続・寺田的陸上日記     昔の日記はこちらから
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◆2006年11月23日(木・祝)
 朝の9時に某選手に電話取材。スポーツ・ヤァ!に福岡国際マラソンの展望記事を書くためです。かなり面白い話を聞くことができました。1/2ページの記事ですから、仕入れたネタを全部盛り込むのは無理。どこかで公にしないともったいない話です。
 その取材中に携帯に電話がかかってきました。電話取材後にコールバック。某短距離系の解説者(?)からでした。アジア大会について情報の交換。こういったことが朝のうちにできてしまうのも、国際千葉駅伝が13:10スタートとちょっと遅めだからです。助かりました。

 例年より遅くなってしまいましたが、12:00には千葉の天台陸上競技場に到着。千葉まで行ってモノレールで戻る時間がなく、稲毛駅からタクシーでショートカット。30分以上違ってきますから、仕方ありません。今日はスタート前にやっておきたい取材もあったのです。
 具体的に言えば、ニューイヤー駅伝の展望記事関係です。毎日新聞社から出る公式ガイドと、陸上競技マガジンの展望記事用の取材。しかし、中国電力・坂口泰監督をつかまえられず、例年よりもはかどらないな、と思っていましたが、大塚製薬・河野匡監督から、とても面白い話を聞くことができました。これはもう、ストレートに記事に使えるネタです。助かりました。
 大塚製薬・岩佐敏弘選手からは、同社陸上部のサイトができているので、リンクしてほしいとの依頼。

 さて、肝心の国際千葉駅伝の取材。テレビでは男子のレースが終わってから女子のレースがオンエアされますが、実際には13:10に男子、13:20に女子がスタート。同時進行しているのです。しかし、記者室のテレビ画面は、男子はオンエア中の画像なのですが、女子はインターネット配信の動画なのか、とても粗い画像です。音声もなし。しかも今年は、なぜか学生選抜チームをずっと映している。もっと大きな大会だったら、記者たちが猛抗議をしていたはずですが、今回は皆さん、大目に見ていました。単なるケアレスミスの類と思われますし。
 その分、レース後の会見中に、選手たちにレース展開を確認しないといけません。しかし、誰も質問しないんですよ。どの新聞も、今回は男子中心なのでしょう。仕方がないので、寺田が聞きました。

 取材が盛り上がっていたのは男子の方。ナショナルチームに学生選手が3人も入っていましたし、佐藤敦之選手も復調し、次のマラソン(別大)が楽しみな感じになってきたからでしょう。さて、この時期の学生長距離選手となると、どうしても箱根駅伝に向けての話が多くなってしまいます。しかし、公式の会見中に「箱根駅伝の目標は?」と聞くのはできないかな、と思っていました。まずは、国際千葉駅伝の取材です。
 実際、学生選抜の上野裕一郎選手を追いかけているテレビクルーが、役員から「あまり箱根の話だけというのは控えてほしい」と言われていました。実は寺田も、某編集部から箱根駅伝に向けたコメントを某選手からとるよう、厳命を受けていました。うーん、どうしよう。
 と、悩むほどではありません。会見中はあくまで、国際千葉駅伝の質問をして、会見後のぶら下がりでパパッと箱根に関するコメントを取材させてもらいました。箱根駅伝主催筋の某記者と連携などしながら。なんとか上手く行きました。

 などと書くと、ニューイヤー駅伝と箱根駅伝の取材しかしていないじゃないか、と受け取られそうですが、そんなことはありません。それらはあくまで、“ついで”です。メインは国際千葉駅伝の取材。陸マガ次号を見てください。主催系の産経新聞・サンスポを除けば、日本で一番多く国際千葉駅伝の記事を書いた記者が寺田だということがわかるはず。
 元々、この手の国際駅伝って、好きなんですよ。以前はライフカードがスポンサーになってくれて、このサイトでも大々的に報道しました。何が良いかと言えば、世界選手権やアジア大会などのチャンピオンシップの国際大会と違い、比較的小さいプレッシャーで国際経験を積める点です。五輪代表クラスを並べて“ドリームチーム”を編成するのも良いのですが(普及や対スポンサーを考えた場合)、若手に経験を積ませるにはもってこいの場所。
 そういう意味で、学生選手が積極的に出場し、レースも積極的に展開しているのには好感が持てます。その辺を中大・田幸寛史監督が的を射た言葉で話してくれました。これも陸マガ次号で。
 よく、何の意味がある駅伝なの? と聞かれますが「普及と経験に最適の駅伝です」と答えています。

 “電車前”に120行、国際千葉駅伝の原稿を執筆。全部ではありません。


◆2006年11月24日(金)
 朝の10:00に東海大に。跳躍の植田先生の案内で長距離の大崎コーチの元へ。陸マガ箱根駅伝増刊号用にインタビューをさせてもらいました。話の内容は、自信満々だった昨年とは大きく違います。表面的に見たら正反対。
 昨年は4年生に中井選手、丸山選手、一井選手といて、下級生に伊達選手、佐藤悠基選手、杉本選手と揃い始めた年。チームが右肩上がりの時期で、その勢いのまま頂点に立とうとしていたのだと思われます。あくまで、寺田の推測ですけど。コニカミノルタがニューイヤー駅伝に初優勝したときが、それに近い感じで上手くいった例だと思います。
 しかし、今回の東海大は慎重なやり方。具体的にどんな内容かというと、それは陸マガ増刊箱根駅伝2007で。12月9日発売……って、寺田は日本にいないじゃないですか? いつ読めるのでしょう。

 取材後は東海大トラック脇のログハウスで原稿書き。20日に取材した日体大の記事が電車の中で8割完成していましたが、残りを1時間弱で仕上げて送信。昼食で混み合う前に退散しました。
 新宿の作業部屋に移動して、中国電力・坂口監督に電話取材。
 16:30から歯科医院に。かなり大きな詰め物というか、義歯に近いやつがとれてしまって、不便で仕方ありません。アジア大会取材前に治療しておかないと、向こうに行って苦労すると判断して、時間をこじ開けました。
 夜はスポーツ・ヤァ!の福岡国際マラソン展望記事を書き上げました。
 早大の原稿も仕上げるはずでしたが、途中でダウン。


◆2006年11月25日(土)
 早大の原稿を昼前に仕上げて送信。続いて東海大もと思ったのですが、構成でちょっと手間取りました。電話取材も2つほど。1つは沖縄で合宿中の某女子選手に。面白い話を聞くことができたと思いますし、取材以外のネタでもちょっと盛り上がりました。
 昼食(といっても夕方)をはさんで東海大の記事の構想が固まり、夜になってスピードアップ。所定の行数をかなりオーバーしてしまいました。仕上げ(行数削除)までには至らず。
 通常の記事の他にも、単行本の原稿も同時進行……するはずが、あまり進行しません。かなりヤバイ状況になってきました。


◆2006年11月26日(日)
 東海大の原稿を仕上げて送信。
 夕方から日体大長距離競技会の取材。
 ですが、一番の目的はニューイヤー駅伝展望記事用に、日清食品の取材をすること。岡村マネの段取りで、白水監督の話をしっかりと取材することができました。最終組終了後に、松村拓希選手と大島健太選手の話も。大島選手の話は、実業団駅伝公式ガイドにも掲載できそうです。徳本一善選手にもパパッと取材。
 カネボウ伊藤監督や、コニカミノルタ酒井監督の姿もありましたが、取材をする時間がありませんでした。レース中に話を聞くわけにもいきませんし。
 そういえば、ビジネスの話も1つしました。
 それにしても、日体大はいつ来ても風が吹きません。

 才本さん(フリーのテレビディレクター。今回はニューイヤー駅伝用の取材)たちと青葉台駅に移動。寺田はそのまま、駅前のミスドで“電車前”原稿書き。200行原稿ですが、100行ほど進んだところで、渋谷行きの最終電車の時間に。新宿まで移動して、午前2時までかけて一応、書き上げました。


◆2006年11月27日(月)
 昨晩書き上げた200行原稿の仕上げに、約2時間。午前中がそれでつぶれました。
 アジア大会代表の某選手に電話取材。この選手は沖縄ではなく、東京で練習しています。
 その後は、40行原稿を2本、60行原稿を2本。300文字前後の原稿を5本、書き上げました。そのうち2本は国際千葉駅伝関係で、千葉の“電車前”に書ききれなかった分。ビデオも見直したので、それなりに時間がかかりました。
 歯医者にも行きました。30分待たされて、治療に40分。歯も痛かったけど、時間がなくなっていくのがもっと痛かった。


◆2006年11月28日(火)
 昨晩、書き上げた40行原稿2本と、60行原稿2本の仕上げに約2時間。これが午前中。
 昼過ぎに長距離のK監督に電話取材。昼食後、44行原稿を3本。夕食に出かけて、マックで日記を少しまとめて書いています。
 このあと、120行原稿を書き上げないと。
 明日は八王子ロングディスタンスの取材ですが、試合の最初から行くのは無理そうです。ご免なさい、大島コーチ。


◆2006年11月29日(水)
 昼過ぎまで原稿を書いていてから、上柚木の陸上競技場に。八王子ロングディスタンスの取材です(コニカミノルタに全成績)。会場に着いたらダニエル・ジェンガ選手が他のケニア選手2人とジョッグ中。手を挙げて挨拶。あとで顔を合わせたときに、「来年はベルリンにする?」と質問。シカゴ・マラソンで今年も2位。2002年から5年連続3位以内(2位・3位・2位・3位・2位)を続けているのに、1回も勝てないのです。
「うーん、そうだねぇ……ベルリンかもね」という答えでしたが、“……”の間の部分に、シカゴでなんとか勝ちたい気持ちもあるように感じられました。今すぐ決める問題ではありませんが、注目されるところでしょう。そうか。世界選手権のケニア代表に選ばれたら、秋のマラソンはなくなりますね。
 そのジェンガ選手の八王子での役割は、例年のことですが、ペースメーカー。ヤクルト勢のアシストをします。何度も何度も振り返りながら走り、手で「この位置まで頑張って」と励まします。その甲斐あって、今年は新人の首藤弘憲選手(国士大OB)が29分03秒19と25秒も自己記録を更新しました。箱根では5区で区間最下位でしたが、ニューイヤー駅伝で雪辱しそうな雰囲気があります。などと書くと、箱根では失敗している印象を植え付けてしまいそうですが、3年生の時は4区で区間6位と好走しています。

 今年の八王子は珍しく、風もなく穏やかな天候で、C組あたりまでは少し暖かすぎるくらい。だいたい狙った記録ではフィニッシュしていますが、もうちょっと欲しかったところです。26日の日体大と選手が分散する傾向にありますが、山陽特殊製鋼勢は連戦に挑戦していました。日体大で28分台で走った2年目の中東選手と、報徳学園から入った1年目の渡邊和也選手が、今日も29分台前半できっちり走っていました。
 A組のトップは秋葉啓太選手で28分19秒94。手元の資料では自己新のはず。今季は29分を切っていませんでしたが、日本選手権で7位に入っていますから力はついています。ニューイヤー駅伝でブレイクする可能性のある選手でしょう。28分20秒台前半で続いたのが大阪ガスの渡邊浩二選手と高橋剛史選手。正直、驚かされました。関西実業団駅伝で7位と、ニューイヤー駅伝の出場権を逃した悔しさをぶつけたという感じでしょうか。

 さて、今回も大会開催に奔走したのがコニカミノルタの大島コーチ。協賛も26社を数えるまでになりました。ほとんどが陸上競技部を持っている会社ですが、明治乳業クレーマージャパンなどの名前も見られます。各社の看板がトラックの内側にズラリと並んでいて、これがまた壮観です。聞けば、コニカミノルタの最新技術を使って製作していて、従来よりも綺麗に、しかもお手頃価格で製作できるのだそうです。
 クレーマージャパンは優勝者と日本人トップ選手に、ベストなどの賞品を提供しているとか。大塚(国士大OB)&青葉(帝京大OB)のトップ営業マン2人が来場していました。明治乳業も力が入っていました。スタッフもかなりの数が来ていたようです。ここまで、陸上競技をサポートしてくれる企業は、本当にありがたい存在。
 7〜8年前のことですが、箱根駅伝の事前記者会見(記者発表?)で、大会スポンサーがお土産としてビールとお菓子を、出席者が帰る際に配っていました。「そんなものもらわなくても、しっかり取材しますから」と受け取らなかったことがありました。しかし、今回のクレーマージャパンや明治乳業のような企業は、協賛する姿勢が違います。帰りがけ、VAAMやタオルの入ったお土産袋を、ありがたくいただきました。


◆2006年11月30日(木)
 本日、最終的な決断を下しました。福岡国際マラソンの取材には行きません。行けなくなりました。アジア大会前に終わらせないといけない仕事が山積み状態で、どうにも身動きがとれません。
 福岡の仕事をやる可能性があった取引先(雑誌など)には、10日くらい前に伝えてありました。ホテルも2日ほど前にキャンセルしました。でも、最後の最後まで、どこかで驚異的に仕事が進んで行けるようになるのではないか、というかすかな希望は捨てていませんでした。それを今日、最終的にあきらめたということです。
 10月にある仕事を引き受けたときの見通しが甘かったな、という悔いが残ります。
 福岡は寺田にとって、数あるマラソンのうちで別格の存在です。初めて福岡に行ったのが、フリーランスになった2000年。以来、6年連続で取材に行っていますが、こういう形で途切れることになるとは、不徳の致すところというか、能力不足ですね。
「今年は九州だっ!!」と1月に言い始めたときは、当然12月の福岡行きも計算に入っていました。1月の北九州女子駅伝、2月の熊日30km、3・4月にまたがった世界クロスカントリー選手権(福岡)、9・10月にまたがった全日本実業団(大分)、そして12月の福岡国際マラソンと、7カ月の九州最多滞在を記録できると確信していたのですが。

 今日はスポーツ・ヤァ!の発売日。福岡国際マラソン展望記事は、藤田敦史選手を中心に書きました。国際千葉駅伝のあった23日の朝に電話取材をした選手が、同選手だったのです。スポーツ・ヤァ!誌面には、レースに臨む意気込みの部分と、00年・05年と2週間前にピークが来てしまった反省から、練習の流れを変え、従来の2週間前の練習が、レース直前に来るように調整したことを書きました。
 紹介できなかったネタもたくさんあります。藤田選手が話してくれたことを箇条書きにして紹介すると、以下のような感じ。かなり、手応えを感じている様子でした。
・ゲブルセラシエを想定したイメージトレーニングもしているが、昨年のように誰が出てくるかわからないので、ライバル視する選手は決めつけていない。
・ガリブは過去の世界選手権のレースなどから、スパートは一瞬で長続きはしないのではないかと思っている。30kmあたり、ちょうど折り返しのあたりで動きがあるかもしれない。去年もパラノフスキーが(32kmで)スパートした。ポイントの1つになるのではないか。
・今回、記録が出るかどうかは気象条件もあるのでなんとも言えないが、6年前の記録(2時間06分51秒)を生涯記録にはしたくない。高岡さんの日本記録を上回りたい。
・ニューイヤー駅伝のあとに故障や体調を崩したこともあり、春先にあまり走れなかった。例年は春にスピードをやって、7月にハーフに出て、夏に走り込んで、秋にトラックを1回やって、福岡前に仕上げるパターンだった。今年は春ができなかったが、夏から体調がよくなって、例年と同じくらいの練習ができている。去年は1年を通じて走れていて、直前に落ちてしまったが、今年は大きな流れが作りやすかったように思える。
・全日本実業団の1万mも良い感触だった。今年は札幌ハーフを走っていないので、ニューイヤー駅伝の後の試合は5月のゴールデンゲームズin延岡と、9月の全日本実業団、そして今度の福岡。九州を北上している。


 さて、今日で11月も終わり。そういえば、今月のキャッチコピー(日記の上から2行目)を変更するのを忘れていました。「淡路、伊勢、飛騨…」に続いたのは「土佐」でした。


◆2006年12月1日(金)
 福岡には行けませんでしたが、本日の記者会見の写真を入手できたので掲載しました。各選手が色紙に目標を書いて手にしていますが、面白いと思ったのは諏訪利成選手。「無」と記していますね。理由を直接聞いていないので、何を意味するのかはわかりません。言えるのは、諏訪選手が元々、目標設定の仕方に特徴がある選手だということです。
 2位となってアテネ五輪代表を決めた03年の福岡も、レース後のコメントがちょっと変わっていました。
「国近(友昭・エスビー食品)さんの方がアテネへの思いが強かったということ。これがいい経験になって次に頑張れればいい。悔しいけど、それほど悔しくはない。2月の東京か3月のびわ湖に出てもいいし、4月の海外マラソンに出てもいい。オリンピックがダメでも記録を狙っていきます」
 断定した書き方はしたくないのですが、仮に節目となるべき試合でも、そこを最大目標にしない傾向が諏訪選手にはあります。6位入賞したアテネ五輪についても、そこで結果を残すことにこだわっていませんでした。オリンピックを経験することで、その後、世界でも戦っていける選手になりたい、という目標の過程としてとらえていました。
 この考え方って、すごいと思いません? 海外の賞金レースよりも、オリンピックを最高価値とするのが日本社会。日本選手にとって、オリンピック以上の目標はありません。それを諏訪選手は、ステップだと考えたのです。「箱根駅伝はステップ」だという学生トップ選手のような感覚でしょうか。

 でも、この目標設定の仕方は、ある意味、結果を出せる設定の仕方に思えます。箱根駅伝はステップで、オリンピックが大きな目標と言っている選手でも、実際に好結果を残せるのは箱根駅伝の方で、目標と言った国際大会ではダメというケースが多い。国際大会の方がレベルが高いから当然なのですが、目標を高く掲げると、それより低く位置づけた大会で好結果を出せる傾向はあるように思います。実際に、その大会に全力を尽くさないわけではありませんし。
 個人的なことに当てはめて恐縮ですが、昨日の日記に書いたように現在、仕事が山積み状態です。いつもだったら、これだけの行数を書いたら一息入れるだろうな、という原稿を書いても、すぐに次の原稿に集中していけます。最初から、次もあるぞと意識し続ければ、そういったことができるのかな、と感じています。それでも、全日本実業団対抗女子駅伝が終わったら、休みたいと思っていますけど。

 その諏訪選手が、05年のロンドンで7位になりながら、その後の目標設定に苦しんだと、新聞記事は報じています。でも、その記事によれば、今回の福岡で世界選手権の切符を取れなくても臨機応変に考えていく、と現在は考えているようです。記者会見で「無」と書いた意味を、取材できないのが残念です。


◆2006年12月2日(土)
 福岡国際マラソン前日。昼過ぎに朝日新聞福岡の原田記者(全日中4位)に電話。電話の向こうから現地の緊張感が伝わってきます、と書きたいところですが、いつもの穏やかな口調。取材に行けないお詫びをしました。そのときわかったのは、藤田敦史選手の30歳代初取材をしたのが同記者だったということです。
 国際千葉駅伝のあった23日の朝に電話取材をした際、「11月6日(藤田選手の誕生日)から後に取材を受けたのはこれが最初?」と質問したら、すでに朝日新聞とテレビ朝日の取材を火曜日に受けたと話していました。それが原田記者だったのです。だからなんだ、というわけではありませんが、同選手の40歳代初取材は狙いたいと思います。

 昨日の日記の捕捉ですが、目標を1つ高いところに設定しておくと、その一歩前の大会では力まずにすむのかもしれません。インターハイでの入賞を目標にしているから、地区大会は普段通りに力が出せて、好記録が出せたりします。ところが、インターハイ本番になると、力を出せる選手が限られてくる。世界選手権のメダルとか入賞を目標にしているから、日本選手権では力を発揮できる。ところが、世界選手権になると…という図式ですね。
 昔の日本はアジア大会で強かったのは周知の通り(1982年まで)。中国やアラブ諸国、中央アジア諸国が台頭していなかったから、というのが最大の理由ですが、今よりも力を出し切れていたような気もします。当時はアジア大会を、今ほど“結果を出すべき大会”と意気込んでいなかったように思います。(金)メダルを取って当たり前、という感覚だったのではないでしょうか(1960〜70年代)。
 もちろんそういうケースばかりではなく、昨日の例でいえば、箱根駅伝を最大目標にして、箱根できっちり力を発揮できる選手もいるわけです。日本選手権だからと入れ込んでも、力を出す選手もいます。今回紹介したパターンが、絶対に当てはまるとは限りません。

 川本和久監督のブログ池田久美子選手の書き込みがありました。前回の釜山大会の思い出を紹介しつつ、ドーハへの意気込みを書いてくれています。スズキのサイトには、「今は何に対しても、余裕を持って臨むことができている。変に余裕ぶるのではなく、やることを確実にやって金メダルを取りたいですね」とコメントが出ています。
 別に手を抜いているわけではないし、前回の失敗があるから絶対に金メダルは取りたい。でも、どこかに余裕がある。アジア大会も、来年の世界選手権や北京オリンピックへのステップという位置づけ。池田選手、いい感じではないでしょうか。


◆2006年12月3日(日)
 福岡国際マラソンを7年ぶりにテレビで取材。現地にいてもテレビ取材をするのは同じ……そうですね、その辺の話を少し。福岡の報道車には2回くらい乗りましたが、前半は道が狭いこともあって、ずっと後方何10mの位置からしかレースを見られません。後半は少し近づけますが、中継車など大会関係車両が増えた今日では、選手に近づいて表情を観察するなんてことは、なかなか難しい。できるかどうかは運次第でしょう。風の強さとか冷たさを実感できるのが、数少ないメリットでしょうか。でも、その辺も、走っている選手と同じ体感になるわけではありません。
 ということで、現地に行っても東京にいても、同じ絵柄を見るわけです。しかし、緊張感はまるで違います。フィニッシュの直後に何人ものコメントをとらないといけない状況と、何もしなくていい状況。一応、今回は取材モードで見ましたが、やっぱり、取材現場に身を置くほどの緊張度合いにはなりません。

 一般視聴者も記者も同じ絵柄を見ていますが、気持ちはまったく違うと思います。記者は、レースのどこを突っ込んで取材しようか、と考えて見ていますから、見ている点も違うでしょう。記者のなかでも、データ的なところに面白さを感じている記者もいれば、ドラマ性に着目している記者もいる。代表争いなんてどうでもいい、と考えている記者もいるかもしれませんが、紙面には出さないといけないから取材はしないといけないかなあ、と考えている記者もいます。
 もしかすると、緊張感が邪魔をして、見落としてしまっている点もあるかもしれません。

 今日のレースで感じたことは、外国人選手が強いな、ということ。福岡で外国選手が1〜3位を占めたのは99年以来のこと。強いのはわかっていたのですが、3人が揃って、ここまで走れるとは予想外。だいたいどのマラソンでも、調子の良い外国選手って1人か、多くても2人というのが近年の印象なので。
 しかし、同じ外国人選手でも、よく見ると違いがある。ゲブルセラシエ選手はバネを効かせた典型的なトラック走法ですが、ガリブ選手はロード向きのピッチ走法。ですけど、ラドクリフ選手もそうですし、バネの効いた走りの選手がこれだけマラソンに進出してくると、トラック向き・ロード向きという定義の仕方も、考え直さないといけないかもしれません。
 その2人に、白人のバラノフスキー選手も加わっていました。人種は違いますが、ゲブルセラシエ選手同様、バネの効いた走り。かつては1500mが専門でした(1年前の記事参照)。

 日本人選手については、やっぱりマラソンは難しいのかな、という印象を、特にレース直後は持ってしまいます。でも、夏場のマラソンのスピードだったら、日本もまだまだ通用する。というか、バネを効かせた走法の選手が、逆に脚が詰まる状態になってしまう。今日の結果をもって世界選手権、オリンピックで戦えない、と結論づける根拠はありません。
 国内のレースもコンディションを合わせやすいから、まだ戦えます。一番難しいのはシカゴやロンドンなど、有力選手の集まる高速レースで1〜3位に入ることでしょう。

 おっと、他人の心配よりも、自分の心配をする方が先。原稿の進行度合いが、昨日はまあまあでしたが今日はスローダウン。水曜日にはアジア大会に出発しないといけないのですが…。


◆2006年12月4日(月)
 午前中から昼過ぎにかけて、電話取材を一気に4本。全員が長距離の監督さん。ある監督さん(オリンピック選手)は昨日のゲブルセラシエのことを「あの走りをされたら、どうしようもない」と話していました。
 そのうちの1人の監督さんが「昨日、福岡で見かけたよ」と言ってくれました。なかなか鋭いですね。実は、内緒で現地に行っていたのです。その一方で、「福岡に来ていませんでしたね」というメールも届いています。うーん、真実やいかに。

 そろそろアジア大会モードに切り替えないといけません。川本和久先生、川越学監督とネット上はもう、アジア大会色に染まり始めています。寺田も明後日には出発ですが、その前にやらなければいけないことがある。言わずと知れた、原稿書き。
 単行本(トレーニングもの)の原稿が残り34ページなのですが、そのうち18ページ分を11時に送信。残り16ページは、2・4・4・4・2ページと項目が分かれているので、精神的には少し楽になりました。でも、今日明日は駅伝関係の原稿に忙殺されます。謀殺ではないのがせめてもの救いですが、ドーハに持ち込むことになります。
 午後からは駅伝関係の原稿にかかったのですが、夜の4時間が別の仕事に割かざるをえませんでした。仕事以外のメールへのリプライは、いかに短時間で書けるかです。いつもが時間をかけすぎなんですよ。20分、30分かかることも、ちょくちょくあります。それが問題?
 駅伝関係の原稿は400行と230行(ネタ的には9本)と130行。今日は400行原稿が230行までしか進みません。締め切りには遅れていないのですけど。
 230行原稿か130行原稿のどちらかはドーハへの機内で書くことになりますね。持ち歩く資料がまた、多くなりそう。パリの世界選手権のときのように、重量超過チャージの可能性があります。日本から出国するときはOKで、ドーハから帰国しようとするときに10万円とか取られたりして。まさに“ドーハの悲劇”…。


◆2006年12月5日(火)
 アジア大会にはいよいよ、明日出発。今朝、高野徹カメラマンからメールが来て、現地の状況もわかってきました。「快晴でも風が冷たいのでやはりシャツ+ウィンドブレイカーという感じです。夜は更に軽いセーターが必要かもしれません」ということです。円から現地通貨への両替レートも高いとか。これから出発される人……っているのかわかりませんが、参考にしてください。
 懸案はネット接続ですが、「完璧です。お金さえ払えば……」という環境だそうです。我々が泊まるホテルで1日3000円、MMC(メインメディアセンター)で2000円だそうです。なんたる値段! カタールたる値段! そういえば某長距離チームは、1泊15万円のスイートルームに3人で泊まると言っていました。もちろん、好きこのんで泊まるのではなく、他に方法がないのです。
 ドーハ当局は16連泊を強要したり、この機を逃すな! とばかりにたたみかけてきます。ドーハ大ぼったくりアジア大会と、後世に語り継ぐこととしましょう。
 とか書いていますが、1週間後の帰国時には、カタール良い国一度はおいで、とか、書けるようになっているといいなあ、と思います。

 夕方には陸マガ高橋次長から取材分担や、原稿締め切りのレジュメ・メールが届きました。ネットを見れば、室伏由佳選手や川越学監督高橋昌彦監督と、皆さんドーハの情報を書いてくれています。陸上界はもうドーハ一色。
 しかし、原稿は駅伝です。さきほど400行原稿を書き終えました。日記を書いて気分を換えてから、見直し作業をして送信します。230行原稿も、半分くらい書きたいですね、今晩中に。明日の出発までには書き上げないと。これは、某スポーツ新聞の全日本実業団対抗女子駅伝の展望です。機内でも女子駅伝関係の130行原稿が待っています。駅伝のおかげで、日本の陸上界にお金が回ってきているのです。たぶん。

 高野カメラマンからの情報をもとに、着ていく服を決定。スーツケースへのパッキングも、ちょっとずつ進めました。洗剤や洗濯ばさみも忘れていません。栄養補助食品や薬の類も。資料のコピーは家族T氏の尽力で、もう終わっています。留守中のテレビ録画予約もやってもらいました。もちろん、アルバイト料を払っていますけど。
 あとは出発前1時間半くらいの準備で大丈夫でしょうか。16:30までが原稿を書ける時間ということです。


◆2006年12月6日(水)
 なんとか、ドーハに向けて出発することができました。この日記は、関空に向かう機中で書いています。

 今朝は10時に起床。前回の釜山アジア大会が最悪の体調で行った反省から、しっかり5時間睡眠時間を確保しました。この2〜3日、中東時間に合わせて生活しているのです(単に原稿が書けなかっただけではないのか、という根拠のない憶測をしないように)。
 15:30まで原稿書き。230行原稿のうち、5本110行を書き上げたところで、昼食と買い物に。作業部屋に戻ったのが16:30。もう出発準備にかからないといけません。45分で終わらせて、45分は原稿を書こうと思ったのですが、結局、出発準備が整ったのが18時5分頃。原稿は……これから頑張ります。

 18:10頃に福間先生に電話。電話をした目的はもちろん、世間話です。アジア大会の男子4×400 mRは、メンバーが金丸祐三選手、堀籠佳宏選手、山口有希選手、向井裕紀弘選手と4人しかいません(4×100 mR要員に、400 mを走れそうな選手も何人かいますけど)。醍醐直幸選手が、マイル第5のメンバーを狙っているという噂があったので、その真偽を確かめようと思ったのですが、それは控えて、醍醐選手の出発前の状態を聞きました。
 それって取材じゃないかって? そうともとれますが、広義の世間話かな、と。

 羽田空港には19:45に着。羽田→関空→ドバイ→ドーハまでのチェックインを済ませます。関空で乗り換え時間が1時間ちょっとしかないのですが、荷物のピックアップも、座席指定も羽田でできるので、短時間でも大丈夫なのです。
 出発ゲートに行くと、ミズノの中村次長と、トラッククラブの長谷川順子マネがいらっしゃいました。「今頃ですか」などと話をしていると、千葉真子選手もやってきました。TBSで放映するマラソンのリポーター役とのこと。日曜日に放映されたばかりの、ジャンクスポーツで、「これからは(男性との)お付き合いも」と話していたので、その辺の突っ込みも少し、させていただきました。

 関空でミズノ・岩本トレーナーも合流。
 出発まであと30分。ドーハに着いたら、何か書くでしょう。


◆2006年12月7日(木)
 乗り継ぎのドバイ(アラブ首長国連邦)に着きました。これまで利用したヨーロッパの国際空港と比べても、ターミナルの店や人の数は引けを取らないような……と一瞬思いましたが、よくわかりません。店の雰囲気はヨーロッパと変わりません。でも、よく見ると、モスクがあるんですね。イスラム寺院の外見をしていればすぐにわかりますが、普通にターミナルの通路に面しているので、見逃すところでした。
 しかし、朝の6時に着いたのに、これほどたくさん人いるとは思いませんでした。人種も多様です。アラブ系、アフリカ系、東アジア系、ヨーロッパ系。これまで見たなかで、人種の割合が一番拮抗している空港です。しかし、ヨーロッパ系が一番少ないかも。
 目つきの鋭い中国系の人たちは、みんな香港マフィアかチャイニーズマフィアに見えます。ちょっと怖いのですが、向こうも寺田のことを、ジャパニーズ・マフィアと思っているかもしれません。外国人同士の認識なんて、そんなものでしょう。

 ドーハへの便の搭乗口近くには、中国選手団が大勢いました。体格にばらつきがあるところから、陸上競技と想像できます。レスリングや柔道のような、体重別の体格の違いとも、ちょっと違うんですよ。ミズノの中村さんも「陸上だよね」とおっしゃってくれたので、間違いないでしょう。
 ここでも、中国選手はみんな体格はいいし(骨格とか、日本人とちょっと違いますよね)、顔つきが鋭くて、どの選手も強そうです。きっと、中国選手が日本選手を見るときも、同じように感じていることでしょう。

 原稿は230行ものやっと、先ほど終了。深夜便はさすがに眠くなるので、なかなか筆が進みません。40行を書いて、ちょっと休憩して15行、ちょっと仮眠して、朝食後に30行、ドバイに着いて50行という感じで進めました。仮眠といっても、うつらうつらするだけ。飛行機の中で座ったまま眠れる人がうらやましいです。取材帰りの電車とか、眠れるのですけど。
 残りは130行原稿を今日中に。単行本は……。

 ドーハに9:30だったか、その頃に着。タラップを降りてバスでターミナルに向かうのですが、ここで大きなミス。アジア大会関係者用のバスと、一般用があったらしいのですが、寺田は気づかずに一般用のバスに乗ってしまいました。バゲージクレイムでスーツケースががなかなか出て来なくて、ミズノの岩本さんに聞いたら、中国選手団は別のバスで行ったとか。そういえば、バゲージクレームの周辺に、中国選手が1人もいませんでした。
 そこで、「Lost & Found」コーナーに行って交渉。連絡してくれて、一般用の場所で受け取れることになりました。しかし、しばらくして係員がこちらに来て、「あなたの荷物はないから、ロストバゲージの受け付けをして行くように」と言います。そういうことがあると覚悟はしていましたけど、いざ、行方不明になると痛いですね。99年のセビリア以来でしょうか、ロストは。
 しかし、20分くらい受付窓口に並んでいると、いくつかの荷物が出てきたようで、前に並んでいた韓国人などから、歓喜の声が上がります。寺田もタグを見せると、「見つかった」とのこと。しばらく待つと、ターンテーブルが回りだして、スーツケースなどがいくつか吐き出されました。寺田のスーツケースはびしょ濡れ。どうやら、雨脚が強くなっていたようです。

 ここで一安心のはずが、続いて問題が。寺田のスーツケースが運ばれていた先は「アジアン・ターミナル」というみたいで、何度か質問の回答の中に、その言葉が聞かれました。一般用のターミナルの外に出ると、大会関係の窓口は1つもありません。これは、そのアジアン・ターミナルに行った方がいいかな、と思って、11月末から現地入りしている陸マガ高野カメラマンに電話。やはり、アクレディテーション(IDカードの受け付けなど)をそこでしないといけません。
 同じ空港のターミナルだから問題ないだろうと思っていたら、これが空港外。最初、何人かの空港係員に尋ねたのですが、向こうもアクレディテーションが何のことかすぐにわからないのと、車で10分以上も離れた場所に歩いて行こうとしている意図が理解してもらえず、かなり手間取りました。結局、歩いて行くの絶対に不可能だとこちらも理解し、タクシーで行きました。両替はドバイでしてあったので問題なし。ドーハでもできたと思いますけど。
 その後接した大会関係者や、ボランティアの方たちはみんな親切でした。この頃には、雨もほぼ上がっていました。12時前にRAMADAホテルにチェックイン。空港以上に念入りに、荷物検査を受けました。同部屋の高野徹カメラマンは、午前中は競歩の取材、夜に女子サッカーの取材があるため、まだ対面していません。3000円を払って、有料の有線LANに接続。陸上関係各サイトをチェックしました。

 ところで、来る途中のどこかで、ミズノの岩本さんに、奥さん(岩本敏恵選手、旧姓・北田)のアジア大会はどうでしたっけ? と質問。86年のソウル・アジア大会の成績が悪くて(予選落ち?)、北京で雪辱を期していたのに故障で代表になれず、それで94年の広島100 mで日本新(11秒58)の4位という結果を出したのだそうです。思い出しました。他の何人かの選手と一緒に、陸マガの記録集計号の表紙にもさせていただきましたね。
 岩本さんの話を聞いて、一気にテンションが上がったというか、アジア大会モードになりました。しかし、ホテルに着いて有料でメールを見ると、厳しい原稿の催促。一気に現実モードに戻されたというか、大量の原稿を抱えてドーハ入りしたことというか、自分の無能ぶり(優柔不断ぶり)が悔しくなりました。
 近くに、ドーハとしては店の多い通りなどもあるようですが、ホテルにこもります。ホテルの窓から見える風景の写真でも載せたいのですが、砂埃でガラスが汚れていて撮影は無理ですね。
 16:35。先ほどから再び降り始めた雨と、風もちょっと強くなってきました。


◆2006年12月10日(日)
 アジア大会取材3日目(陸上競技は4日目)。
 午前中は男子マラソンの取材。レース展開はたぶん報道されていると思うのですが、現地では2位のヤシーン選手(バーレーン)と3位の大崎悟史選手(NTT西日本)が、いったんは同着と発表されました。しかし、その後2位・3位に訂正され、再度同着と表示されたものですから、混乱に拍車がかかってしまったわけです。
 日本選手団も事情説明を求めましたが、判定写真を見せられて引き下がりました。大崎選手も表彰式ではヤシーン選手と握手。「メダルの色が変わってしまったのは残念ですが、最後まで力は出し切れたので」と、しっかりした態度で話していました。
 ちなみに、日本の記者の質問に対し現地の計時役員は、1000分の1秒まで計時が2時間15分35秒378と2時間15分35秒381だったことを明かしました。

 しかし、負けはしたものの大崎選手の力は、十分に発揮されたと思います。終盤は3人の集団の一番前で積極的に走りました。あくまで、優勝したシャミ選手(カタール)を追い続けていたのです。しかし、往復コースなので前の選手の脚勢がわかります。35kmで金メダルは無理と判断して、銀メダル狙いに変更。フィニッシュ前で5mくらいは離されましたが、「銀メダルと銅メダルでは違う」と最後に0.003秒差まで追い込みました。それもこれも、純地元である大阪の世界選手権に出たい、という気持ちから。
 レース後に上窪隆夫コーチ(NTT西日本監督)が明かした話によれば、1カ月くらい前に風邪を引き、そのマイナスを取り返そうと、30km・40km・30kmと距離走を1週間でつめこんでやってしまった結果、太腿裏の筋が硬くなってしまったのだそうです。なんとか治して最後の刺激練習も上手く行ったようですが、現地入りする飛行機で再発。上窪監督は30kmまで本当に心配していたと言います。
 それでも、レースぶりからは、その間のアクシンデントを感じさせるところがありません。どんな状態でも、マラソンとなればしっかりまとめる大崎選手の力は、かなり評価できると思います。

 午後の部では成迫健児選手、沢野大地選手、池田久美子選手と日本が金メダル3連発。3人とも金メダルの確率が高いと言われていた種目ですが、きっちりと勝ってくれました。その辺の“勝ち方”を記事にしたいのですが時間がありません。
 ここでは1つだけ。会場でしかわからないことを書きます。昨日の男子走高跳でもそうでしたが、土屋光選手が手拍子を求めても、観衆は反応してくれませんでした。スタンドの一画の日本選手団だけが拍手をする。
 今日の池田選手も同様で、1・2回目とまったく無反応。逆に、前回金メダルのジョージ選手(インド)には大歓声。アラブからインドあたりまでの選手には、すごい応援があります。移住してきたり、働きに来ている人たちが多いからでしょうか。もしかすると、あまり、拍手をする慣習がないのかもしれません。
 3回目にちょっとだけ反応がありましたが、4回目は1500mに優勝したカタール選手のウィニングランと重なって、再びなしのつぶて。しかし、優勝が決まった6回目の跳躍のときは、スタンドも沸いていました。
 そして池田選手のウイニングラン。5月の国際グランプリ大阪で記録表示盤に跳ねて行ったように、ウイニングランの足取りにもバネがありました。そして何より、表情が抜群に良かった。カメラマンたちが撮った写真を見せてもらうと、本当に生き生きとした笑顔です。あの笑顔をされたら、どこの国の観衆だろうと、引き込まれてしまうのではないでしょうか。

 個人的には、笑顔に魅了された観客たちとは、また違った感情だったと思います。
 最後にもう1つ。こちらが涙が出そうになったのは、丹野麻美選手がインド選手をフィニッシュ直前で1人抜いて、銅メダルをとったとき。86年ソウル大会の磯崎公美さんの400 m銅メダル以来のアジア大会でのメダル。実に20年ぶりです。女子短距離は、アジアからも置いて行かれ続けている状況だったのです。その流れに歯止めをかけられました。
 でも、丹野選手のことだから、控えめなことしか話さないと思っていました。それが、レース直後の高揚感もあったのか、「後に続いていただけたらいいと思います」とコメントしたのです。“いただけたら”という部分は、丹野選手らしかったと思うのですが。ここまで話してくれたら、ドーハでスタバに行ったのか、とか、アラビック・コーヒーは粗挽きなのか、とか、そういう話はできませんでした。
 今日、川本和久先生の門下生が、丹野麻美選手が銅メダル、久保倉里美選手が銀メダル、そして池田選手が金メダル。釜山のアジア大会ではまったく力が及ばなかった種目ばかり。「銅で泣き、銀で泣き、金で泣いたよ」と同先生。
 本当に、おめでとうございました。


◆2006年12月11日(月)
 アジア大会取材4日目(陸上競技は5日目)。
 決勝種目がなく、日本選手の出場も少なかったので、午前中の部は取材に行かずに、ホテルでひたすら原稿書き。わざわざドーハまで来ているのにもったいない、と思われるでしょう。アジア大会を直接見られる幸せを、なんだと思っているのか、と。自分でもそう思うのですが、本当にどうにもならないのです。
 昨日も、MMCからカリファ・スタジアムに移動するバスで、三重の二枚目助教授にして東海学連ヘッドコーチの三重大・杉田先生にお会いして、スタジアムのあるスポーツシティには見るべきものがたくさんある、とお聞きしました。カタールのスポーツ政策などにも、ちょっとは触れることができる。毎日、そういった施設の目と鼻の先にいるのですが、今回は原稿を優先せざるを得ません。
 という書き方をしても「馬鹿ちゃうん?」と思われるかも。でしたら、仕事を依頼してくれる相手(クライアント)への感謝の気持ちを優先しないといけない、と書いたら、少しは理解を得られるでしょうか。単に、言い方を変えただけなのですが。

 15:40にスタジアム着。ドーハでの取材生活にも慣れてきて、余分な神経は使わなくてよくなっていますが、一昨日に記者のパソコンが盗まれる事件もあったようなので(セキュリティーで東芝パソコンの製造ナンバーがチェックされていました)、昨日からはプレスルームの机に、機材を置いたまま取材に行くことはやめています。ロッカーがあるので、それほど大変でもないのですが。椅子の数にも余裕があって、満席になることもない。この辺は楽です。
 しかし、午前中の記録をチェックすると、十種競技の田中宏昌選手が棒高跳で記録なし。今日は風が強く、予報ではサンダーストームの可能性もあるみたいだと、某専門誌E本編集者が言っていました。その辺の影響を受けてしまったのでしょうか。この点については、競技の様子を見ていた米倉照恭コーチに取材をして、状況を確認しました。
 それによると、円盤投から棒高跳までのインターバルが短く、十分な練習時間がとれなかったようです。風も強くて、ポールを立てる状態まで行かなかった。1回目の試技でそのチェックをしようとしたけど、強風でスタートが切れない。最後に無理やり助走は開始したが、ボックスの手前で止まらざるを得なくて、結局時間切れ。2回目がチェックのための跳躍になり、3回目でやっと跳躍というところまできたけど修正しきれなかった。しかも、最後の跳躍で右ヒジからボックスに落下して強打してしまったとか。
 全体に悪い状態だったことが遠因。1日目から失敗種目があり、次の種目で切り換えようと思ったところでまた失敗。混成競技の悪い方向にはまってしまったようです。

 レベルが高かったのが男子砲丸投。1位が20m42で2位が20m05、3位が19m45。過去3大会は19m前半で優勝していましたから、一気に1mもレベルが上がったわけです。1・2位のサウジアラビアとカタールの黒人選手は、いかにもアメリカ的な雰囲気。スタンドの記者席に記録を配ってくれるカタール人の役員に、「このカタール選手はどこの国の生まれですか」と質問。「知らないけど、この名前はアラビックだ」という答えです。名前はアラビア風に変えられますからね。
 あとで大会サイトを見ると、BirthCountry が記載されていて、Qatar となっていますし、言語は「アラビア語」。移住者も多い国ですから、間違いないでしょう。優勝したサウジアラビア選手は、BirthCountry は記載されていませんが、短距離など黒人選手も多くいる国なので、帰化した選手と推測する根拠はありません。
 しかし、カタールの中・長距離選手の多くは、ケニアからの帰化選手。バーレーンなどに、モロッコからの選手も数人います。カタールのスポーツ政策については、ちょっと感じるところがありました。現地に来たから感じられたことです。この件については、日を改めて書くつもりです。

 さて、大会もいよいよ終盤。今日からリレーも始まりました。男子4×100 mR予選は1組1位のタイが39秒45。E本編集者がタイのバトンパスの上手さを、盛んに褒めます。98年のバンコク・アジア大会も取材に行っていて、4×100 mRが同国の国技というくらいの存在だと実感したといいます。4×100 mRのある日だけ、観客が多いのだそうです。それに対し、中国はバトンパスでミスをすることも多いと。すかさず寺田が、「国土の小さい国ほどバトンパスが上手く、広い国は下手」との持論を展開しました。
 2組の日本(塚原・末續・大前・高平)は詰まったパスが多くて39秒39。パスの巧拙というより、安全運転のバトンでした。短距離はそれほど良い記録が出ていませんが、明日の決勝は38秒台中盤までは行くでしょう。


◆2006年12月12日(火)
 アジア大会取材5日目。陸上競技は6日目で最終日です。
 今日は110 mHで中国の強さに唖然とさせられて、男子4×100 mRでタイに同タイムで敗れて茫然としてしまい、男子4×400 mRで4位と大敗して愕然としました。ミックスドゾーンの日本選手の様子は、110 mHの内藤真人選手は「史(2位のシ・ドンペン)が予想以上に速かった」と脱帽し、4×100 mR2走の末續慎吾選手は「負けた。悔しいです」と足早に立ち去り、4×400 mR2走の金丸祐三選手は「バトンミスはもらう側の責任。若いからとか、後があるからではなく、次が最後という気持ちでやる」と、普段の同選手からは想像できないようなトーンで話しました。
 最終日に1つでも金メダルがあれば上げ潮ムードになれたのですが、残念でした。

 しかし、健闘といえる種目もいくつかありました。男子やり投の村上幸史選手は前回と同じ銀メダルですが、シーズン終盤の不調から脱して勝負強さを発揮。女子1500mの小林祐梨子選手も、最後の周回でいったんは4位に落ちながら、最後の直線で競り勝っての銀メダル。女子4×100 mRの銀メダルも、82年以来の最高順位です。
 記録が悪かったのは寒さと風のせい。そこはとやかく言うべきではありません。でも、現地に来ていない人は、その辺がピンとこないから、記録だけ見てとやかく言うんでしょうね。ホント、記録は出せる気象状況ではなかったですね。トラックの材質も、硬いけどチップという、日本にはないタイプで、記録を出しやすかったのかどうか。

 最終種目の4×400 mR終了後、向井裕紀弘選手にバナナを渡しました。お腹が減っているか確認してから。金色のバトンのつもりで持参したのですが、ちょっと残念です。
 あまり総括するのは好きではありませんが、日本選手団のMVPは間違いなく池田久美子選手。MVP大学も福島大でしょうか。池田選手の金、久保倉選手の銀、丹野選手の銅と、全色を揃えました。それを言ったら東海大も同じですね。末續選手が金で塚原選手が銀、醍醐選手が銅。期待度を上回ったのは福島大ですが、男子短距離という最も激戦の種目で結果を残したのは東海大。甲乙はつけられません。
 日大も沢野大地選手が金、村上選手が銀と頑張り、筑波大は400 mHコンビの成迫健児選手と河北尚広選手で金と銅、小幡佳代子選手も銅でした。なかなかすごいのが国士大。嶋原清子選手、坂倉良子選手、海老原有希選手の女子トリオで銀銀銅。坂倉選手は圧倒的に強いと思われた中国コンビの一角を崩し、A標準を上回りました。海老原選手は今大会の日本選手では唯一自己新(学生新)です。

 ということで、アジア大会も終了。最後の取材は偶然ですが、ドーピングルームから出てきたところの村上選手。そういえば前回の釜山大会でも、ドーピング検査から出てきた村上選手に取材をしました。まさか4年後の広州(中国)でも…。
 夜は昨日が誕生日だったE本編集者のお祝いも兼ねて、ささやかな打ち上げ。初めて、ホテルやアジア大会施設以外のレストランで食事をしました。イスラム圏ですからもちろん、アルコールはなし。短時間で切り上げてホテルで原稿書き。1・2日目の日記も書きたいのですが、単行本の原稿を明日の出発(23:15)までに頑張らないといけません。


◆2006年12月13日(水)
 今日はドーハ23:15発のフライト。ドーハ→ドバイ→関空→羽田と乗り継いで、14日の22:15に東京着のスケジュール。アジア大会大会関係者用にトランスポーテーション・デスクがホテルにあって、12時間前に申請すれば空港まで車で送ってくれます。一緒に帰るはずだった高野徹カメラマンの滞在が延びたので、1人での帰国。朝の8時頃、1人だけ帰りたいんだけど、とお願いに行きました。
 大会ボランティアらしきカタール人のお兄さんが、丁寧すぎるくらいに対応してくれましたが、巻き舌で英語が聞き取りづらい。中東や南アジア系の人の英語って、ちょっとクセがあるんですよね。向こうに言わせれば、こちらはもっと変なのでしょうけど。ホテル受付の人間だと、ノーマルな発音ですが、ちょっと流暢すぎて、こちらはこちらで苦労しました。要するに、ヒアリングがダメということです。

 昨日も、ミックスドゾーンのフラッシュ・インタビュー担当者(インド人っぽい外見)が、内藤真人選手のコメントを教えてくれ、と言ってきました。日本語のできる担当者もいるのですが、1人では全部の日本選手をフォローするのに手が足りないのでしょう。それで、そのインド人っぽい担当者が、寺田の話す英語をなかなか聞き取ってくれない。内藤選手が1月にアレン・ジョンソン選手のコーチに指導を受けに行く、という話をしたので、レースの感想のあと、そのことを最後に付け加えました。面白いネタですから。しかし、He has a pla to train……の、planがまったく通じません。それで紙に書いたのですが、あとはつっかえると全て書かされる。陸上競技の知識はほとんどないようで、アレン・ジョンソンも知らない様子。態度もちょっと尊大なところが感じられて、嫌な兄ちゃんでした。
 びっくりしたのは実際に出たフラッシュ・インタビューには「高校時代はアレン・ジョンソンと同じコーチだった」というコメントになっていたこと。間違っているよ、と言いに行きましたけど、訂正が出たかどうかは不明です。

 今日はもう、昼間は取材がありません。とにかく、単行本の原稿をひたすら進めましたが、メールも無視するわけにもいかず、そちらにも時間を割きました。昼食は朝食会場から持ち出したパンと、機会がある毎にためていた果物、それと日本から持ち込んだ栄養補助食品。3日続けてそのパターンです。
 15:30にホテルの近くのカフェに。初めてのイスラム圏。昨晩、地元料理のレストランに行きましたから、あとはカフェだけだ、と意気込んで行ったのですが、内装は完全にアメリカン・タイプ。丹野麻美選手もカフェに行ったのだろうか、などと考えながら店内の写真を撮りました(店内と、寺田PC&カフェラテ。これは無断で)。メニューを見ても、カフェラテとかエスプレッソとか、見覚えのある名前ばかり。「トラデッショナルなコーヒーはないのですか」と質問すると、「普通のブレンドか、アメリカンか」と聞き返してきたので、「アラビック・コーヒーはないの?」と念押し。
 残念ながら、ありませんでしたが、こういうことは実際に店に入ってみないとわかりません。空振りでしたけど、まあ、勉強です。考えてみたら、日本に来た外国人も大半が日本の伝統的な部分を見たいのに、東京や大阪の街でがっかりしていることでしょう。
 1時間半ほど原稿を進め、その後45分ほど近くを散歩。商店が多い地区のようで、かなりの種類と数のショップがあります。「キムラヤ」のようなディスカウントショップと書店が合わさったような超モダンな店に、車の販売店も3つか4つはありました。フレンチカフェにインターネットカフェ、韓国料理屋にピザ屋。1つか2つ、塀のあるアラブっぽいかなという大邸宅もありましたが、あとはほとんどが現代的な鉄筋コンクリートっぽい建物ばかり。工事中の施設も多くてちょっとほこりっぽいのですが、街の雰囲気としてはアメリカとあまり変わりません。ヨーロッパの方が伝統的な感じが10倍は残っていますね。

 取材で不在の高野カメラマンにお礼メモを残して、20:30にチェックアウト。空港までの車はちょっと高級なタクシーで、乗ったのは寺田1人だけ。運転手は長身のインド人で、人当たりが良さそうだったの、いくつか話しかけてみました。従兄弟が日本でコンピューターのプログラマーをしているとのこと。近年、その分野でのインド人の進出はすごいらしいですから。しかし、このインド人の発音も聞き取りづらい。従兄弟の英語のcousinは、我々の発音では“カズン”ですが、そのインド人は「コウシャン」と言っているようにしか聞こえませんでした。
 しかし、移動中に雨が降り始めたので、ドーハでは年間何日雨が降るのかと質問。ミズノ長谷川マネジャーがブログで1年に3日くらいしか雨が降らないようだと書いていましたが、本当かな、と思って。疑ったわけではないのですが、念のためというかなんというか。そうしたら「two or three times」だと言います。1年でか? と確認すると、「1年で」と言います。それが「今回は2週間。アジア大会と一緒に雨がやってきた」と言います。間違いなく、間違った聞き取りではなかったはず。

 さて、ドーハ到着時は一般用ターミナルから出て失敗したので、今度はアジア大会関係者用ターミナルに。チェックインでドバイ→関空間は通路側座席を確保し、スーツケースも25.5kgで追徴料金なし。関係者専用の場所なので、追加料金はないだろうと読んでいましたけど。エール・フランスじゃないし。
 待機ロビーに行くと陸上競技の日本選手団がいて、木田真有選手&久保倉里美選手がこちらに気づいてくれました。坂水千恵選手を加えると“愛のトリオ”。ちょっと古い話ですけど、3年前の静岡国体の最終日に愛野駅で会ったことから命名しました。
 聞けば、日本選手団も23:15発で、関空まで行き、そこで乗り換えの待ち時間が長いといいます。一緒なんだ、と簡単に思いこんでしまいました。これが大間違い。
 アジア大会ターミナルは仮設ターミナルですから、情報を表示する簡単なボードがあるだけ。この便の乗客は入ってください(実際はバスに乗る)、というインフォメーションが、アナウンスだけなのです。ヒアリングのできない寺田には苦しい状況ですが、日本選手団と一緒の便なら、彼らの後についていけばいいと安心しました。
 待ち時間はまず、女子4×400 mRメンバー4人や、池田久美子選手と川本和久先生のツーショットなど、写真をコピーして選手に渡す作業をしました。この間に、室伏由佳選手が来て寺田の仕事ぶり(?)を撮ろうとしたので、「顔出しはノーグッドだよ」と念押し。亡くなった親父の遺言なのです。
 選手も待ち時間なので、思い思いのことをやっています。話しかけることも可能ですが、こういう状況での取材はノーグッド。よほど仲のいい選手やベテラン選手は別にして、モードが取材を受ける体勢ではないのです。しかし、この機を逃すと次に接するのは4カ月後という状況でもあり、懸案事項を1つだけ確認しました。丹野選手にはドーハでカフェに行ったのかをちょこちょこっと質問したのです。まさかと思ったのですが、今日、スタバに行ったと言います。モールに足を伸ばしたら、偶然にもあったのだとか。

 その後は原稿書き。やがて22:50頃に「オオザカ行きのパッセンジャーは…」というアナウンス。よしと思って荷物をまとめて、通りかかった今村文男コーチに「ドバイ経由だよね」と確認をすると、直行便だと言います。そういえば、通常はドーハ行きの直行便はないけど、今回の日本選手団は直行便をチャーターしたと記事で目にしていました。
 ここで焦りました。ボードで確認すると確かに、同じ23:15発に大阪行きとドバイ行きがあります。もしかしたら、ドバイ行きはもう、搭乗アナウンスがあったのかもしれません。急いでカウンターに行くと、「ドバイ行きは20分後だ」という回答。しかし、20分たっても何もアナウンスがない。再度、聞きに行くと「30分後」だと言います。この答え方が適当で、親身になっている感じがまったくない。ボードにはドバイ行きもon timeの表示。いくつかの便はdelayと出ているのですが。
 3回目の確認に行くと「0:15」だと言います。かなり早口でしたが、聞き取れました。しかし、この頃になると、搭乗していない名前をアナウンスしているのがわかりましたし、係委員が、遅れている人物を捜してもいます。まあ、大丈夫だと落ち着きも取り戻していました。実際に乗ったのは1時近く。出発は1:15頃? だったでしょうか。
 こうして、深夜に6日間を過ごしたドーハに別れをつげました。二度と来ないかな、という予感はあります。勉強になったのは、人種が多くいる社会だという点です。これは日を改めて書くはずですが、アジア大会モードの内に書かないと、テンションが下がってしまいます。そういえば、土江選手ネタもありました。


◆2006年12月14日(木)
 今日、12月14日は赤穂浪士が吉良邸に討ち入った日ですが、日本を遙かに離れたアラブ首長国連邦ドバイ国際空港で、討ち入りかと見まがう光景を目の当たりにするとは、思ってもみませんでした。
 ドーハを2時間遅れで出発した便には、ミズノの中村次長、岩本トレーナー、長谷川順子マネたちと、NHKの解説陣&スタッフも一緒でした。ドバイ発関空行きの便出発定刻の30〜40後にドバイに着。同じエミレーツ航空ですし、待っていてくれるのではないかと、期待をしていましたが、ドバイだけにヤバイかな、とも考えていました(ここは本気にしないように)。
 寺田は12列と前の方の座席だったので、比較的早くにフライトコネクションに到着。カウンターに前から3列目に並ぶことができ、名古屋行きのエミレーツ便に変更ができました。このとき午前3:55。しかし、他の日本人関係者が列に並んだときには、すでに何十人かが並んだ後。名古屋行きは4:15発。後ろ髪を引かれる思いはありましたが、それほど時間はありません。NHK解説を務めた谷川聡選手にミズノ関係者ら、知り合いの方たちに挨拶をしてセキュリティチェック→名古屋行きゲートに向かいました。

 セキュリティチェックを通ってターミナルに出ると、10番ちょっとの場所。名古屋行きは35番くらいだったと思います。かなり遠いのですが、チェックインは終わっているわけですし、そんなに急ぐ必要はないだろう、と歩いていました。途中、両替所も発見。日本に戻ったらカタール通貨の両替なんかできないだろうと思い、2.8秒ほど躊躇しましたが、窓口に誰も並んでいなかったので両替をすることに。
 なかなか手際の良いお兄さんでしたが、さすがに2.8分くらいはかかったと思います。両替が終わった瞬間に、ターミナルの動く歩道をものすごいスピードで走り去っていく人間がいました。誰かと思って後ろ姿を見ると、赤穂浪士でした。いえいえ、兵庫の生んだスーパーランナー、やはりNHK解説を務めた渋谷俊浩監督でした。出身は加古川東高。インターハイ5000m3位で、数々の筑波大記録を打ち立て(5000m&1万mは今も筑波大記録)、88年の福岡国際マラソンに優勝した伝説の浪士……じゃなくてランナーです。他県の人間から見れば赤穂も加古川も“神戸よりも西側”という認識なのです(実際は、姫路を間に挟んでいるのでそれほど近くはありませんが)。
 続いて谷川選手の姿も。こちらは短距離系だけに、すでにスピードダウンしています。ドバイ国際空港にハードルが置かれていれば、渋谷監督に負けていなかったと思いますが。まだ4:05くらいでしたが、渋谷監督のスピードに圧倒されて、寺田もちょっとビビリ始めました。「走らなくても大丈夫だよね」と谷川聡選手に質問すると「何をやるかわかりませんからね」という答え。国際経験豊富な同選手が言うのですから、こちらも不安になります。寺田も走って名古屋便行きゲートに急ぎました。
 谷川選手にも差を開けられながら、これで1人だけ乗り遅れたら洒落にならないけど、締め切りに遅れる言い訳にはなるな、などと考えていました。スリランカ・アジア選手権の向井裕紀弘選手(陸マガ12月号参照)ではありませんが、言い訳を考えているようでは結果は見えています。寺田だけ名古屋行きの便に乗り遅れた、という悲惨な目に遭ったのではないか、“ドーハの悲劇”ならぬ“ドバイの悲劇”か、と思った方もいらっしゃるかもしれませんが、なんとか間に合いました。

 ゲートから飛行機まではバスでの移動。谷川選手はフライトコネクションで自分だけ先に行った寺田のことを「冷たかった」と言います。“じゃあね”と言って立ち去ったらしいのですが、その言い方があまりにも爽やかすぎたと。うーん。今後、同じような状況になったときは、もう少し申し訳なさそうな演技をしなくては。
 NHKのMディレクターに、乗り継ぎが間に合わなかった経験は? と質問されたので思い出してみたら、セビリア世界選手権(99年)に行った際の、経由地のロンドンがそうでした。あのときはかなり豪華なホテルに泊まった記憶があります。同じくセビリアに向かうJAL機内で谷川選手は……という話は書かなくても皆さんご存じですよね。有名な話ですから。
 14日の20時前に名古屋国際空港着。セントレアは初めて。関空も今回が初めてでしたが。羽田空港行きの便は出ていないため、エミレーツ航空が、名古屋経由の新幹線回数券を支給してくれました。しかし、21:30分頃まで電話とメールでかなり追い込まれながらの仕事。新幹線の最終には間に合いません。名古屋に2泊して、そのまま全日本実業団対抗女子駅伝取材のため岐阜入りすることにしました。ラッキーなことに、ドーハ行きの機内で同駅伝関係の原稿をまだ書いていたので、取材用の資料も持っているのです。原稿が遅いのも、悪いことばかりではありません。悪いことの方が多くあるのですけど。


◆2006年12月30日(土)
 えーと、何から書いたらいいのでしょう。2週間も空白をつくってしまうと、日記の感覚がつかめません。そういえばドーハで池田久美子選手が1本目を6m38と失敗して、「助走の感覚を忘れてしまっていた」と話していましたっけ……などと、トップ選手と一緒にするな、といつも書いているのですが、まあ、ものの例えということで。

 ドーハからの帰国後何をしているのか、と何人かの方から質問を受けました。特に何かをしていたのではなく、いつものように仕事をしていました。雑用と、取材と、原稿書きと。でも、その忙しさたるや、かつて経験したことがないほど。何度も、投げ出してしまおうかと思ったほど。
 実はドーハへもかつてないくらいに原稿を持ち込んでいて、朝食で一緒になった谷川聡選手に「代わりに○○トレーニングの原稿書いてくれない?」などと話していました。谷川選手からは「仕事を断らないからですよ」と一刀両断にされました。いや、まあ、その通りなんですけど。10月からの色々な経緯がありまして、仕方がないというかなんというか。自分が遅いのが一番の原因なんですけど。
 高校駅伝に行ったとき、某専門誌のO川編集者に「T橋N子選手がいくら走るのが好きでも、月間2000kmを走れと言われたら嫌になる」という例えを話したら、実感してくれたようです。この辺は同じ業界人です。
 しかし、高校駅伝後に関西で某長距離選手を取材すると、「月間3000km走ろうと思えば、2000kmなんて簡単に走れるんですよ」という、超ビックリモンの発想を聞かされ、ちょっと前向きになれました。でも、その取材直後に意を決して某社出版部に、追加原稿は今年中は絶対に無理、と電話を入れました。その辺はまあ、世の中、シナリオ通りには展開しないっていうことで。

 なんとか、日記を書けるようにはなりましたが、本日中に単行本の追加原稿を書かないといけません。先ほど年内は無理と書きましたが、世間一般的には12月30日は年内ではありません。こちらは年内に書いても、それを受け取る側は年明けです。
 もう1本、400行原稿が1月5日締め切り。明日からはニューイヤー駅伝&箱根駅伝モードなので、これも今日中に半分以上は進めないと。

 あっ、帰国後の日記が少し書いてありました。

◇2006年12月15日(金)
 名古屋のホテルで原稿書き。昼食もホテルの部屋で。狭いし古いし、湯船の排水は遅いし、ドーハのホテルと比べたら月とすっぽん。しかし、ネットが無料でできるのがありがたいですね。ドーハでは1日4000円近くも取られたので。4日間分で16000円!!
 おっと、ドーハのことはともかく、なんとか今日、単行本の原稿を一通り最後まで書き上げました。でも、直しが相当に必要な雰囲気です。来週いっぱい、気は抜けない状態が続きます。
 明日の監督会議、開会式の時間と場所も知らないので、毎日新聞事業部のH氏に電話。箱根駅伝関係の共同取材日程を、Y新聞・K記者に電話で確認。その他、電話連絡も何本か。
 K記者は、今年のアスリート・オブ・ザ・イヤーは池田久美子選手ではないか、と言います(話をそこに振ったのは寺田でしたけど)。寺田は池田選手か室伏広治選手ではないかと思っています。室伏選手のワールド・アスレティック・ファイナルとワールドカップ優勝、世界のトップ選手たち相手に8戦全勝というのは、実力世界一を実証したシーズンだったと思います。ただ、日本新記録&国外日本人最高2回に象徴される今年の進歩、アジア大会できっちり勝った点などは、池田選手の方がアピール度があります。
 この賞はあくまで投票で決まります。種目が違いますし、個人が選ぶことはできっこありません。投票でしか決められません。

◇2006年12月16日(土)
 全日本実業団対抗女子駅伝の開会式前後で取材。監督会議直後に区間エントリー表を入手し、有力チームの指導者の方たちに話を聞くのが実業団女子駅伝前日の恒例取材。箱根駅伝のような方式(数日前に一応の区間エントリーを発表して、当日の朝に変更する)もいいのですが、事前取材がしやすかったり、展望記事が書きやすいのは通常の前日パターン。まあ、特に主張するほどではありませんが。
 会場には磯崎公美さん(ナイキジャパン)の姿も。アジア大会での女子短距離最後のメダルが、86年ソウル大会の磯崎さんの400 mでした。今回の丹野麻美選手の銅メダルは20年ぶりの快挙。その磯崎さんが結婚されることを公表されました。非常にタイムリーな話題です。相手がどんな方かということと、出会いの経緯などを取材。

 終了後、ホテルに戻ってこのWEB用に原稿書き。
 夜は大内さんと食事。
 ホテルに戻っていったん寝て、深夜に原稿の続きを執筆。
 できれば、昨日と今日で、アジア大会関連の原稿(300行)を片づけたかったのですが、手つかず状態。

◇2006年12月17日(日)
 全日本実業団対抗女子駅伝の取材。
 例年、非常に多くの選手、指導者に話を聞く取材です。今日は18人。
 帰りの新幹線が混んでいたことと、荷物が多かったこと、疲労が大きかったことなどで、車内で原稿が進まず。
 約10日間ぶりに新宿の作業部屋に。
 箱根駅伝増刊号を発売から9日遅れで手にしました。1時間ほど、読みふけってしまったのが失敗。アジア大会関連の原稿(300行)進めた方がよかったと後悔しながら、深夜に資生堂の会見の様子を記事にしました。

◇2006年12月18日(月)
 午前中に宅急便を3個受領。ニューイヤー駅伝公式ガイドと、陸マガ1月号も届きました。読んでしまうと時間がなくなると思いつつも、やっぱり目を通してしまいます。
 単行本の原稿の加筆用に電話取材を1時間ほど。あとは、徹夜して原稿の修正と加筆。なんとか、一通りは記事にして、5時に送信。アジア大会の原稿(300行)は、20行しか進まず。


◆2006年12月31日(日)
 大晦日恒例の前橋取材。移動の車中では室伏広治選手の記事を書きました。5月の取材でしたが、ノートの文字も判読できましたし(時間が長く経過していると判読できないこともあります)、見出しにもしたように2006年でたぶん一番印象的で、画期的だと感じた取材中のコメントだから、いつかは記事にしようと思っていました。
 5月中旬に中京大で行われた公開練習時のもので、翌月発売の専門誌が報じたら書かなくていいかな、と思っていたのですが、専門誌は締め切り的に、5月末のヨーロッパ遠征の記事が入ったので、公開取材の様子は詳しく載りませんでした。実はそのときから、大晦日の年末特別記事にしようと考えていました(ちょっと嘘っぽいか?)。そのくらい、「片脚接地局面でも加速する」というコメントには衝撃を受けました。
 取材で聞いたコメントでは、今年一番のものでしょう。

 ちょっと待ってください。印象的だったといえば、野口みずき選手のサンモリッツ合宿です。朝、午前中の補強、夕方の本練習と、3部練をあれだけ真剣にこなす選手は、初めて見たように思います。廣瀬コーチと2人で行っていた補強は、もう少しリラックスムードでやるのかな、と思っていたのです。実際に目の前で見ないとわからないことって、本当にあるのだな、とあらためて思い知らされました。
 その直後には、2人でこんな笑顔を見せるのですけど。
 出場するはずだったベルリン・マラソンに、ケガで出られなくなったのが、本当に残念です。

 取材ではありませんが、森千夏さんの告別式のときの、池田久美子選手の弔辞にも、ものすごく心を打たれました。弔辞って、それほど聞く機会もないですし、弔辞を読む側と故人の関係をよく知っていないと、理解度は浅くなってしまいます。だからなのかもしれませんが、これほど胸を打たれた弔辞は聞いたことがありません。なかなか、言えませんよね、ここまでは。
 この弔辞とは対照的に、大阪で日本新を出したときに、「記録掲示板の横で写真を撮る?」と聞いて、池田選手がそれに憧れていて、すごく喜んでくれたことも、取材をする側としては嬉しかったです。
 池田選手のすごいところは、この後、アジア大会で金メダルを取り、レベル的にも高い記録を残し、北京五輪のメダルが実際に取れるのではないか、と思わせるレベルに達したこと。もう1つ驚いたのは、日本記録を出した頃とヨーロッパ遠征を経て、アジア大会で金メダルを取った後の池田選手では、世界に対する距離感がまた違ってきているのです。これは、アジア大会後に取材を聞いて初めて知りました。陸マガ2月号に載りますので、乞うご期待です。

 一番ダイナミックな取材だったのは、ヨーロッパ取材中に沢野大地選手をヤックリムのホストファミリーの方たちと一緒に取材をしたこと。その日の昼に沢野選手と連絡ができ、ニュールンベルクからハイデルベルクまで、南ドイツを特急電車で横断し、18時前に合流して取材をこなし、食事まで一緒にさせてもらいました。別れたのは夜中の23時頃。僅か12時間の間にここまで海外取材が展開したことは初めてでした。
 そのとき撮った写真も、陸マガ編集部やニシスポーツ関係者、寺田の家族などに好評でした。室伏選手、池田選手、沢野選手と取材をさせてもらって感じるのは、気持ちの強さ。フィールド種目では特に重要になってくるのかもしれません。

 急転直下の取材といえば、沢野選手取材翌日に、早狩実紀選手とマインツでデート……じゃなくて、取材ができたのも嬉しかったですね。会っていた時間は1時間ちょっとだったと思いますけど、新鮮な経験でした。女子選手とヨーロッパのカフェでお茶を飲む、という夢も実現できました。
 夢と言えば、以前から行ってみたかったDNガランとナイトオブアスレチックを取材できたのも、嬉しかったです。日本開催ですが、世界クロカンの取材も初めて行きました。初取材は熊日30kmも経験。記録は悪かったですけど、熊日にしては記録的な暑さが原因で、こればっかりはどうしようもありません。

 どうしても海外取材の印象が強くなってしまいますが、本当に力を入れているのは、日頃の国内の取材です。1年前の中国電力・坂口泰監督に続き、9〜10月にはコニカミノルタと酒井勝充監督を取材。酒井監督の人当たりの良さの裏にある、芯の強さ、厳しさなどを引き出せたのはよかったかな、と感じています。
 13年ぶりに走高跳の日本新を出した醍醐直幸選手と福間先生への取材も、いろいろと勉強になりましたし、面白く感じられることが多かったです。
 高校生では、高橋萌木子選手の100 m、中村宝子選手の200 mと、短距離2種目の高校新を目撃できました。小林祐梨子選手の1500mも、2回とも見ましたね。

 長くなったので、この辺でやめておきましょう。
 最後はアジア大会ですが、個人的に印象が強かったのは、女子400 mの丹野麻美選手の銅メダルです。何度でも書きますけど、本当に女子短距離はアジアでメダルを取れない時代が続いていたのです。ミックスドゾーンでの、控えめな丹野選手の「続いていただけたら」というコメント。さらに、大会終了翌日には、ドーハのスタバに行っていたこと。空港ターミナル(もどき)で会った時に、まさかと思って質問したら、本当に行っていました。銅メダルを取る選手は、やることが違います。
 本当に最後は、土江寛裕選手ネタ。引退したので、もう選手ではなくなってしまいました。本当に、寂しくなります。それだけ、強烈な個性の持ち主でした。錦織育子選手の取材の際は、ファミレスまで車で送ってもらいましたっけ。ありがとうございました。この場を借りて、お礼を言わせていただきます。
 土江選手ネタで1つ、書き忘れていました。引退レースを田島記念としたことを、色々な角度から検証(?)させてもらいましたが、田島記念開催県の山口が、土江選手の出身地の島根に近いことが最大の理由ではないかと推測していました。しかし、もう1つ大きな理由があるように思いました。それは田島記念が、男子三段跳など、早大の後輩選手が多く出場した大会だったということです。それも、理由の1つだったのではないでしょうか。母校思い、後輩思いの気持ちが大きい選手だと感じていました。
 ということで、2006年の締めは土江選手。ドーハにも同選手の像が飾られていました。ドーハ市街をバックにした写真と、アップの写真(T社からの提供です)。絶対に土江選手ですよね。故郷の平田市とドーハが、何とか都市提携などをしているのでしょうか? またも、謎が残ってしまった土江選手です。


◆2007年1月1日(月・祝)
 ニューイヤー駅伝の取材。スタート地点の群馬県庁に行くと、見覚えのある後ろ姿が。昨晩遅くに日記に書いた土江寛裕選手が目の前にあるではないですか。左右には富士通の誇る短距離陣がズラリ。大前祐介選手&田野中輔選手とは7月のナイトオブアスレチック(ベルギー)、12月のドーハに引き続いての邂逅ですが、土江選手とは久しぶりです。ドーハに土江選手の像が飾られた経緯(昨日の日記参照)については、本人もよく知らないようです。今後のことなど聞きたいこともあったのですが、スタート時間が近かったため断念。
 佐藤光浩選手にも今季の抱負を聞けば、「オフィス川本のOLたちにいじめられないこと」と、話してくれたかもしれませんが、今となっては神のみぞ知ることです。しかし、以前にも土江選手と内藤真人選手を例に出して話を書きましたが、自分が確立できているから、いじられても平気という側面があります。
 4人には新年の挨拶もそこそこに、すかさずウエストバッグからコニカミノルタのカメラを取りだしました。しかし、スイッチがオンになりません。重量が軽いことに気づいて電池庫を確認すると空っぽ。新年最初の撮影から大チョンボですが、予備の電池を持っていたので、すかさず装填して撮影(4本中2本が富士通製でした)。事なきを得ました。これがその写真です。

 記者室に行くと朝日新聞の誇る東京・堀川、大阪・小田、福岡・原田の各地区陸上競技担当記者が勢揃い(スタート前の写真)。事業部からも2人が前橋入りと、総力体勢です。負けていないのが中国新聞。東京デスクの下手記者(元陸上競技メイン担当)と、広島から現陸上競技担当の山本記者が上州入り。この写真はテレビで2区のレースを取材している山本記者です。先頭の中国電力はもちろん、2番目の日清食品・徳本一善選手は広島出身ですから取材対象。そして、条件反射的にカネボウも取材をしてしまうでしょうから、相当に忙しくなりそう……などと思っていたら、本当に忙しくなりました。
 これで山本記者は中学駅伝、高校駅伝、実業団駅伝と、広島県チームの全国制覇を取材したことになります。原稿執筆中に聞いたせいか、感想は「忙しい」とのこと。これは本意ではないでしょう。正式コメントは、箱根駅伝時に聞かせてもらうことになっています。
 どんなメンバーを動員するかによりますが、中学・高校・実業団の全国優勝チームを同一シーズンに出したのですから、お膝元開催の全国都道府県対抗男子駅伝でも広島県チームは優勝候補。対抗するのは長野と兵庫あたりでしょうか?
 記者室には、大会スポンサーから提供された「華麗ぱん」もありました。某専門誌O川編集者がさっそくゲットしていたので、食べる前に撮影しました。1月14日発売ですが、賞味期限が1月3日です。これは、俗にいうレアもの。ネットオークションで高く売れるかも。それにしても、1月14日発売とは、専門誌に対抗しているのでしょうか。味についてはノーコメント。

 取材の最後は2区区間賞の秋葉啓太選手。小森コーポレーションとしては2人目の区間賞ですが、1人目はかなり初期の頃の話です。若倉監督がダイエー時代に区間賞を取っているので、遠慮するところを無理にお願いして“新旧区間賞コンビ”として撮らせてもらいました。取材の突っ込みどころの1つも、若倉監督の現役時代の走りをイメージして思いつきました。
 聞けば秋葉選手が1万mで初めて28分台を出したとき、このサイトのトップページで紹介したと言います。若倉監督のサイトで触れられていたので、そのことを紹介したみたいです。探してみると、確かにありました。2002年の9月23日のこと。2人とは、ご縁があったのです。

 陸マガ・グループと一緒に前橋駅に出て、寺田だけ高崎線のグリーン車で赤羽まで移動。新幹線より30分〜1時間は遅くなりますが、1000円以上安くつきますし、ゆったりしたスペースで原稿を書くことができます。このサイト用の原稿を書きました。
 今日のネタは当然、5区の佐藤敦之選手。宮城出身の佐藤光浩選手、福島出身の佐藤敦之選手と来たら、明日は静岡出身の佐藤悠基選手のネタになるでしょうか?


◆2007年1月2日(火)
 7:50に起床して箱根駅伝往路をテレビ取材。以前は芦ノ湖に行っていましたが、さすがに体が持たないと判断して、ここ3年くらいはこのパターンです。それでも、睡眠3時間。

 昨日のニューイヤー駅伝は“本命視”された日清食品が敗れました。12月の全日本実業団対抗女子駅伝、全国高校駅伝男子、そしてニューイヤー駅伝と、本命チームが敗れ続けています。箱根駅伝もそうなるのかな、と帰りの高崎線車中で考えたのですが、今年の箱根は本命チーム自体がありません。上述の3大会は、衆目の見るところがほぼ1チームだったのに対し、箱根は亜大、日大、順大、駒大、東海大と、予想をする人によって挙げる学校が違っています。
 というネタを昨日の日記に書き忘れましたが、今年は気象条件が良いので、スピードのあるチームが有利ではないか、とテレビ解説の徳本一善選手が話していました。確かに、その傾向が出ているかも。
 1区の佐藤悠基選手、2区の竹澤健介選手、3区の上野裕一郎選手、4区の佐藤秀和選手、区間賞はトラックのスピードがある選手が占めました。5区の今井選手は、このくくりに入れていいのかどうかは微妙なところ。

 それにしても1区の佐藤悠基選手の走りには驚かされました。区間2位を4分も引き離すとは。1区は秒差がもっともつきにくい区間です。反対に、最も差が開きやすいのが5区の山登り。今井選手と区間2位との差は今回2分34秒。1区がそれ以上に開いたのです。
 でも、区間下位との差を見ると、やはり5区の方がはるかに大きい。傾向として、5区の方が開きやすいという点が、変わったわけではありません。
 ただ、1区には“流行”があります。古くは石井隆士選手、ちょっと前では櫛部静二選手や中村祐二選手、最近では徳本一善選手と、飛び出す選手もいますし、渡辺康幸選手の前区間記録の時のように、速いペースになることもある。
 それが近年は、スローペースが定着していました。その傾向を逆手にとった東海大の戦略と、それを可能にした佐藤悠基選手の能力があればこその、今回の4分差だったと思います。1区の1・2位差を調べられたらいいのですが、今日はニューイヤー駅伝の原稿書きに優先しました。

 ニューイヤー駅伝の3区の距離が短いのではないか、というメールをいただきました。この件は3〜4年前に陸マガにも書きましたし、本サイトでも何回か指摘しています。2区もおかしいと、選手たちも話しています。
 追い風が強いから速いのだと言っていた人もいましたが、今年の風はそれほどでもなかったはず。あまり頻繁にコースを変更すると、過去の選手との比較ができなくなり、面白さが半減するのは確かです。箱根駅伝の2区や5区など、昔の名選手との比較ができなくなっていますからね。“100 km”ということで大会を一生懸命に運営している人の気持ちに、配慮しているのかもしれません。


◆2007年1月3日(水)
 昨晩は3時までニューイヤー駅伝の原稿書き。8割方終了したので、箱根駅伝モードに入れました。3時間睡眠で6:30に起床。7:15に新宿の作業部屋を出て、大手町の読売新聞に7:54に着。
 記者室のデスクは、前の方はもういっぱい。陸マガ一行の仲間に入れてもらい(今回はほとんど陸マガの仕事ですが)、まずまずの席を確保。それにしても、席の前後のスペースが著しく狭いですね。昔は、これほどではなかったはず。きっと、椅子が足りなくなるようになったので、前後をギュッと詰めてたくさん置くようにしたのでしょう。こんなところにも箱根人気が波及しています。
 ビックリしたのは、記者にお弁当が配られたこと。昨年までは、協賛会社のパンでした。そのまた以前は出ませんでした。ありがたいことですが、そのぉ、かなり値段が高そうなお弁当なのです。だからなんだ、という結論はないのですけど。

 レースは箱根駅伝の復路らしい展開。何をもって箱根駅伝らしいというのかというと、トップがあまり変わらないレースのことを指しています。下の表を見てください。21世紀に入ってからの箱根駅伝は、7回のうち5回、復路で逆転があったわけですが、91〜00年の10回では逆転は4回だけ。復路逆転率は21世紀が71.43%に対し、90年代は40%だったのです。
箱根駅伝復路のトップ交替
トップ交替回数 首位交替があった区間 復路でトップに立ったチーム数 優勝校
07年 0   1 順大
06年 2 8・9区 3 亜大
05年 1 7区 2 駒大
04年 0   1 駒大
03年 1 9区 2 駒大
02年 1 6区 2 駒大
01年 3 6・9・10区 3 順大
00年 0   1 駒大
99年 1 9区 2 順大
98年 0   1 神奈川大
97年 0   1 神奈川大
96年 1 6区 2 中大
95年 3 6・8・9区 2 山梨学大
94年 0   1 山梨学大
93年 2 6・7区 2 早大
92年 0   1 山梨学大
91年 0   1 大東大
90年 0   1 大東大

 陸上競技担当になって間もない記者にとっては、退屈なレースと映ったようですが、寺田には箱根駅伝らしい展開と映りました。神奈川大の近藤選手や勝間選手、大東大の奈良選手と、5区の山登りに強いランナーがトップに立ち、そのリードを8区あたりまで保ち、9・10区ではチーム状態の良さが出て区間賞を取る。箱根で勝つ典型的なパターンでした。
 そのパターンができなくなったのは、各大学の力が接近してきたから。つまり、今回の順大はそれだけ強かったということです。

 レース後は、選手時代から取材をしている仲村明監督の話が聞きたくなったのですが、今回の担当は東海大・日体大・早大・山梨学大。共同会見に出ている余裕はありません。まあ、仲村監督の話を聞く機会は、そのうちあるでしょう。
 一番優先したのは佐藤悠基選手の取材。他の記者たちも殺到するでしょうし、一番目玉となる記事です。ところが、その佐藤選手がドーピング検査のため、東海大の集合場所に戻ってきません。こうなるとやっかいです。いつ戻ってくるのかわからないのですから。離れようにも離れられない。こればかりは、誰が悪いわけでもない。仕方のないことです。

 大手町では結局、佐藤選手も他の大学も取材ができませんでした。後楽園ホテルが勝負です。早大の2選手と渡辺康幸監督、日体大の鷲見選手と別府監督と話が聞けましたが、佐藤選手はMVP選考などで拘束されてチャンスがありません。
 しかし、それであきらめる寺田ではありません。佐久長聖高の両角速先生が会場に来ていらしたので、その近くにいれば佐藤選手もいつか来るだろうと考えました。最初に両角先生と一緒にいたのは上野裕一郎選手。できれば佐藤選手を加えた3人で写真を撮りたかったのですが、中大が引き揚げることに。しかし、間もなく佐藤選手も来てくれました。取材は根性ですね。師弟の写真も撮れました。


◆2007年1月4日(木)
 昼前にニューイヤー駅伝の原稿を全部終わらせるつもりが、若干後ろにずれ込んでしまいました。昨晩のうちに終わらせるつもりが、ちょっと疲れが出てダウンしたのが影響しました。日清食品・岡村マネにも電話をして、ネタを仕込んだのですが…。正確に言うと、仕込もうと思ったネタは入手できなかったのですが、そこが確定したから進んだということです。連絡がつかなければ、ストップしたままでした。

 岡村マネとは別件でちょっと話し込みました。内容は明かせませんが、チームのことを真剣に考えているのが伝わってきます。そういえば、山梨学大の寮で同マネに初めて会ったときも、話し込んでしまった記憶があります。仕事をこなすだけなら、そこまで寺田と話す必要はなかったはず。仕事以外のところでそういうことができるのは、能力が高かったというか、情熱があったというか、何事にも積極的だったというか、将来伸びる人材だったということだと思います。
 最近でこそ、坂下奈穂美選手(元三井住友海上)が結婚した相手という部分で有名になってしまった岡村マネですが、中学時代は京都府大会で優勝経験もあるランナー。高校(洛南高)から故障が多くなり、山梨学大ではマネジャーとなりました。しかし、大学3年時までは走る部分にもこだわりがあって、マネジャーとしての仕事をきっちり片づけてから、個人的に走っていたそうです。
 そのこだわりがなくなったのが、大学4年生の時。選手の喜びが自身の喜びと、心の底から感じられるようになって、自分が走る理由がなくなったと言います。そこからはマネジャー一筋。頑張ってほしい人材です。寺田が書かなくても頑張ると思いますが。

 ニューイヤー駅伝に続いて箱根駅伝の原稿に。陸マガ用に佐藤悠基選手と東海大の原稿を書き終えたところで、気分転換のために本サイト用に亜大の原稿を書きました(これも仕事です)。後楽園ホテルで岡田監督が、こちらの顔を見るなり、この話をしてくれたのです。おそらく、全日本大学駅伝の開会式とレース後に、亜大のなかでスピードがある選手は誰か、箱根駅伝の1・2区候補は誰か、今後スピードのある選手が入学してきたらどうするのか、といった質問をしていたから、話してくれたのだと思います。
 昨日の日記で取材には粘りが必要みたいなことを書きましたが、布石も大事です。などと書くと偉そうなので、読まなかったことにしてください。


◆2007年1月5日(金)
 12月14日のドバイ空港もそうでしたが、今日は本当にヤバイ状態でした。原稿の締め切りが500行(箱根駅伝が250行、2007年展望原稿が残り250行)、電話取材が4本、印刷所に見積もりの催促、膨大な数のメール(仕事始めだから?)への対応、テレビ局への抗議電話等々。途中で精神的にバーンアウトした状態になり、2〜3時間の空白まで生じてしまいました。
 なんとか、深夜3:30頃に箱根駅伝の原稿を終わらせました。編集部も大変そう。2007年展望原稿は……?


◆2007年1月7日(日)
 いきなりですが、パソコン(14.1インチのVAIO)が破損しました。液晶のフレーム部分がこんな感じで折れてしまったのです。以前(半年くらい前?)から亀裂は入っていたのですが、まさかここまでになるとは。いつも、他の資料などと一緒にヘルシンキ世界選手権のバッグに入れ、背負って持ち運んでいたので、この破損した部分に負荷が集中していたのかも。幸い、動作がおかしくなったわけではないので、部屋の中で使う分には問題ありません。
 しかし、外出先でパソコンが使えなかったら、仕事になりません。大枚をはたいて(タイ米ではない……読者超限定ギャグ)買わないといけないでしょう。まあ、今のVAIOもパリ世界選手権の前からですから3年半、まずまず持った方ですね。
 これまでパソコンは平均して2〜3年で買い換えていました。今回のような破損、故障というよりも、ハード面やソフト面の進歩が著しく、新しい機能を使うために買い換えたケースがほとんど。あるいは、ハードディスクの容量が足りなくなったり。その点、今は特に、OSを新しくしようとか、ネット接続に不便とかはないのです。一時期ほどの大きな変化は起きていない、ということでしょうか。
 しばらくは、2000年購入のB5ノートPC(Win2000)で、しのぐしかないでしょう。ヘルシンキ世界選手権前に、USB経由の有線&無線LANができるようにして、現役復帰させた機種。10.4インチ画面は作業効率が落ちますが、3年くらいはそれで仕事をしていたのです。このサイトの左右の幅も実は、その画面に合わせて設定したのです。ではありますが、外付けDVDの再生や、ホームページビルダーの作業などCPUに負荷のかかる仕事をさせると、オーバーヒートしてしまうひ弱なパソコンなのです。

 帰宅途中に、さっそくヨドバシカメラに立ち寄りました。22時まで開店しているので助かります。候補に挙がったのは以下の3機種。
@パナソニックの12.1インチ 重さ1.2kg 19万8800円
Aパナソニックの14.1インチ 重さ1.5kg 24万9800円
B工人舎の12.1インチ    重さ1.2kg 8万9800円
 @はDVDマルチドライブ内蔵で1.2kgという軽量。ハードディスクは60GB満員電車の圧迫や30cmの高さからの落下にも耐えられる頑丈設計。添付の標準バッテリーで12時間もつという触れ込みです。機能的には申し分ないのですが、キータッチがいまいち
 Aはキータッチも良くなり、画面解像度も今のVAIOと同じ1400×1050ドット。今のVAIOが2.5kgくらいなので、重さも問題ありません。問題は、これを買ってしまうと、値段も高いしメインマシンになるということ。ハードディスクが60GBとやや少な目ですし、メインとするなら今月末発売のウィンドウズVistaを待った方がいいかな、という気もしています。新OS発売前なので、値段が安くなっている時期であるのですが。
 BはDVDドライブがないタイプで、ハードディスクも40GBと少な目。@とAはVistaへのアップグレードも可能ですが、Bはちょっと厳しそう。メインマシンを買うまでのつなぎ的な位置づけです。でも、キータッチは@よりもグッド。

 どれも一長一短。駅伝で1人だけ好きな選手を補強できるけど、エースにするのか、つなぎの人材にするのか、両方を兼ねられるタイプにするのか……という例えは適切ではないかもしれないけど、意外と言い得て妙かも。


◆2007年1月8日(月)
 自宅で全日本大学選抜女子駅伝をテレビ観戦。立命大が4連勝を達成しました。実業団とのレベル差が大きく注目度は低い女子の学生駅伝ですが、これだけ勝ち続ける立命大の頑張りは以前から注目していました。
 テレビ局が事前に取材して用意したVTRでは“自主性”という部分を強調していました。選手たちが自主的にミーティングを開いている、選手だけで合宿をしている等のエピソードを取り上げていたと記憶しています(完全に覚えているわけではないのですが)。
 ここで勘違いしてはいけないのは、選手たちを放っておいて自主性が生まれるわけではない、ということ。指導者が一生懸命に働きかけて初めて、自主性は出てくるものなのです。個人では例外もありますが、チームとして見た場合、例外はありません……が、1980年前後の日体大が、寺田の知っている唯一の例外でしょうか。

 言葉を換えれば、指導者が決めた方向への自主性なのです。
 一昨年にチームルポ的な部分と監督の人物像と、2つの方向から記事を書かせてもらった中国電力、同様に昨年書かせてもらったコニカミノルタ。中国電力は“自己責任”、コニカミノルタは“指導者はサポーター”という理論でしたが、狙いとするところは一緒。選手自らが走ることを自分の価値とし、競技に積極的に取り組まない限り、レベルの高い練習をやり通せないのです。
 それは、どのチームの指導者も考えていることでしょう。考えているけど、なかなか上手くいかない。基本理念は一緒でも、それを実現させる方法は何百通りもあって、チームの置かれている環境、指導者のキャラや得意分野(精神論なのか技術論なのか等)、チームの成立過程、選手のレベルによって変わってきます。
 そこを上手くやっているのが中国電力であり、コニカミノルタだということなのでしょう。おそらく、立命大の十倉みゆきコーチも、そういった才能がある指導者なのだと思います。


ここが最新です
◆2007年1月9日(火)
 今朝の5時に最終校正を終わらせて宅急便で発送し、単行本の作業が終了しました。NS協会・S氏の協力と、B社編集のA氏の尽力のおかげでなんとか、予定の1月下旬発売に間に合わうようです。アジア大会期間の前半や、全国高校駅伝の翌日あたりは「もう、ダメだ。絶対に無理」と弱音も吐いていましたが、なんとか乗り切りました。前述の両氏のおかげです。
 一応、一段落したのですが、今日は引き続き多忙でした。


◆2007年1月10日(水)
 今月から来月の仕事の段取り。週末の全国都道府県対抗女子駅伝にも、事情が許せば行きたいと思っています。
 でも、そうすると翌週の広島(全国都道府県対抗男子駅伝)、大阪国際女子マラソン、別大マラソンと4週連続出張になる可能性が大で、ちょっと厳しいですね。10月下旬からずっと、フルスロットルに近い感じで飛ばしてきたので、“ゆったりモード”の期間も入れないと。


◆2007年1月11日(木)
 16時に飯田橋の印刷所に。ある大学陸上競技部の小冊子作成を請け負いました。クライアント(大学の陸上部のこと)に見積もりを出すためにはまず、最もお金のかかる印刷から製本までの費用を確定させないといけません。実は11月に2つほど、タウンページで見つけた印刷所に見積もりをしてもらいましたが、なかなかこちらの希望の金額に近づきません。12月末にF社の営業の方に今日の印刷所を紹介してもらい、ある程度の感触を得たので(下見積もりを出してもらって)、今日、本交渉に行ったわけです。
 なんとか、こちらの予算内でやってもらえそうですが、費用は校正を出す回数や、校正で入れる直しの種類と量によって変わってきます。その辺を少なくするのも、こちらの腕次第。大変なのはこれからです。が、この手の仕事も積極的にやっていかないと、書いているだけでは限界もあります(何の限界?)。我と思う実業団&大学(陸上競技部)経営者の方はご連絡ください。と、たまには営業もしてしまいましょう。

 仕事の話とは関係ありませんが、その印刷所には吉野達郎選手と東海大で同級生だった女性がいるのだそうです。面談した営業担当者は吉野選手の名前を覚えていたわけではありませんが、話を聞いていると「大学を卒業して2年目」「日の丸を付けたことがある選手」という2つの条件で、思い当たったのが同選手。こちらが名前を出したら、担当の営業マン氏も「そうでした」と思い出した次第です。

 こうして選手は、思わぬところで応援されていくようになるのです。吉野選手は“朗(郎)”のつく最も頑張っている選手の1人なので、寺田も個人的に応援しています。最も頑張っている、と1人に特定する表現にしなかったのは、森岡紘一朗選手も頑張っているからです。中川拓郎選手と山下拓郎選手は、もうひと頑張りが欲しいところ。2人とも駅伝はダメでしたが、出場を予定している3月のびわ湖マラソンで捲土重来が期待できます。
 そういえば年末に池田久美子選手を取材した際、四ツ池公園陸上競技場でスズキのホームページを製作・管理している印刷会社の担当者に会いました。その女性の方が、常葉菊川高のOBで、山下選手のことを気に掛けていましたね。
 ちなみに、最も頑張っている“朗(郎)”の付く記者はISHIRO記者(毎日新聞・石井朗生記者)と特定しないのは、箱根駅伝の記事を書いた量が信濃毎日・中村恵一郎記者の方が多いからです。

 打ち合わせは1時間ちょっとで終了。電話連絡を2本したあと、カフェでちょっと仕事。17:50に陸マガ編集部に。2月号の配本日です。表紙は今井正人選手。
 寺田が書いた記事を時間順に列記すると、以下のような感じ。
●アジア大会:総括記事など
●全日本実業団対抗女子駅伝:資生堂ほか
●福士加代子選手人物もの
●池田久美子選手インタビュー
●2007年展望記事
●ニューイヤー駅伝:日清食品ほか
●箱根駅伝:佐藤悠基選手ほか
 2007年展望は書き始めたのは年末でしたが、書き終わったのは箱根駅伝の後でした。



昔の日記
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