続・寺田的陸上日記 昔の日記はこちらから
2004年4月 カラー・オブ・エイプリル
寺田的陸上競技WEBトップ
◆5月15日(土)
約10日ぶりの日記です。日記が書けなかった理由? それは試合が立て込んだから。試合に行けば当然、書くべき原稿が生じるわけです。それで生計を立てていますんで、と、たまには書いておかないと。知らない人もいるようなので。
でも、知り合いの女性からも催促されたりして、書かないといけないな、という気持ちはずっとありました。このサイトも仕事の一部ですしね。それに、この間にもネタもいっぱい。水戸国際で明るみに出た観音寺の謎ネタとか、国際グランプリ大阪でのデイリーヨミウリ・ケネス記者ネタとか(パリの世界選手権のときに紹介した91年東京世界選手権ネタの類です)、中部実業団で会った長身先生ネタとか。三重の二枚目助教授からも、伊藤佳奈恵選手の広島アジア大会戦績をメールで知らせていただきました。広島アジア大会に出て、今年の織田記念に出た選手については、もう1人いるとの指摘もいただいています。機会があったら(こじつけのできる話の展開になったら)紹介します。
ということで、今日は東日本実業団の取材で宇都宮です。日程が重なるインカレも面白いですけど、選手の“人生の多彩さ”という点では断然、実業団の試合の方が上。今日も本当に話題が多かったです。寺田が見たり聞いたりしたことを余すことなくお伝えできたら、絶対に陸上競技を面白いと感じる人が増えると思うんですが。それができない自分に腹が立ちます。
競技的な部分での一番の話題は、なんといっても谷川聡選手でしょう。13秒53と5年ぶりの自己新で日本歴代2位、パフォーマンス日本歴代3位、30歳代日本最高、向かい風日本最高(向かい風0.4mですから、選手によってはインターバルを刻みやすくなるかもしれません)。ミズノの後輩の内藤真人選手に続いて2人目のA標準突破です。ランニングタイマーは13秒55で止まりましたから、関係者全員が正式計時を固唾を飲んで見守りました。0.02秒速いタイムが表示されたときは、取材する記者たちからも拍手と「おめでとう」の声が。長く頑張っている選手は、自然と応援したくなります。
表彰後の写真がこれ。今さらですが、1週間前の中部実業団で日本新を出した綾真澄選手の写真がこれです。
ベテラン選手といえば、1万mWの柳沢哲選手や、1万mの武井隆次選手など、オリンピック代表を逃した選手たちも元気いっぱい(と表現していいか難しいところもありますが)、歩き、走っていました。実井謙二郎選手も28分47秒97!! 35歳ですから年齢別日本最高かな、と思ったら、いました、福島正選手が。99年に28分30秒4で走っています。富士通新監督として今日、スタンドにもいらっしゃいました。富士通では松下龍治選手が28分45秒13と自己3番目(入社後では最高記録)で走っていましたね。
その松下選手と高校時代に一緒に走ったことがある、と話してくれたのが、1500m第2組で11位となった二宮尚寛(にのみやなおひろ)選手。スタート前に「パラリンピック代表に決まっている選手」と通告があったので、レースにも注目していました。
すごかったですね。右腕が肩から下の部分がない隻腕のランナー。それでいて、しっかりとリズムを取って、実業団選手と対等に走ってしまうのです。女子1500mに優勝した岩元千明選手を取材中でしたが、思わず見入ってしまいました。本当に圧倒されました。4分04秒87ですからね。障害者の大会では世界のトップ選手で、国内では競る相手がいないので、先の東京選手権に続き実業団の試合にも出たのだそうです。熊本農業高校出身で、現在も仕事は熊本県ですが、実業団登録は東京のAC・KITA。熊本県出身の銅メダリスト、末續選手とも同学年になります。
最終種目は男子1万mでしたが、そのレース後にも感動的なシーンに出くわしました。優勝したダニエル・ジェンガ選手は仙台育英高2年時の93年宇都宮インターハイ3000mSCで優勝した選手。詳しくは別のメディアで記事にする可能性もあるのでここでは書きませんが、本当に胸を打たれました。マラソンのケニア代表を逃した後でもあります。こんなこともあるのか、っていうくらいのネタです。宇都宮に来てよかったです。
あっ、でもホテルは最悪。椅子の座面の高さと机の高さが合っていなくて、キーボードを打ちにくいのです。頼みのファミレスも、宇都宮駅近くにはないとのこと。すぐに気づけばよかったのですが、何時間もしてから解決策を思いつきました。この写真のように、マットが二段重ねになっているベッドの上段を取り払って床に座ると、ちょうどいい高さなのです。良い子(と寺田が言う場合は、世間の常識に縛られた、という意味合いを含んでいます)、良いサラリーマンは真似しなくていいです。
◆5月5日(水)
水戸国際の取材。朝はアルゼンチン・タンゴのCDと中森明菜のタンゴ・ノアールを聴きながら出張の準備をし、上野発のスーパー日立で水戸に向かう途中、柏を通過しました。
今日は寒かったですね。ずっと14℃台。
寺田は通常、取材にメジャーなメーカーの製品は着用して行きません。どのメーカーの人とも、接する機会があるわけですから。メーカーの方に聞くと、そこまで気を遣わなくてもいいと言われますけど。
でも、今日はさすがに我慢できず、ミズノ等々力さんにお願いしてジャケットを購入。明日明後日で膨大な行数の原稿を書かなくてはいけないので(来週も)、体力を温存したかったのです。WSTFの部屋着にするのにも、ちょうどいいかな、と思いまして。末續選手の原稿を書く際に、書くスピードが出るかもしれませんし。
水戸の特徴は風が強いこと。今年から実施種目が10と減りましたが、削られたのはトラックを周回する種目でした。400 mとか、バックストレートが強い向かい風だと、記録が出にくいですからね。中・長距離種目も女子1500mだけでした。今日も予想通り、ホームストレート側は強い追い風。低温でしたが100
mや走幅跳、棒高跳でまずまずの記録が出たのは、風の恩恵でしょうか。
しかし、日大の新人の今井雄紀選手が走幅跳で自己新、女子棒高跳の中野真実選手が4m31の日本新を出したのは、いくら追い風とはいえ、あの低温の中で行われたことを考えるとすごいと思います。
10種目に減ったことで競技全体の時間が短くなり、最初の種目の女子棒高跳が結局、一番最後まで行われていました。表彰後、2月の日中対抗室内で近藤高代選手と約束したことを果たそうと思ったのですが、すぐに中野選手の取材に突入してしまい、近藤選手と接触できませんでした。約束とは、早大競走部の先輩であるプリンス近藤(読売新聞・近藤記者)を紹介すること。近藤記者も表彰の時、名刺まで出していたのですが、どうしようもありませんでした。
それとは別に、取材したかったこともあったのです。近藤選手が跳び始めた高さは4m10から。小野真澄選手と中野選手は3m80でした。世界大会ならいざ知らず、国内の大会で最初の高さが4m10というのは、相当に調子が良かったということでしょう。次が楽しみです。
◆5月4日(火)
WSTF(西新宿に借りている作業部屋)でひたすら原稿書き。家族T氏も来て、キッチン周りなどを整理してくれました。歩いて5分の距離に、彼女の友人夫妻が住んでいることが判明し、夜は一緒に食事。というか、ご馳走になってしまったわけです。
もちろん、食事のあとにも原稿を書いて、しっかり締め切りを守りました。
◆5月3日(月・祝)
静岡国際取材。WSTFから日帰り出張です。東京駅発で静岡停車のひかりに乗るつもりでしたが、JR新宿駅みどりの窓口で新幹線の「○△×」表を見ると「×」。通常、指定席が満席だと、自由席もまず座れません。しかし、今日はゴールデンウィーク期間中ということを考え、自由席にトライしたところ、案の定ガラガラでした。ビジネスよりも旅行客が多いため、事前の予約で席が埋まってしまうんでしょう。
東京も雨でしたが、静岡も雨。そういえば、長島選手と林田選手が出場していましたね。
ですけど、雨は間もなくやみ、午後の種目はまずまずのコンディションの中で行われました。
競技場は違いますが、昨年の静岡国体を湧かせた大学生の大物新人も出場していました。何人かは、お決まりのパターンで、力が落ちています。その中には地元選手もいて、スタンドでは、「○○さんが出る。さっき遭たよ」という会話を高校生がしているわけです。でも、結果は惨憺たるもの。出なければいいのに、とも思いますが、色んな事情があって出ざるを得ないのでしょう。
というマイナス思考はやめて、地元でこんな大きな大会があるのだから、それを目標に冬期も頑張ればいいのに、と思うのですが。でも、それができない。統計的に“できない”のは明らかです。高校で頑張ると、どうしようもないのでしょうか。織田記念の女子400 mに優勝した丹野麻美選手のようなケースもあるのですが。
ちょっと古い話で恐縮ですが、90年の春季サーキットで、高卒間もない選手が2人、同じ種目で自己新を出したので陸マガのモノクログラビアで、1ページずつ紹介しました。高校時代にインターハイで勝った選手と、国体で勝った選手。記録的には超高校級とまではいえませんでしたが、大学1年時にスムーズに記録を更新したことで、国際舞台への足がかりをつかんだような気がします。種目は男子400 mH。斎藤嘉彦選手と山崎一彦選手でした。
静岡陸協の報道への対応はさすがです。
ある地元大物選手がドーピング検査の対象に指定され、競技終了後にドーピングコントロールエリアに連れて行かれようとしていました。でも、「選手もなかなか出ないことが多いですし、先にインタビューをしたらどうでしょう」と提案し、選手も「すぐには出ませんよ」と言ってくれたこともあり(役員に発言しやすい雰囲気があるわけです)、すぐに提案を受け入れてくれました。
記者室の使用時間に関しても、翌日のイベントがあって競技場サイドは早めにそれに取りかかりたかったようですが、記者たちが困った表情をすると、すぐに延長してくれました。それも、快く。どこかの陸協とは大違いです。
帰りの新幹線も、指定席は「×」でしたが、自由席は余裕で座ることができました。寺田が降りようとすると、同じ車両に某専門誌のO村ライターの姿が。「007は降りないの?」と声をかけると、周囲の乗客の何人かが振り向いていました。
◆5月2日(日)
今日も東京選手権が国立競技場であったのですが、さすがに原稿に専念せざるを得ませんでした。昨日の谷川聡選手取材中に鈴木競歩部長から「取材に来い」サインをもらっていたのですが…。案の定、女子10kmWで好記録が出てしまいました。五輪代表を確定させている川崎真裕美選手が、日本歴代4位で優勝。
さらに、十種競技では石沢雅俊選手が7719点の日本歴代3位でオリンピックB標準を突破。すぐ近くでやっていたのに、残念です。残念だし、難しいなあという感想。4月25日の兵庫リレーカーニバルを皮切りに、29日の織田記念、5月3日の静岡国際、5日の水戸国際、8日の国際グランプリ大阪、9日の中部実業団と試合の取材が続きます。10日・11日と個別取材が入っていて、その3日後の14日から4日間は関東インカレ、東日本実業団2日間、関東インカレという過密スケジュール。
どこまで試合の取材を優先して、どこまで原稿を書くために時間を割くか。取材がどんどん少なくなっていったら、ネタの蓄積が少なくなり、記事の中味が薄っぺらくなっていきますからね。でも、締め切りもあるし、無理をして倒れたら元も子もないし。未だに悩み多き年頃です。
悩み多いというわけではもちろんありませんが、昨日の男子1万mには高橋健一選手が出場していました。記録は29分15秒前後だったと思います。座骨神経痛は以前と比べると随分よくなっているようですが、昨日もまだ、少し力が入らない感じもあったとか。
最近は小出義雄氏を義理の父に持つことになったことが話題になりがちですが、高橋健一選手の良かったころを知る人間としては、誰の家族とか、どうでもいいことです。いえ、どうでもいいわけじゃなくて、その、あれですね。家族の話題よりも、彼の走りに興味があります。ハーフマラソンの日本最高を出した頃なんか、すごかったですね。順大の後輩の浜野健選手なんかも、ニューイヤー駅伝で追いつかれたときに、「ええっ?」っていう感じで振り向いていましたし。
コーチ兼任になったと聞いたので、「コーチ業を逃げ道にしないでよ」と、生意気にも言ってしまった寺田ですが、その点は長野出身の福島新監督からも指摘をされているそうです。まだまだ若いですから(高橋尚子選手と同学年)、もう一花咲かせてもらいたい選手。
しかし、考えてみたら今年、トラック&フィールドの試合で国立競技場に取材に来る機会って、あるのでしょうか。かつては国立競技場を舞台にしていた関東インカレと日本選手権が開催されなくなり、主な大会で国立競技場でやっているのは日本インカレくらい。今年は7月2・3・4日の開催で、日本にいるかどうかわからないのです。6月27日のゲーツヘッド(英国)と29日のザグレブ(クロアチア)に末續慎吾選手が出場するので、2年ぶりにヨーロッパGP取材に行こうと画策中。その後も少し残って、7月2日のローマGLや6日のローザンヌSGPも取材したいところ。ビジネスになる保証はまったくないのですけど、せっかくですからね。休暇を兼ねて行くのもいいかなって、思っています。神戸で休暇の大切さを痛感しましたし、「ローマの休日」ってのも洒落ていますから。
◆5月1日(土)
WSTFが威力を発揮しました。
今日、明日と東京選手権&日本グランプリ混成東京大会が国立競技場で行われていますが、原稿があって取材に行くことはできません。春季サーキットを取材していて、何人かの選手が東京選手権にもエントリーしていると話していたので、できれば行きたかったのですが。
しかし、110 mHの予選で谷川聡選手が13秒68(+1.2)を出したと電話で聞き、これは絶対に見ておく必要があると判断。実は織田記念の谷川選手の取材がちょっと不十分だったかな、という気もしていたのでした。
電話で記録を聞いたのが14:15頃。出かける支度をしている最中に陸マガ編集部から電話。これはすぐ終わりましたが、続いて某監督からも。ある選手の電話取材をさせてほしいと、朝、電話でお願いしてあったのです。ぎりぎり間に合うと判断して、約10分の電話インタビュー。そして、WSTF最寄り駅の大江戸線西新宿五丁目駅に駆け込みました。WSTFから国立競技場は、大江戸線1本、それも4駅めという近さなのです。
14:55に駅に着き、スタート時間が2〜3分遅れてくれたこともあって、無事、準決勝を見ることができました。残念ながら13秒71(+1.1)でしたが、好調ぶりは十二分に伝わってきます。レース後に取材もさせてもらい、今日もいい話が聞けました。今は○○○連の運営サイドの要職にある元専門誌編集者のHH氏あたりから、時間的に報道受付をしなかったんじゃないか、という突っ込みが来そうですが、そこは電光石火の早業っていうことで。電光石火って見たことないんですけど。
この大会の3位以内に入れば、日本選手権にB標準でも出られるとあって、選手層の厚い長距離種目にはそこそこ選手が集まりました。最終種目の男子1万mは木庭啓選手が優勝。新興長距離チームであるJR東日本の応援が目立ちましたね。白地に緑で「JR」とロゴの入った小旗を振って。日本を代表する企業が陸上競技に関心を寄せてくれるのは、本当にありがたいこと。きっと、職場の同僚たちが応援に来てくれたのでしょう。そういった人たちの中から、陸上競技の面白さに目覚めて、家族連れで競技会の観戦に来てくれたら、陸上界も盛り上がっていくはず。きっと、大江戸線ではなく、JRで国立競技場まで観戦に来るでしょう。
◆4月30日(金)
ここ数年、寺田は4月30日の朝、広島駅の新幹線ホームにいます。初めて織田記念を取材した4年前に、当日帰ろうとして危ない橋を渡りました。陸マガ・ライターのM城さんと一緒に空港に向かいましたが、携帯電話で航空会社に連絡して「絶対に○時△分には着くから待っていてください」と懇願したことがあります。それに、広島の空港って相当に遠いんです。とても、駅から出ているバスを利用する余裕はありませんから、どうしてもタクシーになって大金が必要になります。だったら、1泊して新幹線で帰っても変わらないんじゃないか、場合によっては安くなるんじゃないかということで、翌年からは当日も泊まることにしています。
そして今朝、広島駅のホームを疾走する寺田の姿がありました。発車2分前でしたが広島の彼女が見送りに来ていて…なんてことはあるはずもなく(昨晩の証人は朝日新聞・金重記者)、売店に向かってまっしぐら。前傾や重心の乗り込みを意識してスピードを上げ、これも年中行事となっている4月30日の中国新聞朝刊購入を目にも留まらぬ早業ですませ、無事、予定していたのぞみに乗り込むことに成功しました。
中国新聞を読んで嬉しかったのは、為末大選手の会見中に寺田が質問したことに対するコメントを、記事に使ってくれていたことです。
Q.来年のこの大会には、どんな肩書きで戻ってきたいですか?
為末 ワールドレコードホルダーというのはないでしょうけど、“サンチェス(ドミニカ)の連勝を止めた男”として(地元の)試合に出たい。実力的にはかなわないかもしれませんが、一刺しができたらいいですね。
紙面では、アテネ五輪でサンチェスに勝つ、というニュアンスで使われていました。あれ? と思いましたが、まあ、それができれば最高の結果ということですね。
あらためて指摘するまでもないでしょうけど、サンチェスに最後に勝った男が、為末選手なのです。01年のザグレブGPでした。見ていたわけじゃありませんけど、その年はローザンヌとローマのGPで取材したんですよ。ザグレブまで行きたい気持ちもありましたが、移動に飛行機を使わないと行けない場所で、予算的にちょっと厳しかったのです。千載一遇のチャンスを逃していたわけですね。当時はその後のサンチェスの連勝は予想できませんから、ローマのホテルで「どんなレースだった?」みたいに軽いノリで質問していたように記憶しています。
◆4月29日(木・祝)
休暇モード4日目……なんてことはなくて、織田記念の取材です。昨日までとは一転して、猫の手モード。織田記念は春季サーキットのなかでも実施種目数が一番多いですし、寺田にとってはクライアント数の多い大会でもあります。という事情もあって目の回るような忙しさになると思っていたのですが、予想よりもほんの若干ですが、余裕がありました。今年は陸マガ編集部からも1人、取材に来てくれたのが大きかったですね。
それともう1つ、兵庫リレーカーニバルと違って効率的な取材ができからだと思います。まず、記者室の場所がいいですね。トラックに面していて、しかもフィニッシュライン付近で。けっこう、トラックに面していない記者室って多いんですよ。だから、こういう競技場というか、そういった配慮をしてくれる陸協はありがたいです。
タイムテーブルも、グランプリ種目と地元小中学生の種目がうまく配分されていて、取材時間が取れるような配慮がされています。頑張ればサブトラックまで取材に行けますからね。そして何より、陸協の報道担当の方たちが、話しかけやすい雰囲気を作ってくれている。これが一番重要かもしれません。その点がしっかりしているな、と思うのは静岡陸協と広島陸協です(すぐに思い出せる範囲では)。
対照的に、記者に対して高圧的な姿勢で臨む陸協もあります。毎年行われているある大会を3年連続で取材していますが、最初の年に「ここの陸協は違うな」と感じた県があります。翌年も同じように感じましたし、今年も感じました。そして、記者クラブからも要望書が出されていることを、つい先日知りました。つまり、個人的に威張っている人がいるというレベルでなく、陸協全体の報道に対する姿勢なのでしょう。
長距離も短距離も強い選手を多く育てている県です。インターハイや高校駅伝など、県大会を全国的なメディアまで取材するほど強い。でも、それは広島や静岡だって、同じように強いわけです。以前に報道とのトラブルがあったのかもしれません。報道側に非があって、陸協の対応が適当になってきたということも考えられるケースです。もう1つ考えられるのは、地元メディアが本当に大々的に報道するという点。それが当たり前の感覚になっているのかもしれません。
すいません。野暮な話が長くなりました。今日はあるテーマで取材をしました。せっかく2004年にビッグアーチに来たわけですから、と書くと鋭い読者と広島の方はもうおわかりですね。そうです。広島アジア大会から10周年記念大会なのです。でも、10年前のアジア大会に出た選手って、あまりいないんですよ。20代の選手は10代だったわけですから、当然と言えば当然。
しかし、広島アジア大会を象徴する選手が頑張っていました。言わずと知れた3000mSCの内冨恭則選手。地元の高校・大学・実業団で走り続け、炬火ランナーまで務めた選手です。ところが、競技では中国とカタールの選手に敗れ、地元で3000mSCの日本の連勝をストップさせてしまいました。いつかは止まるのが連勝です。誰かがその当事者となるのは仕方のないこと。しかし、内冨選手の素晴らしいところは、4年後のバンコク・アジア大会で優勝して雪辱したこと。とにかく、ガッツの感じられる選手です(中国電力ですからもう駅伝メンバーは無理だろう、と思われることもありますが、入ってきますからね)。
「あれからもう10年ですか。気づきませんでした」
まあ、選手は目の前にクリアすべきことがたくさんありますからね。内冨選手だったら、国際グランプリ大阪での五輪A標準突破。過去の思い出にひたっているヒマはありません。
だったら、すでに現役を引退しているOBなら、と思って周りを見回すと、いました稲垣誠司コーチが。内冨選手同様、広島出身なので純地元の大会でしたが、4×400 mRでバトンを外国選手にたたき落とされ、フィニッシュ後に泣き崩れていました。
「ビッグアーチに来ると、今でも心が痛む?」と質問。「現役選手ではありませんから、さすがにそこまでは」ということでした。ハンマー投で出場した等々力信弘選手は、今はミズノでバリバリの営業マン。室伏広治選手が銀メダルを取った大会ですが、日本選手権で優勝したのは等々力選手でした。翌年から日本のハンマー投は室伏選手の独壇場になりましたから、“室伏広治に最後に勝った日本選手”の称号を得るチャンスでしたが…。
「あの年の日本選手権は負ける気がしないくらい調子が良かったのですが、秋は調子が落ちていてダメでした」
スタンドでパソコン相手に格闘されながら、話してくれましたが、特に感慨深いという話し方ではありません。OBたちも、自身の現在の立場で、試合会場でやるべきことがたくさんあるのです。感傷にひたっている場合ではないのでしょう。
広島アジア大会に出場して、今年の織田記念に出場した選手は内冨選手の他に、朝原宣治選手と弘山晴美選手。伊藤佳奈恵選手も出ていたかもしれませんが、手元に資料がないのでわかりません。11秒62と当時の日本記録を出したのが93年。翌年は、どんな調子だったでしょうか。三重の二枚目助教授が教えてくれるでしょう。
朝原選手は31歳、弘山選手は35歳。ともに今大会で年齢別日本最高(10秒16と15分43秒16)を記録しました。と思ったら、弘山選手は9月2日が誕生日で、昨年9月末の全日本実業団の記録の方が上でした。
◆4月28日(水)
休暇モード3日目。神戸から広島に移動しました。この2カ所をつなぐのが、兵庫出身のスプリンターである小島初佳選手(旧姓新井)でしょう。神戸から広島に在来線電車で移動すると、彼女の出身地である舞子があります。海岸線、特に淡路島に架かる橋の近辺はなかなかの景観。もうちょっと上手く開発していれば、関西のコートダジュールになったのに、という印象を持ちました。
広島着後、路面電車でホテルに移動して荷物を預け、前日の練習を見学するためにアストラムラインでビッグアーチに。「?」マーク形にぐるっと回っていく路線なので、けっこう時間がかかります。車で市の中心部から行けば、直線的に行けるのですが。
トラックでは福島大勢、富士通勢、大塚製薬勢など、有力選手が練習をしていて、小島初佳選手の姿も。実家は舞子の山側のようですが、海もちょっと見える場所(オーシャンビュー!!)だそうです。コーチの原田康弘陸連ジュニア部長にも、今季の状態の話をうかがいました。原田部長はかつての400 m日本記録保持者ですが、1980年のモスクワ五輪前は、今の女子短距離のように男子4×100 mRをオリンピックに派遣しようという気運が盛り上がっていて、ショートスプリントに重点を置いていたことがあります。
100 mで日本選手権に優勝したことや、冬期練習中の原田部長の写真が陸マガの表紙を飾ったことなど、小島選手も一緒にいるときに話をしてしまいました。この手の昔話は、若い選手には退屈なものでしょう。にもかかわらず、小島選手は「その頃から、今の仕事をされていたんですか」と突っ込んでくれる、気遣いを見せてくれました。もちろん、当時の寺田は陸マガを読み始めたばかりの一ファンでしたけど。
それにしても最近、選手に気遣いをしてもらうシーンが多いですね。昨日の日記で紹介した森選手とのエピソードもそうです。今日もある指導者の方と話していて、側を通りかかった池田久美子選手に「袋井で記録会をやったらいいよね」と、いきなり声をかけてしまうあつかましさ。ちょっとビックリしたようですがすぐに、「そうですよね」と明るい声で答えてくれました。吉田真希子選手や信岡沙希重選手にも、気を遣ってもらっちゃいましたし(具体的には内緒)。偶然だと思いますが、名前を挙げたのはみんな女子選手ですね。男子では小島茂之選手が抜群の優しさを見せると、シドニー五輪直後の何かの記事で、リレーを組んだ川畑伸吾選手たちが話していましたが。
◆4月27日(火)
休暇モード2日目。ですが、午前中に電話取材を1本。仕事のメールもいくつか処理しました。まったく仕事をゼロにするのは、よっぽどのことがない限りできません。休日モードで原稿を書く方が、気のせいか筆の進みがいいような気がしますし。今回、都心に作業スペースを確保して、毎日通勤することでオンとオフを分けようという意図もありはしますが、寺田という存在全体でビジネスを展開しているところもありまして(若干、不鮮明な言いようですが)。メールを見なかったり、携帯電話の電源を切っておくという方法もありますが、後から苦しむ羽目にもなりかねませんから。
ということで、今日も関西某所にいます。昨日の日記で神戸ポートタワーの展望階にある回転喫茶でミルクティーと黒ビールを飲んだと書きましたが、これは紅茶と黒ビール、赤と黒だったと言いたかったのです。わざわざ書かなくてもいいことかもしれませんが。で、赤と黒というスタンダールの作品がどうこうと展開したいわけではなく、赤と黒が混じると臙脂(えんじ)色に……はなりませんね。紫と赤だったらえんじ色になるそうです。
なんで臙脂色の話題にしたかったのかというと、甲南大のユニフォームが臙脂色だから。昨日の日記で触れたように女子4×100 mRで46秒99を兵庫リレーカーニバルで出しました。そして今日、阪急電車に乗っていると甲南大の校舎が車窓から見えました。以前にも1〜2回は見たことがあるのですが、今日は校舎の色も臙脂だと気がつきました。休日モードのおかげで、周囲を見る余裕があるのだと思います。
そういえば、先週の土曜日に森千夏選手を取材した際に、森選手も遊びというか、気持ちを切り替えることが重要だと話していました。寺田が「余裕があると、見えてくるものがあるのでは」と生意気にも話すと、同意してくれました。今日の甲南大校舎の色に気づいたのも、余裕のなせる業だったと自分では思っているのですが。
某誌O川編集者も甲南大のOBということは、以前にも紹介しました。神戸ユニバーシアードで補助員をやったかと聞くと、1985年はまだ小学生だったとか。でも、神戸で全日本実業団が開催されたときには、高橋千恵美選手の腰ゼッケンを外す役目だったと、嬉しそうに話してくれました。
なんで彼に、神戸ユニバーシアードで補助員をやったのかを質問したのかというと、朝日新聞・金重記者が関学大の学生のときに、神戸ユニバーシアードの補助員をやっていたと言い出したからです。さすがに記憶は曖昧なようで、どの種目を直接見たのかは、はっきりと覚えていないとのこと。寺田も以前書いたように、91年東京世界選手権のどの種目を直接見て、どの種目をテレビで見たのか覚えていませんから。役割分担は、選手を招集所から場内に誘導する係りだったようです。
金重記者で思い出しました。今日、もう1つ、余裕を示すエピソードがあるのです。阪急電車で何気なくはす向かいのおじさんが読んでいる新聞に目をやると、「坂本先輩」「世界クロスカントリー選手権代表」「寺田」の見出しが何気なく目に入ってきました。1.67秒後に寺田恵選手(県西宮高→関学大)の記事だ、と思い当たりました(血縁関係はありません、メイビー)。判読しづらかったのですが、ヘッダーの新聞名は朝日新聞と読みとれました。さすがに全国版での登場は厳しいだろうから、関西、あるいは兵庫面だろうと判断。乗換駅ですかさず朝日新聞を購入。阪神面だとわかりました。その記事自体は、金重記者でなく別の記者の方が書いたものでしたが。
何が言いたいのかといえば、電車ではす向かいに座っているおじさんの新聞記事なんて、普段は気づかないはず。それだけ、休日モードで周りがよく見えていたということです。休むって、重要だなあと痛感した神戸の休日でした。それにしても、神戸に来ると日記用のネタが豊富にあります。明日は広島入り。まさか、まだ兵庫リレーカーニバル&神戸ネタが続いているってことは…。
◆4月26日(月)
昨日の日記の締めが織田記念でしたから、今日からは日記も織田記念モードかと思いきや、まだまだ兵庫リレーカーニバル・モードです。実は織田記念まで束の間の休暇を取ることにして、今日はまだ、神戸に滞在中。
昨晩は飲んだ関係で(といっても、ビールをほんの少々)、早くに就寝して(なんと1時前!)、今朝は6時に起きて仕事をしました。睡眠時間十分です(正確には5時間10分)。午前中はホテルで原稿を書いて、13時から外出。コンビニで宅急便を出し、クリーニング屋さんを探しました。でも、三宮にクリーニング屋って、ないんですね。ホテルのフロントも、コンビニお姉さんも近くにはないと言います。実際、歩けば見つかるだろうと思ったのですが、本当にありませんでした。
コンビニでは神戸新聞も購入。自社主催大会ということもありますが、本当に充実した紙面展開です(神戸新聞サイトにも記事が出ています)。昨日ちょっと触れましたが、伊東浩司選手も同新聞のコラムに「神戸新聞は兵庫県スポーツ選手のやる気の源です」というニュアンスのことを書いています(文言が若干不正確かもしれません。申し訳ありません)。ちなみに今大会で甲南大は女子4×100 mRで46秒99の兵庫県新とのこと。
昨日、競技場の関係者通路からスタンドに出るスペースで、兵庫リレーカーニバル50年記念誌と、兵庫陸協70年誌を売っていたので、2冊で4000円と貧乏ライターには大きな出費でしたが、思い切って購入。もちろん、寺田的には業務での購入ですので、領収証をお願いしました。そしたらなんと、受領者は神戸新聞。やっぱりね、と思いました。本当に神戸新聞は兵庫リレーカーニバルを支えています。
褒めてばかりいると、神戸新聞の回し者と思われてしまいそうなので、苦言も呈しておきましょう。問題は大会プログラムです。兵庫リレーカーニバルのメイン種目は長距離。巻末の歴代優勝者はリレーと男子1万m(5000m)だけが掲載されています。それ以外の種目は載っていないのですから、主催者側も、長距離こそが兵庫リレーカーニバルの看板種目だとアピールしているのです。
ところが、女子1万mの日本記録の、400 m毎の通過タイムが間違って掲載されていました。フィニッシュタイムが31分00秒46。9600mも明らかに違います。9200m以前は手元ではすぐにわかりませんけど。いずれにしても、日本記録でも大会記録でもありません。いったい、何の記録と間違えたのだろう、と記者も皆、首をひねっていました。それに、走高跳と棒高跳の試技表が、6回しか記録を書く欄がないのです。走幅跳・三段跳や投てき種目と同じになってしまっている。プログラムの製作全体を取り仕切る部署でなく、兵庫陸協がチェックすべき部分かもしれません。
話を寺田の行動に戻します。三宮で昼食(家庭的な定食屋)を取った後、港まで歩いて行きました。昨晩、ちょっと話題になったオリエンタルホテルも、気が付いたら目の前。選手たちが泊まっていたホテルです。どんな話題だったかは、ちょっと書けません(オリエンタルカレーって、ちょっと古いけど皆さんご存じですよね)。
オリエンタルホテルのすぐ側に、神戸ポートタワーがありました。10数年前、陸マガのバイト時代に初めて出張に行ったのが京都で、H田前編集長と一緒に京都タワーに登ったことを思い出したのと、六甲の山並みと港の両方が綺麗に見えそうだったので、600円と貧乏ライターには大金をはたいて入場。見ると、展望階に回転喫茶店があります。さっそく入って500円でミルクティーを注文。22分45秒で1回転しますが、3回転目以降はパソコンに向かって原稿を書いています。休暇じゃないのかって? 気持ち的には、休暇ですよ。すでに午後の7時になろうとする時刻で、夜景がきれいになってきました。ビールでも飲みましょう。黒ビールも500円か。
◆4月25日(日)
6:30に起床して、7:37発の電車で出発。向かったのは、新宿の作業部屋であるWSTFです。やはり、名刺は必要と判断し、東京回りで兵庫リレーカーニバルの取材に行くことにしました。名刺の他に、パソコン用ACアダプタ(これは自宅にもあったのですが)、サングラス、メモリーレコーダを持っていくことに。あと、大家さんに来月分の家賃も払おうかな、と。同じマンションの2階が大家の住居で、銀行口座からの引き落としでなく、直接現金を持っていくという昔ながらのやり方です。出張(&休暇)から戻るのが30日ですからね。最初くらい早めに払って、ですね。
新宿着から同駅発まで約55分。駅から片道20分ですから、WSTFでは15分の滞在しかできませんでしたが、余裕で用事をこなして間に合いました。実際、それほどの遠回りというわけでもありません。要は、気持ちの問題です。
兵庫リレーカーニバルの取材は3年連続。何回も書きますが、兵庫はさすがと言っていい陸上どころ。長距離も短距離も、大物選手を生み出しています(名前はもう、いちいち挙げませんよ)。そのうちの1人、伊東浩司選手は現在、甲南大女子部のコーチ(監督かな?)です。その伊東選手と廊下で遇ったのが女子1万mが始まる直前。
「神戸新聞の連載読んだよ」
と、声をかけました。知り合いの記者の方が、伊東選手が不定期に神戸新聞紙上に書いたコラムを送ってくれていたのです。
「あ、あれはもう、終わりましたよ」
自身の書いたものを褒められそうになると、ついつい話題を転換したくなるのは、自分にも覚えがあります。
「(女子1万mの)ラップを測らなくていいのですか」
実は、すでに30分以上、ある選手を待っていました。正直言って、今日は取材効率の悪い1日でした。今大会の日本グランプリ種目は11種目で、春季サーキットの中では少ない方。通常であれば、もっと多くの選手のコメントが聞けたはず。男子の1万mだって400 m毎のタイムを測れたはず。でも、できませんでした。寺田の場合、複数のクライアントの仕事をする大会もあって、効率が悪くなるのは死活問題なんです。自分の能力不足といえばそうなんですが、若干、違う原因もありました。
話を伊東選手と遇った廊下に話を戻しましょう。その場を動きづらかったのですが、なんとなくあと30分以上は現れないような予感もしたので、女子1万mのタイムを測りに行きました。レース後にその選手の取材ができたのは、普段の行いが良かったせいでしょうか。男子1万mの取材があったりで福士選手のコメントは直接聞くことができませんでしたが、400 m毎を計測できたのでなんとか、記事(国内日本人最高の31分05秒68 30分30秒が目標だった福士が狙う“次のレベル”とは?)は書けました。
お堅い一般誌の編集者だと、本人のコメントがないとクレームをつけられそうですが、寺田のサイトならこんな書き方もありです。下手にコメントを掲載するよりもよっぽど、レースの状況や福士選手の考えがわかると思います。それが理解できない編集者は、記事はこうあるべきだという固定観念に縛られている編集者。
表情はどうだったのか、と聞いてくる編集者もいます。そのことに対する寺田の見解は、以下のように書いたことがあります。
通常、記事の中で表情がどうと描写するよりも、選手のコメントを多用する傾向があると思います。もちろん、表情の描写も重要ですが、“表情を読みとる”という作業は“言葉を読みとる”という作業よりも不確定さが伴います。同じ感情でも、人によって表情の出し方は違いますし、それを見て判断する側の主観も文字にするときには入ってきます。言葉も不正確に使われたり、うそだったりすることもありますが、表情を読みとることと比べたら、なんていうか、比較的確かな情報伝達手段だと思うのです。
それを、高岡寿成選手のびわ湖マラソン欠場会見の時に、表情を重視した経緯も書きました。今日だったら、尾田賢典(おだよしのり)選手の表情が良かったですね。実は男子1万mは、前述の“待っていた”選手の取材で、よく見ることができませんでした。ちらちらと見たなかで気づいたのが、トヨタ自動車の小柄な選手が、リズムよく走っていること。この“リズムよく”という表現もくせ者で、結果が出た後でならいくらでも使える表現。まあ、走りによかった部分があるわけだから、いい結果が出るのですが。
レース後、引き揚げてくる尾田選手に「B標準切った?」とすれ違いざまに声をかけると、「はい」と、とびきりの笑顔で答えてくれました。あとでリザルツを見ると28分03秒92(日本人3位)。昨年、9月の全日本実業団で28分15秒82と自己新をマークしていますが、11月の日体大記録会では、高校記録を出した上野裕一郎選手にまったく付いていけませんでした。ニューイヤー駅伝も1区で区間16位。その頃の体調が万全でなかったようですが、悔しくないはずはありません。今日の笑顔をきっかけに、再度、上昇カーブを描いて欲しいもの。そうしたら、今年の兵庫リレーカーニバルは尾田選手にとって記念すべきレースになるわけです。4日後には織田記念もありますし…。
◆4月24日(土)
昨晩はWSTFに泊まったので、初めてWSTFから取材に行くことに。実は昨晩、泊まって時間ができたので、直径100cmの丸テーブル(円卓です)を組み立てました。残る大物家具は5月4日に配送されてくるソファくらい。かなり、形はできあがりつつあります。
円卓は寺田のメインデスクの左後方。キャスター付きの椅子をちょっと移動させれば、手が届く範囲。食事用というよりも、セカンドデスクとして利用するつもりです。実は原稿執筆時の資料置きスペースとして、本来キッチンで使用するキャスター付きワゴンを購入しました。円卓はそれに乗らない大きな資料置きにも使えますが、むしろ、2つの原稿を同時に進行させるとき(厳密にはできませんけど)、デスクを分けて作業ができると便利かな、と思っています。
それに、取材準備にもめちゃくちゃ役立つことが、今日、判明しました。持っていく資料・荷物を円卓の上に並べると、頭の中も整理し安いんですね。別に円卓でなくても、スペースさえあればできることなんですけど。とどのつまりは、広さの恩恵ということですね。
昼まで今日の取材と兵庫&織田記念の取材準備をして、支度を万端整えて出発……したはずですが、今日の取材時に学生マネジャーに挨拶をしたら、名刺が最後の1枚でした。出張に名刺なしで行くのは、かなりの勇気が要ります。ないと決定的にまずいというわけではありませんけど、色んな局面であると便利。報道受け付けで名刺を出さないといけないケースも多いんです。身分証明書があれば本来、大丈夫のはずなんですが、マニュアル通りにしか行動しない役員も多いですからね。
こういうとき、仕事場と自宅を兼ねていると、問題なく対処できるのですが、公私を分けた今となっては、自宅で名刺を作成できません。明日の出発前に新宿の作業部屋に寄ればいいのですが、自宅からだと新幹線は、新横浜から乗るのが一番の時間節約になるのです。うーん、どないしよう。
◆4月23日(金)
昨日もワイナイナ選手会見後に即、WSTFに戻り終電まで頑張りましたが、原稿が終わらず、帰宅して2時頃まで原稿書き。今朝は6時台には起床して、11時まで頑張って仕上げました。本当は今朝が締め切りの原稿で、先方には迷惑をかけてしまいましたが、寺田のリズムはいい感じになってきつつあります。
仕事を持ち帰るのは本来避けたいのですが、早寝早起きのパターンになりつつありますし、自宅で朝まで、のらりくらり進めるより、かなり効率的になっているように思います。
原稿を書き終えた後。いくつかの段取り。午前中の方が連絡が付きやすい相手も多いので、そのまま自宅で仕事。来週前半になると予想していた取材(こちらが勝手に思いこんでいただけですが)が、明日の15時からに。もう1本、来週の前半かなと思っていたものが、5月のゴールデンウィーク明けに。ということは、日曜日の兵庫リレーカーニバルの次の日から、休みが取れる…???
しかし、です。午後からWSTFに移動して明日と春季サーキットの取材準備を始めたら、ある重要な資料が見当たりません。他の仕事の合間を見て探し続けましたがダメ。あと、別件で忘れていた仕事が1つあって、これも22時過ぎから始める始末。ゴールデンウィーク前って、結構バタバタするんですよ。自分は休まなくても、世間は情け容赦なく休むので。結局資料が見つからず、WSTFに泊まることに。
こうなったら明日の取材だけでなく、春季サーキットの取材準備もしてしまいしょう。
◆4月22日(木)
今日はコニカミノルタがセッティングしたワイナイナ選手の共同会見がありました。
が、行けるかどうか、微妙な状況でした。昨晩は締め切りの原稿が終わらず、終電で帰宅後も3時くらいまで仕事。朝も7時には起きて仕事の続きをして、10時の締め切りに間に合わせました。
その後、自宅から電話連絡などの作業をして、若干の休憩もはさんでWSTFに。移動の電車のなかでも簡単な資料を作り、WSTFでプリントアウトして(自宅にプリンタがないのは、やはり不便ですね)、コンビニ弁当も10分で平らげて、大手町の会見場に移動。丸の内線の西新宿まで歩いて10分。メトロで約22分くらいでしたでしょうか。
ワイナイナ選手の会見の模様は、記事にするつもりです(と言っていて、できなかったの記事が名古屋国際女子とびわ湖両マラソンでありました)。記事にするようなネタではないのですが、1つ、書いていいと思えるエピソードが。
ワイナイナ選手の代表決定が3月10日頃だったと聞いたので、びわ湖マラソン(3月7日)のレース直前に代表決定の知らせが届いたのではないか、と酒井勝充監督に質問しました。というのも、コニカミノルタの佐藤敏信コーチとレース前に話をしていたら(大島コーチだったかな?)、酒井監督が少し慌てた様子でやって来られて、佐藤コーチと何事か話し合い始めたのです。
ところが、その件はまったくの別件でした。松宮祐行選手がレース前のアップ中に転倒したというのが、そのときスタッフが対処しようとしていた問題だったのです。結果的に、松宮祐行選手はコニカミノルタ日本人最高記録をマークしました。それにしても、ニューイヤー駅伝の失敗といい、松宮祐行選手が将来、いい結果を出して記事にするときには、ネタに事欠かないでしょう。
◆4月21日(水)
今日、明日と原稿の締切もありますが、夕方までは手伝ってくれる人手もあったので(助かりました)、荷解き作業を頑張りました。一昨日購入した衣装ケース1個に入るのは、陸マガだと約4年間分。もう1つの専門誌はサイズが違うので入りません。取材ノートも4年間分ですが、これは近年、年間の冊数が増え続けています。さらに2個、衣装ケースを購入しました。
以前に書いたかもしれませんが、荷解き作業というのは、今後のシステム構築を考えながら行う必要があるのです。どんな資料・荷物が増えていくのか、それらをどう収容していくのか。そこを考えずに、手当たり次第に空きスペースに荷物を入れていったら、後で痛い目に遭いますからね。この作業は戦略的に重要な部分……でも、目の前の締め切りもなんとかしないといけません。
専門誌がだいたい収容でき、その間にラックも1つ組み立ててプリンタとスキャナが、収まるべき場所に置くことができました。手伝ってもらったこともあり、今日はかなり片づきました。何とか先が見えたでしょうか。
◆4月20日(火)
不覚にもユンケルを落としてしまいました。
陸上界の切れ者記者(この人)に似た風貌のメジャーリーグ野球選手のように、ユンケルを上空に放り投げ、それをキャッチしようとして失敗……したわけではありません。コンビニでユンケル(300円くらいのやつ)を手にしてレジに持って行こうとしたら、床に落としてガッシャーン。初めての経験です、コンビニで瓶を落として割ってしまう失態は。それだけ、二の腕の筋肉痛がひどかったのです。
WSTFの荷解き作業のペースも少し落としました。パソコンのキーボードを叩くのも、かなり効率が落ちています。まあ、筋肉痛があってもなくても、原稿を書くスピードは元から遅いので影響は小さいわけですが。
夜、電話が開通しました。でも、最終的にはADSLにしてIP電話にしようと思っているので、番号は一部取引先に伝えるのにとどめました。
◆4月19日(月)
昨日、プリンス近藤記者と電話で話した際も、作業部屋移転の話題となり、「増え続ける取材ノートと専門誌をどう収納していくか迷っている」と話しました。その直後に無印良品に行って収納用品を見ていて、行けるかなと思えたのが、引き出し型で半透明の衣装収納ケース。新しい作業部屋は幸いなことに、収納スペースも多くあります。プラスチック製で雑誌を詰め込んで壊れないか心配でしたが、1つ1300円と安いので、今日6個購入しました。
プラスチック製(ポリプロピレン?)なので軽く、6個でも持ち帰れそう。3個ずつひもで結わえ、両手に持って持ち帰ることに。しかし、これが大失敗。最初は軽く感じるんですが、だんだん負担になってくる。一応、その辺を考慮して大江戸線に乗りました。新宿から2駅めの西新宿5丁目まで行くと、徒歩5分の距離なのです。
しかし、それでも厳しかったですね。ひじを伸ばした状態だと、底が地面に擦れてしまいます。ゆっくり交互に、体を左右に傾けて歩けば擦らずにすみますが、それだと分速20mくらい。その遅さはとても我慢できず、ヒジを曲げてスピードを上げます。なんとか頑張って到着しましたが、翌日を待たず、夜のうちに筋肉痛が出ました。
段ボール箱の荷解き作業は、若干進みましたが、専門誌の初期の頃のバックナンバーがなかなか出てきません。一応、引っ越しやさんが、どの本棚の荷物を詰めたのか、外側に書いてくれていますが、情報としては不十分。しっかり立ち会って、専門誌の年と月号を自分で記入しておけば、作業の進行速度は全然違ったと思います。
先日の日記で、専門誌のバックナンバーは1冊たりとも捨てていないと書きましたが、取材ノートに関しては、実は10年以上前のものは捨てています。正直に言えば取っておきたいのですが、本当にスペースをとるんですよ。ところが、今日の荷解き作業中、1990年の陸マガ・バックナンバーの間から、取材ノートが1冊出てきました。他ならぬ、家族T氏を取材したときのもの。どうでもいいことですけど、こればかりは捨てられません。
◆4月18日(日)
今日は陸上記者たちにとって、微妙な1日だったと思います。通常であれば“絶対にここ”という試合が決まっているのですが、今日に関しては、どこと決められない試合ばかり。1週間前の熊本・金栗杯も行く記者と行かない記者、東京から陸上競技のメイン担当が行く社と、九州の陸上競技担当が行く社と、それぞれではありましたが。
僭越ながら寺田から申し上げますと、どこにも行きませんでした。WSTFでひたすら段ボール箱の荷解き作業。単に荷解きをすればいいのでなく、どの荷物をどこに収納するか、どうすれば今後の作業効率がよくなるかを考えながらやっています。あとは、捨てていい物の選別作業ですね。で、一番の問題が昨日も書いたように、増え続ける取材ノートと専門誌の収納の仕方です。
そうこうしているうちに、陸マガ前編集長のH田氏から電話があり、森千夏選手が日本人初の18m台を出したことを知りました。静岡県選手権西部地区予選、という表記に静岡陸協のサイトではなっていますが、地元では西部選手権と呼んでいる大会です。H田氏から記録も18m22と聞きましたが、掲載するにあたってはいくら個人的なサイトとはいえ、裏をとる必要があります。スズキの影山マネジャーと、国士大の青山先生に電話をして記録を確認。さっそく、本サイトのトップページにも掲載しました。
歴史的な一投だったわけですが、さすがに西部選手権まで取材している社は、静岡新聞と中日新聞東海本社(浜松)くらいでしょう(これは裏をとっていませんが)。冒頭で紹介したように今日の陸上競技担当記者の取材先はさまざま。朝毎読をとっても、朝日の金重記者は岐阜で高橋尚子選手、毎日のISHIRO記者はロンドンでロンドンマラソン、読売のプリンス近藤記者は柔道の取材でした。行く可能性のあったのが、静岡県西部地区の袋井出身の寺田だったのではないかと思います。スズキ勢が大挙出場することも知っていましたが、引っ越し作業というか、足元を固めるのが優先かなと考えてしまいました。
そうしたら、歴史的な一投を見逃してしまったわけです。寺田は野口安忠選手の日本人男子初の18mを間近で見ています。本当に、惜しいことをしました。
サイトにアップしたら何人かの記者の方が、連絡をしてきました。そのうちの1人である近藤記者と電話で話した直後に無印良品の店に行ったら、取材ノートと専門誌の収納問題の解決法が見えてきました。今日の唯一の救いですね。
◆4月17日(土)
朝9時前に起きましたが、筋肉痛です。情けない、あのくらいの作業で。しかし、今日も引っ越し作業の続きをやりましたが、体を動かすと少し楽になりました。長距離できつくなったときに自らペースアップすると、少し楽になるケースがありますが、それと一緒……にしていいのか? そうそう、末續選手の会見中に寺田が勝手に痛めた右腕は、なんともありません。ご心配してくださった方が何人かいらっしゃいましたが、本当に大丈夫……は土佐礼子選手の口癖ですけど。
今日は永山(自宅の最寄り駅)で折り畳み式の椅子を2つ買って電車で運んだり、高さ80cmのワゴンをWSTF近くの家具問屋で買ったり、飯田橋の知り合いのオフィスからデスクに乗せる本棚を運んだりと、昨日の買い物に引き続き歩き回りました。こうなると、新宿駅から徒歩20分というのはきついですね。今だけだと思いますが。
幅45cm高さ120cmの本棚の雑誌・書籍を詰めたものを中心に、段ボール箱も6個か8個整理しました。でも、専門誌のバックナンバーをはじめ、段ボール箱はまだこんなに残っています(部屋の全景…というほどでもない写真)。右奥の方の小さいテーブルに乗っている青い箱は、2年前のヨーロッパ取材中にニーム(フランス)から送った荷物です。まだ整理していなくて、自宅の作業部屋にあったのがそのまま西新宿まで移動してきたわけですね。
デスク近辺の写真がこれ。昨日紹介したように、このサイズでは本当に手狭でしょ。それで今日、資料を乗せるためのワゴンを買ったんです。安かったし。デスク上に電話がありますが、まだ回線は開かれていません。ADSLの申し込みと一緒にやるか、電話だけでも先に通じるようにするか、ちょっと悩んでいまして。というか、ADSLの勉強が不十分で、なかなか判断できない。デスク本棚の上にある海外のある資料は、昨年、ミズノの木水広報にお世話になって入手しました。役立っています。この場を借りて、改めて御礼申し上げます。
池田久美子選手を白井市のブルートラックで取材したのが、今月の始まりでした。ということで、全景写真に写っている椅子2脚は白と青。カーテンも白地に青…にプラスして赤もありますね。昨年のパリ世界選手権をイメージしてみました。やっぱり、WSTFといえば世界選手権でしょう(若干意味不明ですが)。でも、丈がレディメイドだと3cmくらい長くなっちゃうんですよ。どないしよう。
一番の問題は専門誌と取材ノートの収納をどうするか、です。本棚はこの写真のようにまだ空っぽ。これの他にもう1つ、高さ180cmの専門誌用本棚があります。問題というのは、専門誌は毎月2冊、取材ノートは月に3〜4冊、確実に増えていくということです。デスクの上はこの容量しかないので、古くなった雑誌をどう収容していくかが問題なんですね。その対策を決めないことには、安易に本棚にバックナンバーを入れられません。
WSTFが何年存続するかを予想して、そのスペースを空けておくという方法が1つ。増えていく分の収納場所を、新しくキャビネットか本棚を購入していく方法が1つ。まあ、この例1つをとっても、広さを確保したかった理由がわかりますよね。えっ? 専門誌は捨てていないのかって? 生まれてこの方、専門誌は1冊たりとも捨てていません。ここ10年以上、陸マガは買ったこともないんですけど。
◆4月16日(金)
朝の6時に起きて原稿を書き、日記も2日分書いて8:00前にはサイトにアップ。伊藤超短波のことは、できれば早めに紹介したかったので。
8:20に引っ越し屋さんが来ました。女性1名と男性2名。女性はどんどん段ボール箱に詰めていく専門、男性Aは詰めるのと、玄関の外まで運ぶのが担当。男性Bが玄関の外から車まで、という分担のようです。大きな荷物は男性2人が運びます。いつも引っ越し屋さんに頼むと感じることですが、やっぱりプロ。僅か2時間とちょっとで荷物を全て運び出してしまいました。10:40くらいに終わりました。寺田時間だったらまだ、朝っぱらです。朝原じゃなくて。
寺田のマンションはエレベーターがあるので、男性Bが分担からするとちょっと楽だったかも。責任者のようで、年齢的にも一番上です。といっても20歳代後半でしょうか。でも、決めつけるのは早計かも。一昨日、36歳になったプリンス近藤ですが、昨日のミズノスポーツ賞の表彰式末續選手から改めて「学生でも通用する」と言われたそうですから。
実際、男性Bは、顔はやさ男風でしたが、これがなかなかやります。新居…じゃなくて、WSTFは築30年の4階建てビルの3階。エレベーターはないのですが、細い階段を“おおっ”というプロの業で荷物を運んでいたと、家族T氏が言っていました。
そうなんです、平日でしたがたまたま家族T氏が休みで手伝ってもらったのです。大感謝。
13時から開始した搬入作業も14時ちょっとには終了。同じビルの2階に大家が住んでいるので挨拶。あとは、昼食後に買い物です。ワークスペースといっても、日用品はそれなりに必要です。キッチン周り、バス・トイレ用品などを購入。もちろん、それらと並行してオフィス家具も。
失敗したのはデスクです。新しく140cm幅、70cm奥行きのものを通販で買おうと思ったのですが、人気品とのことで5月27日まで入手できません。自宅で使用していた110cm幅、60cm奥行きのものを、やむなく持ってきました。あとは、丸テーブル(円卓。なんで太字にしたか、理由はいずれわかるでしょう)を置きたいのですが、これが意外とないですね。110cm直径で探しているのですが…。
21時頃に買い物から戻り、少しでも荷解きを進めようと頑張りました。その作業中に伊藤超短波のカタログが出てきたら、家族T氏が「なんで持ってるの」と、一段トーンを上げて声を発しました。T氏は元陸上選手ですが(選手登録は現在もしている)、自分が走るのは好きでも、陸マガを隅から隅まで読むタイプではありません(いいのか、それで?)。すぐに陸マガの5月号を出して、トレーナーの河本愛さんの記事を見せました。
実は家族T氏も伊藤超短波と関わりがありました。というのも、家族T氏は柔道日本男子チームの管理栄養士をやらせてもらっているのですが、伊藤超短波の治療器具は柔道界でも多く使用されているのだそうです。営業の担当者もよく知っていて、とてもいい人だと言っていました。夫婦で引っ越し作業を頑張っていたら、思わぬ接点が見つかったという、絆を感じたと言ったら言い過ぎかもしれせんが、疲労を少し和らげてくれるエピソードが最後に待っていた一日でした。
◆4月15日(木)
昨日の日記で陸マガ5月号見どころをざっと紹介しましたが、忘れていけないのが坂本直子選手のトレーナーである河本愛さんの記事です。坂本選手を3月24日に取材して、河本さんは1週間後の3月31日。今では1年の半分近くを天満屋の合宿に帯同されていますが、それ以外は吉祥寺のケッズ接骨院に勤務されています(ちなみに今は、坂本選手の海外合宿に帯同中のはず)。違う角度から坂本選手の話を聞かせてもらうことができ、とてもためになりました。
河本さんの取材を通して、超音波治療に関しても勉強させてもらえたのもよかったです。超音波だとマッサージや鍼ではできない骨の傷害を、治療できるんですね。筋肉のある部分でも、超音波の特性として体内に届く深さを調節できるので、深くすれば骨膜などへの治療、浅くすればマッサージ効果も期待できるのだそうです。それに今では、携帯用の小さいサイズの治療器もあります。興味のある方は、伊藤超短波のサイトを見てみてください。河本さんや天満屋が使用している治療器の会社です。
5月号では坂本選手、河本さん、そして4月3日には池田久美子選手を個々に取材させてもらいました。日記には毎回、「いい話が聞けました」と書いていますが、実際の記事は……どうでしょうか。
◆4月14日(水)
今日はプリンスこと読売新聞・近藤記者の誕生日。末續選手と同じ年男(申年)とのことです。そういえば、年末だったか年始だったか忘れましたが、フジテレビの報道番組に出演した末續選手が、今年が年女という女性キャスターの方から「同い年?」と突っ込まれていました。近藤記者は逆に末續選手から「30歳台には見えない」と昨年夏の取材中に言われていました。それで年男ということは…?
今日は12時に都内某所でデザイナーに原稿を渡した後、陸マガ編集部で本日発売の5月号をゲット。今月号はたくさん原稿を書いたなあ、という印象がありましたが、パラパラとページをめくって見ると、それほどでもありません。マラソン五輪代表企画では坂本直子選手の記事、アテネ五輪への戦略企画では池田久美子(写真も)の記事、あとは名古屋国際女子マラソンの2位以下の選手の記事くらい。あっ、2004年T&F徹底展望企画も書いています。寺田にしては、まあまあ書いた方でしょうか。
おっと、別冊付録の選手名鑑を忘れちゃいけません。寺田が担当したのはプロフィールの付いている選手(強化指定選手)の日本選手権・年代別選手権・国際大会のデータ調べと、プロフィール部分です。もちろん寺田1人でやった作業ではありません。他の外部スタッフ、編集部一丸となって初めてできるものです。
実は、この作業をやっていておかしいなと思ったのが、競歩の今村文男選手が強化指定に入っていないこと。単純に記録で区切ったのかな、とも思いましたが、昨年の世界選手権出場者が外れるということは……などと思っていたら、4月6日の強化委員会の記者懇談会で、鈴木競歩部長から引退することを聞かされました。もしかしたら、という心の準備があったので、「ええーーーっ」と驚かずに済みました。
5月号のマラソン関連以外のみどころは、恒例の旅立ちの春企画があります。選手たちが人生の選択を迫られるシーンでどんな決断をしていくか。以前にも書きましたけど、この企画は好きな企画の1つです。世界室内と世界クロカンも改めて記事をチェックしておきたいところ。山中美和子選手の世界クロカン4位は2年前のことですが、もっと評価されてしかるべき、というのが寺田の見解です。
5月号の巻頭カラーはマラソン代表選手の特集。前述のように寺田は坂本直子選手を担当しました。その後ろに続くページが、近藤記者による「サブスリー記者が報告するアテネ五輪マラソンコース」でした。
◆4月13日(火)
ここ数日、取材と並行して某大学冊子の原稿執筆が佳境に入っています。かなりの行数を書いていまして、引っ越し(仕事用資料&道具の移動)の準備がほとんどできていません。でも、今週末を逃したら、また忙しくなってしまうかもしれないので、その時期を逃すわけにはいきません。今日は引っ越し屋さんに来てもらって、見積もりをしてもらいました。さすがに、自分で梱包、荷解きをする余裕はありませんので、全部引っ越し屋さんにやってもらうパターンで依頼。
ところが、見積額は12万6000円。高すぎます。以前、家全体の引っ越しをお願いしたときは、18万円だったと抗議すると、11万円、さらには10万円まで下がりました。家全体の時と比べたら、3分の1くらいの家財道具の量です。移動距離が前回より長いとはいえ、それでも高いと感じました。見積もり担当者の方が帰って数時間経ってから、電話を入れました。布団と食器は移さない、荷解きも自分でやると言ったら、7万円まで下がりました。頑張ってみるものです。
部屋を借りることを日記に書いたら、2人の方からメールをいただきました。D口先生とN口氏で、偶然にも同じ高校の先輩後輩となるお2人です。しかも、メールのタイトルが似ていました。「祝WSTF開設」といった感じで。
N口氏からは
必死に歩いて15分、ゆっくりめで20分ということは、新宿駅から1.5km前後ですかね? 競歩の日本インカレ出場クラス(←○○大の学生レベル)が必死に歩いたら6分前後。世界のトップクラスが歩型を気にせず必死に歩いたら、5分そこそこで着いてしまうという「新宿駅すぐそば」なんですねえ……。
という、これも“らしい”ご指摘をいただきました。
ただ、現段階ではまだ“借りた”だけで、“開設”にはもう少しの日時が必要です。デスクやテーブル、ソファなんかも調達しないといけません。WSTFは寺田の他に最低でも2人は、十分に作業ができる空間になるはず。無理をすれば5人くらいは同時に、パソコンに向かうことが可能になるかなあ。
その空間(広さ+陸上競技関係の資料が揃っていること)と、立地の良さを活かして、ビジネスにならないでしょうか。実はあるプランが、頭のなかではかなり形になっています。それはもちろん、現時点では企業秘密です。
◆4月12日(月)
右の腕の付け根よりちょっと下のあたりに、鈍い痛みが残っている。今日になってやや増してしまったようだ。原因は昨日の東海大・日大対校の取材時のアクシデント。端的に言えば、寺田が“重力と友達になれなかった”のが原因である。
昨日の4×100 mR終了後、末續選手の取材が平塚競技場の記者室で行われました。部屋の中央のテーブル(4個がまとめて置かれていたように思う)を囲む形で行われた会見で、寺田は末續選手のほぼ真後ろに椅子を移動させ、取材をしていました。
アクシデントが起きたのは、ちょうど末續選手がスタート方法変更の話をしていたときでした。スタート時に「重力に逆らわず、3〜4歩目までゆるく出る」のが、今季、試みようとしているやり方。その話になったとき、寺田の取材ノートの右ページがいっぱいになり、次のページに書こうとノートをめくりました。かなり重要な部分の話だと思いましたし、3月に沖縄で行われた公開練習に行っていない寺田は、ここは聞き逃してはならじと、素早くノートのページをめくると同時に、上半身を乗り出す姿勢をとったのだと思います。
キャスター付きの椅子のバランスが崩れ、寺田は前のめりに倒れ込みました。「危ない!」という声を、記者のどなたかが発しました。幸い、目の前にテーブルがあり(末續選手の右横)、右手をついて踏ん張ったので転倒には及びませんでしたし、末續選手が「ちょうど、こんな感じになるんです」とフォローをしてくれたので、笑いを取るほどではありませんでしたが、結果的に“受けた”と思います。
その際に右腕に過剰な負荷がかかったようで、しばらくは何ともなかったのですが、帰りがけに延長コードを机の下の電源から抜こうとするときには、かなりの痛みが。そして、今日になって、ひどくなった次第です。
末續選手は“重力と友だちになる”という表現をします。力を使わずにスムーズに出ることみたいですが、寺田の場合は同じように重力に身を任せながら、結果的に“重力と友だちになれなかった”ということでしょう。
念のために書いておきますが、パソコンが打てない、なんてことはありませんし、仕事への支障は皆無です。あくまで寺田が勝手にこけたことですから。
◆4月11日(日)
今日は平塚で東海大・日大対校戦の取材。昨年は野津田(町田市)で行われました。冨樫英雄選手が400 mで45秒78を出した大会です。専門誌関係者と寺田はスタンドで観戦していて、冨樫選手がフィニッシュしたとき、寺田のストップウォッチは45秒台で止まっていました。前年までは47秒台の選手ですから、その瞬間は信じられません。声に出して違っていたら大事(おおごと)ですから、どう反応していいか迷いました。次の瞬間に高野進コーチが「45秒台、45秒台!」と叫んでいました。その辺を言い出せるか言い出せないかが、日頃の練習を見ている人間と、試合しか見ていない人間の違いですね。
付け加えて言うなら、陸上界の007ことO村ライターは食べかけの弁当をひっくり返しました。45秒台と聞いて慌てたのでなく、レース中だったと思います。弁当を食べるのを中断して400 mを見ていたら、レースに興奮してひっくり返したのでしょう(違っていたらメールください)。
今年は日本チームが両リレーにオープン参加。昨年は専門誌(プラス寺田)だけの取材だった大会ですが、今回はテレビを筆頭に一般メディアも大挙して取材。この1年間で日本の短距離(というか末續選手)の置かれる位置が大きく変わったことの証明です。
4×400 mRでは知り合いの専門誌記者の方たちと分担して、寺田は日本Aチームを計測。
1走・伊藤友広 46秒89
2走・小坂田淳 46秒09
3走・田端健児 45秒81
4走・山口有希 45秒33
3分04秒12
正式計時は3分04秒15ですから許容範囲。もちろん手動計時ですので、お間違いのないように。今年は高野コーチが計測していなかった(選手の動きに集中していた?)ので、お知らせしました。
0.03秒は参考にするのには許容範囲ですが、寺田にとっては不本意な差。今日計測したなかでは0.03秒差が3回くらいあって、0.02秒差以内がないという不調。新しいストップウォッチのボタンが、ちょっと硬いんですよ。家族T氏がもらってきたものなので、文句を言ったらいけないのですけど。
昨年のヒーローである冨樫選手はAB2チームが出場した日本選抜に加われず、400 mのオープンレースに出場。昨年の日本インカレ優勝者で、同学年の北岡慶昭選手を最後の直線で逆転してトップでフィニッシュしましたが、記録は48秒01と低調。対校レース優勝の太田和憲選手が47秒09ですから、ちょと……という結果。
確かに昨年は、この大会から春季サーキット、国際グランプリ大阪のリレーと飛ばして、その後、徐々に調子が落ちていってしまいました(脚に痛みも出始めて)。対照的に、6月から調子を上げた2年生の山口有希選手が、世界選手権・国体とブレイクしたのはご存じの通り。
しかし、卒業後も競技を続けたい4年生選手は、就職を考えたとき、長距離と違って、どうしてもシーズンの早い段階で好記録・好結果を出す必要があります。国際大会への出場も、前半の試合で決まりますからね。その甲斐あって、冨樫選手は山形TFCで実業団選手という待遇で競技を続けられるようになっています。あの45秒台は間違いなく効果があったということでしょう。
しかし、今年はシーズン序盤で息切れしたら意味がありません。狙いは、日本選手権からオリンピックの期間にピークを持ってくること。本人とも少し話をして、当然それは考えていましたが、それにしても48秒台は悪すぎたと反省していました。宇治山田商高出身の北岡選手ともども、注目していきましょう。そういえば今日、北岡選手に「赤福たらふく」と言ったら何個か、聞けばよかったですね。
◆4月10日(土)その2
金栗記念選抜・中長距離熊本大会の取材で、熊本まで日帰り出張。熊本の競技場は1998年の日本選手権以来(翌年の国体には行っていません)。その年の日本選手権は確か、3日間か4日間の開催で、寺田は全日程の取材ができませんでした。当時は陸マガ編集者という立場で、そういうケースもよくありました。しかし、不運にも熊本入りする前日の男子200 m予選で、伊東浩司選手が20秒16のアジア新(当時)を出したのでした。
熊本のスタジアムはサブトラックの他にも、スタンド下が走路になっていて、ウォーミングアップなどができる便利な会場です。今日、競技場に着くと、「そういえばこんなだったな」と、5年半前の記憶がよみがえりました。その5年半前、寺田が競技場に着いて報道受付を探していると、スタンド下で伊東選手とばったり出くわしたことも、昨日のことのように思い出しました。
「寺田さんくらい(どのくらい?)になると、選手と話していても緊張しませんよね」と、たまに言われますが、そんなことはありません。伊東選手と突然出くわした5年半前は、お祝いの言葉もそこそこに、いきなり「最終日の夜にインタビューはできないか。予定はどう?」と、仕事の話をし始めた記憶があります。これは緊張していたか、世紀の記録を出した選手に遭って舞い上がってしまったか、どちらかでしょう。もう少し余裕があれば、記録を出したときの感覚なんかを聞いていたと思いますが、とにかく“誌面をどう作るか”という部分しか考えられなかった。というよりも、混乱して何を話していいのかわからず、とにかく仕事の話をするしかなかったのかもしれません。
実は今日も同じような状況になりました。杉森美保選手がウォーミングアップを終え、サブトラックから出てくるところに偶然、出くわしたのです。彼女は今日が腰の手術からの復帰レース(実は記録会に1試合出ていましたが)。先日の記者懇談会で石井隆士中距離部長から、調子のいいことは聞いていましたが、丸々1年以上のブランクがあります。手術後、昨年11月の淡路島女子駅伝で少し、言葉は交わしていましたが、復帰レースの直前になんと声をかけていいのか、咄嗟には思いつきません。職業柄ものを書くのには慣れていても、その場で素早く何かを思いつき、言葉にするのは苦手なんです。
「○×▽○×▼○×▽●×▽○×▼○×▽○×▼○×▽●×▽○×▼」
変なことを話してしまいました。具体的に何と言ったかは、恥ずかしいので秘密です。
結果は、記事にしたとおり。復帰レースとは思えないような走りを見せてくれました。レース後のインタビューは、他の記者の方たちと一緒でしたし、予定の範囲内のことですから、こちらも通常のペースを取り戻していたと思います。詳しくは記事を参照してほしいのですが、杉森選手の復帰にはリハビリ段階での筋力トレーニングが重要な役割を果たしています。手術前はほとんどできなかった腹筋トレーニングも相当にできるようになった、という話もありました。囲み取材もお開きになろうかという雰囲気のところで、「“腹筋を頑張って復帰に成功”と書いていい?」と質問。いつもの明るい笑顔で肯いてくれました。
◆4月10日(土)
今日はこれから、熊本に日帰り出張。2004金栗記念選抜陸上・中長距離熊本大会の取材です。熊本と言えば1998年の日本選手権以来。とびきりの思い出があります。それは、またの機会に書きたいと思います。
それよりも、熊本陸協のサイトを見るとなかなかのメンバー。女子5000mには福士加代子選手に市川良子選手。日本選手権1500m優勝の杉原加代選手も注目です。初マラソンを経験した那須川瑞穂選手に、もちろん小崎まり選手に斉藤由貴選手も。
男子5000mには坪田智夫選手、徳本一善選手の法大OBコンビに、岩水嘉孝選手、山口洋司選手。五輪マラソン代表の油谷繁選手、諏訪利成選手も。三津谷祐選手と小畑昌之選手の福岡コンビも要チェック。なんか、注目選手が多すぎます。というか、長距離は選手層が厚く、見どころを書き始めたら、中距離と長距離だけのこの大会でも、300行は要りますね。
でも、ホントにホントの一番の注目は、昨年、腰の手術をした杉森美保選手が1500mで復帰することです。まだ記事にはしていませんが、先日の陸連記者懇談会での石井隆士中距離部長の話によると、かなり練習ができているようです。
◆4月9日(金)
15時30分に新宿に出て、不動産屋で部屋を借りる契約をしました。先月あたりから日記に、代々木を歩いたとか、戦略的な仕事で行った、という記述があったと思います。あれは、部屋探しだったんですね。なんとか、新年度早々に移りたかったものですから、忙しかったですけど、物件を色々と探し、不動産屋にも何回か足を運び、内見も4部屋くらいしましたね。最近はインターネットで検索もできますし、親切な不動産屋は間取り図をFAXで送信してくれます。相当に助かりました。
場所は西新宿5丁目です。新宿駅からだと、必死に歩いて15分。ゆっくりめに歩くと20分かかりますが、大江戸線の西新宿5丁目なら4分くらい。当初は代々木で探していました。代々木といっても南新宿や参宮橋近辺。寺田の取引先は、水道橋の陸マガを筆頭に、御茶ノ水、飯田橋、市ヶ谷という総武線沿線が多いので、JRの代々木まで歩ける場所、でも、通勤は小田急だけにしたいという条件で探しました。JRや地下鉄まで使うと、余分に交通費がかかりますからね。
でも、探しているうちに、甲州街道の北側の方が安いことが判明。で、あれこれ検討しているうちに西新宿の物件が目に留まりました。築30年とかなり古いのですが(外側は、相当に来ています)、内装は最近リフォームされたばかりで、壁紙と天井は白で統一されまあまあの美室です。33平米と、広さを確保できたのがよかったですね。通勤は京王線で新宿に出ることになるでしょう。
寺田1人が作業をするだけなら、20平米で足りるのですが、仕事が発展する余地を残すために広めの物件にこだわりました。発展する余地が何なのか、具体的にはまだはっきり言えない、というか自分でもわかっていませんが、誰かと部屋をシェアするにせよ、仕事を手伝ってくれる人間に来てもらうにせよ、とにかく広さの“余裕”が欲しかったんです。
それよりも、都心に作業場所を確保したかった一番の理由は、自宅でずっと作業をすると気持ちが集中しづらいこと。何度も書いていますが、1つの部屋で集中し続けるのはしんどいのです。それでよく、ファミレスで作業をやっていたわけですね。正直、家賃はめちゃくちゃに負担になります。決して、儲かっているから借りるわけではありません。精神的な理由と、ビジネスの発展性など、諸々を考慮して借りる決心をしました。
何人かの人にこの話をすると、皆さん“事務所を借りる”という表現をされます。部屋を借りたというのは客観的に事実ですが、事務所を借りたという意識ではないんですね、なぜか。事務所というと、ビジネスを展開するというイメージがあります。もちろん、仕事の発展性というからにはビジネスです。でも、自分の中ではビジネスの場と言うより、作業スペースを確保した、という感覚でいます。
4月2日の日記に、
寺田は自分の仕事や人生…を4年を区切りに考えることがよくあります。バルセロナ五輪まではこんな仕事ぶりだった、アトランタ五輪まではどうだった、シドニー五輪まではあんなだった、と。
と書きました。今回の決断をするとき、「4年経ったから、新しいことを」とは考えませんでした。新しいことを決断して、考えてみたらたまたま、独立して4年経っていたのです。身に染みついているのでしょうか、4年サイクルが。
来週後半には仕事に使う資料を全て移し、デスクなど必要な家具・道具も徐々に取りそろえて、今後は仕事をその部屋で行います。今日の契約後、まだ何も置いていない部屋で1人、あれこれと考え事をしていたら、部屋の名前が自然と浮かんできました。
WSTF……Work Space of Track & Field
◆4月6日(火)
16時から陸連記者懇談会。強化委員会の各ブロック部長が、現状や注目選手、有力選手のスケジュールなどを話してくれます。はっきり言って、何も目新しいことのないマラソン代表発表会見よりも、100倍は有益です……10倍くらいにしておきましょう。あくあまで、寺田にとってはの話です。懇談会のあることを聞いたのは昨日でしたが、2つ返事で行く意思表示をしました。でも、似た立場の方もいましたね。マラソン選考会見には行かないで、今日は来ていた某ライターも。
本当に各ブロックから、シーズンインが楽しみになる情報を得られました。いよいよ、トラック&フィールドですね。取材は大変ですけど。マラソンは1種目。トラック&フィールドの競技会は、少なくても15種目とか。まあ、頑張ります。
今日の情報の中で“これは”、と思えたのがB標準突破者の選考に関して、陸連が初めて言及したこと。B標準でも派遣すべきというのは、寺田のかねてからの持論です。さらに言わせてもらうなら、記録を出すことで世界に活躍の場が広がる競技に、派遣枠を設けること自体がおかしい。1チーム何人と選手数が決まっている競技じゃないんですから。これも何回か書いていますね。JOCのことってほとんど知らないのですが、陸上競技出身の役員はいないのでしょうか。
今日、判明した情報のなかで一番のニュースは、今村文男選手が今度の日曜日の日本選手権50kmWで一線を退くこと。今村選手はその人柄から、記者たちの間でも人気の高い選手です。記者だけでなく、サポートするスタッフたちの間でも同じのようです。なんて言うんでしょうか。選手として接してくれるというよりも、今村文男という一個人として接してくれるような感じです。彼にしてみたら選手として接しているのかもしれませんが、それを感じさせない。メールの返信1つをとってみても、その人柄がにじみ出るような人物です。
輪島、行きたいですね。でも、前日に熊本の中・長距離選抜に行くことが決まっています。熊本から輪島への移動は、残念ながら不可能です。4年前は、今村選手が入賞した東京の世界選手権のマスコットである、アスリスターをあしらったトレーナー・シャツを着て輪島に取材に行きました。
懇談会では部長たちの中で最初にコメントしたのが高野進男子短距離部長。記事にもしたように、山口有希選手について「自分の日本記録も今季限りと思える」と言い切りました。3番目にコメントした石井隆士中距離部長も本当は、「私の日本記録も…」と話したかったのではないでしょうか。オリンピック種目では日本最古となる男子1500mの日本記録保持者です。
1年後には、その台詞が言える状況になっていないといけないでしょう。そして、4年後には「今年はあのセバスチャン・コー(英国)の記録を、日本選手が上回りそう」と、記事が書けるような状況になっていることを期待します。なんでコーなのかって? 寺田が陸マガを読み始めた頃のスターだった選手だからです。
◆4月5日(月)
仕事が寺田を追いかけてくるのでしょうか、それとも、寺田が仕事を追いかけているのでしょうか。陸マガ5月号の原稿は今日の昼間で終わりましたが、次の原稿が口を開けて待っています。口を開けているのでなく、早く書けよと口を出してくるようなイメージ。でも、今日だけは、今日の午後だけは若干ゆっくりモード。集中力を切らすのとは、若干違います。
冒頭の一文ですが、仕事を“陸上競技”と置き換えて考えてみたら、いいかも。寺田の仕事はほとんどが陸上競技に関するものですからね。陸上競技が寺田を追いかけてくるのか、寺田が陸上競技を追いかけているのか。いずれにしても、幸せなことのはずです。
そういえば、福島大の幸せ元助教授との幸せ論争を、しばらくしていませんね。実は一昨日の白井の取材というのは、福島大の合宿にお邪魔したのですが、川本先生の決め台詞を1つ聞くことができました。それは……やめておきましょう。
◆4月4日(日)
3月31日の日記で触れた指導者の名鑑について触れましたが、昨日取材した選手のコーチの方も、そういう環境になるべきだと話していらっしゃいました。能力のある指導者の活躍の場が保証され、社会的にもきちんとした立場になるべきだと。
小出監督のように選手時代に実績のない指導者が、無名の進学校でも結果を出し、徐々にステップアップするのは理想中の理想(だから、すごいわけですが)。現実的には、選手を集められる強豪校に着任して、好素材と言える選手に巡り会い、徐々に結果を出していくケースが多いのです。現役時代の実績や、人事をつかさどる組織とのコネがない指導者は、なかなかチャンスに恵まれません。小出監督ほど目立たなくとも、中学・高校で地道に結果を残している指導者は多いはず。そういった人間にチャンスが与えられれば、絶対に日本の陸上競技のレベルは向上します。
読者の方からも賛同のメールをいただきました。三重県の指導者の方からです。
指導者名鑑の案についてですが、大賛成です。日本陸上界の発展のために、ぜひ実現していただきたい。ある意味、指導者のプロ化(言葉の定義は難しいですが)を促す起爆剤になりうるからです。そのことが指導者の地位向上や、ある指導者への一定期間の生活を保障し、競技の指導に打ち込める環境の確保にもつながりうると考えられます。能力がありながら、指導環境に恵まれない指導者も多く存在していますし、そういう人たちにチャンスを与えることができなければ、もったいない。やがて、真のプロの指導者(定義は難しいが、人格、指導力を兼ね備え、本業の片手間でなく指導に打ち込める。報酬も卑しいものとしてではなくしっかり受け取れる社会的環境にも支えられる)が多く育てば嬉しいことです。
現実の作業としては、どこで線引きをして掲載するのか、という困難な作業があるわけです。「あの先生が全日中に何人選手を送っている」というのは、各都道府県陸協の強化委員会でしかわからないでしょう。でも、アンケートをとるという方法がありますね。自己申告の形になりますが、ウソは書かないでしょう。
指導者名鑑、作るのはどこだ!?
◆4月3日(土)
今日は試合ではありませんが、千葉県の白井(しろい)で取材。朝の10時に自宅を出発。朝まで仕事のパターンが続いていましたが、まあ、このくらいの時差調整ができないようでは、この仕事は務まりません。白井は以前、東日本実業団だったか何かが開催された場所ですが、寺田は初めて。ブルートラックで有名な競技場です。ちなみに、フィールドもブルーです。ミスターブルーの異名をとる身としては(確定申告)、親近感がわきました。競技場周辺の桜の色は薄いピンク。ちょっと赤みがかったものもありましたが、あれも桜だったのかなあ。
1つ面白いことに気づきました。白井なのにトラックは青い、なんてことではありません。競技場のゲートにはこの写真のように「SHIROI」の文字が。そうです、かの有名な陸上記者・ISHIRO!とまったく同じアルファベットを組み合わせた競技場なのです。考えてみたら、「しろい」と「いしろー」ですからね。
帰路、陸マガ編集部に寄って、今日撮影した写真をCD−Rに保存して提出。精算なんかも一緒にやりました。
昨日の日記で、ある女性記者が退職されたことに触れましたが、実は陸マガでも人事異動がありました。編集長だったH田氏が別の部署に移り、次長だったK玉氏が新編集長に(3月1日付)。今日、編集部に着くと前編集長のH田氏が荷物整理をしている最中でした。H田氏は寺田が本当に陸マガでアルバイトを始めた最初の日、それもいの一番に会った人です。最初の出張も一緒でした。15年以上の付き合いになるわけで、そういった人物が取材現場を離れるとなると、やはり感慨深いものがあります。今年の桜は、妙に心に染みます。
新編集長のK玉氏は愛媛県出身で、陸上競技マガジン創刊以来初めての女性編集長。新体制になった陸マガにも期待大です。その陸マガに書いた2004年シーズン展望では、為末大選手に期待大と書きました。その根拠は……次号をご覧ください。
◆4月2日(金)
昨晩は久しぶりにファミレス勝負をしました。150行原稿を3時くらいから書き始め、8時にはほぼ書き終えました。自宅に戻って8:30に送信。セーフでした。
8:30に寝て12:30に起床。すぐにあっちこっちに電話連絡。昨晩書いた原稿の確認をしたい部分もありましたし、明日の取材の段取りも。その他もろもろありました。
昨日から予想されたことですが、急な仕事が入って16時から新宿に。20時に戻ると、今朝送信した原稿が早くもレイアウトされ、ネーム校がFAXされてきました。実はこれ、一昨日に取材した記事なんです。すごいですね、この展開の速さは。かなり異例なことですけど。
その一昨日の仕事は、古巣のベースボール・マガジン社の仕事。一緒に取材に行った担当者はかつての同僚です。
「寺田さん、やめて何年になりますか?」
「2000年の3月31日付けで退職したから…おおっ、今日でちょうど4年だ!」
だからなんだ、というわけではありませんが、まあ、1オリンピック・サイクルが経ったわけです。以前に書いたかもしれませんが、寺田は自分の仕事や人生…を4年を区切りに考えることがよくあります。バルセロナ五輪まではこんな仕事ぶりだった、アトランタ五輪まではどうだった、シドニー五輪まではあんなだった、と。この4年間は……などと振り返る前に、目の前の仕事を片づけなくっちゃ。
自分のことよりも、島谷ひとみのことを思い出しました。びわ湖マラソン前日(3月6日)の日記に書いたように、彼女の歌い方には品があって、ある女性記者のイメージとダブルのです。その女性記者の方が、3月いっぱいをもって退職されました。そんなに長い付き合いというわけではなかったですけど、なぜか、寂寞とした気持ちに襲われました。
寺田は4年前、自分の環境を変えない道を選択しました。サラリーマンからフリーランスへ、一見、一大方向転換をしたように見えますが、実は違います。確かに、収入や社会的なポジションは180度変わりましたが、陸上競技の取材現場と携わっていくという一番基本的な部分を変えないための選択でした。
でも、自分がその選択をしたからといって、他の記者が同じ選択ができるわけではありません。まして、陸上競技の取材現場にこだわる寺田と、スポーツ全般の記者を目指す人とは、価値観も異なります。現場を卒業して、デスクや次のステップに進むのも普通のこと。佐々木一郎記者がサッカー担当に変わったときにも感じたことですが、人にはその人なりの人生があるわけです(なんか陳腐な表現)。その女性記者の場合も同じです。それを、他人である寺田がとやかく言えるものではありません。そういう、やりきれない気持ちを幾重にも経験することで、人は成長していくのでしょうか。
でも、島谷ひとみを聴くと思い出すのかなあ。
◆4月1日(木)
朝の7時に寝て11時には起きるつもりでしたが、気づいたら13時。不本意ですが睡眠時間を確保しました。いい加減だなあ、自営業者って。まあ、そういうこともあります。
ちゃんと食事もして、電話での問い合わせや補足取材、打ち合わせをいくつかこなし、400行の大作原稿に取りかかったのが15時半。途中、2回ほど食事や休憩を入れて、何とか書き上げました。えっ、4月1日だからウソだろうって? いえいえ、本当の話。寺田もやるときはやります(やらないときは……いつもか)。集中してやれたのが勝因かも。予定以上の睡眠時間を取りましたが、名鑑が終わったからと集中力を途切らせなかったのが良かったのでしょう。でも、行数オーバーです。削るのは……後回しにしましょう。
実は、これで今日の締め切りが終わったわけじゃないんです。なんともう1本、150行原稿があります。これもウソじゃないかって? もう4月2日ですよ。でも、せっかくですからエイプリルフールにちなんだ話題を1つ。
棒高跳の日本記録は昨年6月の日本選手権で沢野大地選手が出した5m75ですが、4月に出た最高記録は横山学選手の5m70です(4年前の織田幹雄記念国際で跳んだ当時の日本新)。これがエイプリルポール……ちょっとヒンシュクか。
◆3月31日(水)その2
昨晩はかなりしんどかったです。名鑑の作業が終わらず、心身ともに追い込まれていました。取材があるので無理矢理に7時に寝ました。11時に起きて1時間作業の続きをやって、12:30に自宅を出発。今日の取材は選手でなく、選手をサポートする立場の人。指導者とはまたちょっと、違う立場の方です。今回もいい話が聞けたと思います。
取材終了後にもう1件、仕事をしてから帰宅。名鑑の残りをひたすら作業して、朝の3:30頃にやっと終了しました。再開して4人くらいを進めたところで猛烈な睡魔に襲われ、椅子に腰掛けた状態で30分以上眠ってしまったようです。その前後もほとんど作業ができなかったので、1時間以上は完全にロス。今回の作業中は、「やらないと」という気持ちが強く、ダウンしなかったので逆に、椅子で眠ってしまうケースが多かったように思います。
データ調べの作業の時ほどではありませんが、プロフィールを書いているときにも面白いことに気づきます。ここで紹介できるネタも1つ2つあったのですが、すいません、思い出せません。あっ、思い出しました。1つは東海大の400 mブロックネタです。
昨年の東海大は大会ごとにチームの1位選手が変わっています。日大・東海大対校から春季サーキットまでは冨樫英雄選手、関東インカレは中沢裕二選手、日本選手権は山口有希選手、日本インカレは北岡慶昭選手。普通だったら、45秒台を出した選手が同じチーム内の選手(それも大学生)に負けませんよ。これは、4月号付録の記録集計号+1を読めばわかることなんですが。
今日で3月もおしまい。今月後半は名鑑のネタを書き続けてきましたが、この作業をやっていていつも思うことが、指導者の名鑑を作る時代になればいいな、ということ。それこそ、名監督の名鑑……というダジャレを言いたいわけではありません(believe me.) そうではなくて、指導者の名鑑が必要になる時代になってほしいということ。
陸上競技が今よりはるかに盛んになって、企業やクラブがこぞって陸上競技チームを持つ時代になれば、指導者の需要も増えるわけです。指導者は1つのチームにずっといるのでなく、その能力を高く買ってくれたチームにどんどん移籍する。
チームの経営者は陸上競技の専門家ではありませんから、指導者をスカウトする際になんらかの知識が必要となります。そのときに、単に大学が自分と同じとか、知り合いの紹介だとか、そういったコネで人選が進むのでなく、指導者の名鑑を見て「このコーチはオリンピック選手を何人育てたのか」とか「跳躍種目はどの種目も強くしているな」とか「記録は出すけど、勝負に弱い選手が多いな」とか、諸々の判断材料にする。
どうですか。そういう時代になったら素晴らしいと思いませんか。徹夜でも何でもして作りますよ、名監督の名鑑を。
◆3月31日(水)
朝の5時半ですが、名鑑の原稿がまだ完成しません。あと15人くらい。数日前の日記で泥臭い仕事ができると自慢しましたが、ここまで切迫すると、さすがにしんどい。やってもやっても、終わりが見えて来ないんですよ。
さて、今日で3月も終わり。名監督の名鑑の話を最後に書こうと思ったのですが。
◆3月30日(火)
朝の7時41分。徹夜で25人分、名鑑のプロフィールを書きました。少し寝ます……校正が出てるんだった。抱えている原稿(これが大作原稿だったりします)も数本、取材の予定も2〜3あります。4月前半まで、肩凝りが治りそうにありません。読みかけの推理小説が、2カ月くらい鞄に入ったままです。
◆3月29日(月)
メドがついたと思ったので朝の7時に就寝。11時に起きて、11:30から名鑑の作業再開。すいません、締め切りを2時間遅らせてもらいました。申し訳ありません。結果が全てなのであんまり言い訳は書きたくないのですが、ついつい調べちゃうんですよね。青山幸選手が、太田&今井の2強に揃って勝った大会は…とか。すぐに調べられる人って、いらっしゃいます?
データ部分はすでに調べ終わっているわけですけど、プロフィール部分の作業でも、いろいろと発見があります。この選手はいつも、あと一歩のところで勝利や代表を逃しているな、とか。この選手は、この大会がきっかけになっているな、とか。
後者の例を出しましょう。
女子競歩の川崎真裕美選手は4年前の全日本競歩輪島大会で日本人トップ(2位)になっていますが、その後、主要大会で勝っていません。アジア大会以上の代表もない。ところが、昨年の輪島で優勝した後は高畠、神戸(日本選手権)と連勝しています。彼女にとっては輪島が思い出深いレースになっていると思われます。が、川崎選手が実際にどう思っているかは、本人に取材してみないとわからないこと。実は何の思い入れもない、とも限りません。でも、こちらからしてみると取材の取っかかりにはなります。
女子の作業終了後にも少しダウンしたため、今は元気いっぱい。さあ、今晩も頑張ります。BGMは、びわ湖マラソンはもう終わって時間が経っていますが島谷ひとみにします。
◆3月28日(日)
朝6時まで仕事をして、10時に起きるつもりが11時半までダウン。不本意ですが睡眠時間を確保することに。名鑑作業に追われていますが、戦略的な仕事があって代々木に。昨日の仕事もそうでしたが、戦略的ということは眼前のひっ迫した作業ではありませんが、長い目で見たらとっても重要ということです(わざわざ解説しなくてもいいかも)。
自宅を出て戻ってくるまで3時間で済ませるつもりが、なんと7時間もかかってしまいました。途中で道に迷ったりもして、若干の焦りも。名鑑の女子のプロフィールは明日の15時締め切り。なんとかメドをつけるために、徹夜で頑張っていたらTBSで世界室内選手権を放映しているではありませんか。録画のセットは1週間くらい前にしたので、「あっ、今日だったのか」と気づきました。知っていたら、トップページで読者の方の注意も喚起したのに。さすがに腰を落ち着けて見るわけにはいきませんが、どうやら日本選手ネタ(内藤真人、沢野大地、池田久美子の同学年3選手のみの出場)は固めて編集してあるような感じだったので、そこだけ見させていただきました。
3選手と苅部俊二コーチともう1人女性の方(すいません、お名前を存じ上げません。というか、女性アナは豊田綾乃さんくらいしか知らない)の対談が面白かったです。内藤選手がいい味を出していましたね。それと、沢野選手が「6m」という数字を口にしていました。寺田が知る限りでは、沢野選手が目標とする記録を話したのは初めてじゃないでしょうか。室内の連戦で何か、手応えに変化があったのかも。
◆3月27日(土)
今日はちょっと毛色の変わった仕事をしました。詳しくは書けませんが、かなり戦略的な布石と言えるでしょう。しかし、感触的には厳しいですね。成功確率……は書きません。とどのつまり、成功するか失敗するか、2つに1つ。五分五分と考えましょう。もしも上手く展開したら、20年後くらいに紹介します(実は秘密主義の寺田でした)。
この仕事が終わって帰宅したのが22時。別件でFAXが届いていて、色々と考えないといけませんでした。夕食をはさんで1時間ほど休憩しましたが、朝の3時くらいまであれやこれやと、考え続けました。おかげで、ある冊子の原稿になかなかとりかかれません。明日からは名鑑のプロフィールにかからないといけませんし、1つ外出する用事も入りそう。昨日も朝まで仕事でしたが、今日ももう5時20分。ここ2日間で3人の方に、ちゃんと睡眠時間をとるように言われました。
話はまた名鑑ネタですが、高塚和利選手についてびわ湖マラソンの際、過去の戦績分析からスタミナが特徴と書きました(記事)。しかし、日本インカレは1年生の時に1500mで11位。スピードを若年時からしっかり付けていたのです。昨日書いた高平慎士選手の110 mMHネタは本人からでしたが、高塚選手に関しては実は、NEC時代のコーチである中野さんから、メールでご指摘を受けていました。「練習でも同僚の山口、中馬並みの切れがあった」とのことです。
しかし、翌大学2年時には、今度はハーフマラソンで日本インカレ18位。インカレの種目選択は、チーム内の事情も関係してきますが、当時から、スピードもあるし長い距離にも対応できた選手だった、ということでしょうか。
このところ、日記は書いていますがサイト用に原稿が書けていません。以前にも紹介したように、びわ湖の2時間12分未満選手の人数に関するネタとか、名古屋の“マラソン選考”よりも面白い視点とか。本当に時間が…。
◆3月26日(金)
昨日の日記の補足です。
S井ライターとは昨年の全日本大学駅伝レース後に、陸上界の007ことO村ライターと3人で赤福餅を食べに行った間柄。その際に“赤福たらふく”と言ったら具体的に何個なのか、店のおばさんに質問しようと思ったのですが、シャイな寺田はどうしてもできませんでした。そのとき代わりに質問してくれたのがS井ライターでした。
実は3月3〜4日に奄美大島で野口みずき選手を取材した際、同じ質問をしました。野口選手は伊勢のお膝元、宇治山田商高出身ですから。「20個くらい」が彼女の“赤福たらふく”のイメージだそうです。今度は“まぐろの寿司たらふく”が何個か、聞いておきましょう。そして、“赤福たらふく”が野口みずき選手なら、“大福たらふく”が何個のイメージなのか、こちらは……誰に聞けばいいのでしょうか。
これも昨日の日記の補足ですが、名鑑の作業をしていて面白く感じたことに「昔はこの種目に出ていたんだあ」と気づく部分があります。
100 mから400 mまで走れることで有名な高平慎士選手ですが、中学時代は110 mMHでも全日中4位に入賞しています。これは、2月の陸連合宿中に本人から教えてもらったことなのですが。中3時には100 mは欠場。高校2年のインターハイでは逆に、110 mHを欠場して100 mが3位。その後の活躍はご存じの通りで、今回の122人の中では最年少指定選手となりました。ちなみに2番目は山口有希選手、3番目が山崎一彦選手……山崎勇喜選手でした。
山崎一彦コーチが指導する吉形政衡選手が、全国高校八種競技のチャンピオンだったことは、ちょっと以前に話題になったので知っていました。
不勉強だったなあ、と感じさせられたのが、菅野優太選手が大学2・3年と日本選手権は200 mにだけに出場していること。4位と7位でした。大4の一昨年、社会人1年目の昨年は100 mだけの出場で、3位と4位です。その2年間のイメージが強いので、“当初は200 mが得意”だったとは気が付いていませんでした。日本インカレも1年時に200 m4位なんですね、100 mは8位で。
200 mも走れる=100 mの終盤が強い、とは100%言い切れませんが、その傾向があるのは確か。今年は菅野選手の“終盤”に注目します。
◆3月25日(木)
11:40から電話取材。15分間で終わらせるつもりが、45分間になってしまいました(相手の迷惑も考えよう)。でも、かなりいい話が聞けました。いつも言っていますが、本当にそうだったんですよ。感動的なエピソードをいくつか、取材の後半で聞き出すことができました(と、予定オーバーが無駄でなかったことを示唆。須藤理彩は93年の宇都宮インターハイ200 mに出場)。
その後、一心不乱に名鑑の作業。19時頃になんとかデータ部分の作業が終了しました。寺田が担当しているのは、強化指定選手の国際大会・日本選手権・年代別選手権(全日中・インターハイ・日本インカレ・全日本実業団)の戦績です。タイムレースで行われている全日本実業団の長距離種目の順位とか、マラソンの日本選手だけの順位とか、けっこう手間暇がかかります(マラソンは3大会の持ち回り併催で、どの試合が日本選手権か、普通の人は知りませんよね)。
予定では、一昨日(昨日朝まで)に終わっているはずの仕事でした。自分が「これくらいの時間(期間)でできるだろう」と予想する範囲でできない。だいたい、「その仕事ならできる、こっちもできる」と思って抱え込んでしまう。編集者時代からの(悪い?)傾向なんですが、何年経っても変わりません。進歩がないということです。どこかで変えないといけません。自分を変えるための戦略も、計画中です。
しかし、この作業をしていると、“面白いこと”も多々わかるので、それが励みになります。以下が“面白いこと”の代表的な例です。
1)意外な記録
今回、伊藤辰哉選手(富士通)が初めて強化指定選手になり、日本選手権の成績を調べていたら、大学2年時の97年から昨年まで、7年連続で5位以内に入っています。もちろん200
mの話です。選手層の薄い種目ならよくあることでしょうけど、選手層の厚い男子短距離種目で続けていることに価値があります。残念ながら優勝はありませんが、2位2回、3位2回、4位1回、5位2回という内訳。
しかし、これだけ上位に食い込んでいながら、リレーの国際大会代表は02年のアジア選手権くらい。つまり、オリンピック・世界選手権・アジア大会のA代表(という言い方でいいんでしたっけ?)がない。安易なマスメディアなら“悲運のスプリンター”とでも見出しを付けそうですが、要は爆発力不足ということでしょう。
大学4年の日本インカレに優勝したときは、追い風参考でしたが20秒55(+2.6)の好記録。楽しみな選手が出てきたな、と感じたことを覚えています。ちょうど伊東浩司選手が100 m・200 mでアジア記録を連発した年で、翌年には伊東選手のいる富士通に入社。日本チームに入って“イトウ・コンビ”で売り出したら人気が出ると思っていたのですが…。この冬、富士通は伊東選手に臨時コーチになってもらい、アドバイスを受けたようです。爆発するきっかけは、できているかもしれません。
今年は是非、注目したい選手です。
2)昔の接点
東京国際マラソンで1・2位だったジェンガ選手と大崎悟史選手が、94年の富山インターハイ1500mで対戦していたことが話題となりました。これと同じようなケースが、インターハイの予選とかで結構あるんですね。「この選手とあの選手が、無名時代に接点があったんだ」と思うことが。
例えば、96年の日本インカレ女子1万mでは、先日の名古屋国際女子マラソンを走った土佐礼子選手と橋本康子選手が出場しています。2人とも学生時代までは実績のない選手で、土佐選手は途中打ち切り(先頭から周回遅れになったり、決められたタイム差以上の差が付くと、規定でレースを中止させられる)になっていて、橋本選手は辛うじてそれは免れたものの完走選手中最下位の15位。ちなみに、5000mでは土佐選手は27位のブービーですが完走しています。橋本選手は翌年の1万mで途中打ち切りです。
3)個人的な知り合い
同じ96年の日本インカレ男子ハーフマラソンでは、某誌S井M人ライターがハーフマラソンで途中打ち切りの憂き目にあっています。箱根駅伝を走ったことは知っていましたが、学生最高峰の大会である日本インカレにも出ていたとは、知りませんでした。土佐・橋本両選手もそうですが、こうした苦労を経て今日があるということですね。
今日紹介したのはほんの一例。記録集計号もそうですが、選手名鑑も単なるデータの羅列でなく、読み込めば面白いことが山ほどあります。次号陸マガの別冊付録は必見ですね。おっと、その前に誰かが名鑑のプロフィール部分を書かないことには、発行できません。締め切りは…来週の月曜日と火曜日? 強化指定選手の人数は…122人?
昔の日記
2004年 1月 2月 3月
2003年 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
2002年 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
2001年 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月