女子は国際大会選考ではありませんし、前身が男子の東京国際マラソン)。会見後は佐藤選手と藤原選手、中国電力・坂口泰監督らを追加取材させていただきました。
 佐藤選手は優勝することに強い意欲を見せていました。「入賞したベルリン世界選手権も優勝争いに加われなかった。ロンドン五輪は勝負をしたいので、優勝を経験したい」と話していました。国内大会での日本人選手の優勝は、05年東京国際マラソンの高岡寿成選手(現カネボウコーチ)が最後。明後日のレースの最大の焦点になるでしょう。
 ただ、寺田的にはサブナインも期待しています。佐藤選手2時間9分切りをすれば自身4回目。中山竹通選手と高岡選手に並んで日本人最多になります。まあ、優勝すればサブナインは出るでしょう。
 藤原選手は以前の記事(「フルマラソンチャレンジブック3」)で紹介した「距離走は半分技術練習」となるリズムの練習ができたことを話してくれました。他のメディアに出ないようだったら記事にしてもいいかもしれません。
 この大会は終盤の臨海地区で風が選手たちを苦しめます。過去3大会中2回が、35〜40kmで勝敗が決していますし、その区間の日本選手最速タイムは2年前の藤原選手の15分42秒。その点を佐藤選手と藤原選手に質問しました。
「風がない状態なら15分30秒を切っていきたい」(佐藤選手)「一昨年が15分42秒で行けたので、それなりの数字で行ける感じがする」(藤原選手)
 この大会は招待選手以外にも注目選手が多数出場します。
 復活を期す藤原正和選手や国近友昭選手、33歳サブテンを目指す小林誠治選手、初マラソンの岡本直己選手と北村聡選手。公式会見は車椅子部門や女子も行うため、そういった注目選手の取材の場がないのが残念。ロンドンのように何日にも分けて行うのは大変ですが、やり方はあるはずです。

 19時半から新宿の博多もつ鍋料理屋で夕食会。面白い話をいくつも聞くことができました。陸上競技ではありませんが、Kデスクのスピードスケートについての見解が興味深いものでした。
 16日の日記で日本が500mは強いのに、長距離になるほど弱くなるのは陸上競技とは対照的だと書きました。Kデスクによれば、スピードスケートはテクニックの占める割合が大きいのだそうです。「400 mHみたいな感じではないか」というKデスクの言葉は説得力がありました。


◆2010年2月27日(土)
 東京マラソンが他のマラソンと違うのは、スタートが朝の9:05と早いこと。自宅を出るのは7時くらいになるので、ここ数日で少しずつ早起きにしてきました。今朝は8時起床。寺田としては早い部類に入ります。
 午前中に2時間ほど仕事をしてから永田町に。adidasランベースでmicoachの発表会に出席しました。micoachの詳細はサイトをご覧いただくとして、驚いたのがストライドを測定できる機能があったことです。ストライドセンサーというシューズに付けるチップから、ペーサーという腕に付けるメモリー&CPU部分につねにデータを送っているところまでは理解できます。しかし、1分間のピッチや歩数は測定できても、ストライドまではわからないのでは? というのが素人考えです。ストライドは自分で入力して、距離がわかるという仕組みのものは見たことがありましたが…。
 その点を質問したのですが、技術的な担当者は東京マラソンEXPOに行っているということでした。
 もともと、EXPOには行く予定でしたし、IDの受け取りも東京ビッグサイトに行かないとできません。ということでEXPO会場に。

 ビッグサイトに着いてまずはアクレディテーション。通常の報道受付でIDを受け取ることはできませんから、これを忘れるととんでもない事態になります。2年前は危なかったです。
 プレスルームでおにぎりを食べて(こしひかり)からEXPO会場に。
 入り口に一番近い場所を占めるアシックスを皮切りに、各メーカーのブースを見て歩きました。ゴールドウインのブースでは稲垣誠司さん(法大OB)とお会いしました。本当に久しぶりです。引退してずいぶんになると思うのですが、朝原宣治選手よりも1つ下の学年でした。朝原選手が2008年まで現役でいたので、この辺の感覚がちょっと狂っています。
 400 mで高校記録更新を期待されていて、高校2年の冬に西条農高まで取材に行きました。確か全国都道府県対抗女子駅伝取材とセットだったと思います。3年時(1991年)に400 mの高校記録更新はできませんでしたが、400 mHで50秒01の高校新を出しました。従来の高校記録は垣守博選手が85年に出した50秒03。高校歴代2位が50秒67でしたから、突出した記録でしたがそれを破ったのでした。
 翌92年には400 mで46秒36。高校記録を0.01秒上回りましたが1年遅かった……と思ったら、ジュニア日本記録でした。稲垣選手のジュニア日本記録を破ったのはどうだったか忘れましたが、400 mHの高校記録を破ったのは同じ広島県の為末大選手でした。
 しかし、近況以外で話をしたのは4×400 mRのことでした。今年はアジア大会イヤーですから、94年の広島アジア大会で稲垣選手がバトンを落とした(叩き落とされた?)ことは嫌でも思い出します。稲垣選手にとっては純地元。苅部俊二選手(現法大監督)が、トラックに泣き伏せる稲垣選手を慰めているシーンを陸マガに載せたような記憶があります。
 アジア大会の前か後かは忘れましたが、インカレのアンカーで田端健児選手(日大)に抜かれて、そこから田端選手がグンと伸びてきたことも話題に。田端選手は96年のアトランタ五輪が初代表ですから、広島アジア大会の後のインカレでしょう。
 90年代のゴールドウインは稲垣選手のほかに100 mの井上悟選手、走幅跳の森長正樹選手、やり投の溝口和洋選手と日本記録保持者級の選手が多数在籍していました。その頃の監督が現ワコールの永山忠幸監督でした。もう一度、陸上競技に進出してきてくれたら嬉しい会社です。

 明治乳業のブースでは小出代表が講演をされていてすごい人だかり。ブースの外で矢島彰さんにお会いしました。矢島さんも法大OB。年齢は稲垣さんより少し下らしいです。ここではビジネスの話を少し。
 明治乳業の西側に山本光学(サングラスのSWANS)のブースがあり、予想通りプロモーション担当の原健輔さんがいらっしゃいました。原さんは十種競技元日本記録保持者の松田克彦監督率いる平成国際大のOB。そういうつながりでしょうか。隣には十種競技日本記録保持者の金子宗弘さん(ミズノ)がいらっしゃいました。
 金子さんは競歩の川崎真裕美選手らに帯同して、メキシコに行っているとばかり思っていたのでちょっとビックリ。金子さんは、そんな話はまったくなかったと言います。寺田の勘違いの可能性が高いのですが、川崎選手のブログにそんな記述があったはずです。後で確認したら、
混成金子さん(ミズノ)と順大同期のトレーナーさん
 という表記でした。すみません。しっかり読むようにします。

 寺田が構想を練っている最中のユーモア小説のプロットなんかも語りましたが、話題になったのは混成競技のこと。右代(うしろ)啓祐選手がニュージーランド合宿中に出場した競技会で7711点の好記録を出したばかり。世界選手権で7788点の自己新を出した池田大介選手との同学年対決は白熱しそうですし、田中宏昌選手もアジア選手権に勝ちましたし記録も7600点台を昨年出しています。
 十種競技の日本歴代記録は
7995点 金子さん   1993年
7871点 松田監督   1993年
7856点 右代啓祐選手 2009年
7803点 田中宏昌選手 2006年
7788点 池田大介選手 2009年

 となります。
「2010年の注目種目は男子の十種競技と女子の800 m」だと寺田が言うと、金子さんも早く日本記録を破ってほしいと熱弁を振るいます。「僕の日本記録は古い方から数えて何番目かなんですよ。円盤投でしょ、やり投でしょ、三段跳でしょ……」と、指折り数えながら話してくれました。
「日本記録を先に破るのは後ろか前か」などという下手な駄洒落は言いませんでしたが、「どちらが先になりそう?」と金子さんに質問。真剣に考えて「○○選手だ」と特定されたら日記に書けなくなってしまいます。「こうなったらこの選手、こうなったらこっちの選手と答えて」と補足しました。
 金子さんの答えは「爆発力があるのが右代、大舞台に強いのが池田」というものでした。これは昨年の日本選手権後に松田部長(陸連混成部長)に取材したときも、そう話してくれていました。個々の種目の合計得点では右代選手の方が点数が高くなります。走高跳という得意種目も持っています。
 でも、1つの大会でまとめて出す能力は、昨年時点では池田選手の方が上だったわけです。それが勝負強さとなって表れています。それが2010年はどうなるか。本当に今年の十種競技は面白くなりそうです。
 金子さんたちと話をしたときのSWANSのブース前は、EXPO会場で間違いなく一番熱かったと思います。

 面白いのは、金子さんと原さんと話をした直後に(ちょっと長話)、岸川朱里選手に会ったことです。説明は不用だと思いますが、2010年注目種目である女子800 mの一翼を担う選手です。すごい偶然です。
 ドロンというスポーツ用アンダーウエア事業を展開している会社のブースでお手伝いをされていました。岸川選手の所属するSTCIのオフィシャルサプライヤーです。同社のサイトを見ると、岸川選手をはじめ3人のスポーツ選手をサポートしているようです。
 アンダーウエアは陸上競技に特化した商品ではありませんが、対象が広いだけにビジネスチャンスも大きいのでしょう。ぜひ、陸上競技にも積極進出してほしいと思います。


◆2010年2月28日(日)
 6時に起床して東京マラソン・フィニッシュ地点のビッグサイトに。広大な敷地面積を誇る施設で大規模マラソンのフィニッシュ地点としては理想的な施設です。ただ、そのためにレース終盤が向かい風になるという指摘もあります。
 一昨日のNEW YORK ROAD RUNNERS主催の昼食会の席上でも、ニューヨークシティ・マラソンはフィニッシュ地点が都心で沿道の応援が多くなるが、東京マラソンは逆で応援が少なくなるという意見が出ていました。
 都心から離れた場所にフィニッシュする方が交通規制も解除しやすくなって良いのですが、そのことで終盤が“向かい風&観衆の少なさ”というマイナス要素が生じます。
 まあ、それほどの問題ではないのかもしれません。回数を重ねればはっきりしてくるところでしょうし、仮に記録にはマイナスとなってもデータが蓄積すれば「東京マラソンの35〜40kmを15分20秒を切ったらすごい」と評価できるようになります。

 京王線が遅れたため、ビッグサイトのフィニッシュ地点にはスタート直前の9:05に到着。昨年は席が埋まっていた記憶があります。そこを心配しながら行くと、ガラガラでした。昨年の半分くらいという印象です。冬季五輪と重なっている影響であることは間違いありません。
 今年の日本選手権開催期日を、サッカー・ワールドカップ期間を避けたのも頷けます。ただ、7月のヨーロッパ遠征を考えている選手が、6月初旬開催をどう受け取っているのかはわかりません。全員が都合の良い開催時期はないのでしょうけど。

 レースは寒さのためスローペースになりましたが、終盤まであれだけの大人数が残ったということはスローペースだったということ。遅くなりすぎたということです。ペースメーカーの責任が問われるところですが、あとで実際に集団にいた選手から「外国人選手がペースメーカーに抑えるように声を掛けていた」と聞きました。
 藤原新選手(JR東日本)は「夏マラソンの逆バージョンでした」と話していました。夏のマラソンは日本選手に有利と言われていましたが、近年は夏でも高速レースが展開され、アフリカ勢が有利になっています。今日はその逆で、冬のマラソンなのにスピードマラソンにはならず、アフリカ勢よりも日本選手に有利になったということです。
 ただ、優勝争いをしたのは実績のある選手と(結果的に)力のあった選手たち。日本選手でもちょっと力の落ちる選手は先頭集団から遅れると、まったく動かなくなって一気に離されていきました。初マラソン組も、8位の幸田高明選手(旭化成)を除いてはダメでした。
 その点、経験のあるベテラン選手がなんとか踏ん張っていました。佐藤敦之(中国電力)もここまで寒いレースは初めてだったそうですが、“動かなくなったとき”の対処の仕方に、経験の有無が関係しているのではないかと話していました。ある県出身の30歳台トリオも○、○、○位(連番です)で踏ん張っていました。

 レースは40kmでスパートした藤原正和選手(Honda)が優勝。一昨日の日記で注目選手として挙げておいてよかったです。まあ、秋以降のレースや明本樹昌監督の話を聞いていればなんとなくわかります……というのは結果論で、注目していて走れなかった選手も数知れず、というのが本当のところです。
 その点、テレビ解説の瀬古さんの評価は的確ですね。今回の藤原選手もそうですし、毎回集団の中で誰が余裕があるか、正確に言い当てています。今度、その秘訣を聞いておきましょう。
 それにしても、久しぶりに日本選手同士の優勝争いは面白かったです。佐藤敦之選手も、1月の全国都道府県対抗男子駅伝こそ竹澤健介選手にラスト勝負で敗れましたが(相手が強すぎました)、マラソンの最後で競り勝っているシーンも記憶にあります。その佐藤選手を寄せつけないほど、藤原正和選手のスパートが強烈でした。
 ユニバーシアードのハーフマラソンで日本勢はメダルを多く取っていますが、どちらかというと銀メダルが多いという印象です。その点、藤原正和選手は金メダル。箱根駅伝やニューイヤー駅伝でもきっちりと区間賞を取っています。箱根の山登り区間賞選手で主要マラソンに優勝したのは誰以来でしょうか。びわ湖に優勝した大久保初男選手以来かもしれません(要確認です)。

 レース後はまず、ミックスドゾーン取材。最初に声を掛けたのが初マラソンの幸田選手。35km過ぎのスパートは中途半端で、もしかしたら行かなければ順位が少し違っていたかもしれませんが、これも良い経験になったはずです。おそらく、体が動かなくなっている状態で動かそうとしたと思われるので。
 幸田選手の取材中に川内優輝選手が通ったのでそちらに移動。学習院大初の箱根駅伝選手です。数分、話を聞いたところで藤原新選手が姿を見せたので、そちらに移動。川内選手は福岡国際マラソンでも話を聞いてあります。高校時代の実績や、いつ練習をしているかなどです。
 藤原新選手は丁寧に話を聞きました。途中で藤原正和選手が来ましたが、良いポジションを確保できなさそうだったので藤原新選手の話を最後まで聞きました。藤原正和選手は公式会見もあるはずです。東京マラソンのミックスドゾーンは会見場と隣接していて、会見が始まるときは役員が声を掛けてくれるので助かります。それができているのは国内の主要マラソンでは東京だけです。他の大会もそうなるといいのですが。
※東京マラソン取材ネタ、続きます

 藤原新選手の後は、初マラソンの北村聡選手の話を聞きました。「いやぁ、死ぬかと思いました」というのが第一声。澁谷明憲選手がペースを上げた後、「雷門あたりで落ちてしまいました。そのあとは一気に動かなくなりました」。前述したように、集団についている間は何とか持っても、集団から遅れると極端にペースダウンしてしまう。暑いなかのレースでは立て直しができることもありますが、寒さのなかの方が立て直しが難しいのかもしれません。
 ただ、初マラソンの選手は比較するデータがないのか、後退した原因が練習にあるのか、寒さにあるのか特定できかねているようでした。北村選手は「準備不足。40km走を5回入れるつもりが2回しかできなかった」と言います。
 前述の幸田選手は「寒さと(初めての42.195kmの)両方」と言いました。
 後で話を聞いた岡本直己選手(中国電力)は「ポイント練習はできても、その次のジョッグができていなかった。練習不足」と話していました。
 特定できていない、というのは3選手の話を聞いたこちらの印象です。選手たちは寒さというよりも練習に原因を求めようとしていました。

 ミックスドゾーン取材の後は共同会見です。藤原正和選手、陸連澤木専務理事&坂口泰男子マラソン部長と会見と続きました。藤原選手の会見の様子は記事にしたいのですが、時間が…。会見後は明本樹昌監督のカコミ取材。Honda師弟への取材から、突っ込みどころが見えてきました。
 明本監督が終わった後に、ちょうど良いタイミングで那須川瑞穂選手(ユニバーサルエンターテインメント)がミックスドゾーンに来てくれました。
 東京マラソンは発足当時から男女の取材が重なって大変だと思っていましたが、ミックスドゾーンと会見場が隣接していることで、その点をカバーできています。ただ、男女とも選考会になると大変でしょう。できれば、選考レースは男子だけのままでいてほしいです。取材する側としては。
 那須川選手とはその後、ロシア語通訳の田中さんと一緒にいるときに、もう一度会いました。ちょうど那須川選手のことを田中さんと話題にしているところだったので、このときもタイミングが良かったですね。
 というのは、優勝したビクティミロワ選手のエージェント(米国在住のロシア人)が、今日の天候は体型的にビクティミロワ選手に有利だったと那須川選手に話しかけて、それを田中さんが通訳したのだそうです。ビクティミロワ選手はセパレートウェアで平気で(?)走っていました。
 寒さの影響を先ほど書きましたが、女子は男子以上にあったかもしれません。日本のエリート選手は全滅状態でした。ビクティミロワ選手とは対照的に、日本勢は絞り込んでいますからね。上位3選手は東欧勢2人とエチオピアのグタ選手。日本勢トップは実業団ではない河野真己選手でした(大学まで陸上競技部だったそうですが)。
 女子のペース設定が、男子以上に厳しかったという声をレース後に聞きました。寒さでどのくらいペースを落とすのが最適なのか、影響を計算するのはなかなか難しそうです。今度、グッシー(“イケメン・マラソン仕掛け人”の異名をとるやり手ディレクター)にも意見を聞いておきましょう。

 取材が一段落してプレスルームに戻ると、フルマラソンに出場していたY編集者がフィニッシュして先輩たちに報告しているところでした。記録は2時間43分00秒。東京中日スポーツの川村庸介記者が先の別大で出した2時間34分18秒(暫定陸上記者最高記録)に挑み、中盤まで同じような通過タイムを刻みましたが、後半で「練習不足の影響が出た」と言います。
 聞けばヒザの痛みがあって距離走は12月31日の25kmが最後。1週間前の最後のポイント練習も16kmを15kmに変更したとのこと。
 そこに川村記者も合流。
 話を聞くと2人は同じような持ち記録だということが判明しました。
       川村記者     Y編集者
5000m  15分44秒4    15分41秒4
1万m  33分03秒94    32分37秒57
マラソン 2時間34分18秒 2時間43分00秒
       (2010別大)   (2010東京)

 社会人になってからの5000mも16分07秒(川村記者)と16分13秒(Y編集者)と変わりません。
 ただ、川村記者の初マラソンは昨年の東京マラソンの2時間48分36秒ですから、初マラソンはY編集者の方が上回っています。川村記者は別大に向けて半年間に30km走を5回、40km走を2回やったといいますから、練習も川村記者の方ができていたわけです。年齢的にもY編集者の方が3〜4歳若いので、立て直せば陸上記者最高記録更新も夢ではないでしょう。
 上司の理解度も重要になってきますが、その点は寺田の口からはなんとも言えません。
 ここまで書いてきて、箱根駅伝経験記者たちの記録が気になってきました。読売新聞・近藤記者あたりが、もう少し良い記録で走っているかもしれません。年齢的には朝日新聞・増田記者もまだまだ行けそうです。TBS・山端ディレクターは……箱根は走っていませんでした。秘密兵器のままだったとか(3人とも早大競走部出身)。

 その2人が寒さの影響は市民ランナーの方が少なかったのではないか?と話していました。1000位とか5000位、1万位の記録を昨年と比べてみないとなんとも言えませんが、なんとなくそんな印象を寺田も受けました。
 市民ランナーは防寒対策でビニール合羽とか普通に着用します。スピードを出すことよりも、長丁場をいかに乗り切るかを考えますから当然です。最初は抑えますからスタミナ切れも起こしにくい。食料も前半からとりつづけるでしょう。
 防寒対策のソックスなど、エリート選手も場合によっては着用してもいいのではないか、というのが川村記者の意見でした。


◆2010年3月1日(月)
 3月に突入。確定申告もありますし、来年度に向けての営業も頑張らないといけません。身が引き締まる月です。
 先週の金曜日に取材したT選手の記事(陸マガ次号)を書きました。インタビューが終わったときはまとめるのが大変だぞ、と思いましたが、予想外に上手くまとめられました。練習メニューのこなしかたを説明するのがやっかいかな、と感じていたのですが、コメントそのままで読者も理解できると判断。
 取材中の寺田の理解が、選手の話に追いついていなかったということです。こういうこともあります。


◆2010年3月2日(火)
 中野真実選手のブログを読んでいたら、今治造船サイトの丸亀事業部総務グループ紹介のページに、同選手が登場していると紹介していました。リンクをクリックしてなるほどと、詳しく読むでもなく読んでいると、これがなかなかに面白い。
 ひと言でいえば、大企業にありがちなピシッとした雰囲気ではない点に親近感を覚えました(今治造船は新造船竣工量と造船売上高において国内トップだそうです)。中野選手が登場しているWelcome To Our Sectionというコーナーだけでなく、全体的にそうなのです。「ギリシャ奮戦記」など、寺田が地中海好きということもあって、本当に面白く読むことができました。
 どこでも良いので大企業のWEBサイトをご覧ください。その違いは明白です。社風なのか、サイト担当者の方針なのか。経営者のキャラかもしれません。

 寺田もこういった企業の支援を受けたいです。などと書くと、甘ったれているように受け取られそうですけど。営業の方針変更を少し考えています。


◆2010年3月4日(木)
 昨日と今日の午前中で、東京マラソンの陸マガ記事を書き終えました。
 川内優輝選手は福岡国際マラソン(日本選手3位)のときに、陸マガに書くかもしれないからと取材をさせてもらったのですが、結局書けませんでした。某新聞に記事が出たのでそのときの話は無駄にはなりませんでしたが。
 今回書けたのですが、川内選手の走りが福岡よりも良かったため、ほとんどの新聞が同選手の記事を載せたと思います。専門誌としては、少しひねりが必要です。幸い、福岡で聞いたネタもありましたし、ミックスゾーン以外で聞いたネタもありました。文字数は少ないですけど、違いは出したつもりです。
 レース展開記事は“日本選手同士の争い”にテーマを絞りましたが、半分くらいは寒さのことや、外国人選手がペースメーカーに指示を出していたことなどを書かざるを得ませんでした。
 藤原正和選手の人物ものは“自信”をキーワードに書けました。
 独自取材で練習内容の変化を聞くことができました。そして、7年前の初マラソン日本最高時の藤原選手の記事を読んだら、寺田の頭のなかで1つの光の筋が浮かんできました。こうなると筆は速いはずですが……寺田としては速かったです。
 新聞記者たちも7年前のことはしっかりと取材をしていましたから、違いを出せるか不安でしたが、大丈夫でした。以前に取材した内容と、同じ選手を何年かぶりに取材した内容がつながると嬉しくなります。


◆2010年3月6日(土)
 びわ湖マラソンのため大津入り。移動の間にサブナインに関する記事をアップしました。
 データは東京マラソン前にサブテン全パフォーマンスの、その時点の選手の年齢を調べておきました。サブテンとしなかったのは以前に「サブテンは死語にしよう」と書いたからです。男子マラソンはこの2年間サブテンもあまり出ていないので(2008年福岡と2009年ロンドンだけ)、サブテンにしてもよかったかもしれません。
 記者会見場に着いてプログラムを見ると、毎日新聞・大阪の百留記者がサブテンをテーマに見どころのコラムを書いていました。現状ではサブテンを1人でも多く出し、そこからさらにレベルアップをしていかないと、という趣旨です。寺田もサブテンにすればよかったかな、とちょっとだけ後悔しましたが、同じになるよりはよかったでしょう。
 その前にプリンスホテル(大会本部ホテル)ロビーで今大会唯一のサブナイン日本選手である実井謙二郎選手兼コーチに会いました。「サブテンの手応えは?」と質問したら、「さっきホームページの記事を読ませてもらいました。そのとおりです」という答えでした。

 今日は会見開始40分前に会場入り。開始前に宗猛監督に話を聞かせていただきました。旭化成3選手(3人とも同学年ですが、成長過程がそれぞれです)の状態をお聞きしましたが、最後に1つ、今大会と直接関係のない部分で面白いお話しを聞くことができました。最近の選手の傾向に合わせて、考え方を変えている部分があるというのです。これはいつか、記事に反映させたい部分です。該当する選手が結果を出したときでしょうか。

 会見は最初に海外招待選手3人。
 38歳のラマーラ選手のキャラがちょっとユーモラスでした。あとで、インタビュー取材をした百留記者からも、なかなかのジョーク好きな選手であることを聞きました。夏場のマラソンでは失敗続きですが、選手層が厚くない国ということもあるのか代表にはなり続けています。高岡寿成コーチあたりが直接対決していると思うので、何かエピがないか聞いておきます。今大会には来ていないでしょうか。
 日本勢の会見はこちらの記事にした4人。4者4様という感じで面白い内容でした。
 共同会見のあとに短時間ですがカコミ取材の場も設けてありました。清水智也選手は北海道マラソンからニューイヤー駅伝くらいまで、あまり状態が良くはなかったそうです。2月に入ってから上向いてきたと話していました。
 佐藤智之選手が面白そうです。これまでは練習ではすごいものをこなすのに、それがレースに表れないのが課題でした。ポイント練習の設定タイムを絶対にこなす、という姿勢を少し改めたと言います。練習をこなすことに全力を使うのでなく、多少の余裕を持つようにする。福岡国際マラソンを走ったこともあり40km走の本数などは少ないのですが、良い状態にもってこられたようです。期待できるような気がします。
 あとはサブナイン記事にも書いたように、北岡幸浩選手も楽しみな存在。ここ2年以上、ハーフを中心に崩れることがなくなったような気がします。会見では川嶋伸次さんの名前も出てきて、びわ湖マラソンにうってつけの話題だと思いました。

 会見後は記事を書きつつ、独自取材も(選手ではなく指導者に)。
 カネボウの音喜多監督に、小川雄一朗選手の話を聞けたのが収穫でした。入社の経緯はまだ書けませんが、タイプについてはちょっとわかってきました。
 基本的には長い距離が得意なタイプだそうです。亜大も走り込みがチームカラーです。ただ、そのなかでも小川選手はスピードもある方で、将来の往路エース区間候補だったようです。
 さすがにカネボウの練習にすぐに慣れることはできなかったようですが、昨年から「練習の端々でポテンシャルを感じられるようになった」といいます。ニューイヤー駅伝も控えのうちの上位2〜3番目には入っていたそうです。
 マラソンもいきなり結果を求めての出場ではなく、マラソンをすることで長距離選手として全体的な成長を促そうという目的のようです。丸亀(日本選手1位)がよかったから初マラソンをするのでなく、初マラソンが決まっていてその練習過程で丸亀に出たらよかっただけです。
 以前の高岡コーチや入船選手、瀬戸選手のようにチームが自信を持って送り出すケースではないので、「あいつは行けますよ。面白いですよ」というプッシュの仕方はしていません。それでも、明日は先頭集団についていくそうです。
 ちなみに、ペースメーカーの1人として佐藤秀和選手が走ります。


◆2010年3月7日(日)
 びわ湖マラソン取材。
 朝起きて天気を確認したら霧雨と小雨の中間くらいの天候です。このままだったら、東京マラソンのときほどの影響はないかもしれません。
 昨日の日記を書いて10時頃にサイトにアップ。当事者は読めないはずの時刻です。読まれて困ることを書いているわけではありませんが。チェックアウトが11時までOKのホテルだったので楽でした。
 京阪電車で皇子山陸上競技場へ。

 着いたのは11時を過ぎていましたが、記者室の最前列がまだ空いていました。プレスルームが広くなったのか、記者の数が例年よりも少ないのか。他のマラソンよりもスタートが30分遅いことが関係しているのかどうか。
 AJPS(日本スポーツプレス協会)の原稿は昨晩書き上げたので、急ぎの原稿は抱えていません。安心してスタート前取材に。毎回のことですが、選手に声を掛けるなんてことをするわけはなく、おもに指導者たちへの取材です。
 のはずでしたが、浜野健選手とすれ違った際には少しだけ話をしました。ベテラン選手には声を掛けてもいいという暗黙の了解があります。サブテンを達成すれば高岡寿成選手の06年東京時を3カ月上回る最年長記録になるのです。ただ、浜野選手の話しぶりは少し歯切れが悪かったです。冷静に自分を見るタイプの選手にはよくあることなので、だからダメということにはならないのですが。
 続いてSUBARU・奥谷亘コーチとナイキ・荒嶋さんに挨拶。荒嶋さんは元エスビー食品のマネジャー。高橋憲昭選手(エスビー食品)の欠場と、小林雅幸選手がラストランだということを教えてもらいました。

 トヨタ自動車の佐藤敏信監督が通りかかったので、浜野選手の状態を質問。元々、ものすごく走り込むタイプではないのですが、今回も出場を決めたのは2カ月くらい前で、量的なところはそれほどやっていないそうです。浜野選手独自の追い込み方と調整法でどこまで走れるか。基本的には、来冬の世界選手権選考レースに備えて、あまりマラソンの間隔を開けないようにするのが目的とのこと。前回のマラソンは昨年の東京マラソンです。
 続いてコニカミノルタの酒井勝充監督に行くところが寺田らしいのですが、坪田智夫選手の欠場を教えてもらいました。米田尚人選手のことを聞かなかったのは迂闊でした。

 そうこうしていると小林雅幸選手とミズノの田川茂(走幅跳シドニー五輪代表)さんが話していたので、ちょっとだけ加わってラストランであることを確認。小林選手も浜野選手と同じ35歳です。フィニッシュしてチャンスがあったら、浜野選手とのツーショット写真を撮らせてもらうことに。
 先日の大阪国際女子マラソンで小幡佳代子選手がラストランとしては最高と思える走りをしました。男子マラソンの引退レースでの最高記録はいくつだろう、という話題に。
 川嶋伸次さんは最後のつもりで臨んだ福岡国際マラソンで好タイムを出し、現役を続行しました。意外と瀬古利彦さんのソウル五輪だったりするかもしれませんが、ラストランと位置づけて臨んでいたのか、という問題もあります。
 それよりも、ここでも大失敗をやらかしました。小林選手と田川さんが同じ十日町高(新潟)の先輩後輩であることに気づきませんでした。気づいたらレース前でも写真を撮らせてもらったのですけど。長距離選手同士だったら気づいたはずです。一般種目選手と長距離選手って、気づきにくいところです。言い訳はみっともないので「これが今の実力です」と、訂正させていただきます。
びわ湖マラソン取材ネタ、続くかもしれません

 レース後の取材ですが、上位選手がフィールド内からなかなか出てきません。テレビのインタビューなどがあったのだと思います。最初に出てきたのは初マラソンで7位になった吉井賢選手(SUMCO TECHXIV)。移動する途中と表彰控え所で話を聞くことができました。毎日新聞・T記者も一緒です。
 実は吉井選手のデータはまったく持ち合わせていませんでした。実業団チームの名鑑が載っているニューイヤー駅伝公式ガイドはもちろん持ち歩いていましたが、今年はSUMCO TECHXIVが出場していません。さすがに皇子山競技場にLAN設備まではありませんから、ネットで調べることもできません。あればSUMCO TECHXIVのプロフィールページとかを見られたのですが。
 ということで、感想やレースの自己評価などを聞いた後は“一から取材”。「これまでの実績は?」というところから質問しました。聞けば第一工大出身とのこと。福岡国際マラソン日本人1位の下森直選手(安川電機)に続いて同大OBが好走したことになります。時間に余裕がなかったので、今後の突っ込み所を聞くにとどまりました。

 続いて8位の清水智也選手が表彰控え所に来たので話を聞かせてもらいました。しっかりと話してくれましたが、コメントにはレース直後の悔しさがにじみ出ていました。
 部屋の外では宗猛監督が記者たちに囲まれていたので、少し遅れてしまいましたが、カコミの輪に加わりました。
 カコミ取材が終了すると表彰式が始まりました。いつもは屋外ですが、小雨が降っていたので今日は屋内です。その間にコニカミノルタの酒井勝充監督に取材。やはり初マラソンだった米田尚人選手が、2時間11分00秒(5位)と好走しました。米田選手も佐藤智之選手や清水兄弟と同じ29歳の学年。初マラソンがこの年齢になったのはケガが多かったからだそうです。
 それでも、コニカミノルタの初マラソン最高ではないかと思いました。松宮兄弟は延岡西日本マラソンでしたし、坪田智夫選手も磯松大輔コーチも成功しませんでした。と思って酒井監督に確認すると、「池永(和樹)が2時間10分40秒台でしたね」と教えてくれました。2、3年前に坪田&松宮兄弟に続く選手として取材していました。忘れてはいけません。

 そうこうしていると表彰式が終了。すぐに会見が始まるかと思っていたらそうでもなさそうだったので、米田選手に話を聞きに行きました。ちょうど、ミズノの鈴木さん(柔道の野村選手に似ているので有名)と話しているところでしたが、記者たちの質問に対して真っ先に口にしたのが「やっと恩返しができました」という感謝の言葉。「今話していたミズノの鈴木さんや職場の人たち、トレーナーの方など、故障をしているときにずっと支えてくれました」
 コニカミノルタといえばニューイヤー駅伝の常勝チームですが、米田選手は2回しか出場できていません(1回は優勝に貢献)。トラックもそれほど良い記録を持っているわけではありません。マラソンを自分の種目として頑張っていけるような気がしてその点を質問しましたが、「まだまだ。今回はラッキーでした」とのこと。1回だけではダメだという認識は、選手たちにもあるようです。
 取材中、故障中の練習メニューについて質問が出て、高尾山のウォーキングをやっているという話を米田選手がしてくれました。高低差は? と聞くと、米田選手はわからないようです。選手は練習コースに対して起伏が激しいとか、すごい坂道が続くという認識の仕方はしても、数字で何mとは認識しないのでしょう。代わって毎日新聞の前陸上競技担当のISHIRO記者(現在は大阪勤務)が教えてくれました。

 米田選手の取材が終わって会見場に行くと、優勝したツェガエ選手の会見が始まっていました。
 続いて陸連の澤木専務理事と坂口泰男子マラソン部長。坂口泰監督は皇子山競技場で行われた1979年の滋賀インターハイ1500m優勝者です。当時、世羅高3年。思わず「30年前の思い出は?」と質問しそうになりましたが、そこまで場をわきまえない記者ではありません。
 佐藤智之選手、そして北岡幸浩選手と続いて会見は終了。この2人の会見内容は記事にしたいのですが、別大、東京と同じようなことを日記に書きながら記事にできていないような気が…。
 佐藤選手は会見の話だけでは不十分とどの記者も感じたようで、ドーピング検査終了を待ってカコミ取材。もしかしたら、検査の途中で出てきてくれたのかもしれません。柔軟に対応してくれた滋賀陸協と毎日新聞事業部に感謝をしたいと思います。
 このカコミ取材は流れがなかったというか、質問がバラバラでした。新婚ネタを突っ込みたい記者、国際大会代表への意欲を突っ込みたい記者、練習内容を突っ込みたい記者。寺田と大阪の硬派記者は練習内容を突っ込んでいました。最近、硬派記者と記事にするネタが重なっているような気がします。

 このカコミ取材が終了すると新聞記者たちは原稿書きに入りましたが、寺田はさらに粘りました。北岡選手のドーピング検査終了を待ってNTN逵中正美監督に話を聞かせていただきました。これが大収穫。記事の書き出しはこれで決まり、というネタを聞くことができました。
 そのほかにも独自取材ができましたが、そこは企業秘密です。陸マガ記事に反映させます。どこが共同取材のネタで、どこが独自取材のネタか、誌面からはわからないかもしれませんが。
 とにもかくにも、即日帰京のマラソン取材としては、充実した取材ができたと思います。


◆2010年3月13日(土)
 もう1週間がたって週末です。明日の名古屋国際女子マラソンの取材の会見があるので移動中です。
 ということで、この1週間をざっと振り返っておきましょう。
 月曜日は陸マガのびわ湖マラソン原稿締切でした。レース展開は前夜のうちに書き終えていたので、その日は佐藤智之選手と、初マラソン3選手、清水兄弟の人物もの。それほど長い文章ではありませんし、ネタ的には十分。視点も佐藤智之選手はドーピング検査後に取材できた二言で、筋が通りそうな感触がありました。
 北岡幸浩選手も逵中監督からお聞きしたネタを導入に使えば、今回のマラソンで置かれた状況や、その特徴を上手く書けるかなと感じていました。

 ちょっと困ったのが、初マラソン3人のうち吉井賢選手だけ指導者への取材ができていなかったこと。他の2人が練習の特徴に触れているので、吉井選手も同じ視点で何か書けないかな、と思ったのです。レース後の同選手への取材で練習についても聞いているので書けないことはなかったのですが、念のため橋本忠幸監督に電話をしました。
 橋本監督によればSUMCO TECHXIV最高記録。橋本監督の記録(2時間14分34秒)も上回りました。12月に階段トレーニング(999段の石段が近くにあるそうです)などで基礎的な部分がしっかりとできたことが良かったと言います。
 そういえば橋本監督が42歳、逵中監督が39歳。初マラソンで結果を出した3選手中2人が、若手指導者でした。

 火曜日は延び延びにしてしまった某会報誌原稿を書き上げました。
 火曜、水曜と懸案のサーバー移転に取りかかりました。
 12月にサーバーを移しましたが、あるプログラムを使うと負荷が大きくなって頻繁にエラーが出てしまいました。そのプログラムを外すことで今は大丈夫になっているのですが、現状ではやれることが限られてしまいます。
 サーバーというのは本当にピンキリで、月額数百円のものから数十万円のものまであります。値段の差が機能・サービスの差と思ってよければ選択に悩まなくてすむのですが、現在はまだ黎明期なのでしょう。安くてもなんとかなるサーバーもあるし、高くても負荷に耐えられないサーバーもあるのです。それを見抜かないと、またサーバー移転をしなくてはいけなくなりますし、移転にはかなりの労力が要るのです(お金もかかります)。
 いくつかあたりをつけて、導入前相談窓口にも電話していますが、なかなか難しいですね。普段は絶対に見ないのですが、口コミの掲示板のようなサイトの評判も見ています。ほとんどのサーバー会社に対してクレームが書き込まれているのですが、なんとなくは見えてくるものもあります。

 木曜日は午前中に日清食品グループ・岡村マネの取材。しょっちゅう顔を合わせている人物ですし、駅伝取材の突っ込みどころも教えてもらったりしています。今回は岡村マネその人の取材です。同じようなケースで5年前にも話を聞かせてもらいましたが、5年間でまた一段と成長したことがわかりました(自分が成長していないから?)。今では、浅野さんの跡を継いでスカウト業務もしているとのこと。
 学生時代から寺田が取材をすると話が長くなる2人でしたが、今日も予定時間をちょっとだけオーバーしてしまいました。
 ご存じの方も多いと思いますが、岡村マネは山梨学大のマネジャーでした。コニカミノルタの大島コーチも同じように、マネジャー出身で実業団チームで頑張っています。キャラは違いますけど、陸上競技へ一途に取り組んでいる点は同じ臭いがする2人です。大島コーチとは2月の青梅マラソン取材に会いましたが、2人と話をしているとハッとさせられることが多いですね。もう少し時間がたったら、文字にできるようになるでしょう。
 大島コーチもスカウト担当です。年齢や経歴は違いますが東洋大の佐藤コーチも現在はスカウト担当。当然といえば当然ですが、岡村マネの話を聞いてスカウト業務の重要性を再認識しました。

 午後は陸マガ編集部に行って、4月号と記録集計号を入手。
 記録集計号は新しく、日本記録変遷史が載るようになりました(これまでは本誌掲載)。巻頭に近い部分なので何か狙いがあると思って高橋編集長に質問をしました。が、それほど大きな理由ではなく、日本記録や当年の日本100傑が前の方なので、それらとくっつけて載せたかったとのこと。
 集計号作業で気づいたことで、あと1つか2つ書きたいネタもあります。下森直選手のこととか。

 そして昨日ですが、確定申告の書類を準備しました。15日が締め切り(消印OK)。
 毎年やっていることですし、帳簿は毎日欠かさずにつけているのですが、クレジットカードの明細や預金通帳を見て作業をしないといけない項目もあります。なんだかんだで1日仕事になります。
 リーマンショックの影響がかなり現れた1年で、取引先がガクッと減っていました。今年はもっと現れそうですが、それを避けるためにも今月は重要です。


◆2010年3月13日(土)その2
 15時から名古屋国際女子マラソンの前日会見。
 大南博美選手、加納由理選手、脇田茜選手、宮内洋子選手、中里麗美選手の日本人招待5選手と、D・ツル選手が出席。カコミ取材のない形式なので、この公式会見が選手と接すことのできる唯一の場。質問が相次ぎ、所定の時間(45分くらい?)はあっと言う間になくなりました。
 その前半部分はこちらに記事にしました。
 会見後はフォトセッション。多くの大会は外国人選手と日本人選手に分けて会見を行うので、その交替時に行うのが慣例ですが、名古屋は外国人が少ないので会見が分かれていません。フォトセッションは会見終了後になります。名古屋はカコミ取材もないので、ペン記者たちは指導者取材に突入します。

 寺田は中里選手の手持ちネタが少ないので、ダイハツ・林監督の取材に。
 初マラソンの中里選手は「明らかに長い距離に強いタイプ」だと言います。2月の中国・麗江合宿でヒザの痛みが出たと会見で中里選手自身が明かしましたが、そこまでひどい痛みではなく「違和感程度」だったようです。40km走が1本少なくなり、「スピードに切り換えるところ」が不十分だったといいます。
 それでも、入社3年目でマラソン出場ができたのは、中里選手の適性の高さから。「ジョッグの量やペースなど、1人の練習のやり方」がマラソン向きだと判断されたようです。

 続いて佐倉アスリート倶楽部の阿部コーチの話をお聞きしました(小出義雄代表は到着していませんでした)。会見で脇田茜選手(豊田自動織機)自身が話したように、2月の合宿で内臓疲労が出て予定した練習をこなせなかったようです。ただ、練習段階で脚の痛みがあった初マラソン(2009年大阪)前と比べたら、かなり良いといいます。
 その点、初マラソンの宮崎翔子選手(豊田自動織機)がしっかりと練習ができているとのこと。経験がないので、試合で力を発揮できるかどうかが課題です。その部分では脇田選手の方が実績があります。明日のレースでどう結果が出るか。佐倉勢も注目です。

 続いてトヨタ車体の高橋昌彦監督に。2月の青梅マラソン時に、名古屋の頃には4月以降のことを話すことができるとお聞きしていました。すでに記者たちのカコミ取材が終わっていて、あらためて話してもらうのは気が引けましたが、そこは雑談から入って話の流れで、ということで。
 4月以降のことはすでに各社の記事が出ていますが、東京に拠点を移します。受け容れ企業が見つかったわけではなく、色々な方向を模索しながらの活動になるそうです。「スポンサーを得られるチャンスも東京の方が多い」という点もあるようです。
 高橋監督は早大の大学院(場所は所沢でなくて早稲田)に進学し、企業スポーツやクラブチームについて研究をされるとのこと。大南姉妹はずっと姉妹だけの練習で来たので「周りのチームに出稽古」することも考えていると言います。
 おそらくカコミ取材ではあまり話題にならなくて、寺田が聞きたかったことが1つありました。大南博美選手の青梅マラソン後のトレーニングです。横浜国際女子マラソンに出場後はレースをつなぐ「いつもと違う練習パターン」に取り組んできました。これまでは走り込みをしてからスピードを上げるパターンでしたが、秋のマラソンから続ける流れになりました。
12月:愛知駅伝(6km)
   山陽女子ロード(10km)
1月:全国都道府県対抗女子駅伝(10km)
2月:丸亀ハーフマラソン(21.0975km)
   青梅マラソン(30km)
 一度しっかりと休む方法もあったのでしょうが、廃部を控えていることもありレースに出場する方法を選択したとのこと。
「都道府県で(疲れなどが出て)終わってしまうかもしれない、丸亀で終わってしまうかもしれない」。そういう可能性もあるなかで、博美選手の感覚を聞きながらトレーニングを進めたそうです。
 青梅の3日後に40km走、3〜4日空けてもう1本40km走と、本番が近くなって初めて40km走を入れました。スピードを土台ととらえ、本番が近くなって距離を伸ばすの弘山晴美さんのパターンです。
 ただ、絶対的な自信を持っているわけではないようです。
「(優勝の)チャンスはあると思いますが、マラソンは甘くはありません。ここまで来られただけで十分、合格点だよと博美には話しています。廃部という状況のなかで、名古屋に出なかったら『大南姉妹はどこに行っちゃったの?』という印象になってしまいます。スタートラインに着くことで、我々の意地を見せられればいい。最後まで競技にこだわっていくことが大事です」
 博美選手は大阪で前半を独走したこともありましたが、「気負って走ってしまう」ところがあります。優勝しなくていい、という気持ちになった方が良い結果が出るかもしれません。
 もしも博美選手が優勝したら、高橋監督は泣いてしまわれるのでは? それも見てみたい気もしますが。

 セカンドウィンドAC川越学監督と、京セラ・新原保徳の話は残念ながら聞く時間がありませんでした。
 加納選手はこれまでより、強度の高い練習をしたといいます。会見では「名古屋をイメージしながらクロカン練習を多くした」と話していました。宮内選手も12月の東アジア大会(3位)、1月の宮崎女子ロード(2位)、2月の丸亀ハーフマラソン(2位=日本人1位)と、高いレベルで安定しています。
 結果次第ですけど、明日、頑張って取材をしたいと思います。


◆2010年3月14日(日)
「寺田さん」
 9:45くらいにホテルのフロントで中日新聞と中日スポーツを買っていると声を掛けられました。振り向くとミズノの田川茂さん(走幅跳8mジャンパー)。そういえば昨夜も、記者3人で世界の山ちゃんで食事をしていたら、ミズノの皆さんとお会いしました。
 先週のびわ湖マラソンでも寺田が話を聞きに行く先々に、ミズノの鈴木さんと田川さんがいらっしゃいました。米田尚人選手の話を聞きに行ったら、鈴木さんが握手をしていました。今日もセカンドウィンドACの選手が優勝して話を聞きに行けば、鈴木さんが握手をしている予感がしました。

 10時にはホテルを出発して地下鉄で瑞穂陸上競技へ。
「寺田さん」と記者室に着くなり声を掛けられました。声の主を見ると中日スポーツの青山記者。シュツットガルト世界選手権に一緒に行った記者です。たぶん、デスクのはずですが(未確認)。
「寺田さんの顔を見ると安心するよ。他は知らない記者ばかりだから」
 なるほど。毎日新聞・ISHIRO記者も共同通信・宮田記者も陸上競技のメイン担当を外れ、日刊スポーツ・佐々木記者もバンクーバーから帰国後は相撲担当に。1990年代に陸上競技を担当していた記者は周囲を見渡してもいません。朝日新聞・酒瀬川記者がデスクから現場に戻っていますが、今週は岡山のSP記者こと小田記者がサッカー取材から復帰して担当しています(サッカー取材に行く飛行機でマーチン・マサシ選手と一緒だったと言います)。
 青山記者には思わず「20世紀陸上記者!」と返していました。「20世紀少年」をパロったわけですが、とっさに思いついたこの言葉が、自分でも気に入ってきました。20世紀陸上記者クラブとか結成しようかな。
 11時を過ぎたくらいに共同会見の段取りなどを、ピンクの大会関係者ジャンパーらしきものを着た中日新聞事業部の方と、定番のブレザーを着た愛知陸協の方が説明し始めました。その説明が終わると「寺田さん」と声が掛かりました。声の方を見ると先ほどの中日新聞事業部の方……3、4秒たって西澤記者と気づきました。髪型も変わっていましたし、事業担当になると記者とは雰囲気が変わるのです(正確には事業部ではない?)。
 大阪支社に栄転した桑原記者の前の陸上競技担当が田中記者で、その前の担当が西澤記者だったと思います。“中日新聞の良心”とも言われていた記者。懐かしい顔に会えるのは、その新聞社の主催レースならでは。
 桑原さんの後の陸上競技担当の松山記者を紹介してもらっていると、田中記者が「名前を出されちゃうよ」と言ってきました。日記に名前を出せ、という意味かもしれません。確かに、若手の川村記者ばかり名前を出すのは良くないでしょう。

 レース30分前くらいにスタンド下に出ると、明治乳業の中川さん(元早大競走部主務)が。中国電力やセカンドウィンドACの選手の近くでは必ず見る顔です。福岡勤務になるというのでちょっと寂しくなると思っていたところ。話を聞くと栄転のようなので、快く送り出さないと。
 隣にいた川越学監督に加納選手の練習の強度を上げた理由を聞こうと思った矢先、その加納選手が真剣な表情で駆け寄ってきました。師弟は何か話をしながら歩き去りました。何かあったのかな? という予感がしましたが、レース前にはよくあるシーンかもしれないと打ち消しました。
名古屋国際女子マラソン取材ネタ、続くはず

◆2010年3月14日(日) その2
 名古屋国際女子マラソン取材の後半です。
 レース前に優勝候補は誰かと聞かれるたびに、ツル選手(エチオピア)と寺田は答えていました。当然ですよね。
 日本選手トップは? という質問には、あるときは「うーん、わからない」と答え、あるときは「加納選手かな?」と答えていました。今回の加納由理選手(セカンドウィンドAC)の意気込みは、見た目にも違いました。“継続できる範囲の練習”を続けていくのが川越学監督門下選手の特徴です。それを今回は、いつもより強度を上げたといいます。
 “継続できる範囲の練習”は基本スタイルなので、その範囲内で上げたということだと解釈していましたが、それでも大きな違いであることは間違いないところ。世界選手権で入賞しながら、勝負所でつけなかった(“つかなかった”のか“つけなかった”のか、微妙なところでした)経験が、考え方を変えたのだと推測できました。直後の北海道マラソンで同僚の嶋原清子選手と尾崎朱美選手が自己新を出したことも、刺激になっていたはずです。

 その加納選手が、しっかりと勝ちきりました。優勝への意欲が強かった選手が勝ち、五輪金メダリストの海外強豪選手が2位。4月には愛知県から東京に拠点を移す大南博美選手(トヨタ車体)が3位。初マラソン選手も多かったのですが、そのなかでは伊藤舞選手(大塚製薬)が最後まで加納選手に食い下がって4位。記録はよくありませんでしたが、上位のメンバーはそれぞれに特徴&背景があり、面白いマラソンだったと思います。
 日本の上位3選手は全員、全日本実業団駅伝に出なかった選手です。2人は京都の大学出身……ですけど、そういった分類が重要とは思いません。それよりも、気持ち次第で選手は変わることができる。それを取材を通じて強く感じました。

 レース後の取材はミックスドゾーンから始まりました。
 宮内洋子選手(京セラ)や中里麗美選手(ダイハツ)の話も聞きたかったのですが、そう何人も取材ができるわけではありません。3位までは会見が行われるので、まずは4位の伊藤舞選手に声を掛けて話を聞きました。レース中に上海マラソンの取材ノートを読み直しました。「マラソンは1年後に」と上海では話していました。
 一通りレースの感想や振り返りを聞いた後は、短期間でその方針を改めた理由を確認しました。2月のニュージーランド合宿でトップ選手たちと一緒に練習したことがきっかけだったようです。気を付けないといけないのは、トップ選手について行くことができたわけではないということです。
 それでも、マラソン出場を決意し、成功と言っていい成績を残しました。そういえば、2月の別大マラソンでも、同じ大塚製薬の井川重史選手が日本人トップに入りました。大学も同じ京産大です。
 続くミックスドゾーン取材はSWACの川越学監督。本音を話す監督です。結果が出たからと、あまりドラマ仕立てにした話し方はしません。寺田が聞きたいことはもう決まっていましたが、ミックスドゾーンでトレーニング内容を事細かに聞くのはNGです。一応、SWAC会報誌の仕事もしていますので、話を聞くチャンスは後でもあると判断。マラソンではありませんが、取材も我慢が大事です。
 それでも、突っ込みどころはしっかりと聞かせていただきました。
「“尾崎に優勝をプレゼントしたい”と言っていました。加納にしては珍しいことだと思います」
 これは“いただきます”ですね。

 川越学監督の話の最中から、そろそろ共同会見が始まるのではないかと、気にするようになりました。複数の記者を出してきている社はともかく、単独で取材に当たる記者にとっては気をつけないといけないところです。寺田は中日新聞・松山記者がミックスゾーン取材をしているかどうかに気を配っていました。共同会見の代表質問を最初にする記者が近くにいる限り、会見は始まっていないということです。
 この辺は20世紀陸上記者ならではの取材テクニック。マラソン取材も年季が必要なんです。と思っているのですが、若手の川村記者がすでにその方法に気づいていたら立つ瀬がないですね。

 共同会見は陸連の専務理事&女子マラソン部長の会見から。2人が一通り話すと会見は終了。質問を受け付けなかったので何人かの記者と顔を見合わせました。時間が押しているのかもしれません。誰も抗議はしませんでしたが、何人かの記者は陸連幹部を追いました。
 続いて加納選手、ツル選手、大南選手の会見です。加納選手のコメントはすでに記事にして掲載しましたが、加納選手が自身でも感激していることが伝わってくると思います。
 3人の会見後は伊藤選手と脇田茜選手(豊田自動織機)が呼ばれていました。3位までの予定でしたが、主催者が急きょ変更したようです。記者たちからの要望があったのかもしれませんが、柔軟な対応は良いことだと思います。
 ただ、伊藤選手はミックズドゾーンで話を聞いてあったので、寺田はボイスレコーダーを残して廊下のカコミ取材に移りました。大南選手の会見時コメントが少なかったので、同選手のカコミ取材の輪に加わりました。

 続いて高橋昌彦監督のカコミ取材に。一通りの質問が出終わった頃合いを見計らい、大南姉妹との出会いを改めて質問させていただきました。ご存じのように大南姉妹は駅伝で優勝した東海銀行時代は竹内伸也監督の指導を受けていました。同監督が2001年末に高橋監督をヘッドコーチと招聘し、そこから姉妹との師弟関係がスタートしました。
 つまり、高橋監督自身がスカウトした選手ではなく、指導を引き継ぐ形だったのです。スカウトした選手との運命的な出会いはありますが(末續慎吾選手と高野進コーチなど)、引き継ぐケースも“出会い”や“運”になります。昨年12月の全日本実業団対抗女子駅伝で三井住友海上が優勝し、監督2年目の渡辺重治監督の話を聞いていて、“運”“縁”という部分に注目するようになりました。箱根駅伝優勝の東洋大・酒井俊幸監督にも、それを強く感じました。
 高橋監督とはいつの間にかよく話をするようになっていたので、寺田も師弟の出会いをしっかりと聞いたことがなかったのです。師弟関係を当たり前のようにとらえて話をしていましたね。しかし、あらためて考えてみると、34歳になる姉妹が2度目の廃部を突きつけられてもなお、高橋監督と行動を共にする決意をしているのですから、その結びつきの強さに注目すべきでしょう。
 “16年間拠点にした名古屋を離れる”という視点は地元紙を中心に質問がたくさん出ていました。寺田は、高橋監督・大南姉妹の9年間の師弟関係にスポットを当てるための質問をしました。そうしたら、予想以上のコメントが高橋監督の口から出てきたのです。出会いは本当に“運”を感じさせるものでした。それを踏まえた上で「最後まで姉妹の面倒を見たい」と言います。取材中でしたが瑞穂競技場の廊下で、プチ感動してしまいました。
名古屋国際女子マラソン取材ネタ、もう少し続くかも

◆2010年3月14日(日) その3
 カコミ取材が終わって記録を揃え、表彰式&閉会式会場の本部ホテルに移動しようとすると、「寺田さん」と声を掛けられました。今度は日本経済新聞・市原朋大記者です。データ的な問い合わせかと思ったら、「今日で陸上競技の取材は最後なんです」と言い出します。4月に大阪から東京に転勤とは聞いていましたが、運動部から他の部に移るとは聞いていませんでした。
 いきなりの別れの挨拶。こういうのは苦手なのです。なんと言っていいのか、とっさに言葉が出てきません。「20世紀陸上記者」とかならアドリブで出てくるのですが…。
 市原記者といえば、ある女子選手が同記者の質問中に泣いてしまったことが一番印象に残っています。07年か08年のある大会の記者会見中のこと。変な質問をしたのではなく、普通の質問でした。その選手が競技的・精神的に、苦しい状況に置かれていたからだと思います。
 つもる話もありますが、閉会式の前に取材もしないといけませんし、新聞記者はもう締め切りに追われ始める時間です。握手をして記者室を後にしました。
 そういえば、ミズノの鈴木さんが加納選手と握手をしているところを見かけませんでしたが、間違いなくしていたと思われます。いつぞやの北海道マラソンのように川越監督よりも先にした、なんてことはないと思いますが。

 本部ホテルに行く地下鉄の中で記録と取材ノートを見ながら考えを整理しました。日本の上位3選手の記事の見出しがぼんやりと浮かんできて、徐々にクリアになっていきます。調子が良い証拠です。
 加納選手記事の見出しは「可能性が広がった加納」で決まり。彼女の記事を書くようになったのは資生堂時代の終盤からだったと思いますが(島田で取材させてもらいました)、いつか“可能”という言葉を使いたいと思っていました。
 それがやっと実現できる状況になりました。駄洒落かよ、と言う人には勝手に言わせておけばいいでしょう。
 練習を変えたことはすでに紹介しましたが、セカンドウィンドACになってからは周囲への感謝の気持ちも強くなっています。年齢的な理由かもしれませんが。前述の川越学監督のコメントにあるように、今回は尾崎朱美選手に優勝をプレゼントしたい、とまで明言しました。
 尾崎選手や周囲の人たちに対する気持ちは、村上幸史選手が北京五輪のスタンドで、浜元先生をはじめとする支援者に対して抱いた気持ちと似ていると感じました。記事に書き込めたらいいのですが…。
 こういった変化が優勝という形になって表れました。おそらく、自分のマラソンをつかんだのではないでしょうか。型ができてきたのだと思われます。そうなると選手は伸びていきます。川越学監督の大局的なトレーニング方針でやってきているので、31歳ですが伸びしろは十二分にあると思います。。
 大南博美選手の見出しは「気持ちで走った最後の“地元”マラソン」で行こうかと思いましたが、それでは他メディアと同じになるのでやっぱり、「大南姉妹と高橋監督の出会い」というニュアンスになりそうです。実際には、もう少し洗練させた言葉にしないといけないでしょうけど。
 そして伊藤舞選手は「初マラソンの大塚製薬」です。

 大会本部の名古屋観光ホテルに着くと、表彰式&閉会式会場の外で待機。会場内で取材はできないので、外で関係者をつかまえる作戦です。
 まずは某組織のM氏と話をしました。今日の結果をどう思うか質問されました。M氏は立場上手放しで喜べないだろうと推測しました。寺田も手放しというわけではありませんが、立場的には報道することを一番に考えます。評価よりもまず選手たちの頑張りや、一般の人が気づかないような部分を文字にする。そういう意味では良いレースでしたし、取材中の手応えもまずまずでした。
 地下鉄車内で考えてきた見出しと、その理由を話しました。「やっぱり駄洒落が大事ですか?」とM氏。「大事だと思いますよ。競技を楽しく紹介することは意味があるし、記事自体はふざけているわけではないので」と寺田。
 つけ加えるなら“コメディー”としての味付けをしたいという、かねてからの主張をもう一度書いておきます。解説するのも無粋ですが、コメディーは一生懸命に生きている人間が描かれることが多いのです。表面的なギャグを言っているわけではありません(そういうケースもありますが)。
 選手や指導者に敬意をもって書けば、品が落ちることもないと思っています。
 続いて大塚製薬・河野匡監督が姿を見せたので、「初マラソンの大塚製薬」という記事を書くための取材をさせてもらいました。が、話を聞いて見出しを修正することに。大塚製薬としては“絶対に初マラソンを成功させよう”、という意図はないと言うのです。むしろ「初マラソンの敷居を低くしている」のだそうです。その後のマラソンにつながていくこと、2回目や3回目で結果を出すことの方が重要だと。
「初マラソンの大塚製薬…というけれど」というニュアンスに変更することにしました。
 そうこうしていると「寺田さん」と、電話がかかってきてきました。浪速の硬派記者からでした。内容は企業秘密でしょう。

 閉会式&表彰式では色々な関係者の方たちと話をすることができました。
 壇上で進行していたセレモニー(?)にはあまり注意を払っていませんでしたが、加納選手が上がったときには、その話をしっかりと聞きました。個別取材ではありませんからメモを取っても問題ないでしょう。
 そのときのコメントが実にしっかりとしていました。高校(須磨女。現須磨学園)、大学(立命大)時代に取材をしたという神戸新聞・大原記者や京都新聞・万代記者にも聞かせてやりたかったです。パーティーの壇上挨拶とは思えないくらい、自身の走りやトレーニングを話してくれて、“可能性が広がった加納”の記事の補足取材になりました。
 加納選手の壇上挨拶を聞いた後にSWACの平田真理コーチと尾崎朱美選手と雑談。平田コーチからは選手本人とは違った視点で、今回のトレーニングの流れについて話を聞くことができました。尾崎選手は「チームメイトのために走った」(加納選手&川越監督)という部分の、具体的なエピソードを話してくれました。
 パーティー終了後には大南選手姉妹に少しだけ時間をもらって、独占取材をさせていただきました。高橋監督側からの話は聞いていたので、同じときに選手側がどう感じていたのかを知りたかったのです。
 その後は川越学監督に挨拶をして(取材ではありません)、帰路につきました。


◆2010年3月16日(火)
 16時に体協へ。アジア大会マラソン代表が発表されるのです。
 男子の代表は佐藤智之選手(旭化成)と北岡幸浩選手(NTN)。びわ湖マラソンの日本選手1、2位です。東京マラソン1〜3位の藤原正和選手(Honda)と藤原新選手(JR東日本)、佐藤敦之選手(中国電力)は「選考俎上に上がったが、諸般の事情で佐藤智之と北岡になった」(河野匡陸連長距離・ロード特別対策委員会副委員長)とのこと。
 女子は名古屋優勝の加納由理選手(セカンドウィンドAC)と、横浜で日本人トップの嶋原清子選手(同)。大阪で日本人1位だった小崎まり選手(ノーリツ)は、「同じ11月に行われた広州のアジア選手権で1万mに出場した。広州でパフォーマンスを出し切ることに不安を感じた」ことも、「精査」するなかで考慮したといいます。
 名古屋のレース後に「アジア大会は出ません」と加納選手は話していたので、記者たちは驚いたようです。今日、2010年世界選手権の選考規定でアジア大会に関する部分が“アジア大会の金メダル”から“アジア大会のメダル”に変更されました(一度決定した選考規定を変更したことに関しては、河野陸連会長からも厳しい言葉があったと聞きました)。それを陸連と加納選手陣営が話し合ったからではないか、という疑問も出ましたが、選考規定を変更するのは昨年末時点で現場には通達してあったと言います。
「陸連が無理強いをしたわけではない」と澤木専務理事。
 加納選手側の判断のようです。川越監督は自身のブログで
「当初、加納はアジア大会出場辞退を表明していました。また、私もマスコミの方々に出場しないことを伝えましたが、最終的に加納と相談した結果、昨年の世界選手権優勝白雪選手の中国や北朝鮮の選手などレベルの高いアジアできちんと勝負してから世界に挑戦することにしました」
 と書いています。

 寺田は次の取材があったので、会見後のカコミ取材は途中で退出。2時間ほど都内の別の場所で取材後に、再度体協の記者クラブに戻りました。
 今日は午前中から理事会、評議員会も行われていて、そこで何か新しい決定がなされたか、傍聴していた記者たちに聞いて回りました。陸連から会議資料も受け取ることができました。
 選考規定では競歩のアジア大会選考競技会から、ワールドカップ競歩(メキシコ)が削除されました。
 日本ジュニア選手権&ユース選手権の開催地が、愛知県開催で固定化されることになりました。全日本ジュニア選抜だった頃から、一番多く開催してきた県です。交通の便利な場所での開催にして、参加を今以上に促進することも狙いだそうです。
 強化指定選手の入れ替えも承認されました。選手の所属を見ていくと斉藤仁志選手が○○○○○、金丸祐三選手が大塚製薬、吉田和晃選手が大阪ガス、モーゼス夢選手がミキハウスと、大学4年生選手の所属が4月以降のものになっていて新鮮です。池田大介選手の○○○入りも決まったようです。○○はまだ受け容れ先からの発表があったのかどうか、未確認なので伏せておきます。
 スポーツ活動支援競技者は土井宏昭選手、吉形政衡選手、十亀慎也選手の3人が前年から継続です。


◆2010年3月18日(木)
 志田哲也先生の日記を読んでいたら陸マガ記録集計号の話題が出ていました。志田先生の記録は7m95。走幅跳です。「私の日本歴代記録は17位に」と書かれていますが、昨年の集計号では歴代16位。新たに志田先生の上に来たのは、昨年の日本選手権で8mジャンパーとなった菅井洋平選手だけということです。
「自己記録をマークしてから14年が経過です。現役チーム、もうちょっと頑張らねばですね」と、先輩として苦言を呈しています(言い方は柔らかですが)。
 特に筑波大OB記録は、破られそうで破られません(志田先生が持っていた7m90の筑波大記録は、2006年に藤川健司選手が1cm更新しましたが)。頑張れ志鎌秀昭選手! 品田直宏選手! と、志田先生に代わって書いておきます。

 志田先生の日記を読んで思い出しました。記録集計号の名鑑作業をしていて面白いと感じたことを1つ、書き忘れていました。
 福岡国際マラソンで日本人1位となった下森直選手の過去の戦績を調べていたら、全日本実業団の成績がすごく安定していました。第一工大から安川電機に入社して2年目の2001年が41位(タイムレースで1組17位)、02年が40位(前年と同じ1組17位)、03年が47位(1組22位)、04年が29位(2組14位)、05年が38位(前年と同じ2組14位)、06年が53位(2組18位)。
 同レベルの他の選手を調べてみないとなんとも言えませんが、ここまで同じレベルで推移した選手は珍しいのでは? それが昨年の福岡の成績につながった、とまでは論証できませんが…。
 ちなみに第一工大時代の日本インカレはハーフマラソンに2年時から出場していて18位、6位、24位でした。
 その下森選手ですが、福岡の数日後に電話取材をしたときは「アジア大会代表に選ばれたら出たい」と話していました。アジア大会代表は佐藤智之選手と北岡幸浩選手に決まりましたから、現役は続行しないことになると思われます。が、4月に補欠が決まると言うので、判断が微妙なところでしょうか。


◆2010年3月19日(金)
 筑波大・谷川聡コーチと富士通・佐久間コーチに電話をしました。
 斉藤仁志選手の進路はサンメッセで公表して大丈夫とのこと。サンメッセは岐阜県の印刷会社で、太田和憲選手も所属しています。
 あとで陸マガの記録集計号を見たら、斉藤選手の4月以降の所属はすでに、サンメッセとなっていましたね。問い合わせをするときは、しっかり調べてからしないと。
 しかし、谷川コーチと話ができたので無駄にはなりません。4月4日の筑波大競技会にも、専門外種目で谷川門下の主力選手が出るようですし、4月17・18日の出雲陸上にも出場するといいます。
 佐久間コーチには池田大介選手の富士通入りを確認しました。醍醐選手と似たパターンです。ということは、1年目から期待できる? 松田克彦混成部長が1993年に出した7871点の富士通記録がちょうど良い目標となりそうです。

 クリール5月号が届きました。
 青梅マラソン参加者のコメントが17人ほど載っていて、そのなかには男子優勝の太田崇選手と2位の片岡祐介選手の北海道コンビ、女子優勝のマーラ・ヤマウチ選手と2位の大南博美選手のものも。テーマはインターバルトレーニングに絞られています。文字数が少ないときはこうして、ポイントを絞って聞くのが効果的ですね。
 インターバル1つをとっても持ちタイムや走る目的によって、色々な走り方があることがわかります。
 アディダスと契約した三村仁司さんと、アディゼロ(ゲブルセラシエ選手が履いているシューズ)開発者の萩尾孝平さんの対談も載っています。あらためて書くまでもなく選手の動きは十人十色で、求められるシューズもそれぞれです。「本当に履く人にあった靴を作るためには、心のつながりを築き、彼や彼女について多くの情報を得ることが大切」と三村さん。
 エリート選手よりの企画ではありませんが、「ランニング今昔物語」は、純粋に楽しめました。文章自体がしっかりした知識に裏付けされたユーモアで好感が持てますし、30kmが「絶滅危惧種目」とかタイムリーな話題も多くて、本当に面白く読むことができました。


◆2010年3月20日(土)
 18日の日記に福岡国際マラソンで日本人1位だった下森直選手(福岡国際マラソン記事)のことがに気になったので、電話をしてジア大会補欠のオファーが来たらどうするかを確認しました。4月以降のことなどもあり、ここにはっきりと書くことはできませんが、「他のレースは見ていましたよ。やっぱり、みんなしっかり走ってきますね。抜かれるのは覚悟していましたけど」と話してくれました。
 18日の日記に書いた全日本実業団1万mの順位が安定していたことは、「気づいていませんでした。出てもあの程度だったということです」と言います。しかし、そういうトラックでの積み重ねがあったからマラソンで気づくこともあったのかもしれない、というこちらの意見には同意してくれました。
 全国的に見たら地味な選手だったといえると思いますが、最後の(つもりで臨んだ)マラソンで脚光を浴びました。「レベルが低かったから」と本人は不本意なようですが、それも人生です。将来、指導者になるのかサラリーマンを続けるのかわかりませんが、「あのときの福岡で日本人トップだった選手ですか」と言われることが、あるかもしれません。
 最近お気に入りの言葉を使うなら、それも“運”ですね。


◆2010年3月21日(日)
 全日本実業団ハーフマラソンをテレビ観戦。
 男女ともケニア選手が優勝しましたが、日本人選手にもオッと思わせる選手が現れました。男子では日本人トップの圓井彰彦選手(マツダ)。アフリカ選手たちの集団にただ1人入って、後半も潰れませんでした。
 アフリカ勢にただ1人食らいつくのは、かつての高岡寿成選手(現カネボウ・コーチ)や、法大の先輩である磯松大輔選手(現コニカミノルタ・コーチ)がやっていた走り方。それができたのは調子が良かったから、ということもあると思いますが、そういうメンタルの持ち主なのだと思います。

 圓井選手を取材したことが一度あります。2006年12月発売の陸マガ箱根駅伝展望増刊号で、法大の4年生4選手の座談会をしました。座談会という雰囲気ではありませんでしたね(言葉自体もちょっと古い?)。こんなに盛り上がっていいのか、というくらいに盛り上がりました。
 4人というのは
圓井彰彦選手:スピードのあるエース(4年時に出雲1区区間2位)→マツダ
田中宏幸選手:長い距離に強いエース
松垣省吾選手:下りに強い長髪選手(3年時に箱根駅伝6区区間2位)→NTT西日本
友広哲也選手:キャプテン

 圓井選手が自信たっぷりのコメントをするタイプで、田中選手と法大のツートップと言われていることが話題になると「オレのワントップ。28分台だっていつでも出せる」と平気で話してくれました。嫌みなく話せるキャラでしたね。
 松垣選手はすごい長髪でしたが競技を熱く語るタイプ(ニューイヤー駅伝公式ガイドの顔写真を見ると今は短いです)。三重県出身で「地元の全日本大学駅伝を走れなかったことがものすごく悔しかった。だから後輩には、シード権を残してやりたい」と、箱根駅伝記事にふさわしいことを話してくれました。
 「(箱根駅伝の目標は)…あんまりないなあ」と、謙遜したことばかりを言うのが田中選手でしたが、それを圓井選手と松垣選手でめちゃくちゃにいじっていました。友広選手が「ミーティングは一度もしたことがない」と、まとめることを半ばあきらめているキャプテンなのですが、それでも自然とまとまっているチームという印象でした。
 その号だけでなく、過去の箱根駅伝記事のなかでも異彩を放っている記事だと思います。寺田の腕というよりも4人の個性がすごくよく出ていて、それでいてどこかまとまりもあって、それが法大らしさだったということだと思います。手元に箱根駅伝2007がある方は読み直してみてください。
 そこに圓井選手が強くなる要素が書かれていた、とは言いません。しかし、あそこまで言い切るからには、やることはやるタイプなのだろうと感じました。


◆2010年3月22日(月)
 昨日の全日本実業団ハーフの女子日本人トップは尾崎好美選手(第一生命は株式会社になりました)。同僚の勝又美咲選手とともに優勝したダニエル選手(ユニクロ)に食い下がり、後半は独走となりましたがしっかり走りきりました。
 今日の朝日新聞記事で山下佐知子監督のコメントなどを読むと、世界選手権の頃よりも強くなっているとのこと。4月25日のロンドン・マラソンが楽しみになってきました。
 3位争いを制した永尾薫選手(ユニバーサルエンターテインメント)も注目選手。市船橋高から入社して全日本実業団対抗女子駅伝は1年目の2008年が4区で区間8位、09年は1区でやはり区間8位。いきなりエース区間登場でもありませんし、いきなり区間賞争いでもありませんが確実に、それも遅くないペースで強くなってきている選手です。
 そういえば男子日本人1位の圓井彰彦選手(マツダ)もニューイヤー駅伝1区で区間5位と好走しています。

 話は女子に戻りますが、正井裕子選手(日本ケミコン)が5位と好走。前週の名古屋国際女子マラソン4位の伊藤舞選手(大塚製薬)に続き、昨年11月の上海マラソンで取材した選手が好走しました。
 扇まどか選手(十八銀行)も6位と久しぶりに好走。名古屋で高木監督が「扇も良くなってきたよ」と話していたことを思い出しました。


◆2010年3月23日(水)
 13時からセカンドウィンドACのオフィスで、4月発行の会報誌用の取材。川越学監督と尾崎朱美選手にインタビュー取材をしました。
 川越監督からは名古屋で聞けなかった“1ランク強度を上げた練習”についてお聞きしました。セカンドウィンドACの基本方針である“継続できる練習”という部分を崩しているわけでなく、その枠のなかでの違いということになります。
 これはトレーニングに限らず、選手の動きにも当てはまることではないでしょうか。大きく見た場合、その選手の特徴を大きく変えることは難しいのですが、そのなかでも小さな変化をつけていく。
 しかし、小さな変化でも選手にしてみれば「大きく変えた」ということにもなります。どう表現するかは選手によりますし、ケースによっても違ってきます。
 川越監督は今年度の新規事業についても言及しています。同監督にはやり手のクラブ経営者という一面もあるのだと、あらためて認識しました。

 尾崎朱美選手には、どこまで突っ込んでいいのか難しいインタビューでした。“区切り”と決めた東京マラソンで、寒さのために途中棄権(35km過ぎ)という結果。本人のショック、無念さがどの程度のものなのか、第三者に推し量ることなどできません。
 ただ、前週の名古屋国際女子マラソンで加納由理選手が優勝しましたし、レース後に尾崎選手とも少し話ができていたので“とっかかり”はありました。会報誌ですから、サポーターズ会員が知りたいことをイメージしながら話を聞かせていただきました。
 手探りしながら話を進めましたが、一番つらい部分も質問して大丈夫と感じたので、“区切りのレース”でフィニッシュできなかった選手の気持ちを聞かせていただきました。
 名古屋のレース後の高橋昌彦監督の取材時もそうでしたが、ちょっと感動しながら話を聞いていました。感動してしまうのが取材者として良いのか悪いのかわかりませんが、感動を伝えることは重要だと思って仕事をしています。


◆2010年3月25日(木)
 今週は営業と新サーバー探しでてんてこ舞い状態。営業は本サイトの広告やタイアップ記事関連も頑張らないといけませんが、今は新年度の取材活動の営業が多くなっています。といっても、陸上記事の需要がそれほどあるわけではありません。ニッチな産業です(陸上競技ではなくて、陸上競技の報道がです)。
 今日は新宿の銀行に。ビジネスとは直接関係はしていませんが、関係がまったくないとも言い切れません。

 夜、やっと新しいサーバー会社&プランを決定して、申し込みました。この手のことはほとんど、ネット上でできます。最近は。
 ちょっと専門的な話になりますが、共用サーバーからVPSサーバー(仮想専用サーバー)に。金額的には約2倍になります。問題は、現行サーバーで失敗した点(あるソフト導入時にサーバーに高負荷がかかってエラーが頻発すること)が解決できるかどうか。
 その前に、サーバーを変えてもドメイン(rikujouweb.com)は変更しないので、その切り換え作業が上手くできるのかどうか。
 今度のサーバー会社は24時間電話サポートがあるので助かります。昼間はほとんどつながらないか、30分待ちが当たり前なのでしょうが、寺田の場合は夜遅くに電話することもできます。

 クリール樋口編集長ブログロサンゼルス・マラソンのレポートが4回に分けて掲載されました。ロサンゼルスはコースの風景も、レース後の観光も申し分のないマラソンのようです。ホノルルとゴールドコーストの2つだけを走って「ホノルルは最高!」と声高に言わないように、と書かれています。
 そういえば以前、セカンドウィンドAC会報誌用の取材のためにホノルル・マラソンの勉強を一夜漬けでしたことがありました。夜明け前にスタートして、日の出を見ながら走る雰囲気が良いらしいと書いたことがあります。他のマラソンにはないと。
 ところが、サイパン・マラソンも同じように、サイパンの美しい海岸線を走りながら日の出を見ることができるのだそうです。

 計測工房がタイム測定を担当している大会で、には、以下のような記述があります。
サイパンマラソンの目玉といえば豪華なアフターパーティです。選手の皆さんは
無料で参加でき、ホテルのビーチにてビュッフェ形式で自由に料理をいただきながら、
音楽、ゲストのトーク、そして表彰式、お楽しみ抽選会など多彩なプログラムで盛り
上がりました。日本の大会では味わえない海外ならではのイベントですね。
サイパンマラソンは日本国内のマラソンに比べるとまだまだ小規模な大会ですが、
毎年確実に参加人数が増加しています。日本から直行便で3〜4時間で到着し、
時差も1時間というロケーションはまさに日本人向けだと思います。


 ただ、そんなにあちこちの大会に出場できない人が、自分が参加した大会が最高と思うことが悪いこととは言い切れません。
 こういう例え方がいいのかどうかわかりませんが、人は生まれてくるときに国を選ぶことはできませんが、生まれた国が最高だと思うことが悪いこととは思いません。
 中学生が進学先を選ぶときに、地元(通学範囲内)の陸上競技の強い高校を選ぶのは当然です。そこが自分に合ったいるかどうか、ということまで検討するのは難しいと思います。
 高校生も五十歩百歩でしょう。大学を選ぶときに、その大学の指導者が自分に合っているかどうかまで、18歳の人間が判断するのは不可能です。
 入学してから合わないと実感したとしても、部内で孤立したり転校したりするのは簡単にできることではありません。
 と書いてきて気づきました。情報がいくらでも入手できる市民マラソン選びと、同列で論じるべきことではありませんでした。市民ランナーはしっかりと情報を入手してレース選択をしましょう。


◆2010年3月29日(月)
 大阪に日帰り出張をしました。朝原宣治さんと柳本晶一・前バレーボール全日本女子監督が中心となって設立したアスリート ネットワークの取材のためです。
 14:40頃に大阪市立中央体育館に到着。「キッズドリームスポーツチャレンジinおおさか」の取材です。陸上競技のほかにテコンドーとバレーボールをやっている小学生たちが100人以上集まって、朝原さんや岡本依子さん、柳本さんの指導を受けました。その様子はこちらの記事でも紹介しています。

 メニューは子どもたちにより興味を持ってもらうためのものだと感じました。記事にもしたように、空中での両脚交差や両腕を回し走などは、子どもたちにとっても遊戯性と新鮮さを感じられたのではないかと思います。ダッシュは2本だけでしたが、朝原さんと一緒に走るのはものすごくインパクトのあることでしょう。
 そういえば室伏広治選手が数年前の公開練習のときに、記者たちに実際にハンマーを投げさせていました(寺田も投げました)。見ることと実際に経験することとは、言葉では上手く説明できないのですが何かが違います。
 子どもたちだけで走っていることと五輪メダリストと走っていることも、違う何かを感じるはずです。そういえば青戸慎司コーチも以前、「子どもたちの前で本物の走りを見せたい」と話していましたね。

 スポーツ教室の後はトークショー。これも記事で触れていますが、朝原さんの一番最初の夢が「みたらし団子屋になること」だったとは知りませんでした。トークショー終了後に少し突っ込みました。
「大好物だったんですよ。新開地という駅近くにあった店のみたらし団子が大好きで、それを毎日食べるには団子屋のオーナーになればいいと思っていました。それが小学校で草野球や草サッカー、ドッジボールなどを夢中にやるようになって、中学ではハンドボールをやって…」
 高校から陸上競技を本格的に始めたことは、日本の総人口の19%が知っています。京都の同志社大を進学先に選んだのは、「自分でメニューを決められることもあり」と肉体マネジメント(幻冬舎)か陸マガの引退記事に書いてありましたが、本当の理由はみたらし団子が京都発祥だったからです(この日記を書いているのは4月1日です)。

 スポーツ教室の後は場所を大阪城スクエアに移して設立総会が行われ、理事と規約などを承認して任意団体として正式にスタートしました。設立総会は公開で行われ、予定通りの議事進行だったようですが、この手の法律上の手続きをする会議は初めて見たので新鮮でした。その後は記者会見、設立報告会(パーティー)と進んで行きました。
 寺田は東京に戻らなければいけなかったので、設立報告会は15分くらいで失礼させていただきましたが、参加者のリストを見たらスポーツ界にとどまらず、各界で活躍している人物が多数参加していました。この盛り上がりは、実際に足を運んでみないとわからないことです。

 多忙な朝原さんですが、ちょっとした空き時間に気になっていた話題を振りました。昨晩(深夜)の世界室内のテレビ解説についてです。
 朝原さんと佐藤文康アナ(全日中800m優勝者)と安藤あや菜世界陸上レポーターと3人のトークが、競技映像の合間に何回か入りました。女子走高跳のヴラシッチ選手(クロアチア)を朝原さんが気に入っている(?)ネタなど、軟らかい話題も多く、3人で良い雰囲気を醸し出していました。
 朝原さんがヴラシッチ選手を好きになったのは、昨年の世界陸上前のゴールデンリーグ放映時から。ライバルのフリードリヒ選手(ドイツ)をクローズアップする過程だったか、美人選手の話題になったときに、朝原さんが「僕はヴラシッチですね」と発言したのが発端です。そのときも、朝原・佐藤・安藤の3人で番組を進めていたと記憶しています。そのときも深夜でした。
「トリオに命名したいんだけど」と寺田。
「そうですねぇ」と朝原さん。
「朝原のA、佐藤アナのS、安藤レポーターのAで“アサトリオ”というのを新幹線に乗りながら考えたんだけど、ちょっと語呂がよくないので“深夜だけど朝トリオ”にするのはどないや?」と、最後だけ関西弁で提案しました。
「いいんとちゃいます」と言うほど朝原さんは三枚目ではありません。


◆2010年3月31日(水)
 やっとサーバーの移転と、新規ソフトの導入を昨日完了しました。今日の昼間のアクセス集中時間にもエラーが出なかったので、問題はないと判断。サーバーを変えたにもかかわらず同じエラーが出る、となるのが最悪の事態でしたから、本当にドキドキでしたし、大丈夫とわかったときはホッとしました。昨年の9月以降、ずっと振り回されてきた問題でした。半年がかりでした。半年以上ですね。
 ソフト的にはまだ完璧にはなっていないのですが、とりあえずは前に進み始めることができます。

 2009年度最後の日ということで、それらしい話題もネット上で多く見られました。
 旭化成は女子選手がいなくなるとのこと。女子を廃部するというわけではなく、人材がいれば積極的に受け容れるつもりだということです。
 法大・苅部俊二監督のブログには坪田智夫選手(コニカミノルタ)の法大長距離コーチ就任の情報が出ていました。
 日清食品グループにはギタヒ選手と松村拓希選手の退部の告知が。ギタヒ選手に関しては先日の岡村マネ取材時に聞いていました。日清食品グループとしても、大功労者のギタヒ選手に対し引退後の考慮をしたそうです。ギタヒ選手がそれを受けることにするのか、外部に出るのかは決まっていませんでした。どうするのでしょうか。


◆2010年4月1日(木)
 新年度初日らしく、人事の話題がネット上を賑わせました。高橋昌彦監督ブログには廃部と東京移転の挨拶がありました。上野敬裕監督ブログではSTCIに柳原元氏の加入が発表されていました。柳原さんは元Hondaのコーチで、海外留学経験を生かし、海外業務部門を主に担当されるようです。
 ススキのクラブ化も新聞各紙で話題に。

 ビックリした人事が3つ。
 まずは大森国男氏の現場復帰。それも、実業団ではなく高校です。インターハイ総合で優勝し続けた頃のようなチーム作りをされるのか。埼玉新聞の記事を読む限りでは、まずは駅伝で、ということのようですが。
 続いて飛び込んできたのが藤原新選手独立という情報。実業団に在籍していれば生活は安定しますし、チーム内でもある程度は練習に自由が認められていました。すぐには信じられませんでしたが、間もなく通信社の記事がネット上に載り、事実だと確認できました。
 トレーニング方法もそうですが、話していて個性が強い選手だというのはわかります。実業団なら生活が安定すると書きましたが、藤原選手ならあり得る話だとも思いました。
 3つめのビックリは日清食品グループの新外国人選手が、先月の世界クロカン・ジュニア優勝者だったということ。ギタヒ選手に代わって新しいケニア選手が入るとは聞いていましたが、そこまで強い選手だったとは。
 正確には日清食品グループへの入社が決まってから世界クロカンに優勝したわけですが、いずれにしても、実業団駅伝優勝チームにまた、とんでもなく強い選手が入りました。

 もう1つ番外編のビックリが。
 計測工房・藤井社長がご自身のブログで、著書の『マラソンブームに乗っかるな!』の発売を告知されていましたが、これがまさかのエイプリルフール。ご丁寧に表紙まで作っていました。手の込んだ悪戯です。
 寺田自身が“マラソンブームに乗る”仕事をするべきかどうか迷っているところもあって、引っ掛かる土壌を持っていたともいえます。
 表紙のデザインが書籍にしてはあっさりした印象があったので、もしかしたら自費出版かと思ったのですが、ブログの文章に編集者への謝辞が書いてあって、それで完全に信じてしまいました。
 考えてみたら藤井社長は慶大競走部出身。Y選手がそういうことをやるタイプとは言いませんが、N紙の前陸上競技担当のS記者(慶應ボーイです)は間違いなくそういうタイプです。愛嬌のあるウソが多かったですけど、人をだますのに生き甲斐を感じていました。増田明美さんまで、平気でかついでいたことがありましたね。
 藤井社長とS記者のウソは、騙されても悪い気はしません。


◆2010年4月2日(金)
 先月29日の日記に朝原宣治さんみたらし団子屋になりたかったネタを書きましたが、どこまでが本当のことで、どこからがエイプリルフールのウソなのかわかりにくい、というご指摘をいただきました。朝原ファンにとっては読み過ごせない? ところなのでしょう。
「大好物だったんですよ。新開地という駅近くにあった店のみたらし団子が大好きで、それを毎日食べるには団子屋のオーナーになればいいと思っていました。それが小学校で草野球や草サッカー、ドッジボールなどを夢中にやるようになって、中学ではハンドボールをやって…」
 高校から陸上競技を本格的に始めたことは、

 この部分は完全に真実です。その後は全部ジョークです。「日本の総人口の19%」と書いたのは、朝原さんの最初の日本記録が10秒19(1993年東四国国体)だったからです。

 朝原さんネタではもう1つご指摘が。みたらし団子屋になりたいという小さい頃の夢は、陸上競技クリニック第3号ですでに掲載済みとのこと。
 急いで読み返してみると、確かにインタビュー中でそう答えていました。将来何になりたかった? という質問に対し、「まず最初は、みたらし団子屋さん。神戸の新開地にある店のみたらし団子がすごい好きだったので。その次が獣医さん。どちらも小学生のころです。その後、徐々に海外に夢が向いていって、通訳とかツアーコンダクターとかを考えましたね」と答えています。
 通訳とツアコンがなりたい職業だったというのは記憶がありました。大学を卒業する頃は商社マンになって海外で仕事をしたい、というプランも持っていたはずです。しかし、みたらし団子屋と獣医はまったく記憶にありませんでした。
 おそらく、朝原さんの選手時代の実績や行動などからからさかのぼって考えたとき、海外に関する要素はイメージしやすかったのだと思います。
 でも、本当に小さな頃の夢というのも大事です……大事というか、適当な言葉が見つかりませんが。なんでもかんでも、トップ選手になるための過程と位置づけると、それほど大事ではないのかもしれませんが、その人の人生ということでいえば、夢の対象が変わっていく過程が重要だと思います(かなり個人的な意見ですが)。

 ところで今回のアスリート ネットワークのスポーツ教室では、小学生たちに複数の競技を経験してもらっていました。そのことについて朝原さんや柳本晶一さんのコメントも紹介していますが、同じ陸上競技クリニックの記事の冒頭にそのことについてわかりやすく書かれていました。中学時代にハンドボールをやっていた経験が、その後に生かされたということで、朝原さんが次のように語っていました。

 ハンドボールはいろいろな要素を使う競技で、ダッシュもするし、持久力も必要だし、ジャンプもするし、投げることもやる。自分の意志で身体を動かして、そこで完了してしまうことが多い陸上と違って、飛んでくるボールにどう対応するかとか、外からの刺激にも対応しなければならないんですね。
 そういうのって、トータルで考えるとすごく大事なことなんです。例えば、走っているときに地面からの反応を上手く自分でとらえる感覚なんかは、ただ走ることだけしかやっていないと、なかなかわからない。だから走ることに対してシンプルになっていく前に、そういう総合的な運動能力や神経系を高めることができたのは、よかったなと思います。
 小学校や中学の年代くらいから陸上をやっているのなら、「なんじゃこりゃ」と思うようなドリルとかもやっておいたほうが僕はいいと思います。一見陸上に関係なさそうな動きでも、それを経験しておくことによって、動きに対する感性とでもいうのかな、絶対にプラスに働いていきます。それは運動能力だけでなく、考え方にも影響すると思う。いろいろな身体の動かし方や反応がきっかけで、こういう練習をしたらいいんじゃないかとか、こういう技術はどうだろうとか、ひらめくことができる。
 競技者として生き残っていけるかどうかは、最後は、自分の身体に対する感覚のセンスがあるかどうか。それを早い段階から鍛えておくというか、感受性を高めておくことは大切だと思います。


 ものすごく参考になる部分だと思ったので、記事の一部を引用させていただきました。バックナンバーの購入もできるようなので、興味のある方はぜひ。


◆2010年4月3日(土)
 東京六大学の取材でした。
 近年、早大の戦力が充実しています。インカレでも上位を争うほど。法大もスプリント種目で継続して好選手が出てきていますし、種目に関係なく強い選手が現れるのも同大学の特徴です(山田壮太郎選手のように)。慶大も日本記録保持者の横田真人選手、世界選手権代表の廣瀬英行選手と大物を輩出しています。春の対校戦のなかでも有力選手が多い大会です。

 ということで国立競技場へ。スタンドで関係者と接触しやすかったので助かりました。
 まずは法大・成田長距離監督に秋田ネタを1つお聞きした後、坪田智夫選手をコーチに招聘した理由を取材させていただきました。
 ひと言でいうならチームの中でも上の選手を強化してもらうのが目的だそうです。以前は1学年に1人か2人はいた核となる選手が、現在はいなくなってしまっている。強い練習をやらせようとすると故障をしてしまう。
「上のレベルの練習をやるときに引っ張る選手がいません。坪田に一緒に走ってもらってペースを上げてもらいたいと考えています」
 坪田選手はコニカミノルタの現役選手も続けますが、かなりの頻度でポイント練習を一緒に行うことになりそうです。
「練習計画もお願いしようと思っていますし、朝練習にも毎日顔を出してもらいます。寮生活にも意見を出して良いと言っています」
 坪田選手がどんな色を出してくるか、楽しみです。

 続いて明大・西弘美監督と早大・渡辺康幸駅伝監督のところに。
 渡辺監督からは竹澤健介選手らのアメリカ遠征の情報を教えてもらい、西監督からはクロカンでも絶好調の鎧坂哲哉選手への期待のほどを聞かせていただきました。「28分20秒くらいは行ける」と話してくれました。

 最初の選手への取材は110 mHで1年生優勝を果たした矢澤航選手。これまで取材したことはないので行くかどうするか躊躇いましたが、陸マガ・K編集者が話を聞くというのでついて行って“ちゃっかり取材”をさせていただきました。こちらに記事にしました。

 そこからは卒業したての大物OBトリオの取材が続きました。
 金丸祐三選手が200 mに出場していましたが、大塚製薬のユニフォームがまだ出来上がっていないということで、チーム名の入っていないランニングシャツでした。
 400 mに出場した横田真人選手。これはスタート前の写真ですが、富士通のユニフォームにそれほど違和感はありませんでした。その点、同じ富士通のユニフォームの山田壮太郎選手は、かなりの違和感を感じました(この写真は競技後のウインドブレーカー姿です)。
 横田選手は母校である慶大のユニフォームが富士通と同じ白地です。それに対して山田選手は、法大のユニフォームが紺地です。その違いが違和感の有無になったのではないかという意見が大勢を占めていました(何人に聞いたか忘れましたが)。山田選手のヒゲがなくなったり、髪型が社会人仕様になっていたことも影響したかもしれません。
 ユニフォームが間に合わなかった金丸選手ですが、しっかりと自社製品を飲んで会社をアピールしていました。


◆2010年4月11日(日)
 日体大・中大の取材に行きました。場所は日体大健志台キャンパス。昨年10月に横田真人選手の800m日本新を取材して以来です。記録に限らず、今日も何かが見られそうな予感を抱きながら出かけました。
 会場に行くと記者は寺田だけ(知り合いは大勢いらっしゃいましたが)。横田選手のときは日刊スポーツ・佐々木一郎記者もいましたし、彼にたきつけられなければ行きませんでした。それが、心のどこかに引っかかっていました。
 今日は完全に自発的に行った取材です。何かが起きてくれれば、それを独占スクープすれば、あのときの“引っかかり”を払拭することができるわけです。
 その予感は現実のものとなりました。

 順を追って振り返ります。
 まずは、日体大・石井隆士監督をはじめ両校のスタッフのに挨拶。タイムテーブルと出場選手リストを送ってくれたHマネは不在でしたが、あとでわざわざ挨拶に来てくれました。
 日体大は4月から
部長が菅原勲先生、
監督が石井隆士先生、
ヘッドコーチが水野増彦先生

 という指導スタッフに。ポジションが1つずつ下がった形での復帰となりました。
 中大男子監督は今でも学生と見間違えるくらい若く見える小栗忠監督(三段跳中学記録保持者。33歳のはずです)ですが、短距離でここまで多くの選手の勧誘に成功した理由を聞きました。先輩も入学していて運良く、というニュアンスの話でした。もしかしたら謙遜かもしれませんが。

 この大会はインカレ種目全部ではありませんが、100 m・200 m・400 m・800m……と種目を間引かずに実施します。それも男女をきっちりと行いますから、タイムテーブルが最もきつい大会です。どうしても、トラック中心に見ていくことになります。フィールドはときどき、跳躍や投てきのコーチに「何か良い記録出た?」と聞いて回る取材方法になります。
 最初のトラック種目は女子1500m。中大の野村友香里選手(4年)が最初から積極的に前に出て、800mくらいから新井由貴選手を引き離して独走。4分22秒66と大会新で優勝しました。3時間後の800mでも自身でレースをつくって2分07秒85の大会新で優勝。これはもう、話を聞くしかありません。「1500mは自己2番目、800mは4、5番目」の記録だそうですが、4月の最初の週でこのタイムは初めてだそうです。
 取材中、「(1500mは)100 mで高橋(賢作)監督から“出ろ”っと怒鳴られました」と野村選手が話してくれたのですが、寺田は「そんなんに早く指示されることってあるのかな?」と疑ってしまいました。野村選手は「もしかしたら500mかもしれません。第3コーナーでした」とこちらの言い分?を認めてくれました。
 しかし、あとでラップを見直したら最初の400 mが1分07秒(=アナウンス)と速い入り。高橋監督の檄は100 mだったようです……というネタを出しても、これが中大女子の特徴を物語っていると論証するのは、日記では難しいですね。最低でも200行はないと。
 ちなみに、800mの400 m通過も1分01秒57(寺田の手動計時)と速い入りでした。
 野村選手の今季の目標は2種目とも学生新だといいます。2分02秒10と4分13秒14です。自己ベストは2分06秒57と4分19秒09でともに昨年出した記録。この目標記録の設定の仕方については高橋監督にも話を聞きましたが、やはり中大らしさが表れています。
 これもしっかりと説明するには日記では厳しいです。だったら記事を書けと(野村選手を警戒している上野敬裕監督あたりに)言われそうですが、その前に日体大・中大全体に触れておきたいので…。
※日体大・中大取材ネタ続けたいです

◆2010年4月13日(火)
 ツイッターにも書きましたが、今日は大量のメールを処理しました。純粋なビジネスで受信したメールが26通で、送信したメールが27通。あるチームの活動報告冊子編集の仕事が佳境なので、原稿を受け取り、入稿し、PDFファイルで校正を受け取り、それを依頼主や広告スポンサーに送り、とやっているとメールの数が多くなるのです。
 メールを書く合間にお花見をしました。天気も良かったですし、アルバイトのA君と一緒に乞田川沿いのマックに行って2階の窓際の席で40〜50分仕事をしました。
 満開の時期はすでに過ぎ去って、桜の木も枝が目立つようになっていますが、仕事の手を休めてふと窓の外を見ると、ちょうど強めの風が吹いたところで、桜の花が大量に舞い散っていました。なかなかの風情です。桜吹雪とまでは言えなかったかもしれませんが。

 桜吹雪で思い出したのが日体大・中大対抗の取材。2日前は満開時期が終わろうとする頃でした。日体大グラウンドの周辺にも多くの桜の木が植えられています。ホームストレート側はこんな感じです。
 トラック種目が全て終わった段階で中大男子短距離エースの川面聡大選手(3年)の話を、バックストレートで聞いていました。桜の花びらがフワっ、フワっと3枚か4枚、メモを取る寺田のノートの上に落ちてきたのです(中野真実選手のブログ参照)。取材中にそんなことがあったのは初めてだったかもしれません。
 その川面選手の話を聞くことになった経緯を紹介しましょう。今季の中大短距離陣の充実と、この大会での彼らの走りを紹介できそうです。

 個人種目の男子100 mは日体大4年の福島裕之選手が優勝しました。10秒63(+0.6)は自己新。福島選手は200 mも21秒29(−0.1)の、こちらも大幅な自己新で2冠を達成。男子最優秀選手にも選ばれました。
 顔の輪郭は似ていますが、福島千里選手の親戚というわけではないそうです。福島選手のことは機会を改めて紹介したいのですが(時間的に厳しいかも)、今日は中大男子短距離の話題です。
 川面選手は対抗戦100 mで同タイムの2位。ところが、続くオープン1組で中大新人の女部田亮選手が2人を上回る10秒62(+0.3)で走りました。このときは、「やっぱり今日は1年生たちの取材が中心かな」と思いました。中大女子も、あれほどすごさを見せてくれるとは予想していませんでしたし。

 今年の中大には全国タイトルを持つ新人スプリンターが大挙入学しました。女部田選手は一昨年の国体少年Aと昨年の日本ジュニアの100 m優勝者。飯塚翔太選手は昨年のインターハイ200 mと国体少年A100 m優勝者。木村淳選手は日本ジュニア200 m優勝者で、インターハイ200 mと国体少年A400 mが2位。国体の4×100 mR優勝の沖縄チームの4走で、取材中に加速走のタイムを聞いてビックリしました。嵐川愛斗選手は昨年のタイトルこそありませんが、全日中200 m優勝者。
 その4人が、オープンチームとして4×100 mRでバトンをつなぎました。1走の女部田選手がリードしましたが、対抗戦チームの2走は中大が川面選手、日体大が羽根選手で強く、3走の河合選手で中大対抗戦チームがリード。日体大も好位置で福島選手につなぎましたが、中大対抗戦チームの近藤選手が逃げ切って39秒86。日体大も強いのは4走の福島選手だけでなく39秒87で2位。中大1年生チームが39秒98で続きました。4走の飯塚選手が追い上げたかどうかは、飯塚選手自身「よくわからない。同じくらいだったような気がする」と話していました。
 記録がわかったとき2つの驚きに、同時に見舞われました。
 1つは全員がジュニア選手の単独チームが、40秒を切ったこと。もう1つは、1つの大学が同一レースで2チームを編成し、その2チームとも40秒を切ったこと。
 どちらも、過去に例があったのかどうか、すぐには思いつきませんでした。調べるのにはどちらも時間がかかります。困ったのは、誰に話を聞くのかという点でした。

 正直に言うと、2チーム39秒台ということの方が価値があるように、そのときは感じていました。ジュニア日本記録は39秒30ですし、単独チームで出ているかはわかりませんでしたが、ジュニアチームの39秒台もかなりの回数出ているはず。だったら、上級生チームの取材をしておくべきかな、と。
 インターハイ南関東で100 m・200 mとも7位だった川面選手に象徴されるように、高校時代の実績では上級生チームは1年生たちよりも下です。昨年、39秒29の中大記録を出したチーム(関東インカレ2位)も、完成度の高いチームでした。高校時代の実績がない選手や、跳躍種目からの転向選手、そして唯一の4年生だった中込選手。そういった選手がしっかりとまとまり、「1走から4走まで固定できた」(豊田コーチ)そうです。そういった上級生たちが、スター選手揃いの1年生をどういう気持ちで迎えているのか、という点も知りたいと思いました。

 女部田選手の話は100 mの後に聞いてあったので、上級生チームの話を聞くことに。4×100 mRのあとも競技が次々と続きましたから、話を聞けたのはトラック種目が全て終わった後。
 ただ、上級生チームで誰の話を聞くか、決めていたわけではありません。キャプテンは4走の近藤選手で元跳躍選手。3走の河合選手は100 mで日本選手権決勝に行っていますし、インターハイでは2位と上級生のなかでは高校時代の実績もあります。1走の畠山選手は桐蔭学園高出身で、エースではありませんでしたがインターハイの4×100 mR優勝メンバーです。
 決めかねていたので先に1年生の飯塚選手を取材させてもらい、その後、色々と考えた結果、川面選手の話を聞くことに。昨年、100 m・200 mとも中大記録(10秒35と20秒74)を出しています。
 聞いて本当によかったですね。上級生たちの気持ちもわかりましたし、今季の中大チームの構成がどうなっていくかもわかりました。誰が、どういう走りをしたら、どの走順になるかとか。

 バックストレートで川面選手の取材を終えてホームストレートに戻りました。ホームストレート側には屋根もありデータを調べようとしたときに、ふと気配を感じて顔を上げたらこんな光景(写真1 )が目の前で起こっていました。ここまでの桜吹雪を見たのは生まれて初めてでした。ここ数年は早大と筑波大が牽引してきた学生短距離界ですが、今季はこのように華やかで、かつ、乱舞するような予感もします。


◆2010年4月15日(水)
 13:45から都内某所で広告代理店の方と打ち合わせ。打ち合わせというよりも相談、お願い事をさせていただきました。ツイッターでもつぶやいたように、兵庫県インターハイ・チャンピオンだった人物です。陰から陸上界を支えてくれています。
 話をしているなかで、スズキの実業団撤退は陸上界全体でみてもマイナスだろうということで意見は一致。改めて書くまでもないことでしょう。誰の目にもそう映っているはずです、外部から見たら。実業団女子駅伝のメインスポンサーでしたし。
 陸上界全体でも、スポンサー探しが困難になってきていることをお聞きしました。寺田も頭ではわかっていたことですが、実際に話を聞くと実感度合いが違ってきます。末端で仕事をしている寺田のところに回ってくるものも当然、減ってくるわけです。これは実感どころか骨身にしみています。

 市民マラソンも今は“イケイケドンドン”ですが、それに乗っかるだけでは危ういですね。その前に、これだけ市民マラソンが多くなってきたら、いくら人を集めやすいイベントだといっても、全部のレースでスポンサーが集められるかどうか。
 今はどんどん集まっているのかもしれませんが、ブームが一段落したときにどうなるか。市民マラソンバブルが弾けるなんて事態にならなければいいのですが。
「どんなに弾けても、陸上競技よりは魅力がある」なんて言われないように、陸上競技も魅力あるイベントだと思われるようにしないといけません。
 その前に市民マラソンのエネルギーを陸上競技と上手く融合させることを考えないと。セカンドウィンドACがすでに取り組んでいますが、他にもやり方がないかあれこれ考えています。

 1時間ほどカフェで仕事。
 ノートPCでメールを受信したら、前日からの分を全部ダウンロードすることになってしまい、40分くらいかかりました。そのくらい大容量のファイルを、やりとりしていたのです。無線LANが多少、不安定だったことも一因だったかもしれません。

 NTCに18時に移動。強化委員会の記者会見と、記者たちとの懇談会が行われました。
 各部長の話を聞いていて、種目に勢いが感じられたのは女子短距離と混成です。女子短距離は清田副部長が「福島は質量ともこれまで以上の冬期練習をこなし、11BBM社0台と22秒台が期待できる。アジア大会は5種目金メダル」とコメント(麻場部長のコメントを代読したのかもしれません)。
 混成の松田部長(偶然ですが2人とも平成国際大監督)は「世界との差を埋めるための基準となる8000点を今年中に出したい」と意欲を示しました。

 面白かったのは(陸上競技としてです)、鈴木従道長距離・ロード特別対策委員会副委員長のコメントです。山崎勇喜選手のコーチとしての立場も踏まえての話でした。
「この世界に入って40数年間、一歩でも1秒でも速くゴールするためにやってきました。それができるならフォームなんてどうでもいい。昨年夏まではとにかく速く歩け、と。その後は(山崎が世界選手権で失格した後は)フォームの矯正もやってきました。3月のアメリカ合宿では審判も呼んでチェックしてもらった。山崎(のフォームは)完璧になってきていると思う」
 さらに、質疑応答の時にもこんな展開がありました。
 長沼祥吾氏(女子マラソン武冨豊部長の代理)が今年度の国内レースには、日本選手のペースメーカーをつける予定だと発言し、それに対し「過去にはなかったのか」という記者からの質問が出ました。
「陸連の強化として取り組んだことはありません」と長沼氏が答えると、「昔あったよ。小鴨が!」と鈴木副委員長。話し方の“間”がよかったのだと思います。会場がどっとわきました。
 1992年の大阪国際女子マラソンに、当時鈴木副委員長が監督だったダイハツから2人の選手を出場しました。期待されていたのは浅利純子選手。そのサポートとして小鴨由水選手がペースメーカー役を果たしましたが、その小鴨選手が優勝してバルセロナ五輪代表に選ばれました(浅利選手は翌年のシュツットガルト世界選手権で優勝しました)。

 ちゃんとした記事もAJPSのサイトに書く予定です。短い文章になると思いますが。


◆2010年4月16日(金)
 朝はかなり早くから仕事を始めました。寺田にしては、ですけど。
 今日も編集作業というか、広告原稿の入手のためあちこに電話をしたりメールをしたりでてんてこ舞いでした。
 最近の校正はPDFファイルで済ますことも多くなっているようですが、クライアントには紙に刷った校正も見せなければいけません。今日は、その校正を印刷所に取りに行く日でした。宅急便で送ってもらう日程的な余裕がなかったのです。

 しかし、なんだかんだで仕事が終わらず、自宅を出たのが19時半。飯田橋にある印刷所に着いたのが20:50でした(行く時間は先方と打ち合わせてあります)。
 校正は8ページ分が1枚に刷られた大きな紙が2枚出ます(16ページの冊子)。それを4つ折りにして実際のページ順になるようにする作業などに約40分かかりました(素人にはできない作業なんです)。今後の打ち合わせなどをして印刷所を後にしたのが21:40前後。
 新宿の郵便局に着いたのが22時ちょっと過ぎ。金曜日だからなのか理由はわかりませんが、窓口にはかなりの人数が列を作っていました。
 約20分ほど行列待ちましたが、その間に専門誌を読みました。和歌山の紀三井寺陸上競技場への行き方が出ていたのを見つけられたのはラッキーでした。和歌山駅からのバスの系統がわかったのはよかったです。現地に着いてから迷わないですみますからね。

 新宿から京王線に乗ったときに、携帯電話にメールが着信していることに気づきました。某長距離チームの監督から。昨日の日記に1992年の大阪国際女子マラソンにダイハツから2人の選手が出場したと書きましたが、正確には3人だったという指摘です。
 さっそく調べてみると(パソコンに成績が入っています)、今中惠子選手が17位(2時間35分37秒)で走っています。事実関係はしっかりと調べないといけないと、反省しました。
 大阪国際女子マラソンとは関係ありませんが(実は少し関係していたりしますが)、ヨーロッパの空港が火山灰の影響で閉鎖されているのは気になります。ロンドン・マラソンに出場する選手たちが渡英できるのかどうか。


◆2010年4月17日(土)
 今日は岩壁杯大学対校選手権(平成国際大で開催)の取材に行くつもりでした。
 岩壁杯は関東インカレの中位校(プログラム記載の表現です)が集まり、インカレ前に切磋琢磨してレベルを上げていこうという狙いの大会です。寺田にとっては未知の大会の1つ。明日の出雲陸上も未知の大会ですが、取材は断念せざるを得ませんでした。昨今の状況を考えると、できる範囲(行ける範囲)の試合を地道に取材していくしかありません。
 岩壁杯のことは創設時から知ってはいましたが、先週の日体大・中大対抗のときに面白そうだと認識しました。その大会で中大の選手たちが活躍しましたし、先々週の東京六大学で取材できなかった法大選手も何人かいましたし。

 ところが、朝6:20に起きると外は雪が積もっています。開催できるのか心配になり、7時少し前に平成国際大・松田監督に電話で確認。午後には気温も上がるということで、開始時間をずらして実施する見込みだと教えてもらいました。
 現地に着いてタイムテーブルを確認。午前中の対校戦種目予選は行わず、午後にタイムレース形式で実施することに変更されていました。この手の試合は当事者同士が話し合って柔軟な対応ができます。
 岩壁杯は男子だけですし(一部女子種目もオープンで行われますが)、中・長距離は行われません。跳躍と投擲も3種目ずつということで、先週の日体大・中大に比べるとタイムテーブルに余裕があります。

 会場の平成国際大はホームストレートにスタンドがあります。さっそくフィニッシュ地点付近のスタンドに陣取り、ストップウォッチを押しながら観戦しました。
 ところが、寺田の計時したタイムと正式計時が何レース測っても違っています。寺田の計時の方が0.1秒から0.2秒も速い。“電機計時並”の測定能力がウリだったのに…。先週の日体大では計測したほとんどが±0.05秒内に収まっていて、男子400 mHの水野龍彦選手の51秒54などはドンピシャでした。
 あまりにも違うので何か理由があるだろうと考えていたら、スタートピストルの合図が閃光ではなく煙であることに気づきました。光はタイムラグがたぶんゼロですが、煙の認識は音よりも速いとはいえ、0.1〜0.2秒の違いが生じるのかもしれません。

 最初に話を聞かせてもらったのは男子400 mHに優勝した岸本鷹幸選手(法大2年)。昨年、49秒台に入った有望選手です。高校時代から勝負強さも目立っていました。優勝タイムは52秒06でしたが、記録が悪かったのは大会全体の傾向です。
 タッチダウンタイムを測ったところ5台目の落ち方が大きいのですが、6台目でタイムが上がっています。測定ミスかと思っていたのですが、岸本選手の話を聞いて間違いではなかったことが判明しました。選手自身が理由をわかっているということは、解決に向けての取り組みも始めているということです。
 ハードル間の歩数についても今季のプランを聞くことができました。この時期に話を聞いておくと、今後の試合での注目点がはっきりするメリットがあります。記録は出なくても取材する価値は大いにあるのです。

 400 mHの後は200 m、100 mと続きました。
 100 mは川面聡大選手が10秒73(+1.8)で優勝し、河合元紀選手が10秒75(+2.7)で2位と中大勢がワンツー。昨年の日本インカレ7位(関東も7位)の内海佑弥選手(東洋大)が10秒79(+1.5)で3位。タイムレースだったので決着がついた感じではありませんが、注目選手が上位を占めました。ルーキーの女部田亮選手はオープン5組で10秒90(+2.2)。
 200 mも優勝した小林雄一選手(法大)が21秒33(+2.5)とタイムが伸びません。大会全体に記録は低調でした。これは、いくつかの理由が重なったものと思われます。
 日中はそれなりに温かくなりましたが、それでも10℃ちょっとと気温が低かったこと。この1週間の練習も、低温の日が続いて質が上げきれなかったのかもしれません。タイムテーブルが大会当日に変わったことも影響した? 渋滞で移動に長時間を要した大学もありました。そして、サーフェスが硬いファストトラックではなかったことが大きかったようです。
岩壁杯取材ネタ、つづきます

 100 mの後は110 mH。注目は今春国武大を卒業し、ミキハウス入りしたモーゼス夢選手です。かつての強豪チームのユニフォームを6シーズンぶりに見て、思わず、スタンドからスタート地点に写真を撮りに走りました。
 しかし、よく見ると以前のユニフォームとは少しデザインが違います(写真)。後でその点を聞くと、(現時点では)1人だけなのでモーゼス選手自身がデザインを決めたのだそうです。
 当初はオープン選手だけのレースに出場する予定でしたが、おそらくレベルの高い組で走りたいという理由から対校戦の2組に出場しました(14秒15・+1.8)。
 レース後に話を聞かせてもらいました。昨年、何度か取材をさせてもらっていて(共同取材の場ですが)、こちらの顔を覚えていてくれたのでスムーズでした。記事にもさせていただきました。

 続く4×100 mRは中大が1・2走のバトンパスで転倒。法大が41秒02で優勝しました。
 4×400 mRは法大がアンカーの岸本選手で逆転V。3分14秒10でしたが、岸本選手のラップは47秒45(法大関係者の手動計時)の自己新でした。
 寺田は法大のラップを測っていましたが、途中で写真を撮った方がいいと判断してこの写真を撮影しました。

 4×400 mR終了後もフィールドでは走幅跳が行われていて、戸谷隼人選手が7m53(+0.8)で3連勝。その頃には気温もちょっと低くなっていました。戸谷選手は昨年出した7m60が自己ベストですが、2週間前の東京六大学でも7m56(+0.6)。そのときもかなり肌寒かったですね。セカンド記録とサード記録をシーズン早々、それも悪コンディションのなかで出したのですから今後が期待できます。
 戸谷選手は大会最優秀選手に選ばれました。この写真は閉会式で表彰されたときのもので、右が戸谷選手で左が新人賞の笹嶋達也選手(走高跳優勝)。

 競技終了後、閉会式までの時間で桜井健一コーチの話を聞かせていただきました。入社までの経緯などをお聞きして、記事にも反映させました。その際に会社との間をつないだのがミキハウスの陸上部全盛時にマネジャーだった荻野さんだそうです(と桜井コーチが話していました)。
 閉会式終了後には戸谷選手の話を聞きました。スピードがそれほどあるタイプではないといいますが、それでも前述のように今季は自己記録に近いところで安定しています。技術的に高いものを持っているのだと思われますが、吉田孝久コーチにこの点をもう少しはっきり確認すればよかったと反省しています。雑談はしていたのですが…。

 最後は松田監督にじっくりと話をお聞きしました。話の内容は今季の十種競技について。この日記でも何度となく書いていますが、池田大介選手、右代啓祐選手、田中宏昌選手とタイプの違う3選手が、高いレベルで競り合いそうな雰囲気があります。そのなかから8000点を突破する選手が現れる可能性もあると思われます。
 松田監督とミズノの金子宗弘さん(日本記録保持者)が3点差の激戦を演じたことがありました。1993年の日本選手権で7874点と7871点(勝ったのは金子さん)。同じような興奮が味わえるかもしれません……が、あまり期待しすぎるのもよくないので、そこそこに期待したいと思います。
 松田監督の話を聞くだけでも、平成国際大まで行った甲斐がありました。


◆2010年5月12日(水)
 ツイッターでつぶやいてばかりで、日記を書かなくなっていました。
 以前なら日記で書いていたネタのいくつかが、ツイッターでつぶやけるのは確かです。が、日記でしか書けないことも多いはずです。そもそも、140字のつぶやきで足りてしまうなら、我々物書きの存在価値が薄れます(だから一度に3つも4つもつぶやくのです)。
 だったら、日記も毎日書けよと言われそうです。まあ、ツイッターが手軽にできるのは確かですし、寺田的の方にも表示できるようになりましたし…。

 日記を再開するモチベーションになったのは、北海道文化放送・近田誉アナのブログです。近田さんは明大競走部OBで北海道マラソンのMC的なアナ。国際千葉駅伝やベルリン・マラソンでも活躍されています。近田アナがブログに書いている福島千里選手の歩数のネタに感銘を受けたのです。
 最初は「54歩の怪」として、一昨年や昨年の日本新記録の時と比べ、歩数が増えていることに触れています。以下に抜粋させていただきます。

オフシーズンの肉体改造で、足の回転スピードを減速させずにストライドを伸ばす。100メートルで歩数が1歩減り、記録は0秒2程度短縮できるという仮説が現実のもとなることを4月29日の記録は実証したのか・・・。その視点から11秒21をマークした織田記念のレースを見直し、ある「驚き」を発見した。日本記録更新は歩数減少のためだと思い込んでいたが、29日のレースは減少どころか歩数は増えていた!のだ。■レースを見返したのは@2008年4月、11秒36の日本タイ記録をマークした織田記念。AB1日に2度日本記録を更新した2009年6月7日の布勢リレーカーニバルのスプリント記録会、11秒28の第1レースと11秒24の第2レースC11秒21の現日本記録をマークした先月29日の織田記念の4レース。■@ABのレースは歩数54歩丁度か、54歩目に決勝線を通過している。しかし、今年のレースはそれより多い55歩だった。記録短縮の要因は歩数減少だと思い込んでいただけにこの事実は驚きだった。

 実は寺田も、同じようにビックリしていました。織田記念のバイオメカニクス測定で、昨年よりもピッチが速くなっているデータが出ていると聞いたときでした。織田記念のレース後の取材では、現地にいた記者たちは間違いなく、今季の記録短縮は筋力アップによるストライド増だと思ったはずです。
 バイメカデータの内容を聞いたのは200 mの日本新を出した静岡国際の翌日でした。広島、静岡と中村宏之監督にもそれなりに取材はしていたので、再度取材をするのは躊躇われたのですが、いてもたってもいられなくなり、「どうしてですか?」と電話で質問させてもらいました。
「だから11秒21だったんです」という中村監督の第一声で、全てを理解しました。織田記念は走りの内容的には意図したところができなかったのですが、それでも日本記録を0.03秒縮めることができたわけです。これをメインテーマにはできませんでしたが、陸マガ記事にも盛り込むことができました。

 近田さんに話を戻します。ブログの文章から推測すると、近田さんはバイメカデータを入手されたのではなく、ご自身でビデオ映像から、歩数などを計測されているようです。テレビ関係者だからできたことかもしれませんが、そこに着目することがすごい。それに、今まで取材されてきた情報を照らし合わせてあの文章を書かれたのです。
 本職はアナウンサーですよ。科学的な視点と取材能力、双方ををつなげて分析する能力。これはもう、“さすが”と言うしかありません。

ここが最新です
◆2010年5月19日(水)
 今日は早大取材でしたが(ツイッターで報告済み)、日本選手権のエントリー選手発表もありました。月曜日の夜に共同通信が配信し、前後して為末大選手自身もサイトで公表しましたが、残念ながら為末選手は日本選手権に出られません
 陸マガ6月号の展望記事には「為末大が5月中旬に、北京五輪以来のレースに復帰するプランがある。」と書きました。5月の大阪GP前に関係者に取材をした時点では、為末選手陣営は日本選手権にも出場するつもりだったのです。
 出られなくなったのは先週末くらいだったようです。東日本実業団の成迫健児選手取材時にも、必然的にその話題が出ました。
 成迫選手は残念そうな表情を見せた後「残念ですが、小池(崇之)が好調ですし、吉田(和晃)君もこれから上げてくると思います。今関(雄太)君も後半が強いですから、足元をすくわれないようにしたい」と話していました。

 日本選手権での種目選択が注目されている選手が何人かいますので、主だったところはトップページで紹介しました。しかし、小林祐梨子選手は「今季は寒さの影響などでスピード練習が不十分」(平林監督)ということで、5000mに絞る可能性が大きいようです(最終決定ではありません)。ライバルの吉川美香選手は「出てきてほしいですね。去年は1人でタイムを狙いましたが(4分15秒89)、戦う日本選手権にしたい」と対決を希望していたのですが、こればかりは仕方ありません。
 長距離では竹澤健介選手も「5000mに絞る可能性が高い」と田幸寛史監督が話していました。ただ、これも最終決定というわけではないので、皆さん決めつけないように。

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