寺田的陸上日記      
毎日の陸上競技関連ニュースを紹介しつつ…        
昔の日記はこちらから
2001年5月。五月雨を 集めて乱れ ……オチがなし


●5月29日(火)
 日本選手権に関する記者発表があったので、3時に体協記者クラブに。その際、ある記者から「ハンマー投の予選を別会場で行う理由は?」との質問が出ました。
 芝生管理の問題で、「ハンマー投は8人に人数を制限してほしい」との要望が国立競技場から出ているのだそうです。陸連側もそれは聞いていなかったと言い、後日、決勝は12人ということで決着を見たようです。しかし、予選を国立競技場で、というのは認められませんでした。
 ハンマー投選手の間に、「国立競技場で投げたい」「少しでも観衆の多い中で投げたい」という気持ちがあることは、以前から聞いていました。これは、関東の大学の長距離選手が「箱根駅伝を走りたい」という気持ちと似ているというか、共通した選手心理なのでしょう。「箱根駅伝の1区間を走るのも、神宮外苑の周回21kmを走るのも、同じ距離を走ることに変わりはない」という意見がありますが、選手はそうは簡単に割り切れません。ハンマー投選手にとって、国立競技場は箱根路に相当するのでしょう。
 予選を行わない理由は芝生管理の問題なのですから、金銭的な部分で解決ができることなのではないでしょうか。それとも、予選までやってしまったら、芝生が物理的に再生不可能になってしまうのでしょうか。


●5月28日(月)
 昨日は淡路島に泊まりました。お世話になっている方と食事をし、今日も島内をあちこち案内していただきました。神戸新聞元陸上競技担当のO原さんとも一緒だったのですが、夜9時過ぎに社から呼び出しがあって取材に戻られました。つくづく、マスコミの人間は事件によって仕事が左右されるものなのだと、痛感させられました。
 今朝は高校生の練習も見学でき、自分の高校時代を思い出しました。
 帰りはバスで神戸に出て、阪急に乗ったら、車窓から甲南大学が見えるではありませんか。「甲南大があるのは、ここなんだ」とは、決して思いませんでしたが…。
 甲南大といえば、新井初佳選手。彼女のことを初めて知ったのは、大学1年か2年の関西インカレで100 m&200 mの2種目を制したときでした。直接、取材に行ったわけではありませんが、ベースボール・マガジン社のHカメラマンが、いい写真をたくさん撮ってきたので、印象に残っています。
 それから2〜3年、新井選手は4年時に日本インカレの200 mを制しました。その後の活躍は改めて紹介するまでもありません。


●5月27日(日)
 今後の参考にと、東アジア大会柔道最終日を大阪府立体育会館で取材。行われたのは女子の48s級と無差別級、男子の60s級と無差別級の4階級でした。日本選手は3階級で決勝に進出。2階級で優勝しました。
 陸上競技は優勝しなくても2位や3位に入れば、あるいは準決勝止まりでも、本人が目標としていたレベルなら、結果に納得することができます。そして陸上競技には、記録という要素もあります。試合で目標としていた記録が出せれば、それでいいと考えることもできます。つまり、“負けた”という気持ちにならなくてすむことができる競技といえます。
 その点、1対1で対戦して勝ち抜く形式の競技は、優勝者以外は必ず、1対1の勝負に負けるわけです。柔道のレベルの低い国の選手が日本の選手に敗れるのなら、胸を借りた意識が強く、“負けた”という気持ちにはならないかもしれません。しかし、柔道界のリーダーである日本の選手はそんなことはあるはずがありません。優勝できなかった選手は必ず、“負けた”という気持ちを経験します。
 もちろん、陸上競技の選手も高い目標を持てば持つほど、挫折感も大きくなるわけですが、「自分の力を出せればいい」という考えの選手が多いのも事実です。力を出し切れば勝敗は関係ない、というやつですね。そのへんが、陸上競技の特殊性かなと。
 選手の会見も取材しました。多少、専門的な部分がわかりませんでしたが、同じスポーツ選手ですから、「あっ、共通しているな」と感じる部分も多々、ありました。


●5月18日(金)
 この日記を公開するのは6月なので問題ないと思いますが、今日は三宅貴子選手の取材で中京大に行ってきました。天気が良くてラッキーでした。今の季節が、取材には一番いいかもしれません。
 天気はともかく、取材自体もうまくいきました。三宅選手は外見だけではわかりませんが、なかなかノリのいい選手なのです。彼女に近い筋からその情報を得ていたので、話がうまく展開できたら、2つの質問をしようと思っていました。
 1つは「やり投選手の“やり甲斐”って何ですか?」
 もう1つは「競技生活を振り返って“投げやり”になったことはありますか?」(これは同行した編集者の方が考えついたものです)
 まさか本当にできるとは思っていませんでしたが、実際、この2つの質問をすることができました。それも三宅選手の人柄あってのことです。誰にでもできる類の質問ではありません。そして、しっかり陸上競技のことに、この2つの質問を結びつけてくれるのだから、取材する側は楽です。こちらの意図を理解してくれて、当意即妙の応答をしてくれる選手というのは、取材する側にとってはありがたいです。そういう選手が頑張ってくれると、取材する側も応援したくなります……が、最終選考会までは、特にどの選手を応援することはありません。もしも彼女が世界選手権の代表になったら、思いっきり応援したいと思います。


●5月17日(木)
 朝、FM東京を聞いていたら、なんと、競歩の柳沢哲選手が登場しました。柳沢選手といえば、「記録集計号がベストセラーになれば、柳沢選手も有名人」という見出しで、競技力のわりに知名度が低い選手として、記事を書いたことがあります。その柳沢選手がラジオに登場していたのです。何万人の聴取者がいたのかはわかりませんが、これはもう、知名度が低いとは金輪際、言えません。
 柳沢選手は番組の中で、競技中にトイレ(確かスーパーマーケット)に駆け込んだことがあり、コースを外れて走ってしまった等のエピソードを披露。どうやらその時は、失格にはならなかったようです。なかなか面白いトークでした。寺田もロンドンで似たような経験をしたばかりでしたので、他人事とは思えませんでしたし…。
 午後は恵比寿に出て打ち合わせ。そのあと、中目黒から代官山、渋谷と散歩をしました。代官山あたりはときどき、太田陽子選手も出没されているようです。別に真似をしたわけではありませんが、普段、あまり行かない土地なもので……と思いましたが、昨年の夏、一度、増田明美さんのインタビューで代官山に来たことを思い出しました。


●5月15日(火)
 日本青年館で行われたAJPS総会に出席。
 日本青年館には千駄ヶ谷駅から歩いていきました。陸上関係者がこの駅で降りて国立競技場以外の場所に向かうことは、そんなにないのではと思った人も多いのでは? でも、そうでもないのです。
 毎年、箱根駅伝の記者発表も関東学連事務所の近くで行われますし、東京体育館に選手が集合したときに取材をしたこともあります。長距離の強豪実業団チームの取材や日本学連に行く際も千駄ヶ谷が最寄り駅です。
 それはともかく、AJPSとは日本スポーツプレス協会のことで、新聞社・通信社・雑誌社などの組織に属さないフリーの人間が多く入会しています。この組織で1年以上活動をすればAIPS(国際スポーツプレス協会)の会員になることもできます。
 海外でスポーツの取材に携わる人間は、日本と比べフリーランスの人間が多いようです。取材申請書などを見ても必ず「freelance」の欄がありますし、現地の報道受付でも、AIPSの身分証があれば信用してもらえます。通常の試合なら日本国内でもそれほどうるさいことは言われませんが、ちょっと大きめの大会になると、「どこの組織の人間か」という点をかなり気にします。
 確かに、セキュリティ上の問題もありますから、安易に誰にでも取材パスを出すわけにはいかないのでしょう。ただ、フリーの人間はその大会自体の記事を書く機会はなくても、いずれ陸上競技(陸上選手)の記事を、どこかで記事(特集)にして発表することもあるわけです。サッカー、野球、格闘技に比べてお金にならない陸上競技を取材に来るフリーランスの意気込みを、そぐような対応はしてほしくないな、とは思います。


●5月13日(日)
 関東インカレ1日目取材。
 ハーフマラソンには箱根駅伝関連選手も多数出場したのですが、世間の関心度は箱根駅伝と比べたら低いですね。神宮外苑まで応援に来てくれる一般ファンも多いのですが、箱根駅伝本番とは比べものになりません。
 仮に、関東の長距離選手がインカレのハーフマラソンを59分台で走ろうが、多くの箱根駅伝ファンにとってはどうでもいい、ということになるのでしょう。つまり、箱根駅伝の選手は、東京・箱根間を走って初めて、価値が生じるということです。その選手の走力自体よりも、走る場所によって価値が変わってくる。これはある意味、当然と言えば当然です。国内のマラソンで2時間22分で走るよりも、オリンピックで2時間23分で走ることの方が価値が生じるのは、当然です。
 ちょっと意地悪な言い方になってしまいました。社会的に見ればそういうこと(箱根駅伝を走って初めて価値が出る)になるわけですが、選手の意識は違うと思います。インカレも箱根駅伝も、学生競技生活も国際大会も、関連づけて考えていることでしょう。


●5月12日(土)
 国際グランプリ大阪大会取材。
 昨日購入の秘密兵器は1点、「あれー、違うじゃん」という部分がありました。やっぱり、カタログだけではわからないことってありますね。あるいは、故意に隠しているのか。でも、海外取材などの折りには威力を発揮しそうです。
 ところで気になったことが1つ。記者会見で必ず、日本選手権に向けてどうなんですか、という話の展開になったことです。確かにこの大会も世界選手権選考会の1つと位置づけられていますが、なんでもかんでも世界選手権(実際、狙えないレベルの選手にも世界選手権への抱負を聞いていた)、最終選考会の日本選手権に結びつけるのはどうかと思います。グランプリTなのですから、それ自体、価値が高いのです。
 グランプリにおいて自分の残した成績をどう思うか、という話になるのが自然だと思うのですが。世界選手権を目指す選手が多いのは当たり前ですが、グランプリで好成績を残すことに集中していた選手もいるはずです。箱根駅伝の会見で、「練習は日本選手権に向けて順調ですか」と聞く人はいないでしょう(時期的なものもあるから当然ですが)。


●5月11日(金)
 ご報告し忘れていました。昨日発売の「スポーツ・ヤァ!」(角川書店)に、明日の国際グランプリ大阪大会のみどころを書いています。世界最速男のモーリス・グリーン(米)選手と、室伏広治(ミズノ)選手について言及しました。
 今日は朝から掃除、クリーニング屋詣でなどの家事をこなしたあと、久しぶりに新宿に出て、明日の大阪出張用のチケットを購入。グリーンも出場することだし、みどりの窓口で新幹線の指定も取ってしまおうと15分くらい並んだのですが、朝の7時台のひかりは全部満席でした。ちょっとあせりましたが、8時20何分かのひかりを抑えてよしとしました。7時と早朝の新幹線なら、自由席が空いているでしょう。のぞみにするとプラス2400円とか。ちょっと厳しいです。
 その後、ヨドバシカメラでとある秘密兵器を購入。どんな秘密兵器かは、うまく成功したら、成果を本サイトで披露します。カタログから判断できることが本当にできるとなると、以前ならものすごい金額をかけて、手間ひまもものすごくかかっていたことが、個人事業者の手の届く範囲の金額で可能になります。でも、ものすごくポイントがつく金額でっせ(なぜか関西弁)。具体的なことはまだ申し上げられませんが…。
 カタログと実際では、「あれー、違うじゃん」(なぜか東京弁)ということもよくあるので、絶対とは言えませんが、思い切って投資をしてみました。


●5月10日(木)
 水戸国際で寺田が撮影した三宅貴子選手の写真が、ミキハウスのWEBサイトに掲載されました。これは別に、寺田が頑張ったわけでも、優秀なわけでも、なんでもありません………(以下、昨日と同じ)。
 それにしても、ミキハウス所属選手のレベルは高いですね。これで日本記録保持者が3人(坂上、三宅、小野)、日本歴代2位の選手が5人(桜井、小林、杉林、太田、中西)という陣容になりました(ミズノ、富士通もすごいのですけど)。世界選手権のA標準突破者が3人(桜井、杉林、三宅)、B標準も3人(坂上、太田、小野)です。しかし、日本記録保持者でかつ、A標準突破者は三宅選手だけということになり、まさに“時代は三宅選手”、ちょっと言い換えると“時代は貴子”、“時は貴子”、“常盤貴子”……………………このオチは、S原さんからいただいた原案を、寺田が脚色しました。
 ところで(いきなり真面目な話になりますが)、A標準・B標準はあくまでも、世界選手権に参加する選手数を調整するために設定された基準であって、実際に世界の中でどのレベルに位置しているかを示すものではない(種目によって設定レベルにばらつきがある)、ということを、選手を査定する企業の担当者には、理解してもらいたいと思います。近日中に、このことに関する企画を組みたいと思います。


●5月9日(水)
 水戸国際で寺田が撮影した三宅選手の写真が、国際陸連のWEBサイトに掲載されました。これは別に、寺田が頑張ったわけでも、優秀なわけでも、なんでもありません。寺田はプロのフォトグラファーではありませんから、プロの方が撮った写真のほうが、格段にきれいでしょう。たまたま、国際陸連WEBサイトの記事を書いているケン中村氏(ATFS会員)と面識があり、そのつてで寺田のところに写真提供の話があっただけなのです。それを自慢げに言うのもどうかと思いますが、ちょっとだけ嬉しかったのは事実です。こういった幸運をきっかけに、これからも頑張ろうという気持ちにつながるのなら、それはそれでいいかと、自分を納豆させています(水戸の名産物ということで、お許しください……………これは使えますね。選手はよく、「納得できる走り」だったとか、「この結果には納得できない」とコメントします。水戸国際のテレビ中継で選手が「納豆できる結果です」と話したら、すごい宣伝効果ではないでしょうか。水戸の納豆関連企業の皆さん、検討されてはどうですか……って、アマチュアの陸上選手がそんなことができるはずないか)。


●5月8日(火)
 メールをいただきました。5月4日の「空白&空腹」ネタと、5月6日の「山手線・田端駅&田端選手」ネタは、おやじギャグではないのかと。確かに、今回はちょっと反論できません。で、そのメールへの返信には、以下のように書きました。
「今回はご批評を甘んじて受けたいと思います。阿万亜里沙選手とは、お知り合いですか?」
 阿万選手は100 mで11秒73と当時の日本記録を、高校生(宮崎工高)のときに出した選手で、メールをくれた方が、同じ九州出身の短距離選手(年齢は阿万選手より少し上ですが)だったので、その場でとっさに思いつきました。
 それはおいておいて、田端選手はある記事にも書きましたが、94年の日本インカレ4×400 mRのアンカーで、当時格上だった稲垣誠司選手を逆転した走りを見てから、注目している選手です。今回の水戸は46秒30で5位(日本人4位)。安定はしているのですが、なかなか殻を破るような走り(というかタイム)が、このところできません。ただ勢いだけで走っているのではなく、練習でもレースでも、いろいろと考えている年齢だと思います。田端選手が殻を破ったとき、どうやって破ったのか、その方法をぜひ、聞いてみたいと思います。


5月7日(月)
 瀬戸智弘選手が競馬に造詣が深い(陸上競技マガジン5月号別冊付録「YEAR BOOK 2001」)ように、寺田も推理小説に多少、興味があります。「金田一少年」だけではありません。報告していませんでしたが、「金田一少年」の最終話は無事、古本屋でゲットでき、ロンドン出張前に読むことができました。これも以前に書いたとおり、「金田一パターン」は8割以上看破できますので、犯人を当てることができました。めでたし、めでたし。
 ところで、「What's new index」で昨日、三宅選手の日本新の記事の予告をして、その日のうちに「その時(その1)」というタイトルの記事をアップしました。普通の感覚の方であれば、「これは三宅選手が日本新を投げた『その時』のことを記事にしたのだな」と思われるでしょう。これが、“ひっかけ”で、実は男子400 mで初めて山村貴彦選手に勝った、邑木隆二選手の「その時」を記事にしたものだったのです。
 What's new indexの選手欄に三宅選手の名前は入れていませんし、女子やり投の「その時」だとは、どこにも明示していないのです。「女子やり投日本新の見出しの下に、陸マガの記事を書き終えたら書く、と予告があったじゃないか」と言う人もいるかと思いますが、邑木選手と山村選手の記事は、すでに水戸で書き終えてあったのです。だから、陸マガの原稿を書き終えて最初に書いたのは、三宅選手の記事でしたから、約束通りなのです。
 これは、俗に言う「ミスリーディング」の手法で、最近のミステリーではよく使われている方法です。問題は、読んだ人が「そうか。やられた」と納得するか、「なんだ、この書き手は」と怒るか、です。皆さんは、どちらでしたでしょうか。ご意見をメールください。日本記録の記事をあとにするとはけしからん、という意見には興味がないので、その手のメールは寄こさないように。


●5月6日(日)
 水戸国際取材。朝、7時30分に家を出て、京王線、山手線、スーパーひたちと乗り継いで、競技場に11時前に到着しました。池袋より東に山手線で行ったのは、本当に久しぶりでした。
 三宅選手の日本新、感動しました。ミキハウスのマネジャーの荻野さん(4月8日の日記参照)から、兵庫リレーカーニバルで左足を痛めたと聞いていたので、まさかと思いました。でも、4投目にファウルで60m近くいっていたので、心の準備(日本新が出るかもしれない)はできていました。しかし、60mが出るとは…。旧規格の60m52が、何年日本記録として残っていたのか(記事はこちらで)。
 400 mもすごく見どころ満載のレースでした(記事はこちら)。内心、田端健児(ミズノ)選手が頑張るのではないかと思っていました。どうしてかというと、山手線に乗っていたら、田端を通ったからです………これは正直、書きたくなかったです。
 だったら、書くなよと大原さん(神戸新聞元陸上担当)からメールが来そうですが、田端選手はなぜか気になる選手なのです。羽田空港で会ったとき(2月5日の日記参照)は、美人2人と一緒でうらやましかったのですが、まあ、自分との顔の差を考えたら、仕方ありません。
 それに今日は、寺田も途中まで若い女性と一緒に観戦していましたから、まあいいかって、何がいいのかよくわかりませんが。誰と一緒だったかは、仕事上の秘密ですから言えません。絶対に言わない。シアトルのI.S.さんにも言えません、これは。


●5月5日(土)
 夜、メールをチェックしたら太田さんから、高岡寿成(カネボウ)選手が1万mで日本記録を出した旨のメールが来ていました。今晩中に陸マガの日本選手権展望記事を、先の見えるところまで書き上げなくてはいけなかったのですが、高岡選手と聞いては、記事を書かないわけにはいきません。なにせ、高岡選手は、彼のWEBサイトで寺田のWEBサイトを紹介してくれているからです。その恩返しではありませんが、いつだったか日記に、「どんなに忙しくても、日本記録が出れば記事を書く」と、豪語した記憶もありますし。
 正直、すごいと思いました。すごいと感じた理由は、記事をご覧ください。これで、名実ともに日本トラック史上、最強のランナーと言っていいでしょう。オールドファンは“戦後”という注釈をつけろ、と言うかもしれません。1936年のベルリン五輪で5000m&1万mでともに4位に入った村社選手がいますから。でも、当時、アフリカで独立していた国がいくつあったでしょうか。ケニアの独立は何年ですか? ケニアの選手が、イギリス代表になれたでしょうか?
 あと、世界記録に対する達成率とか、世界リスト何位かとか、その選手の強さを決める際にはいろいろな尺度があります………………………あー、やっぱりやめます。強さを決める基準、尺度はあるのかもしれませんが、「強い」という言葉は形容詞であって、ということは人間が何かと何かを比較して、どちらがどうだと判断をしたときに使う言葉です。強さを決めるのは人間です。だから、どうしても主観的になります。
 記録や順位は比較の対象になりますが、時代の違う人間のそれを比較しても、どちらが強いか判断することなど、できるはずがありません。判断しようとするのは、その時代の人間のエゴです。


●5月4日(金)
 空白の1日。空腹ではありません。貧乏ですけど。


●5月3日(木)
 静岡国際の取材です。今日も早起きをして、小田急、新幹線こだま、静岡鉄道を乗り継いで草薙入り。草薙のように、徒歩3分のところに駅があり、なおかつ、新幹線停車駅までタクシーで2000〜3000円という立地は、いいですね。
 この草薙の競技場には、スペシャルな思い出があります。静岡国際がまだ、静岡リレーカーニバルという名称で行われていた頃のことです。静岡県の片田舎に住んでいた寺田少年はそこで初めて、日本トップクラスの選手の競技を目の当たりにしました。そして幸運なことに2つの日本新を見たのです。
 1つは、男子走高跳の2m25で、阪本孝男(当時筑波大3年)選手。翌月の陸マガには、村木征人助教授の研究室でスパイクを手にする阪本選手の写真が掲載されていました。そこに、当時五種競技日本記録保持者だった内田知子選手がひょっこり顔を出して(そう写真説明には書いてありました)、一緒に写真に写っています。勘のいい方はおわかりですね。この2人は、その後結婚されています。念のために記しておきますが、結婚したのは村木先生と内田選手ではありません。
 もう1つの日本新は、男子円盤投の60m22です。言わずと知れた川崎清貴選手です。この、日本で過去1試合しかない60mスローの目撃者となったのです。もちろん当時は、その記録の価値を知る由もありません。60mでも50mでも、同じ投てきに見えたでしょう。その後22年間、破られないなどと、思いもしません。これは、誰でも同じでしょうが。やはり、知識がなければ、感動はありません。
 ということで、今日も期待をしていたのですが、残念ながら新記録はゼロ。でも、収穫はありました。これだけの競技会に来て、収穫がないなんてことは、寺田の場合ありえません。その一番は、室伏先生に話を聞くことができ、いくつかの疑問点をクリアにできたのです。その具体的な内容は、いつか記事にできると思います。


●5月2日(水)
 3日前の織田記念には、寺田は大枚はたいて出張したわけです。会社や陸連など組織がポンとお金を出してくれる人とは、気合いが違います。たぶん、寺田の方が気楽で……以下2段落、昨日と同じです。
 いろいろな人に会い、「ホームページ見てるよ」と言ってもらえたことは一昨日に紹介しましたが、そのなかの誰かに「タイトルがいまいち」と言われました。それが誰だったか、本当にたくさんの人と話したので覚えていないのですが、たぶんフォトグラファーのK本氏だったと思います。違っていたら、謝ります。
 確かに自分でも、もうちょっとなんとかしたいな、という気持ちはあります。でも、さんざ悩んだすえ、スマートなタイトルより、多少格好悪くても内容をストレートに表すタイトルにしようと思ったのです。実は試験公開している時期(今年の1月末〜2月23日)に何度か、タイトルを変えています。その頃、「○○的」ってのは古いよな、などと感じていました。しかし、やはり同じ頃に、テレビでキムタク(もちろん「HERO」)が「オレ的には…」というセリフを話していたので、だったら寺田的もいいかな、などとテレビを見ながらその場で、このページのタイトルが決まりました。
 明日は静岡に出張です。どんな人と、どんな話ができるのでしょうか。


●5月1日(火)
 一昨日の織田記念には、寺田は大枚はたいて出張したわけです。会社や陸連など組織がポンとお金を出してくれる人とは、気合いが違います。たぶん、寺田の方が気楽で、お金を組織に出してもらっている人の方が、「いい仕事をしなくてはいけない」と、プレッシャーがかかっているでしょう。スタンド下には、そういう人たちがたくさんいましたが、やっぱり寺田とは目つきが違います、真剣です。でも、寺田は自分の目つきを見ることができないので、それを実証することができません、残念ですが。
 何が言いたいのかというと、せっかく大金をかけたのだから、織田記念のネタでこの日記も引っ張ってしまおう、ということです。それでは日記じゃないじゃないか、と言うあなた、3度目ですが言わせてもらいます。ブータンの首都を言ってみろ。
 織田記念の会場で、学生時代に陸マガでバイトをしてくれていたU田さんに会いました。といっても彼女がバイトをしてくれていたのはもう、10年ほど前のことです。俗にいうところの気だてのいいタイプで、彼女が卒業して郷里に帰るときは、ずいぶん寂しく感じたものです。彼女は教職に就き、結婚もして、現在は2児の母親でもあります。それでも中学で陸上部の指導をして、織田記念の中学女子4×100 mRでチームが3位に入ったと、大喜びしていました。
 記録は400 mの柿沼和恵(ミズノ)選手の優勝記録にも及びませんが、柿沼選手もかつては、そういったチームの選手の一員だったはずです。以前、似たようなことを書いたと思いますが、日本の陸上界は、こういった人たちによって支えられているのだなあと、安芸の雨空のもと、しみじみと感じました。



昔の日記
2001年 1月 2月 3月 4月