続・寺田的陸上日記 昔の日記はこちらから
2006年7月 まさかエールフランス?
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◆2006年6月22日(木)
今日は14時から渋谷のエクセル東急ホテルで、日本選手権(90回大会)の記者発表会を取材。白状すると、5分遅刻しました。というのも、午前中に取材があり、いったん新宿の作業部屋に戻ったのが13時近く……という言い訳は見苦しいのでやめましょう。何事も自己責任。
あせってホテル内で会場を探していると、末續慎吾選手とばったり。ということは、選手の会見の前に陸連の誰かが話をしているということ。
会見前に配付資料のエントリー選手をチェック。末續選手や池田久美子選手が1種目に絞ったのかどうかなど、有力選手の種目選択をまずは確認します。各種目とも参加資格記録の上位10選手の一覧表ですが、できれば全選手を出して欲しいと感じました。有力選手が欠場なのか、有効期間に記録を出していないだけなのか、判断がつかないケースもあるのです。
今回で言えば、男子5000mに徳本一善選手の名前がない。昨年は故障だったけど、クロスカントリーでは絶好調で、シーズンインしてからは……そういえば織田記念が外国人選手に付いていって後半で失速したな、とか、でも国際グランプリ大阪では日本人トップだったな、とか、だけど東日本実業団では……と頭の中で思い出そうとしますが、確信するところまでは行き着きません。
あとは、地方紙への配慮ですね。去年か一昨年にも書きましたけど、“おらが国の自慢の選手”が上位10人に入っているとは限りません(これは、元陸連某氏の指摘)。え? そんなことは地方紙の記者が把握しておかないといけないこと? かもしれませんが、大学生とか地元を離れていますし…。
共同会見では池田久美子選手と沢野大地選手が、「90回」に引っかけて目標記録を言ってくれたので、記事にしました。記録に触れるだけなら誰でも書けると思ったので、“感覚”の話にまで持っていきましたが、行ききれていない記事ですね。珍しく、コンパクトな文字数にはできていますけど。
池田選手が、こういう場に慣れてきたな、と感じました。陸上界の代表として、どこで、何を話しても大丈夫でしょう。
沢野選手からは会見後、ブログを開設したことを教えてもらいました。高校時代は“静かな自信家”と呼ばれていた同選手(E本編集者から教えてもらいました)。ブログに関しても、デザインには自信を持っているようです。実際に始めたのは5月11日。これまではこっそり書き続けてきたことになります。ヨーロッパ遠征中も書き込んでいたみたいですね。日本選手権後の第2次ヨーロッパ遠征では、ブログでブロムに勝った報告をして欲しいと思います。
共同会見後、囲み取材に入る前にフォトセッション。昨日購入したカメラの初仕事でした。普段はプロのカメラマンに遠慮して「こっちに視線ください」とは、なかなか言えないのですが、今日は末續選手の協力(?)もあって、4人の視線をもらうことができました。
昨日買ったばかりのカメラだと言うと、沢野選手は「そうじゃないかと思っていました」と、意外なところに自信を持っています。推測ですけど、ストラップの折れ目の入り方でバレたんじゃないでしょうか。
末續選手の記事の最後に、「サプライズ企画」とか「足元に注目」と同選手のコメントを書いてありますが、これはスパイクのこと。だったら記事にもそう書けよ、と言われそうですが、次の為末選手記事へのつなぎを考えて、末續選手が最初に言った通りに書きました。スパイクとネタを明かしてくれたのは、囲み取材中のオマケみたいな感じでしたので。
逆に為末選手の200 m出場に関しては、囲み取材中にオマケで明かしてくれた「記念受験みたいなもの」というコメントを記事にしています。いくつかの新聞と、夜のスポーツニュースでは、200 mの末續vs.為末にスポット当てた紹介の仕方をしています。確かに、銅メダリスト同士の対決は話題にはなるのですが、タイムテーブルを見ると直接対決は厳しい。
えっ? そういった常識を覆してきたのが為末選手?
そうかもしれません。この日一番のサプライズは、サニーサイドエッグ(為末選手のマネージメントをしている会社)の井口さんが配っていた、為末選手の著書発売をインフォームした書類です。ビックリはしましたけど、寺田が考えてきた“為末論”を裏付けるような内容でした。具体的には機会を改めて。
◆2006年6月28日(水)
16:30から恵比寿のトロピカルなカフェで、「コニカミノルタ ランニングプロジェクト」の記者発表会。タレントの山田玲奈さんがナビゲーターに起用されたこともあり、陸上担当記者だけでなく、芸能担当記者たちも多数出席。イベント自体も広告代理店が演出し、華やかな雰囲気の中で行われました。
このプロジェクトの詳細は同社サイトをご覧いただきたいのですが、従来の陸上競技的な活動にプラスして、市民ランナーや市民マラソン・イベントにも積極的な働きかけをして、コニカミノルタの名前をよりアピールしていこうという狙いです。山田玲奈さんが選手たちにインタビューをして活動を報告したり、彼女とコニカミノルタの選手が、一般公募する市民ランナーたちと24時間マラソンに出場したりします。
コニカミノルタは12月のホノルル・マラソンのスポンサーにもなり、山田さんと同プロジェクトの市民ランナーが同マラソンに挑戦。トレーニングを佐藤敏信ヘッドコーチがサポートします。ちなみに、山田さんは米国留学時代はクロスカントリー部に所属(クリールの宮田嬢の記事にもクロスカントリー部の話が出ていましたっけ)。ロサンゼルス・マラソンを走ったこともあるそうです。そのときのタイムは「4時間半」だったと話していました。
共同会見で、酒井監督らしい考え方が表れたシーンがありました。2度目のマラソンとなるホノルルでの目標を聞かれた山田さんは、どう答えていいのか迷って、隣の酒井監督に「どうしましょう」と相談。すると酒井監督は「目標は高く設定した方が良い。近くなったら現実的な目標に変えることもできるし、失敗したらまた来年の目標として頑張ればいい」とアドバイス。
数年前のニューイヤー駅伝祝勝会で「私が大きなことを言うと、選手たちがついてきてくれる」と話していたことを思い出しました。たぶん、酒井監督なりの人生観があってのことでしょう。もちろん、高い目標を言っただけで、それに向けた努力をしなかったら意味がありません。その方向に持っていける自信というか、指導者としての努力をする覚悟があるから、こういった言い方ができるのだと思います。
陸上競技部的にも、今回のような会社の方針に協力し、社会的な活動を行なっていくことに価値があると考えてのこと。選手たちもいずれは、陸上競技とは違った世界に身を転じていかなければなりません。そのときに、こういった活動が役に立つ。サッカーでも“走ることの重要性”が再認識されているようですし、今後、陸上競技出身者が他の競技を指導する機会は増えるはず。速く走るということが、スポーツはもちろん、社会生活でも基本的なことと認識されて、選手の受け皿が増えることもある。
もちろん、陸上競技自体の認知度、自分たちの活動そのものの認知度を上げる狙いもあります。今回のコニカミノルタのプロジェクトは、陸上競技部の活動を会社が積極的に活用していくモデルケースとなるかもしれません。
◆2006年6月29日(木)
昨日の日記は記者発表後に、M記者とE記者が原稿を書くというので、一緒に恵比寿駅前のルノワールで書きました。ルノアールってご存じですよね。昔からある喫茶店のチェーン店。最近のスタバやタリーズ、エクセルシオールカフェとは明らかに雰囲気が違って、“新橋のサラリーマンのおじさんたちが利用する店”という雰囲気です。名前はフレンチでも、“昭和の日本”を感じさせるんだな(“るんだな”とは何だろう?)。
スタバにもおじさんはいるのですが、どこか違うんですね。ルノアールでは商談が多いのに対し、スタバでは商談が少ないように思います。正確な統計はありませんが。若い女性の数は明らかに違います。
ルノアールではウエイトレスの方がいましたが、明らかに会社の事務員というイメージ。かなり主観的な判断ですけど。
昭和の日本”の喫茶店ですから、ウェイトレスが“お冷や”を持ってきます。これがスタバ一派の店との明白な違い。昨日はとっても暑かったので、E記者と一緒に頼んだグルジアヨーグルト・ドリンクを飲み干した後、お冷やをストローを使って飲んでいました。ウェイトレスのお姉さんがグラスを片づけに来たときに「お冷やをストローで飲んだらバカですか」と、質問(主語は省略)。
「そんなことないですよ。ときどき、されている方もいらっしゃいます」と、そんな質問には慣れっこよ、という感じで切り返し。質問した後で、ルノアールのおじさんに染まったかな、と、ちょっとだけ反省。
ルノアールではスポーツ記者お2人に、サッカーの取材について質問。寺田が疑問に思っていたのは、試合を見ているときに記者がどこまでメモを取っているのか、ということでした。サッカーの場合、どこからどう展開してゴールにつながるのかわかりません。だとすれば、全てのパス、全てのプレーをメモしている必要があるんじゃないか、と。でも、実際問題、そこまではできないだろう、とも想像していました。
聞けば、得点シーンに関しては公式記録があるのだそうです。誰から誰にパスが通って、誰がゴールしたか。パスの種類も、山なりのパスなのか、地を這うパスなのか、記号で種類が記されています。大きな試合なら、リプレイも映し出されます。
しかし、サッカー記者たるもの、得点が決まったところから、その起点となったプレイまでは記憶をさかのぼって再現することができるのだそうです。そこは、真剣に見ていればできるようになる。選手も、そのチームをしばらく取材していれば、ナンバーを見なくても動きだけで特定できるようになるし、攻撃のフォーメーションであの位置にいるのは誰と、だいたいの予測もつくのだそうです。やっぱり、プロは違います。
一応、我々陸上競技記者も、トップクラスの選手ならフォームでわかりますけど、たまーに酷似している選手がいるので気を付けないといけません。
明日からの日本選手権取材のため、今日は20:13東京発の新幹線で神戸に。この時間、車内は出張族のおじさんでいっぱいです。その大半が、週刊誌を片手にビールを飲んでいるのが定番の光景です。大半は言い過ぎかもしれませんが、雑誌か新聞(主に夕刊紙)を読んでいる人と、アルコールを飲んでいる人を合わせれば70%は越えるでしょう。
寺田はその中には絶対に入りません。ルノアールでは不覚をとりましたが、新幹線では絶対に“週刊誌&ビールおじさん”の仲間にはならない。寺田なりの矜持です。100%の確率で、原稿を書いているか、取材用のデータを読んでいます。今回も大きな仕事を3つ抱えての出張となってしまったため、ひたすら原稿書き。
日本選手権のタイムテーブルにも再度目を通すと、明日は女子の400 m予選・準決勝と、400
mHの予選が行われます。この2種目を兼ねる選手は大変です。3日間で予選・準決勝・決勝の6本を走るとなると仕方がない、のかもしれませんが、別のスケジュールも組めますね。他の有力選手を見ても、今回種目を絞る選手が目に付きましたが、メイン種目が先に行われた方が出場しやすいのは当たり前です。
そこを考慮していたらキリがない、という意見もあるでしょう。ファンの視線を考えれば、そのとき強い選手、注目を集めている選手優先で日程を組むしかありません。この“一部の選手に合わせる”という考え方を、公的な組織はしたがらないことが最近わかりました。
23:50頃に神戸元町のホテル着。窓がない部屋で、携帯の電波の入りがとっても弱いです。神戸に4泊、袋井の実家に1泊の長期出張……というほどでもないですけど、毎晩の洗濯が欠かせないということです。
◆2006年7月5日(水)
今日は醍醐直幸選手の取材で汐留にある富士通本社に。陸上部は幕張を拠点としていますが、今日は同選手と木内総監督、福島監督が社長に挨拶に行くことになっているため、本社での取材となりました。以前、丸の内に本社があった頃、岩崎広報(110
mH元日本記録保持者)を取材したことがありましたが、汐留は初めて。今日の取材前には、今年から総務部勤務の岩崎氏にも偶然お会いしました。
先日お邪魔した、某社宣伝部もそうでしたが、こういった巨大ビルに入っている最先端企業のオフィスは、築36年の古いマンションを借りている個人事業主(寺田のことです)は憧れますね。もう一度サラリーマンに戻ろうかな、今度は大企業がいいな、などと思わないこともない。実行はしない(できない?)と思いますけど。
汐留という場所も格好いい。2月に日本テレビに行ったことがありましたが、今回がまだ2回目。駅で看板を見ていると共同通信まである。やっぱり違いますね。一流企業ばかりです。
今日の取材は某専門誌のスタッフと入れ替わりだったので、少しプレッシャーを感じました。違ったところを突っ込まないといけないと、相手が何を話したのか知りようがないのに、気を回してしまいます。インタビューの序盤は、そこを考え過ぎてしまって上手く進みませんでしたが、中盤からはその辺を気にせず、話の流れに合わせて突っ込んでいけたと思います。最終的には、めちゃくちゃ面白い話を聞くことができました。
陸マガ8月号をお楽しみに、などと書くと自信家ととられてしまうかも。自信家というほどではないけど、ちょっとした手応えは感じている、というところでしょうか。
ちなみに、醍醐選手が神戸での会見中、以前との違いは? と聞かれて「自信です」と答えていました。同学年の沢野大地選手も「静かな自信家」と言われていますし、やはり同学年の池田久美子選手も必ず自信を口にします。3人の同学年ジャンパーはみんな自信家ですが……やっぱり、自信家って言葉はよくないですね。謙虚だけど自信も感じていて、それがプラスに働いているというケースで使える言葉は何だろう。
ちなみに、話の最中に「なんだろう」という言葉を挟むのが、池田選手の口癖です。
日記用のネタもありました。「富士通は青柳GO!」の青柳剛マネジャーですが(6月14日の日記参照)、日本選手権では醍醐選手と一緒にミックスドゾーンに姿を現しました。その時の写真がこれ。選手思いのマネジャーが、日本新に思わず泣いてしまったシーンです。
実業団に入れなかった醍醐選手が3年間、バイトと競技の両立で苦労をした話は今や有名ですが、青柳マネも富士通入社前は大変な時期があったのです。雪印時代も陸上競技部のマネジャーでしたが、同社の陸上部が廃部となるきっかけになった食中毒事件の際は、相当に苦労をされたと聞いています。
醍醐選手の姿に自身がダブり、思わず涙が出た…と思っていたのですが、今日の取材に同席してくれた青柳マネにこの写真を見せると、汗を拭っていただけだと言い張ります。もちろん真実は、本人しか知らないことですが。
同席した安田広報(現役のアメフト選手)によれば、広報は会見などに姿を見せるとき、そういった紛らわしいこと、マスコミに曲解されるような仕草をしないように、指導を受けているのだとか。今後の青柳マネの一挙手一投足に注目しましょう。
沢野選手も醍醐選手の日本新に涙を流したうちの1人。同選手のブログに、よく醍醐選手と一緒に食事に行く話が出ています。醍醐選手によれば、これまではおごってもらう機会が多かったようですが、今度は自分がおごろうかと思っている、と話していました。寺田もたまに、KデスクやT次長におごってもらっています。早く、おごれるようになりたいと思った汐留取材でした。
◆2006年7月7日(金)
なかなか原稿が進まない7月7日。日本選手権関連の原稿もまだまだ終わっていません。日曜日のお昼に350行、日曜日中に300行の締め切り。350行の方は明日中に書き終えたいと思っている7月7日の午後11時11分です。
日本選手権期間中、日記向きのネタもたくさんありました。青柳マネの話は一昨日の富士通取材と一緒に紹介できましたが、それ以外も盛りだくさん……だったのですが、早くも記憶が薄れてきているものもあります。忘れそうなネタから書いていかないと。と、思ったのですが、まずは男子砲丸投ネタから。日本新が出ましたし、史上初の日本選手同士の18mプットの応酬が見られました。それに何といっても、今回は大山圭悟・筑波大投てきコーチの地元開催でしたから。以下、記事風の書き方で振り返ってみましょう。
大山コーチは何度か紹介しているように、胸にトンボのマークの名門・小野高出身。高3(1988年)のインターハイは今回と同様、地元・神戸の開催だった。しかし、健闘も及ばず近畿大会を通過できず。高3時のベストは15m42で、近畿では難しいポジション。それでも、大志を胸に秘めた大山少年は、全国大会会場に足を運んだ。
「練習会場に行って、補助員でもないのに砲丸拾いを手伝っていたんです。そうしたら、17mラインをポンポン越す選手がいる。先生に聞いて、1年生だとわかりました。ラインを勘違いしたのかと思ってよく見ると、やっぱり17mラインです。重さが違うんじゃないかと持ってみると、正規の高校用の重さです。それが1年生。自分も3年間、頑張ってきたつもりでしたから、俺は今まで何をやって来たんだろう、と感じました」
その選手は上級生が圧倒的に有利な砲丸投で、1年生優勝を飾った。高校新で優勝した男子400 mの渡辺高博や1500mの浜矢将直、100 m・200 mの2冠を達成した杉本龍勇がヒーローとなった神戸インターハイ。浜矢は地元西脇工高の選手でもあった。そんなかで、1年生選手の砲丸投Vも話題を集めた出来事だった。
神戸インターハイから18年。36歳になった大山コーチは今年も、現役選手として砲丸投のサークルに立っていた。会場は神戸インターハイと同じユニバー記念競技場。18年前の無念を晴らした思いがあったのかどうか、そこまではわからない。しかし、ここまで長い間現役として頑張って来られたのも、18年前の経験が少なからず影響しているようだ。
試技順6番目の大山コーチは3回目に15m76と記録を伸ばし、その時点で8位に位置していた。しかし、勝利の女神はまたも、大山コーチを見放した。試技順10番目の選手が15m99を投げたため、大山コーチは9位に落ち、ベストエイトに残れなかった。大山コーチに再度苦汁を飲ませた試技順10番目の選手こそ、神戸インターハイで1年生優勝をやってのけた榊原英裕だった(思い出のユニバー競技場をバックに撮影)。
「今日は参りました」と大山コーチが言うと、榊原は「また来年」と応じたという。
ドラマは、それだけで終わらなかった。というのも、大山コーチの指導する村川洋平(スズキ)が、畑瀬聡(群馬綜合ガードシステム)とすさまじい戦いを展開していたからだ。畑瀬が1回目に18m23、2回目に18m27でリードを奪うと、試技順が後の村川が2回目に18m30で逆転。しかし、畑瀬が3回目に18m56の日本新で再逆転。砲丸投史上最も激しい戦いを繰り広げていた。
元神戸新聞の中尾義理記者と第3コーナー・スタンドで観戦していた筆者は、大山コーチがベストエイトに残れなかったことは、村川にプラスになるのではと、中尾記者に話していた。そのまま砲丸投選手のテントに残り、村川にアドバイスをすることに専念できるからだ。しかし、大山コーチはバッグを肩に掛けると、フィールドを立ち去ってしまう。間もなく、ゼッケンを付けたTシャツ姿のまま、第3コーナーのスタンドに姿を現した。競技終了後にその理由を聞いてみた。
「残ってアドバイスをするのは、村川のためによくないと考えました。入りが良くなかったので、そこだけを注意すれば十分行けるよ、と言い残して出てきました」
村川は畑瀬を抜き返すことはできなかったが、6投目に18m43に記録を伸ばした。野口安忠の持っていた前日本記録に10cm、畑瀬の新日本記録にも13cmと迫る快投だった。
愛弟子の奮闘を見届けた大山コーチは、畑瀬のコーチである小山裕三日大監督を近くのスタンドに見つけると、勝利と日本記録を祝福しにやって来た。お互いの弟子たちの健闘をたたえ合う両コーチ(写真は陸マガに掲載予定)。大山コーチのベスト記録は16m51、小山監督のベスト記録は16m58だが、弟子たちの成績には何も関係ない。
などという締めでいいのだろうか、と思う7月7日です。
◆2006年7月8日(土)
今週は札幌にも、島根(日本ジュニア)にも行きません。どちらも遠くてお金がかかります。来週、もっと遠いところに行くため、今週は我慢。
試合の取材はありませんが、今日は15時から取材。何の取材かは例によって企業秘密ですが、いつもとは逆で取材される側。とっても楽しい取材でした。神戸新聞・大原記者に一番に報告したい話です。ヒントは、昨年の丹野麻美選手取材のときの日記にありますが、これ以上は言えません。
夜の22時にFAXでネーム校のやりとり。スポーツ・ヤァ!に醍醐直幸選手の記事を書きました。聞けば、ワールドカップ(サッカー)の決勝と同じ号だとか。だからどうだというわけではありませんが、売り上げの多い号であることは確か。ということは、陸上競技ファン以外の読者の目に触れる機会が多くなる。確率は少ないかもしれませんが、醍醐選手の記事を読んで面白いと感じてくれる人間が、新たに出てくる可能性もあります。
スポーツ・ヤァ!に書いた内容は、日本選手権の様子と、醍醐直幸とはどんな選手なのか、というアウトライン的な部分。一般読者が多いことを考えたら、例のネタを使えばよかったかな、と今になって思いますが、例のネタが書ききれる文字量がなくて…。
スポーツ・ヤァ!で醍醐選手に興味を持った読者が、陸マガ次号の同選手と福間コーチのインタビューを読んで、さらに面白く感じて陸上競技のファンになる、というのが理想です。が、この専門誌に移る部分が難しいのです。ここが大変。
専門誌の読者になる前に、ワンクッション必要かもしれません。無料で読める、寺田のサイトなんか最適では?
◆2006年7月12日(水)
沢野大地選手のブログを見ると、23:33にヨーロッパ遠征の準備が完了したと書いています。寺田は23:33から日記を書き始めて、その後にヨーロッパ取材の準備を始めます。選手と記者の違いかもしれませんが、寺田もここまで、何の準備もしていなかったわけではありません。選手たちのスケジュールを早めに調べて、ヨーロッパ内をどう移動していくかを考えながら、飛行機や宿を手配して、各チームのコーチや広報の方たちにも“取材にお邪魔しますよ”と挨拶をしておく。日本選手権後の原稿を抱えている時期にそれらをやるのですから、誰にでもできるってわけじゃないんです。ちょっと自慢ですけど、商売にしている以上はそれが当たり前ですね。
川本和久先生のブログにも、池田選手のヨーロッパ遠征と、ご自身の予定が出ています。池田選手も明日出発ですね。2人とはストックホルムでお会いすることになるはず。今回の取材ではベルギーのナイト・オブ・アスレチックと、ストックホルムのDNガランが初めて行く試合です。ナイト・オブは小林史和選手が1500mで、福士加代子選手が女子5000mで日本新を出した大会。2選手とも、帰国直後に取材させてもらいました。一度、行ってみたかった大会です。小林選手が日本新を出した夜(深夜?)、繰り出したというカフェに行ってみたいですね。
DNガランは、それ以上に思い入れがあります。瀬古利彦選手が1万mで2回、日本新を出した大会ですし、高岡寿成選手も一番雰囲気が好きな大会と言っていました。
行動予定はざっと以下のようなもの。
月日 |
取材 |
泊まり |
ホテル |
7月13日 |
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ローマ |
予約 |
7月14日 |
ローマ・ゴールデンリーグ |
ローマ |
予約 |
7月15日 |
|
未定 |
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7月16日 |
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サンモリッツ |
|
7月17日 |
野口みずき選手 |
サンモリッツ |
|
7月18日 |
野口みずき選手 |
サンモリッツ |
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7月19日 |
|
未定 |
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7月20日 |
|
未定 |
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7月21日 |
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ハッセルト |
予約 |
7月22日 |
ナイト・オブ・アスレティック |
ハッセルト |
予約 |
7月23日 |
|
未定 |
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7月24日 |
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ストックホルム |
|
7月25日 |
DNガラン |
ストックホルム |
|
7月26日 |
旧ワールドゲームス |
ヘルシンキ |
予約 |
7月27日 |
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移動はストックホルム→ヘルシンキ以外は鉄道(ユーレイルパス)です。必然的に、ローマの翌日はミラノかベネチアか、イタリア北部に泊まらないとサンモリッツには行けません。サンモリッツのあとはナイトオブアスレチックまで2日間、自由になる時間がある。ここで何をするか。計画はあります。ナイトオブの翌日は、これもストックホルムに陸路で行くことを考えると、コペンハーゲンが有力。
宿は予約できる範囲のものをしました。日本選手権後、もう少し正確に言うと今週の月曜日から手配し始めたので、こんなもんです。今週末のベネチアと、リゾート地のサンモリッツが取れなかったので一抹の不安がありますが、暗くなる前に入れるので大丈夫でしょう。
おっと、もう0時半。2時までにはパッキングを終えないと。
などと日記を書いているうちに、沢野選手はローマに着いたと、ブログにアップしています。
◆2006年7月13日(木)
ユーロ日記2006 第1日@エールフランス機内&パリ
「エーっっっっル・フランスぅ?」
HISで航空券をとったときに、思わず口走ってしまいました。エール・フランスといえば、2003年のパリ世界選手権からの帰路、スーツケースの超過重量で701ユーロ(今のレートなら10万5000円)を貧乏人の寺田から追徴した会社です(2003年9月4日の日記参照)。正確には大韓航空を利用していたのですが、パリのドゴール空港での業務委託をされていたのがエール・フランスでした。ではあっても、「今後絶対にエール・フランスには乗らない」と心に誓ったことは、容易にご想像できることと思います。
しかし今回、手配が遅くなったせいか、エール・フランス以外では全日空の30何万円のチケットしかないというのです。そういう状況では、恨み骨髄のエール・フランスといえども、利用しないわけにはいきません。
ということで、初めてエール・フランス機に乗って、この日記を書いています。
今回は超過重量対策も万全。預けるバッグは国内でも使用している中くらいのキャリーケース。それ以外は、機内持ち込みのできるバッグが4つ。国内取材より大きめのリュックサックと、キャリーケースの取っ手部分に装着できるカメラ機材バッグ。それよりは一回り小さいビデオカメラ機材用バッグにウエストバッグ。ここまで分散させれば、預ける荷物は軽くなるのは当たり前ですね。
まあ、世界選手権と比べたら資料の分量がかなり少な目です。違いは、訪問する国の数が多いので、旅行関係の資料が多くなること。それと、先ほど書いたように、動画取材用の機材が加わったこと。
機材が多いのは、カメラマンもする予定だからです。ローマとヘルシンキは有力日本人選手の数が多いので、ペン記者としてスタンドからいつものスタイルで取材をするつもりですが、ナイトオブアスレチックは中・長距離が主体ですし、ストックホルムDNガランは池田久美子選手だけなので、カメラ取材を考えています。取材申請も2大会はフォトグラファーで申請しました。
実は出発前に新しいレンズも購入。ナイトオブは照明がかなり暗そうですが(小林史和選手の日本新のときの写真を見る限り)、これも先日買い換えたばかりのカメラ本体の増感機能で、どこまでカバーできるか。
心配なのは今回も帰路ですね。頭の堅いドゴール空港のフランス人が、機内持ち込み荷物の個数に追徴金を課してくるかもしれません。今回は現金はもちろん、カードも隠そうかな、などと姑息な方法を考えています。問題は、遂行する強い意思を持てるかどうか。中村悠希選手がナイトオブあたりで好走してくれたら、実行する勇気が出るかもしれません。などというネタを書くのも、実は勇気が要ることかも。一度、やってみたらわかるでしょう。
情け知らずのエール・フランスですが、今日の成田での日本人職員は普通の感覚みたいで、HIS購入時点で決まっている座席を、今日は空いているからと通路側に変更してくれました。明日はパリ祭(革命記念日)なのに、混んでいないんですね。よかったです。
機内では一昨日に取材をしたクレーマージャパン・新井智之選手の記事を100行ほど書き進めました(このときも面白い話を聞くことができました)。構成はほぼまとまったので、あとは書き進めるだけ…というほど簡単なものでもないのですが。今回も問題は、300行に収められるかどうか。自分のサイトの記事なので、多少の増減には対応できますけど。
それと、未定だったサンモリッツの後の日程で、1つ面白い案を思いつきました。19日のリエージュの試合に行くかもしれません。リエージュは22日のハッセルト(正確にはヒュースデンゾルター)と同じベルギーですが、使用されている言語が違う地域だったのです。リエージュはフランス語圏で、ハッセルトはオランダ語圏。その違いを感じるのも面白いかな、と。でも、まだ最終決定ではありません。取材申請もしていない大会ですし。
もしもベルギー2大会を取材するとなると、今回のヨーロッパはフランドル2大会と、北欧2大会の梯子取材が特徴といえるかも。
もうすぐ日本時間の22時。この日記がアップされていたら、ドゴール空港でのネット接続に成功したということです。その後、ローマに向かいます。
明日はパリ祭ですが、陸マガ8月号の発売日でもあります。表紙はもちろん醍醐直幸選手。
◆2006年7月14日(金)
ユーロ日記2006 第2日@ローマ
テルミニ駅近くの古いホテルです。ただいまイタリア時間の午前11:38。
昨日は21時過ぎにローマのレオナルド・ダ・ビンチ空港に着。ゴールデンリーグの受け付けデスクが手荷物受け取り(バゲージ・クレーム)よりも手前ににあったので、何か情報がないかと行ってみました。そういえば2001年に、為末選手と一緒に行きましたっけ。どうやら、選手・関係者の輸送を目的とするデスクで、スタートリストもタイムテーブルもありません。
5年前は為末選手と一緒でしたし、プレスホテルに宿泊していたので、主催者側の車でローマ市内にまで連れて行ってもらいました。しかし、今回はテルミニ駅近くの安ホテルへの宿泊。大会デスクのお姉さんは40分くらい待てば車が戻ってくると言ってくれましたが、電車で行くことにしました。テルミニ駅までのノンストップ特急がありますし、ユーレイルパスが使えます。
しかし、このレオナルド急行だかなんだかが、途中の駅でストップ。なかなか動きません。何のアナウンスもないし、鉄道関係者が誘導してくれるわけでもない。乗客たちがなんだかんだと情報を集め、隣接する地下鉄かタクシーしか移動手段はないことが判明。なんとか、地下鉄でテルミニ駅までたどりつきました。
ホテルを探すのにちょっと手間取ったこともあり、チェックインしたのは深夜の0時過ぎ。こんな部屋です。出発前の睡眠2時間と、長旅の疲れですぐにベッドに…と思ったのですが、まずは洗濯。今回のように移動しながらの取材では、連泊するホテルの最初の晩に洗濯をして行くのが鉄則です。荷物の部屋の中でのレイアウト(要は置き場所)を決めて、シャワーを浴びて1:30には就寝。
今朝は6:30起床。ヨーロッパでは早寝早起きの寺田です。
古くて安いホテルで、LAN設備などはありませんが、直通電話機があります。久しぶりにアナログ回線での接続に挑戦したところ、一発で成功。なぜか、このサイトのトップページと日記が表示できません。昨日、ドゴール空港で携帯(ボーダフォン)を使ってアップできたと思っていたのですが、実際はできていませんでした。とにかく接続スピードというのか、データの送信速度が遅くて、変だなと思っていました。一応、“転送した”との表示が出たのですけど。
ということで、昨日の日記を再度アップ。最後の方に書いたドゴール空港で接続に成功、というのは間違いです。
そういえば、1年前のアムステルダム(ヘルシンキ世界選手権へ往復したときの経由地)でも似たようなことがありましたっけ。こちらの設定の仕方が悪いのかもしれませんが、今後は携帯を使ったネット接続はアテにできなくなりました。これができると、安いホテルに泊まって経費を節約できるんですけどね。残念。
ネットはもう、1時間以上使っています。色々と調べることが多いのです。今日のローマ・ゴールデンリーグのタイムテーブルも、日本で12日にプリントアウトしたときから、かなり変わっています。昨日の日記で言及した19日のリエージュの取材申請は、12日で締め切られていました。どないしましょう。
嬉しいニュースは、フィンランドの試合で内藤真人選手が13秒46と自己新をマークしたこと。これは海外日本人最高……かな、と思ったのですが、谷川聡選手の日本記録がアテネ五輪でした。でも、末續選手には刺激となっているはず……などとマスコミは書くことが多いですけ、どうでしょうか。
そういえば、どこかの新聞記事の見出しに“末続が出発「ぼくも近々、世界新」”とありました。末續選手がヨーロッパ遠征に出発する際に、劉翔選手の世界新について質問されて、「自分も」と答えたというのですが、これはたぶん正確ではありません。話の流れはわかりませんが、「世界新を出したい」ではなく「自分も(9秒台や19秒台などの良い記録を)出したい」と話したのだと思われます。あるいは、冗談半分の話し方をしたのかもしれません。
試合開始が19:40。新井智之選手の原稿の続きを書きます。テレビ画面を見ると、気温は32℃になるみたいです。でも、湿度は低いので丁度いいかも。
◆2006年7月14日(金)
ユーロ日記2006 第2日@ローマ その2
ローマ・ゴールデンリーグの取材が終了したのが23:40。ただ今、朝の3時です。なんでこんな時間になったかというと、アクシデントが続いたから。
まずはタクシーのストライキ。今日はローマ市内、正規のタクシーは1台も走っていませんでした。これがケチのつき始め。バスでスタディオ・オリンピコに向かいましたが、大幅に到着が遅れました。さらに、報道のアクレディテーション窓口がわからず、案の定たらい回しに。挙げ句には「リストに名前がない」。
大ピンチでしたが、これは内心、なんとかなると思っていました。
それでも、時間は大幅にロス。スタートリストのチェックがまったくできないなど、準備不足で取材に突入する羽目に。
取材自体も、やや不満の残る内容に。成迫健児選手の5台目のタッチダウンが、かわいい補助員の差し出すリザルツに目を奪われ、若干不正確に。でも、あとで記録を見ると、成迫選手の話と合致したので、正確だったようです。
それにしても、取材のしにくさは相変わらず。レイアウトが悪くて、取材の移動がスムーズにできません。取材の不便なことでは間違いなく、世界ナンバーワンのスタジアムです。沢野大地選手の話も聞き損ないましたし。
帰りは最終0:00発のバスに乗り、0:28にテルミニ駅着。開いているカフェでカプチーノを飲んでいると、目の前に座っていたベルギー人のおじいさんが話しかけてきます。その話に1時間近くも付き合ってホテルに1:30に戻ると、今度はホテルが停電というか、電気がついたり消えたり。そんなこんなで、遅くなってしまいました。
苦闘続きの1日でしたが、面白いこともそれなりにありました。
IDはなんとかなる、ということと、先ほど世界一わかりにくいと書いた会場のレイアウトも、少しずつ把握し始めたこと。彫像に囲まれたサブトラックにも、競技終了後でしたが初めて入りました。帰りのバスの中で、大塚製薬・木路コーチからの電話で、小林史和選手の2000m日本新も聞くことができましたし。
極め付きは1時間も話し込んだベルギー人のおじいさん。お互いに英語は上手くありませんでしたが、知識がすごかった。ベルギー陸連の仕事もしているようで、800
mのボルザコフスキー選手(ロシア)を車で空港から送ったこともあるとか。孫が100
m、80mH、走幅跳の3種目で15歳クラスの国内ナンバーワンだと言います。名前も教えてもらったので、ハッタリではないでしょう。ナイト・オブ・アスレチックでの再会を約して別れました。
明日は6時起きです。大丈夫かな。
◆2006年7月15日(土)
ユーロ日記2006 第3日@ボローニャ
7:30ローマ発のES(ユーロスター)でヴェネツィアに行く予定でしたが、6時にアラームが鳴ったときの体調で予定変更を決断。陸マガを持ってベッドにGO! して、9:20に再起床。ESの指定席料金は無駄になりましたが、ユーレイルパスは元々、日本の乗車券と自由席特急券の組み合わせ。18ユーロの損害ですからまあ……よくありませんね。2700円とは! でも、体調優先です。
しかし、寝坊をしたおかげで沢野大地選手に電話インタビューができました。10時前に大会ホテルの部屋に、電話が通じたのです。昨日、千葉佳裕選手から同室だと聞いておいたのが正解でした。こちらは安ホテルですが、チェックアウトが12:00に設定されていたのもラッキーでした。
千葉選手ですが次の試合は未決定。ローマの結果次第ということになっていたようですが、昨日は51秒67で9位(ゴールデンリーグに日本人2選手が出場した写真)。海外で強豪選手と走る難しさを口にしていました。大きなGPへの参加は厳しそうです。
400 mHでは成迫健児選手も50秒20で8位。後半は1台毎に差が大きくなってしまいました。“つくばエクスプレス”(まだ襲名前ですが)ならぬ、つくば各駅停車のような走り。同選手はパリ、ローザンヌに続く出場。実は、ローマのホテルに入った際、海外グランプリの洗礼ともいえる出来事に遭遇してしまったのです。その辺の経緯は機会を改めて。
日本出発前に宮下先生から聞いた話では、決まっている次戦はヘルシンキ(26日)です。
沢野選手は出発前はローマ、ヘルシンキだけが決まっていましたが、こちらに来てから19日にヤッキルギム、22日にホッフ(ともにドイツ)での試合出場が決まったそうです。ともに棒高跳だけの大会だそうです。
末續慎吾選手は2日前のローマ入り。そして、中1日でフィンランドで200 m、中2日でベルギーで200 m。あえて、タイトな日程を組んだのだそうです。「1戦目は何もさせてもらえない」と、2回くらい口にしていたと思います。3戦目のリエージュの200 mが面白くなりそうです。
福士加代子選手の5000mは積極性がいまひとつで、最後の切り換えも、好調ならもう2〜3秒は行けたように思われます。日本選手権前に故障があった期間を考ると、さすがというべきかもしれません。次戦はヘルシンキの1万mですが、今季の目標は1万mの記録です。
ホテルを12:00にチェックアウト。ヴェネツィアはあきらめて、ボローニャかヴェローナで1泊しようと決めてテルミニ駅に。ボローニャがミラノ行きの途中にあって、本数も多い。ボローニャまでの指定席を購入。ダメモトで7:30の指定席券を見せると、なんとボローニャ行きの指定席が10ユーロから0ユーロに。言ってみるもんです。JR東日本にも見習ってもらいたいところです。
ボローニャのホテルは駅に着いてから電話で予約。ツインで190ユーロと聞いてホテルに着くと、119ユーロでした。こういうこともあります。
部屋も広くて、書き物机に丸テーブルまであって、洗面所もローマのホテルの3倍はあります。驚いたことにバルコニーまでついている。そこから、ボローニャにもある斜塔が見えました。寺田の運勢も傾いていくような気が……してこないところがイタリアです。
◆2006年7月16日(日)
ユーロ日記2006 第4日@サンモリッツ
ボローニャのホテルを8:40に後にして、バスでボローニャ駅に。ローマではバス車内で料金を払えないシステムでしたが、ボローニャでは1ユーロを支払える機械があるので、無賃乗車をしないで済みます。
ミラノ、ティラノと経由してサンモリッツに。ボローニャ−ミラノ間が2時間ちょっと。ここは頑張って原稿を書きました。ローマ・ゴールデンリーグの成迫健児選手の記事です。ミラノ−ティラノ間も2時間ちょっと。前半は湖水地方の美しい光景が続くので、どうしても車窓に目を奪われがち。5年前の2001年にも同じルートでサンモリッツに行きました。そのときは気づかなかったのですが、ここもコモ湖だったのですね。コモ湖は「人」という字の形をしていますが、左下にコモ市があってミラノから電車で北西に行きます。ティラノに行く電車は東岸を北上していきます。ちょっと新鮮な再発見でした。今回、家族T氏が一緒に来ているのですが、珍しく彼女が気づきました。
この区間の後半ではクレーマージャパン・新井智之選手の原稿書き。ちょこちょこと書き直しを繰り返しながら200行前後まで進んでいます(A葉氏を意識しての記述か?)。
ティラノ−サンモリッツ間は普通列車も走っていますが、ちょうど時間が合ったのがベルニナ急行。追加料金が5スイスフラン(約500円)かかりましたが、ガラス窓の面積の大きい車両で、景色が見やすくなっています。5年前にも見た風景ですけど、ここでもついつい見入ってしまいました。
サンモリッツには17時半頃に着。サンモリッツ湖西岸のグラウンド脇にあるホテル・ゾンネに電話を入れて、空室があることを確認。ツインで1人95スイス・フラン(2人で1万9000円)はちょっと高いですね。昨日のボローニャの方が綺麗で設備的にも充実していましたが、ツイン部屋で108ユーロ(約1万6000円)でした。スイスだから高いのか、観光地だから高いのか、標高1772mだから高いのか。
これだけ高いのに、部屋の電話ではインターネットに接続できません。5年前の高岡寿成選手取材時は街中(湖の北側の高台)のホテルでしたが、やはりできませんでした。カネボウの選手の部屋にお邪魔して、朝原宣治選手だったか誰かの原稿(日本で取材してヨーロッパで書いたもの)を送信した記憶があります。
LAN接続のできるインターネット・コーナーもあるのですが、有料です。しかし、背に腹は代えられません。有料でもとトライしようとしましたが、備え付けのPCでないとできないことが判明。ちょっとピンチ。
野口みずき選手たちが泊まっているホテルは、グラウンドを挟んで反対側。歩いて5分くらいの距離です。野口選手、広瀬コーチと夕食後の20時から、明日以降の取材の打ち合わせ。打ち合わせ後に嬉しいハプニング。この日は広瀬コーチの誕生日だったのです(年齢は自主的に伏せます)。野口選手からプレゼントの贈呈がありました。シャッターチャンスを逃す寺田ではありません(写真)。中身は****の財布。****は有名ブランド名ですがすいません、もう忘れてしまいました。
さらに嬉しいことに、ネットへの接続もできました。どうしてできたのかは、真似をされると困るので内緒にさせていただきます。
サンモリッツの夜はかなり涼しいです。そういえば、部屋にもエアコンはなし。セントラルヒーティングようのパネルがあるだけです。
◆2006年7月17日(月)
ユーロ日記2006 第5日@サンモリッツ
朝6時から野口みずき選手の朝練習を取材(もっといい写真がありますが、それは別の媒体で)。気温は10℃くらい。息がうっすら白く見えます。そのくらい寒くなることは昨晩、広瀬コーチから聞いていたので、対策はしていました。ただの重ね着ですけど。
今日の朝練習はサンモリッツ湖の周回(1周約4km)。最初の2周くらいまでは、まだ薄暗いなかを走りますが、3周目からは太陽が北西側の斜面に当たって、街並みが綺麗に見えるようになりました。撮影場所は広瀬コーチのアドバイスもあり、いいポジションで撮ることができたと思います。あとは、寺田の腕次第。
ヨーロッパの観光地で、日本人が幅を利かせていたのは今はもう昔の話。ここ数年は中国人、韓国人の数の方が圧倒的に多くなっています。それがサンモリッツはなぜか、日本人が多いのです。朝練習の取材中にも、数組の夫婦(年輩の方が多い)とお会いしました。寺田が撮影をしていたから有名人と判断したのでしょう。「見たことがあるんですけど、誰ですか?」と聞いてくる人がいました。野口選手が帽子を被っていたこともありますし、レース中とは雰囲気も違いますから、わからなかったのでしょう。
側にいた広瀬コーチとアイコンタクトをして「すみません。ちょっとお教えできないんです」と答えておきました。
ホテルに戻って朝食。バイキングですがまずまず。火を通した料理まではありませんが、チーズ、ハムとなかなかの味。コーンフレークも3種類あり、フルーツのサラダも。カフェラテのコーヒーと牛乳が、ポットで出されるのも嬉しいですね。
朝食後は昨日とこの日記を書いて、あとはインタビュー取材の予習。
ところで、今後のスケジュールを一部変更します。19日のリエージュの試合の取材はとりやめ、サンモリッツを2泊から3泊に延ばして、その後はドイツのニュールンベルクに行こうかな、と考えています。これもまだ、最終決定ではありませんけど、たぶんそうなるでしょう。
◆2006年7月18日(火)
ユーロ日記2006 第6日@サンモリッツ
昨日の午後は13:30から野口みずき選手のインタビュー。今回のヨーロッパ取材で数少ない単独インタビュー取材なので、気合が入りました。緊張もしました。なんてたって金メダリストです。でも、そこは海外というシチュエーションのおかげか、野口選手のキャラのおかげか、広瀬コーチの存在のおかげか、少しはリラックスムード。ホテルの食堂に貼ってある野口選手とバルディーニ選手のポストカードを写真に撮った後、テラスのカフェでインタビューとなりました。
最近、どうもスロースターターです。話が乗ってくるのにちょっと時間がかかってしまう傾向があります。陸マガ8月号の醍醐直幸選手のときがそうでした。まあ、最初から話が盛り上がることの方が少ないかもしれません。特に寺田の場合、少しは深い内容を聞き出したい、という方針でやっています。インタビューされる側も、どう答えればいいのか、普通の取材とは違和感を感じているかもしれません。こちらとしては、自分の知りたい部分を突っ込んでいるだけなのですが(ちょっと矛盾したことを書いているような)。
今回もそうで、話が乗ってきたのは中盤から。そこからは「なるほど」「すごいな」という話の連続でした。
野口選手は今年で4年連続のサンモリッツ合宿です。過去3回はパリ世界選手権(銀メダル)、アテネ五輪(金メダル)、ベルリン・マラソン(世界歴代3位)と、すべて好結果を残しています。一日の生活&練習パターンから始まって、話題のほとんどはサンモリッツを起点に質問していきました。そのなかで、野口選手のマラソン観やトレーニング観を聞き出せたらいいかな、という意図です。
練習内容の部分もそうですが、特に競技に対するスタンスに関する部分で驚かされました。そこまで考えているのか、と。さらに今回は、動きについても話を聞くことができました。そこには当然、トレーニングも関わってくる。
以前は(パリ世界選手権の頃)、自身のトレーニング観についてはそれほど話さなかった野口選手ですが、色々な経験を経て、動きやトレーニングについても深い話をしてくれるようになりました。それが、競技に対するスタンスとも結びつき、驚くべき“野口ワールド”を形成していました。「これだから人と違うことができるのか」と、感じた部分もあります。詳しくは陸マガ9月号で。
夕方からの本練習は“ジョッグ”。広瀬コーチの案内で、絶好の撮影ポイントに行くことができました。一昨日の日記で触れた、野口選手が広瀬コーチにプレゼントした財布のブランドは、ポーターでした。
今日の午前中は補強トレーニングを取材。これがまた、すごいインパクトがありました。
午後からは散歩の撮影とちょっとした捕捉インタビュー。16時からは本練習の2万mを取材。詳しくは明日の日記で。
◆2006年7月19日(水)
ユーロ日記2006 第7日@サンモリッツ→ニュールンベルク
そのとき寺田は前後の見境もなく、思いきった行動に出ていました。なんと、高さ120cmくらいの柵を乗り越えるという、運動不足の体を顧みない暴挙。そのくらいに、テンションが上がっていたということです。
昨日の夕方。サンモリッツ湖畔のグラウンドでのこと。野口みずき選手が午後練習を終えて引き上げようとしたときに、アテネ五輪男子マラソン金メダリストのバルディーニ選手(イタリア)が姿を現したのです。広瀬コーチが教えてくれました。午前中の補強練習取材後に、外国人選手との絡みがないと、話題に上がったばかり。
そのとき、野口選手はすでに柵の外側で、バルディーニ選手もそう。寺田は内側で、出口を通ってそこまでに行くと、150mくらいの距離があります。このチャンスを逃したら、一生の汚点。金属製の網のフェンスは、正直に言えば乗り越えるのは、それほど難しいことではありません。でも、今回のような状況に置かれなかったら、サンモリッツのトラックの柵を乗り越えることなど、一生なかったでしょう。
寺田「ミスター・バルディーニ?」
バルディーニ「イエス」
英語が通じるみたいでした。
寺田「日本の陸上競技記者ですけど、野口選手とツーショット写真を撮らせてもらえないですか?」
バルディーニ「もちろん、OKだよ」
寺田「じゃあ…」
と、どこをバックにするか、周囲を見回しました。
バルディーニ「太陽がこっちだから、この向きだね」
寺田「そ、それでお願いします」
こちらでもそのくらい判断できたのですが、金メダリストは写真の価値をわかっているらしく、つねに写りを計算しているようです。笑顔の作り方、立つ姿勢などからも、それがわかります。テンションが上がっていた寺田ですが、そのくらいは感じ取っていました。さすがに、尾方剛選手との因縁までは考えが及びませんでしたけど。
写真を撮り終えると、バルディーニ選手の方から何か話しかけてきます。
バルディーニ「写真をEメールで送って欲しいんだ」
寺田「ようござんすよ」
バルディーニ「アドレスはここね」
と、寺田の取材ノートとペンをさっと手に取り、さらさらと書いていきます。
寺田「ビー・エー・エル・ディー…」
バルディーニ「僕の名前だよ」
いや、わかっていたんですけど、念のために復唱しようとしただけなのですが。
寺田「必ず送りまっせ」
写真を掲載したいのはやまやまですが、野口選手の取材は陸マガに掲載するのが主な目的なので、ここでは控えます。ところで、バルディーニ選手もasicsのロゴが胸にプリントされたTシャツを着ているので、お揃いでした。asicsさんで買ってくれないかな、などとドイツの青空の下で思う寺田です。
それにしても、金メダリストのサインとメルアドを期せずして入手してしまったわけです。大金をはたいてサンモリッツまで来た甲斐があったというもの。昨日の野口選手のインタビューも感動しましたが、それはある程度予期していたこと。今日の出来事は偶発的なものだっただけに、興奮度が高かったですね。
肝心の野口選手の取材ですが、今日は朝練習には行かず、11時の補強から。会員になっているグラウンド近くのトレーニング・ジムで毎日やっています。窓からは湖や、ヨーロッパらしい建物なども覗くことができたりします(写真)。ウエイトの設備を利用する日もあるようですが、昨日は自分の体を利用したり、広瀬コーチの補助をしてもらってのメニューが中心(写真)。単なる腹筋・背筋だけでなく、体のサイドや股関節、膝関節の強化も丁寧に行なっていました。補強メニューのパターンはAからEまで、5種類もあるそうです。走りにどう結びつけているかは、これも陸マガで。それほどたくさんの長距離選手の補強練習を見てきたわけではありませんが、その真剣度合いは群を抜いていると思います。
昨日の練習前後の挨拶や、野口選手の表情から気づいたのですが、広瀬コーチとの関係はもう10年にもなるのに決して“なあなあ”になっていません。2人で行うサンモリッツ合宿も今回で4年目ですが、緊張感は高いと感じました。選手とコーチのスタンスが、お互いにしっかりしているからだと思われます。そこがしっかりしているから、馬鹿な話もできることもあるし、先日紹介したようなプレゼントもできる。
2人の関係は現場に来て、表情(サンモリッツの写真のなかでベストの表情)や話し方を見て初めてわかる部分。それだけでも、サンモリッツに来た甲斐がありました。えっ、国内の合宿でもわかること? うーん。そうなんですけど、サンモリッツの位置づけというのもありまして…。これも詳しくは陸マガで……書けるかな。
夕方の本練習はトラックで2万m。400 mを50周です。ペースは細かく紹介するのは控えますが、2000m毎に変えていました。広瀬コーチによればこういった練習が、外国人たちに「ジャパニーズ・クレイジー」と評されるのだそうです。そういえば、午前中のトラックは大盛況になりますが、朝走っている外国人選手は極めて少数。ケニア選手がそれほど距離を走らないのは知っていましたが、広瀬コーチによれば白人選手たちも同様だそうです。
彼らと同じ練習で強くなれれば、それに越したことはないのでしょうが、それができないから朝練習をやったり、長い距離を走って工夫しているのです。ケニア選手でも、ジャパニーズ・スタイルを取り入れて強くなったエリック・ワイナイナ選手やダニエル・ジェンガ選手の例もあります。
「今度“ジャパニーズ・クレイジー”だと言われたら、これが“ジャパニーズ・ワイジー”だと言ってやってください」と寺田。crazyの動詞がcraze。wiseは動詞でもありますから、wisyという形容詞もあると思ったのですが、後で辞書を調べるとwiseの形容詞はwiseです。サンモリッツに来ても、頭は良くならないみたいです。
夜は家族T氏と、スイスで初めての外食。トラックのある湖の西側はBad(温泉)と呼ばれる地区。北側の丘の上がDorf(村)と呼ばれる地区で、伝統的な建物があるのはDorfです。そこで控えめに食事をしたにもかかわらず、64.50スイスフラン(6400円)。ミネラル・ウォーターが550円です。サンモリッツに来ても、金持ちにはなれません。
Badから見たDorf Dorfの中心 Dorfから見たBad Badの店のショーウィンドウにあったテーブル(デスク?)
今朝は6時の朝練習に顔を出して挨拶をして、7時まで某ホテルのロビーでネット接続。9時の電車でクール、チューリッヒ、シュツットガルトと乗り継ぎ、今はニュールンベルクに向かっています。サンモリッツからクールまでも、なんとかGLACIER特急という風景を見るための車両が接続されているくらいで、なかなかの景観が続きます。でも、ここはサンモリッツに行くときと、それほど違いはありません。むしろ、クール−チューリッヒ間の湖畔の風景が好きです。電車の右側に湖が広がり、左側はこんな街並み。
シュツットガルトからニュールンベルク間の南ドイツの田園風景も捨てがたかったのですが、そこは我慢して原稿書き。サンモリッツでサイトの更新をしたときに記録集計号が手元になかったので確認できませんでしたが、池田選手がフィンランドのSavoゲームで出した6m62は、国外日本人最高を1cm更新していることを確認しました。
到着後は道を挟んで向かいにあったイタリアンのレストランに。テラス席だったので、広場の写真を撮ることができました。街の歴史的区域内は車の走る道も制限されているようでしたが、色んな店を見るとヨーロッパの中では活気が感じられる方で、それでいて落ち着きがあって、なかなか良い街です。
◆2006年7月20日(木)
ユーロ日記2006 第8日@ニュールンベルク→ハイデルベルク
激動の1日でした。正確に言えば12時間。その間に、ここまでの経験ができるとは思っていませんでした。生涯に何度もあることではないでしょうね。
今朝は6:30頃に起きて7:00から朝食。サンモリッツよりも値段ははるかに安いのに、朝食は豪華。パンとハムの種類が豊富ですし(サラミハムがお気に入り)、スクランブルエッグなど火を通した料理まであります。ここはたっぷり食べさせてもらいました。
ホテルはアンティークな雰囲気で、日本人旅行者にとっては新鮮なものばかり。泊まった3階(日本流にいうと4階)の部屋の内部はこんな感じで、寺田の作業部屋のものより立派なデスクまであります。浴室にはバスタブもあって、これまでで一番の広さでしょう。外からだと横幅が狭いように見えますが、3つくらいの建物をつなげてあって、奥行きがある造り。中庭まであります。同じ3階にはテラスまである。ここでワインを飲んだら最高かもしれません。ちなみに今回のヨーロッパ取材中、アルコールはまだまったく飲んでいません。
9:30にホテルの道の反対側にあるスタバに。平日の午前中ということもあってか、客の姿はまばら。1時間後には2階の客は寺田1人だけになったので、写真まで撮ってしまいました。スタバに行ったのは、ネット接続が目的です。ホテルにも無線LANはあって、接続はできるのですが、電波が弱すぎてブラウザが開けません。電話回線もまったく受け付けてくれません。以前、瀬戸智弘選手がブログで、シドニーのスタバで無線LANで接続した話を書いていたので、もしかしたらと思って昨晩のうちに確認しておいたのです。
HotSpotという接続のシステム(商品?)ですが、1時間8ユーロ(1200円)、3時間14ユーロだったと思います。接続すると自然とHotSpotのサイトが開き、ネット上でクレジット決済をするシステム。かなりぶんどられている印象ですが、仕方ありません。
11:00頃にホテルに戻って原稿書き。12時くらいに沢野大地選手に電話をして、明日のスケジュールを確認しようとしました。当初は今日、Hofに移動する予定でしたが、明日に変更になったとのこと(試合は明後日)。行動予定を聞くと、今日なら取材ができそうな雰囲気です。昨日試合のあったヤックリム(Jockgrim)で滞在したホスト・ファミリーの方たちと一緒に、ハイデルベルクに行くといいます。そこで合流することにしました。すぐに決められたわけではなく、時刻表を調べたりして、3回くらい電話をかけ直しています。ちなみにハイデルベルクは古城と、世界で何番目かに古い大学があることで有名な街です。
すぐに荷造りをして、13:41ニュールンベルク発のIC(インターシティ。特急の一種。座席指定もできますが、しなくても座れることが多い)でシュツットガルトに。そこで乗り換えてハイデルベルクに16:50着。駅前のツーリストインフォメーションを探すのに5分。駅前にはチェーンホテル大手のibisもあり67ユーロと看板も出ています。ですが、まずツーリストインフォメーションに。そこで紹介してくれたホテルが遠かったし、値段も45ユーロはアウトバス。その次が56ユーロですが、ちょっと距離があったのでibisにしました。
沢野選手に17:15に電話。待ち合わせ場所を決めて、取材道具をまとめて17:20に出発しましたが、少し手間取って合流できたのが17:45頃。迷惑を掛けてしまいました。猛烈に反省しています。
待ち合わせた近くにいくつかの店が入った商業ビルがあり、そこのカフェでインタビュー。遠征中の行動や考え方については、今年に入ってからも2度も成田空港取材をしていますし、14日のローマ・ゴールデンリーグでの行動(他の選手の接し方や落ち着きぶり)などを見て、予想のできる範囲でした。感銘を受けたのは、ホスト・ファミリーの方たちとの接し方です。
奥さんが日本人の方ですが、旦那さんとは英語でスポーツ論から文化論までしてしまうし、子どもとも肩を組んで街を歩くほど仲良くなっていました(写真)。まったくストレスを感じている様子がありません。日本出発前はローマ後の試合はヘルシンキしか決まっていませんでしたから、沢野選手自身もホームステイになると知ったのは、直前のこと。それでも、ここまでの行動ができてしまう。
外国人選手などとのエピソードを聞いていると、沢野選手ならこのくらいはできるだろう、と想像できた部分ですが、見るのと聞くのでは大違いというか、目の前でその言動を見ると、こちらの受ける印象が全然違ってきます。この選手は強いわけだ、と感じました。沢野選手のコメントを紹介しましょう。
「試合でホームステイをするのは初めてですが、毎日がすっごく楽しいです。色んなものを見たり、食べたり、触れたり。僕らにとっては非日常になりますが、そこにステイしていることを、逆に楽しんでいます。リフレッシュできて、ある意味モチベーションになります。ヨーロッパに遠征に行き始めた最初の頃は、そこまでの余裕は持てませんでしたけど」
こういった神経の太さは、海外を転戦する棒高跳選手には必要なことなのでしょう。沢野選手がウォーカー選手のエピソードを紹介してくれました。ローマからフランクフルトに移動するだけなのに、ポールだけでなくスーツケースまでロストバゲージしてしまったというのです。荷物が届いたのは試合前日。それでもウォーカー選手はヤックリムの試合でついに、6mボウルターの仲間入りをしました。おまけに、ホームステイ先が美容院で、試合当日の昼はいつもの髪型だったのに、試合には髪を赤く染めて登場したというのです。
技術的な話でも収穫あり。同選手がインタビュー中によく使う「流してしまった」という言葉について。これはいつか、記事に使えるネタかも。
19時頃にはインタビュー終了。記念(?)に、友人の醍醐選手が表紙の陸マガを手に撮影。それから外に出て、ヨーロッパらしい街並みを背景に撮影取材。Nishiの広告などで慣れているのか、立ち方や歩き方も様になっています。
ホスト・ファミリーのご好意に甘えて、寺田も車に乗せてもらってヤックリムに。40〜50分後に着きました。そろそろ暗くなっていたので街の印象まではわかりませんが、小さくてもそれなりに活気はありそうな街です。20:30頃からイタリア料理屋で一緒に食事をさせてもらいました。
前日に行われたヤックリムは棒高跳だけの試合(沢野選手は5m63)。ヤックリムはシュツットガルトの西、ハイデルベルクの南西に位置して、フランス国境まで20kmくらいなのだそうです。人口7000人の街で観客は2500人だったといいますから、近隣の街からも集まるといってもすごい数です。この時期はフェスティバル期間中で、毎日サッカーの試合が行われていて、そのイベントの1つとして棒高跳が行われています(今年で12回目)。場所もサッカー場の脇の特設ピットで、以前は敷地よりも外のアスファルトの上にオールウェザー舗装を敷いて行っていたとのこと。その跡を沢野選手が紹介してくれました(写真。ボックスの形にラインがあるのがわかるでしょうか)。
「これまでの大会の中で一番、楽しい試合でした。お客さんとの距離も近くて、楽しんでいる様子がよくわかります。ジョー(ホスト・ファミリーの主人)の弟さんが陸上競技をやっていたことがあって、みんなで僕の名前を書いた大きなカードを掲げて応援してくれました」
5m73は完全に体は浮いていたのに、ヒジで落としてしまったそうです。体調もローマと比べて上がってきていると言います。次のHof、そしてヘルシンキで期待したいと思います。
22:30頃には試合の行われた会場に。お祭りは今日も続いていて、大勢の人がいます。この太った方が前日にMCを務めた人物。明日の移動などの打ち合わせをしているところ。これが表彰会場。ドイツらしく、上位入賞者は表彰時にビールを飲まされたそうです。
ヤックリムの最寄りであるカールスルーエ駅まで送ってもらい、沢野選手とホスト・ファミリーの3人と別れ、23:28発の電車でハイデルベルクに。ホテルに着いたのは日付が変わって0:20。ニュールンベルクのホテルから沢野選手に最初の電話を入れてから、12時間ちょっとしかたっていません。異国の地で急きょ予定が変わって、それに対応するため移動して、トップ選手に取材をし、初めて会った人たちと行動をともにしました。本当に、良い経験をさせてもらいました。沢野選手に感謝したいと思います。
◆2006年7月21日(金)
ユーロ日記2006 第9日@ヘイデルベルク→マインツ→ハッセルト
ハイデルベルクのホテルで昨日の日記を書きました。これから、今回のヨーロッパ取材の大きな目的の1つ、ナイトオブアスレチックの行われるベルギーに移動します。
しかし、もしかすると、寄り道をする可能性もあります。その報告はまた、ネットが接続できたときに。
今回のヨーロッパ取材の目的の1つに、女子選手とカフェに行くことがありました。いつ目的になったのか自分でも知りませんけど、それを達成したのが今日です。早狩実紀選手とマインツのカフェでお茶を飲みました。これが証拠写真その1。これが証拠写真その2。
自分で言うのも何ですが、ちょっとやそっとのことではできない快挙だったと思います。まず、若い選手だったら、記者とお茶をする気持ちの余裕がありません。その前に、チームとして行動していたら、なかなか単独行動もできないでしょう。この2つの条件をクリアしているのが、30歳代で単独で行動している早狩選手でした。
ドイツに来ていることは彼女のブログを見て知っていたので、どこの都市なのかメールで問い合わせました。確かサンモリッツ滞在中だったと思います。ニュールンベルクのスタバで1時間限定のネット接続中にリプライを受信。マインツだとわかりました。フランクフルトの近くですから、ベルギーのハッセルトに行く途中です。沢野大地選手の取材が1日早まり、場所もドイツ東部から西南部に変更になったので、今日、立ち寄ることが可能になった次第です。
ただ、早狩選手も明日のナイトオブアスレチックの出場を希望していて、空きが出れば今夕にもハッセルトまで移動するとのこと。ハイデルベルクのホテルをチェックアウトして12:30頃に電話をして確認。まだ連絡がないとのことです。フランクフルトでも電話をしました。現地の大塚製薬・木路コーチがスタートリストをチェックしてくれていますが、名前があるのはウエイティングリストのトップ。昨年の世界選手権12位の同選手ですが、今回は申し込むタイミングが遅かったようです。
もしかしたら一緒に移動することになるかもしれませんが、マインツに行くことにしました。フランクフルトでの乗り換えの20分間で、早狩選手に電話をして、リージュまでのICEの座席指定を取り、コインロッカーを探し当てて荷物をしまい(その前にミネラルウォーターを購入してコインを入手)、Sバーンの乗り場に走ったのは、我ながら手際が良かったと思います。目的意識の高さが成せる業だったかな、という気がします。目的って…。
15:30にマインツ着。フランクフルト行きの電車が遅れたため、予定より1時間遅れました。駅前のカフェではなく、バスを使ってメイン広場のカフェに(この辺は早狩選手がルートを把握していたので、パッと行動できました)。広場と教会(大聖堂)と市庁舎、そしてカフェがセットになっているのがヨーロッパの伝統的な都市なのです。
僅か1時間ほどですが、アップルジュースと○○○を飲みながら話ができました。世間話的な内容ですが、記事にも役立ちそうな話も2、3できたように思います。
17時ちょっとの電車に乗るため、16:30にはカフェを出てバスに。車中で、木路コーチから出場不可の電話が入りました。残念。
世間話をしにマインツまで行ったかのような書き方をしましたけど、本当は、この瞬間を取材するのが狙いでした。もしも出場が決まっていたら、「私ってラッキー。明日は日本新で走っちゃうから」という瞬間に立ち会えたわけです。そして本当に日本新を出したとしたら、木路コーチの電話を受けたところを記事にできたわけで……これを書きたかったわけではありませんけど、本当に残念でした。
ただ、今回の経緯と対処の仕方、気持ちの持って行き方などを聞くと、さすが早狩選手と思える部分も多々ありました。若いだけの選手ではまずできないこと。詳しくは記事にできたらいいなぁ、と思っています。
昨日の沢野選手とのエピソードのようにドラマチックではありませんでしたが、偶然が上手く重なって、ヨーロッパの街で日本のトップ選手とカフェに行ける。ちょっとした幸せを感じた一日でした。
◆2006年7月22日(土)
ユーロ日記2006 第10日@ハッセルト
昨日は早狩実紀選手と会った後、フランクフルトに戻ってブリュッセル行きの特急に。ケルンに向かってドイツを北上する車窓の光景は、南ドイツとちょっと違います。イタリアからスイス、南ドイツは屋根の色がオレンジ色に近い茶色ですが、北ドイツでは黒と赤の混じったような濃い茶色です。壁も白っぽくなる。それがベルギーに入ると、壁が煉瓦造りの家が多くなります。
リージュに20:45頃に着いて、ハッセルト行きに乗り換えるまで約20分。駅の近くをぶらぶらしました。車窓から見た雰囲気はドイツとは違っても、ヨーロッパの典型的な綺麗な街並みですが、駅の汚れ方はスイス・ドイツと比べるとひどいですね。街の雰囲気もちょっと猥雑な感じ。これは駅前だけかもしれません。以前、スイスのローザンヌからTGVに乗ってパリに着いたときにも同じような感じを受けました。
ハッセルトの駅に着いたのは22:30頃。完全な夜で雰囲気まではよくわかりません。同じベルギーで電車で1時間の距離ですが、リージュがフランス語圏なのに対し、ハッセルトはオランダ語圏。1日で3つの言語圏を回ったのは初めてかもしれません。電車移動では。
ホテルは大会本部のホリデイインではなく、200 mくらい離れたエクスプレス・ホリデイイン。フロントの隣のバーを見ると、自体学の平田監督と大塚製薬・木路コーチがカウンターにいたっしゃいました。パソコンまで広げています。昼間、早狩選手に“ダメだったコール”をしてきた木路コーチとの対面です。特に意味があるわけではありませんが、ちょっと感慨があります。
前の夜にもかかわらず、選手の出場レースが100%確定していません。ざっと挙げると以下の通り。
●笹野・中野の2選手は800 mナショナル・カテゴリーの5組目(400 m52秒、600 m1分18秒通過、フィニッシュ1分47秒00)
●井幡磨・森川選手は1500mナショナルの3組目(1000m2分26秒通過、フィニッシュ3分39秒)
●小林史和選手は1500mB組(1000m2分24秒通過、フィニッシュ3分37秒00)
●杉森美保選手は女子800 m(フィニッシュ1分59秒のペース)
●中村悠希選手は5000mB組(フィニッシュ13分10秒のペース)
●前田、小畑、真壁選手は5000mナショナル(フィニッシュ13分40秒のペース)
山岡選手が5000mナショナルのペースメーカーをすることが決まっています。しかし、1500mの田子選手と村上選手は、出場レースが決まっていません。村上選手を小林選手と同じ1500mB組に、田子選手をナショナル3組のペースメーカーとして出場させようと、日本のスタッフは大会本部と掛け合っている最中でした。
ホテルの部屋でも無線LANは接続でき、WEBサイトを見たりメールの受信はできますが、メールを送信することができません。木路コーチによれば、ホリデイインに行くとロビーで、有料の無線LANができるといいます。サイト更新用にファイルは送れたので、部屋でのネットで我慢することに。
今朝は9:40に朝食。10時から日本チームのミーティングがロビーで行われていたので顔を出しました。村上選手がナショナル3組のペースメーカーに認められましたが、田子選手は出場ができないことに。今回がヨーロッパ3戦目ですが、4戦目もあります。代わりに刺激となる練習をどこで入れるか、スタッフたちと話し合いを始めていました。
朝食後には大会本部のホリデイインに。今日のアクレディテーションは、スタジアムで受け付けるとのこと。スタートリストはもらうことができませんでしたが、張り出されていました。小島茂之選手が100
m予選B組、大前祐介選手が200 m、田野中輔選手が110 mHに、しっかり名前が載っています。スタジアムとのシャトルバスの時間をチェック。帰りの最終が23:30発。最終レースが22:30頃からですから、ちょっと危ないかもしれません。
雨もポツポツと降り始めました。素人カメラマンは悪条件に弱いので、こちらも心配です。
◆2006年7月23日(日)
ユーロ日記2006 第11日@ハッセルト→コペンハーゲン
昨日はナイト・オブ・アスレチック、通称ナイトオブの取材(小林史和選手が取材のときにこの表現をしていたので)。今回のヨーロッパ取材敢行を決めたのは、日程と移動経路からこの大会に行けそうだと思ったことが、大きな決断材料になっていました。男子では小林選手の1500m(記念Tシャツを今回持参して取材時に着ていました)、高岡寿成選手の5000mと、2つの日本記録がここで出ています。福士加代子選手による日本人初の女子5000m14分台も、このスタジアムが舞台でした。日本の中・長距離界を語るときに欠かせない大会なのです。
16時のシャトルバスでスタジアムに。寺田が泊まったエクスプレス・ホリデイインは、大会本部ホテルのホリデイインから歩いて200 mくらいなので、この辺はスムーズです。スタジアムまでは約20分。15kmくらいの距離があり、都市もハッセルトではなくヒュースデン・ゾルターです。陸マガ記載の場所も、この名前になっているはずです。
午前中にパラついた雨も上がり、晴天の取材日よりに。ローマと違ってアクレディテーションの場所にもすぐに行けました。ただ、受け付けカウンターにいたおじさんが「オレは担当じゃない」と知らん顔。あとでわかったのですが、そのおじさんも記者だったのです。だったら、内側に堂々と立つなよ、と日本的な感覚では思うのですが。ただ、テーブルに置いてあるリストには、フォトグラファー欄に寺田の名前も載っています。名前がない、と言われたローマよりも、この時点で不安は小さくなりました。
16:35には担当者が到着。二枚目のおじさんですが、アシスタントが急に来られなくなったとか言い訳をして、さらに待たされます。17:05には笹野、中野両選手の出る800 m5組がスタートするので気が気ではなかったのですが、16:45にはもっと年輩のプレス担当者が到着し、カメラマンビブスを受け取ることができました(国際プレスIDカードと引き換え)。どうやら、18:50からのインターナショナルの部門が始まるまでは、おおらかな仕切りで、ビブスがなくても撮影できたかもしれません。
スタジアムは相当にこぢんまりしています。2年前に行ったザグレブ(クロアチア)よりも小さいというか、のどかというか。これがインフィールドから撮ったメインスタンド。中央より(写真左手)がガラガラですが、インターナショナルの部が始めると満席になりました。これは第3コーナーから撮ったバックストレート。スピーカーがトラックの内側に何10台も置かれていて、音響面は抜群に良かったと思います。スタンドが小さいからローマのようにアナウンスがキンキン反響しすぎません。それでローマは取材がしにくいのですが、今回はレース中にスタンドで、選手の話を聞くこともできました。
トラックの内側にはスピーカーだけでなく花も置かれていました。第4コーナーで撮った写真がこれですが、選手も走りながら花を見て気分転換をすることができます。高岡選手も足元の花を見て「花だ。花田(勝彦)に負けてたまるか」と、ライバルに思いを馳せて日本記録を出した…のかもしれません。覚えていたら、次に会った時に確認しておきます。
家族T氏も同じような感想を述べていましたが、雰囲気は田舎都市の社交場という感じ。フィニッシュ地点正面は、野外レストラン(立食スタイルだったような)で飲み食いをバンバンしています。そこはちょっと高めの値段。第4コーナー外側には屋台の店と、簡素なテーブルがいくつか。小さな子ども用の遊び場まで設けられていました。沢野大地選手が出場したヤックリムの棒高跳大会がそうだったように、小さな街の大会ほど、陸上競技にプラスした要素が競技会には必要なのかもしれません。その一方で、陸上競技を純粋に楽しんでいる人たちもいます。中年や老年の夫婦など、あまり関係者っぽくない人たちも多く見られました。もしかしたら家族や知り合いが出ているのかもしれませんが、全部が全部、そうではないはず。やっぱり、陸上競技が根付かないと、こうはならないでしょう。
まさに日本に欠如している部分で、その辺の問題意識は選手にも関係者にもあります。問題はどうやったら陸上人気が広く根付くか。当たり前ですが、表面的な部分だけではダメでしょう。テレビを見た、スター選手を見てすごかった。それはきっかけとしては良いと思いますが、その後が重要だと思います。何度も書きますが、来年の世界選手権の後をどうやって人気を持続させるか。そこを境に、専門誌の売り上げが伸びるようになったら、最高ですね。
話をナイトオブに戻しましょう。笹野選手は1分48秒台。スローペースに記録を阻まれましたが、動きがいいのは確か。正面から写真を撮っていたので着順がわかりませんでしたが、最後の直線の優勝争いは迫力がありました。
800 m第5組のあとは会場のあちこちを撮影。ウォーミングアップ場は全天候舗装ではなく、土(芝生)でした。昨年のヘルシンキ世界選手権のサブトラックが、本競技場と材質の違う舗装で不評でしたが、それどころの話ではありません。これがヨーロッパの田舎大会の現実なのでしょう。でも、アップ場と隣接した招集場所から本競技場までは40mくらいの距離。そこが何百mもある大スタジアムとどちらが良いか。
17:40からは1500mの3組。出場するのは今朝の時点で森川選手(大阪府警)、井幡弟選手(大塚製薬)、村上選手(富士通)の3人のはずでした。ところが、出られなくなって代わりの練習をどうするか相談していた田子康宏選手(中国電力)も入場してきます。ちょっとびっくりした顔をしていると、「ペースメーカーですよ」と同選手(スタート70m後にトップに立ったシーン)。レース後に詳細を聞くと、2時間前に出場が決まったそうです。こういったことが平気で起きてしまうのも、ナイトオブです。
1500mのレース後にアップ場に行くと、田野中輔選手(富士通)がストレッチをしています。100 mの小島選手はすでに流しを行っているところ。田野中選手はこちらに気づくと、いつもの笑顔で会釈をしてくれます。個人的な希望を言えば「なんでこんなところまで」という感じで、びっくりして欲しかったのですが。寺田が来るという情報を入手していたようです。内藤真人選手(ミズノ)が13秒46を出した話を田野中選手がしたので、こちらからは内藤選手がナイトオブに来ればネタにできたのに、などという馬鹿な話をしてアップの邪魔をしてはいけないので、早々に退散しました。
18:50からの男子1500mB組に、真打ちの小林史和選手(NTN)が出場。きっちり最後まで優勝争いに加わってくれました。フィニッシュ後は3分38秒台後半との情報もありましたが実際は3分39秒08。世界選手権のB標準に0.08秒届かず、糠喜びに終わりました。しかし、自己3番目の好記録です。何よりナイトオブでの高度安定ぶりは驚異的。今回で5年連続出場で3分37秒42の日本記録を筆頭に、3分39秒台が3回、3分40秒台が1回です。レース後はナイトオブの日本の顔らしく、地元の女の子からサインを求められていました。誰でもいいからサインをもらおうとする子供が多いのも事実ですけど。
1500mB組の始まる前に、スタンドの小口さん(フランクフルトの旅行代理店勤務。陸連や実業団の遠征のコーディネイトを請け負っている方)から声を掛けられました。見ると、隣にはポッティー氏。ローマのカフェで深夜、1時間も話し込んでしまったベルギー人のおじいさんです。ナイトオブの会場が大きかったら、声を掛けてもらうこともできなかったでしょう。
もう1人、サンモリッツで野口みずき選手の写真を撮っていたおじさんにも再会。この人はベルギー出身でサンモリッツ在住の方。毎日に近いくらい、サンモリッツのトラックに顔を出して、有名選手の写真を撮り続けている人みたいです。1969年に買ったキャノンのカメラを使っていました。最新カメラの性能に頼っている寺田とは大違いですけど、こちらはそこに投資をしているわけでして…。
例えば、19:25からの男子100 m予選の小島茂之選手(アシックス)の写真です。確かに、昔のカメラでも腕が良ければ撮れる絵柄ですが、寺田のようなにわかカメラマンには、最新カメラでなければ撮れません。あとは、インフィールド取材ができたればこそ。日本の大きな大会でもインフィールド撮影はした経験のない寺田が(大学対抗戦などではありますけど)、ナイトオブのインフィールドを闊歩していいのか、と思わないわけではありません。でも、いいんです。カメラマンの数は全部で10〜15人くらいしかいませんでしたから。日本だったら春季サーキットクラスでも、30〜50人は取材しています。
小島選手に続いて女子800 mには杉森美保選手(京セラ)が登場。10日くらい前に遠征が決まったといいます。12人が出場して2人がペースメーカー。序盤のスピードが速く、集団後方につけた杉森選手は、600 mでペースメーカーがやめたときは最下位でした。しかし、最後の直線で3人を抜いて7位に。勝負に加われなかった思いから表情は今ひとつでしたが、2分01秒81は自己4番目。昨年自身がアジア選手権で出したタイムを0.03秒上回る国外日本人最高記録でした。
この頃になるとベルギーの夜も徐々に暗さを増し、大会も佳境に入ってきます。ゴールデンリーグなどに比べると顔触れが落ちるのは仕方がありませんが、男子棒高跳にはHOOKER、STEVENSON、BURGESS、MARKOVら、世界のトップ選手が出場。沢野選手が出場したHof(ドイツ)の競技会と、選手が二手に分かれた感じです。ローマ、ヤックリムと連勝したバージェスが記録無しに終わり、同じオーストラリアのフッカーが5m76で優勝。写真のヘルメット男、スティーヴンソンが2位でした。
女子短距離では地元のKim GEVAERT選手がすごい人気でした。100 mはアメリカ2選手に次いで3位、200 mはファーガソン(ジャマイカ)がいたため2位でしたが、黒人選手たちに挑む地元期待の白人選手という構図は、人気が出るパターンでしょう。女子走高跳でも地元の白人選手、眼鏡を掛けたTia HELLEBAUT 選手が1m98で優勝。大会を盛り上げていました。
20時台には110 mHに田野中選手、100 m決勝に小島選手、200 mに大前祐介選手と、トラックに日本人選手が立て続けに登場。危なかったのは田野中選手のとき。第2コーナーにいる日本選手たちの拠点で自己新を出した森川選手の話を聞いていたのですが、撮影に戻ろうとウォーミングアップ・エリアに入ろうとしたらストップをかけられました。最初の頃は出入りは自由だったのですが、これも国際種目が始まってからダメになったようです。時間的には絶対に間に合わないと思いましたが、反対周りに4分の3周をダッシュ。スタート時間が5分ほど遅れていたことに助けられて、間に合いました。昨日一番のピンチでしたね。
ただ、競技写真はここでの掲載は控え、サブトラックで撮ったスリーショットにします。3人とも今回のような個人遠征の形でのヨーロッパ遠征は初めて。ということで、ヨーロッパ・ポーズを取ってくれと注文したところ、どうしようか3人で話し合っているシーンです。小島・大前2選手が早大出身。同大学の短距離勢は、専門誌の取材などに対し人文字をつくるのが得意だという印象があったので、お願いしてみました。残念ながら、ヨーロッパ・ポーズは考えつきませんでしたけど。
ちなみに、その2人が早大OBなら、田野中・小島2選手は千葉県出身。田野中・大前2選手が現富士通です。だからなんだ、というわけではありませんけど。
3人のコメントを聞き終えると、トラックにとって返して5000mの中村悠希選手を撮影。21:50スタートの同種目になって、やっとナイトオブらしく暗くなってきました。カネボウ選手のナイトオブ記録更新の期待のかかる同選手ですが、今回は不調で14分かかってしまいました。ただでさえ、あまり多くを語らないタイプの同選手です。不調の原因がわかるのは、今日になってからでした。
ヨーロッパの大会で困るのは、試合終了が深夜になるため、試合後に選手の話を聞く時間がないことです。選手たちは22:45のシャトルバスに乗る予定だと聞いたので、5000mの最終レース中にスタンドで杉森選手のインタビュー。自己新を出した前田選手の写真は、最後の2周をスタンドから撮りました。
こうして、念願のナイトオブ取材は終了。寺田も22:45のバスに乗ろうと発着場に急ぎましたが、すでに満席。次のバスは23:30です。富士通・福島監督たちとどうしようかと思案していると、大会役員らしきおじさんが車で本部ホテルまで送ってくれると言います。それらしき車が着くと、反対側から黒人選手たちもダダっと乗り込んできます。こういうときに遠慮していてはヨーロッパ取材は乗り切れませんが、そこは日本人。やっぱり遅れをとってしまいました。でも、その後からも車が来てくれて、なんとか乗り込むことに成功。
23:15にはホテル着。日本選手とスタッフが揃って食事に行くことになっていましたが、最終レースを走った選手たちが木路コーチの車で戻ってくるまでに少し時間があったのが幸いしました。自体学・平田監督から日本選手たちのラップタイムを教えてもらい、続いて小林選手と笹野選手にロビーでインタビュー取材。
笹野選手の自己ベスト、1分47秒03も2年前の今大会で出た記録です。ナイトオブで記録が出る理由を、2人の話から導き出すことができた……かな。
今朝は朝食後、大会本部ホテルに。何か情報をゲットできるかと思えば、プレス用には何も資料がありません。昨日まで大会本部があった部屋も鍵がかかった状態。役員の女性をホテルの人に教えてもらって質問しましたが、リザルトもフラッシュインタビューもなし。外舘トレーナーの話では、朝早くに行けばリザルトだけはもらえたようです。
しかし、ただでは帰りません。ブリュッセル空港行きの車を待つ田野中選手と大前選手にフロント前で会うことができ、200 mで失格の選手が出て3位に大前選手が繰り上がったことを教えてもらいました。ただ、2人とも賞金をゲットするのに苦労をしていましたが。寺田は9:44発の電車に乗らないといけないので、最終的な顛末は知りません。帰国した2人に会った方は確認してみてください。
今日はハッセルトから再びリージュ、ケルンと戻り、そこから北上してハンブルクに。今はコペンハーゲンに向かう途中です。電車が大きなドックのような建造物に入り、海の上を移動しているみたいです。いよいよ、初のデンマーク入り。といっても、明日の朝にはスウェーデンに向かいますけど。
何時間かかったんだろう、この日記。それだけ、ナイトオブへの思い入れが強かったということで。そういえば、最終種目の最後の2周あたりから天候が急変。強風が吹き始め、雷も鳴り始めました。しかし、実際に雨が降り始めたのは車に乗ってから。寺田の思い入れが天候を持たせたのでしょう。などと本気で思っているわけではありませんが、そのくらい強い思いだったということです。
しかし、あまりにも膨大な量なので、読み直す時間がありません。おかしな文章があったら、ご指摘ください。
◆2006年7月24日(月)
ユーロ日記2006 第12日@コペンハーゲン→ストックホルム
昨晩からは“ギリギリ”の連続でした。
昨日はコペンハーゲンまで電車で移動。ケルンで家族T氏はフランクフルトに。一足早く帰路に着きました。26日に管理栄養士として講演だったか何かを依頼されていたのです。
車内ではナイトオブの日記をひたすら書き続けました。たぶん3時間以上はかかったと思います。写真を整理してホームページビルダーでの作業を入れると4時間半くらいでしょうか。でも、コペンハーゲンに着く1時間前には作業を完了。
コペンハーゲン着は22:40頃。ホテルはサンモリッツの某ホテルで、無線LANに接続できたときに予約。到着が夜中になることが予想されたから安全策を採りました。駅から徒歩5〜6分と近いのですけど、値段は1万3000円とそれなり。これは為替レートもたぶんに影響しています。最近、円は下がりっぱなしですから。
今回の取材ツアーで一番焦った出来事が起こったのは、ホテルに着いて荷解きをしていたとき。パソコンのACアダプタの先についているはずのプラグ・アダプタがないとわかったときです。延長コードとパソコンのコードを必ず1つの袋に入れる習慣になっていたので、他には絶対に入れていません。ということは、ケルンからハンブルクの車内で電源に接続していましたから、そのとき壁に差したまま忘れてきたのに間違いありません。
さあ大変です。パソコンの作業はもちろん、カメラとビデオカメラのバッテリーも充電できません。もちろん、原稿も送れないし、サイトの更新もできなくなってしまいます。焦りまくりましたが、できることは限られています。まず、フロントに行ってCタイプのアダプタを借りました。これがなかったら、一晩、まったく作業ができないところでした。後をどうするか。
朝を待ってフロントに、近くにアダプタを売っていそうな店がないか、聞きに行きました。対応してくれたお姉さんは、「知らない」と言います。だったら、借りているアダプタを売ってくれないか、と頼みました。ドアの奥に上司の指示を求めに行って帰ってくると、「中央駅に売っているみたい」とのこと。なんだ、早く言ってよ。
開くのが10時の店もあるかと予想して、9:50にホテルを出ました。チェックアウトは11:00なので、荷物は置いたまま。ちなみに、ヨーロッパでは11時か12時ということが多いようです。
駅に行ってコンビニっぽい品揃えの店に行きましたが、置いていません。店員に聞くと、「駅にはないよ。一番大きな*****通りに行かなきゃ」と言います。もう1つ行ったのは、アウトドアというか山歩き用品店(駅にあるのが不思議ですけど)。ちょっとした充電器みたいな物が置いてあったので店員に聞くと、やはり駅には売っていないと言います。しかし、親切にも売っている店を地図で示してくれました。駅からすぐ近くです。
そこに行く途中、駅の広場のはす向かいくらいの場所に小さなカメラ屋があって、ダメモトで聞いてみると店主らしきおじさんが奥から大きなアダプタを取り出してきました。壁への差し込み口がヨーロッパ主流のCタイプで、つなげる側が万能タイプというやつ。つなげる側はアメリカ・日本タイプだけでいいと言いましたが、「ノー」と言うだけ。背に腹は代えられません。149.75DK(デンマーク・クローネ=3274円)と馬鹿高かったのですが購入しました。最大のピンチをなんとか回避。
この時点で10:15。正直に言えば、思ったより速く解決しました。中央駅に10:20に着いて、12:31発のストックホルム行きのX2000(新幹線みたいな位置づけの特別特急)の座席を予約。番号札があったので、ローマのように並んだ列の進み具合次第ではありませんでしたが、27人待ち。チェックアウト時間が気になりましたが、賭けに出ました。幸い、札は取ったけど帰ってしまった人も多く、10:38には座席指定ができたのです。
ホテルに戻って鍵を受け取る際に一緒にチェックアウト。というか精算ですね。そうしておけば、実際に部屋を出るのが数分遅れても、追加料金はないでしょう。結局、パッキングをして部屋を出たのは11:03でした。廊下でホテルの従業員の女性と3回くらいすれ違いました。ホテルは洋の東西を問わず“掃除のおばさん”という印象が定着していますが、初めて来たデンマークのこのホテルは、若くて美人の従業員。目が合うとこちらがどぎまぎしてしまいます。と、たまにはおじさん向けのネタを書いておかないと。
12:31発のX2000まで時間があったので、チボリ公園(入場が有料なんですね)の北側のカフェで、アールグレイ・ティーを飲みながら原稿を書きました。寺田のコペンハーゲンのイメージはロイヤル・コペンハーゲン→紅茶→アールグレイ・ティーという勝手な印象なのです。
X2000の乗車前にもちょっとしたピンチがありましたし、車内でも同じように小さなピンチがありました。ここでは省略します。
車内から池田久美子選手に電話を入れ、今日の予定を確認。
ストックホルムには17:45頃に到着。宿泊ホテルは駅から1.2〜1.5kmくらいの距離。地下鉄も徒歩数分のところに駅がありますが、最初で道に迷うと選手を待たせることにもなりかねないので、タクシーを使用。19:10にホテルを出て、中央駅に隣接する大会本部ホテルに19:30には着(ここは徒歩)。
明日のDNガランは思い入れの一番大きな国際グランプリ大会。以前は、海外遠征のグランプリといえばまず、DNガランを思い浮かべました。瀬古さんたちが遠征していた頃に陸マガを読み始めましたから、瀬古さんの1万mや新宅さんの3000mSCの日本新が出た大会。当時はまだグランプリのシステムではなく、各大会が独自に特徴を打ち出していた時代です。高岡寿成選手も5000mで一度、日本新を出していますね。世界的に見ても、最も権威のある大会の1つ。誕生した世界記録は80個以上だと、川本和久先生が教えてくれました。
池田選手と川本先生と合流後、本部ホテル近くのカフェで取材。写真を少し撮らせてもらい、ここまでの2試合を振り返ってもらいました。
ヨーロッパ遠征はどの選手も苦労話がふんだんにあります。クレタ島からフィンランドに移動する際、アテネでフランクフルトへの飛行機乗り継ぎに失敗しました。その話は川本先生のブログのOL日記にも出ていますが、詳しく話を聞くと、航空会社のカウンターの前で2時間も待たされ、その間ずっと立ちっぱなしだったそうです。ローマの成迫健児選手と似たケース。多かれ少なかれ、こういった経験をするものなのでしょう。
フィンランドでは内藤真人選手と2人で歩いている際に、大きな犬がいきなり茂みから飛び出して、すごい勢いで向かってきました。腕を咬みちぎられることまで覚悟したら、2人の後ろにいた飼い主に走っていたのだそうです。内藤選手の反応については、ここで書くのは控えたいと思います。書かない方が幸せなことも多いのです(誰にとって?)。
取材の後も、色々と雑談。2杯目の飲み物は池田選手がオレンジジュース、川本先生はビール、寺田はコーヒー。福島大の師弟関係についての話で盛り上がりました。実は静岡国際の後に池田選手から聞いたコメントから、寺田なりに想像していたことがあったのですが、それが大筋で間違っていないことが確認できました。
ところで、アテネの乗り継ぎに失敗した池田選手は、ホテルを用意するという航空会社側の申し出を断り、深夜にヘルシンキに到着する便でフィンランドに戻りました。その理由はその日、日本からフィンランドに到着する川本先生に会いたかったからだといいます。といったエピソードが強調されると、実際とはちょっと違ったイメージを世間は持ってしまうかもしれません。
夜のストックホルムを歩いてホテルに戻り、この日記を書いています。このホテルも無線LAN接続が有料。そういったケースがドイツ以降多くて、ゆっくりとネットができません。ニュールンベルクや昨晩のコペンハーゲンのように無料のホテルもありますが、そういうホテルは電波が弱くてメールなんかができないことが多いのです。実は、明日のタイムテーブルすらまだ知りません。女子走幅跳は18時台と確認しましたけど。
これからヨーロッパ最後の洗濯です。
◆2006年7月25日(火)
ユーロ日記2006 第13日@ストックホルム
ただいまスウェーデン時間で15:20。いよいよDNガランの取材に出かけるところです。緊張してきました。カメラマンの申請が認められたとコンファメーションメールも来ているのですが、何か条件が付いているみたいです。大会自体は15時開始ですが、ナイトオブと同じように前半は国内レースだけ。国際レースは16:30からですが、この辺もB組やC組。といっても、2001年のローザンヌのモンクールのように、その年の世界選手権に優勝する選手が出ている可能性もあります。
ホテルからスタジアムまでは、昨晩歩いた大会本部ホテルまでと同じような距離。方向は反対側ですけど。つまり、どちらにも15〜20分で行ける距離なので便利です。
昨日も少し触れましたが、DNガランは瀬古利彦選手の印象が強い大会。80年と85年の2回、1万mで日本新を出しています。それ以前でも、75年には高尾信昭選手が1万mで、68年には沢木啓祐選手が5000mで日本新。鎌田俊明選手も77年に、そして高岡寿成選手が92年に日本新。高岡選手は龍谷大4年時ですけど、カネボウ関係選手が多いですね。3000mSCでも68年に猿渡選手、80年に新宅選手が日本新を出しています。
女子も忘れてはいけません。98年に5000mで弘山晴美選手が日本新です。
高岡選手は一番雰囲気が好きな試合と言っています。どんな大会なのでしょう。平井堅を聞きながら気持ちを盛り上げています。ドキドキとワクワクが、同時に込み上げてきている感じですね。
◆2006年7月26日(水)
ユーロ日記2006 第14日@ストックホルム→ヘルシンキ
ストックホルム空港です。8:40発のヘルシンキ行きに乗るのですが、着いたのが6:40。チェックインやボディーチェックの手続きも空いていたのでとってもスムーズ。出発まで時間があるので日記を書くことにします。
昨晩は深夜の0時頃にホテルに戻りましたが、今朝が4:30に起きないといけなかったので、日記を書いている時間がありませんでした。でも、これだけはと思い、池田久美子選手の不調の理由をトップページで紹介しました。
実は第1戦のフィンランドで痛めていたのだそうです。踏み切り4歩前のマークがなぜかなくなっていて、走り抜けた試技の時に「グキっと」(池田選手)やってしまいました。2戦目のギリシャ・クレタ島の試合ではギリギリ収まって、走る分にはまったく影響はない状態に。2回目に6m75(国外日本人最高)を跳びましたが、もっと跳べていい感触があったと言います。しかし、その跳躍で悪化させてしまったのです。
しかし、DNガランでも「今できることをやろう」とあきらめず、1本目に6m27、3回目に6m25。昨日ははクレタ島で6m90台を跳んだ選手たちも6m60〜70台に記録を下げています。あと6cmでベスト8に残ることもできました。
最後の3戦目で記録が大きく落ちてしまったのは残念なことですが、収穫の大きかったヨーロッパ遠征だと言います。時差調整や体調の上げ方で初戦から国外自己最高(日本人最高)を跳び、足首に不安を持ちながらも、自身でケアをして立て直すことに成功しました。世界のトップ選手たちとの争いに加わりましたし、メンタル面でもまったく臆するところはなかったそうです。詳しくは、どこかで記事にできると思います。
3戦目で初めて取材ができた試合で記録が出なかったのは残念でしたが、池田選手の(特に海外における)成長ぶりを知ることができた取材でしたし、川本和久先生からは“メダル獲得プラン”の一端を聞かせてもらうことができました。充実した取材だったと思います。
さて、楽しみにしていたDNガランが、実際にどんな大会だったか。ひと言で説明するのは難しいので、まずは昨日の行動と写真を紹介していきましょう。
今日のヘルシンキ・オリンピック・スタジアムもそうですが、駅からも30分くらいで歩ける距離。寺田の泊まっていたホテルからは15分。途中は、こんな街並み(街並み1・街並み2)が続きました。オフィスや商店は少なく、住宅街という雰囲気です。これはホテル近くの本屋か新聞屋。DNガランの展望記事がトップを飾っているメディアがあること自体、日本とは陸上競技の占める位置が違います。
スタジアムの南側の入り口に到着。これは門ですが、スタジアム自体も煉瓦造りだろうと直感。アクレディテーションの場所も教えてもらった通りに行くと、ローマと違ってすぐにわかりました。競技場の周囲をぐるっと歩いていくことになりましたが、こんな看板も。陸上競技人気は、ダフ屋が出ていることからもわかります。
IDは世界選手権のように、その場で撮影してカードに顔写真が乗る方式。グランプリでここまでやっている大会は初めてです。
中に入ると予想通りの煉瓦造りの建物。塔を見て、以前、写真で見たことを思い出しました。弘山晴美選手の日本新のときだったと思います。規模はローマやパリと比べると小さめです。4年前に行ったオスロのビスレット競技場と似た雰囲気ですが、オスロよりは少し大きめ。スタンド下の廊下も、こんな感じで雰囲気十分。写真を撮っていると後ろから、寺田の名前を呼ぶ声が。読売新聞の霜田記者でした。ヘルシンキからと聞いていたのでちょっとビックリ。
池田選手の女子走幅跳が18:25から。バックストレート側のトラック内側のピットです(たぶん、ホームストレート側にはなかった)ので、第2コーナーにあるスペースに移動。アスリート・スタンドという木製の簡易スタンドがありますが、これはオマケのようなもの。単なるスペースです。ここに選手やコーチ、エージェントたちがたむろしていて、記者やカメラマンはいませんが、何も言われないので入ってOK。
しかし、困ったことにトラックの外側がすぐにスタンドなので、カメラマンなどが移動する通路がありません。つまり、フィニッシュ地点の正面(ここもかなり狭い)か第2コーナー、インフィールドからしか写真が撮れない。しかも、サブトラックは土だったかアスファルト(川本先生から聞いたのですが、どちらか失念)。選手たちはバックストレートでアップをしているので(長距離種目中もやっていました)、目の前に選手が来て撮影の邪魔になる。撮れるかどうかは、運にも左右されます。
運任せの仕事はまずいと思い、インフィールドに入れないか交渉に行きました。日本選手の出ている女子走幅跳だけでいいから、と。しかし、末端の役員たちでは判断できません。結局「ノー」でした。たまに、ウォリナーのこんなに良い写真も撮れるのですけどね。世界選手権などの開催は絶対に無理でしょう。
選手用のスペースですから、池田選手と川本先生もいらっしゃいました。取材する側の人数が少ないと、こういうシチュエーションも可能になります。それが、ヨーロッパ取材のいいところ。
18:00からオープニングセレモニー。写真のエドワーズやキプケテル、マイケル・ジョンソンやブブカ、そして地元のショーベリーやお隣フィンランドのビレンら、かつてのスーパースターたちが馬車に乗って登場。最後には「007ダイヤモンドは永遠に」のテーマに乗って、空中から男女が降りてきました。大会新記録を出すとダイヤモンドが贈呈されることをアピールする演出です。
撮影はしにくいレイアウトですが、観客が見るには絶好のスタジアムでしょう。トラックの外側がすぐにスタンドですから、とにかく選手が間近で見られます。日本の大きなスタジアムでの観戦に慣れているせいかもしれませんが、この迫力の違いは新鮮です。100 mB組をプレス席から見た霜田記者は、筋肉の揺れが肉眼ではっきりとわかったと言います。寺田も池田選手の取材終了後はプレス席から競技を見ていましたが、バックスタンド側を助走する選手が大きく感じられます。第3・4コーナー間でマットを2つ並べて行なっていた走高跳も同様です。
スタンドの位置も最前列はグラウンド・レベル。110 mHの8レーンに出場した地元スウェーデン選手など、選手紹介のときにスタンドに肘を乗せてもたれかかる仕草をしていました。スタンドが近いから、表情豊かなクリュフト選手(今回は走幅跳に出場)の魅力を、より堪能できるわけです。
収容人数はおそらく2万人くらいかと思われますが、観客が選手との一体感を選るには最適の競技場だと思いました。日本にもこんなスタジアムが欲しいですね、と霜田記者が言います。本当にその通りで、陸上競技専用のこういった競技場があってもいい。2万人収容でも、十分じゃないですか。その代わり、そこで陸上競技を見た観客は、どんどん陸上競技を好きになって、コアなファンとなっていくのです。そして周囲の人間を誘って、そのスタジアムにまた足を運ぶ。陸上競技普及の1つの方法だと思います。
中・長距離種目が走りやすい理由はおそらく、その一体感ではないでしょうか。観客が間近で応援してくれると、励みにもなるし、スピード感がちょっと違ってくるのかもしれません。その辺は今度、高岡選手にでも聞いておきます(いつでしょう?)。面白いのは、巨大スクリーンにタイムが出ることです。フィニッシュ脇のタイマーは当たり前ですが、こういう工夫は初めて見ました。選手もタイムをチェックしやすいかも。
最後にはダイヤモンドの贈呈式。選手たちの後ろに火柱(?)が吹き出る演出です。表彰はレース直後にやるパターンだった、今回は見ていませんでしたが、日本のようにレース後何分(何時間)も経ってから表彰をやるのなら、表彰自体が楽しめる演出にしないとダメでしょうね。えっ、陸上競技は見せ物じゃない? お金をとっている大会は、見せ物ですよ。
観客のこんな危険な見方は真似しなくていいと思いますけど。
ヘルシンキのホテルに着いてやっとネットに接続。16:33です。
これからヘルシンキGPの取材。ヨーロッパ最後の試合取材です。昨年の世界選手権と同じ会場なので、スムーズに行くでしょう。
◆2006年7月27日(木)
ユーロ日記2006 第15日@ヘルシンキ→パリ
15時、ヘルシンキ空港です。
昨日の日記を書いてからの1日というか、この13時間、やばかったです。最後の最後で今回のヨーロッパ取材ツアー最大のピンチが襲ってきました。が、それを紹介する前に、昨日のヘルシンキGPの取材から紹介していきましょう。以前はワールドゲームスという名前で知られていた大会。1500mで沢木啓祐選手や石井隆士選手が日本新を出しています。1万mでも沢木選手、鎌田俊明選手、そして中山竹通選手とそうそうたるメンバーが日本記録を更新した場所。瀬古選手も優勝していたはずです。
17:10にホテルを出て、目の前にある停留所でトラムに飛び乗ったのが17:15。料金の払い方が運転手に直接払う方式でわかりやすいのがグッドです。その分、出発が遅れますけど。17:25には、1年前に何度も乗り降りしたオペラ停留所で下車。3分も歩くと見慣れたスタジアムが目の前に現れます。寺田もおおっと思いましたし、この写真を見て、懐かしく感じた方も多いでしょう。三重の二枚目助教授とか(その節はお世話になりました)。
1年前はちょっと離れた体育館か何かにプレス・センターが設置されていましたが、今回はタワーの隣の部屋。それが通常パターンなのでしょう。スタートリストやスタティスティクス・データだけでなく、リザルツを自由に取れる方式。当たり前だと思っていたこのシステムが、昨日のDNガランではとられていなかったのです。寺田は急を要する仕事ではないのでネットで確認すればいいのですが、霜田記者は新聞紙面に間に合わせないといけません。根性で全種目そろえていました。
最初の種目の男子ハンマー投が18:25開始。3コーナーにサークルがありますが、室伏広治選手がフィールドをホームストレート中央付近まで歩いています。右手を見ると、1・2コーナー間の棒高跳ピットに沢野大地選手の姿があります。異国のグランプリ大会のフィールドに、同じ成田高出身の選手が2人一緒にいる。素晴らしいことです。ただ、2人の力が世界のトップレベルまで上がった今となっては、あり得ることというか、ちょっとした条件が重なれば実現することになっているわけです。
プレス席は昨年とは違い、フィニッシュ地点とその手前だけ。各社の名前が貼ってあるのが、気の弱い寺田には嬉しいですね。ナイトオブとDNガランはカメラマンもしっかりやらないといけない大会でしたが、日本選手が多く揃うローマとヘルシンキは、ペン取材が主な仕事。スティル写真はレンズ一体型で済むだろうと思っていたので、上記2選手の写真が難しい光線のなかということもあってボケボケに。女子1万mは一眼レフで撮りました。
2人がフィールドにいるところへ、400 mHの成迫健児選手が入場してきました。シドニー五輪金メダリストのA・テイラー選手(米)がいましたが、現在、力は落ちています。シーズンベストでは47秒台の成迫選手が他を圧していたのですが、結果は49秒78で5位と、ローマに続いて力を出し切れませんでした。話を聞いたのがレース直後だったこともあり、思いの色々な部分を話してくれたのでしょう。こちらが100%理解できていない気がしますが、色々と感じ、認識も新たにした遠征だったようです。
フィールドでは沢野選手が、最初の高さの5m48を3回失敗。1回目は十分に浮いていたように見えましたが、2回目は何かの取材と重なって見ていません。3回目はポールを立てられませんでした。後で室伏広治選手と話しているところを通りかかると、先輩の室伏選手が澤野選手の脚のことを気にしていたので、アクシデントがあったとわかりました。そのときは時間がなくて話が聞けませんでしたが、ホテルに戻って澤野選手のブログを見ると、また脚がつってしまったのだと判明。すれ違いざまに見せた同選手のやりきれない表情の意味がわかりました。
ハンマー投はジョルコフスキー選手も好調。厳しい戦いになりましたが(写真は試技順で距離を示すペグではなくてカード。このときはAのジョルコフスキー選手が僅差でリード)、室伏選手は後半にきっちりと記録を伸ばして5投目に81m77で逆転。復帰後の最高記録で昨年の世界選手権銅メダリストを抑えました。昨年の金銀メダリストのベラルーシ勢が、ヨーロッパ選手権との兼ね合いを考えてか、出ていなかったのが残念です。
女子1万mには日本新を狙う福士加代子選手が登場。レース前にはいつもの福士ダンスも見られました。好ペースで進んだ同種目は、ペースメーカーのいなくなった5000mから福士選手が独走に。海外のグランプリで日本人2選手が優勝した例って、これまでありましたっけ? もしかしたら初めてかも。その2人が一緒に映っている写真がこれ(男子ハンマー投の表彰)です。右から2人目に福士選手の顔が写っているのがわかりますよね。歴史的な1枚になるかもしれません。
室伏選手がミックスドゾーンに来てくれたのが1万mレースの終盤。レースを見られる位置だったので助かりました。ただ、今回はラップタイムなどは測れませんでした。1000m毎を見ると、だいたいイーヴンで押せていますが、7000mから徐々に遅れてしまったようです。福士選手にとってセカンド記録。これまでもセカンド記録の日本最高を持っていましたが、それを再度更新しました。
日本選手の最後を締めたのが内藤真人選手。スタートで遅れましたが、中盤でしっかり持ち直し、13秒54(+0.4)で4位。自身の状態が整っていなかった初戦で13秒46が出たことや、今大会で予選・決勝と13秒5台を連続で出せたこと(前日の予選はサブトラックでサーフェスが異なる)など、決勝のメンバーで戦えたことなど、かなりの感触を得た様子です。インタビュー中、内藤選手の左手後方にかわいい補助員がいたからこの写真を撮ったわけではありません。誤解のないように。
2日連続で北欧の伝統大会を取材しましたが、メンバーはDNガランに比べるとヘルシンキは相当に落ちますね。大会の格、資金力の違いなどがあるのでしょう。金メダリストは室伏選手とムトラ選手くらいでしょうか。もう1人くらい出ていたような気もしますが、思い出せません。100 mのときにタイマーが9秒76で止まるハプニングまでありました。その前の女子800 mでも違った表示があったので慌てませんでしたけど。
観客の数も昨年の世界選手権と比べ、半分以下。3分の1くらいだったかもしれません。演出や効果音などは、昨年のものを踏襲していましたが、ちょっと気が抜けた感じ。でも、取材はDNガランよりもしやすかったです。
競技終了後は福士選手のドーピング検査終了を待って取材。ヨーロッパ取材最後を締めくくりました。
パリに着いたのでひとまずアップします。ヨーロッパ取材最大のピンチについては、ドゴール空港で書こうかと思っていますが、個人的なことなのでやっぱりやめようかな、とも考えていますが、そもそも日記は個人的なことばかりなので書かない理由にはならないかな、などと迷っています。雨の朝、パリに迷う……って、夜の7時半か。
◆2006年7月28日(金)
18時半頃に成田に着きました。やっぱり日本はホッとしますね……と思う、この感覚がくせものなのです。
ヘルシンキの最後の13時間に起きたヨーロッパ取材最大のピンチというのは、寺田の体調不良です。ヨーロッパ最後の夜だからと、調子に乗ったつもりはまったくありませんが、結果から言うとイタリアンを食べ過ぎたせいでしょう。昨日は朝の4:40に起きたので3時間睡眠。疲れと重なったのがまずかったですね。夜中になって猛烈に胃がむかむかしてきました。一度眠ったのですが、2時半頃に目が覚めて、間もなく嘔吐。その後も約1時間苦しみました。
異国での体調不良はものすごい不安に襲われます。翌日の飛行機移動は無理だろう、と感じていました。便が固定されているチケットですから、変更したら何十万円かかることか、わかったものじゃありません。でも、とても10時間以上のフライトに耐えられるとは思えません。新井智之選手(クレーマージャパン)の東日本実業団ではありませんが、「終わった」と思いました(何のことか、もうすぐ本サイト上でわかります)。
しかし、シャワーで体を温めたのが良かったようで、徐々に痛みが治まり、たぶん4時くらいには寝付けたと思います。元から、冷房の強すぎるホテルなのです。朝の9時に起きたときには痛みはまったくなくなっていましたが、食事はとれそうにありません。トイレにも3回くらい行かないといけない症状でした。体力がまったくなくなっている感覚で、荷物を持って歩くのはきつそうです。
日記を書いてホテルからアップしようと思っていましたが、ベッドに寝て体力回復に務めました。11時には頑張って帰国することを決断。その時点で陸マガ児玉編集長に電話を入れて原稿の打ち合わせ。12時にチェックアウトしましたが、さらにそれから1時間、ロビーに座って体力回復を待ちました。その間にTBS山端ディレクター(3000mSCで日本インカレ入賞。箱根は6区の秘密兵器候補。候補のまま卒業)にも取材報告の電話。久々にISHIRO記者も愛用しているユンケルも飲みました。
駅まで5分ちょっとの距離ですけど、少しでも体力を温存したかったので、ホテルから空港までタクシーを使うことに。バスは5.20ユーロ、タクシーは結局30.30ユーロでしたから、その差は馬鹿になりませんが、この辺はいた仕方ありません。おかげで、空港での待ち時間中にかなり体力が戻り、昨日の日記を書き始めることができました。
そして、ドゴール空港に着いたときには軽く食事もできるようになり、トマトジュースも飲んで、粒状ユンケルももう1袋服用して、かなり元気になりました。幸いなことに、ホテルを出てからはトイレに行かなくて良くなっていて、自信を持って成田行きに乗り込むことができました。
乗り換えで4時間の時間があったシャルルドゴール空港では、有料の無線LAN接続にちょっと手間取ってしまいました。英語の画面なのでだいたいはわかるのですが、肝心のところで勘違いをしてしまっていました。1時間10ユーロのコースを選択したかったのですが……というか、実際に選択したのに、ログインの仕方に失敗してもう1回30分のコースを選び直してしまったのです。10ユーロだっただけ良しとしましょうか。3年前のスーツケース重量オーバー追徴金は770ユーロでしたから。
パリを23:35発。ヨーロッパを深夜に出発する便に乗るのは初めて。この時間だとさすがに、機内ではうつらうつらしました。ヨーロッパ時間の5:30頃までは寝たり起きたりの繰り返し。その後は書きかけの原稿を1本完成させた他は写真の整理。陸マガに提出する写真を選びました。今回のヨーロッパ取材を振り返ることにもなり、色々な思い出が甦ってきます。この頃には体調も良く、“まだ帰りたくない”症候群に襲われていました。ヨーロッパという非日常から、日本での日常生活にもどるときが刻一刻と近づいているのです。この感覚って、おわかりいただけますよね。
成田に降り立つと、やはりホッとします。特に、体調を崩した直後ですから、なおさらです。移動も食事も手慣れたもの。ネット接続で苦労をすることもないでしょう。生活もいつもの日常に戻るわけで、緊張の連続だったヨーロッパ取材と比べると、ちょっと気合が入りません。いざとなったら、何とかなるだろう、という気の緩みみたいなものでしょうか。
でも、本当は日本での日常こそ、緊張感を持たないといけないのです。ヨーロッパ取材なんてのは、一過的なお祭りみたいなもの。自分の生活基盤は日本であり、そこで何をするか、何ができるのかが重要になってきます。日常でのちょっとの頑張りの積み重ねが、大きな差となる。ヨーロッパ取材に行けるのも、日本での頑張りがあればこそ、なのです。
そういってところを再認識させてくれたのが、サンモリッツで取材した野口みずき選手でした。
◆2006年7月29日(土)
今日は、さすがに仕事をバリバリやることができず(昨日の日記と若干、話が違うような気がしないでもないけど)、休養中心の1日でした。眠くなったら寝てしまっていましたし。しかし、仕事の打ち合わせはしっかりやりました。といっても2つだけです。考えてみたら土曜日ですしね。海外に行くとなぜか、曜日感覚が全くなくなるのです。
ということで、陸マガに書くヨーロッパ取材の記事も決まりました。思ったよりたくさんの選手に触れることができそうです。よかったです。今回、事前に決まっていたのは野口みずき選手のインタビューだけで、それ以外は“終わってから決めましょう”という雰囲気で出発したのでした。
いくつか、取り引きのあるところには声を掛けて行きますが、元々、寺田が勝手に行くと宣言して出かけた取材です。経費も基本的には自己負担。その分、have toの仕事が少ないので気持ち的には楽で、そういうときの方がいい取材ができたりするのです。
ところが、世界選手権となると事情が違ってきます。フリーになってからエドモントン、パリ、ヘルシンキと3大会に行きましたが、経費は基本的には自己負担。でも、毎回3〜4社の仕事を引き受けて現地に行っているので、結局やることは多くなります。その分、今回のように圧倒的に持ち出しが多くなることはありません。仕事の気楽さ(ストレス)と収入は反比例するのがフリーランスですね。これがある程度、名前が売れると違ってくるのかもしれませんけど。
そういった状況の取材でしたから、野口みずき選手のインタビュー内容以外、今回はどの試合の記事もこのサイトに書ける状況でした。ただ、日程的な問題で、大会の記事を書いたはローマだけ。まずは日記を優先しました。記事だったら状況描写や記録の紹介で、後で読んでも読み手側もイメージを再現しやすいはず。その点、日記はリアルタイムで行動を報告することで、読者もヨーロッパ縦断取材をしている寺田と近い感覚になれる(かもしれません)。日本選手のヨーロッパでの活動を理解しやすくなるという判断から、日記を優先したわけです。
と理屈を付けて説明することもできますが、単に日記形式の方が手早く書けるから、というのが本当のところです。でも、取材する側の事情もわかるし、記事っぽい部分もあるし、ヨーロッパの都市の様子も分かるし、悪くありませんよね。
仕事の電話のもう1つはTBS山端ディレクターから。8月1日放映のゴールデンリーグ番組の編集も、佳境に入っているようで、さすがに「dianaのメンバー全員の名前を言ってみろ」とは言えませんでした。dianaってご存じですよね。TBSが親会社である横浜ベイスターズ専属ダンスチームで、世界陸上大阪大会への道(TBS)のカウントダウンコラムにもメンバーが投稿してくれています。TBSとしても売り出したい存在のはず(詳しくはこちらを)。スポーツ局の社員が、メンバー全員を言えないわけがないはずです。
明日は池田選手の原稿を書いて、野口みずき選手のインタビューにも取りかからないといけない7月最後の日曜日。
◆2006年8月3日(木)
朝の3時にヨーロッパ取材4本目の原稿を書き上げたことで、インターハイに行くことを決断しました。女子100 mのある2日目は、生で見ておきたい欲求が強かったので。7時50分に起きて出張の支度。10:30開始の予選はさすがにパス。13:50の準決勝に間に合うように、10:13東京発の新幹線に飛び乗りました。
地下鉄の長居駅に着いたのが13:20頃。改札の前で「寺田さん」と呼びかけられたので声の主を見ると、山梨学大時代からやり手と評判の日清食品・岡村マネ。彼こそが、寺田の髭面を目にした最初の人間となったのでした。
ヨーロッパ取材の後半、電気シェーバーが故障をしたため、その後髭を剃りませんでした。ストックホルムとヘルシンキでもいつもよりは伸びていましたが、髭面というまでにはなっていなかったというか、中途半端な状態でしたね。帰国後に6日間の調整期間を設け、万全の状態で(明らかに髭面とわかる状態にして)インターハイに臨んだわけです。本当のところをいうと、似合っているかまったく自信はなくて何度も剃ろうと思ったのですが、知り合いの方たちの意見を聞いてからにしようということで。
13:40にはスタンドの記者席に。近くに池田久美子選手と川本和久先生の姿があったので、ストックホルムでお世話になったお礼の挨拶。続いて女子、男子の順で100 mの準決勝。1組では3連勝のかかる高橋萌木子選手と、200 mで23秒台を東海大会で出した中村宝子選手が対戦。中村選手が序盤からスムーズな加速でリードし(高橋選手の序盤が遅いからそう見えただけかも?)、終盤も高橋選手の追い込みを許さずにフィニッシュ。11秒81(±0)は自己新。静岡県高校記録です。静岡新聞・M記者と中日新聞東海(浜松)のI記者が喜んでいたはず。
高橋選手は得意の後半でも追い込めず11秒94。決勝後に、そのときの感覚を話してくれましたが、力を抜いたと言います。そこまで流している感じには見えなかったので、ちょっとビックリしました。2組の福島千里選手は抜群のダッシュで11秒77(+2.0)。3組1位の岡部奈緒選手は11秒88(±0)。甲乙付けがたい評価ですが、強いて言えば中村選手と福島選手がちょっとが優位に立った、という感じでしょうか。しかし、これも後で判明しましたが、高橋選手にそういう感覚はなかったようです。準決勝で優位に立つとか、立たないとかいう考え方はしていないように受け取れました。
テレビ中継時間への配慮もあるのか、16時台に決勝種目が集中。そうなると取材は大変です。トラックでは16:10の女子100 mを皮切りに、男子100 m、女子1500m、男子1500m。小林祐梨子選手も登場します。その直前に男子棒高跳でも、5mにバーが上がりました。気が気でないのは静岡の記者2人。笹瀬選手のインタビューが始まると、女子100 mの決勝が見られなくなるのです。
棒高跳では笹瀬選手と同じ2年生、観音寺中央の有明選手も5m00を2回目にクリア。静岡の記者お2人は、棒高跳が長引いた方が取材の流れがスムーズになると判断。笹瀬選手の優勝を念じながらも、有明選手の頑張りにも拍手を送っていました。無事に女子100 m、男子棒高跳の順でインタビューが進む感じになっていきましたが、肝心の中村選手が決勝では不発。11秒95で4位と敗れてしまいました。
一緒に見ていた浜松西高・筒井先生によると、いつもよりも硬さが見られたといいます。左隣のレーンの福島選手にスタートでリードされたことと、後半では高橋選手の爆発的な追い上げを受けたことが原因かもしれません。違う理由かもしれませんが。しかし、その後の女子4×100 mRでは46秒67の静岡県高校新。話題をふんだんに提供してくれます。
高橋選手の他にコメントまで取材をしたのは、もちろん女子1500mの小林祐梨子選手、八種競技の塩塚選手、女子走高跳の内多選手。小林選手は日本記録時を上回るハイペースで飛ばしましたが、その理由を聞くことができました。これは記事にする予定(と書いておきながら、記事にできなかったケースは数知れず)。
塩塚選手の話を聞いていたときは、自分の原点に戻った気分に浸ることができました。優勝者名鑑用に話を聞くのが、専門誌の新人編集者の仕事でしたし、それを続けるうちに自分の基礎みたいな部分が固まってきたと思います。インタビューの仕方、選手の考え方(これが千差万別なのですが)などを勉強させてもらいました。実際の競技を見ていなくてもインタビューをしないといけないケースも多々あるわけで、その辺のコツなんかも、優勝者名鑑用の取材で身につけていったと思います。
今季のインターハイ取材は、自分の原点を思い出すことも狙いの1つ。ちょっと前にも書きましたが、ヨーロッパ取材はお祭りみたいなもので、原点とか基礎的な部分ではありません。インターハイ取材こそ、基礎であり原点です。
内多選手には近畿インターハイでも話を聞かせてもらいましたが、そのときに続いて今回も感銘を受けました。とにかく、周囲への感謝を持ち続けている選手。自分がこうした、という部分はまったく話さないのです。技術的にどこが良かったとか、こういう工夫したとか。ある意味、記事には書きにくい話なのですが、メンタル面重視の徹底ぶりはすごいのひと言です。
確かに、周囲への感謝の気持ちを口にする高校生選手も多いのですが、“指導者に言わされている”のかな、と感じられる選手も散見されます。その点、内多選手の場合は心の底から思っているのが、話しぶりから伝わってきます。周囲への感謝の気持ちが競技力に本当に結びついている選手なのだと感じました。
肝心の寺田の髭面ですが、賛否両論。勧誘に来ていた谷川聡選手に聞くと、明快な回答はなし。
髭面なんてとっくに卒業した大東大・只隈監督の反応は……忘れました。何かギャグを言って、自分で「オレもオヤジになったなぁ」と話していたような。ニシの西田広報が大東大OBということが判明しました。
某誌E本編集者や、石井あり嬢には好評。お世辞(褒めごろし)かもしれませんので、注意をしないといけません。
同じように“ちょい髭面”のISHIRO記者には、手入れの仕方を教授してもらいました。なんでも、髭手入れ用のバリカンがあるのだとか。さすが、外見が特徴(だけど本当は中身もすごい)ISHIRO記者と思いました。
今回の出張はホテルがまったく予約無しで来ました。大阪圏は本当に空室がない状況。インターハイと甲子園だけでは、ここまで埋まらないでしょう。色々とイベントが重なっているのかも。正直、ちょっと焦りましたが、ここでもISHIRO記者に助けられました。堺東駅の東横インをなんとかキープ。
6000円でLAN接続が無料でできるホテルに泊まれるなんて、日本ほど宿泊事情が整備されている国はないのでは? と、ヨーロッパの馬鹿高いホテルに泊まらざるを得なかった直後の寺田は思います。
ここが最新です
◆2006年8月4日(金)
昨晩は福士加代子選手の特集を深夜に見てしまいました。ヘルシンキGPでの1万m日本記録への挑戦をメインにした構成。関西地区だけの放映ですし、つい1週間前にヘルシンキで取材したばかり。これは見逃せません。というか、関西に来ていて超ラッキーでした。実は昨日の新幹線車中で福士選手のヨーロッパ遠征を原稿に書いたばかり。テレビを見て、直すところとかは特にありませんでしたけど。
ということで、昨晩はヨーロッパ取材の原稿を1本しか書けず、今朝起きてからもう1本。インターハイ取材は午後からになってしまいましたが、これは仕方ありません。実は陸マガ時代から、インターハイ取材はそうでした。締め切り間際の時期なのにページ数は膨大にある大会。午前中の予選はパスをして、原稿書きや編集作業をせざるをえなかったと記憶しています。
今日は昨日に比べ、俗に言う“期待の種目”が少ない日でした。インターハイは高校生の思いのぶつかり合い、記録のレベルは関係ないよ、と言いつつも、やっぱり記録レベルの高い種目を注目してしまいがち。これも仕方のないことかもしれません。それでも丁寧に取材をしていると、どの種目にもドラマがあります。今日、特に面白かったのは男子400 mHでした。
神奈川県勢3人が決勝に残り、4・5・6レーン。同県出身の朝日新聞・堀川記者ともども、固唾を飲んで見守りました。先行した染岡洋平選手(相洋)に庭山嵩弘選手(川崎北)が10台目で並び、フィニッシュまでに逆転。3位争いも井上大夢選手(相模原)が制したかに見えましたが、為本康平選手(玉野光南)が0.01秒競り勝って、上位独占を許しませんでした。
優勝記録は52秒01とそれほどよくはありませんでしたが、神奈川勢という視点で面白い話が聞けるかな、と思ってインタビュールームに。優勝した庭山選手の話を聞いていたら、隣でインタビューに答えている染岡選手の声が偶然、耳に入ってきました。
「先生同士が兄弟なんです」
なにっっっっーーーー? 寺田の触覚がぴくりと震えました。兄弟が揃って指導者をして、揃って全国大会優勝選手を育てているケースは、ほとんど聞いたことがありません。ちょっと特殊なケースですけど旭化成の宗兄弟がまず思い浮かびました。それと二階堂先生兄弟です。仙台育英が留学生選手を受け容れ始めた頃の男女の監督。女子をお兄さん、男子を弟さんが受け持っていました。
兄弟となればまずはお兄さんから取材をするのが礼儀だろうと思い、庭山選手について行って、まずは川崎北の銭谷亨先生に挨拶&取材。弟さんの銭谷満先生にも連絡を取ってもらいましたが、相洋は選手が出場している種目が多かったため、ちょっと時間をおいてから選手2人と監督兄弟2人に集合してもらいました。4人の写真を撮って、満先生にもお話を聞くことができました。
2人のアウトライン的な関係は、最初に亨先生の話を聞いてがわかりました。亨先生の方が聾学校の教員が長く、通常高校の陸上競技指導の経験は浅いのだそうです。今年でまだ6年目。すでに満先生はインターハイの優勝者を育て、最近ではチームを神奈川県で総合優勝するまでに強くしていました。
しかし、満先生の話を聞いて、さらに面白さを感じられました。亨先生は東京の名門・保善高の出身ですが、満先生は神奈川県の荏田高出身。ちょうど、小峰先生が若い頃で、熱血的なコーチングで同高を強くしていた頃に指導を受けました。そして相洋の監督になってから、小峰先生の新栄での頑張りを、今度は指導者として見ることができたのです。このあたり、神奈川の陸上競技に詳しい方が聞いたら、かなり面白く感じられると思いました。
言ってみれば、弟さんの方がはるかに先行しているケース。しかし今インターハイでは、お兄さんの指導する選手が優勝しました。選手2人の試合実績やタイプの違い、インターバルの歩数の違いなどでも面白いですし、普通に記事を書くのならそこだけでもいいのですけど。本当に色々なドラマがあるもので、話を聞いてみないとわからないことも多々あります。
その点、男子走幅跳は東海大望洋がワンツー。この種目ではインターハイ史上初の快挙を達成しました。これは話を聞く前から、ドラマがあるとわかるケースですが、話を聞いてみてわかったのは2人のキャラクターの面白さ。実は南関東インターハイのときにも、陸マガ高橋次長が取材しているのを側で聞いていて予想はしていましたが、まさかここまで息が合うというか、掛け合いが面白い2人だとは気づきませんでした。画期的なことですし、2人のキャラにも好感が持てたので記事にしました。
これもちょっと予想はしていましたが、男子4×100 mRの白河旭の話が面白かったです。予想できた部分というのは、全日中で2連勝した白河二中のメンバーのうち3人が、白河旭のメンバーに入っていたから。1年生3人と2年生1人というメンバー構成で同高は臨んでいました。そして、単なる話題にとどまらず、3位と予想以上の成績を収めました。話を聞くと、これもかなり面白いです。
男子走幅跳では白樺学園高の1年生2選手も、東海大望洋コンビほどではありませんが、注目された存在。予想外だったのは、7m40の記録を持つ皆川選手が予選落ちし、記録では負けている小西選手が6位と健闘したこと。我々はどうしても記録でどちらが上と判断してしまいがちですが、話を聞くと小西選手は直接対決で何度も勝っています。話も面白かったし、2人の競技的な特徴の違いもわかりました。2年後には(もしかしたら来年にでも)、今度は白樺学園によるワンツーが見られるかもしれません。
というように、記録的な期待が低い種目が多くても、取材をしていると面白いことはいくつもある。それがインターハイです……が、インカレもたぶん、同じようにドラマはたくさんあります。実業団の試合となると、人生の機微に触れられる話がもっと出てきます。陸上競技はどんな大会でも、知ろうとする姿勢をもって取材をすれば、どんどん面白くなるのです。
昨日は堺東のホテルでしたが、今日は心斎橋のホテル。本当に大阪のホテルはどこもいっぱいで、連泊ができません。
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