続・寺田的陸上日記     昔の日記はこちらから
2008年10月  10月の日本一

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◆2008年9月22日(月)
 早めに新宿の作業部屋に移動して仕事。14時から電話取材を約30分。
 すぐに川崎の日航ホテルに移動。16時からのスーパー陸上前日会見に備えました。
 ところが、室伏広治選手が風邪のため出席できなくなり、最初に行われる予定だった同選手とコズムス選手の会見が中止になりました。ハンマー投コンビが先に行われ、フォトセッションをはさんで4×100 mRメンバー4人の会見という段取りでした。
 例年と比べ、前日会見に呼んでいる選手の数が少ないのは、今年の目玉がその2つだけということでしょう。専門誌記者の立場からすると、もう少し話を聞きたい選手もいるのですが、そうすると選手個々の話す時間が短くなります。大会の性格を考えると、一般メディア優先です。

 会見前に少し時間ができたので、情報を集めました。ボルト選手の招聘はスーパー陸上関係者というよりも、テレビ局が独自に行なったとようです。それにスーパー陸上側が相乗りして、イベントに協力してもらうことになったようです。ギャラの支払い比率などはわかりません。
 外国人選手で大物選手の欠場は、走高跳のトーンブラド選手くらい。日本選手では藤光謙司選手と桝見咲智子選手が欠場。来年のベルリン世界選手権を目指すべき2人なので、こちらはちょっと残念。

 4×100 mRメンバーの会見の模様は、こちらに記事にしました。
 塚原選手が「引退ではなく“勇退”」と話しています。これは大会プログラムの記事で末續慎吾選手も使っている言葉です。ただ、やめていく当事者自らが“勇退する”とは言ってはいけません。あくまで、周囲が使う言葉なのです。
 引退というと“力が衰えてやめていく”という印象があるのに対し、勇退は“まだ頑張れば続けられるが、色々な状況を考えて自ら退く”というニュアンスです。スポーツ選手で勇退というケースはほとんどなく、政治家などによく使われます。スポーツでは指導者などに使われますね。
 スーパー陸上で4人が一緒に走ることは、北京五輪決勝翌日の会見で朝原選手が言い出したことですが、実は事前にスーパー陸上で勝負をしたい、という話は選手間で出ていたそうです。北京でバトン合わせと一緒にネタ合わせもしていたと、誰かが言っていました(寺田がそういって、同意してくれただけかもしれません)。
 “勇退”という言葉を使うことも、選手間でネタ合わせが行われていたようです。言い出しは次期リーダーの末續選手でしょうか? 「走るのはやめるけど、朝原さんの陸上競技に対する気持ちは残っていく。だから引退ではなく勇退なんです」と、話していました。いや、プログラムの記事に書いてありました。

 高平慎士選手が着順予想をしていて、「鼻差で朝原さんが勝つと思う」と言ったのはもちろん、競馬と朝原選手の鼻の大きさにひっかけた洒落です。寺田が「※ルールでは鼻差は判定されない。あくまでトルソー(胴体)の先着」と注釈を付けたのも、もちろんユーモアです。書くまでもないことですが。
 寺田の着順予想では1着は塚原選手。日本選手間の連勝記録が伸びると思います。
 ただ、100 mに出場する外国人選手は微妙に強いですね。1人は今年の全米選手権7位で、もう1人は06年の世界ジュニア優勝者。シーズンベストは10秒06と10秒10。日本選手を微妙に大きく上回っています。今年に限ればボルト、ゲイ、パウエル以外だったら呼ばない方が良い。大会関係者にもそう申し上げていました。
 しかし、これは寺田の推測ですが、外国人選手を呼ぶにはどうしてもエージェントが窓口になり、呼びたくない選手も押しつけられてしまうのでしょう。「金を払ってでもやめさせるべきだ」という強硬論も、一部記者たちからあがっていましたが。

 末續選手は大人しめの発言に終始していました。主役が朝原選手で、若手2人が盛り上げ役だったので、そういう感じになってしまったのかもしれません。ただ、大人しめの発言だからこそ、強い気持ちで臨むのだと伝わってきました。


◆2008年9月23日(火・祝)
 スーパー陸上取材ですが、午前中のイベントやボルト選手の会見はパス。ぎりぎりまで、作業部屋で原稿を書いてから等々力に移動しました。
 今月というか、9月10日から10月10日までの1カ月間を見たとき、大会取材がものすごく多いのです。日本インカレ3日間、鴻巣ナイター1日、スーパー陸上1日、全日本実業団3日間、大分国体5日間。合計で13日間です。国体は移動だけで1日はつぶれます。抱えている原稿はそれほど多くないのに、書くのにあてる時間が極端に少ないのです。

 ということで、試合開始の14:30ちょうどに等々力競技場に到着。会場レイアウトは日本選手権のときとほぼ一緒ですが、動線は取材しやすくなっていましたし、LANは無線でなく有線に(それもかなりの数)。動線が変わっていたので記者席への通路を、共催の日刊スポーツ・佐々木記者に聞くと、ボルト選手の弓矢ポーズをとって方向を教えてくれました。格好良かったかどうかは、聞かないでください。
 ちょっとビックリしたのはトラックの近さ。レーンの外側に砂場のあるレイアウトにもかかわらず、スタンドからトラックまでの距離が近いのです。これは見やすい。北京五輪の鳥の巣のように、巨大スタジアムではありませんが、陸上競技には2万人くらいの中規模スタジアムがちょうど良いでしょう。

 見やすいのは良いのですが、肝心の記録が…。ホームストレートが向かい風になるのが等々力の欠点です。だったらバックストレートが追い風で、400 mと400 mHでは記録が出やすくなるのですが、今日は周回種目も低調でした。昨年は記録が出なくて当然という大雨でしたが、今年は何が理由だったのでしょうか? オリンピック後だから?
 というよりも、陸マガ10月号で分析したように、日本のトップレベルが全体的に、勢いがなかったり、力が落ちているのだと思います。今から考えれば昨年の日本選手権あたりから、その雰囲気はありました。そのときの記事を読み返すと、良い方に解釈しようとしている跡が見られますが…。年齢的には大丈夫のはずの世代も、今大会はケガや体調不良の影響でだめでした。

 しかし、です。陸マガ10月号で高橋編集長が試みたシーズンベスト(以下SB)の順位と、その大会での順位を比較する方法では、スーパー陸上もだいたいがSBの順位でした。SBの差が小さい場合に入れ替わるケースはありましたが、番狂わせ的に変わったケースはごくわずか。
 男子100 mもSBでは外国人選手が1・2位(だから、呼ばない方が良かった)。400 mHの成迫健児選手、走高跳の醍醐直幸選手、棒高跳の澤野大地選手という世界レベルの選手が今ひとつだった印象がありますが、順位的に2位というのは、SBと同じで順当な結果。女子100 mで福島千里選手が黒人選手相手に優勝してすごいと思いましたが、SBでは1位でした(黒人2選手はハードルが専門で急きょ出場)。
 その見方をした場合、健闘したのが女子走幅跳の池田久美子選手。6m45で、優勝したレベデワ選手とは36cm差の2位ですが、SBでは4番目でした。上の記録の選手を2人も破ったわけです。走幅跳の記録は全員が、自己記録から30〜50cmも悪かった。オリンピック後という理由だけではなく、記録を抑えてしまう何かがあったのかもしれません。

 スーパー陸上が盛り上がらなかったのは、見る側の意識にも原因がありました。ホームの有利さがあるのだからSBが上の選手に勝ってほしい、秋のメインイベントだからピークも合わせて好記録を出してほしい、と期待してしまうわけです。
 ただ、一歩譲ってそういう分析ができると理解しても、以前はもう少し好記録が生まれて盛り上がったではないか、と思ってしまうわけです。それに対しては、陸上競技が成熟してきた、という見方をすることができます。先ほど書いたように、勢いがなくなってきている、力が落ちている、ということだと思います。インターハイがそうなったきているように、毎年、ほとんどの種目が盛り上がるという時代は過ぎました。

 そんななかで光っていたのが室伏広治選手。81m02ですからね。SBでは3番目でした。上位2選手との差はわずかでしたが、きっちりとひっくり返したあたりは流石です。記録が良ければ勝ちますしね。勝ったから記録が良かった、という見方は室伏選手の場合は当てはまりません。今さら理由は書きませんが。MVPがあれば間違いなく室伏選手でした。

 今大会で“光を当てられた”選手もいました。男子砲丸投で日本人トップの3位となった大橋忠司選手です。今大会の記録は17m31で、7月のトワイライト・ゲームスで出した17m84には届きませんでしたが、166cmの身長でそのレベルの記録を投げることがいかにすごいかが、データ面からはっきりしたのです。
 JAAF Statistics Informationsが以下のデータを提供してくれました。
<男子砲丸投/身長の低い選手の世界歴代リスト>
記録 選手 生年月日 身長-体重 成績 場所 月日
1 17,84 Ohashi Tadashi 21.07.1983 166-110 JPN 1 Tokyo 25.Jul 2008
2 16,20i Rodriguez Trey 20.02.1988 168- 84 USA 3 Houston 9.Feb 2008
15,94 1 Houston 18.Apr 2008
3 18,78 Singh Balwinder 05.12.1958 170-108 IND 1 Patiala 14.Sep 1983
4 18,33 Garcia Nick 27.04.1979 170-113 USA 1 Los Gatos 27.Jul 2006
5 16,75 Ferrara Chris 21.05.1980 170- 82 USA 1 Chelmsford 12.Jul 2003
6 16,61 Said Khalil Ali Ahmed 10.03.1986 170- 89 KUW 2 Al Kuwait 16.May 2004
7 16,56 Hernandez Erik 14.03.1987 170- 97 USA 2 Lisle 21.Apr 2007
8 16,14 Watanami Ichiro 02.06.1939 170- 83 JPN Tokyo 15.Oct 1965
9 16,38 Berta Emilio 20.06.1942 172- 82 ITA 1 Torino 26.Jul 1972
10 16,15 Fujimoto Kazuhiko 12.03.1973 172- 86 JPN 2 Tokyo 11.Sep 1994
 説明は不用でしょう。身長の高い選手が有利というのはことあるごとに聞かされていましたが、ここまでとは。背の小さい選手はやろうとしないという背景もあるのでしょうが、だったらなおのこと、そういう不利な種目で頑張るのはすごいと思います。

 最後にちょっと。タイムテーブルの組み方が良くありませんでした。ハンマー投で逆転優勝が決まったとき、寺田は醍醐直幸選手の取材をしていました。昨年までと違ってミックスドゾーンにテレビモニターがあったので助かりましたが、そのあたりの時間は池田選手、澤野大地選手、成迫健児選手が続いて引き揚げてきました。そして、室伏広治選手のインタビュー中に女子100 mが行われました。続いて男子100 m。
 インタビューで競技を見られないのは陸上競技取材の宿命ですが、イベント的にも価値の高い種目が重なっていたということです。その分、見る側も集中する種目が散らばりがち。大物選手はつまみ食い的に見ることはできるかもしれません。でも、勝負の展開などをじっくり堪能できたのでしょうか?
 盛り上がりという点でも、記録が出なかったこともあり、大会の前半は会場の雰囲気がいまひとつ。最後の男子100 mで盛り上がるのは間違いないところなので、ハンマー投の勝敗が決する時間を最後の方に持ってくる必要はなかったと思います。最初に持ってくれば良かったのではないでしょうか。大会関係者にも伝えておきました。

 朝原選手の引退レースである100 mは、1回フライングがあったおかげでスタンドまで移動して見ることができましたが、見る前に集中する時間がとれなかったのが残念。それは仕方ありません。レース後のセレモニーも取材モードで見てしまって、なかなか入れ込めませんでした。周りの人たちやネットの意見では、感動したというものが多かったので、成功だったと思います。
 ただ、野村智宏選手がブログで紹介しているように、周囲を取り巻くカメラマンの数が多かったですね。ずっとついていましたから。スタンドから見たら若干、引いてしまうかもしれません。撮影エリアを限定したほうが良かったと思いますが、こういうことは運営側もそれほど経験がありません。盛り上がり方を読み切れなかったということです。次回は大丈夫でしょう。


◆2008年9月26日(金)
「ぴよぴよ、ぴよぴよ」
 いきなり雛鳥の声が鳴り響きました。場所は山形県天童の陸上競技場に向かうバスの中。全日本実業団1日目の取材に向かっているときでした。
 鋭い読者はピンと来たと思いますが、寺田が北京五輪を観戦しに鳥の巣競技場に入場する際、手で雛鳥の振りまでつけて声に出したのが、この「ぴよぴよ、ぴよぴよ」でした。M社のK藤さんに言われてやりました。まったくウケませんでしたが。
 今日の「ぴよぴよ、ぴよぴよ」は、そのK藤さんの携帯電話が鳴る音でした。ここまで徹底しているとは。日本の営業マンで五指に入ると言われているのは伊達ではありません(佐藤です、とか書かない方がいいでしょう)。
 当然、北京の話題で盛り上がりました。

 もう1つ盛り上がったというか、寺田が勝手にしゃべっていたのが1992年の山形国体(べにばな国体)の話題。この国体は“ミズノ国体”と呼んでもいい大会だったのです。
 ざっと紹介すると、成年男子ハンマー投で等々力信弘さん(現陸上営業チームの主要スタッフ)が優勝。女子400 mHでは長谷川順子さん(現MTCマネジャー)が、2位に2秒近い大差で圧勝。走高跳ではその年のバルセロナ五輪で7位に入賞した佐藤恵さんが優勝。日本のトップ選手が集まったチームですから当然といえば当然かもしれませんが、その後、ミズノに入社する選手も多く出場していました。
 成年B200 mで大森盛一さんが2位。少年Aでは男子400 mで田端健児先生が優勝し。走幅跳では渡辺大輔さんが優勝し、田川茂さん(現営業チーム若手ホープ)が2位。成田高3年生だった室伏広治選手が2位、と書くとビックリされるかもしれませんが、種目は少年共通やり投でした。女子では少年A400 mで柿沼和恵さんが優勝、少年B200 mでは当時中学3年生の信岡沙希重選手が4位、共通走高跳で今井美希さんが2位。
 これってすごくないですか?

 全日本実業団初日の種目は男女の1万mだけですが、全部で5組行われました。すでにご存じかと思いますが、北海道から東北はいきなり寒くなりました。19時の気温は13.6℃。雨もかなり降っていました。東京は30℃近かったようです。高岡寿成選手は20kmを***で走ったと伊藤国光監督が教えてくれました。取材としてではなく、世間話中に聞いた記録なので、ここでは伏せておきます。次のマラソンはまだ決まっていないとのこと。
 この日の質問傾向は、次のマラソンは何か?
 原裕美子選手は名古屋の後、今大会が初レースかと思ったらホクレンの釧路大会に出ていたとのこと。マラソンは大阪を希望しているそうです。決定というわけではありませんが。日本人トップの大南博美選手も大阪。福士加代子選手は取材していませんが、たぶん、まだ決めていないのではないでしょうか。マラソンに出場するかどうかを。

 男子の注目は旭化成勢。岩井勇輝選手が日本人2位に入りました。故障の多かった同選手が今季は、試合に続けて出ているので、その背景を山本佑樹コーチに話を聞きました。やっぱり、それなりの努力をしているようです。
 マラソン出場は過去2冬、ケガで実現していません。宗猛監督によると「まだポイント練習の4回に1回はできなくなる。オリンピック前なら一か八かで出るが、じっくりと持って行った方が無難かもしれない。10〜11月の練習が上手く積めれば、3月のマラソン出場があるかもしれない」と言います。
 大野龍二選手は連続27分台が途切れてしまいましたが、いずれはマラソンにという考え。実際、2月の延岡では30kmまでペースメーカーを務めています。「夏に40km走をやってメドは立ったが、練習が100%できてから考える」と宗監督は言います。ただ、この2人は明らかにスピード型。「やっても月に800から850km。その分、1回1回のポイントをキチッとやっていく」
 陸マガにも書いたように北京五輪の結果で、佐藤敦之選手のようなスピード型の選手が今後、絶対に必要になってきます。その候補として旭化成の2人が注目されるわけです。27分ランナーの九電工・前田和浩選手も「しっかりと練習をして、この冬どこかで出られたら」と、元5000mジュニア記録保持者の綾部監督が話していました。練習は距離を踏めるタイプのようですが「スピードは殺さずに」(同監督)ということです。

 とはいっても、マラソンはやっぱりスタミナ型の選手のためにある種目。スタミナ型が多数派だからこそ、スピード型の存在価値があるわけです。北京はスピード型の選手に有利な気象でしたが、毎回そうなると決まっているわけではありません。スピード型とスタミナ型を1人ずつ選んでおくのが理想だと個人的には思います。
 その意味で注目されるのが、スタミナ型の藤田敦史選手です。話の途中から取材に加わりましたが「真っ向勝負で勝てるほど甘くありません。練習も試合も、工夫しないと太刀打ちできないでしょう。トータルで1km3分のスピードでも、トラックで揺さぶりに耐える力をつけてマラソンに出る必要がある。マラソン選手だから、トラック選手だからというのはなくなっている」と話していました。


◆2008年9月27日(土)
 全日本実業団2日目の取材。今日も寒かったです。長距離・競歩種目以外の記録が悪かったのは、季節外れの低温のせいと言って間違いないでしょう。

 今日、最初に決まった優勝者は女子やり投の海老原有希選手。国士大からスズキに入社したルーキーです。今年35歳になるベテラン、小島裕子選手の4連覇を阻みました。2位も同学年の吉田恵美可選手。表彰台でのツーショットです。
 女子やり投は小島選手が初優勝した1996年以降、小島選手、山本晴美選手、三宅貴子選手(日本記録保持者)という73〜74年生まれの3選手で1位を占めてきました。新たな波が押し寄せたと言って良いでしょう。

 続く優勝者は男子走幅跳の志鎌秀昭選手(阿見アスリートクラブ)。優勝記録こそ7m64(+0.1)にとどまりましたが、荒川大輔選手と手に汗握る接戦を展開しました。5回目には7m63の同記録で並ぶシーンも。
 ここでも同学年のツーショットを撮ることができました。志鎌選手を祝福しに来たのは筑波大で同学年だった植竹万里絵選手。阿見アスリートクラブの同僚でもあります。
 2人のことはそれぞれのブログ(志鎌選手ブログ植竹選手ブログ)でご覧いただくとして、特筆すべきは志鎌選手が沼津東高出身である点です。鋭い読者はお気づきかと思いますが、日本インカレの走幅跳に優勝した堀池靖幸選手(早大)も沼津東高。同じ年の日本インカレと全日本実業団の走幅跳を、同じ高校のOBが制したのです。それも、成田高や清風高、洛南高という名門校ならあり得る話かもしれませんが、沼津東高は静岡県東部の超進学校。陸上部はそこまで強くありません。確率的には小数点以下のパーセンテージではないでしょうか。
「堀池の優勝は良い刺激になりました。国体に堀池を出せば良かったと言われないように、先輩の意地を保とうと思いましたから」
 と志鎌選手。ちなみに、直接対決はそれほど多くないようですが、負けたことはないと言います。ベスト記録でも2cm、志鎌選手が勝っています。

 走幅跳の取材が終了すると、TBS・佐藤文康アナの姿が。佐藤アナも静岡県東部の富士高出身ですし、早大競走部の堀池選手の先輩。さっそく沼津東高ネタを話しましたが、それよりも重要なのは同アナが昨日もネタにした92年の山形国体を経験していること。少年B男子800 mで5位になっています。さっそく思い出を聞きました。
「前の年の全日中で勝っていましたし、その年のインターハイも1年生で出場した選手はほとんどいなかったので(佐藤アナはインターハイ出場)、優勝を目標にしていました。5位に終わってサブトラの静岡県テントで大泣きしたことを覚えています」
 はたからは順風満帆の人生を送っているように見えても、やっぱり苦労しているんですね……今、スーパーサッカーに出ていますけど、とんぼ返りで明日も来るのでしょうか?
 昨日の日記で紹介したミズノ関係者にも山形国体の思い出を聞きました。
 長谷川順子さんは「国体初出場初優勝」だったと言います。92年が入社何年目かは知りませんが「インターハイも出ていませんし、大学生でも国体は出ていないんです」と。
 等々力信弘さんは94年の広島アジア大会の“第一代表”。その2年前の国体は勢いがあった時期です。「1投目が100 mのスタートと重なって、待っていたらタイムオーバーになってしまいました」。それでもまったく慌てず、当時の自己記録かセカンド記録の67m42で優勝しています。
 ちなみに、記者では朝日新聞の酒瀬川記者が、16年前の山形国体を取材しています。寺田は陸マガ編集部員として国体取材はインターハイよりも長年続けましたが、92年だけはなぜか行けませんでした。開催が例年より早い10月初旬で、ページ数が少なかったためだと思います。あるいは、入稿の締め切りまで時間がなく、現場取材をあきらめたか。

 ところで、山形開催の全国大会は、国体の後では98年に全日中が開催されています。昨日はそれが何年だったのか調べられませんでしたが、今日、佐藤孝夫先生に教えていただきました。志鎌選手と植竹選手が天童の全日中を経験した世代です。2人ともブログでそのことに触れています。明日は25歳の学年にちょっと気をつけて取材しましょう。
 佐藤先生は筑波大で川本和久監督の後輩。池田選手がシザースに変えたときにアドバイスをした先生です。その池田選手ですが、出身地である山形での試合は高校1年生以来だといいます。2年時に仙台育英高に転校しているからです。
 中学時代は走幅跳全日中3連勝、走幅跳と100 mJHで中学新など大活躍した時期。当時、酒田三中で陸上部顧問だった後藤由美子先生を、佐藤先生が紹介してくれました。その頃、池田選手はお父さんの実さん(故人)が指導していましたが、後藤先生と上手く連携ができていたようです。
「真面目で大人しくて、目立つ生徒ではありませんでしたね。でも、陸上には本当に一途に取り組んで、この子は違うなと感じていました」
 と、当時の池田選手のことを振り返ります。
 実は以前から中学時代の先生に聞いてみたいことがありました。
 池田選手ほど1つのことに一生懸命な人間は、今の若者世代の風潮に合わないというか、そういう人間を格好悪いと見る風潮があるのでは、と。中学・高校では周囲の意識がそこまで高くありませんから、浮いてしまうこともあるのではないかと。
「それはなかったですね。久美子に引っ張られてチーム全体が伸びていきましたから」
 酒田三中はジュニアオリンピックの4×100 mRアベックVをしています。池田選手が浮いた存在だったらできっこありません。実さんだけでなく、後藤先生の指導力も大きかったことがわかります。その後赴任した中学では、今日の5000mで25位となった五十嵐藍選手(シスメックス)を育てています。

 池田選手、後藤先生と取材をしている間に、女子5000mWで川崎真裕美選手が日本新を出していました。レースは最初の1000mくらいしか見ていません。最初から飛び出し、1人だけ次元の違う歩きを見せていましたが、違ったのは次元というよりも“気持ち”だったようです。
 5000mWで日本新を出せば、3000mW・5000mW・1万mW・10kmW・15kmW・20kmWのすべての日本記録を保持することになるのです(3000mWは日本最高記録)。それを記者の誰も気づかなかったため、川崎選手の方からアピールしてくれました。
 それが史上初めてのことかどうか。そこまでは調べきれるものではありません。小島真奈美選手の頃に あったかもしれない、と言い出したのはベテランの中日新聞・桑原記者。寺田は小島選手と平山選手のことを思い出していましたが、名前が出てきませんでした。
 円盤投の畑山茂雄選手の大会新&9連勝も素晴らしい成績です。58m73は自己3番目。川崎清貴選手の日本記録こそまだ更新できていませんが、自己4番目の記録まで、川崎選手のセカンド記録を上回りました。北京五輪出場はかないませんでしたが、モチベーションはまったく落ちていないと言います。今後も、男子円盤投は“いつ日本記録が出ても不思議ではない種目”という状況が続きそうです。

 最後は男女の5000m。女子では中村友梨香選手が出場。最後は9位にまで後退してしまいましたが、4000mくらいまでレースを引っ張りました。オリンピック後に最初にレースに出たマラソン代表ですが、そう簡単に気持ちは切り換えられなかったようです。この大会をきっかけにしたいと話していました。
 中村選手、マラソンはしばらく出ないようです。今年、来年はトラックとハーフマラソンに取り組むとのこと。
 今日のレースに話を戻すと、4000mを過ぎてペースを上げて先頭に立ったのはケバソ選手(豊田自動織機)。それを弘山晴美選手(資生堂)が追いましたが、最後の1周では那須川瑞穂選手(アルゼ)が弘山選手の前に。それを最後の200 mからスパートを見せてかわしたのが積水化学の清水裕子選手でした。
 スーパー陸上の1500mで優勝し、今大会でも注目されていた1人です。今季は1500m、3000m、5000mの自己記録を更新していますが、勝負にも強いところが良いですね。スーパー陸上は残り500mから自分で行き、今回は最後のコーナーで逆転しています。高校(岐阜の中津商高)ではインターハイ3000mで決勝に残っているので、それなりの実績を持って入社しているのですが、昨年まではそれほど目立った戦績はありません。2年目に全日本実業団のジュニア3000mに優勝しているくらい。
 清水選手自身は成長の理由をこれだと強調しようとしませんが、4年かけて徐々に体重を落としたことや、故障をしなくなったことだと言います。今年から加入した野口英盛コーチが一緒に走ってくれることや、自己記録を更新する選手が多く、チームの雰囲気が良くなったことも要因に挙げていました。
 深山監督はとにかく故障をしないことだと言います。
「特別なことはしていないが、腹7〜8分目でずっと続けられている。精神的にも大人になって、周りが見えるようにもなってきた。一冬越えれば15分10秒台まで行けますね」
 変わったことをやるのでなく、普通のことを“続ける”ことが長距離選手としての成長になるのでしょう。“続ける”ために、新しいことをやる手もあるとは思いますが。特に若いうちは、続けることで自然と成長していきます。

 ところで、この時期、それも五輪イヤーとなるとどうしても、引退の話題がいくつか出てくるのですが、思ったほどないですね。寺田もオリンピックを区切りとするのは、あまり好きではありません。ちょっとありきたりというか。オリンピックがあるから頑張ってこられた、という気持ちもわからないではありませんが。
 大物では小島初佳選手が、明日の100 mがラストランです。ということで、原田康弘さんとの師弟ツーショットもこれが最後かもしれないと思い、写真を撮らせていただきました。走高跳の野村智宏選手はこの冬の練習次第。いつかも紹介したように、2m10が跳べなくなったらやめる意向です。


◆2008年9月28日(日)
 全日本実業団3日目の取材。
 トラック種目は予選だけということもあり、午前中は第2コーナー付近で取材をしていました。女子円盤投、男子砲丸投、男子棒高跳と3種目を見るのに都合が良かったのです。
 天気はなんとか持ちましたが、やっぱりちょっと肌寒かったです。
 そんな悪条件の中で自己新を出したのが男子砲丸投に優勝した大橋忠司選手。1cmの自己新ですが、畑瀬聡&村川洋平の18mプッター2人を抑えました。表彰台(写真)でも対照的な表情でした。単に大橋選手だけスタンドを見たタイミングでシャッターを押したのかもしれませんが。
 畑瀬選手は日本選手権で負傷しましたが、今大会は脚にテーピングをしていなかったので大丈夫なのかなと思っていました。しかし、スーパー陸上が17m00(日本選手間で4位)で、今回が17m21(2位)。徐々に上向いてはいますが、「まだ怖がってしまう」ということでした。

 女子三段跳は優勝者の吉田文代選手に、所属が中大レディースから成田空港に変わった経緯を取材。フルタイム勤務ですが、地元のスポーツ選手を支援したいというのが成田空港株式会社のスタンスで、競技をやる前提での採用です(9月1日入社)。種目がまだ決まっていませんが、千葉国体(2010年)も見据えて頑張るようです。
 所属の変更といえば、錦織育子選手も来年から「丸三」になることが決定したと言います。400 mHの荒川勇希選手が所属している島根県の会社です。

 12:50からは女子100 m予選。小島初佳選手のラストランでした。こちらに記事にしたように、決勝に進める体の状態ではなかったようです。セレモニーは決勝の後ということで他の取材と重なりそうだったので、レース後に取材をさせてもらいました。
 アシックスの吉田さんからは花束が贈られました(写真)。この辺をきっちりと用意するあたり、メーカーの営業のみなさんはさすがです。

 投てき種目の自己新といえば、男子やり投の荒井謙選手も76m75と自己記録を34cm更新しました。村上幸史選手に21cm届きませんでしたが、堂々の2位。今年の日本選手権は3位で、“アラケン・サンバとか揶揄されたいましたが、3番手から抜け出し、トップの座も奪おうかという態勢です。
 ただ、村上選手も負けませんね。北京五輪は予選落ちでしたが、シーズンベストや自己ベストでのランキングを大きく上回りました。各メディアも健闘と評価していました。今大会では1、2投目に「背中を使って大きく構える」投げを試したといいます。左脚の接地が上手くいかずに3投目以降は従来の投げ方に戻しましたが、スズキのホームページ記事にあるように意欲もさらに高まっているようです。表彰台の表情からも充実ぶりが伝わってきます。

 男子400 mは東北出身トリオが表彰台を独占。優勝した堀籠佳宏選手が宮城、2位の佐藤光浩選手が“追い込み白虎隊”のニックネームからもわかるように福島、3位の伊藤友広選手が秋田です。全員がオリンピック選手です。
 しかし、伊藤選手はアテネ五輪以降、いいところがありません。そして、今季から所属が為末大選手と同じAPFに変わっています。そのあたりの事情と、低迷した経緯を聞かせてもらいました。予想通り故障の影響でしたが、どうやら復調していきそうな様子です。
 富士通コンビは4×400 mRが1時間後(!!)にあるので取材を控えました。女子100 mでも渡辺真弓選手が11秒67と自己2番目の好タイム。ですが、45分後に4×100 mRがあります。タイムテーブル、なんとかならないのでしょうか。

 男子100 mは仁井有介選手(北海道ハイテク)が優勝。10秒43は大学2年時の10秒36に次ぐセカンド記録。高平慎士選手の200 mに続き、北海道&順大出身が制しました。しかも2人は同学年。順大では仁井選手がキャプテンでした。
 初めて取材をさせてもらいましたが、中村宏之監督の指導法は以前に陸マガに書いた記事で少し触れましたが、スピードがキーワードのようです。「技術トレも基礎トレも、すべて速さを求めてやっている」とのこと。仁井選手が中村監督の指導法を理解したのは北海道ハイテクに入ってからだそうですが、今では「ショートスプリントの指導では日本一だと思う」と言い切ります。
 仁井選手の場合、仕事が中心で練習にはそれほど時間は割けないようですが、やるときは福島千里選手、北風沙織選手、寺田明日香選手らと一緒になるわけです。女子選手に囲まれての練習ですが「女子でもすごく学ぶところがある」と言います。レース直後の取材ではなかなか突っ込んだ話は難しいのですが、突っ込み所がわかることがあります。今日の仁井選手の取材はその典型でした。

 女子100 mの表彰後に小島初佳選手の10年出場表彰があり、続いて引退セレモニー
 原田康弘クレーマージャパン副社長と、ナショナルチームでリレーメンバーを組んだ石田智子選手から花束が贈呈されました。こちらの一問一答にもあるように、レース直後は“自分の引退には泣かない”と話していましたが、石田選手がウルウルしていたのが引き金になって、小島選手の目からも涙が(写真1 写真2 写真3)。
 そういえば朝原宣治選手も引退セレモニーのとき、「泣かないと思っていたら、早狩(実紀)がウルウルしているのを見たら泣いてしまった」と話していました。同じパターンです。
 夫の小島茂之選手もマイクを取り、妻にねぎらいの言葉をかけていました。スタンドへの挨拶だったかな? 最後は胴上げ。カメラが一眼レフではなくレンズ一体型だったので、胴上げには対応できませんでした。ちょっと残念。

 その後に男子4×400 mRの表彰。富士通4選手のラップは寺田の手動計時で
1走・48秒2 堀籠選手
2走・48秒4 笹野選手
3走・46秒6 佐藤選手
4走・46秒4 高平選手

 400 mの1時間後の3走・佐藤選手が頑張りました。
 表彰後には杉町マハウ選手に久しぶりに取材。今季は5台目まで12歩で行っているそうです。北京五輪の予選では初めて成迫健児選手に勝っています。「国体は成迫君の地元ですが勝ちたい。前半で食い下がれれば、ラストは僕の方が速い」と、意気込んでいます。


◆2008年9月29日(月)
 サニーサイドアップからメールが来ました。為末大選手が明後日10月1日に、引退するか現役を続行するのか、進退を表明する会見を開くというもの。
 会見に臨む直前に決心するということはないでしょうから、すでに心は決しているはず。記者たちも正確な情報はつかんでいないようですが、明日の新聞でどこかがスクープする可能性もないとは限りません。

 そもそも、プロ野球やサッカーのJリーグと違って、陸上競技選手が“選手登録を抹消”されることはありません。どんなに競技力が落ちても、その意思さえあれば選手として登録することはできます。
 しかし、為末選手の性格を考えると、それはしないでしょう。FM東京でサッカーの前園さんと対談をしたときの囲み取材で、「成績は悪くても自分の好きな種目をやり通す選手もいれば、良い成績をとれる方の種目を選ぶ選手もいる」と陸上選手の分類ができることを話していました。為末選手は明らかに後者です。
 中学では100 mチャンピオン(200 mと三種競技で中学記録を出しましたが)。高校3年時に400 mH49秒台&400 m45秒台を出した際のサイン色紙には、「でも100 mスプリンターだよ」と書いていました。本当は100 mをやりたいけど、世界と戦える400 mHをやってきました。世界で戦えないとわかったら、引退するでしょう。まだ戦えると思ったら、現役続行。判断基準は単純のはずです。

 しかし、もう1つの可能性があります。種目の変更という。
 為末選手が引退を考えている一番大きな理由は、ひざなどの慢性的な痛みでした。ハードルを跳ぶことで長年負担をかけてきたからです。FM東京での囲み取材の際に「もう一度400 mやる?」と聞きました。ハードルを跳ばなければ、なんとかなる可能性もありそうな口振りだったからです。正確ではありませんが「日本代表になれそうだったら」という答えだったと思います。
 あるいは、価値観を変えて、好きな100 m選手として走り続けるか。その可能性は限りなくゼロに近いですけど、ゼロではないでしょう。
 当面は価値観を変えて100 mや400 mをやりながら、ひざの状態が良くなったら400 mHをやるという方法もあります。これかもしれませんね。


◆2008年9月30日(火)
 全日本実業団から一昨日の深夜に東京に戻り、10月2日には成迫国体…じゃなくてチャレンジ!大分国体に向けて出発します。東京にいる3日間でやることはいっぱいです。

 昨日やっと、某大会の原稿5本を書き上げました。本当は天童で終わらせたかったのですが、2本がやっと。目の前で面白いことが起こるとどうしても、そちらに神経が行ってしまいます。それで、日記が長くなるのです。
 ということで、今日は陸マガの朝原宣治選手の引退原稿に取りかかりました。締め切りは明後日ですが、大分への移動日なので明日中には仕上げたいところです。そのためには今日が勝負……と思ったのですが、300行中40行しか進みませんでした。
 ただ、資料や過去の記事を読むのに8時間以上を費やし、記事の構成はイメージできています。H選手にも電話をして、参考意見を聞かせてもらいました。文字数でなく記事の完成度という点では、6割は進んだかな、という感じ。なんとしても、大分に抱えて行くのは避けなくては。

 そのチャレンジ!大分国体の目玉は地元期待の成迫健児選手。陸上競技が始まるのは10月3日ですが、全日本実業団の頃に国体開会式で選手宣誓をしていました。大変そうです。
 成迫選手は“国体王子”の異名を持つほど国体で活躍してきました。自身初の48秒台が4年前の埼玉国体。セカンド記録の48秒09が岡山国体。これは、同じ年のヘルシンキ世界選手権の為末大選手の銅メダル記録を上回りました。
 本人もシーズン当初から、今季の目標として北京五輪と地元国体の、2つを並列で挙げていたほどです。

 ただ、同選手のブログでも明らかなように、状態は万全ではありません。地元だからと変にテンションを上げて頑張ったら、大阪世界選手権の先輩たちの二の舞でしょう。
 スポーツ選手が期待されるのは仕方ありません。期待されなくなったら、その競技に流れてくるお金が少なくなって、廃(すた)れていくことになります。
 期待される立場で、なおかつ自身の状態が良くない状況で、それをどう凌げるか。これも選手が乗り越えないといけない試練の1つでしょう。日本インカレの金丸祐三選手がヒントになるような気がしますが。

 陸上界では真面目な性格で知られている成迫選手。個人的には、「ナリケンサンバ」とか、「チャレンジ!電子レンジ国体」とか、ギャグを言うくらいの余裕があればいいな、と思っています。
 そういう意味で、成迫健児選手に注目しています。


◆2008年10月1日(水)
 10:30に岸記念体育会館に。為末大選手が進退を表明するため会見に臨みます。かなりの緊張感。本人ではなくて取材する側が。
 記者たちはもちろん、あの手この手で情報を仕入れていますが、どの社も“抜く”ところまで正確な情報は入手できなかったようです。現役続行を予想する“続行派”の記者が多かったのですが、To記者のように引退説の記者も。理由は「サニーサイドアップ関係者がたくさん、それも正装で来ているから」というもの。確かにその通りです。現役続行だったらこんなに来ないだろう、という多さでした。
 為末選手はこの表情で登場。その瞬間、「続行だな」と思いましたが、周囲の予想を裏切るのが為末選手ですから、引退かもしれない、という思いが頭をかすめました。

 結論はこちらの記事にしたように現役続行です。29日の日記に書いた予想と、結論は同じでした。でも、“予想”としては外れです。価値観を“当面”変えることはあっても、最終的には勝つために走るのだと思っていました。まさか、“負けてもいいから走り続ける”という決断をするとは思いませんでした。今回も“予想を裏切る為末”でした。

 2時間ほどで記事を書き上げ、いったん新宿の作業部屋に。2時間ほど原稿を書いた後に、竹橋の毎日新聞社に。実業団駅伝公式ガイドの打ち合わせです。毎年この時期にパレスサイドビル(毎日新聞社の入っている巨大ビル)に行くと身が引き締まります。
 今日は例年よりも会議の人数が多くてビビリましたが、寺田は勝手にこれが良い、あれが面白そう、と言っているだけなので気は楽です。今年は北京五輪の日本選手成績が悪く、取り上げる選手の人選や、読み物を何にするかで苦労をするかな、と思いました。でも、それはそれで何とかなるものです。元々、公式ガイドのメインは全チームの顔写真入り選手名鑑ですし。
 今年も女子が12月上旬、男子が中旬発売です。


◆2008年10月2日(木)
 13:35のJAL便で大分に。大分は07年の別大マラソン以来。
 空港で食事をすると、次のバスまで1時間半の時間があったので原稿書き。無線LANが無料で使えたので助かりました。
 ホテルは大分ではなく別府。シーサイドですが、微妙に離れていて海は見えません。18:30に着くと、曽輪・中尾の関西ライター・コンビが食事に行くところだったので、寺田も19時過ぎに合流。関西の陸上事情を色々と聞くことができました。最近は高校生の取材機会が少ないので、東大阪敬愛の情報など貴重でした。

 夜は朝原選手の引退記事を進めました……が、なかなか進みません。朝原選手の足跡を振り返れば振り返るほど、考えれば考えるほど、書きたいことが山ほど出てくるのです。
 過去の記事を読み返していると、こことここがつながるのだな、と気づくことがあります。この2つは矛盾しているけど、たぶん、この話(考え)が表に出ていなくて、そう見えるのだろうとか。今回もそれがありました。
 面白かったのはウエイト・トレーニングの活用の仕方。ドイツ留学時代のウエイト、アメリカでのウエイト、そして、ここ数年のウエイト。朝原選手も苦労していますが、最終的には走りに生かせていたと思います。
 重要なのはウエイトもそうですが、個々の練習メニューが走りに結びついているかどうか。練習のための練習で終わらせない方法ですね。そういったところが、朝原選手の優れていたところの1つではないでしょうか。

 明後日からチャレンジ!おおいた国体の取材です。陸上競技は明日から始まりますが、明日は別の用事がありまして。温泉に行く予定はまったくありません。


◆2008年10月4日(土)−その1
 チャレンジ!おおいた国体2日目の取材でした。別府から大分までJRで移動して(12〜13分)、大分駅から無料シャトルバス。発車時間5分前に行ったらバスは満席。会場の九石ドームまでは30分かかると書いてあります。この手の所用時間は、渋滞したらそのくらいかかるという前提で書かれているのが普通なので、20分くらいで着くだろうと思っていたら、本当に30分かかりました。正確には26〜27分くらい。ちょっときついですけど、利用者がどのくらいの数になるのか把握するのは難しいのでしょう。数人乗っているだけ、ということもよくあったので文句は言えません。
 会場に着くと知り合いの記者たちから「昨日はどうしたの?」と聞かれます。いちいち説明するのは面倒なので、「10月3日は“別府原稿デイ”(別府健至監督ではない)だって知らないの? 別府で原稿を書くと温泉に無料で入れるって」と答えておきました。

 昨日は記録がいまひとつでしたが、今日は盛況。トラックで好記録が続出しました。
 口火を切ったのが女子400 mH。久保倉里美選手が55秒46の日本新です。全日本実業団で57秒40もかかっていましたが、やっぱりあれは、山形が寒すぎたんですね。
 タッチダウンタイムは久保倉選手で測りましたが、1台目がテントに遮られて失敗。記者席の場所が低い位置だったので(と言い訳)。2台目以降は計測しましたが、青木沙弥佳選手も良いのではないかと思って、フィニッシュだけ青木選手で押しました。寺田の手元で55秒92(正式計時は55秒94)。学生新は間違いありません。
 ミックスドゾーンに降りると、久保倉選手はテレビのインタビューで来るのがちょっと遅れそうだったので、青木選手のコメントを少しでもと聞きに行きました。1分ほどで久保倉選手に移動。記者の動線の通路が太かったのか、記者の数が日本選手権に比べて少ないからなのか、スムーズに移動できて助かりました。

 少年A男子400 mHを見るのはあきらめ、そのままインタビュールームで久保倉選手のコメントを取材しました。青森の岸本鷹幸選手が50秒17の高校歴代4位を出していましたが、これはもうどうしようもありません。反省点としては、インタビュールームにモニターがあったのに活用できなかったこと。ただ、広い部屋だったので距離的に無理でした。インタビュールームが広いのは、本来良いことです。
 もう1つ失敗したのが、久保倉選手のインタビューの途中で、成年男子400 mHが始まると思って外に出てしまったこと。これが大チョンボ。寺田がプリントアウトして持参したタイムテーブルが、古いものでその後微妙に変更されていたのです。変更はよくあることでして、本当に初歩的なミス。それで、この記事に(中略)という部分が生じてしまったのです。

 成年男子400 mHは成迫健児選手が48秒62の今季日本最高記録で地元V(タッチダウンは上の方の記者席でしっかり計測工房…スポンサーへの配慮も忘れてはいけません)。初めて48秒台を出した2004年の埼玉国体から5連勝を達成しました。オリンピックまでアキレス腱に痛みがあってハードル練習が満足にできず、北京では49秒63で予選落ち。それを考えたら見事な復活劇です。
 ミックスドゾーンで成迫選手を待っている間に「やっぱり“国体王子”だなぁ」と言うと、ライバルのO村ライターも同意してくれます。「でも、“電子レンジ国体”はないですよ」と、痛烈なひと言。9月30日の日記にダメ出しをしてきます。実は自分でもイマイチかな、と思いながら書いていました。成迫選手が料理好き(同選手のブログ参照)ということで、業界的にはOKかなと思ったのですが。
 こちらを動揺させようという意図も見え隠れしますが、今回、寺田は陸マガの仕事ではありません。逆に、O村ライターの方が余分な神経を使ったことになります。この辺は陸マガ高橋編集長の陽動作戦です。
 しかし、昨日会場に来なかった時点で陸マガの仕事でないことはバレているかもしれません。だとしたら、O村ライターの方が一枚上手ということ。まあ、どうでもいいことですが、地元スター選手優勝の陰で、ライバル・メディア間で虚々実々の駆け引きが行われていたことを世間にも知ってもらいたいのです。

 話を競技に戻しましょう。成迫選手の喜び方は半端ではありませんでした。地元ということや、オリンピックで不甲斐ない成績だったことなど、色々な経緯や思いが凝縮したのだと思います。「もう最高です。これ以上の喜びはあるかわからないです」とまで言います。当然、地元メディアは勇み立って取材します。全国紙の記者たちも、世界に通用する選手ということで手は抜けません。寺田はあまり質問しないようにしました。
 しかし、インタビューが終わって記者の輪が解けると、成迫選手が「これで“国体王子”も卒業ですね。エクスプレスになりますよ」と言ってきました。思わず「400 mで45秒台を出したらだよ」と答えてしまいました。“筑波エクスプレス”は学生時代に出してくれないと使えません(筑波エクスプレスが秋葉原〜筑波間を45分で結んだことに引っかけたコピーです)。○○エクスプレスというコピーを考えないと。
 とまあ、この辺は冗談ですが、「来年は400 mでも日本選手権に勝負できるくらいにしたい。金丸クンや堀籠さんと競って走力をつけたい」と言っていました。

◆2008年10月4日(土)−その2
 次の成年女子200 mは高橋萌木子選手が23秒48(+0.7)の学生新&日本歴代3位(青木選手と同じです)。前半で大きく差をつけられた福島千里選手を、直線で追い上げ、逆転しました。
 元から高橋選手は後半型です。実際、高校1年時の国体少年Bや、2年時のインターハイには200 mで勝っています。3年時のインターハイで中村宝子選手がジュニア日本新で高橋選手に勝った印象があまりにも強いので、高橋選手の200 mの印象が薄れてしまったのです。奇しくも、今日のタイムは中村選手の大阪インターハイのタイム(ジュニア日本記録)とまったく同じでした。
 今年は国体種目が200 mということもあり、夏から200 mを意識した練習をしてきたと日本インカレのとき話していました。スタンドからは、コーナーを抜けたときの福島選手との差は、ちょっと無理だろうと思える差でした。にもかかわらず、高橋選手は「あまり離れていなかった」と振り返ります。この辺は、彼女にしかわからない距離感のようです。
 清田監督が100 mを重視していることもあり、これまでは“100 mの高橋”でした。それは今後も変わらないと思われますが、22秒台一番乗り候補の1人になった……と言っていいでしょうか?

 実はこのレースは、別の意味で注目していました。100 mの福島選手、200 mの信岡沙希重選手、400 mの丹野麻美選手と日本記録保持者が3人揃ったのです。日本選手権では実現しませんでした。先日引退した小島初佳選手が100 m・200 mで日本記録を持っていた頃に、柿沼和恵選手と200 mで一緒に走っていれば、そういうこともあったのでしょうが、ちょっと記憶が定かではありません。“3人”ではありませんしね。
 インタビュールームではその辺を各選手に聞こうと思いましたが、丹野選手はインドの試合以来体調が完全ではないようですし、信岡選手も「病気のこともあって、3本目(決勝)は24秒5くらいかかると思っていた」と言います。福島選手も「今できる100%は出せた」と言います。俗に言うところのタメがなくなってきていることを自覚しているようです。
 信岡選手4位、丹野選手6位でした。3人のコンディションを考えると、“日本記録保持者3人の対決”というテーマの記事は厳しそうです。
 ただ、高橋選手にだけはそっと、日本記録保持者3人に勝った感想を聞きました。3人のコンディションがわかっているのでそれほど喜べないようでしたが、ちょっとだけ笑みを浮かべて「嬉しいです。自分も日本記録保持者になれたらいいのですが」と話してくれました。

 男子200 mは優勝した安孫子充裕選手が20秒74(+0.6)と2度目の世界選手権B標準突破。日本インカレ100 m優勝の江里口匡史選手と、同200 m優勝の斉藤仁志選手を抑えました。もちろん、日本選手権から強かったので北京五輪代表になったのですが、さらに強くなった感じです。
 ただ、今季はもう、無理にA標準を狙いに行くことはしないようです。今季中に出しておけば楽は楽なのですが、男子短距離の場合、本番と同じシーズンのA標準が必要との、谷川聡コーチの判断もあるようです。

 成年女子800 mでも好タイムが相次ぎました。優勝は陣内綾子選手で、2分03秒42の日本歴代4位&大会新&3年ぶりの自己新を出しました。
 実は日本インカレ(2分04秒38で優勝)のときに陣内選手に「ラップはどうでしたか」と質問されたのですが、国立競技場スタンド下のちょっと奥からと見ていて、タイムを計測できませんでした。今回は測り逃すまいと、しっかりと計測工房(スポンサーへの配慮も…)。
 その後、陣内選手のコメントを聞くと、今日の自己新記録は400 mから600 mの走り方がキーポイントになっていました。記事にするとしたら、役立てられそうです。
 女子800 mは陣内選手以外も好記録でした。8人中5人が自己新。
順位 選手 所属 記録 備考
1 陣内綾子 佐賀 佐賀大 2分3秒42 大会新、自己新
2 岸川朱里 神奈川 ノーリツ 2分4秒92 自己3番目
3 久保瑠里子 広島 デオデオ 2分5秒03 自己2番目
4 佐々木麗奈 富山 龍谷富山高教 2分5秒91
5 品田貴恵子 新潟 筑波大 2分6秒43 自己新
6 熊坂香織 山形 スポーツ山形21 2分6秒52 自己新
7 木田真有 北海道 ナチュリル 2分6秒78 自己新
8 須永千尋 東京 創造学園大 2分6秒79 自己新

 自己新の選手は調べるのが可能ですが、そうでない選手は本人に聞くのが手っ取り早いわけです。2位の岸川選手が「自己3番目」、3位の久保瑠里子選手が「2番目」と教えてもらいました。4位の佐々木麗奈選手だけが「2分5秒ちょっとがダダダっとある」ということで、何番目かわかりませんでした。ただ、「近年では一番良い」ということです。
 ちなみに佐々木麗奈選手の年次別ベストは以下の通りです。
記録
2008 2.05.91
2007 2.08.68
2006 2.07.54
2005 2.05.95
2004 2.08.17
2003 2.09.16
2002 2.05.39
2001 2.05.72
2000 2.05.00
1999 2.10.41
1998 2.08.11
1997 2.05.92
1996 2.08.71
1995 2.09.95
1994 2.12.43
1993 2.16.96

◆2008年10月4日(土)−その3
 全種目が終わった後、サブトラックに向かいました。確認したいことがあったので。タイミング的に選手・コーチが引き揚げてくる頃で、多くの方たちとすれ違いました。そのなかの1組が成迫健児選手とお父さんの成迫壱(まこと)先生。この機を逃すなとばかりに、写真を撮らせていただきました。
 共同取材のときには聞けなかった専門誌チックなトレーニング内容の話も、ちょっとだけ取材させてもらいました。
 そこに現れたのが同学年の小池崇之選手。高校3年時の国体は、小池選手が優勝しました。こちらも写真を。小池選手は前半が14歩インターバルですが、今日はその前半をかなり速く行けていたようです。杉町マハウ選手も2人と同学年。サブトラまで小池選手と話をしながら行きましたが、話を聞いて、3人の記事が書けそうな気がしてきました。問題は時間があるかどうか。

 サブトラックの前には筑波大コーチングスタッフが集結していました。宮下憲コーチには成迫選手のトレーニングの話を少し、谷川コーチには前述のように安孫子選手の話を少し取材させてもらいました。投てきの大山圭悟コーチもいらっしゃいます。察しのいい読者はピンと来たと思いますが、同コーチはトンボのマークで有名な兵庫県(小野高)出身。このところ朝原宣治選手、小島初佳選手と兵庫県の大物選手に引退が続いています。
 先日、大原記者が朝原選手の引退を特集した神戸新聞を送ってくれたのですが、すごいスペースを充てていました。スポーツ面は見開き2ページの8割くらいを割き、1面と社会面にも関連記事がありました。過去の戦績、記録の推移、節目節目の大会戦績とそのときのコメントなど、大、大、大特集です。
 そこで大山コーチです。神戸インターハイ世代ですから朝原選手の2つ上。今年で38歳ですが現役の砲丸投選手です。「兵庫の選手の引退が続いていますが?」と水を向けると、「神戸新聞の記者さんをこれ以上忙しくさせたら悪いですから」と、小野高で同級生だった大原記者に気を遣っていました。
 というのは冗談で、健康のことを考えても投げ続けたい、というニュアンスの話をしてくれました。ただ、今季の試合出場は2試合と、さすがに減っています。ちなみに谷川コーチも現役ですが(110 mH日本記録保持者)、今季は日本選手権1試合だけしか出ていないそうです。あれだけ有力選手を抱えていたら、大変でしょう。

 筑波大スタッフに取材ができたのにはワケがあります。サブトラックに入ろうとしたら入れてもらえなかったからです。過去に何度か紹介しているように、国体ではサブトラックの周囲を各県のテントがナンバーカード順にぐるりと設置されています。そこで、試合を終えた選手や、コーチたちに取材ができたのです。
 基本的にはミックスドゾーンやインタビュールームで話を聞きますが、スタッフの話はサブトラに出向かないと聞けません。また、恩師やチームメイトとの写真も、サブトラでないと撮れません。寺田にとっては、大変にありがたい取材の場でした。多くの地方紙記者たちも、取材に活用していました。
 それが、なぜかNGになっていたのです。現場サイドからクレームでもあったのでしょうか? それとも、選手と記者が接触して事故でも起きたのでしょうか? これは、サブトラ取材を活用していた熱心な記者ほど打撃を受けます。中国新聞・山本記者も「こんなの初めてですよ」と、憤りを隠しません。
 言わずもがなですが、国体は総合競技会です。新聞紙面も、テレビ放映時間枠も、陸上競技だけで埋めなくてはいけないわけではありません。陸上競技の話題(ネタ)が面白くなければ、いくらでも他の競技に変わってしまいます。もしも問題があるのなら、取材を禁止するのでなく、別の解決方法を考えるべきではないでしょうか?
 国体最終日のサブトラ巡りを楽しみにしている記者を、どうしてくれるんだ?


◆2008年10月5日(日)
 チャレンジ!おおいた国体3日目の取材。
 国体らしい風景といえば、地元選手への取材の多さですが、今日の少年B男子110 mJHでは、優勝した加藤誠也選手よりも、2位の成迫泰平選手への取材に記者たちが殺到していました(テレビカメラも)。お兄さんが五輪選手ですし、予想されたことですが。
 加藤選手にも2〜3人は記者が行っていましたからよかったです。県によっては地方紙が来ないところもありますので。
 かく言う寺田も今日は、成迫泰平選手の取材に行きました。少年Bでの順位が、3位だった兄の健児選手を1つ上回ったということで喜んでいました。タイム(14秒45)が健児選手と同じだと地元テレビ局の方が泰平選手に言っていましたが、2000年の陸マガ掲載のリザルツでは、健児選手のタイムは準決勝で14秒46、決勝で14秒47。予選は14秒49。他の大会で出しているのでしょうか? チャンスがあったら確認します。
 寺田が知りたかったのは有名選手の弟という立場の大変さ。必ず比べられますからね。親子選手もそうですけど。その点、泰平選手は明るく話していたので、変なプレッシャーは感じていないようです。
 健児選手と同じように、高2となる来年から400 mH進出を予定しているといいます。健児選手はそこで一気に伸びました。世界ユースで3位でしたから。泰平選手がそこで、同じ成績を残さないといけない、と考えたらプレッシャーになります。気軽にやってほしいところです。
 ただ、兄とまったく同じというのも面白くないと思ったので、違うことを考えていないか質問してみました。「兄はどちらかというと長い距離が速いですけど、僕はスピードで攻めていきたい」と答えたので、面白いなと思いました。

 今日は記録的には、昨日ほど盛り上がりませんでした。外は雨でしたが、九石ドームが威力を発揮してスタジアムは雨の影響は受けなかったのですが。やっぱり、昨日は風が上手い具合に吹いていたのでしょう。200 mも好記録でしたが、周回種目の記録の方がより良かったですから、周回のかなりの部分が追い風だったと思われます。
 ただ、それが悪いかといったら、別に悪くない。今の日本記録などはほとんど、そういった好条件で出ています。力がついたから記録が狙えるというレベルではなくなっています。条件が良くなければ記録は狙えません。

 そうではありますが、ネタが減る…いや、取材が減るのも事実。地方紙記者たちと世間話…じゃなくて、情報交換をする時間が増えます。
 信濃毎日新聞の中村恵一郎記者(インターハイ中距離2冠)を見ると佐久長聖高の話題になりがちですが、そればかりではありません。インターハイのときは、地域によって強さに偏りがある棒高跳で、どうして長野からインターハイ・チャンピオンが生まれたのか(松沢ジアン成治選手・高遠高)、という話をしました。
 今日は清水裕子選手(積水化学)の話題に。スーパー陸上の1500m優勝、先週の全日本実業団5000mで日本人トップ。記憶に新しいところですから、「中学は長野県だったんだって?」と話を振りました。
「そうなんですよ。○○中学から、羽柴先生(中津商)のところに行ったんです」と中村記者。口調から、長野の選手ですよ、とでも言いたげなところが伝わってきます。だったら、静岡県出身の寺田も言わないわけにはいきません。
「清水選手が長野なら、佐藤悠基選手(佐久長聖高OB)は静岡ということで」
 そうですね、とは言ってくれませんでしたが、まあ、強くなれば、県がどうのこうのというのは、どうでもいいことです。静岡から兵庫に行った福士選手も今年、復活してくれましたし。

 昨日、サブトラ取材ができない不便さを訴えていた中国新聞・山本記者と、中日スポーツ・寺西記者は、セリーグのクライマックス・シリーズ進出を争う広島カープと中日ドラゴンズの地元同士です(元担当記者)。一触即発の気配を周囲は感じていたのですが、寺西記者に言わせると「いやー、紳士的にやらせていただいていますよ」ということです。ドラゴンズに決まりましたからね。
 少年A男子1万mは記事にもしたように、初1万mの田村優宝選手が高2歴代2位の快記録で優勝。山本記者は田村優宝選手のことを取材したことがある、と言います。なんで? と思いましたが、中国新聞は全国都道府県対抗男子駅伝の主催者。同駅伝のメイン担当記者として、全日中や少年Bで優勝している田村選手を取材しているのだそうです。
 くどいようですが、サブトラ取材禁止は、そういった熱心な記者の取材機会を減らすことになっているのです。

 今日は成年2種目で千葉県勢が優勝。澤野大地選手と土井宏昭選手です。千葉県は地方紙の取材がないのですが、2人とも日本を代表する選手ですから、全国紙(誌)の記者が殺到していました。ただ、澤野選手はミックスドゾーンでそれなりに話が聞けたので、インタビュールームでは8位の木越清信選手に。
 競技終了後に胴上げされていた選手がいて、誰なのか確認できていませんでしたが、澤野選手に聞いたら木越選手と教えてくれました。最後の試合は筑波大新グラウンドのこけら落とし競技会にするようですが、今年で引退するということで、選手仲間に胴上げされていたのです。
 木越選手といえば澤野大地選手の前の学生記録(5m51)保持者です。しかし、学生記録よりも、シドニー五輪のA標準(5m60)を越えられなかったことが一番印象に残っているそうです。
「横山(学)さんがA標準を跳んでいらして、もう1人A標準を越えれば代表になれそうな感じでした。それを、あとちょっと、腹でかすって落としたんです。跳躍の中身も良かったです」
 それでも、競技人生は「楽しかった」と総括してくれました。
「すべての人間関係、人生経験は陸上競技を通したものでした。就職(愛知教育大)も嫁さんも、陸上ですから」
 木越夫人が誰なのか知らなかったのですが、「前の名前は京田です。三段跳をやっていました」とのこと。珍しい名前ですから、あとはこちらのデータで調べられると思ったら、三段跳で京田という名前の選手が2人いました。この辺は、謎として残しておきましょう。

 やめる選手もいれば、続ける気持ちになった選手もいます。男子ハンマー投で4位に入った静岡県の馬渕将臣選手です。土井宏昭選手の話を聞き終わって後ろを見ると、静岡の記者たちが馬渕選手を取材していたので、寺田も加わりました。
 馬渕選手は浜松工高出身で東海大の4年。国体前のベストは64m01でしたが、今日66m70を投げて4位に。日本インカレ優勝の遠藤彰選手(国武大院)とは36cm差でした。大分入りした後の練習で技術的につかんだものがあり、自己記録を3m近く伸ばすことができたそうです。
 ハンマー投で実業団選手として競技しているのは、上位3人だけです。短距離や長距離と違って、フィールド種目のつらいところ。馬渕選手も「64mでは無理」と、大学卒業後は一線を退く予定でしたが、今日の記録で続けたい気持ちが大きくなったそうです。記録もそうですし、もっと行けるという手応えも、気持ちを変えるのに大きな要因となったのでしょう。
 最終的に続けられるかどうかは、今後の環境づくりにかかってくると思われますが、碓井崇選手をはじめ多くの選手が、自分で環境づくりに奔走して、十分とは言えないまでも、その環境で頑張っています。来年の競技会出場を待ちたいと思います。


◆2008年10月6日(月)
 チャレンジ!おおいた国体4日目を取材です。

 最初にコメントを聞いたのは少年A女子400 m優勝の三木汐莉選手。自身初の54秒台(今季高校最高)を出したからですが、高校生も積極的に取材をしようという意思表示でもあります。東大阪敬愛高のネタを、独身の曽輪ライターが吹き込んでくれたおかげで、興味を持って話が聞けそうだと思ったからです。
 54秒台を出せたのは、前半を速く入れたことが大きかったようです。「自分は後半が強い方なので、上手く前半を入れれば、後半も走りきれる」。前半の200 mを26秒0くらいで行くつもりだったそうです。「予選が26秒1で入って余裕を持てていたのに、準決勝は27秒1になってしまった」と反省していたそうです。
 寺田の手元では26秒3の通過。測定誤差もあると思いますし(謙虚に)、バックストレートの風の影響もあると思うので、三木選手の想定通りの通過と見ていいでしょう。
 ふだん、丹野麻美選手の通過タイムばかりを記事にしているので、26秒台と聞くと遅いな、と思ってしまいますが、初めて54秒台の選手です。前半が26秒3なら後半は28秒6。“前半から飛ばした”と十分に言える数字です。

 このペース感覚はどうやって養成されたのかというと、練習はもちろんだと思いますが、三木選手のレース数の多さに裏打ちされているのかもしれません。三木選手は100 m、200 m、400 mに400 mH、そして両リレーも走るので膨大な数になります。JAAF Statistics Informationによれば、国体まで60m&100 mを29本、200 mを8本、400 mを26本、400 mHを23本走っています。大きな試合の翌週も試合に出ていますし、全部が全力というわけではないと思います。でも、それを差し引いてもすごい数です。

 東大阪敬愛高で注目されているのは日本選手権リレー。
「大学生が強いと思いますが、優勝を目指したいです。3分30秒台を狙います」
 記録はともかく、福島大の牙城はさすがに崩せないと思いますが、高校生が一般の試合に臨む場合、そのくらいの気概を持たないとシニアの試合の雰囲気に飲まれてしまうでしょう。いずれにせよ、日本選手権リレーの注目ポイントが増えました。

 続いて取材したのは成年男子800 m。特に記事を書く予定もないのですが、ライバルのO村ライターが優勝した横田真人選手の話を聞きに行ったので、徹底マークしました。というのはもちろん冗談で、日本インカレで予選落ちした後、短期間で“戻してきた”点を取材したかったのです。
 日本インカレは、日本選手権後初の試合出場でしたが、その間ずっと故障が長引き、2週間前からやっと練習が再開できた状況だったからです。
「全カレに合わせようと実践的なメニューを取り入れましたが、基本ができていないのにやってしまって、悪循環になってしまいました」
 それから3週間ちょっと。どんなメニューをやってきたのか興味のあるところです。
「僕の中でつねに新しいことをやろうという意識があって、今回は昔やったメニューと同じものでも、設定タイムを上げてやりました。スタートダッシュやウエーブ走など、基礎としてやってきたメニューを、動きも意識しながらやりました。それが今回、上手くいきました」
 “基礎=走り込み”という観念はもはや、過去のものです。弘山晴美選手や高岡寿成選手が実証してきました。最近では絹川愛選手もそう。こちらの記事で紹介したように、夏からやっとまともに走れるようになり、少ないポイント練習で復活しました。

 取材の最後の方で今後のトレーニング方針などの話題になりました。寺田の脳裏に、来るかな、という予感がよぎった次の瞬間に、来ました。
「リディアードをやるつもりはありませんから」
 リディアード式で強くなったピーター・スネル氏が来日して、陸マガ誌上で横田選手と対談をして以来、寺田がよく話題にしていたのです。別にリディアードを薦めているつもりはなく、将来的には選択肢の1つという話をしていたので、話のネタとしてですね。
 日本選手は走り込みをしないといけない、という意見は正論だと思います。間違いなく、アフリカ選手に対抗するための有効な手段です。あのダニエル・ジェンガ選手も、マラソンに取り組み始めた最初の頃は失敗続きでしたが、走り込みをするようになって強くなりました(今週末のシカゴ・マラソンに期待しています)。
 ですが、選手個々の力を伸ばすことをまず考えるべきで、走り込みができないけど、スピードで押していくことができるタイプの選手がいます。俗に“能力が高い(けどケガも多い)”と言われる選手たち。両者の境目を判断するとき、どうしても“走り込みが必要”という判断が優先されてきました。アフリカ選手にはスピードで劣る、という大前提に考え方が縛られてしまっていたのではないか、という気はしています。

 横田選手は今季、群馬リレーカーニバルと浜松中日カーニバルの2試合を残していますが、世界選手権の標準記録には縛られないと言います。
「今年は北京、北京と言って、やらないといけないことを見失っていました。今は、来年に向けてスピードをつけることを優先してやって、その延長に標準記録があれば、くらいの気持ちです。狙いに行くことはありません」
 B標準が1分46秒60ですからね。焦って狙って、なんとかなるものではありません。

 続いて女子1万mWで日本新を出した川崎真裕美選手(茨城・海老沢製作所)のコメントを取材。先週の全日本実業団5000mWでも日本新を出していますから、ラップを計測工房しながらレースもしっかりと見ました。日本記録ペースでしたが、2回警告が出てペースダウンしました。
 川崎選手に話を聞いて初めて知りましたが、選手は審判からマークを出されたとき、警告なのか注意なのかがわからないのだそうです(お恥ずかしい話ですが、初めて知りました)。掲示ボードを見て初めて知ることができる。
「歩いている最中に映像を見ましたが、今日のフォームでは私が審判でも挙げるだろうな、と思いました。自分でそう思うときは、相当に悪いです。体調が悪かったことと、右ヒザの状態が良くありませんでした」
 今日は地元・大分の桐生文香選手(環微研)が失格。北京五輪の標準記録Bを破っていた選手ですから、ポイントゲッターとして期待されていたと思われます。それを男子優勝者の森岡紘一朗選手(長崎・富士通)がスタンドから見ていました。どんな思いだったのでしょうか。
 周知のように森岡選手は、地元インターハイで失格した選手。その後フォームを矯正し、インターハイ以後は失格がないと言います。桐生選手もそうなるきっかけになれば、今回の経験が無駄にはなりません。高すぎた代償かもしれませんが。
 今日は男子1万mWでも谷井孝行選手、杉本明洋選手、明石顕選手と日本代表経験のある選手たちが失格。そのレベルの選手の動きが甘くなる時期なのでしょうか?
 川崎選手が2回出たと気づいたのがおそらく6000m付近。1周毎が1分46秒台から47秒台、48秒台、49秒台と徐々に落ちていきました。しかし、しかし、8000m付近から1分48秒台、47秒台と徐々にペースを上げ、日本人初の43分台をマークしました。ただ、自身の20kmの途中経過の方が速いと言います(07年の全日本競歩能美大会で43分40秒)。

 女子走幅跳は池田久美子選手(静岡・スズキ)と花岡麻帆選手(千葉・成田国際高教)が大接戦を展開し、1cm差で池田選手が優勝しました。今日は最後に4×100 mR準決勝があり、女子100 mHでジュニア記録をマークした寺田明日香選手ら、何人かの選手の取材がリレー後になりました。
 池田選手はリレーに出ないということで(静岡の成年は都留文科大の長倉選手と慶大・中村宝子選手)、池田選手をミックスドゾーンで取材できました。時間はかなり後になりましたが、リレー後に女子走幅跳の選手たちもインタビュールームで取材。
 ライバルのO村ライターと寺田は、花岡・池田対決を久しぶりに見られて意気込んでいました。この種目でオリンピック選手同士が対決したのは、過去30年以上なかったこと。正確に調べることはできませんが、72年のミュンヘン五輪代表だった山下博子選手が、モントリール五輪後に、同五輪代表だった湶純江選手と試合をしているかどうか。
 インタビュールームでも最初は池田選手の話を聞いていましたが、途中からO村ライターと2人で花岡選手の話を聞き始めました。こういうとき、千葉県は地方紙が取材に来ないので、話が進んでいなくて助かります。こちらに書いたように、五輪代表同士の名勝負というトーンで記事にすることはできませんが、新たな取り組みをしている2人がまた、以前のようなレベルで勝負ができるようになったら素晴らしいですね。
 O村・寺田が花岡選手に話を聞いている間に、池田選手が結婚について記者たちに話していました。北京五輪中に結婚予定であることが記事が出て、その後もテレビなどで発言していたようなので、初出の情報ではありません。入籍の日取りや相手の名前など、具体的なことは明かさなかったようですが、明日のスポーツ紙に今日話した内容が載る可能性はあります。相手が誰なのかつかんでいる記者もいるようですが、一般人ということで、きちんとした形で公表されない限り名前は出せないのだそうです。

 順番は正確に覚えていませんが。成年男子110 mH優勝の田野中輔選手にはインタビュールームで取材。大橋祐二選手との接戦を制しました。この2人も、名勝負と言うにはもう少しのレベルアップが必要です(面識のある選手には厳しい寺田)。2人が13秒4台で競り合えば日本初になりますから、その辺を期待しています。
 田野中選手はスーパー陸上の日に30歳になったそうです。野口選手、為末選手、杉森選手といった日本記録保持者3人と同じ世代。何か新しいことに取り組んでいますか? という質問に「方向性は合っていると思う。感じよく前半は突っ込めています」と言います。来季以降もまだまだ、頑張りそうです。

 成年男子砲丸投に優勝した大橋忠司選手は17m86の自己新。ミックスドゾーンで取材しました。畑瀬聡選手、村川洋平選手という18mプッター2人が最近不調ということもあり、シーズン後半は日本選手間で負け知らず。7月に17m84、9月に17m85、そして今大会で17m86。自己記録を1cm刻みで更新する“離れ業”を演じています。
「イヤになりますよ。ブブカじゃないんだから。自己新が出ることは嬉しいですが、一発でボーンと18mを出したいです」
 トワイライト・ゲームスのときの記事で紹介したように、18mを出せば技術も1つ上のレベルに達することになり、さらに記録を伸ばせるのではないかと大橋選手は考えています。群馬リレーカーニバルにも出るようなので、注目しています。
 記録もそうですが、あの身長で、すごい速さで砲丸を弾き出すのは見ていて気持ちが良いです。注目されてほしい選手の1人です。

 福島千里選手には、北海道の記者たちがミックスドゾーンで取材をしていたので、隣で話を聞かせていただきました。今年の北海道の4×100 mRは少年がやや弱いのか、準決勝で落ちてしまいました。「1年の締めと考えていたので残念ですが、少年の選手たちが色々なことを感じてくれたら、今回のリレーは成功だと思います」。このコメントもそうでしたが、少年選手たちに接している様子を見ると、大人になったなという印象です。単に、こちらが気づいていなかっただけかもしれませんが。
「良い意味で激動の1年でした。この1年を超えられるように、年を追うごとに冷静に、落ち着いてできるようになりたいです」
 朝原選手の引退に際しても、同じニュアンスのコメントが聞かれました。記事にはできるほどの裏付けはありませんが、本当に成長した1年だったと思います。記録よりもメンタル面の成長の方が、今後には大きな意味を持つかも。記録を出すことで、そのための経験ができたとも言えるわけですが。

 男子の4×100 mRでは小島茂之選手が千葉のアンカーで激走。と正面から見ていて思ったのですが、ミックスドゾーンで本人に話を聞くと、バトンをもらったときにもう、かなりリードしていたようです。アキレス腱の状態が良くならず、日本選手権以来のレースだそうです。準決勝2組は4走に、北海道の高平慎士選手、栃木の斉藤仁志選手と北京五輪代表も出ていました。「3人並んでヨーイドンだったらきつかったですね」
 新潟ビッグ陸上フェスタ、田島記念と出場予定ですが、「ケガなく終わって上手く冬期に入りたい」と言います。あえて、引退した奥さん(小島初佳選手)のメッセージには触れませんでしたが、来年に向けてやる気十分と見ました。

 4×100 mR準決勝後には、100 mHでジュニア日本記録を出した寺田明日香選手に話を聞くことができました。この辺は陸連がしっかりと誘導してくれています。記事はこちらに。シーズン序盤に記録が出なかったのは、高校時代のようにレース本数をこなせなかったことが原因だったと自己分析しています。経験を重ねることで、シーズン序盤でも出力が大きくなっていくのが普通です。
 今日の取材の最後は少年の男子走幅跳。インターハイに続いて優勝した皆川澄人選手の話を、これまた北海道記者たちの後ろで聞いていました。

 走幅跳は第4コーナー近くの砂場で行われましたが、3回目くらいまでは目の前のスタンドで見ていました。インターハイのときの記事で触れた助走スピードですが、皆川選手がやはり速いと思いました。5回目まで大混戦だったインターハイと違い、今回は2位に32cm差の圧勝でしたから、スピードの違いが大きかったのは当然です。
 昨年の佐賀インターハイで7m75を跳んだときは追い風1.7m。今日の7m70は向かい風0.4m。内容的には今回の方が評価できるのは明らかです。皆川選手も去年のインターハイや、今年の北海道高校で跳んだ7m73よりも良かった点を記者たちに話していました。「追い風だったら7m90を跳べる」と。
 国体取材の記者は、陸上競技に詳しい人もいれば、そうでない人もいます。田村優宝選手が尊敬する選手としてベケレ選手の名前を挙げたとき、残念ながらベケレ選手を知っていた記者はほとんどいませんでした。皆川選手は自身の可能性や願望について話していたのですが、風による記録の価値の違いがわかれば、記事の大きさも違ってきます。

 記録の価値という部分は本来、選手よりも指導者やスタッフが地方紙記者たちに説明する方が良いに決まっています。そういう意味でも、サブトラ取材ができないのはマイナスだと思います。
 サブトラ取材の禁止は陸連の判断ということだったので、賛同してくれる複数の記者の意見として陸連に伝えておきました。思ったよりも反響が多かった話題ですので、連絡をいただいた記者の方には経緯をお知らせします。

 今日で国体取材は終了。明日の最終日は現地に行くことはできません。
 国体の記事や最近の日記に対して、メールで情報をいただいたので紹介させていただきます。
 まずは、一昨日の日記で紹介した女子800 mの記録について。佐々木麗奈選手の記録だけが、自己何番目かわかりませんでしたが、野口純正氏が「自己7番目」と教えてくれました。このくらい高いレベルだと、野口氏は一発でわかるのです。ちなみに、2分5秒台は9回とのこと。2分05秒00の自己新を出したのは大学3年時の2000年。花岡選手同様、練習や競技へのスタンスは若い頃とは変わっていると思いますが、ここまでたくさん2分5秒台を出したら…。

 青森県の方からは田村優宝選手の29分01秒66が、高校生だけのレースで出た最高記録ではないか、というご指摘をいただきました。
 高校生だけのレースで記録を出せそうなのは国体くらい。その国体で1万mが行われたのは、渡辺康幸選手(現早大監督)と尾方剛選手(現中国電力)が競り合った91年が最後。パフォーマンスリストが手元にないので絶対とは言い切れませんが、田村選手より上の記録は日体大競技会、中大競技会が多く、たぶん、そうだと思われます。どなたか、わかる方がいらしたらメールをください。

 国体取材最後の夕食は別府のファミレスで。期間中2回目です。席もそこまで混んでいなかったので、ちょっと長居して原稿も。コーヒーのお代わりをウエイトレスが持ってきてくれたときは、座りながらですが背筋を伸ばして一礼していました。これは大分バージョン。成迫健児選手をイメージしてやりました。


◆2008年10月7日(火)
 チャレンジ!おおいた国体最終日ですが、ホテルを延長使用して13時まで原稿書き。国体最終日恒例のサブトラ巡りができないから、現地に行かなかったわけではありません。純粋に締め切りが迫っていて(過ぎていて?)どうしようもなかったのです。

 チェックアウト後、大分最後の食事くらい土地のものを食べようと思い、ホテルから別府駅の間をうろうろしましたが、これという店を見つけられません。結局、泊まったホテルの通りをはさんで向かいにあるビルの7階にある百膳の夢という店に。これが、複合ビル(百貨店かも)に入っている店とは思えないくらいの本格派。湯布院こだわり豆腐料理膳が、なかなか美味でした。
 しかし、食べ終えた後に「めじろん膳」という国体特別メニューがあることに気づきました。大分特産の鶏肉や豚肉を中心に、野菜もそこそこ盛り合わせて、ボリュームもあってバランスも良い。スポーツ選手向けのメニューです。事前に気づけば記念に食べていたでしょう。ちょっと量が多すぎたかもしれませんが。

 食後は、同じビルの1階にあるスタバで原稿書き。
 16時頃にスタバの前のバス停(別府北浜)から空港行きのバスに。さすがにバス車内ではパソコンに向かえません。読書の時間に充てるつもりでしたが、同じバスに某大学某コーチがいらして、色々と話を聞かせていただくことができました。1つ2つ紹介できるネタもあったような気がしますが、すみません、ちょっと思い出せません。
 空港では原稿書き。と思ったのですが、なかなか進みません。国体の後ということで、知った顔がたくさん通るのです。栃木県チーム、埼玉県チーム、2年後に国体開催の千葉県視察団などなど。大橋忠司選手も通りましたし、大橋祐二選手も向こうのベンチに座っています。

 ところで、何とはなしに独り言を言いたくなることってありますよね。それも、何の意味も脈略もないことを。このときの寺田もそうでした。
「栃木県歴代ナンバーワン・スプリンター!」
 と少し大きな声で独り言を言うと、近くを通った人物が振り向いてこちらに来ます。栗原浩司先生でした。
 詳しいことは書きません…が、ソウル五輪100 m代表で、4×100 mRでは日本初の38秒台をマークしました。大阪で60mの室内日本記録を出しました。日本インカレの100 mを1年生で制しました。100 mタイプですが、インターハイは200 mで2位でした。
 ここ数年教育委員会方面に勤務されていていましたが、今年から現場指導に復帰したそうです。国体の点数に対する姿勢も色々とあるのだと知りました。

 栗原先生と話していると、珍しく寺田の携帯が鳴りました。早大競走部OBのYディレクターです。国体のサブトラ取材禁止に反対だということと、実業団駅伝関連の話でした。
 機内では千葉県の某先生が通路を挟んで隣の席。千葉県ネタ、県陸協事情など、ここでも面白い話を聞かせていただきました。
 羽田空港の荷物ピックアップ場では某男子選手と、“大分は美人が多い”ということで意見が一致。この件に関しては今のところ賛同者3、非賛同者1です。


◆2008年10月8日(水)
 国内某所に日帰り出張。某大物選手に2時間のインタビュー取材をしました。
 いつものスポーツ報道とは違って、不特定多数の人間を対象にしている媒体に載る文章です。世間一般の人間にも「そこは興味がある」と思ってもらう書き方をしないといけません。つまり、いつもとはちょっと違うテーストが求められる仕事ということです。

寺田「今回はマニアックにならないような書き方をするから」
 そのつもりで取材に答えて欲しい、ということですね。しかし…。
某選手「寺田さんがそんな書き方ができるのですか?」
 そのくらいでひるむ寺田ではありません。というか、相手を不安にさせたら取材者として失格。
寺田「マニアックなのは世を忍ぶ仮の姿だから」
 クラーク・ケントみたいなものですね。ケネス・マランツではありません。
 同行した編集者がスケジュールについて説明。
某選手「寺田さん大丈夫ですか。他にも原稿があるんじゃないですか?」
 こう紹介すると、いかにも信用がないライターという感じですが、必ずしもそうではないのではないか、と思っているのですが、どうなのでしょう? そこそこ長い付き合いなので、あうんの呼吸だったと自分では思っているのですが。


◆2008年10月9日(木)
 都内某社で打ち合わせ。続いて編集者ともカフェで打ち合わせ。
 今月中に書籍の原稿を7割方仕上げないといけないことになりました。以前から取材は進めていたのですが、来週中に4人ほど取材をして、10月後半の2週間で200〜300ページ分を書くスケジュールです。クラーク・ケントのままではできないでしょう。


◆2008年10月10日(金)
 陸マガ11月号の配本日。配本は発売日の2日前が普通ですが、取り次ぎが土曜日を休むことが増えています。13日の月曜日が祝日ということで、今月は4日前の今日になっていました。
 表紙はスーパー陸上の朝原宣治選手。巻頭カラーも朝原選手の引退特集です。スーパー陸上のときのコメントを編集部が2ページでまとめ、競技歴を寺田が4ページで紹介し、最後に早狩実紀選手が「贈る言葉」(送る言葉?)を1ページ書いています。

 寺田の書いた記事がおこがましくも一番長いのですが、これはザックリとですが、朝原選手の競技人生を高校時代から一通り記述しているからです。しかし、単に年代記にしても面白くありません。話に芯を通す意味でも、技術やトレーニング法をテーマにしました。本当は“愛”とかにしたかったのですが、以前の取材ノートや記事を読み込んでいくうちに、技術でも行ける手応えを得たのです。
 といっても、いつもと比べて書き手の判断が相当に入るので、原稿は朝原選手に見てもらっています。修正点が1個所も入らなかったのは、正直嬉しかったのですが、朝原選手のキャラも影響していたかもしれません。

 しかし、なんといっても引退特集を締めているのが早狩選手のメッセージ。まずは最初の方に、朝原選手を知っている人間が読むと絶対にウケルだろうな、という一節が出てきます。引用させていただきます。
「朝原くんの印象は、ひょうひょうとしていて、何も考えていなさそう。というか、物事に無頓着な感じ。私が思うに、一応は考えるけど途中からどうでもよくなっている。自分が感じてヒットしたことは細かく考えるけど、まわりからはなんとなく適当にしているように見られてしまう。それを人に説明するのも面倒で、まぁええんちゃう、などと言動がアバウト・・・同類の匂いがするな」
 だから寺田の原稿にも注文が付かなかったのですね。救われました。
 寺田が技術を隠しテーマに淡々と書いているのに対し、早狩選手の言葉は読者の涙腺を刺激する内容です。「贈る言葉」の最後の方はもう、ジーンとくる文章の連続です。ここまで感動的な内容で攻めてくるとは思いませんでした。真面目で、泣けて、それでいて温かみがある文章です。

 早狩選手が分析している朝原選手のキャラも、早狩選手の肩に力の入らない生き方も、個人的にはうらやましく思っています。見習えたらどんなにいいことか。でも、真似できないからうらやましいと思うのでしょう。2人のような、ほんわかした関西弁を話せるようにもなりたいですね。これも見果てぬ夢か、な。


◆2008年10月11日(土)
 今週末の陸上界はイベントや大会がいくつもあって、陸上記者たちも日本各地に分散しての取材になります。
 何人かの記者は今日、佐渡島に行っています。野口みずき選手がサンモリッツから帰国後初めて、公の場に姿を現します。そのうち何人かは、13日の新潟ビッグ陸上フェスタの取材に行くはず。明日は群馬リレーカーニバル、明後日が新潟というパターンもありそう。
 明日は東京の丸の内と大阪の御堂筋で、昨年為末選手が行なったようなストリート陸上があり、そこから13日の出雲全日本大学選抜駅伝に行く記者もいるようです。
 北京五輪後にデスクに出世した記者は、社内で“受け”です(現場が好きな記者にはつらいことのようです)。
 寺田は明日が群馬リレーカーニバルで明後日が中部実業団選手権(岐阜県多治見)。前橋からの移動は東京に出て、名古屋まで新幹線を使って行くのが早いのですが、料金だったら長野まで新幹線で出て、中央線の特急で多治見まで行くのが5000円くらい安いのです。これは、ちょっとした盲点でした。

 海外でも、明日はシカゴ・マラソンと世界ハーフマラソン選手権(ブラジル)が行われます。日本から行く陸上記者がいるとは聞いていませんが、“成田取材の鬼”と言われる日刊スポーツ・佐々木記者が、世界ハーフマラソン選手団の出発を成田空港で取材しています(赤羽有紀子選手の記事と、木原真佐人選手の記事)。単独取材だったといいます。渋井陽子選手の合宿出発時は、朝日新聞と2社だけだったとか。東京国際女子マラソンの主催系列ですね。
 昨年の世界ハーフマラソン帰国取材(佐藤敦之選手と大崎千聖選手)が寺田1人だけだったことを言うと、「オレが陸上担当だったら行っていた」と悔しさをにじませていました。

 夜はある夫妻プラス1名と会食。楽しい一時でした。


◆2008年10月12日(日)
 早起きをして湘南快速新宿線と吾妻線を乗り継いで前橋に(降りた駅は新前橋)。群馬リレーカーニバルの取材です。スタンドが閑散としていることが問題視されている大会ですが、記録はまずまず良かったと思います。
 トップページでも紹介しましたが、女子三段跳の吉田文代選手が13m41の今季日本最高。13m50を2度跳んでいるので自己3番目ですが、10月に出た記録としては日本最高ではないかな、と思って集計号を見たら、花岡麻帆選手の14m04の日本記録が10月1日でした。1999年の日本選手権です。花岡選手は翌2000年も10月の日本選手権で13m50を出しています。
 最近、10月のトラック&フィールドは記録が出ない雰囲気がありますけど、以前は違いました。日本選手権という大きな大会があれば、今も出るのでしょうか。それよりも、北京五輪以降何度か書いているように、勢いのある選手が少ないことの方が問題点のような気がします。夏のオリンピック、世界選手権に出場した“主力”に秋の好記録を期待するのは酷ですが、それ以外の選手は秋に試合があるのはチャンスのはず。今の日本は、それを生かせていないような気がしています。

 話が群馬から逸れましたが、13m41が好記録であることに変わりはありません。9月からは成田空港勤務の吉田選手。教員だった西内誠子選手の13m40を上回りましたから、フルタイム勤務の日本最高です。
 吉田選手は中大卒業後、(フルタイムに近い勤務の)ニシスポーツ、秋田ゼロックスを経て、今年の4〜8月は貯金を切り崩す生活をしました。競技環境の面では苦労をしてきた選手です。会見時にその点で何か思うところはないか、という質問が出て、経験者ならではの重みのある言葉を聞くことができました。できれば、記事として紹介したい言葉なのですが…。
 最後に「こんなことを話すようになるなんて、私もトシをとりましたね」と、照れ隠しで言っていましたけど、本当に“力のある”言葉でした。それに、27歳は微妙な年齢なのかもしれませんが、まだまだ若いと思いますし…。

 吉田選手以外では、女子走高跳の福本幸選手が今季日本最高タイの1m86。七種競技の中田有紀選手も5715点の今季日本最高。かと思ったら、追い風参考記録でした。昨日の200 mが追い風6.1m。以前は追い風4.1m以上が1種目でもあったら全体の記録が参考記録になりましたが、数年前にルールが変更されていました。
 100 mHが追い風2.2m。今日の走幅跳が向かい風2.3mなら3種目の平均が2.0m以下となって公認になったのです。このルール変更が適用される機会が近年はなく、今回、中田選手に教えてもらうまで知りませんでした。その後、尾縣貢先生と話しているときに、そういえば記事で見たような気がしてきましたが…。
 男子800 mの横田真人選手と、男子砲丸投の村川洋平選手が今季セカンド記録。

 村川選手、斉藤仁志選手、横田選手、久保倉里美選手、福本選手、中田選手も、会見で色々と話を聞かせていただきました。種目数が適度に少ないおかげで、競技を見ることとコメント取材が両立しやすかったです。インタビュールームはトラックに面していましたし、福本選手のときなど、女子400 mHが終わるまで待ってもらうことができました。群馬陸協の報道対応はきっちりしていましたが、柔軟に対応してくれたので助かりました。
 スタンドは閑散としていました(写真)が、スタンド下のインタビュールームは盛り上がったと思います(記者の数は5人くらいと少なかったのですが)。

 普通で言うところの好記録には含まれませんが、楊井佑輝緒選手が予選で21秒05。もしや、と思って年次ベストと今季リストを調べると、自己新であることがわかりました。決勝は斉藤選手に次いで2位に。
 楊井選手はスプリンターの宝庫、兵庫県出身。今年更新されてしまいましたが、100 mで10秒68の中学タイ記録を2001年に出しました。全日中の100 mは3位でしたが200 mで優勝。国体少年Bでも200 mで佐分慎弥選手(日体大)と同着優勝。しかし、その後はインターハイで3年時に6位になっていますが、下の年次ベストからわかるように、ずっと低迷していました。

2000 11.31 22.95
2001 10.68 22.95
2002 10.80 21.52
2003 10.62 21.65
2004 10.58 21.70
2005 10.68  
2006 10.98  
2007   21.45
2008 10.52 21.05

「高校2年時からコーチがいなくなったこともあって狂い始めて、ケガ、ケガと続いていました。高2、高3とほとんど練習はしていません。3年時のインターハイ路線だけ無理矢理合わせました。一番苦しかったのは大学2年の頃です。シーズンベストが10秒98でしたから。腰が落ちてヒザ下を振り出す動きが原因でした。それを冬期から変えようとしましたがまたケガをして、やり始めたのは2月から。それまでは動きづくりをやっても上手く変えられませんでしたが、今季は2月から始めたことが良い形で表れました」

 今年は8月末の日体大記録会で21秒32、9月の日本インカレ予選で21秒29と自己記録を更新しています。個人種目は群馬リレーカーニバルが学生最後の大会だと言います。卒業後は不動産関連の会社に就職することが決まっているとのこと。卒業後も試合に出る可能性がないとは言い切れませんが、個人種目最後の試合で自己新記録を出したということになりそうです。
 朝原宣治選手のように36歳まであのレベルを維持する例もあれば、楊井選手のようなケースもある。競技人生は本当に人それぞれです。
「個人がダメでしたから、リレーに懸けるしかなかった。後輩に助けられてきました」。
 楊井選手にはまだ、日本選手権リレーが残っています。

 楊井選手には表彰を待つ間に話を聞いたのですが、隣には北京五輪代表の斉藤仁志選手。斉藤選手は3年生ですが、一浪していますから同い年。一緒の写真もいいかな、と思って撮らせてもらったのがこれです。左から斉藤選手、楊井選手、3位の小川恭輔選手。小川選手も同い年ということで、斉藤選手が一緒にと声を掛けました。小川選手のことは知らなかったので、後で読売新聞・新宮記者が取材しているところに加わらせてもらい、少し話を聞かせてもらいました。
 あの大阪高で金丸祐三選手の1学年先輩。三段跳でインターハイ3位で、昨年の関西インカレでは15m76まで記録を伸ばしました。しかし、左膝を痛めて昨秋から本格的に200 mに転向。今年の日本インカレは5位に入賞しています。ベスト記録は21秒20で、100 mも10秒46を出しているといいますから、三段跳選手にしては相当に速い数字です(走幅跳は7m29)。
 165cmという身長は、ジャンパーとしてもスプリンターとしても小柄。良い動きをするのではないかと思います。大阪高仕込みなのか、小川選手自身のセンスなのか。
 今日は予選で21秒16w。「20秒台を出したかった」と悔しがりますが、来年も学生として競技を続けるようなので、いくらでもチャンスはあるでしょう。
 上位3選手が面白いトリオだと思ったので、紹介させていただきました。

 今日は十種競技の進行が遅れに遅れました。垂直ジャンプ種目は、選手が頑張るほど進行が遅れますから仕方ありません。予定では最後まで見られるはずでしたが、多治見に今日中に着くには新前橋発18:12の電車に乗らなければいけません。タクシーを17:30に呼んでおき、ぎりぎりまで粘ったのですが、最終種目の1500mの途中(17:40頃)で敷島競技場を後にせざるを得ませんでした(観客たちにトラックへ降りてもらっていました=写真)。それで、トップページの記録の紹介がやり投終了時点のものになったのです。
 高崎駅では吉田恵美可選手に会いました。明日の新潟ビッグ陸上フェスタのやり投にも出場するのです。書く順番が逆転してしまいましたが、今日は七種競技への出場。4790点で9位でした。
「やり投で今以上に行くには、色んなことができないとダメ」という考えで、日本選手権後に取り組み始めたそうです。7月の兵庫県選手権に続いて2度目の七種出場で、「砲丸投以外は全部自己ベスト」だったと言います。やり投は51m54ですから、“七種競技中の”という意味だと思われます。
「この春から助走スピードが上がっているのに、それに耐えられる身体能力がないんです。走高跳も走幅跳も接地時間が長かったらダメですし、やり投と同じように上体が早く突っ込んだらダメな種目も多いんです。今日の砲丸投もそうで、上体が早く行って押せませんでした」
 5500点くらいを出せるようになれば、やり投でも効果が出ると考えているようです。実現すれば2回連続出場となる来年の世界選手権に間に合うかどうか。注目していきたい選手です。
 コメントを聞いたのは競技場ですのでお間違えなく。移動中の駅では、よほど状況が揃わない限りは取材しません。

 高崎から長野まで長野新幹線、長野から多治見まで特急しなので移動。長野の次の駅が篠ノ井で、「ここが篠ノ井か」とプチ感動しました。インターハイ中距離2冠の中村恵一郎選手(現信濃毎日新聞記者)が篠ノ井高でしたから。真っ暗で何かが見えたわけではありませんが。
 途中、出口先生からメールをいただきました。10月6日の日記で、田村優宝選手の記録が高校生だけのレースで出た最高記録ではないか、というメールが青森の方から来た、ということを書きました。出口先生から間違いないというお墨付きをいただきました。
 佐々木麗奈選手の記録が自己何番目かを教えてくれた野口純正氏といい、兵庫県の陸上関係者の知識はすごいですね。知識=情熱でしょうか。そういえば神戸新聞・大原記者(“国体サブトラ取材禁止”反対の急先鋒)がちょっと前に、佐治由佳さんが持つ女子走幅跳の兵庫県中学記録が破られた、とメールをくれました。一部陸上関係者にとって衝撃的なことでした。
 多治見には22時頃に到着。イメージしていたより、はるかに近かったです。東濃地区(岐阜県東部。ホテルの名前はトーノーでした)が交通の要衝だったというのが実感できました。長野や北陸、名古屋や京都を結ぶ地区です。この地域が日本の首都になれば、北信越地区も活性化するだろうし、名古屋や関西にも近くて良いのではないか、などと考えました。

◆2008年10月13日(月)
 多治見で中部実業団個人選手権を取材。
 会場に着いて一番に感じたのが、スタンドの雰囲気が昨日とはまったく違うことです。ひと言でいえば熱気があります。ホームストレート側のスタンドはこんな感じ。ホームストレート側以外は芝生席ですが、そこもかなりの人数で埋まっています。地元の中高校生がメインですが、家族もかなり駆けつけていたように思います。午後になるとブラスバンドも登場。
 トップ選手としては村上幸史、池田久美子、マーティン・マサシというスズキの五輪選手が出場。スズキでは村川洋平選手(写真)が昨日の群馬リレーカーニバルに続いて連日出場をしていました。サンメッセの太田和憲選手と岩船陽一選手も、地元競技会を盛り上げます。
 それでも、トップ選手数はごく僅か。日本GPの群馬リレーカーニバルとは格が違います。にもかかわらず、会場の盛り上がり方は中部実業団選手権の方が格段に上でした。

 この大会は多治見フェスティバルが併催されて、地元選手がトップ選手と一緒にレースを走ったり、一緒にピットに立てます。トップ選手との距離が近いんですね。
 砲丸投と円盤投が同時に行われていて、3種目に出場した村川選手や村上選手は、両方のサークルを行き来しています。砲丸投の撮影中に「19m○○!」という記録を読み上げる審判の声がしたのでビックリしたら、隣で行われている女子円盤投の記録でした。そのレベルの選手が積極的に試合に出場しているのも、競技の普及ということでは良いことでは?(ペグ計測方式なので、失敗試技の記録ではないと思います)
 女子走幅跳はこの写真のようなレベルです。池田選手の記録が突出していますし、5mジャンパーも数えるほど。選手たちも記録を狙うというよりも、精神的にリフレッシュするのが狙い。池田選手は昨年来の不調を反省する意味で、スーパー陸上以降の連戦は、リラックスすることに主眼を置いています。
 村上選手が良いことを言っていました。
「この年齢まで来ると身体が変わるのは仕方がないが、気持ちは変えずに行きたい。そういう点で、このような大会に出られるのは良いこと」
 そういう大会を、実業団選手権と銘打って行う中部実業団連盟と岐阜県の協力体制も、評価されてしかるべきでしょう。

 岐阜と言えば日下部光先生と海鋒佳輝先生の、筑波大跳躍OBコンビが欠かせません。日下部先生はインターハイ七種競技3位の桐山智衣選手のことを「見ていてくださいよ」とプッシュしていました。師弟の会話を聞いていても、良い雰囲気なのがわかります(抽象的な表現で申し訳ありません)。
 寺田が東濃地区を日本の首都にするのも良いのでは? と言うと、首都移転の話が出ていた頃には実際、候補地として名乗り出ていたそうです。
 海鋒先生はおおいた国体でハンマー投選手として名を馳せましたが(ベンチ脇で行っていた空ターンが印象的でした)、今日は本職の走高跳の審判員。旗の挙げ方が、以前とちょっと変わっていました。と、いつも冗談モードで紹介させてもらっていますが、全競技終了後に生徒たちを前に話をしている様子は、日本の陸上界を支える地方の先生の姿そのもの。良いシーンを見させてもらったと思います。

 取材に来ていたペン記者は中日スポーツと中日新聞、それに寺田くらい。
 池田選手の結果を携帯電話にアドレスが登録してある記者たちに送信すると、その返信で各記者の居所がわかります。毎日新聞・ISHIRO記者と共同通信・宮田記者、朝日新聞・小田記者は新潟ビッグ陸上フェスタ。絹川愛選手がジュニア日本新を出した情報を教えてもらいました。読売新聞・大野記者と日刊スポーツ・佐々木記者は出雲。中日スポーツ・寺西記者は女子レスリングの世界選手権でした。それで、別の記者の方が多治見に来ていたのです。
 デスクになった朝日新聞・堀川記者は、会社で出雲駅伝観戦中とのこと。群馬リレーカーニバルにも、中部実業団選手権にも来られませんでした。現場に出られなくなった記者が精神的に落ち込んでしまうというのはよく聞く話ですが、堀川記者のことだから大丈夫でしょう。たぶん。


◆2008年10月14日(火)
 朝10時前に陸マガ高橋編集長から電話。ラジオ局(FM東京)が学生駅伝についてコメントしてくれる人間を探していますがどうですか、という問い合わせです。実は以前にも出たことがある番組で、先週末に直接依頼があったのですが、立て込んでいるので断っていました。出るのであれば、それなりに下準備をする必要もありますし。
 しかし、昨日の出雲駅伝はそれなりに成績や選手をチェックしました。今週末に全日本大学駅伝展望記事の締め切りもあり、取り上げる選手を昨晩中に提出しないといけなかったのです。それで、電話出演を受けることに。
 10:30から収録。3分の尺ですが、なんだかんだで30分は話したと思います。ディレクターが「長くて良いですから」と言ってくれるもので。編集作業は大変だろうな、と話した本人が感じていました。これで二度と出演依頼は来ないでしょう。

 午後は都内某所で取材。放送メディア関係者で、話すのが専門の方たち(2名です)。午前中のラジオ出演のことを話すと「どう編集されてもいいように、最初に結論を言うこと」だと、コツを教えてもらいました。なるほど。そうかもしれません。
 でも、それが難しいんですよね。最初に結論を言うと誤解されそうで、それで、これこれこういう理由(背景)があって、それでこうなんです。という話し方になってしまいます。良く言えば親切だから。相手が理解しやすいように、面白く感じられるように、という部分を意識しすぎてしまうわけです。
 選手では内藤真人選手がまさにそういうタイプ。自分の感想を話す前に、そのレースの背景を語ってしまったり、他の選手の状態を話してしまったりして、それで話が長くなります。
 周りから注意をされて、最近は短くなったと聞きますが、基本的には寺田と同じだと思います。そういえば、いじられキャラという点も同じですね。寺田の場合は10年前の話ですけど。

 今日は陸マガ11月号発売日。
 何度か紹介してきているように、寺田が担当したのは朝原宣治選手の引退記事です。高橋編集長のただのインタビュー記事よりも、競技人生全体を振り返られるようなものを、という意向で今回のような記事になりました。
 書き込む時代が長いため、どうしても1つ1つのエピは短く、淡々と書かざるを得ません。それでも、これだけの分量(400行)になり、テーマも一貫させているので、自分ではまずまず上手く書けたのではないか、と思っています。
 実はここだけの話ですが、締めの部分だけは引退記事らしくしようと思って、ちょっと違う雰囲気にしました。しかし、そこまでの文章あまりにも変えすぎているから、という判断で変更しました。以下がお蔵入りになった部分です。

「朝原は陸上に執着していない」
「すぐにでもやめるのではないか」
 そういう類の声が、選手や関係者の間で出た時期もあったと聞く。大らかな(大雑把な?)性格や、闘志を表に出さない振る舞いが、周囲にそう感じさせたのだろう。
 だが、その朝原がこそが、最も熱いものを気持ちの奥底に持っていたわけである。
 07年の大阪世界選手権で、朝原は1次・2次予選と10秒1台を揃え、準決勝まで進んだ。準決勝後のテレビ・インタビューでは初めて声を詰まらせ、涙を見せた。地元の大観衆が、自分の走りに期待しているのが痛いほどわかった。応えることはできなかったが、そういう状況で走れたことが最高の幸せに感じられた。
 振り返ってみると、「専門種目は100 m」とは、なかなか言わなかった。「9秒台が目標」とも、言い出さなかった。覚悟が決まったときにしか、自身の思いを言葉にしない。“これをやってやるぞ”という願望を、簡単には口にしなかった男である。
 そんな朝原が、大阪世界選手権の4×100 mR決勝の前に「僕にメダルをください」と言った。それができるチームだという手応えがあったればこそ口にした。日本の短距離界にとっても、大きな意味があることを痛いほどわかっていた。
 その願いは、北京五輪で実現し、朝原は再び涙を流した。感情を表に出さない男が、二夏続け、人目を気にせず泣いた。一見クールな朝原が、実は熱い男であることは、全国民の知るところとなった。
 スーパー陸上の引退セレモニーでも、「自分では泣くとは思っていなかった」が、涙目の早狩とリレーメンバーたちに花束を渡されると、またも涙が頬を伝った。
「年をとって涙もろくなってしまいました」
 年齢のせいではない。やり遂げた気持ちが涙になった。



◆2008年10月15日(水)
 13時から赤坂のホテルでミズノの五輪報告会に出席。トラッククラブとスイムチーム合同ということで、このようなメンバーに。左から競泳の中野高選手と松田丈志選手、そして、MTC北京代表の4人です。
 会場のグランドプリンスホテル赤坂の「クリスタルパレス」は、陸上競技関係のイベントがときどき催されます。ありがたいな、といつも思うのは、光の具合がとても良くて、寺田のような素人カメラマンでも綺麗に撮れること。室内だと光が弱くてブレを気にしないといけないこともままありますが、そんな心配も無用です。
 内藤真人選手のアップもこんな感じでグッドです。昨日の日記でインタビュー時のコメントが長いと書いた同選手ですが、今日はMCの女性の問いかけに対し、しっかりと短めにまとめていました。昨日のラジオ出演(電話ですが)で3分尺に対して30分も話した寺田としては、ちょっと差をつけられたかな、という感想です。正直、悔しさもあります。
 成迫健児選手はいつもと違って眼鏡をかけて登場。この写真からはとても、トラックでハードルをなぎ倒していく荒々しさは感じられません(ここでいうなぎ倒すは、次々に越えていく、という意味です)。しかし、いったんトラックに立つと、為末大選手に闘争心をむき出しにして挑んでいく。眼鏡をとったらスーパーマンに変身するクラーク・ケントの雰囲気です。
 この写真は料理が趣味という話題になり、女性MCの「もてるでしょう?」という振りに対して照れまくっているときの様子です。このリアクションから導かれる結論は…。

 この写真はMTCの顔である室伏広治選手と末續慎吾選手。末續選手が小学校の頃に空手をやっていたという話になって、それが現在も役立っているという説明をしたときに、室伏選手のことを引き合いに出しました。
「短距離にも室伏さんのような(すごい体型の)選手がたくさんいる。そういった選手に囲まれたときに萎縮しないで背筋をピンとさせていることが大事」
 一方の室伏選手は練習について「365日違うと聞いていますが」と振られて、我が意を得たり、とばかりに答えていました。
「オーダーメイドという感覚でやっています。単調にならないように工夫をして。失敗も多いですけど、エラーがあるから成功がある」
 北京五輪のメダル確定が注目されていますが、そんなことはどうでも良い、という印象を来場者が持ってくれたらいいのですが。

 ミズノ報告会後は、近くの某社に移動して16時から取材。2時間半のロングインタビューになりましたが、これは寺田の話が長いせいではなく、K氏が面白い話をたくさんしてくれたからです。


◆2008年10月18日(土)
 箱根駅伝予選会の取材……には行きませんでした。今年は通過できる大学数が13に増えて面白くないと思って、実業団・学生対抗に行くことにしたわけではありません。どちらにも、行けませんでした。今週中にこなさないといけない仕事があって。予選会も実学も、ここ数年皆勤でした。どのくらい忙しいか、ご想像いただけると思います。

 予選会はかなり早いタイミングで、結果を知ることができました。
 城西大のトップ通過は予想された範囲ですが、“メジャー”ネームの日体大の4位、東海大の7位、順大の12位は予想外でした。全日本大学駅伝関東予選をトップ通過して、今年最も勢いがある明大の9位も意外でした。
 速報記事やテレビ中継で、佐藤悠基選手が痙攣を起こして失速したこともすぐわかりました。佐藤選手1人で3分は悪かったわけで、東海大のトータルタイムから3分をマイナスすると、3位には入れたわけです。しかし、それをいったら日体大も、故障明けの森賢大選手が2分は悪かったわけで、総合タイムから2分をマイナスすると、3分をマイナスした東海大を軽く上回ります。
 明大も28分ランナーのの石川卓哉選手と、日本学生ハーフ優勝の安田昌倫選手が出ていません。日本インカレ日本人トップの松本昴大選手も、終盤で痙攣ですか? 順大が主要選手に欠場や大きなマイナスがあったのかどうかまでチェックしていませんが、この手のことを言い出したらキリがないでしょう。“本当は○位くらいの力があるのに”と考えるのは、不毛なことのように感じますね。

 そんななかで上武大の3位(本戦初出場)は大健闘。花田勝彦監督が就任して5年目。専門誌の展望記事(予想記事ではない)をいくつか読みましたが、ここまでの上位通過はイメージできませんでした。
 箱根駅伝で強くなる要因は、指導者の力量が大きいのは当たり前ですが、強くなるための大学自体の条件とでも言えるものがあります。言い換えると、選手が集まりやすい大学です。近年の強豪大学は、
・強い大学(当たり前です)
・ブランド大学
・体育学部のある大学
・資金力のある大学
 これらのどれかに当てはまります。
 資金力についてはよくわかりませんが、上武大は間違いなく、選手が集まりにくい部類の大学です。同じ早大&エスビー食品出身、同じ五輪選手でも、本家の早大監督を継いだ渡辺康幸とは、スタート地点で天と地ほどの差があったわけです。
 さらにいえば、近年強化を始めた大学のほとんどは、かつての名門がテコ入れをするケースも含め、大学側が箱根駅伝強化を経営戦略に組み入れて行っています。言ってみればトップダウン式に強化が始まっています。その点、上武大は、事の始まりは花田監督が現役引退を表明したのをWEBサイトで見た選手(マネジャー?)が、花田監督にメールを出して指導を依頼したことです。最終的には経営者側の協力を得られたのですが、ボトムアップ式に始まったといえます。
 以上のようなところが好感を持てる点です。
 今回の10選手の学年構成を見ると、7番目までは1〜3年生ですが(3年生3人、2年生3人、1年生1人)、8〜10番目は4年生が占めています。花田監督が最初に勧誘した学年が今の4年生です。高校時代の実績が一番なかった学年だと推測できます(違っていたらメールください)。その学年が頑張って箱根初出場に地味なところで貢献した。上武大にとっては良いことずくめだった3位通過だと思います。

 上武大など“快走”といえる結果のチームもありましたが、予選会全体としては、個人もチームも“仕上げてきていないな”という印象です。トップ通過の城西大も、箱根駅伝1区区間賞の佐藤直樹選手ら、今年の箱根駅伝本戦を走った選手が何人かチーム10番目までに入っていません。順大・小野裕幸選手も含めて注目選手はほとんど、予選会には合わせていない感じです。
 これはもしかしたら、関東学連の望むところなのかもしれません。通過チーム数が増えれば、予選会に合わせる必要はまったくなくなります。予選会を頑張ると過密日程になって選手に負担がかかります。世間の注目度も若干は低くなれば、予選会を走ってスター扱いされることもなくなるでしょう。現場にとってはありがたいことばかりなのです。

 実業団・学生対抗は夜になって日本学連サイトに成績一覧が掲載されました。
 女子の走高跳で福本幸選手が1m88、100 mHで石野真美選手が13秒22と今季日本最高。個々の選手のシーズンベストも、これからはきっちり紹介したいと思います。
 男子100 mで後藤乃毅選手が10秒42。日本インカレのときの記録とタイで、高校時の自己記録に0.01秒届いていませんが、完全に復調したといえそうです。400 mHの吉田和晃選手が自身2度目の49秒台。日本インカレの一発に終わらなかったところが収穫です。
 棒高跳も荻田大樹選手が5m50、笹瀬弘樹選手が5m40と好記録。荻田選手は2度目の5m50台、笹瀬選手は何度目の5m40台でしょうか。
 女子100 m渡辺真弓選手の11秒7台、三段跳吉田文代選手の13m40w台など、秋シーズンはかなり安定しています。400 mHの田子雅選手も58秒10ですが、力がついているのが最近の成績でわかります。

 実業団・学生対抗の成績がネット上に出たのは夜遅くなってから(だと思います)。箱根駅伝予選会に比べて、“待たされた”と多くの陸上ファンが感じたはずです。世間の注目度の違いがそういうところに表れます。トラック&フィールドの関係者は、そういう状況を甘んじて受け容れているように見えます。要するに、マラソン・駅伝関係者よりも情熱が低い。


◆2008年10月19日(日)
 箱根駅伝予選会の記事が各紙の紙面をにぎわせるなか、醍醐直幸選手と飛田奈緒美選手(東京高コーチ)の結婚記事が日刊スポーツに載りました。箱根一色に染まりたくない、という佐々木記者の意思表明なのか、東海大の先輩である柔道・井上康生選手の挙式と同じ日の紙面に載せたいという意図が働いたのか、その辺はわかりません。
 しかし、“抜いた”のは紛れもない事実です。池田久美子選手が結婚予定であることは北京五輪期間中にサンスポが抜きましたが、相手が一般人ということで、名前などは出ませんでした。今回は相手も選手ということで、実名を出しています。というか、しっかりと2人を取材してコメントまで載せています。
 やられた、というのが正直な感想です。寺田も2人が入籍したことは、国体で東海大関係者から聞いて知っていました。群馬リレーカーニバルの女子三段跳に飛田選手が出るので、そこで了解を取れたらこのサイトで公表しようかと考えていました。前橋で飛田選手が欠場と聞いたときは、「会場には来ていないのですか?」と、吉田文代選手にも質問しています。まさか日刊スポーツに抜かれるとは思いませんでした。

 記事中に知り合ったのは99年とありますが、当時の醍醐選手は東海大1年。飛田選手の「初めて見たときから、高跳びへの情熱は素晴らしかった。だから、私も普通の彼女ではいけないと思った」というコメントが紹介されています。飛田選手は当時、東女体大の学生。日本のトップ選手でも、学生のトップ選手でもありませんでした。
 しかし、下の年次ベストの表が示しているように、2000年以降に記録を伸ばし、今では日本のトップ8に定着しています。東京高の跳躍選手も全国大会で入賞するようになっています。醍醐選手の活躍はケガなどもあって大学卒業後にずれ込みましたが、2人の関係が良いものであったことは戦績からも想像できます。
飛田選手の年次ベスト
走幅跳 三段跳
2007年 5.70 12.30
2006年 5.86 12.54
2006年 5.86 12.54
2005年 5.69 12.32
2004年   12.60
2003年   12.19
2002年    
2001年   11.36
2000年   11.56
1999年    
1998年   11.21
1997年    
1996年    
1995年   10.61

 2人のエピソードでいつか、紹介しようと思っていたものがあります。
 昨年まで醍醐選手の専任コーチだった福間先生の自宅に以前、無言電話が何度かかかってきたことがありました。無言電話の主は醍醐選手で、大学を卒業する間際の頃でした。
 大学で低迷した醍醐選手が実業団チームに入れず、アルバイト生活を3年間(03-05年)送ったのは皆さんご存じのことと思います。大学卒業後は、高校時代の海外遠征などで接する機会のあった福間先生の指導を受けたいと思っていました。
 しかし、当時の醍醐選手は何に対しても自信を持てない時期でした。福間先生は吉田孝久選手を育てた指導者です。「自分なんかがお願いして良いのか」という気持ちが働いたのでしょう。元々、それほど社交的なキャラではありません。それで何度か電話をかけるのですが、福間先生が出るとに受話器を置いてしまっていたのです。
 それを見かねた飛田選手が、「しっかりお願いしなさい」と励まして、最終的には福間先生と話すことができたようです。
 この話を聞いたのが2006年の春先でした。室内日本新を跳んだ直後で、醍醐選手にも「日本新を跳んだら紹介させてもらっていい?」とお願いして、了解はもらっていました。どうせ出すなら一般メディアの方が効果があるだろうと思ってタイミングをはかっていたら、醍醐選手がすぐに日本新を出してしまって…。
 紹介する際にはもちろん、改めて許可をもらうつもりでしたが、その時点で認めてくれたということは、近い将来結婚する意思を固めていたということだと思います。
 このようなサイトでは格好もつきませんが、オメデトウを言わせていただきたいと思います。

 今日は田島記念。例年開催されていた維新百年記念公園が改修中のためでしょうか。今年は下関開催でした。結果は山口陸協のサイトで確認できました。
 会場は変わっても石川和義選手とは相性の良い大会のようで、好記録とまでは言えないものの16m46で優勝しています(04年の田島記念で16m98の学生記録=日本歴代3位。もう1〜2回、そこそこの記録を跳んでいると思います)。2位の十亀慎也選手が16m36の自己新です。
 走幅跳の菅井洋平選手が7m90と自己タイ。日本選手権にも優勝していますし、追い風参考では8m13も跳んでいます。来季は8mに行きそうです。女子の桝見咲智子選手も6m50。シーズン途中にケガもあったと聞いていますが、日本選手権優勝など今季3回目の6m50台。こちらも来季が期待できそう。
 高橋萌木子選手の100 mは11秒62(+2.4)。国体の200 mに続く優勝。記録的には11秒5台を持っている選手なのですが、時期的なことと、参加選手が3人でテンションの上がりにくい試合ということを考慮すると、かなり良い状態だと思われます。
 110 mHの大橋祐二選手とやり投の村上幸史選手は、昨日の実業団・学生対抗と連日の出場。何かをつかめそうな感触があるのだと思います。


◆2008年10月20日(月)
 前回の超ロングコメント(3分尺に対して30分話しました)で、2度と来ないと思っていたラジオ(FM東京)からの出演依頼が来ました。今日は箱根駅伝予選会の結果について話してほしいということです。取材に行っていないので遠慮したいところですが、尺が1分半と短いこともあって受けることに。取材をしてどうだったというよりも、見方を提示すれば良いかなと思いまして。
 箱根駅伝が予選会までも社会的な注目を集めているということは、間違いなくありがたいことですが、それに選手・指導者が甘えてはいけない。お決まりの文句ですが、言うべきことはきっちり言いました。実際、予選会はそれほどレベルの高い大会ではありません。今年は特にそうでした。この辺は遠慮なく言いました。
 アクシデントが多いのでは? という問いかけには、佐藤悠基選手があのレベルの記録で痙攣したのは意外でも、それ以外の選手は不思議ではないと言ったと思います。実際、箱根駅伝では途中棄権がクローズアップされますが、トラックの長距離種目を見ていると、後ろの方でやめていく選手はいくらでもいます。
 駅伝になると状態が悪くてもやめられない、やめるときにカメラが近くにいる。それが棄権選手を目立たせているのです。これは言いませんでしたけど。
 オリンピックと一緒で、選手が練習を頑張りすぎる、テンションが高くなりすぎて事前の変調を感じ取りにくくなっている、という見方もできると思います。これも話しませんでした。

 1分半の尺に対して、話したのは10分くらい。前回が10倍だったのに対し、今日は6倍ちょっと。陸上界“コンパクトに話そうよ同盟”の仲間だった内藤真人選手に、差をつけられた寺田ですが(15日の日記参照)、ちょっとは詰めることに成功したと思います(他の仕事も立て込んでいるので、あまりサービスはできません)。
 実際にはおそらく、上武大に関するコメントがオンエアされると思います。今回の予選会ではストレートに評価していい数少ないネタでしたから。

 夕方、高平慎士選手に電話取材。いつも理路整然と面白い話をしてくれるので、取材する側としては非常に助かっています。明日の取材のとっかかりになりそうなネタも多々あって、今回ほど「助かった」と思ったことも珍しいと思います。
 このような場で恐縮ですが、感謝の意を表したいと思います。記事は次号陸マガに掲載されます。


◆2008年10月21日(火)
 13時からT大学でT選手を取材。今日もめちゃくちゃ面白い話を聞くことができました。指定の行数では収まらないくらいにたくさん、話してもらいました。
 いったん新宿の作業部屋に戻り、少し原稿を書いてから、最終の東海道新幹線で大阪入り。
 東北新幹線や長野新幹線はワゴンの車内販売でSUICA(電子マネー)が使えますが、東海道新幹線は「JR東海は使えません」とのこと。東海道もJR東日本管轄になればいいのになあ。ガンバレ藤原新!


◆2008年10月22日(水)
 8時から同行編集者と、ホテルの和食レストランで朝食&ミーティング
 これ、一度やってみたかったのです。宵っ張り&朝寝坊の生活を送っている人間で、しかも自営業者には縁遠いものなのです。

 今日の仕事は4回取材の2回目で、前回に続き2時間のロングインタビューです。大きな仕事です。プレッシャーはかかりますが、ここまで来たらなるようにしかならないと、良い意味で開き直ることができました。ですから、朝食兼ミーティングを楽しむ心の余裕もあったように思います。
 元々、小心者キャラの寺田は、取材前に予習をやりすぎる傾向があります。しかし、今日の取材対象者に関しては長年の蓄積があります。変に細かいところまで下調べや復習をせず、そのときの感性に任せようと思いました。
 いつも、こういう心境で取材に臨めるといいのですが。
 でも、これを書いていて思いだしたのですが、新幹線車内とホテルで昨晩、3時間は予習をしたような…。

 帰りは前回同様1人、新大阪駅に残って本サイトのメンテや急ぎのメール返信、原稿書きなど。のぞみは窓際の席にコンセント付きのN700車両を選んでいます。東京駅に着いてからも、同上という感じ。
 いつもの出張帰りと違っていたのは、そこから六本木に移動したこと。秘密結社“L”の会合に出席しました。場所は六本木の1つ裏通りに入った雑居ビルの2階にあるブリティッシュ・パブ。
 六本木とか、秘密結社とか、裏通りとか、めちゃくちゃいかがわしい響きがありますが、寺田はそういう人間ですから仕方ありません。何度も書きますが、聖人君子ではありませんし、“陸上界の正義”の番人でもない。ときどき、その辺を誤解したメールが来るので困りものです。


◆2008年10月23日(木)
 15時から約20分の電話取材。夜には、その原稿(約3000字)をほぼ書き上げました。○万円の仕事です。しかし、今月は“猫の手”状態。他の仕事もそこそここなしました。
 毎日、このくらいのペースで行けるといいのですが。


◆2008年10月24日(金)
 レッドクリフという映画が話題になっているそうです。製作費100億円のハリウッド製ですが、三国志の世界の映画化です。でも、レッドクリフはどう見ても洋画のタイトルです。
 と、不思議に思っていたのですが、今日、電車の中で広告を見ていたら、“赤壁の戦い”のことだったのですね。昔、三国志の漫画で読みました。帝国軍(曹操軍)80万という数字はかなり疑問ですけど。その規模の軍団の補給がその時代、可能だったとは思えません。北京で読んだ書物にその時代の人口が載っていました。絶対に無理ですね。

 まあ、そんなことはどうでもいいのですが、今日は14時から赤坂で取材。この仕事もいよいよ大詰めです。


◆2008年10月25日(土)
 日本選手権リレー2日目を取材。といっても、日産スタジアムに到着したのは15時と、男女4×100 mRが始まる直前でした。色々と立て込んでいるのです。が、今月のキャッチを「10月の日本一」とした以上、この取材は外せません(とか書いておいて、来年は来られなかったらどうしよう)。
 先に行われたのが男子。スタートリストを見て2レーン・城西大、3レーン・上武大となっているのを見て、思わず箱根駅伝予選会を思い出しました。4レーン以下は日体大、国士大、中大、早大、中京大、筑波大。8チーム中7つが関東の大学です。
 結果は、予想通り早大が快勝。38秒97の大会新でした。
 女子は2レーンから都留文科大、相洋高(神奈川)、ナチュリル、日体大、平成国際大、福島大、中大、中京女大。関東の大学は4つでした。
 ナチュリルが44秒75で優勝しました。こちらも準決勝で44秒70の大会新を出しています。

 取材はインタビュールームと表彰控え所の2個所でできるシステム。記者の数が少ないので可能になるのですが、情報をインプットするのにありがたい大会です。
 コメント取材をしたのはなぜか女子が先でした。ナチュリルの栗本佳世子選手と松田薫選手に話を聞いて、この記事が書けました。続いて男子の江里口匡史選手、楊井佑輝緒選手。
 そのあたりで女子が表彰から戻ってきたので、2位の平成国際大4走の高橋萌木子選手に手短に取材。田島記念でスタートが上手くいったと清田監督がブログに書かれていたので、少し詳しい話を聞きたいと思ったのです。1歩目の踏みだし方を変えているとのこと。詳しくは別の機会に紹介できればと思っています。

 続いて丹野麻美選手のところに。すでに4〜5人の記者たちが囲んで話を聞いていました。ここで寺田が大失態をやらかしました。
 話が一通り終わった感じになったところで、丹野選手のある変化を指摘したのです。競技とは関係のないところですが、もしかしたら競技にも結びつく話が引き出せるかもしれない、という期待はありました。
寺田「○○をし始めたのは何か理由があってのこと?」
丹野選手「以前からしていましたが…」
寺田「ええぇっ……」

 追い打ちをかけたのは、周囲の記者たちの反応の冷たさです。その場にいたのはK通信・M記者と専門誌記者たちだけでしたが、寺田が「知っていた?」という質問の意味を込めて見回すと、全員が「当たり前でしょう」という反応。確かに、今まで気づかなかったとなると、相当にまずいだろう、ということなのですが。
 それでもこういうとき、中日スポーツ・寺西記者がいれば「僕も初めて気づきました」と言ってくれるのですが…(7月31日の日記参照)。
 同記者は今月から相撲担当に配置換えになってしまいました。寂しくなります。日記ネタを提供してくれる記者が減ってしまったからではなく、陸上報道に熱心な記者がいなくなるからです。愛知県の先生方も同じ気持ちだと思われます。

 気を取り直して木村慎太郎選手、楊井選手、木原博選手と早大勢を取材。こちらの記事のネタを入手しました。100 m前中学記録保持者の楊井選手は、群馬リレーカーニバルの200 mで自己新を出した際、この日記で紹介させていただきました。話をするのは2度目でしたが群馬では独占取材だったこともあり、こちらのことを覚えていてくれました。
 卒業後は一般の不動産関連会社に就職します。今日の結果が満足行くものだったようで、本気で走るのは今大会が最後になるだろうといいます。
「今まで迷惑をかけてばかりいたので、38秒台の優勝で最低ラインの恩返しができたと思います。(中学記録は)良い意味でも悪い意味でも、自分には刺激になっていました。高校ではそういう目で見られましたが、それがないと『誰、オマエ』と相手にされなかった気もします。大学に入ってからは、そんなに意識することはなくなりましたね」

 楊井選手には某専門誌・O川編集者と一緒に話を聞いていたのですが、この2人はともに兵庫県出身。O川編集者は同選手が中学3年の頃からよく取材していたようです。足かけ8年取材してきた記者と、2週間前に初めて取材をした記者という組み合わせでした。取材終了後にO川編集者は楊井選手とがっちり握手。真横にいた寺田も握手した方がいいのかな、という雰囲気になりましたが、そこはグッと我慢しました。2週間の記者にそこまでする資格はありません。

 トラック・シーズン終盤の取材となると、“これで最後”という話がよく聞かれます。先日、休養とナチュリルを退社(11月末)を発表した佐藤美保選手も、今大会が公の場に姿を見せる最後ということで、ナチュリルが囲み取材をセッティングしてくれました(コメントも載せる予定です)。また走り始める可能性もあるということで、引退ではなく休養と言わせてもらっているとのことですが、ナチュリルとして競技会に姿を見せるのは最後になります。
 2分0秒台で室内も含めて3回も走りながら、日本人初の1分台に届いていない選手ですから、その点では運に恵まれなかった選手。何度も1分台に挑み、その都度、無念のコメントを聞いてきました。ただ、人との出会いということでは、運に恵まれていた選手だったと思っています。
 同選手の高校は埼玉県でしたが(出身は三重県伊勢市で、同学年の野口みずき選手とエドモントン世界選手権のときにその話をしたことがあるそうです)、当時インターハイで総合優勝を続けていた強豪の埼玉栄高ではなく、星野女高に進学し、そこで100 mから400 mに距離を伸ばしました。走幅跳に転向する話もあったといいますから、そこで跳躍に行っていたら、まったく違った競技人生になっていました。
 外見的には穏やかでしっかりもの。闘争心を表に出さないタイプで(800mの接触が当初は苦手にしていました)およそ選手らしくなく、東学大では「マネジャーのよう」と言われるほど(今でもそうですが)。そこで上下関係の厳しい大学に行っていたら、どうなっていたことでしょう。実業団1年目にエドモントン世界選手権に4×400 mRで出場していますが、これは大学時代のトレーニングの流れだったと言っていいでしょう。

 実業団は京セラ。そこでは、埼玉栄高の監督だった大森国男監督の指導を受けることになり中距離に転向。1分台を目指せるところまで力をつけ、アテネ五輪に女子800mでは40年ぶりに出場しました。
 そして、京セラ時代に佐藤敦之選手と知り合いました(同学年ですから、面識はそれ以前からあったのかもしれません)。京セラを退社後も1人で競技を続けるつもりでいましたが、そのときに川本和久監督が声を掛け、ナチュリルに入社して福島大で練習するようになりました。福島は敦之選手の故郷で、敦之選手も中学時代に国体合宿などで、川本監督の指導を受けたことがあったのです。敦之選手が帰郷したり会津で合宿をする際には、サポートをすることができ、その甲斐あって敦之選手は昨年の福岡国際マラソンで日本人トップとなり、北京五輪代表になることができました。
 国内にライバル不在だったという点では恵まれなかったとも言えますが、人との出会いは運命的とも言えるくらいに良かった選手だと思います。その辺も佐藤選手に質問しているので、記事で紹介したいと思います。


◆2008年10月26日(日)
 朝の8:40に日産スタジアムに。9:00から人前(30人くらい)で50分間話をする仕事をしました。
 最近の日記で何回か書いていますが、寺田は人前で話をするのが大の苦手。だったら依頼があったときに断れよと思われるかもしれませんが、“話したい”内容は思いつくのです。この仕事に就いたばかりの“駆け出し”というわけでもありません(そのくらいの自負はないと)。
 しかし、結果は見事に撃沈しました。レジュメに書き出した項目の半分ほどしか話せませんでした。丁寧に説明しようと思うあまり、長ったらしくなってしまうからだと思いますが、進み具合よりも問題は、とにかく話が下手だということ。効果半減です。
 反省と自己嫌悪で、終了後はかなりの間落ち込みました。

 気持ちを切り換えるには、取材をするのが一番。選手や指導者の前に出たら、自分が落ち込んでいることなど忘れることができます。そのくらい、集中するということでしょうか。予定では日本選手権までは原稿を書くつもりでしたが、ジュニアオリンピックの取材もそこそこしました。といっても、専門誌記者たちの邪魔をしないように、脇で話を聞いていただけですが。
 唯一、寺田が質問をした選手がCクラス(中学1年)100mハードル(高さは…)に14秒88で優勝した福部真子選手(広島・府中中)です。顧問のF原先生はかつて(10年数年前?)、陸マガでバイトをしてくれたことがある女性です。家庭をもって、子育てをして、陸上部の顧問を頑張ってと、小柄な身体からは信じられないパワーの持ち主です。
 縁故優先の理由で取材に行きましたが、福部選手に話を聞いてみてビックリ。中学生の取材機会は多くありませんが、中1でここまでしっかり話ができる選手は珍しいと思います。話の内容というよりも“話しぶり”ですね。記者の質問に対し明晰に話ができます。これは状況説明、これは自分の感想、これは今後の目標と聞いていて気持ちが良いくらい。
 これだったら、先生の印象を聞いても説明ができるのではないかと思い、F原先生ってどんな先生ですか? と質問しました。高校と比べたらかなり多いのですが、女性指導者が少数派なのは事実なので、的はずれの質問でもないだろうし。
「すごくハキハキしていらして、生徒に嫌われようが、言うべきことをズバズバ言ってくれます。頼りがいのある先生です」
 話しぶりだけでなく、内容もしっかりしていました。知り合いだからひいき目に言うのでなく、この師弟はすごいと思います。
 将来の目標を問われると福部選手は、
「みんなに心から応援されるような、心が綺麗な選手になりたい」
 と、恥ずかしがるのでもなく、きっぱりと言い切ります。家庭でのしつけもしっかりとしているのではないでしょうか。

 福部選手を取材をした後は、心が綺麗な選手の代表ともいえる内藤真人選手に話を聞きました(笑ってもいいところです。事実なのですが)。表彰のプレゼンターを、細身のスーツに身を包んで行なっていたのです。10月15日の日記で紹介したように、以前はインタビューや挨拶の話が長かった同選手が、最近は簡潔になってきています。そのコツをなんとか聞き出したいと思いました。
「そうですか?」と最初は謙遜していた内藤選手ですが、アテネ五輪の頃と比べたら手短に話せるようになったいることを認めました。F原先生からいただいたもみじ饅頭を2個渡したからかもしれませんが、内藤選手に限ってそんなことに左右されることはないと思います。
 結論は“場数を踏む”こと。オリンピック代表になると、人前で話す機会が増えます。皆さんが想像する回数よりも、はるかに多いと思っていいでしょう。オリンピック前後で20回や30回は、そういう機会がある。以前はその都度、「なげーよ」と末續選手や室伏由佳選手の非難を浴びていたそうです。人から指摘されることに腹を立てず、「直そう」と思うところに内藤選手の人柄がにじみ出ています。
 それと、為末大選手の影響もあるのではないかと言います。為末選手はテレビやラジオでコメントする機会が陸上界で一番多い選手。例えもわかりやすいし、話の展開の仕方も面白い。それでいて、TPOで話の長さを調整することもできて、簡潔に話すところはズバッとポイントとなる言葉だけを強調する。法大の後輩として、同じハードル選手として、そういう姿を多く見てきているのだと思います。

 やっぱりな、と納得はしたものの、じゃあ、寺田が人前で話をする場数が踏めるかといったら、職業柄それもできないでしょう。
 日記を短くするところから始めないとダメかもしれません。木田真有選手結婚の話まで進むことができませんでした。

 日本選手権リレーの取材は欠かせません。
 男子4×400 mRは筑波大が優勝。アンカーの石塚祐輔選手のコメントを聞きました。ちょっと感動したのでこちらに記事にしました。
 女子4×400 mRはナチュリルが、4×100 mRに続き2冠を達成。東大阪敬愛高が高校新を出したので、そちらも気にしつつ、メンバーの話を聞いていました。
 “そのとき”は唐突に訪れました。吉田真希子選手が話している途中、近くにいらした川本和久監督と何事か話すと、「今日は、木田真有さんのラストランなので、ナチュリルの木田真有として歴にしに名前を残したかったんです」と言い出したのです。前日に佐藤美保選手のナチュリル選手として最後の取材をしたばかりだったので、「ええっ?」と一瞬思いましたが、吉田選手が“木田”というところに必要以上のアクセントをつけて話していたので、名字が変わるのだな、とわかりました。

 今日は通信社、新聞社の記者はゼロで、専門誌と寺田だけ。専門誌記者たちは日本選手権リレー優勝チーム全員のコメント取りがあるので、木田選手の結婚ネタは寺田の独占取材に。お相手は仙台在住の公務員で、生活は仙台になりますが、練習拠点はこれまで通りに福島大です。今日、これから仙台に行って入籍すると言います。婚姻届の夜間受付があって、24時間365日、入籍ができるのです。今日にこだわったのは、“26日”は月は違うのですが何かの記念日だからだそうです。披露宴は1カ月くらい先。最近、こういうパターンが多いようです。醍醐直幸選手もそうだったと聞きます。
「“もっと速く”という、目指すところは変わりません。来年でいうなら、世界選手権の4×400 mRが目標です。今年は6年ぶりに400 mで自己新を出せましたが、4×400 mRで日本記録を出せなかったのが心残りなんです。3分30秒切りは来年達成したいです。(相手の男性には)これまでも支えてきてもらいました。お互いに目標がありますから、これからは夫婦として、今まで以上にお互いに支え合って、お互いにプラスになっていければと思っています」

 寺田も記者の端くれ。これだけで引き下がるわけにはいきません。相手の名前をできれば知りたい。特に、陸上競技選手(または元選手)であればなおさらです。もしもそうであれば、馴れ初めなんかも後学のために教えてもらおうかと(後学というのは寺田のことではなく、今後の女子選手のためにという意味です)。隣で吉田選手が断片的に情報を出してくれていましたが、残念ながら相手の名前までは教えてもらえませんでした。
 しかし、1つ心当たりがあって、もしかして、と思って聞きました。
寺田「相手は細井さんですか?」
木田選手「え? 誰ですか??」

 と、なんのことか分からない様子です。一応、自分の眉に指を当てながら話したのですが。木田真有(きだまゆ)選手の名字が細井になったら……隣にいた丹野麻美選手が笑い出してくれたので救われました。昨日の失態を少しは取り返せたかな、と勝手に決めつけましたが、取り返せるものではないのかも…。

 日本選手権リレー4種目は男子4×100 mRが早大、4×400 mRが筑波大、女子は2種目がナチュリルでした。“気持ちが強い選手が勝つ”という言葉をときどき聞きますが、指導者はそれを言えても、記者がそれを言うことはできないと思っていました。しかし、昨日今日と取材をしていて、どのチームも優勝できる戦力を持っていたのは確かですが、日本選手権リレーに対する“気持ちが強い”チームが勝ったのかな、と思いました。
 ナチュリルは女子短距離専門の実業団チームとして、絶対に2種目を勝つんだという気持ちが顕著でした。4×100 mRは今後の記録短縮のことを考えてオーダーを幾通りも組みましたし、4×400 mRは吉田選手に決勝で良いパフォーマンスを発揮させるために、予選・準決勝をショートスプリンターたちが頑張りました。
 早大の4×100 mRに対する意気込みは並々ならぬものがありますし、筑波大はベストメンバーではなかったものの、石塚祐輔選手の強い思いがありました。
 “気持ちが強い”者が勝つ大会。それが客観的にわかる大会。そういう大会が1つくらいあってもいいですよね。


◆2008年11月30日(日)
 11月最初で最後の日記である。
 前の日記は10月末。実に1カ月以上もさぼってしまったことになる。
 どうして、このような事態になったのか。
 知りたい読者は少数であろうが、僅かの期待にでも応えたいと思ってしまうのがマイナー競技ライターの性(さが)である。仕方がないので説明しよう。
 端的に言えば、書籍の仕事を2冊抱えてしまったのである。1冊はいわゆる単行本サイズで200ページちょっと。もう1冊は新書で、これもページ数は200ページ前後になると思われる。
 もとより、書籍の原稿など過去に1冊しか書いたことはない。今回が2冊目と3冊目だ。8年半のライター稼業で3回しか経験したことのない書籍の締め切りが、そのうちの2つがどうして同じにならないといけないのだろうか。
 B社の単行本は3〜4日前に書き終えた。
 目下の作業はG社の新書である。今晩中に、ある程度書き上げて提出し、水曜日に完全に仕上げるというスケジュールだ。すごいプレッシャーをかけられている。

 元来、人の良い寺田は仕事を頼まれると嫌とは言えず、スケジュールがきついと知りつつも、ついつい首縦に振ってしまうのである。
 と書けたらどんなにいいだろう。そうであれば自己責任である。
 坂口泰監督によって(中国電力の原稿を書くことによって)自己責任理論が刷り込まれている寺田なので、この事態が自己責任であれば頑張るしかないと思えたはずだ。前向きになれたわけである。
 ところが今回に限っては、自分ではどうしようもない諸般の事情が重なり、同じ時期に締め切りとなってしまったのである。ここまでしんどいのは自分のせいじゃないぞ、という後ろ向きな気持ちで膨大な作業にかかっていたら、輪を掛けて苦しくなる。

 この1カ月の取材は数を減らざるを得なかった。
 11月3日の淡路島女子駅伝には行ったが、例年セットで出張していた全日本大学駅伝には行かなかった。
 11月9日の中部実業団対抗駅伝には行ったが、体調が悪く報道車には乗らなかった。
 11月16日の東京国際女子マラソンの取材はばっちりしたが、2日前の共同記者会見には行けなかった。ケネス・マランツ記者に誘われたが、レース後のホテルのパーティー取材も行かなかった。
 11月24日の国際千葉駅伝も見送った。田中先生の顔を見たかったが、どうしようもなかった。
 11月29日、つまり昨日の国立競技場ロングディスタンスには、メインレースの17時に合わせて行くしかなかった。
 なんだかんだで行ってはいるのだが、陸連の新強化体制発表や、明日の川崎真裕美選手の富士通入社会見など、突発的なものには絶対に行けなくなっている。
 昨日、国立競技場に行くと「日記が書けていないからよっぽど忙しいんやな」という兵庫県の先生の言葉は当然として、「引退したって噂ですよ」という新聞記者の言葉すら聞かれた。
 引退できたらどんなに楽だろう、と後ろ向きに考えてしまう。自己嫌悪を感じる。

 申し訳ないのだが、10月後半以降に依頼のあった仕事は全部断らせていただいている。
 例年楽しみにしている箱根駅伝別冊展望号の取材依頼すら、受けなかった。来年頑張ります、と言っているのだが、果たして来年依頼が来るのだろうか。フリーランスはそういう心配もしないといけない。
 ラジオの出演依頼(千葉のFM)を「締め切りが続いているので朝の6時なんて起きられるわけがない」と言って断ったら、朝の7時まで仕事をする日が続いている。
 このしんどさは間違いなくライター稼業を始めてからトップ3に入る。
 最初は2000年の7月頃。シドニー五輪の展望記事で膨大な資料と原稿を準備しなくてはいけなくなった。ストレスから、首の左後ろに張りを感じるようになって苦しかった。
 2度目は1冊目の単行本の作業と、ドーハ・アジア大会が重なったとき。そのときは、「いくらQちゃん(高橋尚子選手)が走るのが好きでも、月間2000km走ったら嫌いになる」と例えていた。
 今回は奥谷亘選手の言葉を思い出した。積水化学の頃の練習が質、量ともにどうしようもないほどハードで、練習をしながら「ここで交通事故に遭って入院したらどんなに楽だろう」と思っていたという。
 その気持ちはよくわかるぞ。と思っている自分が嫌いである。

 そういえば、淡路島女子駅伝に行くときの新幹線車内で、筑波大の大山圭悟コーチにお会いした。自由席だったので隣に座らせていただいて弁当を開き、色々と話をさせていただいた。今思うと、最後の楽しい食事だったかもしれない。
「寺田さんは、原稿がたくさん重なって切羽詰まったときはどうやって切り抜けるのですか」
 という質問を受けた。
「気持ちの問題だと思いますけどね。どんなに焦っても、それで原稿が進むわけじゃないですから。客観的にどんなに厳しい状況でも、気持ちは平静さを保つことだと思います。それができればいいな、と、いつも思っているんですけど」
 理屈はわかっている。わかってはいるが、実行に移すのが難しいのである。
 マラソンで2時間10分を切るための練習メニューは、誰でもわかっている。ただ、その練習を実行できるのが日本に数人しかいない、ということと同じだ……本当だろうか。

 交通事故で入院する方法も考えたが、下手をすれば当たり屋にされて訴訟沙汰である。不確かなことは避けた方が良い。
 とりあえずはファミレスで原稿を頑張ることにした。1人きりで部屋にこもって原稿に追われていると、気がおかしくなりそうになる。深夜のファミレスは、追い込まれたライターの駆け込み寺なのだ。
 ということで、深夜の3時半に西新宿のデニーズにやってきた。
 日曜の深夜に店が混んでいるわけはない。案内された席は両隣とも2席分空いている。これなら静かだろう。資料を横に置いても問題ない。
 ところが、である。3つ右側のテーブルのアベックが、言い争いを始めてしまった。
 女性の声は小さくて聞こえないが、感情的になっている風がないのが救いである。
 問題は男の方だ。
「オレが○○なわけ」
「オマエが○○するときってさぁ」
「○○じゃないの? 違うの?」
 言葉自体よりも話し方がめちゃくちゃ尊大なのである。
 寺田が一番嫌いなタイプだ。
 好き嫌いよりも、こんな台詞を聞かされていたら、気が散って原稿どころではなくなってしまう。
 そういうときは、メモリー・オーディオで音楽を聴くに限る。寺田が愛用しているのはVictor製の4GBで、ボイス・レコーダーにもなるスグレモノだ。陸マガ・秋山編集者が同じ物を使っているというところがタマニキズであるが。
 ところが、こういうときに限ってバッテリーが切れかけている。もって15分といったところか。

 意は決した。こうなったらやるしかない。
 神聖なファミレスでの原稿書きを邪魔する馬鹿男に怒りの鉄槌を下すのだ。そのためにはシナリオを考えておく方がことはスムーズに運ぶだろう。まず、
「静かにしてくれないか。他の客が迷惑だろう」
 と声を掛ける。
 この手の男は100%、言い返してくるはずだ。
「なんだオマエ。いちゃもんつける気か!」
 そうなったらこうだ。
「ちょっと表に出ろ!」
 これでケガをしたらめっけもの。入院なんかしたら完璧である。さすがのG社も、原稿を急かしたりはしないだろう。
 ただ、1つ問題がある。それは、寺田がここ20年間、喧嘩に負けたことがないということだ。


◆2008年12月1日(月)
 12月最初の日記である。最後の日記にならないことを祈るばかりだ。
 昨日の日記で書いた“喧嘩を売った”あとはどうなったのだ、という問い合わせメールが来たので(もちろん知り合いから)、仕方がないので今日も日記を書くことにする。
 結論から言えば、寺田はこうしてピンピンしている。ケガをする、あわよくば入院をして仕事を放棄しようという目的は果たせなかった。
 ファミレスの馬鹿男に喧嘩を売った経緯は以下のような感じだった。

「静かにしてくれないか。うるさくて原稿が書けないんだよ」
 驚いてこちらを見上げる馬鹿男。
「そ、そうっすか」
「そうなんだよ」
 と言って、微妙にあごを上に向ける仕草をする寺田。
「そ、そうっすよね」
 と言って男は、女性になにごとが耳打ちして帰り支度を始めてしまったのだ。
 推測だが、20年以上喧嘩で負け知らずの寺田の迫力に圧倒されたのだろう。今でこそしがない陸上競技ライターをやっているが、田舎(袋井・静岡県)にいた頃はガキ大将グループの末席に名を連ねていた。
 というか、このときは本当に喧嘩をする気だったし、自暴自棄になっていたので目がすわっていたのは確かである。

 本当にどうしてくれるのだ、と思った。せっかくのチャンスだったのに。
 仕方がないので原稿を書いた。それなりに頑張って書いた。
 その間も、誰か喧嘩を売るスキを見せているやつはいないかと、周囲に注意を払っていた。
 そのチャンスが来たのは朝の6時半頃だった。目の前を「ただ者じゃない」と思わせるオーラの人物が通ったのだ。こう見えてもではガキ大将の端くれである。そのオーラを見逃さなかった。相手にとって不足はない。ナンクセをつけて喧嘩に持ち込もう。向こうには迷惑かもしれないが、原稿過剰抱えの現状打破のためである。
 パッと顔を上げると、見た目もただ者ではなかった。身長は185cm前後。逆三角形の鍛え上げられた肉体……なんと、プロレスラーの藤波辰爾だった。
 こう見えても元週刊プロレスの編集者だ。見間違いではない。
 これは……どうしようもないではないか。喧嘩を売りたいのはやまやまだが、プロレスラーが一般人を相手にするとは思えない。繰り返すが、こちらはやる気満々だったのだが。
 喧嘩で現状を打開する方法は、あきらめるしかなかった。

 作業部屋に戻ったのは8時半頃。
 できているところまでをG社編集者にメールで送った。
 編集者と電話で話をしたのは夕方の17:25。その間に睡眠もとっている。
 編集者も鬼ではなかった。進行が遅いことは指摘しつつも、情け容赦のない言葉を投げつけてくることはなかった。
 しかし、今後のスケジュールの確認を話し出すのは、立場上当然であった。
「水曜日にはどうしても…」
 と話し出したときに寺田が言葉を遮った。
「ここまで来たら締め切りがいつだと意識するのはマイナスでしょう。その辺はこちらも十二分にわかっているし、今さら他の仕事はできませんし。一番大事なことは書き手の執筆効率を上げることです。そのためには締め切りを意識させるより、書き手をリラックスさせる方がいいでしょう。その方が結果的に、原稿は速く書ける」
 編集者も、この理屈をわかってくれたので助かった。単に、「あなたの気持ちが弱いだけだろう」と言われる可能性もあったのだ。

 この理屈は日頃の取材のなかで思いついた。
 選手がトレーニングをするうえで、この結果を出すためには、この練習をしないといけないと逆算してやると、オーバートレーニングに陥ることがままあるのだ。結果を出すことに気持ちが行き過ぎて、現状認識がおろそかになる。
 そういうときは、結果から逆算するのでなく、今の自分がどうしたらパフォーマンスを上げられるか、だけを考える。特に20歳台半ばを過ぎた選手は、こちらのパターンの方が上手くいっているような気がする。一概に決めつけることはできないが。
 そういう話を記事にしたこともあり、これは、締め切り直前のライターにも応用できると思っていた。いついつまでに絶対に書き上げなきゃ、と思ったら焦るばかりである。それよりも気楽に構えた方が筆は進むに決まっているのだ。
 昨日も書いたように、理屈はわかっているのだ。

 今晩もファミレス(昨日とは別)で頑張っている。G社の原稿は第5章を書き上げた。その新書は5章構成だから最後の章になる。締めの部分も書いてこれで終わった、となればいいのだが、先に5章を書いているに過ぎない。1章は8割書けている。2章と3章はテープ起こしのテキストで埋めてあるが、手を入れるのにかなりの時間を要する。4章は手つかずだ。
 明日(火曜日)、4章を終わらせ、3章も目処を付ける、明後日(水曜日)に一番長い2章を仕上げる。机上の計画はいつも、締め切りを守ることになっている。


◆2008年12月6日(土)
 朝の8時にファミレスを出てスタバに向かった。
 5日前に喧嘩を売ろうとして失敗したファミレスである。
 G社の新書原稿は水曜日が締め切りだったのだが…。
 それでも、早朝のファミレスで第3章を書き上げていた。
 残りは第4章だけだ。約20ページである。
 スタバで5ページを書いたところで10時が近づいてきたので、作業部屋に戻って完成している3章を送信した。
 寺田のテンションは異常に高い。もう数時間は体も持ちそうだ。
「高平慎士からバトンを受け取った感じです」
 原稿を送信したメールに、この一文を添えた。
 第4コーナーを回って、最後の直線に入ったという意味である。
 言外にいくつかの意味を込めているが、ここで書くことでもないだろう。

 猛烈に後悔した。
 先が見えた安心感からか、眠気が襲ってきたのである。残り3〜4ページというところまできて、筆が完全に止まった。
 最終の博多行き新幹線に乗るには18時には作業部屋を出発しないといけない。2時間くらいは眠っておきたかった。
 しかし、眠気と原稿の板挟みになってどちらも進まない。眠気が進むというのも変だが、この際気にしないでいただきたい。
 なんとか書き上げた。だが、推敲するとめちゃくちゃ粗い文章である。
 だが、直そうとしても頭が回らない。
 これは少し眠らないとダメだと判断して、ソファに行った。
 たぶん30分くらいうつらうつらしたところで、携帯が鳴った。
 神戸新聞・藤村記者からだ。中村友梨香選手が5000mの記録会に出た話だった。
 正直、助かった。あの電話がなかったら、そのまま眠り込んでしまった可能性もある。
 15:45。根性で書き上げた。16:25である。

 福岡国際マラソンの取材準備は最低限のことは終わっていたが、朝日新聞の展望記事(人物もの)を5人分、プリントアウトした。本当はもう少し資料を準備したかったが、18時が迫ってくる。
 メールの返信もしないといけない。
 ここはもう、予習に固執するときではない。2泊分の衣類と福岡国際マラソン取材資料と、いくつかの原稿執筆用資料を3つのバッグに詰め込んだ。

 ということで、この日記を新幹線車内で書いている。博多行きの最終のぞみである。
 昨日までと違って、なんと晴れやかな気分だろう。○○○○○から解放された気分だった。首の左後ろの張りもコロッとなくなっている。
 しかし、油断はできない。
 G社新書の前書き4ページがまだ残っているのだった。これは昨晩になって言われたから仕方がないだろう。
 明日が締め切りの実業団女子駅伝展望記事もある。これがけっこうな量なのだ。
 そして、福岡国際マラソンも月曜日夕方の締め切りである。
 なんだかんだで、抱えているではないか。
 誰がこんなスケジュールにしたのだろう?


◆2008年12月7日(日)
 昨日は実業団女子駅伝の展望記事を頑張った。
 新幹線の車中で50行、40、20行を1本ずつ書くことができた。
 ホテルに着いたのが深夜の12:40。さすがに原稿は書かず、このサイトのメンテナンスをして就寝。
 今朝は8時に朝食。共同通信・T村記者がいたので相席をさせてもらい、東洋大のことなどを話した。

 辞任した川嶋伸次監督は1993年の福岡国際マラソンで日本人1位(2時間10分41秒)と好走して、予定していた引退を撤回。確か、ある大学の指導者になることに決定していた。もしも福岡の走りがなかったら、今回の件には巻き込まれていなかったわけである。
 人の人生はどう転んでいくかわからない。
 だが、今回のようなアクシデント性の強いことで人生が左右されてはたまらない。シドニー五輪出場や東洋大監督としての実績など、引退撤回以後の川嶋監督の長いスパンでの頑張りが生かされない陸上界には、なってほしくないものである。
 ただ、今回の件には、腑に落ちないことがいくつかある。愉快な話題ではないので、はっきりとした事実がわかるまでは書かないでおこう。

 朝食後に実業団女子駅伝展望原稿を書き始め、11時までの間に30行1本と13行を2本。先が見える状態までもっていってから平和台陸上競技場に移動した。
 11:45にプレスルームに到着。
 スタートぎりぎりの時間だったにもかかわらず、空席が多くてまずまずの位置を確保できた。東京国際女子マラソンとはえらい違いである。五輪選考会だった昨年と比較しても違う。
 毎日新聞C氏には、トヨタ自動車九州の実業団駅伝欠場について聞いた。
 企業の陸上部が駅伝にでないというのは、にわかには信じられない話である。何か表面に出ていない事情があるのではないかと思ったが、既報通り、故障者が多くて出られなくなったというのが唯一無二の理由だそうである。
 昨今のわけのわからない不況によって、陸上競技部を持つ企業も経営が厳しいところが何社もある。すでにファイテン陸上競技部がなくなった(土井宏昭選手はどうするのだろうか)。
 自動車業界に多数の選手雇用を依存している陸上界としては気になる部分である。
 気になるが、即効薬的な方法などないのが現実だ。

 福岡国際マラソンの結果はみなさんご覧の通り。
 優勝したケベデ選手(エチオピア)の30〜35kmの14分17秒には本当にビックリさせられた。
 2時間06分10秒のVタイムは日本国内最高記録(all comers record)でもある。
 感心するのは福岡主催者の外国人選手招聘のスタンスだ。いくら日本選手が勝てなくても、外国選手のレベルを落とそうとしない。今回のケベデも直前の五輪銅メダル選手だが、今回の福岡をきっかけに、世界のトップに駆け上がっていく可能性を感じさせる選手だ。
 かつて福岡は、無名のアベラ選手(エチオピア)をデビューさせ、五輪&世界選手権金メダリストとなるステップとなったこともあった。昨年のワンジル選手(ケニア)も同様である。日本留学選手ということでちょっと特殊な例かもしれないが。
 外国選手のレベルではなく、大会のレベルを落とさないという強い意思が感じられる大会である。

 取材は共同会見でケベデ選手、入船敏選手(カネボウ)を取材。
 ケベデ選手には26kmでペースメーカーと何を話したのかを質問した。ペースアップを促していたように見えたからだが、本人は「何も話していない。給水のことぐらい」だと言う。
 それに対して「そんなことはない」と会見後に断言したのが読売新聞・近藤記者。予定されていたペースを乱したことに対し、ケベデ選手なりに配慮したのだろう。寺田も同意見だった。

 入船選手は伊藤国光監督以来のカネボウ選手の福岡日本人トップを占めた。早田俊幸選手が2時間8分台を出したときはアラコ(現トヨタ紡織)だったし、高岡寿成選手が福岡では力を発揮できなかったからだ。
 会見終了後には伊藤監督にお願いして、入船選手とのツーショット写真を撮らせてもらった。何人の報道陣がこの写真の意味を理解しただろうか。
 続いてドーピング検査室の外に移動。そこで、ドーピング検査を終えた選手をつかまえることができるようになっている(雨が降ったらかなりまずくなるのだが)。
 選手がなかなか出てこないので(尿が出ない)、その間に中国電力・坂口泰監督とJR東日本の岩瀬監督を取材。1時間以上たっても選手が出てこないので、藤原選手に出て来られないか、朝日新聞事業部を通じてお願いしたところ対応してもらえた。頭の硬いところだと「ダメ」の一点張りなのだ。

 しかし、日本選手3番手の佐藤智之選手以下の取材がまったくできていなかった。
 平和台競技場の欠点は、選手がつかまえにくいことである。記者の数が多くて手分けをできる社はいいのだが、1人しか記者を派遣できないメディアにとってはやっかいこの上ない(今回の寺田は1人で陸マガの仕事を請け負っていた)。
 これは主催者が悪いのでなく、平和台競技場が狭いからである。同じ中規模競技場でも、びわ湖マラソン開催の皇子山よりも一回り小さく、スタンド下に報道陣を入れることができないのだ。
 その代わり、大会ホテルの西鉄グランドホテルのレイアウトが取材には最適で、いつもここで何人もの選手、指導者を取材している(競技場からの距離も近い。ただし、締め切りのある新聞記者は平和台取材しかできないので気の毒だ)。
 今日もフェアウェルパーティーの前に佐藤智之選手と油谷繁選手を取材することができた。油谷選手などかなりショックは大きかったと思われるが、しっかりと対応してくれた。これで陸マガの記事は書けそうだ。
 しかし、もう1つやりたい取材が…。

 パーティー中は中で食事などもできるのだが、外で色々としていた。
 入船選手が日本人トップということで、高岡寿成選手にも思わず電話をしてしまった。取材をするつもりは決してなかったのだが、そんな話にもなった(若い選手には監督の許可なしではできないが、30歳以上なら…)。
 福岡初出場の入船選手がレース後、高岡選手に何かアドバイスを受けていないかという質問を記者から受けていた。
「競技場に入る坂がきついと言われていましたが、大したことはなかった」
 と入船選手。
 平和台競技場に入るところの坂で、距離は100mあるかどうかという坂。傾斜もそれほどではない。しかし、41km以上走ってきたところにあるので、相当にきついのだと高岡選手が話していたのを寺田も聞いたことがあった。
 入船選手が話していたことを高岡選手に伝えた。
「それはですね、僕が相当にきつそうに入船に言っていたから、その覚悟ができていたんです」
 自分の功績だということを、さりげなくアピールしているのである。
「僕だって、みんながきついきついいと言っていた東京の最後の坂を、楽に上がれましたからね」
 確かに、2005年の東京で高岡選手は坂をいとも簡単に上って2時間7分台を記録していた。
 こう書くと高岡選手というのはちょっとやな奴ではないかという印象を持ってしまうかもしれない。実際はそうではないことを書こうと思うのだが、長くなったので次の機会に譲ることにする。
 陸マガ1月号のPEOPLE(巻頭カラー)は、入船選手と高岡選手の関係を書いているので、それを読んでいただければ少しはわかるだろう。


ここが最新です
◆2008年12月8日(月)
 昨晩は某スポーツ紙の全日本実業団対抗女子駅伝展望記事の13行5本(2本は書き直し)までは書きたかったが、23時半頃にダウン。一気に眠気が来た。幸い、朝の3時半に起きることができて続きを書き、これは4:26に送信。この仕事は終了。
 続いて、昨日の福岡国際マラソン記事に取りかかり、ケベデ選手と、佐藤智之選手と藤原新選手(2人セット)の2本を書き上げた。
 7:20にホテルを出て福岡市内某所に。8:00から入船敏選手の取材である。
 まず質問したのは好みの焼酎の銘柄。鹿児島県人には必ず、こだわりの銘柄があると聞いていたからだ。
「焼酎はいただくことも多いのですが、好きなのはビールです」
 確かに、練習後に焼酎のグラスを入船選手が飲み干すシーンは想像しにくい。これは、入船選手に限ったことではないが…。それに対しビールは、瀬古利彦選手の時代から(あるいはそれ以前から)長距離選手に愛飲されてきた。
 要するに、長距離選手と焼酎は合わないのである。個人的には最近、某ファミレスの焼酎withドリンクバーが気に入っているのであるが。

 そういえば福岡では何人もの方から、「喧嘩しないでくださいよ」と言われた。11月30日の日記のファミレスでの顛末を読んでくれていたのだ。
 寺田も好きで喧嘩を吹っかけたわけではない。
 いや、あのときだけは好きで吹っかけたのだが、それ以外に選択肢がなかったのも事実である。
 あのまま女性に尊大な態度で話している馬鹿男を放置していたら、間違いなく原稿は書けなかった。かといって、日記に書いたようにメモリーオーディオプレイヤーは電池が切れかけていたし、別のファミレスに行くのも20分は時間をロスする。別の席に移るという手もあったが、喫煙席が近くなったらそれはそれで気になって原稿は進まない。
 馬鹿男を排除するか、喧嘩で自分がケガをするしか、原稿過剰抱え込み状態を脱する方法はなかったと断言していい。

 話を入船選手戻そう。
 取材のテーマは高岡寿成選手の意識の仕方の変遷。入船選手の場合はそれが、練習のこなし方の変化でもあったわけである。陸マガ1月号のPEOPLEに掲載。
 今日も面白い話を聞くことができた。やはり、現場の取材が良い。深夜のファミレスよりは、絶対に良い。

 入船選手の取材が終わって西鉄グランドホテルに行くと、いいタイミングで松宮祐行選手も姿を見せてくれた。双子の兄の松宮隆行選手でなく、ひと目で祐行選手だとわかった。外見ではなく、シチュエーション的にそう判断しただけだが。
 昨日は話を聞くことができなかったので、1つだけ確認させてもらった。
 日本選手が松宮選手、入船選手、佐藤選手の3人に絞られたとき、一番余裕がありそうに見えたのが松宮選手だった。入船選手もそう感じていたという。
 ところが、31.6kmの折り返しを過ぎると、松宮選手の脚勢が鈍った。その理由を確認しておきたかった。これは陸マガの記事に入れ込んだ。
 酒井勝充監督には、ニューイヤー駅伝に向けた話を5分ほどで。このときの話は某スポーツ紙の展望記事に反映できると思う。
 外国勢も続々と出発。
 残念ながら16位に終わったロシアのソコロフ選手(自己ベスト2時間09分07秒)だが、奥さんのナタリア・ソコロワ選手は福岡と同じ日に行われたカリフォルニア・マラソン(サクラメント)で優勝(2時間32分01秒)。もしもソコロフ選手が福岡で勝っていたら、夫婦同日Vという快挙だった。

 なんだかんだで、上位選手は全員話を聞くことができた。
 大会本部ホテルのロビーで陸マガのレース展開記事80行を一気に書き上げた。
 この手の記事は、文章中に取り上げる選手が多くなるとまとまりがなくなってしまう。昨年の世界選手権のときに強くそう感じた。
 今回も迷ったが、とりあえずは取材した選手は全員入れ込んだ。
 自分のホテルに戻って朝食を食べようと思ったが、朝食時間は7〜10時。ホテルに着くのは10時を少し回りそうだったので、途中のスタバで朝食。道の向かいのビルの2階にもスタバがある。どちらも他業種店舗とのコラボ形式店だった。天神界隈ではあと2軒くらいは記憶がある。福岡市のスタバ店数はかなり多いのではないか。
 それがなんだ、と突っ込まれたら「スタバやタリーズの数が、その街の経済力や景気の指標になる」と答えている。もちろん出まかせだが、あながち外れていないのではないだろうか。

 スタバではPEOPLE原稿も45分くらいで書き上げた。今日はなんだかスゴイぞ、と自画自賛していた。それもこれも、福岡だからできたのではないかと思っている。
 福岡国際マラソンは寺田にとって原点である。何度か書いているように、1978年の同マラソン(瀬古選手が優勝。喜多秀喜選手、宗茂選手と日本勢が3位までを独占)を報じた陸マガを買ったのが、専門誌を読むようになったきっかけだった。
 それが、筆が進む理由になるのか本当のところはわからないが、世の中にはもっと適当な根拠で物を言っている輩がたくさんいる。この程度の決めつけは、かわいいものだろう。

 ホテルに戻って早朝に書いた2本(ケベデ選手と藤原&佐藤選手)の記事を推敲して送信。
 ホテルは14時まで延長してある。1時間半ほど仮眠をとってホテルを出発した。
 出がけにメールをチェックすると、高野編集者から「油谷選手も書いてほしい」という追加のリクエストが来ていた。普段なら「先にいえよ」と文句の1つもいうのだが、今日は気持ちが乗っていた。それに、昨日自分から「アブちゃんも取材できたよ」と電話で話していたのだ。単なる馬鹿である。
 飛行機機内ではまたも睡魔に襲われ、PEOPLEを推敲するのが精一杯。離着陸時にはPCが使用できないので時間もわずかしかとれない。
 17時頃に羽田着。
 空港のロビーでレース展開記事を推敲し、油谷選手を20行書いて送信した。
 レース展開記事は正直、登場選手の数が多いような気がする。今回は時間優先なのであきらめるしかないが、レース展開について話してくれた選手はコメントだけ別枠にした方がいいかもしれない。

 空港で陸マガに原稿を送信すると、室伏由佳選手が入籍したというリリースがミズノから届いていた。
 同選手とは猫の話はよくするが、人間のそういう相手がいるとは一度も話してくれたことがなかった。
 と考えていたら、重大なことに思い当たった。
「あの猫たちはどうなるのだろう」
 由佳選手のブログに頻繁に登場する黒猫と白猫のことだ。
 室伏広治選手が世話をするのだろうか。室伏重信先生がヒザの上に乗せて遊んであげるのだろうか。
 私的なことなのであれこれ詮索はしないが、気になって仕方がない。
 中日スポーツ寺西記者はその辺まで取材しているかもしれない。

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