続・寺田的陸上日記     昔の日記はこちらから
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◆2006年3月25日(土)
 今日は日帰り出張取材。出張という表現は、古巣のベースボール・マガジン社にならって、100km以上の場所へ行った場合に使おうかな、と今、思いつきました。地方自治体や学校などでは、同じ市内に出かけた場合でも出張と言うケースもあります。電話口で「○○は出張で不在です」と言われて、後日当人に確認すると、ちょっと出かけていただけ、ということもよくあります。まあ、出張をどう定義するかは、その組織の考え方次第というか、自由ですから。
 どこに行ったのかは明かせません。9:30に新宿の作業部屋を出て、21:30には多摩市の自宅に戻りました。飛行機を使えば、取材時間次第では札幌でも沖縄でも日帰りはできます。という言い方をするときにかぎって、意外と近くのことが多いですね。さて、どこでしょう。以下の記述から推測してみてください。

 21日に続いて陸マガの「STEP UP 2006」企画です。12:30にはその大学に到着。最近は、中距離で好選手が出ている大学です。先に監督の話をお聞きしました。世界選手権やアジア大会など多くの日本代表を育てた、日本陸上界を代表する名コーチの1人だと思います。
 13:30からは練習の写真撮影。今日もカメラマンを兼ねての取材でした。絵柄を事前にイメージしていたのですが、21日の取材と同様に、実際にレンズ越しの絵柄を見ると、予想していた絵柄とは若干のズレがありました。協力をお願いした選手には申し訳ないのですが、人数を絞って撮り直し、イメージに近い絵柄を撮ることに成功。選手の表情に今回も助けられた形ですね。
 練習が終わり、選手のインタビューという段になって、どこで話を聞くかで悩みました。近くにファミレスがあるのか監督に質問すると、「ファミレスも喫茶店もない」とのこと。監督の研究室は、人の出入りが多くてインタビューをするには難しそうでした。寺田が悩んでいると(美人)広報の方が「106でどうぞ」と、人の出入りが少ない部屋を用意してくれました。その上、コーヒーまで淹れてくれる大サービス。今日は確認しませんでしたが、1年ほど前はドトールの豆を使っていると話していました。

 インタビューでは今日も、面白い話を聞くことができました。21日の取材では、テーマの数は少なかったのですが、どのネタも深く突っ込んだ話を聞かせてもらえました。今日は対照的に、1つ1つの深みは前回ほどではありませんが、幅広く聞くことができた。選手の年齢的な違い、キャリアの違いから生じた現象ですが、新しいネタも多くて「そうだったんだ」という話の連続でしたね。監督の話と合わせて、面白い記事が構成できそうです。
 さて、寺田の出張先がわかった方は、「オマエの出張先はここだ」のタイトルでメールをください。正解の発表は来月14日あたり。


◆2006年3月26日(日)
 何週間かぶりに、試合取材のない週末でした。何カ月かぶりに、自宅とその近辺で過ごしました。といっても、仕事は相当に切羽詰まっています。今日は130行原稿を2本、書きました。本当は60行と40行原稿も2本ずつ書き終えたかったのですが…。
 明日の取材の予習も少々。取材中に使えそうなジョークを2つほど思いつきました。忙しいときほど、頭が回転することも有馬義裕という200 mの強い選手が昔いました。
 なぜか少し先のスケジュール確認作業もして、ホテルの予約もいくつかしました。4月第4週はロンドン・マラソン取材をあきらめ、出雲陸上&兵庫リレーカーニバルに行くことに。純粋に予算の都合だけ、とも言えなくて、つまり、諸般の事情です。諸般の事情イコール内緒ということですね。出雲には有力選手が多数参加する、という噂も聞きますし、神戸への移動もそれほど大変ではありません。
 5月第3週は東日本実業団と関東インカレが重なりますが、恐らく東日本実業団に行くと思います。きっと今年も、畑山茂雄選手が快投を演じてくれそうな気がするので。でも、場所が宮城スタジアムとは。最も交通の不便な陸上競技場の1つです。シャトルバスが出なかったら、関東インカレに変更するかもしれません。

 昨日の日記で募集した「オマエの出張先はここだ」メールは、まずまずの反響。正解率はしばらく0%で、ちょっと難しかったのかな、と思っていました。競技的な部分の記述は“ひっかけ”ができるところですので注意が必要です。
 しかし、終盤で的中メールが続いて33%の正解率に。「○○大以外、どこがあろう」と、自信の回答を寄せてくださったのはD先生。どうして、そこまで確信を持てるのでしょうか。美人広報の件はまだ、それほど知られていることではないはずですし…。謎や! は朝原宣治選手の口癖です。


◆2006年3月27日(月)
 12:30に幕張の富士通システムラボラトリに。富士通の来客プレートを胸に付けたのは、01年に藤田敦史選手を取材して以来のような気がします。今日は陸マガの旅立ちの春企画の取材でした。同社の新入社員7人を取り上げます。
 一昨日の取材は場所を明かせないのに、どうして今日は取材対象をこうして書けるのか。それは、ライバル誌と合同取材だったから、隠す必要がないのです。試合以外の共同取材はできれば避けたいのですが、取材を受ける側もそうそう時間があるわけではありません。選手全員が顔を揃える機会というのも同じです。
 しかし、写真は同じ絵柄にならないように工夫しますし、インタビュー用に広い部屋を青柳マネが用意してくれたので、各選手の話も別々に聞くことができました。正直に言えばプレッシャーはめちゃくちゃあるのですが、同じ業界誌が2つある以上、これは避けられないこと。びくついてばかりいても仕方のないことです。

 ところで、こういうケースにライバル誌のスタッフはお互いどのように振る舞うのか、皆さん興味があるところではないでしょうか。正確に言うのは難しいのですが、大げさに言えば、WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)の準決勝のような雰囲気です。寺田が静岡県の出身なのに対し、ライバル誌O村ライターは隣の愛知県ですから、同郷のイチローに自分を見立て、“負けることは許されない”覚悟で臨んでいます。
 取材前に2人はガンを飛ばし合いました。お互いの瞳に炎がメラメラと燃えさかり、大阪ガスの小坂田淳選手もビックリするほどだったと思います。このときばかりはイチローと韓国投手というよりも、花形満と星飛雄馬のようだったかもしれません。

 しかし、今回に限れば、寺田が大リーグボール2号(消える魔球)を投げられたので、ちょっと有利だったでしょうか。これでは、例えが高度すぎてわからない? 星飛雄馬の大リーグボール2号は、高く振り上げた足から落ちる土が、ボールが通過する際に縫い目にからみつくのです(詳しくはこちらに)。そして、ホームベース直前で縦の変化をして地面の土を巻き上げ、二重の土煙が保護色となって打者の目にはボールが識別できなくなるのです。
 余計にわからなくなったでしょうか? つまり、今日の取材の前に寺田は、ネタを仕込むことができていたのです。それも2つ。1つは必然で、もう1つは偶然で。そのおかげで、1人1人のインタビュー時間は短かったのですが、今日も面白い話を聞くことができました。
 でも、大リーグボール2号は、花形に打たれてしまいますね。まあ、結果は次号発売日に明らかになるでしょう。


◆2006年3月30日(木)
 朝の新幹線で福岡入り。原稿を大量に抱えているので、飛行機は使えません。飛行機では、離着陸の前後はもちろん、チェックインや荷物受け取りに要する時間や、羽田まで行く間なども原稿を書くことができません。原稿を書く時間は飛行機の離陸後しばらくしてからで、着陸態勢に入るまで1時間あるかどうか。その点、新幹線なら東京駅から博多駅まで、4時間以上は原稿が書けます。
 博多駅に14時着。ホテルに荷物を置いて、会見場所に向けて出発したのが14:30頃。移動中にいくつかの連絡をしようとしましたが、やっぱり新幹線からの携帯電話連絡は無理があります。ホテルを出たところで電話連絡を数本しました。

 会見場は福岡市役所で西中洲のホテルから歩いて行ける距離。会見は当初、大会本部ホテルのシーホークホテル(福岡で一番大きいホテルだそうです。日本一ではないとのこと)で行われる予定でしたが、直前に福岡市役所に変更されました。
 会見に先立ち、結団式・激励会が、市役所のふれあい広場で行われました。そこにはゲストとして野口みずき選手も参加。明確に覚えているわけではありませんが、イベントに出席している野口選手を見るのは初めてかも。国体や全日本実業団での表彰では、よく見ていますけど。全日本実業団ハーフマラソンで取材していますが、私服姿は久しぶり。髪型は変わっていましたし、メイクした顔も久しぶりのせいか、新鮮な衝撃といったら大げさですが、そんな印象を受けました。

 会見の模様は記事にしました。会見場は市役所の庁議室で。庁議室というのが耳慣れない名前だったので、どういう意味なのか質問しました。庁は、庁舎の庁のようです。市役所の役職がある一定より上の人間が会議に使う部屋、という意味のようです。
 会見後はシーホーク・ホテルに移動。アクレディテーションをしましたが、世界選手権などと比べるとずいぶん、簡略化されていて、身構えるほどでもありませんでした。まあ、海外のように英語で話す必要はありませんから、なんということはないのですけど。
 メディアセンターもホテル内は“サブ”という位置づけ。それほど大きい部屋ではなく、主催者側のメディア対応の人間も同じ部屋にいて、めちゃくちゃに忙しそうにしています。ホント、大変そうです。20時までに会見の記事を仕上げ、バスで天神に移動。自分の泊まるホテルで、抱えている原稿をひたすら書きました。


◆2006年3月31日(金)
 朝の8:35にホテルを出発。今日の行動は秘密ですが、夕方にはシーホークホテルに。

 ホテル1階のミズノのホスピタリティ・ルームに行くと、シューズ担当の河野さん(筑波大OB)がいらして、室伏広治選手の投てきシューズや、小林祐梨子選手のシューズについて、とっても参考になるお話しを聞かせていただきました。
 プロモーション部の鈴木さんはモスクワには行ったことがあるのに、陸上競技の仕事で福岡に来るのは初めてだと言います。高校時代に修学旅行で来たことが一度あるだけだそうです。鈴木さんは群馬の農大二高OB。100 m元日本記録保持者の宮田英明選手の1学年先輩だったか後輩です。高校の頃は鳥羽完司先生にしぼられたと言います。どこの高校も同じでしょうけど。

 その鳥羽先生も今回、日本チームのコーチとして福岡に来ていらっしゃいます。教え子の深津卓也選手が代表入りしているからですが、「鳥羽先生が日本チームの赤いブレーカーを着るのは、1984年以来22年ぶりのこと」(鈴木さん談)だそうです。この記述でピンと来た読者は陸上通。そう、前回はあの不破弘樹選手が、高校3年時にロス五輪に出場したときです。
 これを聞いたときは鳥肌が立ちました。鳥羽先生の頑張りを象徴していますね。以前は不破選手、太田裕久選手、宮田選手と100 mで日本記録を出した選手を3人も育て、近年は高校駅伝など長距離で実績を残しています。長距離の強豪校から、単発的に短距離の好選手が育つことはありますが、両方でここまで多くの選手を育てている指導者は、めったにいないでしょう。浜松商・杉井将彦監督(現浜松市立)がそれに近いでしょうか。もうちょっと昔だと、たくさんいると思いますが。

 陸マガ時代の上司、野口純正氏も大会組織委員会のスタティスティシャンとして来福。陸マガで同じ釜の飯を食べた人間が、お互いに独立し、それぞれの仕事で同じ会場に来る。ちょっと嬉しいことです。
 聞けば、携帯電話を持たされているとのこと。鈴木さんの福岡と同じで、初体験ではないかと思われました。陸マガ関係者とT大学の選手たちの間では有名な話ですが、野口氏は携帯電話を持たない人間なのです。ところが、確認したら「3回目」だと言います。91年の世界選手権と96年のアトランタ五輪のとき以来。そういえば、アトランタに電話をした覚えがありました。
 ところが、昨日は携帯の電源をオンにすることができなかったといいます(何のために持っていたのでしょうか)。長押しする、という携帯電話によくある操作方法を知らなかったのだそうです。


◆2006年4月1日(土)
 8:30に大会本部のシーホークホテルに。世界クロカンとは直接関係がありませんが、とある朝食会に出席させていただきました。具体的な内容についてはいずれ、紹介する機会もあるかと思います(と書いて、実現した確率は何%くらいだろうか)。

 11:05には会場の海の中道海浜公園に。IAAF主催のバリバリの国際大会ですが、役員や補助員の方たちが日本人ですから、海外取材とは雰囲気がまったく違います。国内試合に近い雰囲気ですね。97年か98年にグランプリ・ファイナルが福岡で開催されましたが、そのときも同じように感じました。
 メディアセンターに行くと、確かに外国人記者やカメラマンも1〜3割はいていつもとは違うのですが、陸上競技担当記者はいつもの面々。もちろん九州ですから、九州の陸上競技担当記者や西日本新聞の方たちも。でも、全日本実業団ハーフから3週間しかたっていませんから、“いつもの”に近い感覚です。ミックスドゾーンを下見していると、九州陸上記者の雄、毎日新聞・百留記者と九州陸上ライターの雄のT女史(女性ですから顔出し不可)の姿がありました。

 メディア・センターには福岡大・片峯隆監督の姿も。片峯先生は走高跳の元日本記録保持者ですが、福岡陸協の役員ですから、福岡国際マラソンでも必ずお会いします。あることのお礼を述べた後、先週の土曜日に新宿駅構内を歩いていなかったか、お聞きしました。「オマエの出張先はここだ」クイズを出した大学に取材に行く朝、埼京線に乗ろうと新宿駅を歩いていて、アレ? っと思ったのでした。あの口ひげとぱっちりした目元ですから、やはり目立ちます。
 電車の時間が迫っていたので、追いかけて挨拶をすることができませんでした。聞けば、日本学連の重要な会議があったそうです。プライベートな用事だったら、ここに書くことはないわけですが。
 次にお話ししたのが中国新聞・渡辺デスク…じゃなくて、運動部長になられたそうです。中国新聞は巨漢記者の小笠さんがデスクで、以前デスクと書いた下手記者は正しくは東京支社勤務。そういえば、渡辺部長も以前、東京支社勤務でした。こうしてみると、中国新聞では陸上競技を担当することが出世コースと言えそうです。
 ということで中国地区の陸上選手は、現担当の山本記者と仲良くしておくと将来いいことがあるかもしれませんが、そういった下心をもって人と接すると、ろくなことはないでしょう。などと、他社のことであれこれ書くのはやめましょう。

 開会式が12:30からですから、それまではコースに入ることもできました。これが、スタート地点で、こちらがフィニッシュ地点です。フラッシュ・インタビューZONEには野口純正氏の姿も。パソコン(富士通製品でした)の基本的な使い方の質問を受けました。以前この日記で、ウィンドウズが普及する前に国内で圧倒的なシェア(90%以上だったらしい。未確認)を誇っていたNECの98パソコンの使用時間は日本一(=世界一)ではないかと書きましたが、ウィンドウズ関連の操作は、携帯電話同様(昨日の日記参照)初心者なみです。
 T大学の皆さんも同様の質問を受けていることと思いますが、人それぞれ、得手不得手があるということで。普段の言動はとても普通の人とは思えませんが、こういったところは人間的です。携帯電話の電源を入れられないのは、普通でないかもしれませんが。

 12:30からオープニングセレモニー。公園の真ん中に設備を造ったためでしょう。国旗掲揚ポールが木製だったりして、スタジアムで行ういつものセレモニーとは雰囲気がまったく違います。新鮮で良かったと思います。圧巻はメダリストたちが多数(全員マラソンです)、セレモニーに参加してくれたこと。男子は君原健二さん、谷口浩美沖電気監督、森下広一トヨタ自動車九州監督、そして佐藤信之トヨタ紡織コーチ(写真)。4人の現役当時の所属は君原さんが八幡製鉄で、あとの3人は旭化成でした。やっぱり九州ですね。
 開会式後の短い時間で昼食をとりました。国内試合のほとんどがお弁当ですが、今回はメディアセンターにビュッフェがありました。海外仕様で新鮮でした。スタンドのプレス席には、関係者にはお馴染みのエプソンの情報端末も。リアルタイムでリザルツが検索できます。今回、場内アナウンスで定点通過やフィニッシュ直後に、タイムや団体順位が通告されていましたが(大阪世界選手権事務局の関幸生氏の声でした)、それは、このシステムがあるから可能となること。できれば、全国大会クラスにも導入してほしいのですが、さすがに予算的にかかるものでしょう。その他には、有線LANの完備していたので助かりました。

 13:30にジュニア女子の部がスタート。しましたが、その後のことは時間があったら書きます。時間はあるに決まっています。こちらの問題です。


◆2006年4月7日(金)
 いつの間にか4月も1週間経ってしまいました。この1週間、マジであれでした。
 3月30日に福岡入りして、4月2日までいましたから、今年は毎月九州に来ていることになります。1月が北九州女子駅伝、2月が熊日30km、3・4月が世界クロカン。でも、この後が続かない。5月のゴールデンゲームズin延岡の取材は、今のところ難しそう。6〜8月も取材する試合はありません。
 しかし、9・10月と月をまたいで全日本実業団の取材で大分に行きます。そして最後は12月の福岡国際マラソン。7カ月の九州滞在は過去最多のはずです。意表を突いて11月に九州一周駅伝に行くという手もありますね。熊日30kmほどではありませんが、一度は行ってみたい大会です。
 あとは、九州の選手が日本記録を出せば、行けるかもしれません。可能性があるのは三津谷祐選手(トヨタ自動車九州)とか、石川和義選手(三洋信販)とか、桜井里佳選手(福岡大)あたり。大分出身の成迫健児選手が日本記録を出しても筑波での取材でしょう。つくばエクスプレスに乗れるのは、それはそれで素晴らしいことなのですが。熊本出身の末續慎吾選手が日本記録を出したら、小田急ロマンスカーじゃなくて小田急の急行に乗れますから、それはそれで素晴らしいことです。岡山のSP記者こと朝日新聞・小田記者などは金重デスク(関学大陸上競技OB)から「小田、急いで原稿書け。小田急より速く書け」と、言われているのかどうかは、まったく知りません(わざと低レベルにしています)。

 世界クロカンの2日目から今日まで、ネタはかなりあったのです。3日の月曜日にはカネボウの移転会見がありましたし、4日の火曜日には新しいコピー機が作業部屋に来ました。6日(昨日)にはミズノで内藤真人選手と末續慎吾選手のシーズンイン直前会見がありました。
 しかし、2つの会見以外は作業部屋に籠もりっきり。月曜日には陸マガ次号付録の選手名鑑の原稿の最終提出分を書き上げました。全部で90人。福岡でも夜と朝はずっと、この原稿にかかっていて、持っていった資料が半端じゃなく重かったです。キャリーケース(?)は15sくらいだったと思います。帰りの空港では端数を切り捨ててもらって事なきを得ました。「あと1s重かったら追加料金ですよ」と優しく言われました。博多のエアポートオフィサーは、ドゴール空港よりも人情味がありました。まあ、もしものときは、世界クロカンの資料を手荷物に移し替えようと思っていましたけど。
 月曜日の夜から火曜日の夕方にかけて、60行原稿を4本。3月中に取材を済ませてあった人物ものです。火曜日の夜に陸マガSTEP UP 2006企画を1本。130行を書いて、水曜日には世界クロカンの原稿80行を2本と、もう1本STEP UP 2006企画の130行。水曜日の夜に陸マガ旅立ちの春企画の原稿130行を1本。木曜日も同じく。旅立ちの春企画の原稿130行を1本。
 その間にイギリスの出版社とメールで連絡を取り合って、ATFSの記録年鑑「ATHLETICS 2006」の表紙写真をメールで取り寄せました。菅原勲さんから日本での販売業務を引き継いだのです。

 原稿ラッシュはまだ終わっていません。明日が400行、明後日にも150行の締め切りがあります。こんな日記を書いていていいのか。
 桜はまったく見ていません。桜井里佳選手は福岡で見かけましたけど(?)。開花状況はどうなのでしょうか。桜を気にするくらいなら、1行でも多く原稿を書かないといけない状況です。これがよく言う「花よりゲンコウ」……今年の春は寒いですね。


◆2006年4月8日(土)
 今日は東京六大学が駒澤公園陸上競技場で行われましたが、400行原稿の締め切りもあったりします。さすがに、原稿依頼もないのに取材を優先するわけにはいきません。原稿優先です。
 締め切りの原稿は400行といっても一本原稿ではなく、50行が8本という形。昨晩のうちに2本を書き終わっていて、今日の14時までにもう2本を書きました。ちょうど半分です。かなり迷いましたが、思いきって駒沢に行きました。16:05から4×400 mRだと聞いていたので、金丸祐三選手の大学デビュー・レースだけは見ておこう、という強い気持ちからでした。
 15:40くらいに競技場着。駒澤公園で初めて、桜を見ました。お花見の人たちもいっぱい。世間は春爛漫。

 競技場に着いたのが最終種目の数10分前というタイミングですから、さすがに「報道です」と名乗って受付はできません。プログラムや記者IDの入手はあきらめ、スタンドからラップ計測に専念しました。スタンドには陸マガの駅伝・マラソンの分析記事でお馴染みの出口庸介先生の姿も。聞けば「今年は行ったことのない大会に、できるだけ足を運びたい」とのこと。寺田が熊日30kmに行った動機と共通するものがあります。というか、ほとんど同じです。
 金丸選手のラップは寺田の計測で45秒82、隣で測っていた野口純正氏が45秒87。このくらいは計測誤差の範囲内です。ただ、0.1秒単位にすると45秒8と45秒9に分かれてしまいます。陸マガに載る非公式計時は、そういった性格のものです。完全に正確な計時ではありませんので、その点にはご留意願います。ただ、何度も書いていますが、これまでの経験から、正規の電気計時と±0.05秒の範囲内で計測できるのは確かです。

 4×400 mR終了後、金丸選手のコメントを聞きに行きました。専門2誌だけでなく共同通信、朝日新聞、読売新聞、テレビ2社(1つはTBS池田クルー。もう1社は不明)が取材に来ています。東京六大学では異例の多さ。はっきりした記憶はありませんが、渡辺康幸選手の頃も、ここまで多くはなかったのでは? 土江寛裕選手が日本のトップに成長したのは大学4年の関東インカレからですから、ここまで多くはなかったでしょう。
 瀬古利彦監督が選手だった頃がどうだったのか、そこまではわかりません。推測ですけど、今日より多かったのではないでしょうか。それほど、当時の瀬古人気はすさまじかった。ボストン・マラソンに出場するだけで専門誌が増刊号を出したのですから(専門誌も商業誌です)。ボストンの格も当時は、今とは違って高かったんですね。

 金丸選手の取材が一段落すると閉会式。その時間を利用して、東京高の大村・小林両先生に朝日新聞・堀川記者と一緒に挨拶に行きました。実は昨日も、森千夏選手のこと(東京高陸上部参照)で小林先生に電話を入れていました。そのときに、昨日の朝日新聞朝刊で、森選手の記事が掲載されたことを知りました。さっそく購入すると、三段抜きのかなり大きな記事。全国紙の運動面でここまでのスペースをとるのがどれほど大変なことか、寺田も業界人ですから理解できます。当事者というわけではありませんが、陸上競技に関係する人間として嬉しく思いました。
 両先生に話を聞くと、治療についての情報も含め、かなりの反響があったそうです。やはりこういうことは、大新聞やテレビの力を借りるのが有効です。TBSも協力する方向で動いていると聞いています。陸上界内部の方も、できる限りの支援をお願いします。

 閉会式後には取材を再開。他社の記者たちは再度金丸選手に行きましたが、寺田は近くに相川誠也選手を見つけ、今季に懸ける思いを取材しました。実は昨晩書いた記事のなかに、相川選手に関する記述があったのです。今日聞いたコメントを、後で付け加えました。これは陸マガ次号です。その記事中で相川選手、高平慎士選手(順大)、佐分慎弥選手(日体大)、金丸選手の100 mのベスト記録を記載していますが、相川選手は全員の自己ベストを性格に記憶していました。自分だけ、高校時代の記録が残っていることも(金丸選手も高校の時の記録ですが)。それだけ、今季に懸ける思いが強い…と断定はできませんが、たぶんそうだと思います。単に、伊東浩司選手並みに専門誌を精読しているだけかも。
 スタンドでもある程度の情報を得ていましたが、閉会式前くらいに全種目の記録も確認することができました。ビックリしたのは800 mで下平芳弘選手が、新人の横田真人選手に敗れたこと。下平選手の調子がどうだったのかわかりませんが、横田選手がメチャクチャ強いということでしょう。昨年は、初めて1分50秒を切って波に乗ったのが、今大会でした。その後は日本選手間で全勝。しかし今季は、横浜インドアで別の組ながら横田選手が善戦していました。
 ということを寺田の頭の中で整理ができたのが、数時間後。相川選手のあとに、下平選手の話も聞きました。取材の準備が不十分で、イマイチ焦点の絞れない質問の仕方に。反省材料です。でも、下平選手についてはもっと、聞きたいことがあります。ここを突っ込みたい、という点が。具体的には企業秘密ですけど。

 今日は東京六大学の他にも金栗杯熊本中・長距離選抜が行われています。これは熊本陸協のサイトで結果が確認できるので安心できますが(小林祐梨子選手が5000mで高校歴代3位)、中京大土曜記録会に出る室伏由佳選手の結果は、サイト経由の入手は難しそう。駒澤大学駅まで歩く間に、ミズノ長谷川純子マネに電話を入れました。共同通信・宮田記者が一緒だったので、好記録が出ていたら全国に配信してもらえます。寺田なりに、そういったことも考えています。


◆2006年4月9日(日)
 8時前には起床。すぐに出発すれば日体大・中大対抗戦に間に合いましたが、今日も原稿優先です。
 昨日は50行×8本原稿のうち、4本を残して東京六大学に行ってしまいました。往復の移動時間を含めても、3時間半の取材のはずでしたから…。新宿の作業部屋に戻って21:30までに2本を書き上げ、6本分をメールで提出。食事をしたら体力的にきつくなり、先に1時間半ほど休息。夜中の0時くらいから最後の2本を書きました。たぶん3時半くらいに終わったと思うのですが、集中力が維持できなかったので、推敲作業は朝にすることに。しっかり4時間は睡眠をとって8時前には起き、9時半頃には原稿の見直しも終えて送信しました。
 一安心です。支度をして、さあ日体大に行くぞというときに、ある関係者から電話が入りました。ミズノの信岡沙希重選手がアメリカで23秒36と11秒47で走ったと言います。MTCサイトを見ると結果だけでなく、コメントまで掲載されています。今季の信岡選手はかなり良さそうです。22秒台、行くんじゃないでしょうか。さっそく寺田のWEB上でも紹介させてもらった次第です。

 日体大に着いたのは12時頃。ミズノ・中村総監督はこちらの顔を見るなり「信岡がいい記録で走りましたよ」と言ってきます。続いてプログラムを貰おうと本部席に行くと、元伊奈学園高の田中先生がいらっしゃいました。日体大OBで信岡選手の高校時代の恩師です。ミズノのプロモーション部に配属されたばかりの田川茂氏をはじめ、ミズノの営業の方たちも4人来ていましたし、当たり前ですが日体大・水野増彦監督もいらっしゃいました。
 取材に来ているのは専門2誌と寺田だけ。実は開始時間だけ陸マガ経由で聞いていて、詳しいタイムテーブルは入手していませんでした。すでに男女の100 mは終わっていて、佐分慎弥選手を見逃したか、とちょっとだけ後悔しましたが、同選手はエントリーしていませんでした。
 試合結果は、日体大・中大にしてはちょっと物足りないもの。大物選手が少なくなりました。5000mの長距離勢だけでは寂しいですね。トラック&フィールドの選手が頑張らないと。長距離もトラック&フィールドですけど。日体大の畑山茂雄選手や藤巻理奈選手、中大の室永豊文選手や小栗忠選手など、OBたちも来ていましたが不参加。110 mHの全カレ・チャンピオン、隈元康太選手だけがオープンで出場し、14秒09で2番手以下を圧倒していました。

 しかし、畑山選手は円盤投終了後に即席のクリニックを、中大の選手に行なっていました。円盤投全体のレベルアップが急務と考え、積極的に自身の経験や技術を若手選手に伝えようとしています。さらに60mへの手応えというか、新たに気づいた動きについて、面白い話を聞くことができました。30歳が近づき(来年の3月で30歳)、記録も60mに届こうとする段階でなお、新たな発見がある。円盤投も奥深いです。何かを極めようとしていくと、なんでもそうなのでしょうけど。
 隈元選手にも話を聞きました。昨年は記録的には13秒8台でしたが、今季は一気に記録を伸ばす手応えがあるようです。原稿を書き直さないといけないかも(何の原稿?)。
 中大長距離の田幸寛史監督には趣味のことから聞き始めたのに、話は800 mに出場した上野裕一郎選手のことに。今季のビジョンを聞くことができました。ちょっと新鮮な話でしたし、こちらが間違って解釈していた部分があったことももわかって、有意義な話でした。

 ところで、日体大といえば“えっさっさ”。新入生たちは1週間の新人研修期間のようなものがあって、そこで“えっさっさ”を身体に覚え込まされます。両脚を前後に大きく開いてグッと腰を落としますから、普段は使わない筋肉に負担がかかります。それで、筋肉痛になる新入生も多いのだそうです。通称“えっさっさ筋(肉痛)”。それで、森賢大選手は14分30秒かかってしまった、のかもしれません。
 もう一度ところで、森賢大選手は鹿児島出身。鹿児島といえば桜島ですが、日体大の校章も桜(ですよね。万が一違っていたらメールを)。グラウンドの周囲には桜が咲き誇っていました。
 以前にも書いたかもしれませんが、寺田はお花見をしたことがありません。専門誌はこの時期、めちゃくちゃに忙しいので花見どころではないのです。もう20年近く、そういった生活をしているわけです。今日も、締め切りを抱えています。陸上競技専門誌関係者で花見をしたこととがあると言っている人間がいたら、モグリです。中大男子一般種目の監督は、小栗忠氏です。


◆2006年4月10日(月)
 カネボウの移転会見から1週間が経ちました。先週はバタバタしていて日記を書けなかったので、1週間遅れですが紹介したいと思います。
 カネボウというとバリバリに“西”というイメージです。防府を離れることが確定的となった頃から、移転先は関東だと言われてきました。やがて東京と判明しましたが、その段階でもまだ、あのカネボウが東京で活動することはイメージできませんでした。これは鎌田俊明・伊藤国光両選手の現役時代を小さい頃に見て、最近は早田俊幸・高岡寿成両選手を取材させてもらった立場だから思うことなのかもしれません。一般の陸上競技ファンの立場で見たら、“世界で活躍するカネボウ”ですから、拠点が山口県にあろうが東京にあろうが、イメージは同じかもしれません。

 しかし、選手たちにとっては、やはり東京に移るのは大きな出来事です。高岡寿成選手は「薩摩(鹿児島)出身の入船敏兄弟もいます。江戸無血開城をやった維新のときの長州(山口県)の心境ですよ」と、会見後に話していました。東京でも絶対に結果を残すんだ、という決意の表れです。次のようにも話してくれました。
「東京行きは“京つながり”の一環です。僕が京都の出身で、山口県は西京と言われている土地で、今回、東京に来ました。そして、最大の目標としているのが北京です。南京が入ってこないのですが、北京を走った後に南京に旅行に行こうかな、と考えています」
 なかなか綺麗につなげましたし、高岡選手の覚悟のほどもわかります。が、南京旅行というのはいかにも、とってつけた感じがします。「東京は物騒だから南京錠をつけた」というオチの方がいいよ、とアドバイスしました。


◆2006年4月11日(火)
 カネボウ移転会見のエピソードの続きです。
 “西”のイメージの強かったカネボウですが、こうして会見が東京(虎ノ門の一流ホテル)で大々的に行われると、本当に来たのだな、と思えます。しかも、今回からは同じカネボウでも、カネボウ化粧品の勤務。しっかり、オフィスにも出勤します。
 資生堂の女子選手には伝統的に、化粧品会社の選手というイメージがあります。松田千枝選手から谷川真理選手、そして今の選手たちと。しかしカネボウの男子選手にそのイメージが定着するのは、ちょっと先でしょうか。

 先週の会見はいつもの陸上競技担当記者たちが半数以上でしたが、そうでない記者の方も多かった。それだけ、社会的にも注目されているということです。純粋に競技的でない質問も多かったですね。
Q.好きな練習は何ですか?
高岡 TTです。TTとは、タイムトライアルのことです。
Q.好きな言葉は?
高岡 TTです。“ターゲットはタイムなり”のことです。
Q.毎朝のメイクに要する時間は?
高岡 メイクはしていませんが、朝練習のスピードは時速20kmです。AS20が自慢です。

 という質疑応答があったわけではありません。

 実際には、会見後の囲み取材の時に「東京に来た今の心境を何かに例えると?」と、聞かれた高岡寿成選手は次のように答えました。
「例えるのは難しいですけど、『山口の桜も綺麗でしたが、東京の桜も綺麗だった』と言えるようにしたいですね」
 化粧品メーカーの選手らしく、本当に綺麗にまとめました。


◆2006年4月12日(水)
 昨日の日記で資生堂の女子選手には、伝統的に化粧品会社のイメージがあると書きましたが、だったら資生堂の男子選手はどうなんだ、と知り合いの方からメールをいただきました。今でこそ男子の活動はしていない資生堂ですが、川越学監督、比嘉正樹選手(98年北海道マラソン2位。現宜野湾市議員)、安養寺コーチといったメンバーが過去、選手として頑張っていました。安養寺コーチは間違いなく、化粧品会社的な選手だったと思います。川越監督は、九州男児です。

 いくつか訂正があります。
 まずは出雲陸上の日程です。3月26日の日記に出雲陸上と兵庫リレーカーニバルを両方取材すると書きましたが、これが大間違いでした。出雲陸上は22日も行われますが、トップ選手たちが出場するのは23日。兵庫とまったく同じ日でした。梯子取材することはできません。
 逆に今週末の15日(土)は、東海大・日大が町田で行われ、カネボウ勢が出場する日体大長距離記録会が健志台で行われます。直線距離で約6kmですから、タイムテーブル次第では両方に行けるかな、と考えていました。ところが日体大長距離記録会が16日で、実家で法事があるため取材に行けません。
 ロンドン・マラソンが例年より1週間遅くなったことに端を発し(因果関係があるわけではありませんが)、日程に恵まれない状況が続いています。

 午前中に醍醐直幸選手に電話をしました。先月の取材の際に引っ越し先が決まっていなかったので、掲載誌の発送先を確認するためです。そのときに、次は和歌山に出場すると聞きました。日本選抜混成・和歌山大会も出雲と同じ4月22・23日の開催。混成競技は2日間で実施されますが、単独種目が土曜日に開催されれば和歌山・神戸と梯子取材ができます。ところが、男女の走高跳は日曜日の開催。
 こういった日程の重なりって、どうなのでしょうか。土曜日では集客に影響が出るのでしょうか。それとも、金曜日に現地入りするのが難しい選手が多いのでしょうか(学生選手は難しいかもしれません)。
 報道のことを考えたら、1日ずらすのがいいに決まっています。陸上競技担当記者が1社に何人もいるとは限りませんし、他の競技も行われているのです。今回でいえば、出雲・和歌山の取材は間違いなく優先順位が下になり、世間の目に触れる機会が少なくなるのは明白でしょう。新聞など、陸上競技はこれだけ、という感じで紙面のスペースが決まりますから、同じ日にいくつも重なったら、1大会の分量は小さくなります。
 和歌山で醍醐選手が2m30を跳んだら新聞記者はどうやって……陸マガ5月号の同選手の記事を参考に原稿を書けるかもしれません。

 夕方よりも遅い時間だったと思いますが、陸マガ編集部に。5月号を入手しました。表紙は世界クロカンの福士加代子選手。編集後記を見ると、野口純正氏が「“業界用語”は難しい??」として、「T&F」や「AT」「LSD」を例に出して書いています。
 4月1日の日記では元上司である同氏のことを、寺田は「普段の言動はとても普通の人とは思えませんが」と書いています。これも、野口氏のことを知らない人が読んだら、“一般常識がなく、とんでもなく変な奴”と読んでしまわないとも限らない。ちょっと配慮に欠けていた記述ですので、これも訂正させていただきます。
 野口氏は良い意味で“普通の人とは違う”人間です。平凡な人間に、記録集計号を筆頭とするあれだけの仕事はできません。


◆2006年4月13日(木)
 カネボウの東京移転ネタで書き忘れていたことがありました。
 高岡寿成選手(35)がプロ野球の阪神ファンなのは周知の事実ですが、金本知憲外野手(38)も好きな選手の1人。東京国際マラソンのレース後に報知新聞・榎本記者が金本選手がらみの質問をしていましたね。その金本選手が4月9日に904試合連続全イニング出場を果たし、世界新記録を達成しました。野球と陸上競技は競技特性が異なるとはいえ、高岡選手には刺激となったことでしょう。
 ヘルシンキ世界選手権(4位)後は目の前の試合のことだけを考えてきました。それは今も同じですが、10日の日記に書いたように、北京五輪も視野に入れるようになった。昨年の東京からヘルシンキ、そして今年の東京と半年間隔で3レースをこなし、北京までやれる手応えを感じたようです。北京まで頑張れれば38歳で、今の金本選手と同じ年齢になります。

 実は、高岡選手が長く頑張っているのは、金本選手のように“兄貴”と呼ばれたいからなのです(引退した今井美希選手は、室伏広治選手のことを“兄貴”と言っていました)。当然、チームの後輩たちも“兄貴”と呼ぶことになる。
 先週の移転会見の際、入船敏選手は「日本記録を1つでも多く奪いたい」とコメントしました。3000m・5000m・1万m・マラソンの日本記録を高岡選手が持っていますが、入船選手は5000mで歴代2位。高岡選手から日本記録保持者の座を奪いたいと、堂々と宣言したのです。競技者として、当然の姿勢だと思います。
 それに対して高岡選手は、入船満選手に自分のことを“兄貴”と呼ばせて、入船敏選手から兄の座を奪おうとしている……というのが、寺田の憶測です。金本ファンなのは事実です。


◆2006年4月14日(金)
 今日は陸マガ5月号の発売日。書くべきネタがいっぱいあります。
 一番のインパクトは癌に立ち向かう森千夏選手の記事。森選手のコメントも多く掲載され、読む者の胸を打ちます。記事中のから一部を引用します。

「(コメントの前半部分省略)そういう患者さんと話していると、私(のがん)はたった1個だけだしなあと思って。ご飯食べられるし、笑えるし、しゃべれるし、身体も動かせる。そう思ったら、だんだん大丈夫になってきたんです。
 死にたくないって、ずっと思ってたんですよ。絶対に死ぬのはイヤって。なかには死んじゃったほうが楽だという患者さんもいたけど、だったら勝手に死ねばいいって思ってた。私にはやることがたくさんあるんだ、絶対に死ぬのはイヤだって。
 今は、絶対に陸上でもう1回復活してみせるって思っています(後略)」


 ここまで死と向き合った選手のコメントを、陸マガで読んだことはありませんでした。
 あれだけの実績を残している選手。取材をさせてもらった機会は5回や10回ではありません。無邪気と言ったら25歳の女性に対し失礼かもしれませんが、そのくらい純粋さを、接している人間に感じさせる選手でした。自分を飾ることがないんです。話していて、この言葉には絶対に裏がない、と確信できました。
 寺田が関係者から癌だと聞いたのは今年の1月。アテネ五輪前後は膀胱炎という診断でしたが、女子選手ですし、具体的な病名は記事には出していません。五輪後にも入退院を繰り返していたことも、投てきやスズキ関係者から聞いていました。国士大の青山利春監督に「森さんの状態はどうですか」と聞くと、練習であれをやったよ、ここまでできるようになったよ、と明るい表情で話してくれることもありましたし、暗い表情でまた入院した、なかなか良くならない、と聞かされることもありました。その頃はまだ、病名も明かされていませんでしたから、いずれは元気になってくれると思って聞いていたのですが。

 2月か3月に、何かの大会の帰りに偶然、森選手の見舞いに行くスズキの筒井総監督と影山富子マネジャーにお会いしたことがありました。会社の規定で契約を続けることはできないのですが、できる限りの援助をスズキもしています。スズキの選手たちもみんなでお金を出し合って、森選手を助けようと一生懸命になっている。きっと、彼女と接してきたほとんどの人間が、支援を惜しまないでしょう。
 寺田も週明けに早速、郵便局に行きます。「森千夏を応援する会」の趣旨に賛同し、治療費協力をするためです。詳しくは東京高陸上部WEBサイトで。
 その他に、自分に何かできることがないか、考えています。
 鈴木文選手以来進歩が止まっていた女子砲丸投の日本記録を、豊永陽子選手と共に引き上げてきた選手です。日本人初の17m突破も18m突破も、森選手が第1号でした。これは男子400 mで言うなら、ともに日本人初の45秒台&44秒台を達成した高野進選手(現東海大コーチ)と似たケース。18m台は森選手だけですし、44秒秒台は今でも高野選手1人だけです。
 つまり陸上界の大功労者と言っていい存在。その選手に対して陸上競技関係者として、陸上競技ファンとして何ができるのか。


◆2006年4月15日(土)
 東海大・日大対校戦の取材。場所は町田市の野津田競技場です。ここは交通の便が悪くて、小田急鶴川駅からタクシーしか方法はないと思っていました。ところが、地図をよーく見ると寺田宅の最寄り駅である小田急&京王永山駅からも、鶴川駅からもほぼ同じ距離です。迷わず、永山駅からタクシーで行きました。でも、1700円は痛いです。

 今日は末續選手が400 mに出るということで、報道各社も詰めかけました。中でも光っていたのが共同通信・宮田記者です。東京六大学に続いての大学対校戦の取材ですが、日本選手権取材並みのオーラを出しています。明らかにいつもとは違う雰囲気です。
 聞けば、自身の現役最後の試合が、この野津田競技場だったと言います。大会は1992年11月3日の関東大学クラブ対抗。同記者は早大陸上競技同好会で十種競技のエースだったと思われますが、最後の試合はやり投だったそうです。その日の記録は「50mは行かなかった」と言いますが、「40mは」と言わないところから、同記者のレベルの高さがわかります。14年ぶりに野津田競技場に足を踏み入れ、感慨に浸っていたのかもしれません。

 東京六大学、日体大・中大、そして今日と3大会皆勤だったのは、ミズノの田川茂氏。昨シーズンいっぱいで現役を退き、今はバリバリの営業職です。日体大・中大の際には、営業の極意は何か聞こうと思いましたが、新人にそれを問うのはどうかと思い、代わりに隣にいた木村さん(早大競走部OB)に質問しました。その答えは……もちろん、企業秘密です。他社の業務内容を書くようなことはしません。
 田川氏といえば走幅跳の8mジャンパーで、東海大OBです。しかし、この日の走幅跳は低調。低温と一定でない風向きが記録への障害となったのは確かですが、それでも優勝記録が7mに届かないのは東海大・日大としては寂しい限り。その思いが一番強かったのが田川氏だったと思われます。

 選手たちの跳躍を見守っていましたが、いきなりスーツを脱ぎ始めました。スーツの下にはミズノのランニングウェア。まるでクラーク・ケントのようでした。ピットに立つと後輩たちに向かって叫びました。
「オマエら、よく見ておけ!」
 現役時代と変わらない助走スピード。洗練された踏み切り5歩前のリズムと脚さばき。跳躍の飛び出し角度は計算しつくされたように一定です。ダイナミックなシザースから、思い切り脚を振り出しての着地。まさに最盛期を思わせる跳躍でした。
 出場していたどの選手よりも、遠くに着地しました。こうなったら計測しないわけにはいきません。後輩の学生審判が計測するとなんと7m70。それを確認した田川氏は、おもむろにシューズを脱いで頭上に掲げました。よく見るとそれは、革靴です。「革靴日本最高記録だ」と寺田が叫ぶ前に、田川氏が言い放ちました。
「見たかオマエら。ミズノのスパイクを履けばいつでも8mを跳べるぞ」
 というシーンを空想しながら、田川氏は後輩たちを見ていたのではないかと、寺田が勝手に想像しています。

 一番注目していたのは、男子400 mの山村貴彦選手。03年9月以来の公式レース、と思って会場に来たら、4月5日に大阪で400 m(48秒24)に出たと人づてに聞きました。だったら、末續慎吾選手が一番かな、などと考えていましたが、話は2人とも聞けるだろうと判断。レースは前を走っている方を中心に見ればいい、と心を決めて、200 mの通過を正確に計測。日大が計測した100 m毎のタイムも教えてもらえたので、この記事を書きました。

 400 mはオープンレースの末續選手よりも、対校レースの太田和憲選手(東海大)の方がタイムが良かったですし、100 mも吉野達郎選手よりも対校レースの村木毅行選手(東海大)の方が良かった。太田選手はもうユニバーシアードに出ている選手ですから強さは知っていましたが、最後の100 mは本当に強いです。村木選手の記録は向かい風2.4mで10秒68ですが、吉野選手は向かい風0.3mで10秒72。オープンの風の計測がおかしかったのかと思いましたが、高野進コーチの話では村木選手がかなり調子を上げてきているとのこと。今年のインカレ路線の注目選手が、また1人増えました。
 そういう選手を見つけるのが、この時期の大学対校戦の楽しみです。そういった意味では、200 m優勝(21秒15・−0.5)の藤光謙司選手への期待度も一気に増しました。全体的な記録は低調でしたが、収穫はあったと思います。


◆2006年4月16日(日)
 昨日は野津田競技場から小田急の玉川学園駅に出て、小田原経由で実家(静岡県袋井市)に戻りました。今日は父親の一周忌の法要です。あれからもう一年経ったのかと思うと、時間というのは本当にあっという間だと感じます。というのはもちろん、その人の主観であって、長いか短いかを決めるのはその人間の感覚です。
 不思議なもので、生前よりも父親のことを考える時間は圧倒的に増えています。これって、よくあることなのでしょうか。今度、土江寛裕選手に聞いてみましょう。
 10時にお坊さんが家に来て、親族と一緒にお経を読みました。それからお墓に行って、お寺に行って、最後にみんなで食事をして。この間は、普段の生活とはまったく違った空間と時間に身を置きます。

 実家に戻って一区切りがついたところで、携帯電話が鳴りました。信岡沙希重選手のマウントサックの情報がもたらされたのです。それを合図に、いつもの陸上競技中心の日常にもどりました。続いて、輪島の日本選手権50kmWの結果も連絡が入りました。
 ただ、自分が直接取材していない情報をサイトに掲載する場合、慎重を期します。100%信用できる情報であれば1つの出所でも掲載しますが、99%の信用度では必ず裏をとります。裏をとるというか、もう1つ別の出所から同じ情報を仕入れて初めて、ゴーサインを出すという感じですね。
 輪島は2個所からの情報を得て初めて、山崎勇喜選手が日本新と紹介しました。2位の谷井孝行選手の記録が正確にわからなかったので、これは3つめの情報源で確認してからの掲載になりました。

 昨日も実は、田野中輔選手が13秒55(+2.0)で走ったという情報を入手していましたが、裏をとることができませんでした。新幹線で移動をすると、連絡手段が限られます。そこで今日、思いきって本人に確認しました。これが一番確かです。ただ、名目上は個人的なお祝いの電話です。決して取材ではありません。

寺田 ハードルでいい記録が出たって話はない?
田野中 あるみたいですよ。
寺田 ジャストA標準だって聞いたけど、49秒20?
田野中 そうじゃなくて、短い方のハードルですよ。
寺田 じゃあ、13秒55か。もしかして、追い風がぎりぎりの2.0mだったりする?
田野中 そうだったらしいです。
寺田 きっと、これまで運に恵まれなかった選手が、貯まっていた運の恩恵にあずかったのかな?
田野中 そうかもしれません。
寺田 その選手のイニシャルはTと聞いたけど?
田野中 どうやらFで始まるチームの、よく名前を間違えられる選手らしいです。
寺田 じゃあ、タノナカタスク選手じゃない。


 という馬鹿な会話に選手がつきあってくれるのも、こういうときだけでしょう。
 しかし、どうやら田野中選手は言いたいことがあったらしいのです。

寺田 何かを変えて記録が出たとか? それとも変えないから出たとか。
田野中 変わったといえば実は4月5日に長女が生まれたんです。名前はキホです。希望の希に、稲穂の穂です。


 こちらが聞きたかったこととは若干違う答えでしたけど、まあ、その辺は直接合ったときにきっちり取材をしましょう。13秒55はパパさん選手日本最高記録ですから、それがわかっただけでも十分です。


◆2006年4月17日(月)
 今日は17:30から岸記念体育館で陸連強化委員会記者懇談会。各強化部長がブロック毎に現状や今季の目標を話していきます。全部を記事にする時間がないので、今後の国際試合の選考や選手団の人数など、選手たちの今後に直接関わる部分を抜粋して記事にしました。
 記事にはしませんでしたが、質疑応答のなかで試合スケジュールに関するものがありました。澤木強化委員長は次のように話していました。
「シーズン制と連動して考えるべきこと。春のシーズンと秋のシーズンを見たとき、春に固まりすぎている。(試合が多くても)選手が取捨選択できるのがあるべき姿。しかし、しがらみなどで、それができなくなっている。トップレベルの強化が目的の試合と、普及を意図した試合と、明確に区別をしたい」

 12日の日記で、同じ日に試合が重なるのはいかがなものか、と書きました。寺田は純粋に報道されるときの扱いや、それによる普及効果の視点で書いたのですが、過密日程に関する意見を送ってくれた方がいました。特に今年は高校生の強い選手に負担が大きい日程だという指摘です。7月の第1週に日本選手権があり、第2週が日本ジュニア選手権、そして第3週がアジア・ジュニア選手権(マカオ)です。これに6月後半のインターハイ地区大会、8月頭のインターハイ本番、そして8月15日からの世界ジュニア選手権(北京)。
 確かに厳しい日程です。日本選手権、世界ジュニアと出られる選手は数人に限られるでしょうが、全部に出たら消耗は大きいと思われます。昨年の金丸祐三選手のように上手く連戦を乗り切れる選手ならいいのですが、なかには疲労が故障につながるケースがあるかもしれません。対策は練習方法などグラウンド・レベルで立てることもできるでしょうが、それ以外の部分で、指導者が盾となる必要も生じるかも。

 やっかいなのは、試合日程を決める組織が1つではないこと。インターハイは総合競技会なので高体連、日本選手権や日本ジュニアは日本陸連。アジア・ジュニアはアジア陸連で、世界ジュニアは国際陸連です。本来、それらを調整して選手に過剰な負担がかからないようにする立場が陸連です。その陸連の人間が過密日程を認めているのですから、各組織間の意見調整は相当に難しいのでしょう。国内の試合でも、“地元の事情”が絡んできます。
 ただ、今年の日程で1つ言えるのは、アジア・ジュニアは当初は秋の開催予定でした。それが昨年の12月下旬になって突如、7月3週への日程変更をアジア陸連が通達してきたのです。日本ジュニアは7月第2週で調整してあり、開催地はそのつもりで準備をしています。変更は難しかったようです。アジア大会の12月開催といい、どうもアジアの考えと日本の考えは噛み合いません。
 総合競技会を統括するJOCも、本当に各競技団体のことを考えているのか、疑問に思うこともあります。ご存じの方も多いと思いますが、アジア大会の成績でオリンピックの選手枠が左右されます。世界選手権ではなくて。要するに、世界選手権はJOCの管轄外だけど、アジア大会はJOCの管轄だから。国の予算をどうこうという事情もあるのでしょうが、「マジかよ」というのが率直な感想です。
 でもなあ、アジア陸連にしろJOCにしろ、この程度の理屈で批判されてしまうほどスキのある組織とは思えません。何かしら理由があると思われます。まあ、こう書いておけば誰か、筋の通った理由を教えてくださるでしょう。


◆2006年4月18日(火)
 忘れていました。3月25日の日記でメールまで募った寺田の出張先ですが、福島大です。陸マガ5月号の「STEP UP 2006」企画で、青木沙弥佳選手の取材に行きました。「最近は、中距離で好選手が出ている大学」という部分がひっかけですが、間違った記述ではありません。福島大の短距離が強くなったのは“最近”ではありません。中距離ということで丹野麻美選手の800 mを指摘するメールがいくつかありましたが、寺田がイメージしたのは佐藤広樹選手(04年に1分50秒01)、沼田拓也選手(05年に1分49秒22)と続いた男子800 mです。
 立命大、早大といった解答がいくつか寄せられました。田子康宏選手や下平芳弘選手のことを考えたのだと思われます。しかし、早大は明らかに100km未満の距離です。立命大はもしかすると、競技面で言及した特徴はすべて満たしているのかもしれませんが。
 決定的なのは、コーヒーはドトールの豆を使っているという記述。1年ほど前の日記で紹介しているのです。(美人)広報いう記述がありますが、詳細は伏せます。謎は1つくらい残った方が面白いでしょう。

 実はこの日、面白い偶然が1つありました。4月1日の日記で福岡大・片峯隆監督を新宿駅構内で見かけた話を書いていますが、それがこの、福島大の取材に行くときだったのです。昨年あたりから両校は、女子の400 m系統の種目で熾烈な争いを展開しています。
 で、3月31日には福岡大で櫻井里佳選手を取材しました。同じ「STEP UP 2006」企画です。2人の違い、さらには両大学の違いも実感できました。直接的な表現で両者を比べてはいませんが、きちんと読めば違いがわかるようになっています。


◆2006年4月19日(水)
 昨日書いた福島大と福岡大の話以外にも、今回の陸マガ(5月号)では、いくつかのネタが有機的につながりました。1つの取材が別の取材に活き、別の取材なのに違う原稿でも活かすことができる。ここまで上手くつながっていったケースは初めてですね。
 最初は3月21日の醍醐直幸選手の取材。次が25日の福島大・青木沙弥佳選手、27日が富士通の新人選手たち、29日が「旅立ちの春」企画で金丸祐三選手、そして31日が福岡大の櫻井里佳選手。全てが「F」のチームです。富士通取材でライバル誌のライターに2つのアドバンテージがあると、27日の日記に書きました。1つは醍醐選手を取材していたこと。もう1つは、福島大取材の際に同大学を拠点に練習している佐藤光浩選手から、堀籠佳宏選手について取材のヒントとなる話を聞かせてもらっていたのです。

 そして、全ての取材で仕入れたネタを結集させたのが、「2006シーズン展望 プレ“大阪世界陸上”イヤーを楽しむ8つの視点」です。
 @「メダリストたちの2006年」は4月6日の末續慎吾選手&内藤真人選手の会見で取材した内容が中心です。室伏広治選手のネタは、世界クロカンの際に等々力投てき部長に聞いた話を参考にさせていただきました。A「日本新記録が狙える顔ぶれは?」では、これも福島大取材の際に川本和久監督から、丹野麻美選手と池田久美子選手の状態を聞かせてもらいました。B「“壁”をぶち破れ!!」でも佐藤光浩選手の話が基になっています。今度、おごらないといけませんね。C「学生スプリントの雄は誰だ!?」では金丸選手の取材はもちろん、東京六大学で取材した相川誠也選手のコメントが役立ちました。原稿を書いた後に聞いたのですが、上手く付け加えられたと思います。
 D「熾烈なアジア大会代表争い」では4月号の小池崇之選手の取材が役立ちましたし、前述の末續・内藤会見も活かしています。E「活気づく女子中距離」も世界クロカンに行ったことが幸いしました。須磨学園高の長谷川先生が話してくれた小林祐梨子選手の今季の目標から、イメージした内容です。アコムの平野コーチの顔もちらつきました。F「奮起せよ、最強の“2番手”たち」は昨年の男子投てき4種目の状況で思いついた視点です。ここでも、世界クロカンで等々力部長に聞いた話が生きています。
 そしてGの「基準変更から広がる新たな可能性」では、大阪の世界選手権から標準記録突破が2人ならABで、3人でもAABで出られることになった恩恵を受ける種目を考えてみました。これはもちろん、土井宏昭選手の口癖(グチ?)から思いついた内容です。桝見咲智子選手のコメントは、6m50を跳んで電話をしたのではなく、櫻井選手取材の際にグラウンドでパパッと聞いてあったのです。
 しかし、この企画の原稿が書けたのは、沖縄取材で精力的に各選手のコメントを聞いて回った高橋次長のおかげです。と書いておくと、何かいいことがあるかもしれません。

 話は変わりますが、TBSサイトで「Road to OSAKA 世界陸上大阪大会への道」が開設されています。見ると土江寛裕選手と佐藤文康アナの早大競走部コンビが執筆しています。この2人が書くとなると、さぞや壮大(わざとですよ、レベルを落としているのは)な話になっているかと思いきや、佐藤アナはちょっとH系でした。でも、文章自体はとても面白い流れになっていて、読者を飽きさせません。
 などと、他人事のように書いている場合ではありません。寺田もこの「カウントダウンコラム」の執筆を依頼されているのでした。同じ静岡出身の佐藤アナが軟らかいイメージできたので、寺田は硬いイメージで行こうかな、と考えています。たまにはストレートで、ズバッとね。直球勝負ってやつです。直線勝負では、元800m中学チャンピオンにはかなわないので。


◆2006年4月22日(土)
 今日は四大学対校の取材。場所は東京六大学に続いて駒澤公園でした。男子は順大・東海大・国士大・日体大の4校で、女子は日女体大、日体大、国士大、順大の4校。“体育学部のある大学”の対校戦です。1種目各校2名の出場で8名になりますから、一発決勝で行うには、4校という数はちょうど良い。
 4月に行われる対校戦の中では最もレベルが高い大会。応援合戦なども、最もインカレに近い形で行われています。今回、男子は順大が優勝しましたが、先週の東海大・日大、先々週の日体大・中大の結果と合わせてみると、今年の勢力地図が見えてきます。
 ただ、100%この大会の代表=インカレの代表、というわけではありません。3月末から4月上旬の記録会、中旬の対校戦、4月下旬(29日に多い)の記録会と、3つくらの試合を経て、5月上旬(春季サーキット終了くらいのタイミング)に関東インカレのエントリーという流れ。もちろん、突出した力の選手は、故障の影響などで試合に出られなくても「オマエに任せるから、インカレには合わせろ」ということになるかもしれません。

 今日の一番の目的は、某選手の個別取材でした。事前にアポ取りをしてあって(今回は編集部がやってくれました)、レース終了30分後にインタビューとなりました。その取材だけではなく、何種目かの優勝者に話を聞きました。好調の400 m・太田和憲選手や5000m・松岡佑起選手、走幅跳・菅井洋平選手、女子やり投・海老原有希選手たち。記事にしたいと思っていますが…。大物ルーキーの鈴木秀明選手にも話を聞きました。
 棒高跳の鈴木崇文選手にも聞きたかったのですが、何かと重なってできませんでした。新人ではありませんが、宍戸啓太選手の砲丸投とハンマー投の投てき2冠というのも、取材したかったですね。高平慎士&森岡紘一朗の世界選手権代表コンビは取材しないのかというと、それは企業秘密です。

 ミズノ営業チームの面々も対校戦にきっちり来ています。そのうちの1人である鈴木氏について、3月31日の日記で農大二高で宮田英明選手の1学年先輩か後輩だったと書きましたが、1学年先輩だったと判明。4月15日の日記では、後輩たちの不甲斐なさを嘆く田川氏の心情を推測しましたが、さすがに「スーツを脱ごうとまでは思わなかった」とのこと。これは、本心ではないでしょう。
 しかし、今日の走幅跳は菅井選手の優勝記録が7m51と、まずまずのレベル。東海大トップの峯島選手も7m30でした。鈴木氏が3年前の国体のことを指摘してくれたので、後で菅井選手の話を聞きに行くことに。メーカーの方の情報は貴重です。

 今日の一番の目的である某選手の話を聞きにスタンドに行くと、思わぬ人物の顔を見つけました。なんと、大塚製薬の犬伏孝行選手。徳島の高校から地元の実業団入りしたバリバリの叩き上げ選手ですから、関東の大学の対校戦を見に来ているのがどうしてなのか、さっぱりわかりません。閉会式後には、順大長距離ブロックの集合にも顔を出し、仲村明コーチ、近野義人コーチのあとに話もしていました(そのときの写真)。
 聞けば、大塚製薬に籍を置きながら、順大の研究生になったとのこと。
「前々から勉強をしてみたいと河野監督に話していたんです。長距離の科学的な研究をするなら、順大かなと思って。指導教官は澤木先生です。学生と一緒にジョッグをすることもあります。応援など、学生の試合の雰囲気は新鮮です」
 そういえば、犬伏選手は入社当初から、職場の先輩(上司?)の勧めで俳句の会に入るなど、勉強熱心でした(2001年4月のロンドン・マラソン記事「犬伏孝行、スタートライン上の真実」参照)。今の心境を詠んでもらえばよかったですね。


◆2006年4月23日(日)
 天満屋最高!!
 という書き出しは何を意味しているのか、と思われる読者もいるでしょう。天満屋というチームが最高に素晴らしい、という意味にとってもらって一向にかまわないし、今日の兵庫リレーカーニバル取材の最終的な印象と受け取ってもらってもかまいません。だが、厳密にいえば……。

 天満屋最高のことを書く前に、今日の行動を説明しましょう。一応、日記ですから。
 早起きをして東京駅7:13発ののぞみで新神戸に。数年前のようにTBSアナ軍団が同じ新幹線に乗っているかと思いきや、静岡県東部出身の佐藤文康アナに後で聞いたところ、8:13発ののぞみだったそうです。佐藤アナは土曜日深夜のサッカー番組の担当。4時頃に自宅に戻ったといいますから、2〜3時間の睡眠だったでしょう。
 寺田が早起きしたのは11時開始の男子砲丸投を見るためでした。トラックの最初の種目は14:05、フィールドも2種目目は12:00開始でしたから、じっくりと男子砲丸投を見ることができました。
 おかげで、村川洋平選手の日本歴代3位、17m99を目撃しました。3投目が17m91で、6投目が17m99。元神戸新聞の中尾義理記者など、「今度は行ったぁ」と冷静に興奮していました。日本記録保持者の野口安忠氏もスタンドから見ていたようです。同氏サイトの独り言にコメントがあります。
 ところで、岡山のSP記者こと朝日新聞・小田記者の“SP”は、言うまでもないことですが、スペシャルではなくてショットプットのこと。そのSP記者が、具体的には書けませんが称号剥奪か、というような行動をしていました。しかし後で、森千夏選手の記事を朝日新聞が掲載するにいたったきっかけは、同記者が寺田のサイトを見て言い出したのだと判明。やっぱりSP記者でした。
 森選手と言えば、東京高の後輩の西村美樹選手から、800mのレース後に感動的な話を聞くことができました。四大学対校のときは、国士大の後輩である海老原有希選手からも、エピソードを聞いています。何かの形で紹介しようと考えています。

 砲丸投終了後にフィールド種目も続いていましたが、ちょっとだけ余裕もあってあちこち移動していたら、更衣室の前でストレッチ中(?)だった佐藤悠基選手に出くわしました。昨日の四大学対校の成績一覧を渡したのは、佐藤選手も静岡県東部出身だから。5000m優勝の松岡佑起選手が、今年は関東よりも日本インカレで頑張りたいと話していたことも、伝えました。特に意味があったわけではありませんが“ゆうき”つながりというか、何というか。佐藤選手は“ダブル佐藤”の相棒である、佐藤秀和選手の成績を気にしていました。
 和歌山、出雲、ロンドンと世界各地で、日本のトップ選手が出場するのが今日。余裕のある時間帯にロンドンの某関係者とも電話で話しました。ペースメーカーの設定タイムや天候のこと、中国電力コンビの状態などを聞くことができました。
 出雲の結果は携帯電話のメールで入手。久保倉里美選手が11秒79という情報を聞き、400 m53秒台選手の日本最高か、と思って記録集計号を調べました。その通りでしたが、400 m52秒台の柿沼和恵選手が11秒75で走っていました。

 久保倉選手と言えば福島大OBですが、全員が福島大OBの新チームであるナチュリルが、本格的に国内試合に参戦したのが今大会。寺田がちょっとうろうろしている間でしたが、吉田真希子選手、坂水千恵選手たちがいるところに通りかかりました。寺田が「ナチュラルの…」と言い間違いをしたら、吉田選手に「ナチュリルです!」と優しく(?)怒られました。久しぶりの200 m出場を前に緊張していた(?)同選手をリラックスさせようという意図だった、と言い訳をしましたが、チーム名の言い間違いは絶対にしてはいけないこと。反省して、今後は注意します。
 間違いといえば、女子やり投の会見中に、某専門誌の二枚目ハードラーことO川編集者がちょっとした勘違いをやらかしました。O川編集者は兵庫出身。地元取材でテンションが上がりすぎていたのかも。詳しくはいつか、小島裕子選手が活躍したときにでも。
 女子800mの会見中にも兵庫県人が勘違い。優勝した陣内綾子選手に「年下の選手をどう意識したか?」という質問が出ましたが、隣にいた2位の小林祐梨子選手が、「年下の選手として…」と聞き間違えたらしく、話し始めてしまいました。しかし、誰も何も言わなかったのですが、記者たちや陣内選手の反応から咄嗟に、自分が勘違いをしたことに気づいたのです。こういうケースは時々あるのですが、当人は気づかずに最後まで話してしまうケースが多いでしょうか。その後の落ち着いた様子も含め、逆に小林選手の株が上がったように思いました。レースでは何が起きるかわかりません。意外な展開になったときに咄嗟に対応する能力も、一流選手には必要です。

 うーむ。なかなか天満屋最高に話が進みません。先に締め切りだ。

 試合も終盤。いよいよ兵庫リレーカーニバル看板種目の男女1万mです。今年もなかなかのメンバー。女子は小崎まり選手や野口みずき選手。男子は高岡寿成選手や前述の佐藤悠基選手。そこに、国内実業団在籍のケニア選手たちが加わります。
 しかし、女子1万mの最中に男子やり投の会見が始まりました。やり投の選手たちには申し訳ないのですが、会見中もトラックに何度も目をやっていました。他の記者たちも同様でしたが、やり投の会見に顔を出した記者は一般種目にも注目しているということで、許してもらいましょう。静岡や中部地区の記者は、村上幸史選手のコメントを取るのと同時に、同じスズキのルーシー・ワゴイ選手のレースも見ないといけない。陸上競技の場合、取材と競技が重なるのはどうしようもありません。
 レースは終盤、小崎選手だけがワゴイ&モンビのケニア2選手につき、野口選手は離されてしまいました。実はそのことよりも、野口選手の背後についた天満屋の長身選手に驚かされました。それが、入社3年目の山岸万里恵選手。全国都道府県対抗女子駅伝1区でも、新谷仁美選手を最後に追い込んで同タイムで区間2位となっています。しかし、1万mで野口選手に食らいつくとは予想していませんでした。

 しかし、女子1万mでは優先して取材する選手がいたため、野口選手も山岸選手もコメントを聞くことができず。他の記者から後で聞いたのですが、31分50秒13の結果に野口選手は、「収穫なし」と話したそうです。このコメントから、1つの考えが脳裏に浮かびました。野口選手も新たな領域に足を踏み入れようとしている。それを理解できているから、公の場で「収穫なし」と言えたのではないかと。
 具体的には、本人かスタッフと話ができてから書きたいと思います。

 続いて行われた男子1万mは、世界クロカン銅メダルのマサシ選手が、けた違いの強さを見せつけました。6000mで飛び出して、6400mまでの周回を58秒でカバーしました。中盤のペースアップが武器のマサシ選手ですが、またさらに走力が充実した感じです。
 ケニア選手の集団に日本人でただ1人付いたのが佐藤悠基選手。離された後も粘り抜いて、28分07秒02の自己新。東海大新記録です。これで東海大記録のうち400 m・5000m・1万mの東海大記録をユウキが持つことに。と思ったら、1万mも去年の兵庫で、佐藤選手が出した28分27秒50が東海大記録でした。
 えっ、400 mの東海大記録は山口有希選手の45秒18ではなく、高野進選手(現コーチ)の45秒00ではないかって? オーバーエイジを認めるとそうなりますが、そうだとしたら、400 m・5000m・1万mの3種目の東海大記録が静岡県東部出身選手によって占められることになります。おっと、違いますね。ルーキーの鈴木崇文選手が棒高跳の東海大記録(5m21)を出したので、4種目が静岡県東部出身選手になります。
 話は兵庫の1万mに戻りますが、日本人2位は岩佐敏弘選手。久しぶりに元気のいいところを見せてくれました。終盤で高岡寿成選手に追いつかれながら、最後に引き離したのです。以前のそういうパターンの時はだいたい、高岡選手が勝っていました。岩佐選手が全盛時の力を取り戻しつつあるようです。

 男子1万mが終わると今度は、男子円盤投の会見。記事(兵庫投てき特集)にもしたように、小林志郎選手が5年ぶりの学生新をマークし、畑山茂雄選手が5年ぶりに日本選手に破れました。畑山選手自身は「大阪グランプリの中林(将浩)か、東日本実業団の野沢(具隆)さんが最後」と、記憶が明確ではありません。東京に戻って調べると、東日本実業団で野沢選手に破れたのは2000年。その後は連勝が続いていますから、01年の国際グランプリ大阪と断定できます。
 投てきのビッグニュースが2つ重なったことに気を取られ、記録のチェックが後回しになってしまいました。それが大失敗だったのです。円盤投の会見後にやっと女子1万mの記録をじっくり見ました。そして、目に留まったのが山岸万里恵選手の31分50秒93。見た瞬間に、天満屋最高記録じゃないか!? と脳裏に衝撃が走りました。急いで記録集計号を見ると、松岡理恵選手の31分52秒50が天満屋選手の最高記録です。
 この記録を見逃して取材をしなかったのは、本当に迂闊でした。やはり、どんなに忙しくても記録チェックはきちんとやらないといけません。遅ればせながら、人の動線となりそうな場所に行きましたが、選手の姿はほとんど見当たりません。競技場の外で待っていることも多いので行くと、天満屋関係者の姿はありませんでしたが、筑波大の大山圭吾コーチがいらっしゃいました。
 大山コーチに村川洋平選手の話を聞いていると、天満屋トレーナーの富永さんがいらっしゃいました。話を聞いてビックリ、山岸選手は初1万mでした。初1万mの日本最高記録は川上優子選手の31分52秒54(96年)、斎藤由貴選手の31分49秒29(03年)、宮井仁美選手の31分41秒60(05年)と更新されてきたことが判明しています。ということは、おそらく初1万mの歴代3位ではないでしょうか。
 山岸選手は入社3年目。同期には全日本実業団対抗女子駅伝1区日本人1位の中村友梨香選手もいます。山口衛里、松尾和美、松岡理恵、坂本直子と続いた天満屋日本代表の系譜に、名を連ねる可能性のある選手が続々と育っている。マラソンでも、1月の大阪で森本友選手が2時間27分台で走っています。
 天満屋最高!! の意味は、どのようにとってもらっても良いのです。


◆2006年4月28日(金)
 今、広島に向かう新幹線の車中で、新神戸の駅に着くところです。5日前は兵庫リレーカーニバルでした。今週もあっと言う間に過ぎたら恐ろしいことですが、感覚としては、そういったところがなきにしもあらず(J大学師弟の口癖)。広島に着いたら兵庫ネタは書きたくないので、車中で書き終えたいと思っているですが、少しホテルまで持ち込みでしょうか。

 1つ残っていた兵庫リレーカーニバル・ネタは、男女の砲丸投で“ヒト桁cm自己新”の選手が多かったこと。村川洋平選手が17m94→17m99、井元幸喜選手が16m53→16m59、美濃部貴衣選手が14m40→14m42。男子終了後には、“大阪出身コンビ”で紹介しようと考えていたのですが、女子で美濃部選手が加わってどうしようか、と思案していました。山岸万里恵選手の天満屋最高は迂闊にもチェック漏れをやらかしましたが(23日の日記参照)、美濃部選手は静岡県東部出身ですからきっちりチェックしていました。
 天満屋関係者をつかまえようと競技場前を寺田がうろうろしていて出くわしたのが、筑波大投てきブロックの大山圭吾コーチでした。そこで気づいたのが兵庫は大山コーチの地元であること(トンボのマークの小野高出身)。つまり、村川&美濃部の弟子2人は、師の地元で自己新を出したわけです。師匠冥利につきるでしょう。
 ところで、もう1人の弟子である女子やり投の中野美沙選手はというと……修士論文で冬期練習がずれ込んでいるとのこと。でも、日本選手権が1カ月遅れている今年は、遅れが致命傷にはなりません。偶然にも、日本選手権まで大山コーチの地元の兵庫ですね。きっと今回、やり投ピットの状態など、チェックすべきところはしたことでしょう。

 日本選手権といえば、会場でPR活動も行われていました。ホームストレート中央付近のスタンド裏で、昨年のビデオを放映していたのです(写真)。画面がちょっと見にくかったのが残念ですが、道行く人の多くが足を止めていました。インフォメーションデスクでは、ちらしも配っていました。
 カバーフォトは為末選手のヘルシンキ世界選手権。日の丸をまとってのウィニングランならぬメダルウォークですが、最高に雰囲気が出ています。日の丸に特別な意識などない寺田ですが、日の丸がらみの絵柄でここまでグッと来たのは初めて。
 入場料金については、昨年高いと批判が出たこともあり、かなり安めに設定されています。3日間の通し券もあります。チケットはもう発売されています。詳しくは陸連サイトで。ちらしの中味も載せておきます(表? 裏?)。

 ユニバー記念競技場は日本選手権だけでなく、10月の国体会場でもあります。陸上どころ兵庫の国体ですから、きっと盛り上がるはず。地元優良企業のアシックスも、一役買ってくれるでしょう、たぶん。
 神戸新聞ももちろん、その役目を積極的に買って出ています。大原記者(大山コーチとは小野高の同級生)が国体グッズを配っていました。でも、寺田は国体取材に行けないかも。

 何か1つ、書き忘れているような気がしますが、兵庫ネタはここまで。嬉しいことにまだ、福山です。明日からは広島ネタに集中だ……と思ったら、ユニバー競技場ネタというか、兵庫インターハイとの関連ネタが1つ思い浮かびました。まあ、これは日本選手権本番ででも。


◆2006年4月29日(土・祝)
 7年連続で織田記念の取材です。しかし、織田記念にしては肌寒いコンディション(正午で18.5℃)。午前中は晴れていましたが、14時くらいから曇り始め、その後は雨も降り始めました。記録は厳しいかな、と思いましたが、男女の100 mと110 mH・100 mHと直線種目では、まずまずの記録が続きます。追い風が良かったのかもしれません。2mを越えてしまうかな、という懸念もありましたが、110 mH決勝以外はだいたい、公認範囲に収まってくれました。
 しかしバックストレートは、ホーム側の追い風以上の向かい風が吹いていたようで、男女の400 mは記録が全体的に低調でした。

 個人的に注目していたのは、男子100 mで佐分慎弥選手と川畑伸吾選手のどちらが、スタートが速いか、という点。残念ながら予選は別々の組でしたし、川畑選手が予選落ちだったため対決は見られませんでした。
 しかし、佐分選手が出場した1組めで2レーンの同選手に注目していたら、3レーンの新井智之選手が抜群の飛び出しを見せてリード。これには、本当にビックリ。後でクレーマーの原田康弘コーチに確認したところ、学生時代まではここまでスタートでリードできる選手ではなかったとのこと。10秒32(+1.7)の大幅自己新でした。池ノ谷智選手も10秒34の自己新で、筑波大OBコンビが快走を見せてくれました。
 しかし、わからないもので、決勝は新井選手が6位で池ノ谷選手が8位。
 優勝は昨年の世界選手権代表だった日高一慶選手で、スタートからリードを奪い、10秒32(+1.0)で国内グランプリを初制覇。2位には、予選で「+2」の2番目だった田村和宏選手。昨年は10秒43が年次ベストとパッとしなかったのですが、かなり復調してきました。

 ところで、織田記念はトラックのグランプリ種目をまとめた時間帯に行います。その後、地元中高生種目があって、最後にまた長距離のグランプリ種目。中高生種目の間に取材時間がとれるのでありがたいタイムテーブルですが、グランプリ種目が続く間はやっぱり厳しいです。兵庫リレーカーニバルはインタビュールームがトラックに面した部屋で、それもフィニッシュ地点脇という絶好のポジション。会見中に長距離レースを部分的に見ることもできました。女子800mの会見中にスタンドが沸く音が聞こえ、外に飛び出して男子800mの最後の100 mを見る、という芸当もできたわけです。
 しかし、織田記念はインタビュールームがトラックに面していません。ピストル音を聞いてから廊下と記者席を走って横断し、最後の30mを見るなんてことも何度かやらないといけません。簡単に変えられることではないのでしょうが、神戸、静岡、大阪の競技場ではできていること。会見のシステムのことも含め、要望だけは出しておきました。

 これは、スタンド下のスペースの問題を解決しないと、どうしようもないことかもしれませんが、工夫の余地はあります。広島に限ったことではなく、本部の部屋が必ずホームストレート中央付近に場所をとっています。でも、そのなかで実務をしている人間の数って、全部ではない。競技を見ているだけでいい立場のお偉方が多いのです。
 そういった人たちには、スタンドに席を設けて見てもらう方がいいように思います。スタンド下のスペースに余裕もできるし、本来、スタンドの方が競技を見やすいはず。実際、国際大会など大きな試合や、貴賓席がスタンドにある場合はそこで見ているのです。何より、スタンドの方が観客や会場全体の雰囲気がわかるんですよ。これが一番重要かもしれません。スタンド下の本部席では、わかりにくいことですから。早急に改めて欲しい点です。貴賓席の有無に左右されているようでは、競技への情熱を疑われます。

 インタビュールームの場所は不便ですが、広島陸協の役員の報道に協力する姿勢は好感が持てます。プレス用のゼッケンをカメラマンが着用しますが、多くの場合、競技終了後に陸協役員が回収に来ます。競技が終わっても我々は仕事中なわけですが、ひどい場合はインタビュー中にゼッケンを引っ張られて、「返してください」と言われます。その点、今日はもうパソコンに向かっている段階だったのに「仕事中でお忙しいですか?」と、初めに声を掛けてくれました。やっぱり、広島(の女性)はいいですね。


◆2006年4月30日(日)
 昨晩は少しアルコールも入ったため、今朝は5時に起きて仕事を開始。錦織育子選手と池田久美子選手の原稿を書いて本サイトにアップして、8:15にはチェックアウト。路面電車で広島駅に出て、8:50広島発の新幹線で東京には12:50着。例年、自由席に座るために広島始発ののぞみに乗るのですが、駅すぱあとで調べると上記時刻発が最終になります。その後は全て博多始発。広島始発が少なくなっていますね。ちょっと不便になってきてしまいました。
 織田記念翌日の年中行事も忘れてはいません。広島駅で中国新聞の朝刊を購入しました。山本修記者(高校時代に梅木蔵雄選手と山口県で一緒に走っていて、奥さんが順大OB)がしっかり記事を書いているかどうかをチェックするため、ではありません。それは小笠デスクや渡辺部長の役割です。山本記者の書いた記事を、楽しく読むためです。
 さすが中国新聞記者と思ったのは昨日、錦織育子選手の日本新が織田記念で出た何個目の日本記録か? と質問したときでした。山本記者は間髪を入れずに「17個目です」と答えたのです。織田記念は40回の歴史を誇る大会。その大会で生まれた日本記録の数を即答できる人間が、日本に何人いるでしょう? などと思い返しながら車中で資料を調べていたら、昨日、報道受付で配られた織田記念特集ページの中国新聞抜粋に、過去に出た日本記録の個数が書いてありました。配られた資料には、ちゃんと目を通しましょう。これが実は、お互い様だったりするのですけど。
 肝心の朝刊記事ですが、織田記念のスペースが小さすぎます。山本記者の能力を引き出すには、今回の倍以上の文字数を書かせるべき……という気もしますが、これは活字メディアの宿命で仕方のないこと。与えられた文字数でいかに読者のイメージを膨らませられるかが、記者に求められる能力なのです。その能力のない記者は、このようなWEBサイトで書きまくっているわけです。

 ところで、錦織育子選手は島根県出身。土江寛裕選手と実家が200 mくらいしか離れていなくて、土江選手のお父さん(良吉氏・故人)が指導していた陸上教室の出身です。昨日の記者室で話題になったのは、島根県関係選手(島根県登録や島根県出身)の日本新記録は、誰以来だろうということです。共同通信の宮田記者(早大陸上競技同好会で十種競技のエース)が言い出しました。寺田はもちろん、山本記者もわかりません。
 どうしても気になったので、今日、土江選手にメールで問い合わせました。すると「土江の四継です」という回答。個人種目では○○選手ではないかと(これは、しばらく内緒にさせていただきます)。
 土江選手が該当者だと気づかずに問い合わせるとは、兵庫リレーカーニバルの天満屋最高(4月23日の日記参照)に続いて今回も迂闊でした。
 そう。土江選手にとって4×100 mRは色々と思い入れがあるのです。日本記録は97年のアテネ世界選手権ですが、96年のアトランタ五輪以来何度かの国際大会で、必ずしもいいことばかりではありませんでした。パリの世界選手権の際には、このような記事も書かせてもらっています。アテネ五輪4位入賞の際には、レース直後の4人そろってのテレビ・インタビューで「ツッチー、泣くなよ」と、末續慎吾選手に言われたこともありましたね。

 しかし、今回のようなケースはどうしても、個人種目で誰以来か、という部分をイメージしがちになります。土江選手には申し訳ないのですが。
 TBSサイトの大阪世界陸上カウントダウンコラムを書いていて、バルセロナ五輪の4×100 mR入賞に触れました。あのときは帰国後、陸マガの編集者として4人の対談にも立ち会いましたが、短距離のファイナリストといったらやはり、高野進選手の400 m(91年東京世界選手権&バルセロナ五輪)の印象がはるかに大きいのです。
 でも、リレーの強化が短距離種目全体のレベルアップに貢献してきたのは間違いありません。それに、選手が個人的な目標としてそれを実現した場合は、優劣を比較できません。ちょっと抽象的な言い方ですけど、具体的には、土江選手がいい例です。

 以前、信岡沙希重選手を取材したときに、特に尊敬するのは今井美希選手と、土江選手だと話してくれました。今井選手は結果を出すことにこだわった選手として、土江選手はチャンピオンにはなれないけど必ず4×100 mRメンバーに入っていく。そういった点が尊敬できるのだと。
 改めて解説する必要もないと思いますけど、100 mの記録で言うなら10秒00〜03の伊東浩司選手、朝原宣治選手、末續慎吾選手たちと同時代だったため、10秒21の土江選手は国内でもトップにはなれません(日本選手権には優勝しています)。10秒2台の選手はごまんといます(正確には10人くらい)。しかし土江選手は、日本選手権では必ず上位に食い込み、狭き門をくぐり抜けてリレーメンバーに選ばれます。日本の短距離選手の中で最も、“勝ち抜いて”代表になっている選手といって間違いないでしょう。
 だからこそ、前述のように数々の思い入れがリレーに対してできたのです。

 信岡選手は高校は埼玉(伊奈学園高。石田智子選手とは同学年。前中学記録保持者の金子朋美選手が1つか2つ先輩)ですが、中学までは山口県育ち。土江選手と同じ中国地区の出身で、早大の後輩でもあります。土江選手同様広島カープ・ファンなのかどうかは知りませんが、今も同じグラウンドで練習しています。という間柄ですけど、「土江先輩のことを尊敬しています」なんて、面と向かっては言っていないでしょう。推測ですけど。
 ということで、寺田が代わりに書いています。紙面に限りのある新聞では書けないネタでも、このWEBサイトなら書けないこともないわけで、役に立たないこともないかもしれない。さて、ないは何回?


ここが最新です
◆2006年5月16日(火)
 ちょっと忙しさにかまけていたら、5月もちょうど半分が過ぎてしまいました。今日は生まれて初めての経験もしたことですし、生まれ変わったつもりで意を新たにして、日記を再開します。今日の初体験(もちろん陸上競技絡みの経験です)を説明する前に、この半月の主な出来事を駆け足で振り返りましょう。と言っても、取材中にあった面白いことだけでも盛りだくさん。試合ネタだけになってしまうかも。

◇2006年5月1日(月)
 昨日、今日と電話取材を6本かな。問い合わせのような取材のようなものも含め、かなりの数をこなしました。原稿もかなり書きましたです。

◇2006年5月2日(火)
 織田記念の陸マガ・モノクロページ用の原稿を仕上げました。綾真澄選手のネタは、もう少しあるので、いつか紹介したいですね。カラーの錦織育子選手(棒高跳日本新)と池田久美子選手の原稿(100 mH日本歴代2位)は、ページ数が確定する静岡国際後に書きます。

◇2006年5月3日(祝・水) 
 静岡国際取材。取材に行ったら、その土地に合わせたネタを探すのが寺田流です。ましてや、静岡は自分の出身県。静岡県、草薙、静岡インターハイ、杉本従兄弟など、色々と連想していましたが、そのものずばり、「草薙とは?」で行こうと決断しました。
 まずは自分自身ですが、草薙は1979年に阪本孝男選手の2m25と川崎清貴選手の60m22、2つの日本新を目撃した場所。三つ子の魂百まで、ではありませんが、幼き日(若き日?)の思い出として強く脳裏に刻みつけられています。
 某誌E本編集者に草薙でイメージするものは? と聞くと、走幅跳だと言います。森長正樹選手の日本記録も草薙ですが、走幅跳で好記録が出る印象が強いのだそうです。追い風参考日本最高記録である8m34も含め、8m10台、8m0台の記録も数多く出ています。91年静岡インターハイでは大橋忠和選手が7m69で優勝。インターハイの大会記録でした(破られていますよね?)。
 某誌T谷編集者は寺田同様静岡県出身ですが、草薙といえばやり投だと言います。91年には草薙でスーパー陸上が行われ、セッポ・ラテュ選手(フィンランド)が91m98と、世界新記録(当時)のアーチを架けました。陸マガも急ぎ、表紙を差し替えましたっけ。
 それにしても、専門誌関係者3人全員が違った種目や出来事を連想するとは、それだけ多彩な歴史を持っている競技場だということを示しています。

 今日の草薙は走幅跳には絶好、というよりもちょっと強すぎる風でした。当初はホームストレートが“追い”となる風向き。女子走幅跳の砂場はそフィニッシュ地点側で始められましたが、始まるのと同じくらいに向かい風に変わってしまいました。静岡陸協の対応は素早く、1回目の跳躍が終了した時点で選手に打診した上、砂場を反対側に変更。さすが、200 mでは1コーナースタートができる静岡です(左回りですから逆走ではありません)。
 川本和久・福島大監督によれば池田選手は、変更後の2回目、3回目くらいまでは足合わせに神経が行ってしまったのだそうです。ということは、もしも3回目終了後に砂場を変えていたら、6m75を跳べたのかどうかわからないということに。女子走幅跳の静岡県記録誕生の裏には地元陸協の好プレーがあったわけです。もちろん、記録のチャンスは全員に多くなったのであって、地元選手だけに有利に働いたわけではありません。

 最後にこれぞ静岡、というネタを紹介しましょう。
 男子400 mHに優勝した成迫健児選手(筑波大短距離ブロック長)に、「“バンナン”って知っている?」と問いかけました。皆さんは“バンナン”を知っていますか?
 これには経緯があります。
 以前にも紹介しましたが、世界陸上レポーターの山縣苑子さんの出身が磐田南高なのです。インターハイの第1回大会の総合優勝校です。往年の超名門校でその後も多くの優勝者を輩出しましたが、学区一番の進学校ということもあり、徐々に徐々に弱体化。鈴木専哉選手の頃の4×400 mRなど、ときどき強さを取り戻す時期もありましたが、静岡県西部ナンバーワンの座は浜松商高に移りました。
 その磐田南高のことを地元では、磐と南を音読みしてバンナンと言います。近年、三段跳の榎本選手や棒高跳の川口選手などが活躍していましたが、バンナンの呼称まで浸透しているとは思えなかった。川口選手の進学した筑波大とはいえ、短距離ブロックの成迫選手が知っているとは思えなかったのです。
 そう主張する寺田に対し、山縣さんは「絶対に知っていますよ」と言い張ります。それで、神戸のコーヒー1杯を賭けて、同選手が知っているか確認したのです(もちろん、取材の邪魔にならないタイミングを見計らって)。
 賭けの結果はというと、寺田の負けでした。なぜか成迫選手が知っていたのです。筑波大に磐田南出身者がいるから、と言っていましたけど…。


◇2006年5月4日(木)
 池田久美子選手の原稿を書きました。当初は織田記念の100 mH日本歴代2位の記事の予定でしたが、静岡国際の結果を受けて急きょ、2大会をまとめて200行に。
 それと、静岡国際の記事も何本か(春季サーキット&国際グランプリ大阪2006)。国際グランプリ大阪の前に紹介した方が、同大会を面白く観戦できると思える種目を優先しています。


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