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2004年7月 ナポリ、日暮里、さっぽり?
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◆6月21日(月)
「さらばインカレ。さらば北海道」
 などと書くと誤解を招きそうなので書きたくないのですが、偽らざる心情ですので書いてしまいましょう。
 今日はいきなりですが、苅部俊二コーチの取材に。18日の日記で紹介した金哲彦さんの取材と同じで、ある雑誌のオリンピック展望増刊号の企画です。話が進むときは急転直下。新宿に作業部屋を確保しているのも功を奏しています。オリンピック関係の取材ではありますが、伊藤友広選手の最近の不調に関しても、しっかりと話を聞いておきました。日本インカレが近いですからね。
 この時点ではまだ、土曜日からのヨーロッパ取材の飛行機がどうなるか、完全にメドが立っていませんでした。もちろん、行くつもりではいたのですが、心の中では「行けなかったら日本インカレを2日間(7月2・3日)取材した後、札幌ハーフ(4日)、ホクレンディスタンスチャレンジの最終戦(7日)、そして南部記念(11日)と北海道に居続けよう。それも悪くないかな」、なんて考えていたんですね。
 苅部コーチの取材後にHISと連絡していて、飛行機のメドが立ちました。空路を2つ(ザグレブ→ローマとローマ→ローザンヌ)取りやめて鉄道のユーレイルパス(3カ国セレクト・5日間フレキシータイプ。4万円強)を使用することで、5〜6万円の違いが生じることになったのです。さらに夜、ニューキャッスル(ゲーツヘッド)からプラハへの移動に、Easyjetの席をネット上で予約。通常の航空会社だと5万円前後はかかる路線(ヨーロッパ内の移動はだいたい、このくらいはかかります)ですが、1万円強の金額で行くことができます。チケットを発行しない方式で、若干ダブルブッキングが心配ではありますけど。おかげで、朝原宣治選手の出場するプラハのグランプリも取材可能に。
 脚が確保できたら、次は取材申請とホテルの確保です。ここまで来ると、一気にテンションが上がりますね。末續選手の出るゲーツヘッドとザグレブはすでに取材申請を済ませてありました(ゲーツヘッドは苦労しましたけど)。プラハはサイト上から申請できるシステムで、楽でした。
 ローマはサイトから申請書をダウンロードし、プリント&記入をしてFAX。この辺の英語は、“慣れ”ですね。100%わからなくても、長年やっていればなんとかできます。問題はローザンヌ。大会サイトはあるのですが、申請方法がよくわかりません。プレスチーフの名前とメルアドが載っていますが、Pierre-Andre Pascheという名前には聞き覚え(読み覚え)がありました。2年前と同じ人です。さっそく「2001・2002年にもメールしたよね」という書き出しで、メールを送りました。1〜2時間後に返信。「サイトから申請できるよ。本当は13日がデッドラインだから、すぐに送るべし」という内容。よく見ても取材申請用のページはないのですが、「PRESS」内のメール送信フォームのページがあったので、そこから取材申請の文面を送ってみました。すると、これも1〜2時間でコンファメーションが届きました。話が進むときは急転直下です。
 次はホテル(実際は、取材申請と並行してやっていました)。ゲーツヘッドがどこも満室くさいですね。一応、安めの3つ星ホテルに申し込み。プラハは空きが多かったので明日回しに。空港と競技場の位置を調べてからでもいいと判断しました。ザグレブは安めのホテルがすんなり予約できました。ローマとローザンヌはサイトに、取材申請書とセットでプレスホテルの申込書もあったので、これもプリントアウト&FAX。ローマとローザンヌの間が2日間ほど空きますが、ここの宿は予約はしません。現地で足の向くままに移動し、気に入った街に泊まる。それができるのが、ユーレイルパスのいいところです。ローマから移動しないで、休日を楽しむという手もありますね。ローマ(7月2日)の後は締め切りの時期じゃないかって? まさか、ね…。
 これで、やるべきことはやりました。あとはコンファメーションを待って、ホテルがダメだったら新しいところを再度探します。ローマの取材コンファメーションは、きっと来ません。2年前もそうでした。ゲーツヘッドはテロ対策なのか、かなり神経質になっていましたが、ローマは申請書の控えさえ持っていけば大丈夫でしょう(と、決めつけていいのか)。
 いずれにせよ。昨日までの、どうするか決断をできなかった状況と比べるともう、全然違います。一気にヨーロッパモードです。隠すほどのものでもないので、行動予定表をお見せします。

移動 移動手段 宿泊 ホテル予約 大会 取材申請 出場選手
6月26日 日本→ロンドン→ニューキャッスル 英国航空 ニューキャッスル 一般ホテル予約済み      
6月27日      ニューキャッスル 一般ホテル予約済み ゲーツヘッドSGP コンファメーション着 為末 末續 ラドクリフ
6月28日 ニューキャッスル→プラハ easyjet プラハ 一般ホテル予約済み プラハGPU サイトから申請済み 朝原
6月29日 プラハ→ザグレブ チェコ航空 ザグレブ 一般ホテル予約済み ザグレブGP コンファメーション着 末續
6月30日     ザグレブ 一般ホテル予約済み      
7月1日 ザグレブ→ローマ ユーレイルパス ローマ プレスホテル申し込み済み      
7月2日     ローマ プレスホテル申し込み済み ローマGL コンファメーション着 朝原 為末 岩水 福士
7月3日 ユーレイルパス 未定         
7月4日 ユーレイルパス 未定        
7月5日 ?→ローザンヌ ユーレイルパス ローザンヌ プレスホテル予約済み      
7月6日     ローザンヌ プレスホテル予約済み ローザンヌSGP コンファメーション着 岩水 ベケレ ブヒャー エルゲルージ 朝原 (為末)
7月7日 ローザンヌ→ロンドン→日本 英国航空          
7月8日 日本着            


◆6月22日(火)
 ヨーロッパ出張に行けることになったのはよかったですけど、手放しで喜んではいられません。12日間も日本を空けるのですから、スケジュールの調整が大変です。出発前に個別取材をあと2本、電話取材をあと3本しないといけませんし、そのうちの2本(1本+1本)はまだ日程が決まっていません。
 書かないといけない原稿は、短めの人物もの(インタビューもの?)が5本と、オリンピック展望雑誌用の人物もの1本と、各種目の展望記事が21本。かなりの量です。オリンピック展望雑誌は編集作業も加わります。原稿の何本かはまた、ヨーロッパに持ち込み作業になるでしょう。
 今日は16時までWSTFで仕事や段取りをしていました。考えることが多くて、電話が入ってもすぐに、話題となっている事柄の詳細を思い出せないくらい。編集者としての能力は確実に落ちていますね。
 16:30に新宿のHIS(西口)で航空券バウチャーを購入。続いて、HIS本社(南口の方)でユーレイルパスも。2年前はトーマスクック・ヨーロッパ鉄道時刻表も特典で付いていたのに、今回はなし。と思ったのですが、2年前はダイヤモンド社(「地球の歩き方」を発行している会社)で購入していたことを思い出しました。仕方がないので、帰りに紀伊国屋書店で2000円で購入。東急ハンズで旅行用のキャリーバッグ(って言うのでしょうか。伸び縮みする取っ手とキャスターが付いていて、引っ張っていけるタイプのやつ)を購入。ヨドバシカメラのほうが全般に値段は安かったのですが、東急ハンズで気に入ったのがあって、2万1000円で購入。
 そのあたりで陸マガ編集部から連絡があり、某選手の電話取材の許可が降りたとのこと。20時に一度連絡して、21:15からの電話取材となりました(選手に治療の予定が入っていたため)。22時前には終了して、そこから原稿を書ければよかったのですが、ニューキャッスルのホテルがネットから申し込んでも「no room」の連続で、ホテル確保を優先。
 まず、大会本部からのコンファメーションメールにあった、ホテル予約受け付け番号に電話。FAXだったら、あとで書類を送ればいいし、その方が楽だと思っていたのですが、すぐさま女性が電話に出てしまいました。
寺田「あの、陸上競技のゲーツヘッドのグランプリ大会のホテル予約についてなんですけど」
女性「どこから電話されていますか」
寺田「日本です」
女性「選手ですか」
寺田「プレスなんですけど」
女性「ちょっと待ってください」

 30秒以上の間。
女性「選手以外はもう、予約をお取りできません」
寺田「なんとか、ならないですか。仮に僕が選手だと言ったら、どうなりますか」

 実際はこんなにスムーズに会話が進んだのでなく、何度も言い直してもらっていますし、最後の部分の仮定法なんて、相当にいい加減だったと思います。
女性「選手だったら招待という形になって、***********************」
 ここはもう、聞き取れませんでした。さすがに、選手になりすましてタダで泊まるわけには行きませんし、電話に出た相手は業務を委託された会社の人ですからともかく、現地に行ったらすぐにウソがばれること。とても、できません。
 インターネットでNew castl, hotelなどで検索しても、近くて15マイルの距離にしかホテルはありません。「地球の歩き方」を見て2つほど電話もしてみましたが、空室はありません。距離的に遠くても仕方ないかな、と思っていたら、急きょ行くことになった某カメラマンが、近くのホテルを見つけてくれて、ネット上で予約ができました。
 その作業が終わると同時に、ローザンヌのプレス用ホテルからファックスが。前日、こちらから送信した用紙に「OK comfirmed!」のサインが加えられていました。このホテルは、湖畔に立つ湖上ホテル……じゃなくて、古城ホテル。とまではいきませんが、古い大きな館風のホテルです。レイククィーンの異名をとる近藤高代選手もローザンヌに出ればいいのに。と言っても、ローザンヌに女子棒高跳はありませんんね。それに、選手は別の大きなホテルですし。湖畔ですけど
 プレス用のシャトー風ホテルは01年・02年に行ったときも、いいなあと思っていたところ。130スイスフランですから、1万2000〜3000円でしょうか。安くはありませんが、ローザンヌはどこも高いですから、この料金は明らかに大会用の金額。まあまあですね
 次はプラハのホテル。中欧のガイドブックでプラハの地図を見ましたが、競技場の場所がよくわかりません。だったら、空港と市の中心の間にあるホテルでいいかと探したら、3つ星のibis(チェーンホテルです)が6900円であったので予約。たぶん、ネットもできるだろうとの期待も込めています。
 それが終わったのが1時近くだったでしょうか。その後も、ちょっとやることがあって、原稿はこの2日間でまったく書き進んでいません。気持ちとしては眠るのも、食事をするのも時間が惜しいと感じるレベルに。いかに焦らず、気持ちを落ち着かせられるかが、残り3日間の効率を左右します。
 明日は電話取材が1本、夕方から個別取材が1つ。


◆6月23日(水)
 午前中に電話取材が1本。睡眠不足が明らかだったので、1時間半ほど寝て、起きた後はひたすら仕事をして、夕方から日大に。小山裕三監督の取材でしたが、オリンピック代表の村上幸史沢野大地両選手と3人で、スーツ姿でグラウンドに登場してくれました。学長への挨拶などがあったようです。あまりないチャンスでしたから、写真を撮らせていただきました。
 取材も無事に終了。雄弁な小山先生のことですから、記事にする部分の話だけでなく、話題は多方面に渡ります。今日聞かせていただいた話の中で印象に残ったことの1つに、モンテローザの社長さんの話がありました。
 モンテローザは皆さんご存じですよね。居酒屋チェーンの白木屋・笑笑などを経営している会社です(オリジナルはスイスの山の名前で、ローザンヌからも遠くないですよ)。走幅跳の内田玄希選手が入社が決まってから、競技を続けさせてほしいと社長に直訴して認められ、陸上競技部ができました。今年は日大の後輩の田中宏昌選手(十種競技)も入っています。今後、同社からオリンピック選手や日本記録更新者がバンバン出れば、内田選手はリクルートにおける金哲彦氏と同じ役割を果たすことになるわけです。
 そのモンテローザの社長さん小山監督が話をされたときに「成功の秘訣は出会いが7割、運が3割」という意味のことを言っていたそうです。「努力は誰でもできる」とも。小山監督が話をしたことのある別の社長さんは、「出会い9割、運が1割」と言われたとも。2人とも“一代”で財をなした人物。そうなんです。成功した当人は、自分のことを“努力をした”とは言いいません。でも、客観的に見たら、その人が努力をしていないわけはないのです。
 選手もたまに、「運が良かった」と言います。日本選手権でも優勝者の誰かが言っていました。走幅跳の寺野伸一選手だったか、砲丸投の村川洋平選手だったか。すぐには思い出せませんが、それが誰でも、運の良さを生かせるだけの下地をそれまでに作っておかなければ、運が巡ってきても生かせるわけがないのです。
 取材後、WSTFに戻ってメールをチェックすると、ローマGLの事務局から取材申請に対するコンファメーションが届いていました。ローマからは来ないだろう、などと、大変な失礼なことを書いてしまいました。ホテル予約のコンファメーションはまだですが、2日前に紹介した日程表からかなり進展しました。表中のその部分を赤字に変更しておきましょう。プラハからの反応がないのは、どうしてでしょう。チェコっと心配です。


◆6月24日(木)
 海外取材ももう11回目。買い足すものも多くないし、出張準備にそれほど神経を使わなくても大丈夫になっているはずですが、それでもやることは出てきます。今日は自分から仕事を1つ増やしてしまいましたし、帰国後の取材の段取りや、南部記念のホテルや航空券の手配もしないといけませんし。それと、今晩中に自宅用に新しく買ったプリンタをセッティングしないといけません。大して時間はかからないと思うのですが、家族T氏のノートパソコンがちょっとややこしくて…。なんだかんだで、もう夜の10時。今日は昼間少し原稿を書きましたが、オリンピック展望雑誌の記事はこれからです。明日は出発前日。パッキングなどを優先しないといけませんから、今晩、どこまで進められるかが勝負です。
 ところで、昨日、日大で撮らせていただいたこの写真ですが、3人のうち2人が成田高関係者。小山監督も以前は成田高の先生をされていて、その頃に在学していたのが他ならぬ増田明美さんです。高校3年時の1981年(度)に3000mで2回、5000mで2回、1万mで3回、マラソンで1回日本記録を更新しました。以前も書いたかもしれませんが、増田さんの“突出”ぶりは、当時が女子長距離の草創期だったことを考えても、すさまじかったと思います。今で言えば、成田高の後輩の室伏広治選手並みと言えるかもしれません(国内的には)。
 昨日の日記で、成功した人は“出会いと運”が幸いしたとは言っても“自分が努力をした”とは言わない、という話題に触れました。その話の流れで、「彼女の努力は、真似できるレベルのものじゃなかった」と小山監督は話してくれました。しかし増田さんも、自分の現役時代を「私はこんな風に努力したのよ」と、強調して話したことはないんじゃないでしょうか。
 今も解説をされるときは必ず、指導者や選手に膨大な取材をされています。寺田はメモをするときの文字は大きくてノートを多く消費する方ですが、増田さんはさらに大きな文字でノートにメモを取っています。きっと、取材ノートの保管に困っている……かどうかは知りませんけど。はっきり言えば、彼女くらいの競技実績があったら「私はこうした」調の解説でも許されるのですが、それを潔しとせずに、今のトレーニング法や選手の考えを積極的に取材している。頭の回転の速さは、テレビでもおわかりのことと思います。
 その増田さんの近著が「夢を走り続ける女たち」。鳥取の日本選手権でお会いしたときに、「あの中で紹介されている選手や指導者の方のコメントは、取材中ではなくて、雑談中の会話なんかを覚えているのですよね」と質問すると、「うーうん、ちゃんとメモ取ってるよ」とのこと。キャラクターもあると思いますが、ここまで取材として現場の生の声を拾えるのはすごいと思いました。
 講談社から1785円で発売中。買って損はないどころか、現場の声をこの値段で知ることができるのなら、安いと思います。ちなみに、表紙は増田さんがアメリカに留学中に知り合ったダン・シュレンジャー氏で、今はハリー・ポッター・シリーズの日本語版カバー装画を手がけるイラストレーター。82年にニューヨークシティー・マラソン3位。あと少しで、アメリカのオリンピック代表になるほどの実力だったそうです。


◆6月25日(金)
 昨晩、久しぶりに自宅に戻ったら(おいおい)、クリール最新号が届いていました。陸上競技ファン向けとしては、オリンピック代表のシリーズとして油谷繁選手のインタビュー記事と、宗茂旭化成総監督の記事が目に付きました。「箱根駅伝選手のストレッチ」なんていう企画も。時間がなくて目を通せませんでしたが、宗茂総監督の記事の書き出しが面白かったですね。今、手元にないので正確ではありませんが「宗茂総監督の競技成績から紹介したい。そんなのは知っていると言う人もいるだろうし、こちらだってわざわざ書きたくないが、若い読者には宗茂総監督の現役時代を知らない方も多いので……」という感じだったと思います。
 昨日の日記で増田明美さんについて書かせていただきました。宗兄弟と増田さんは10歳ちょっと年齢は離れていますが、活躍された時期は少し重なります。ニュージーランド合宿も一緒に行っていました。日記では増田さんの成田高3年時の日本記録更新回数については触れましたが、それ以外の戦績は紹介しませんでした。その辺も書かないといけなかったんでしょうか。まあ、日記ですからいいでしょう。ここでは「must」はありませんから。
 最近、選手たちがこの、mustという言葉を使うのを、時々耳にします。「mustの練習を排除した」とか「mustの考え方をしなくなった」とか。あるレベルに達したそれなりの年齢の選手で、若い頃と違ったトレーニングへの取り組み方をする場合に、よく使うように思います。あとは、メンタル的な部分ですね。
 なんでこんな話を出すのかというと、寺田も今日、mustの仕事の仕方をやめようと決意したからです。決意したというか、その心境になれたという方が正しいかも。その変化の直接のきっかけは、ここ数日の焦りがピークに達したことですね。
 自分でいうのもなんですが、寺田はこれからしなければいけない仕事を瞬時に、10や20はイメージできます。編集者時代に“段取りと雑用が編集者の身上”と思って仕事に取り組んでいたからでしょう。原稿を書くのは最後でいい、という考え方。企画の立案、取材準備や入稿から印刷・製本までの流れを整えるのが編集者の使命ですから、この考えが悪かったとは思いません。ですが、ライターになった今は、本当に若干ではありますが、微妙な変化が求められているのかな、という気がしてきました。
 というのは、ここ数日、原稿がほとんど進んでいないから。今日も40行を1本書いただけ。何をやっているのかというと、明日からのヨーロッパ取材の準備(調べものや資料用意を含みます)が中心ですが、帰国後の段取りや、その他諸々の雑用です。原稿を書かないといけないと思いつつも、どうしても“段取りと雑用”に神経が行ってしまうというか、そちらを先にやらないといけない、という強迫観念にとらわれて集中できない。
 昨日は南部記念のホテルと飛行機を安く予約するために、1時間も使ってしまいました。それで2000円の節約になったとしても、この忙しい最中に1時間を費やすことが、コストパフォーマンス的にいいことなのかどうか。昨日の日記に、自宅に帰ってからの原稿の進み具合が勝負と書きましたが、結局、ヨーロッパ出張の準備に気持ちが行ってしまいますし、出張期間中の留守録の予約をすると、ハードディスクに録画してある昔の番組の整理をやり始めてしまう。それをやらないと録画できないという理由もありますが、必要以上にやってしまうわけです。挙げ句の果てに、エアコンのリモコンがないと気になって(暑くて風がなかったんです)、30分以上も探し続けてしまう始末。
 書いていて、仕事のやり方というよりも単に、「俺って馬鹿?」という気がしてきました。
 まあ、いいです。とにもかくにも、そういった経緯でmustな考え方はやめました。これまでも、「なんでこんないい加減な人が、社会を生き抜いてこられるのだろう」と思うことが何回もありました。自分だったらもっと細かい部分まで配慮するのに、と。それが違ったんですね。必要最低限のことだけやっておけば、あとは適当でも社会は渡っていける。そこまで極端でないけど、俗に言うところの“慌てず、どっしりと構えていられる人”も多くいます。逆に寺田のようにmustな考え方で仕事をしていると疲れてしまい、いずれは気持ちの面で破綻してしまうのでしょう。
 これまでも頭ではわかっていた部分ですが、肌で理解ができていませんでした。それがやっと、実感できたわけです。ここ数日、どうしようもなく自分を忙しくしてしまい、原稿をろくに書けない、という事態に陥って。どんなに焦っても、体は1つしかないですし、厳密には同時に2つのことができるわけではありません。多くのことを同時にやっているように見える人も、頭を短時間で切り換えているだけでしょう(もちろん、仕事の能力も高く、短時間で作業ができる)。
 考え方を変えてまだ1日とたっていませんが、mustな考え方をやめたことで、かなり気持ちが楽になりました(本当ですよ)。ある意味、開き直り。ということで、仕事ぶりが多少、変わっていくはずです。帰国後でいいことは、あとにしちゃえー、っていう感じです。


◆6月26日(土)
 成田空港です。昨日でmustな考えをやめた寺田ですが、でも、結局は2時間睡眠。まだまだですね。まあ、重要な請求書を起こさないといけなかったし…。
 昨日、出発したISHIRO記者はドトールで国内最後のサイト更新をしたとか。ダメですね、ドトールでは。やっぱりスタバ(スターバックス)でしょう。ISHIROといえばイチローに似ているのが売りなわけですし、イチローと言えばシアトル。シアトルはスタバ発祥の地ですから。
 代わりに寺田がスタバで…と思いましたが、スタバは下の方のフロアなんですよ。それに、スカイライナーでも原稿を書いていたので、パソコンを充電しないといけないので、コンセントのある壁際のベンチで入力しています。しかし、このISHIRO記者ネタはちょっと、代わり映えがしません。
 だったら成田空港で何か探しましょう。実は昨日までしきりに、日大・小山先生や増田明美さんら成田高OBの話題を出したのは、今日、成田に来るので……っていう、成田高ネタも以前に書いた気がします。
 と思っていたら、1人の老婆が寺田の前を通りかかり、いったん足を止めました。そして歩き出して思いもがけない一言を捨てぜりふのように言って歩き去っていきました。
「ここは遊ぶところじゃないんだよ。遊ぶところじゃ」
 空港で原稿を書くようになって、こんなことを言われたのは初めて。面白いヨーロッパ出張になりそうな予感がしてきました。


ユーロ取材2004 1日目
◆6月26日(土)その2
 ゲーツヘッドのホテルに着きました。とっても眠いです。ヨーロッパに着いてこんなに睡魔に襲われるのは初めてですね。だいたい、仮に前の晩がほとんど眠っていなくても、ヨーロッパに着いた興奮で頭は冴えているのが普通なんですけど。ちょっと、慣れてしまったのかもしれません。いやいや、そんなはずはないです。入国審査の時なんか、すごく緊張していましたから。
 ロンドンまでの飛行機は、とってもラッキーなことに隣の席が空いていました。真ん中の4列のうちの通路側の席だったので、誰も寺田の前を通らなくなったわけで、これだとしょっちゅう姿勢を変えることができ、腰も痛くなりません。何より、資料を広げて原稿が書ける。これが大きかったですね。50行原稿を4本書きました。
 ところで、ゲーツヘッドの場所はあまり正確に知られていないと思います。イングランド北部の東海岸。スコットランドに近い場所です。人口約26万人のニューキャッスルの南隣で、ほぼ1つの街と言ってもいいんじゃないでしょうか。ニューキャッスル空港からタクシーで2000円とちょっとですから。
 ニューキャッスルの正確な名称は、ニューキャッスル・アポン・タイン。直訳するとタイン川の上のニューキャッスル。つまり、ニューキャッスルという地名が他にもあって、区別するためにアポン・タインを付記したわけです。ゲーツヘッドはタイン川をはさんで南岸です。シェイクスピア生誕のストラットフォードも、同じようにアポン・エイヴォン(エイヴォン川)が付きます。ドイツのフランクフルトも、アム・マイン(マイン川)ですしね。
 イギリスの入国審査はヨーロッパの中では厳しい方。パスポートチェックの時に色々と質問されます。
審査官「イギリスには何日いるのか?」
寺田「ニューキャッスルに2日間いたあと、プラハに向かいます」
審査官「(入国カードを見ながら)これから向かうのはニューキャッスル?」
寺田「アンポンタンね」

 と冗談を言ったのはまったく通じず(当然か)、
審査官「フゥ、フンっ」
 と相づち。しかし、この後、審査官からの逆襲に遭うことに。
審査官「旅行は1人なの、ツアーなの」
寺田「1人です」
審査官「仕事か観光か」

 ここで、正直に仕事というと、ややこしいことになるそうです 。必ず「観光です」と答えないと いけません。以前、高岡寿成選手からそう教えてもらいました。
寺田「観光です」
審査官「ニューキャッスルに観光?」

 ギクっ。正直に言った方がいいのか。いや、まだまだ。
寺田「スポーツのイベントを見るためです」
 実際、そうですからね。でも、通用するかどうかは不確定。
審査官「ああ、そういえばあるね」
 なんとか事なきを得ました。
 ホテルに着いたら、ロビーに高野進コーチがいらっしました。今日の練習のうごきはどうでしたか、と質問すると「よかったと思いますよ」とのこと。
 明日が楽しみです。でも眠い。


ユーロ取材2004 2日目
◆6月27日(日)
 朝は……何時に起きたか忘れてしまいましたが、ヨーロッパ時間なのでかなりの早起き。大会指定のかなり高めのホテル。ヴァイキングの朝食はかなり豪華です。
 午前中に2本、短めの原稿を書き、スタジアムへは13:30のシャトルバスで移動。スタジアムの玄関はこんな感じでちょっと控えめ。報道受付を済まして中を移動すると、こんな階段が。ちょうど2年前、今は改装中のオスロのビスレット・スタジアムに行きましたが、玄関のこぢんまりした感じと、このオールドファッション的な内装は、雰囲気が少し似ていました。まあ、ビスレットの方が断然、雰囲気は出ていましたけど。
 スタンドは2〜3万人規模で、傾斜がきついからでしょうか、トラックや砂場がかなり近くに見えます。ミックスドゾーンも近く、移動が楽でした。3コーナーの外側にあるサブトラも、かなり近い方でしょう。アップ中の日本2選手の写真。為末選手もかなり念入りにアップをやっていましたが、エージェントの女性と話し合っているシーンもありましたね。
 これも2年前ですが、パリのサンドニ競技場でサブトラの場所がわからずに、地元役員に質問して一悶着ありましたね。大きさ的にも、サンドニやローマと違って陸上競技にとっては適当なものだった思います。日本でいえば、日本選手権のあった鳥取の布勢競技場と同じような感じですね。さすがに、バックスタンドにも椅子はありましたけど。
 夜は、同室の折山さんと、Kカメラマンとホテルのレストランで食事。ちょっと値は張りましたが、考えてみたら昨日から1ポンドも使っていませんでしたしね。食事中はちょっと特殊なしりとりで盛り上がりました。6月最初の出張が鳥取でしたから、最後の出張はしりとりで締めよう、という折山さんの発案です。
 ビールをグラス3分の2くらい飲んだせいだ、食後は先に2時間の睡眠。起きて3時間の仕事。現在、朝の3:30(日本は11:30)。眠いですし、3時間ほど寝るとしましょう。明日はプラハへ移動&取材です。


ユーロ取材2004 3日目
◆6月28日(月) その1
 午前9時、ニューキャッスル空港です。2つの初体験をしました。
 空港には、同じホテルに泊まっていたISHIRO記者と一緒に来ました。格安航空会社のイージージェットのカウンターで、プラハ行きの便にチェックインをしようとしたときのことです。
「この荷物は貴方自身がパッキングをしたのか、他の誰かがしたのか」
 何を言っているのか、こちらは理解できません。難しい単語ではなかったし、2回こちらが聞き返すと、かなりゆっくり発音してくれました。でも、何を言いたいのか見当がつかない。要するにテロ対策の質問だったわけですが、こちらは他の誰が荷造りするんだ、という先入観念があるため、さっぱりわかりません。最後は「あなた自身の荷物か?」という質問に変えてくれたので「もちろん、そうです」と答えてチェックインができました。
 出発ゲートに行くとカフェ(といっても、だだっ広い待合いスペースにテーブルがたくさん置いてある場所)に読売新聞・近藤記者とMカメラマンがいて、隣のテーブルに。ラージサイズのコーヒーを注文したら、こんなに大きかったです。これも初めての経験。
 昨日、イングランドにいる近藤記者の顔を見たときから、聞いてみたいことがあったので、さっそく「近藤さんはウェールズに行ったことがあるの?」と質問。向かいの席のISHIRO記者が、すぐに笑い出しました。当の近藤記者はイージージェットカウンターの寺田と一緒で、何のことを聞かれているか、見当がつかないようです。
「寺田さんが近藤さんについて考えることと言ったら。プリンスネタに決まっているじゃないですか」と、ISHIRO記者。そうです。近藤記者がウェールズに行ったら、プリンス・オブ・ウェールズ(英国王位継承者のこと)になるわけです。
 空港では有名選手も多く見かけました。この続きもあるのですが、書ければ書くということで。ゲーツヘッドSGPの観戦&ちょっとだけ取材記(外国選手中心)も書きたいのですが、3日連続移動してのグランプリ取材ですからねえ。
 今はプラハのホテル。実は、鉄のカーテンを越えたのは初めて。これからプラハGPUの取材です。パソコンに録音してあるドヴォルザークの曲を聴きながら、取材準備をしています。


ユーロ取材2004 3日目
◆6月28日(月)その2
 チェコは旧共産圏。今日の日記その1の最後に書いた鉄のカーテンというのは、東西冷戦が激しかった頃、英国首相のチャーチルが使った言葉だったと思います。もちろん近年は共産圏の崩壊により、東西の壁はなくなりました。でも、経済圏の統合というか、そういった部分では東側の方が遅れています。ヨーロッパ各国の鉄道が乗り放題となるユーレイルパスもそうで、東欧では使えません。ヨーロッパ内でも飛行機の移動をすると、4〜5万円はかかります。日本から使う航空会社でワンフライト、ツーフライトとか付いている路線だったらいいのですけど。ということでこれまで、予算の少ない出張を強いられた寺田は、なかなか東欧まで足を伸ばせませんでした。旧共産圏は今回が初めて。
 ホテルにチェックインして2時間後には取材に出発。競技場まではタクシーで行くのが手っ取り早いのですが、そうするとプラハではホテル・競技場間しか往復しないことになります。それではもったいない。観光をする気は毛頭ありませんが、せめて街のなかを歩き、雰囲気だけでも楽しみたい。地図を見ると観光名所のカレル橋まで2kmくらい。だったら、そこまで歩いてみようと思い立ちました。
 ホテルを出た直後に道に迷い、10〜15分のロスをしてしまいましたが、すぐにモルダウ川の河畔に。4つ目の橋がカレル橋です。丘の上がプラハ城。なだらかな丘が広がる街だな、という印象です。途中、すれ違った女性が、誰かに似ているなと思ったのですが、すぐには思い出せません。しばらく歩いていて、そうか、と思い当たりました。ハナ・マンドリコワ選手に似ていたのです。ご存じでしょうか、往年の名テニスプレイヤーです。なるほど、マンドリコワ選手もチェコスロヴァキアだったな、と思い出しました。ハナというのは、チェコ特有の名前でしょうか、それともスラヴ系に多いのかな。
 ハナ、鼻……といえば、朝原宣治選手のいくつかあるニックネームのうちの1つが、“朝はな”です。これは、朝原選手が頑張ってくれるんじゃないかな、という予感がしました。
 競技場はすごかったですね。本競技場がこれです。ホームストレート側のスタンドが急勾配で(日本と比べると)、なかなかの威容を誇っています。第3コーナーのすぐ外側に、ハンマー投競技場。場所を上手くとれば、両方見ることができるんです。しかも、ハンマー投のサークルのネット越し、3〜5mの距離で選手がハンマーを投げるので、ものすごい迫力。寺田もたぶん、ここまで近い距離で見たのは初めてです。やっぱり、スタンドの記者席からではわからないこともあるんだな、と思いました。それは追い追い、記事に反映させていきます。
 現地時間では夕方からの開催ですが、日本時間では深夜。新聞の締め切りというか、記事は無理でも結果だけ入れられるギリギリのところ。1投目に珍しいファウルをした室伏選手ですが、2投目に79m08を投げてトップに立つと、記者の皆さんが一斉に日本のデスクに電話を入れます(写真は手前から読売新聞・近藤、朝日新聞・金重、日刊スポーツ・牧野の各記者)。その報告を受けて色々と、デスクの方から指示が出ます。大変なんですよ、新聞記者っていうのは。
 好記録の予感のあった朝原選手は、残念ながら今ひとつ。記事にしたように電気計時がおかしかったことも考えられますが、朝原選手のテンションも今ひとつ。せっかく、ハナ・マンドリコワに似た女性にあったのに、チェコっと残念。
 話を旧共産圏という部分に戻しますが、どのくらい西側化しているのか、ちょっと興味がありました。大会の演出はヨーロッパの他のグランプリと、大きな違いはないでしょう。場内にかかる音楽は、ちょっと古いですけどアメリカのものが多かったように思いますし、赤と青のチェコ国旗の色を基調とした艶やかな服のチアリーダーたちによるダンスもあります。表彰もこんな感じで、綺麗な女性たちが会場を盛り上げるのに一役買っていました。まあ、元々チェコが、旧共産圏でも西側に近い感じの国だった、ということもあるのかもしれません。明日のザグレブにも注目です。

プラハ Praha チェコ中西部に位置する、同国の首都。ドイツ語ではプラーク、英語ではプラーグとよばれる。ボヘミアの中央部にあり、ブルタバ川(モルダウ川)が市内をながれる。河港や国際空港があり、鉄道も集中している。チェコ最大の都市で、この国の商業・工業・文化の中心である。おもな工業製品は、機械機器・自動車・化学製品・繊維・衣料・皮革製品・加工食品・アルコール飲料・ガラス工芸品など。出版業の中心でもある。教育機関としては、中欧で最古のカレル大学(1348年創立。別名プラハ大学)、プラハ工業大学(1707)などの大学や多くの美術学校、音楽学校、職業学校があり、また博物館、図書館、劇場も多い。共産党政権の崩壊後は国外からの観光客もふえ、町の経済をうるおしている。人口は121万2010人(1991年推計)。
景観
ヨーロッパでもっともうつくしい都市のひとつとされるプラハは、塔が多いことからしばしば「百塔の町」とよばれる。市街はブルタバ川両岸から周りの丘陵地まで広がる。川にはいくつもの橋がかけられ、とりわけ有名なのが14世紀のカレル橋で、橋の手すりは後世設置された聖人の像でかざられている。
東岸には13世紀にさかのぼる旧市街と、およそ100年後の新市街がある。旧市街では、道が迷路のように入り組んでおり、14世紀のボヘミアの栄光をしめす建物も多い。代表的な建築物はフス派の宗教改革の中心となったティン教会(14世紀)である。この地区にはカレル大学、14世紀の旧市庁舎、そして新市庁舎がある。新市街は商工業地区だが、多くの公共建造物、博物館、銀行がある。
西岸には小地区とよばれる地域があり、バロック建築の宮殿が多い。この小地区の北にそびえるのがフラチャニ城(プラハ城)である。以前はボヘミア王の居城だったが、現在はチェコ大統領の官邸となっている。城内には、歴代の王がねむるゴシック様式の聖ビート大聖堂がある。
歴史
プラハへの入植は9世紀にさかのぼる。当時、いくつかのボヘミア人の城がたてられた。13世紀には、ボヘミア王ウェンツェスラス1世によってドイツ人の入植がはじまり、町は急速に発展。1232年には交易の中心地として旧市街がつくられ、また1世紀後には南東部に新市街が建設された。カレル1世(神聖ローマ皇帝カール4世)の治世にはボヘミア地方の都として繁栄し、人口はパリについでヨーロッパ2番目となった。1442年にはフス派によって占拠されたが、町は政治的にも経済的にも繁栄しつづけた。しかし戦争により町はいく度か大きな被害をうけ、とくに三十年戦争(1618〜48)での被害は甚大だった。
1744年、プラハ市はプロイセンのフリードリヒ2世に占領され、七年戦争(1756〜63)では対オーストリア戦の戦場となった。1848年、チェコの革命をおさえるために派遣されたオーストリア軍の砲撃をうけ、66年の七週間戦争ではプロイセン軍に降服した。
1918年チェコスロバキアが成立すると、プラハはその首都となった。第2次世界大戦中の39年3月から45年5月までプラハはドイツ軍によって占領されたが、壊滅的な破壊はまぬがれた。68年8月には、ソ連の軍隊をはじめとするワルシャワ条約機構軍がプラハに侵入し、大規模の抗議デモがおきた。また、89年には、チェコスロバキアの共産党体制を崩壊にみちびいた、非暴力の大規模デモがおこなわれた。93年1月1日、プラハはチェコスロバキア解体によって生まれたチェコ共和国の首都となった。
"プラハ" Microsoft(R) Encarta(R) 97 Encyclopedia. (C) 1993-1997 Microsoft Corporation. All rights reserved.



ユーロ取材2004 4日目
◆6月29日(火)
 朝起きるとすぐに、メールをチェック。陸マガ前編集長の八田さんが亡くなったとのメールが来ていました(「送る言葉」参照)。間髪おかずに編集部へ電話。間違いでないことを確認しました。本当に突然でした。1月に心臓の手術をし、元気になったと思い込んでいました。医者も周囲の人間もみんな、そう思っていたのです。
 窓の外を見ると雨。こんなに悲しい雨は初めてです。
 走馬燈って、誰も見たことはないのに、よく使われる言葉です。でも、今日ばかりは、本当に走馬燈のように、色々な思い出が頭の中を駆けめぐりました。電話を切ってから30分ほど、自分でも何をしていたのか覚えていません。ヨーロッパに来ている別の記者から電話をもらい、我に返ることができました。今日は、3日連続のグランプリ取材の3日目。昼過ぎの飛行機でザグレブに移動しないといけません。
 こう言ってはなんですが、ヨーロッパにいるのが幸いしました。日本にいて、いつもの生活を送っていたらきっと、ずっと故人のことを考えていたでしょう。取材でヨーロッパに来ていることで、取材に集中できますし、海外の風景を見ることで、気が紛れます。
 ザグレブは、プラハに比べると旧共産圏らしい街。空港・ホテル・競技場周辺しか見ていないので、なんとも言えませんけど。でも、市民の表情は、それほど暗くはありません。ホテルの受付の女性が、なかなかユニークです。地図でスタジアムや自分のホテルの場所を示せないのです。「ここに来てまだ2カ月だから…」って、普通、言うかなあ。三つ星ホテルのフロントが。でも、憎めないキャラの女性なんです。
 4人の日本人記者で一緒に到着したのですが、寺田が最後に1人、バウチャを持ってフロントに進み出ると、びっくりして「こちらの人たちと同じじゃなかったんですか」と、言います。「違います」と英語で言った後、日本語で「僕たち、仲が悪いんですよ」と言うと、その女性は日本語が分かったかのように大笑いしてくれるのです。なんだったんだろう、あれは。
 競技場に出発する際、鍵をフロントに預けに行ったときも面白かったです。キーホルダーの部屋番号が、元のプラスチックの上に紙を貼って新しい番号が書いてあるのですが、そのプラスチックは透明で、反対から見ると昔の番号が見えるのです。実は最初、寺田はその古い番号の部屋に行ってしまいました。一緒にいた折山さんが同じ間違いをして、新しい番号を見せると、くだんのフロント女性も一緒に大笑い。本当に憎めません。
 競技場は最前列に日本人記者席が設けられていました。破格の待遇です。4年前に毎日新聞・野村記者が取材に来た際のエピソードや、大会WEBサイトの記事を見る限り、ザグレブはかなり親日的。サッカーの三浦和良選手が以前、ザグレブのチームでプレーしていた影響のようです。
 ビックリしたのは記者席に記録を配るのが小さな子供だったこと。高校生の補助員が配るのは洋の東西を問わずに、よく見られることなんですが。タイムテーブルを見ると「Stars presentation」という項目があったので、どんな演出なのかを注目していたら、これでした。数台のバイクが後ろに選手を乗せて場内を周回するのです。その中には劉翔(中国)選手も含まれていて、相当に堂に入っていました。こんな気球も飛ばしていて、プラハ同様“お堅い”演出ではありません。
 鉄のカーテンを越えたのは初めてと書きましたが、実は一度だけ、モスクワ空港でトランジットを経験しています。2年前のロンドン・マラソンへの往復にアエロフロートに初めて乗ったときでした。そのときの印象が最悪だったんですね。空港の職員はニコリともしません。まさに鉄面皮…すいません、ちょっと意味が違いますね。家族T氏が以前、柔道の大会でベラルーシに行ったときも、似たような印象を話していました。それで、東欧のイメージが、そんなふうになってしまったんですね。
 ところが、プラハとザグレブで接した人たちの印象は、寺田のこれまでの旧共産圏のイメージとは大違い。モスクワ空港では、目があっても相手はにこりともしませんが、プラハ・ザグレブでは他の欧米諸国と同様、目が合うと必ず、微笑んでくれますしね。
 記者席で寺田の右隣は、博学で知られる東京新聞・吉岡記者。寺田が感じた東欧のイメージを話しました。モスクワ空港の印象は、どの記者も同じように感じていたこと。やはり、民族性の違いだろうという結論になりました。1つの政治体制が50年続いたくらいでは、その民族が持っている気質を変えることができないのだと。たまには、アカデミックな話題もしているのです。
 夜はひとりになって、八田さんを送る言葉を書きました。


ユーロ取材2004 5日目
◆6月30日(水)
 12:30から末續選手の共同会見。オリンピック前の個別取材はまずできませんから、こういった機会を設けてくれるミズノに感謝したいと思います。そのときの記事は、どうしましょうか。余裕ができたら書きます。日本から持ち込んだ原稿が進んでいないので、無理かもしれません。まあ、オリンピック前に書ければいいことですから。
 取材後に読売新聞の近藤記者(プリンス)とM田カメラマン、毎日新聞・石井記者(ISHIRO)と昼食。初めて、ザグレブの市街地に足を踏み入れました。プラハほど、なんていうか、他のヨーロッパの街並みと差別化する特徴がないのです(カフェから撮影した街の光景)。入ったレストランは、それなりにいい雰囲気の内装で、味も良かったのですが、実はイタリア料理屋さんでした。でも、これで朝昼としっかり食べられたので、夜は軽めで大丈夫です。
 近藤記者からは、プリンスの異名に恥じないエピソードをいくつか聞くことができました。具体的に紹介できないのが残念ですが、近藤記者の出身地である千葉県に伝わる井戸掘り技術を生かした経験です。それがなぜ、プリンスらしいのか……やっぱり、本人の了解なしに書いていいことではありません。
 近藤記者は最近、柔道の取材も頑張っています。以前にも書いたかもしれませんが、家族T氏は柔道日本男子チームの管理栄養士です。近藤記者が顔を知らないというので、寺田がつねに持ち歩いている、家族T氏の顔写真を見せました。そのときの写真がもしかすると、ISHIRO!に掲載されるかも。
 昼食後は1人でカフェに陣取って、原稿書き。陸マガ用の末續選手原稿ですが、最初のうちはなかなか筆が進みません。昼食でビールを飲んだんじゃないかって? まさか。そうではなくて、1人になるとやっぱり、色々と考えてしまうんですよね。
 家族T氏とはまだ一度も一緒に海外に来たことがありません。3年前にトルコ旅行を計画したときは実現寸前だったのですが、9・11同時多発テロで断念しました。その後は2人のスケジュールが合いません。お互い、1人で行ってしまうことが多いのです。変哲のないヨーロッパの街並みなのですが、カフェからの光景を眺めながら、そんなことを考えていました。八田さんのことが影響していたかもしれません。
 などと言いつつ、実は隣のテーブルの美女3人組にときどき目が行ったりしていました。これも昨日、記者たちの間で意見の統一を見ていた部分ですが、西ヨーロッパ(特に英独)に比べて明らかに美人が多いのです。食文化の違いなのでしょうが、西ヨーロッパやアメリカに比べ、肥満体型の人が少ないのも、美人が多いと思わせる1つの要因になっているのかも。
 夜は同じホテルの ISHIRO記者と陸上談義。意見が一致する部分もあれば、異なる部分もあります(当たり前ですね)。その時の様子を公開したら、陸上ファンにとっては相当に面白いトークだったかも。公開だったら話せないネタも多いのですが。
 しかし、2人の持っているネタを合わせると、情報の幅が広がり、見えてくる部分がありますね。例えば今回の五輪選考では、B標準で選ばれた選手も多いのですが、選手サイドには「B標準では選ばれない」という意識が強かったこと。実際にハードなトレーニングを積む身としては、「B標準でも大丈夫」と思えないのはわかるのですが、情報がしっかり伝わっていないように感じられたところもあります。指導者がわざとそうしているのかもしれません(それもコーチングでしょうか。練習中のタイムを操作するのと一緒で)。
 さらに、どうかな、と感じられたのは(以下は寺田の意見)、B標準選手を選んだ選考に対し、選手側から批判の声が挙がっていること。つまり、日本選手権の結果で代表は決まらずに、南部まで持ち越すものと選手側が決めつけていた種目がありました。それは、「B標準では選ばれないからトレーニングを頑張る」という前向きな考えとは反対の、「これくらいだったら決まらないだろう」という、ちょっと自分勝手な考え。
 一般種目の選考は「A標準突破者で日本選手権優勝」という、選手側が自力で代表をつかめる基準があります。さらに、優勝者に優先権が生じることも公表されていました。マラソンに比べたらよっぽど、明快なシステムです。選考基準を勝手に決めつける前に、自分が頑張れよと言いたくなります(付け加えて言えば、仮に、世界選手権入賞クラスの大物選手がケガをしても、切り捨てないシステムにもなっています)。


ユーロ取材2004 6日目
◆7月1日(木) その1
 7:55ザグレブ発のEC(ユーロシティ国際列車)に乗らないと、今日中にローマまで陸路で着くことはできません。5:30に起床してパッキング、6:30のレストランのオープン時間と同時に朝食。7:00にチェックアウト。かなり郊外にあるホテルですが(それで安かったのかも)、ザグレブは東京や大阪ほどの大都市ではありません。駅までタクシーで30分も見ておけば大丈夫と思ったのが失敗でした。郊外から中心部に向かう幹線道路がいきなり大渋滞。まったく進まず、その時点で観念しました。ヴェネツィアあたりに着いておけば、明日の早朝出発で試合には間に合います。ホテル代を余分に払わなければいけなくなりますけど。でも、そのくらいで済むと考えて、運転手を急かすようなことはしませんでした。なぜか落ち着いていました。
 市の中心部に行くと少し流れがよくなりましたが、だめだろうと思っていると、7:54にザグレブ駅に着きました。出発1分前です。ヨーロッパの主要駅はかなり大きいですから、この時点でも無理と思っていました。ところが駅舎に入ると袋井駅(寺田の出身地です)くらいの大きさ。さすがに、もうちょっと大きいかもしれませんが、ヨーロッパの駅には改札や長い階段なんてありません。一番手前のホームに行くと目指す電車らしき電車が止まっています。駅員に「リュブリャナ?」と聞き、「イエス」と答えをもらって乗り込みました。20秒後に列車は動き出しましたから、まさに滑り込みセーフ。信岡沙希重選手じゃありませんが、「普段の行いの違いでしょう」(静岡国際で自身は追い風2.0mで公認、後輩の大前祐介選手は追い風2.1か2.2で参考記録となったときのコメント)。
 2等の6人分椅子のあるコンパートメントでは、2人の女性と一緒でした。1人は20歳代後半のバリバリのキャリアウーマン風(かなり美人)で、英語も寺田より、かなり話せました。車内で書類のチェックをしきりにして、しばらくするとパソコンに入力を始めました。ちなみに、2等でも壁際の2席には電源コンセントがあります。もう1人は50〜60歳代と思われるシスター(姉じゃないよ)で、英語は話せません。
 クロアチアを出るとすぐに、警察官によるパスポートコントロール。国際特急の場合、ザグレブはスロヴェニアとの国境駅なんですね。スロヴェニアに入るとまた、パスポートコントロール。同じことの繰り返しです。この辺は、EU内の国境を越えたときとは、ちょっと違いますね。
 もちろん、切符の検札もあります。スロヴェニアを通過してイタリアに入ってしまえば、ユーレイルパスが通用するのですが、そこまでは切符を購入しなければいけません。飛び乗りで購入している時間はありませんでしたから、検札が来たときに説明しなければなりません。車掌が英語を話せなかったので、キャリアウーマンが通訳してくれました。
 その車掌さんもいい人で、寺田の残り所持金が215クーナ(約4000円)だと言うと、その金額ぴったりにしてくれたました。ザグレブは交通手段や食事など、意外に物価は高かったことを考えると、どうやら値引きしてくれたようです。キャリアウーマンのお姉さんも、そう言っていました。ちょっと、いい気分になった出来事でした。
 列車の旅は順調。ヴェネツィア行きのECに乗り換えたリュブリャナはスロヴェニアの首都だったと思うのですが、駅の規模はクロアチアと同じで、それほど大きくありません。チケットオフィスの窓口は2つしかありませんし(反対側に大きなオフィスがあったかもしれませんが)、売店で水と食料を買おうとしたのですが、クーナもユーロも通じません。クレジットカードもダメ。差し迫っていた買い物ではないので、いいのですが。


ユーロ取材2004 7日目
◆7月2日(金)
 8:00に起床して9:30まで仕事。4つ星ホテルにしては貧弱な朝食(熱のあるメニューがなし)後、徒歩10分の距離にある大会本部ホテルに。アクレディテーションを済ませた後、ロビーで原稿を書いていました。ふと顔を上げると、ちょっと離れたソファに小松隆志選手が座っています。“小松の親分”と言われるだけあり、向かいにはリンフォード・クリスティー(英・バルセロナ五輪100 m金メダル)がいて、その後もひっきりなしに関係者や記者が挨拶していきます。寺田も挨拶に行こうと近づくと、小松選手ではなくてフランク・フレデリクス(ナミビア)選手でした。人違いでしたが、こちらの顔を知っていないことはないだろうと思い、近くまで行って軽く挨拶。
 12:10頃には、トヨタ自動車の安永コーチと岩水嘉孝選手が。岩水選手は完全な調整ではないようですが、スタートリストを見て、“やれる”感触を持ったようです。
 しばらくして、陸マガに写真を提供してくれたこともある、ケルンの中国系女性カメラマンのチャイさんが、こちらの顔を見て話をしに来てくれました。たぶん、2年前のローザンヌ以来だったと思います。ただ、彼女はこちらの立場を完全に理解しているわけではないので、その辺の説明も交えて話し込みました。寺田のつたない英語ですけど、アジア系同士のせいかリラックスして話せるますし、なぜか通じます。下手な発音だと、聞き返されることが多いのに、それが少なかったですね。
 その最中、陸マガの仕事もしていることを話すと、次のような話になりました。
チャイ「ヘイタさんは知っていますか」
寺田「ハッタですか」
チャイ「そう、ハッタさん」
寺田「僕も4年前までは陸マガ編集部にいたので、よく知っています。でも、この前の日曜日に亡くなりました」
チャイ「ほんと? 若かったですよね。いくつでしたか」
寺田「44歳です。1月に心臓の手術をして、成功したと聞いていたのですが。本当に急なことだったので、僕も信じられません」
チャイ「チリの世界ジュニアのときに、ハッタさんから頼まれて、色々と写真を撮りました。いい人でした」

 八田さんもチリに行っていましたから、現地で一緒に仕事をしたのでしょう。意外なところで故人の頑張りを聞くことができて、ちょっと嬉しかったです。こうして書いているとまた…。いけませんね。これからゴールデンガラの取材なのに。


ユーロ取材2004 8日目
◆7月3日(土)
 昨晩のローマGL、残念なことに福士加代子選手と朝原宣治選手は欠場でした。福士選手は今朝のスタートリストの時点で名前がなく、スペインの高地練習に行ったとの情報がありました。朝原選手の欠場は、スタートラインに選手たちがついて初めて知りました。後で為末大選手に確認したところ、太腿内側の違和感があり、アップを始めてスパイクを履くかどうか、というタイミングで決断したようです。症状は違和感といえる微妙なもの。「いいのに崩れた、崩れたけどいい」という表現を為末選手はしました。アテネ五輪を控えていることと、ローザンヌを走るための決断。
 この写真のようにレーンが1つ、ぽっかり空いてしまいました。ゴールデンリーグの100 mAレースです。“もったいない”と考えるのが普通ですが、そういった状況で冷静な判断をしたのが朝原選手のすごさだと為末選手は言います。
「キャロライン(代理人)が頑張ってレーンを取ることができた大会。出ないといけないと判断してしまうでしょう。僕だったら出ていたかもしれない。それくらいの微妙な違和感です。普通の選手だったら気づかずに走って、バーンと(大けがに)なっていたかもしれません。朝原さんのクレバーなところでしょう」
 為末選手岩水嘉孝選手の障害日本記録保持者コンビに関しては、記事を書く予定です(問題は、ローザンヌ前にアップできるかどうか。今日から2日間安ホテルに泊まりますので)。400 mHのタッチダウンは計測しやすかったです。日本の大会のように、フィールドに観客の視線をさえぎるものがないですから。夜の試合だから可能になるのだと思いますが。困ったのは3000mSCの1000m毎。水濠がトラックの内側にある競技場で、日本で一般的な1000mが第2コーナー、2000mが水濠のあたりというわけではありません。光電管らしきものもありませんし。それでも、先頭走者が通過するとランニングタイマーが止まるので、それでラインを特定して岩水選手も計測。ただ、1000mは2m間隔で2本のラインがあり、瞬時にどちらと特定はできません。いつものように10分の1秒単位での公開はせず、1秒単位で掲載することにします。
 日本選手の登場が遅い時間だったこともあり、それまではそこそこ、競技もじっくりと見ることができました。観戦記も書きたいのですが、印象に残っているの男子110 mHのジョンソンと劉翔の同着、男子1500mのエルゲルージと女子400 mのゲバラの連勝が止まったこと。その後に行われた男子400 mHでもサンチェスの連勝が止まるかなあ、と期待したのですが、為末選手はヨーロッパに来てからの練習ができていなかったため、勝負できる状態ではありませんでした。
 ローマGLは競技開始が19:20からと遅く、最後の棒高跳が終了したのは23:30。シャトルバスの時間に間に合わず、タクシーもなかなかつかまらず、結局、バスでバチカンまで出て、そこでタクシーを拾いました。ホテルに着いたのは1:00近かったでしょうか。メールもできずにダウンしてしまい、朝の5:30から仕事。ただ今、7:30。
 今日明日のホテルは予約してありません。どこに行くかさえ、決めていない状況です。足の向くまま、気の向くままの2日間。一応、3つの案があります。
 1つめは2年前にいいなあと感じたスイスの湖畔の街に行く。街の名前も覚えていないのですが、チューリヒのちょっと南でした。だいたいのあたりをつけておいて、あとは車窓から見た風景がきれいなところで下車する。観光地化されていないけど、おとぎ話に出てくるような、湖畔の小さな綺麗な街。ホテルも飛び込みで、ネットはできないけど、それが日常生活から離れることにもなります。でも、原稿は書きますよ。そういうときの方が筆が進むことが多いのです。
 2つめはナポリ。ローマから2時間南に行った距離です。ローザンヌへの移動を考えると、ちょっとやっかいなのですが、明後日1日かければできないこともない。逆に、スイスへの移動だと、今日の夕方までかかってしまいます。
 3つめは2時間北に行ったフィレンツェ。歴史的には、ここが一番、興味があります。さて、朝食を食べながら時刻表を見て考えましょう。


ユーロ取材2004 9日目
◆7月4日(日)
 日曜日の朝は、ナポリで迎えました。日暮里ではありません。
 昨日の朝食中にナポリ行きを決意。一番行きたかったのは、スイスの湖畔の小さな街ですけど、移動に丸一日を費やしてしまいますので到着は夜。電車の窓から風景を見て、泊まる街を決めるのは厳しいかな、と判断しました。それに、ナポリは1500mイタリア記録(3分32秒78)保持者のディ・ナポリゆかりの地……かどうかは、知りません。でも、彼のスペルはDi Napoliです。手元の地図で「ナポリ湾」は golfo di Napoli。自信はありませんが、「ナポリの」「ナポリ出身の」という意味ではないでしょうか。フランス語のde、ドイツ語のvonと一緒で。
 ちなみに、di Napoliのスペルは、ゴールデンガラ(ローマGL)で配られた資料で確認しました。3分32秒78は1990年の記録で世界歴代ではもう70位。報道資料で世界歴代リスト、当年リストも配られますが、その2つでは見つけられません。しかし、出場選手全員のバイオグラフィーが配られますが、その男女の間に実施種目の各種記録(世界記録・ヨーロッパ記録など出場選手の属する地域記録・出場選手の国のナショナルレコードなど)が記載されていて、それで確認できたのです。
 この手のスタティスティクス的なデータに関しては、ローマは1・2を争うくらいに充実しています。報道申請やホテル申請の連絡なんかはいい加減ですけど。今回のホテルも、プレス用のホテルに行ったら「名前がない。近くの大会本部ホテルに行ってくれ」と言われて、10分ほど歩いて本部に行くと、「じゃあ、こっちのホテルに行ってくれ。1泊110ユーロだけどいいよね」と、元のホテルの近くのホテルに。ツイン1泊250ユーロの部屋に泊まれたのはいいですけど、夜中の10時にたらい回しはなあ。まあ、そのくらい覚悟の上ですけど、女性記者の方には進められません。面倒くさくてもコンファメーションをこちらから取る必要があるでしょう。
 ナポリのホテルは昨日着いてすぐ、飛び込みで駅の近くを数件回りました。ナポリ駅にホテル紹介オフィスもありましたが、ガラス張りの近代的な雰囲気で、そこだけ場違いなくらい高級感があり、どうみても民間会社。手数料が高いと判断して、自力でトライすることに。ガイドブックによると海岸線オーシャンビューのホテルは、3つ星クラスでも最低100ユーロはします。対照的に、駅の近くの2つ星なら50ユーロ前後。ちょっと悩みましたが、明日の出発が7:30と早いこともあって、駅の近くにしました。
 駅前広場の周りはまさにホテル街。よりどりみどりですが、外観は「大丈夫か」と思える建物ばかり。2年前にツールーズ(仏)で同様に飛び込みで探したときは、どのホテルも値段が外に表示してありましたが、ナポリはありません。2つほど、ひどすぎないホテルに行ってみましたが、1つは65ユーロ。もう1つは45ユーロでしたが部屋に電話がないとのこと。
 結局、「地球の歩き方」に出ていたホテルGALLOに。写真を見ると室内に電話がありますし、10%割引特典があるので57ユーロ。もうちょっと節約しようと思いましたが、仕方ありません。部屋は古いですけどまずまずの広さ。電話は壁にこんな感じで接続されいました。壁をくりぬいて、最近(といっても20年くらい前か)の器具が埋め込んであります。と思ったら、ゴロッと外に取れてしまいました。寺田が壊したわけじゃないですよ。2日間はメールをしないで日本との連絡を絶ち、オリンピック展望原稿に集中しようと思っていたのですが、まあいいでしょう。結果的に1つ、重要な連絡がありましたし。
 洗濯をした後、少し仕事をして、18時に外出。サンタルチアの海岸まで歩いていきましたが、これが大失敗。1時間もかかってしまいました。普段はヨーロッパの街は小さいとなめてかかっているのですが、ナポリの中央駅からサンタルチアまでは4kmはあったのです。最初に地図の縮尺を確認しなかったのが失敗の原因。まあ、ペースを抑えめに歩き出したので、ダメージは少なかったです。
 海岸からの風景は、さすがナポリ。ちょっと靄がかかっていて、写真ではこんな感じですが、肉眼ではもうちょっと綺麗に見えます。19:30から20:30頃まで、オーシャンビューのカフェで、カフェラッテを飲みながら原稿書き。その後、海岸から1本奥に入った通りのレストラン街に。ここで、ベアトリスと出会うことになったのでした。
 つづく……のか。


◆7月4日(日)その2
 ナポリはまさに絶景。好きになりました。坂が多い点も、雰囲気を出しています。逆に閉口したのは道を渡るのが命懸けなこと。車の量の割りに横断歩道が少なくて、地元の人は車の波をかきわけてスイスイと渡っていきますが、とても真似はできません。
 今日は午前中いっぱいはホテルで仕事。ほぼ12:00に部屋を出発。昨日徒歩で移動して懲りたので、今日は地下鉄の駅に。1日乗車券を購入しました。今日は絶対にタクシーを使わないぞ、という意思表示でもありました。というのは昨晩、サンタルチア通りのレストランからタクシーでホテルまで帰ったら、ものの見事にぼられたのです。メーターはユーロ弱なのに運転手は「テン」……意思表示をする相手もいないのですけど、自分へ言い聞かせる意味で。
 イタリアのタクシー代はそんなに高いわけではありません。でも、ローマでもこんなことがありました。寺田がザグレブから陸路、テルミニ駅に到着したのが21:40頃。ホテルまでタクシーで行くしかないのですが(詳しくなればバスも利用できそうですけど)、タクシー乗り場の手前で必ず、運転手の何人かが声をかけてきます。
「○○ホテルはかなり遠いから30(ユーロ)でどうだ?」
 実は2年前も同じように夜に着いてこの手の客引きタクシーを利用して、帰りにホテルからメーター料金で払ったら少し安かった経験があります。
「30は高すぎる」
「だったら25でどうだ?」
 ホテルまでの距離や、料金の目安があるわけではなかったのですが、「それでも高い」と言って立ち去ろうとすると、今度は別の運転手が「俺は20でOKだ」と言い寄ってきます。正直、それならいいかな、とも思いましたが、とにかく一度、メーター料金で行きたかったのです。
「その金額だったら、同僚に車で迎えに来てもらうよ」
 と携帯電話で電話をする振りをしていったん遠くに立ち去り、しばらくして正規のタクシー乗り場に移動。メーター料金でホテルまで行ったところ、8.90ユーロでした(チップ込みで10ユーロ払いましたが)。ローマの客引きタクシーには気をつけましょう。
 ローマではさらに、ホテルから駅に向かったときのタクシーに、遠回りをされたようなのです。一方通行とかあったのかもしれませんが、13ユーロかかりました。最短経路は外国人観光客はわかりっこないですからね。その点、ナポリのタクシーは最短距離で行ったのは確かです。自分が1時間かけて歩いたみ道ですから。でも、メーター料金より4ユーロも多くぼられたわけです。イタリアのタクシーは大っ嫌いになりました。それでも、高い都市に比べたら安いのですが。

 話をナポリに戻しましょう。地下鉄で4つめの駅に移動して(距離にすると7kmくらい)、そこからケーブルカーで丘の上に移動。1日乗車券は地下鉄、4つあるケーブルカー、バスと全部乗れて2.5ユーロ。バスも地名を覚えれば使えますね。時間は読めないですけど。昨晩も帰る際、サンタルチア通りのバス停で中央駅の名前を探したのが失敗でした。バス停の名前は駅前広場であるガリバルディ広場だったのです。バス停にいる人に英語で聞いてもわかってくれなかったし。
 ケーブルカーで上りきった駅の周辺をちょっと歩いて、一番いい景色が冒頭でも紹介したこれ。ちょっとアップにするとこんな感じ。正直、写真では表し切れませんね。まさに大パノラマといった感じで、レンズに入る角度で切り取るのは不可能。ちょっと靄がかかっていたのが残念ですが、「ナポリを見ずしてなんとか」という諺があるのも肯けます。
 でも、勘違いしないでください。寺田は観光に来たわけではないのです。原稿の書けるカフェを探しに外出したのです。どうせ書くのなら、景色のいいところで書こう、そうすれば書くスピードも上がるだろうと。
 でも、思ったよりカフェがありません。それに日曜日だったためか、ほとんどが店を閉めています。どうやら、メジャーな観光地化しているのは、別のケーブルカーで上れる丘の方だったみたいですね。写真の絶景が見られる場所も、観光地というより高級住宅地。困りました。
 ところが、信岡沙希重選手と一緒で日頃の行いがいいのでしょう。少し歩くと、展望用の小さな広場みたいなところがあって、ベンチがあるではないですか。しかも、道を挟んで大きなマンションがありますし、大きな木もあって日陰になっています。どこから見ても、「ここで原稿を書いてください」と言っているシチュエーションです。さっそくパソコンと資料をベンチに広げ、15時から20時半まで原稿を書きました。途中、2度ほど中断して散歩をしましたけど。

 あたりが薄暗くなってからケーブルカーで海岸まで降り、バス停でサンタルチア通りの表示のある140系統バスに乗り込みました。「簡単、簡単」と思っていたのが失敗で、逆方向に乗ってしまいました。乗った場所自体それなりに西の方でしたから、すぐに引き返すと思っていったら行けども行けども西進します。20分ほど行ったところで降りて乗り換えました。幸い、反対方向のバスが5分と経たずに来てくれたのです。約40分のロスが響き、昨晩と同じサンタルチア通りのレストランに着いたのは22:10くらい。そこが、ベアトリスのいる店でした。
 昨晩はそのレストランに何気なく入ると、20歳代後半の気っぷのいい美人のお姉さんが、たどたどしいですけど英語で面倒を見てくれました。髪を後ろで束ね、白人ですけど肌の色がちょっと浅黒くて、太ってもいません。イタリアでたまに見かけるタイプです。気っ風がいいというか、押しが強いというか。選手でいったらそうですね、○○選手が昨年の国体の時に高校生に接していたような感じです。これだけでは何もわからないと思いますけど。
 イタリア料理のメニューは勉強していなかったので、そのお姉さんに任せることに。というか、先方から「メニューにはないけど、今日はこれがいいよ」と薦めてくれたのです。その料理の写真がこれ。実は麺の種類とか、貝の種類とか名前がわからないのですが(寺田が食べ物の素材の名称に弱いのは一部では有名)、魚介類のなんとかですね。魚は日本では見慣れない種類でしたが、以前、マルセイユ(南仏)の特集をやっていたテレビ番組で見た魚と似ていたので、地中海ではメジャーな魚のでしょう。
 サラダも一緒に頼みました。「大きいと食べきれないから、小さなお皿でね」と。トマトとキャベツみたいな野菜の組み合わせで、オリーブオイル系のドレッシングと、塩のマッチし具合が最高によかったです。麺のほうもまずまず。
 ちなみに、これが今日の昼、ケーブルカーに乗る前に食べた魚介類のリゾット(食べ物を写真で出すとISHIRO!サイトみたいですね)。最初の数口はおいしかったのですが、これはちょっと塩味がきつかった。ごはんも、一度炊いていないのか、硬くて芯がある感じでしたし。
 昨晩、食後にコーヒーをお願いしたら、「コーヒーはない。レモンのなんとかかんとがあるけど、それでいい?」と言われたので、レモネードかレモンティーだと思って「いいですよ」と答えると、レモンのお酒でした。それもかなり強い。原稿が心配だったので、半分飲んで、半分は持っていた紙ナプキンに染み込ませました。「これは私のおごりだから」と言って出してくれたので、残したらいけないと思ったのです。でも、本当に強かったです。「ナポリにはいつまでいるの?」と聞かれたので、明後日の朝までだというと「明日も来てね。ピッツァも食べなきゃ」と言われて昨晩は別れました。じゃなくて、店を出ました。22ユーロくらいでしたが、釣り銭の中からチップをユーロくらい渡したかも。たぶん、チップの過去最高額でしょう。
 ということで、今日も同じ店に。カモられてる観光客の典型かもしれないと思いつつも、足が向いてしまいました。昨晩はギターの生演奏がありました。2曲ほどでしたが、お決まりのナポリ民謡ではなく、最近の曲のようです。でも、アメリカ的ではなくてヨーロッパ調、メロディーラインは覚えやすくてよかったです。でも、着くのが遅かったせいか、あるいは日曜日で客数が少なかったせいか、今晩はなし。もしかしたら、演奏者は店から出演料をもらっているのでなく、お客さんのおひねりだけなのかもしれません。レストラン街で何軒か回っていたようですし。
 今日は約束通り、ベアトリスにピザを注文。種類はお任せにしたところ、昨晩は魚介だったことを考えてくれたのか、今晩はキノコのトッピングでした。昨日も今日も単に、食材が余っているものを出されたのかもしれませんけど。遠回りするタクシーじゃないですけど、観光客にその辺はわかりません。ピザは直径約25cmくらい。半分しか食べられませんでした。ちなみに、タバスコや胡椒の類は付いてきません。食後にコーヒーを注文すると、今日はエスプレッソが出てきました。昨晩、コーヒーがなくてお酒がサービスで出てきたのは、今日、もう一度来させるための作戦だったのでしょうか。昨晩は最後に握手まであったけど、今日はなかったし。釣った魚に餌はやらないってやつかなあ。でも、いいや。タクシーと違って悪い気にはなりませんでした。男って単純な生き物ですね。ナポリの景色と雰囲気に酔ったせいでしょう。
 レストランを出たのは23時過ぎ。バス停に行くと5分ほどで、ガリバルディ広場行きのバスが来ました。


ユーロ取材2004 10日目
◆7月5日(月)
 ナポリの雰囲気に酔ってしまった2日間でしたが、原稿もちゃんと書きましたよ。オリンピック展望雑誌の記事を何種目か。長めの方から先に書いているので、種目数にするとまだ4分の1ですけど、感覚的には半分は終わっています。それに、4種目は帰国後に取材をしてから書くことになっているので、まあ、あれですね。ただ、編集作業的な部分もある作業なので、甘く見るとやばいでしょう。それに、陸マガの追加原稿の方もあって、そちらを今晩と帰りの飛行機の中で頑張らないといけません。
 ナポリの雰囲気に酔ってはいましたが、頭は冷静でした(ホントか)。昨晩のバスで駅前広場であるガリバルディ広場に向かっているとき、あることが閃光のようにひらめきました(選考ではありません)。謎が解けたと言った方がいいでしょう。実はローマGLで取材受付をした際、赤いポロシャツを記念品として受け取りました。さすがイタリア、真っ赤なのか、くらいにしか思っていませんでしたが、ナポリに着いてよく見ると、ポロシャツに使われる生地ですが長袖なのです。イタリアではそれもよくあることなのかなと思いましたが、これは「赤シャツ隊」の歴史にちなんだ一品なのかな、と閃いたのが昨夜のバスの中でした。
 19世紀のイタリア統一の際、軍事面で功績があったのがガリバルディで、彼が編成・指揮して活躍した義勇軍が赤シャツ隊です。八田さんが生きていたら「また、うんちく?」と言われそうですが、一応、史学科出身ですからね。だったら、もっと早く気付けって? でも、絶対にそうだとは言えないので、来年もローマに取材をしに来たら、確認します。タクシーには気をつけて。
 この日記はナポリからミラノに向かう電車の中で書いています。ミラノで乗り換えてローザンヌへ。今、フィレンツェに着きましたが、約50分の遅れ。ミラノの乗り換えは1時間10分の余裕があるのですが、心配だなあ。無事、今日中にローザンヌに着けるのでしょうか。


ユーロ取材2004 11日目
◆7月6日(火)
 昨晩、無事にローザンヌ着。遅れていたイタリアの列車も、最後は少しペースアップして、30分遅れにとどめてくれたので、乗り換えも楽でした。ただ、ナポリ−ミラノ間のESは(たぶん)全席指定タイプで、満席状態。一応テーブルはあるのですが、4人が2人ずつ向かい合わせに座るタイプの座席だったの、能率がよくありません。ちょっと眠かったですし。
 ミラノからローザンヌまでは自由席(指定を取ると座席番号の横に紙のタグが貼られる)タイプのICで、乗車率50%以下。隣の席に資料を広げて能率アップ。でも、ここから景色が良くなるんですよ。イタリア北部の湖水地方、そしてスイスと。でも、後半は頑張ってそこそこ、筆が進みました。
 19時にローザンヌ着。2年ぶりですね。一応、ツーリストインフォメーションで地図をもらおうと行ったのですが、19時でクローズ。まあ、主だった施設の位置関係は把握しているし、土地勘もありますので、駅からレマン湖方面に歩き出しました。間もなく、この写真のように坂道の向こうに湖面が見え始め、雰囲気が盛り上がってきます。
 そして今回は、プレス用の古城ホテルが取れました。01年・02年と来たときは独自に安めのホテル(といっても1万円以上はしたと思います)を取ったので、古城ホテルに憧れていたんですよ。今回は大会料金ということで1泊90スイスフラン……と思ったら130スイスフラン。1万2000円弱ですから、前回のレイクビューホテルよりも安いかも。
 しかし、部屋の中はこんな感じで普通です。強いて言えば、電気スタンドの装飾が凝っていたり、壁に城の歴史を物語る絵が飾ってあったり(3点)。廊下や階段も、普通とは言いませんが、見たことのある範囲でした。
 今朝起きて窓の外を見ると、雨がやんだばかりでまだ曇っています。昨晩は雷も鳴っていました。窓から見るレマン湖はこんな感じ。なかなか快晴の、晴れ渡ったもとでの景色は見られません。朝食にレストランに行くと、そこはなかなか豪華。写真はさすがに撮っていませんが、食堂に通じる控えの間というか、幅の広い廊下のような部屋があって、天井には大きなシャンデリアも。
 夕食用にパンと果物を持ち帰って、また仕事です。昼前に大会本部ホテルに行って受け付けをして、昼食を挟んで打ち合わせが1つ。午後はホテルの自室に戻って原稿書き。夕方からヨーロッパ出張最後の取材です。


ユーロ取材2004 12日目
◆7月7日(水)
 昨晩のローザンヌ・アスレティッシマは、やや肌寒いコンディション。そのなかで男子110 mH、400 mHで今季世界最高為末大選手もシーズンベストをマークしました。対照的に岩水嘉孝選手は、坐骨神経痛と特定できたわけではありませんが、それらしい痛みが出たとのこと。ちょっと心配ですが、狙った試合に合わせられるのが彼の長所。そこに期待したいと思います。この日の午前中にお会いした安永コーチも「プレッシャーをどんどんかけてください」とも話していましたし。
 取材が終わったのが23:30頃で、ホテルに戻ったのが0時近く。ヨーロッパ時間の場合、日本と違って1:30まで仕事をするのが限界です。今朝、6時に起きて約2時間で、70行原稿を1本仕上げました。プロットは昨日のうちにほぼ、できていましたから、ネタをこれまでのいくつかの取材から拾ってきて、1つの流れにする作業でした。
 ところが、いざ原稿を送信しようとしたら、ネットに接続できません。昨日までと同じ設定でトライしているのですが…。どうやら、チェックアウトの日は、外線発信をできなくしてしまうホテルのようです。大ピンチですが、この日記がアップされていたら、フロントとの交渉が成功したということです。
 そして、ヨーロッパからの最後の更新になります。


◆7月8日(木)
 無事に帰国しました。ローザンヌのホテルでもフロントにお願いしたら、簡単に回線を接続できるようにしてくれました。もうちょっと滞在したい気持ちもありましたが(いつものことですが)、古城ホテルを後にしました。古城と言えば古城健選手は今、どうしているのでしょう。インカレなどで活躍したデカスリートです。筑波大混成ブロック出身のISHIRO記者が、下級生のときの上級生といったところでしょうか。それを、昨晩の取材時に聞こうとしていて、忘れていました。
 今回の取材は忘れ物も多かったですね。ラドクリフの初マラソン時の写真を出発前日にプリントアウトしたのに、荷物に入れるのを忘れてしまいました。02年のロンドン・マラソン取材時に撮影した、レース翌日の共同フォトセッションのときのもので、夫のゲーリーとのツーショットや、ロンドン塔をバックにユニオンジャック(英国国旗)を持ったものなど。
 ゲーツヘッドのミックスドゾーンで写真を渡して、アテネ五輪は1万mとマラソンのどちらに出るのか、質問しようと思っていました。極東の島国から来た記者が、写真を渡して質問したら、まさか適当にごまかしたりしないだろう、という計算です。実際はレース数日前に「両方出る」と公式にコメントして、そのニュースを現地入りした後に見たので、突撃取材の必要はなくなったのですが。「マラソンにまず出て、その後の1万mにも出る」というニュアンスのようです。
 もう1つ忘れていたのが、面識のあるエージェントのマーク・ウェットモア氏に「寺田と間接的にキスをした女子選手が誰か」、という質問。ローマGLの取材に行くときに乗ったシャトルバスで、ウェットモア氏がバスに乗ってくると、寺田の2列前の椅子に座っていた女子選手とキスをしていました(もちろんほっぺたですよ)。直後に寺田と目があったので、こちらから投げキッス(海外で1人で行動すると、性格を変えられます)。
「僕が間に入って彼女とキスをしたね」
 と言って笑っていました。ところが、肝心の彼女が誰なのか、顔を見ただけではわかりません。バスを降りた後に聞こうと思っていたら機会がありませんでした。国内のマラソンでもどこでも、本当にいつも会う代理人なので、ローザンヌでも会うだろうと思っていたら、今回に限って会えなかったのです。
 ゲーツヘッドのホテルには洗濯物を吊す…なんて言うんでしょうか。洗濯物下げとでも書いておきますが、それを忘れて、後からチェックアウトした折山さんにザグレブで届けてもらいました。プラハではタクシーに「中欧」のガイドブックを忘れ、同じガイドブックに記載されているザグレブではちょっと、影響が出ました。
 でも、このくらいの忘れ物は海外取材には付き物。その程度で慌てていたら、やっていられません。それよりも今回の取材では、ボールペンを1本もなくしませんでした。これまでの海外取材では必ず、1本や2本なくしていました。海外だとどうしても、国内と違って荷物が多くなりますし、取材も盗難などに気を使って、身につけるものが多くなりますから。
 どうやら、ボールペンをなくさない行動が自動化されたようです。これは進歩、でしょうか。


◆7月9日(金)
 据え膳食わぬは男の恥――という諺があります。その局面に、ヨーロッパからの帰国の際に直面しました。
 7日の13:30にジュネーブ発、ロンドン経由で帰国するルートでしたが、ジュネーブで40分間も英国航空のカウンターに並んだあげく、ロンドンまではスイス航空便に振り替えられるアクシデント。それはどうでもいいのですが、何が痛いかと言えばロンドン→成田のチェックイン(座席指定)ができなかったことです。ロンドンでの乗り換え時間は1時間20分ほど。ここで座席指定をしたのでは、通路側の席はまず取れません。なんとしても、ジュネーブで取りたかったのです。
 実際、ヒースロー空港でのチェックインで通路側は取れませんでした。腰への負担を考えると、これは本当に痛い。あとは、隣の席が空いて、資料を広げることができるのを祈るばかりでした。
 ところが、搭乗ゲートでチケットを渡すと、英国航空のお姉さんがコンピュータの画面を叩いて、何かチェックしています。なんと、通路側に座席変更。そのちょっと前に、日本人団体のツアコン兄ちゃんがしきりに要望を出していたので、たぶん、団体で席を1カ所にまとめることにでもなったのでしょう。通路側ということだけでなく、なんと、隣の座席も空いているではないですか。搭乗率はおおよそ95%くらい。なんという幸運! 往きの便も隣が空いていましたからね。これはもう、信岡沙希重選手の静岡国際ではありませんが、「普段の行いの違いでしょう」としか言いようがありません。
 ロンドンを発つと間もなく夕食。機内食の常ですが、必ずデザートが付いています。JALの国際便は乗ったことがないのでわかりませんが、英国航空などヨーロッパ人の趣向に合わせた会社では、とっても甘いデザートが出ます。これまでの寺田は、出された機内食は必ず食べてきました。甘過ぎるものが体に良くないとわかっていても、食べていたんですね。今回も、とってもこってり甘そうなクリームが乗った……何かよくわかりませんが、とにかく甘そうでした。
 食べ残すかどうか、本当に迷いました。で、結局、残すことにしましたが、膳に乗せられて目の前に出されると、食べないといけない気持ちになります。これが冒頭で紹介した「据え膳食わぬは男の恥」という諺の由来。えっ、間違ってるって? そんなわけないでしょう。これが、文字通りの据え膳だと思いますけど。
 機内では隣の席に資料を置いて、原稿を書きました。もちろん、末續選手の記事もです。末續書かぬは男の恥……。


◆7月10日(土)
 今月はナポリに行って、日暮里を通って戻ってきて、今日は札幌です。
 16:30から札幌プリンスホテルで明日の南部記念の記者会見。出席したのは、この5人で、全員が日本選手権の結果でオリンピック代表に決まっている選手たちです。すぐに「あれ?」と思いました。そうです。五輪最終選考会(会見場の横断幕にも記載されていました)なのに、選考が終わっている選手ばかり。明日の結果で代表になれるかどうか、というポジションの選手が呼ばれていませんでした。昨年も、直前に日本新を出した内藤真人選手が呼ばれませんでした。
 確かに、選手にとっては大一番を前にしているわけですけど、そんなことを言ったら、マラソンの五輪選考レースの前に記者会見ができなくなってしまいます。他の記者たちからも、「原稿が書けない」との不満が出ていました。明日の焦点はやはり、110 mHであり、女子走幅跳であり、男子400 mでしょう。あと男女の5000mや女子100 mも。もちろん、南部さん(走幅跳元世界記録保持者、三段跳五輪金メダル)を記念した大会ですから、男子走幅跳と三段跳の追加代表も期待したいところです。この2種目は代表決定済み選手がA標準を跳んでいますから、今大会でA標準を跳べば追加される可能性が大きいですからね。
 会見後、デイリー・ヨミウリのケネス記者と一緒に原稿を書いていたら、田野中輔選手の名前が“たすく”と読むことを知って(彼は漢字が読めるアメリカ人)、「面白いね。タスク(tusk)は英語では象の牙だよ。外国の試合に出たら受けるよ」と話していました。こういう面白い話題もあるんですけどね、110 mHには。
 でも、ちょっと待ってください。南部のメインは最終選考会という考えは間違っているかも。寺田の持論は、一般種目の日本選手権重視の選考方法は、マラソンと比べたら合理的なシステムという考え。この条件をクリアすれば、自動的に代表になれるとわかっている選手本位のシステム(室伏・末續クラスの選手や、標準記録が1人しか突破できない種目の選手が故障で出られなかった場合も考慮されています)。その条件をクリアできない選手は、それほどレベルが高いわけではないので、キャスティングボードを陸連が握っても致し方ない、と書いたことがあります(陸上競技としての枠がある限り、どこかで誰かが、当落を決めなければいけないわけです。枠の廃止を主張するのはありですね)。
 つまり、南部記念の選考会という部分は、大したことじゃないんですね。だから、記者会見にも、選考の当落線上に位置する選手たちが呼ばれなかったと。むしろ、本番で好成績が期待できる選手たちの壮行会的な意味合いの強い競技会という考え方。それもあると思います。うん、きっとそうなのでしょう。


◆7月11日(日)
 海道で部記念を取材。ホテルは札幌市内ですがかなり東の方の東札幌駅近くでしたから、地下鉄の東西線を使って円山公園まで行きました。
 会場に着くと最初に合った某社広報の方から、ヨーロッパ取材の記事のことを話題にしていただきました。その後も某トレーナーさんや記者の方、一部選手など、数人の方から同じように話題にしていただきました。ありがたいことです。当然、八田さん(故八田正宏陸マガ前編集長)のことも話題になります。帰国後、最初の試合取材ですから予想はしていましたが、まだ辛いものがありますね。
 寺田の辛さなどどうでもいいのですが、選手の場合、今回のように五輪選考がかかっていると、結果が即、選手にとって命運を大きくわけます。そういった選手にどう質問したらいいか、未だに“絶対にこれ”という方法は発見できていません。選手個々のキャラがありますから当然と言えば当然ですが。
 辛さの度合いを計測することはできませんが、今日の結果でまず“辛かっただろう”と思い当たるのが400 mの田端健児選手です。日大の後輩に当たる向井裕紀弘選手と4×400 mRの4番目、5番目のメンバーを争いましたが(日本選手権は向井選手が4位、田端選手が5位)、何の因果かその2人が隣り合わせのレーン。360m付近で2人の手が接触。田端選手があっという間もなく瞬時にバランスを崩して転倒。110 mHでの接触転倒や、4×400 mRでのバトンの接触落下は何回か見たことがありますが、400 mでこういうケースは初めてです。
「直線でトップとわかったので落ち着いて走っていました。ちょうど左腕が上がったタイミングで接触して、柔道の技をかけられたときのようにスコーンと(腕振りのあるべき軌道・力を入れるべき場所が)なくなって、転倒していました」(田端選手)
 今回のアクシデントは不可抗力。どちらかが、レーンをはみ出して走ったわけではないので、再レースなどの救済措置もとれません。今日は田端選手が転倒しましたが、ちょっとタイミングが違っていたら逆に、向井選手が転んでいたでしょう。だからこそ、田端選手はやりきれない気持ちだと推測されます。
 ご存じのように田端選手は、オリンピックに大きな借りがあります。アトランタ五輪は4×400 mRの予選だけ走って準決勝・決勝は補欠でした。4×100 mRでバトンミスがあって、伊東浩司選手が4×400 mRに準決勝から出場して、日本が5位入賞に入賞したのをスタンドから見ていたのです。4年後のシドニー五輪は準決勝で同学年、アトランタ五輪も一緒に走った小坂田淳選手がバトンを叩き落とされました(MTCミズノトラッククラブのインタビュー記事参照)。
 その2人が1週間前、南部記念の会場となる円山競技場で数日間、一緒に合宿したと小坂田選手が教えてくれました。450mでは田端選手に圧倒されたそうです(イコール、試合でもそうなるとは言い切れませんが)。
 レース後、両ヒザに手を付いてうなだれる田端選手の両肩に、小坂田選手が両手を置いていました。スタンドから見ていたので、なんと言葉をかけたのかはわかりません。きっと、言葉は要らなかったでしょう。
 田端選手以外にも辛かっただろうと思える選手は多くいました。
 女子走幅跳の池田久美子選手、男子110 mHの谷川聡・田野中輔両選手は、オリンピックで決勝・準決勝で戦えるレベルでしたから、その気持ちは想像に難くありません。最後まで望みを捨てずに頑張った女子100 m・坂上香織選手や、5000m・小崎まり選手も。
 男子100 mの安井章泰選手と男子5000mの瀬戸智弘選手は、日本グランプリ・シリーズでは初めての優勝。偶然ですが、2人とも高岡寿成選手の後輩になりますね。コメントを聞けていない選手も多いのですですけど、記事にできそうな雰囲気が寺田の中にはあります。書く時間があるといいのですが。


◆7月12日(月)
 今日は14時から、都内某所の増田明美さんの事務所でインタビュー取材。忙しい中を時間を作っていただきました。相変わらず、切れ味鋭いトークでしたし、話の展開が理路整然としているので、原稿に起こすのは楽そう。問題は指定の行数以内に収まるかどうか。おっと、それをするのがライターの仕事です。
 14:40に終了。タクシーで岸記念体育会館へ。スーパー陸上の記者発表と、アテネ五輪追加代表選手の発表があったのです。渋谷駅近辺が渋滞していて、ちょっと焦りましたが、滑り込みセーフ(実際に滑り込んではいません、念のため)。
 スーパー陸上は2カ月以上も先の試合です。オリンピックの結果で出場交渉をする選手も出てくるでしょうから、今回は具体的な選手名は出さないだろうと思っていたら、交渉中の選手を公表してくれました。しかも、ドレクスラーとババコワの美人ジャンパー2人の引退試合だというではありませんか。ここまで情報を提供してくれるとは思いませんでした。関係者の大会を盛り上げようという意気込みが伝わってきます。司会も豊田綾乃アナ(TBS)でしたし。陸上記者の間でも「豊田ファン」と言っている人は多いですからね。トヨタ車ファン……じゃないと、思いますけど。
 TBSで思い出しました。ヨーロッパ取材中、ローザンヌでは同社の坂井ディレクターと一緒になりましたが、坂井ディレクターの100 mが10秒5台だったと、そのとき初めて知りました。400 m選手だった印象が強いですからね。「陸上記者最速でしょう」と本人は言っていましたが、朝日新聞の石沢隆夫さんが手動で10秒1(当時の日本記録)で走っています。でも、現役記者では間違いなく最速、かな。その辺はともかく、ローザンヌで八田さんの訃報を伝えると、本当に信じられないという様子で、「記事を書いてもらったんですよ……」という反応。この類の反応は相当に多いですね。
 追加選手の発表会見後、ミズノ3選手が19:30から会見する通知があり、だったらWSTFに戻らず記者クラブで仕事をした方がいいと判断。今日取材した増田さんのコメントと、某テレビ番組雑誌増刊の女子マラソンと1万mの展望記事を書き上げたかったのですが、さすがに全部は終わりません。締め切りは……まあ、考えないことにしましょう。この辺が、ヨーロッパ出張前に身につけた“どんと構える部分”です。いい加減になっただけ、という意見もありますが、それは判断の仕方によって左右される部分でしょうか。
 MTC3選手の会見は、いい雰囲気でした。実は、日本選手権後の代表決定でミズノ勢はゼロ。末續・室伏広治両選手は昨年の世界選手権で内定していましたからね。ミズノ関係者はかなり、やきもきしたはずです。シドニー五輪の6人より1人減ってしまいましたが、一チームの代表人数としてはもちろん最多です。
 谷川聡選手は陸上競技男子の最年長(朝原選手も同学年です)。女子の弘山晴美選手の方が年齢は上ですけど、キャプテンは谷川選手になるのでしょうか。そういった役目を、プレッシャーを感じずにこなせそうなタイプです。兄妹出場ということで室伏由佳選手への質問、写真撮影依頼が殺到しましたが、寺田的には110 mHコンビの写真も欲しいと思って木水広報に依頼。いい表情の絵柄を撮影することができました。
 取材終了後、プリンス近藤とミズノ・長谷川順子マネジャーのやりとりから、長谷川さんのニックネームが決まりました。公表は、またの機会に(実現しない可能性も)。


◆7月13日(火)
 昨日はケネス記者(デイリーヨミウリ)も記者クラブで、寺田の目の前で記事を書いていました。彼の質問への寺田の答えは、どうしても長くなりがち。単純に「こうだ」と答えればいいのですが、どうしても詳しい事情を説明してしまいます。彼が立ち去るときお礼を言ってくれたので、「こちらこそ長い説明でご免」と謝っておきました。
 謝るだけで終わればいいのに、また、説明してしまいます。
「記者の人たちはいつも、わかりやすさを心掛けているけど、実際の事象がわかりやすいことばかりとは限らない。何でも図式化して単純化するのが、真実を伝えることにはならないのじゃないか。正確に説明しようとしたら、長くなるのもやむなし。でも、紙のメディアは文字数に限りがある……」
 と、自説の披瀝というよりも、いつもの愚痴になっていましたね。
 ところで、この時期、必ず聞かれるのが「今度のオリンピックで一番注目している選手は誰ですか(種目は何ですか)」という質問。こちらが、陸上専門記者と知っているからこそ聞いているのでしょうが、ここではっきり言っておきましょう。それは専門記者にする質問ではありません。なぜなら、陸上競技の五輪種目は「46」。1人の選手、あるいは種目に絞るなんてことが、どうやったらできるのでしょう。
 寺田は事前に“この1人(この1種目)に注目しよう”なんて思ったことは一度もありません。だから、その手の質問を受けると、男子100 mから十種競技まで、そして女子100 mから七種競技まで、コンピュータが検索をするように、頭の中で順番に全種目をチェックします。そして1人を選ばず、複数選手を選ぶ。この視点だったらこの選手(種目)、別の視点だったらこっちの選手(種目)と。1人に絞るのは絶対に、陸上競技の楽しみ方とは言えませんね。
 テレビで「今度のオリンピックで一番注目している選手は誰ですか」と聞かれて、即答しているライターとかがいたら、間違いなく陸上競技専門ではないでしょう。きっと、スポーツ全般のライター。わかりやすい説明を、短くコメントするはずです。


◆7月14日(水)
 昨晩は帰国後初めて帰宅。でも、自宅で朝の7時まで仕事。せっかく札幌で時差調整をしたのに、元のヨーロッパ時間に戻ってしまいました。ヨーロッパに行ったのも大きな原因ですが、この時期にオリンピック展望ものの締め切りが重なっています。2回目くらいのピークですね。3回目があるかどうかはわかりませんが。
 暑かったこともあって、10:30に目が覚め、エアコンを入れてもう一度寝て、起きると14時。さすがに疲れていたのでしょう。いつもの“思いもかけず睡眠時間を確保”というやつです。やっべー、とすぐに連絡(段取り)を始めました。
 夕方、WSTFに移動。急ぎの仕事をしてから、八田さん(故八田正宏陸上競技マガジン前編集長)のご自宅へお邪魔しました。お線香をあげて、ご両親といろいろ話をさせていただきました。
 ちょうど葬儀社から写真ができあがってきたところで、出席できなかった葬儀の様子を聞くことができました。ご家族の方がつらいのだからと涙はこらえていましたが、ある選手が葬儀に列席したことを聞かされると、一気にこみ上げてきました。なんとか、落涙するのだけはこらえましたが、自分でも瞼にたまっているのがはっきり自覚できたほど。涙もろいのは土江寛裕選手だけではなかったのだと、初めて知りました。
 その土江選手をはじめ、八田さんへの弔意を書いている陸上競技関係者のWEBサイトを、プリントアウトして渡してきました。
 かなり遅い時間にお邪魔してしまったのですが、その後、池袋の編集プロダクションに移動して、オリンピック展望雑誌の校正作業。データを膨大に掲載するのが特徴の雑誌ですが、一応、データは7月2日のローマGLまでとしていました。でも、寺田の判断で男子100 mや400 mHなど、6日のローザンヌの成績もいくつか差し替え掲載することに。
 全米選手権はグリーン・クラスの大物選手が落選したときだけ、差し替える予定でした。グリーンは大丈夫でしたが、マリオン・ジョーンズが落選。これは、差し替えなければいけないでしょう。しかし、結局、400 mHや棒高跳なども変更。打ち合わせをした編集プロダクションでなく、版元(出版社)の校正担当者の意向です。結局、負担はこちらに来るわけで、まあ、ありがちな話ですけど。
 編プロとの打ち合わせでは、男子マラソンを1ページにした時点で、本文では日本選手について触れない(カコミで触れています)ことになったのですが、これも版元の意向で、本文で日本選手に触れることに。版元が差し替え原稿を用意していたのですが、これがどこから用意してきたのか、でたらめな内容。結局、これも寺田が、当たり障りのない内容に書き直しました。
 0:15から始めて4:15に終了。この校正作業、昨日だったか一昨日に急に入った仕事です。正直言って、この4時間+移動時間は大きく響きそうです。
 WSTFに戻って、ただ今午前6:43。
 今日明日で大作原稿を3本、書かないと。どう考えても無理ですね。
 リンク依頼の処理などが、ヨーロッパ取材前からかなりたまっています。もうしばらくお待ちください。


◆7月19日(月)
 ずっと続いた締め切りラッシュも、今日で一段落。ただ今20日の朝3:36。ファミレスで日記を書いています。
◇7月15日(木)
 昨晩は朝まで池袋の編集プロダクションで校正作業をして、4:33発の山手線始発で新宿まで移動。WSTFに5時過ぎに戻って、6時半くらいまで仕事。昼頃まで寝て(けっこう休んでいるはずです)、夕方までなにをやっていたんでしょう。よく覚えていません。
 夕方に今日締め切りの原稿の雑誌編集者と打ち合わせ。これまで取材し貯めたネタで書く原稿ですが、色々と考えた結果、追加取材を電話で1本することに。なかなかつかまらなかったのですが、21時過ぎに連絡が取れて、22時頃から3時で一気に書き上げました。推敲・手直し作業に約1時間半。朝5時就寝。
◇7月16日(金) その1
「8時ちょうどの、あずさ2号でえー、私はあなたから、旅立ちます」……と思ったのですが(狩人の「あずさ2号」って歌、ご存じですよね)、今は8:00発はスーパーあずさ5号。しかも、大月は止まらないときたもんだ。大月で富士急に乗り換えて富士吉田で下車しないと、富士北麓公園陸上競技場に行けません。
 今日は、午前10時から陸連短距離の公開練習です。練習開始に間に合わせるには新宿7:30発のあずさ3号に乗らないといけません。昨晩の就寝が5時で、6:10に目覚ましが鳴ったとき「これは無理だ」と感じました。単に眠気に勝てなかった、という見方もあります。一番の仕事は追加代表の向井裕紀弘選手の話を聞くこと。練習終了までに着けばいいか、と判断して、睡眠時間を1時間半延長しました。
 あずさ何号か忘れましたが、車中で陸マガ8月号を見ていると、「スーパーあずさ 超特急に進化中」の見出しが。北信越インターハイで女子短距離4冠となった渡辺梓(あずさ)選手の見出しです。ページの担当者が誰か、すぐに予想が付きました。案の定、自称陸マガの坂口憲二こと、Y口くんです。
 しかし、渡辺選手は新潟県の選手。あずさは中央線の特急だから新潟には行かないだろう、と思ってよく読むと、今年の北信越大会は松本開催だったのですね。確かに、あずさが走っている場所です。
 富士北麓公園には11:30頃着。練習はまだ終わっていませんでした。よかったです。12時を過ぎてからでしたね、終了したのは。これは、練習から引き揚げてくる若手選手の写真です。
 午前中の練習には、末續選手が発熱で練習に参加していませんでした。今日は、五輪本番の出場個人種目を100 mにするか、200 mにするか、あるいは両方にするのか、発表があると予想されていました。練習終了直後にテレビ用の取材が、数選手と高野進コーチに行われました。新聞・雑誌の記者(通称ペン記者)は、脇で傍聴はできますが、質問を挟んだりできません。そこで高野コーチが話したのは、種目選択に関しては昼食後に改めて話すとのこと。本人の口から直接言わせたいのだと、感じられました。
 ペン用の取材は昼食後。14:30から専門誌用に向井選手の取材があり、15時から末續選手の共同会見です。予想通り、100 mを優先するという内容。話を聞いていて、高野コーチが本人の口から説明させたかった理由がわかりました。100 mというのは末續選手の個人的な憧れだったのです。それは、コーチが説明するより、選手本人の口から話した方が、状況がよく伝わること。詳細は、記事をご覧ください。
 末續選手の共同会見後は、他の短距離選手の共同取材。4×100 mR4選手と、4×400 mR4選手(伊藤友広選手が不参加)に2つのテーブルに別れてもらい、寺田は4×400 mRチームの方に。小坂田淳選手に関して、あることに気づきました。これは、時間ができたら記事にします。山口有希選手の面白いネタも仕入れましたが、これは結果が出たときに。どのくらいが“結果が出た”と言えるのかと言ったら、今の山口選手の場合は最低でも44秒台でしょうか。あるいは、オリンピックの決勝進出か。


◇7月16日(金) その2
 陸連短距離合宿の取材が終わったのが確か、16時前後。今日は17:30からトワイライトゲームスも行われます。代々木の織田フィールドですから、絶対に間に合いません。でも、「ビールを飲みながら陸上競技を見よう」という、斬新なコンセプトの最初の大会。箱根駅伝のスポンサーであるビール会社がスポンサーになって、観客には無料でビールが配られます。宣伝文句には箱根駅伝選手が出ることも強調されていました。要するに、箱根駅伝ファンにトラック&フィールドの面白さをわかってもらい、箱根駅伝だけでなく陸上競技のファンを増やそうという試み(と、寺田は解釈していますが)。
 そういえば、寺田が以前、日本選手権の宣伝コピーに、「箱根出身選手が世界を目指す」というニュアンスのものを使い、箱根駅伝ファンの足を競技場に向かわせようと本サイトに書いたら、お叱りのメールが来ました。良識派の人たちは頭が堅いというか、トラック&フィールドの方が駅伝より上に位置するという固定観念があるのだと感じました。その気持ちもわからないこともありませんが、プライドよりも陸上競技の底辺拡大の方が重要でしょう。
 現実にこうして、箱根駅伝ファンを取り込む試みが行われ始めました。日本インカレ直後ということで記録を狙うのは厳しいでしょう。それでも、勢いのある選手にとっては、記録を出す機会が増えますし、技術練習という位置づけもできます。一部に、反対意見も聞きましたが、悪い試みではないと思います。負担と感じる選手は、出なければいいだけですから。オリンピック選手が出るに越したことはありませんが、時期的に、負担をかけたらいけません。ちなみに、今回の男女最優秀選手はこの2人
 テレビ局が運営に大きく関わり、観客向けの演出もされていました。
 アナウンサーの方と植田先生(東海大跳躍コーチ)と苅部俊二コーチ(法大)がフィールドで、観客向けに解説をしています。延岡のゴールデンゲームズを見たことのある方には、宗兄弟の役目と言ったらわかるでしょうか。優勝者は女子アナの方からインタビューを受け、その声はもちろん観客も聞くことができる。
 トラックは一発決勝で、フィールド種目は4回試技。タイムテーブルを見たときには、3時間で全部の種目を行うにはフィールド種目の数が多すぎると感じましたが、参加選手数が少なく、4回試技でテンポよく進んでいました。これなら、複数のフィールド種目が同時進行してどれを見たらいいのかわからない、という状況は避けられていたかもしれません。トラックは同時に1種目しか進行しませんから、観客は何もしなくても集中できます。観客に見せるには、フィールド種目をいかに見せるかが重要だと思います。
 ただ、せっかくオリンピック選手が出てくれた男子やり投も女子砲丸投も、着地エリアに何もラインが引いてありません。80mラインとか18mラインだけでなく、何も引いてないのです。しかも、記録表示板が用意されていない。これは、致命的なミス。
 以前からフィールド種目は、その時点の各選手の記録が、ペグを刺すだけでなく、もうちょっと観客にわかるようにする必要があると思っていました。メーカーにとっても、そういった器具を開発すればビジネスになると思うのですが。
 あとは、競技場の構造上の問題ですが、フィニッシュ付近の客席から、ホームストレートがよく見えません。100 mの前半なんか、さっぱり。観客のための競技会、をコンセプトにしているのに、ちょっとお粗末でしたが、ヨーロッパのGPを見てきた直後なので、余計にそう感じてしまうのかも。先にも言ったようにコンセプトは素晴らしいと思いますから、今後の頑張り、工夫次第では発展する大会ではないでしょうか。
◇7月17日(土)
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◇7月18日(日)
 久しぶりに自宅で仕事。夜は、これも久しぶりに、自宅近くのファミレスで原稿書き。たぶん、5月以降では初めてでしょう。南部記念取材で時差調整をしたのですが、この1週間で再度、ヨーロッパ時間の生活に戻ってしまいました。


◆7月20日(火)
 アテネ断念宣言。といっても、マラソンの補欠選手の話ではなく、寺田自身のことです。残念ですが、現地に行って取材する可能性はほぼ、なくなりました。結局、取材パス(IDカード)が取れなかったのです。詳しくは説明しませんが、世界選手権などと違って@フリーランス A陸上競技しか取材しない Bおまけに能力がない 記者にオリンピックの取材パスは回ってこないということですね。
 このサイトのアテネからの記事を楽しみにされていた読者の皆さん。申し訳ありません。代わりに、何か企画を考えます。
 仕事仲間や一部の指導者・選手の間では、寺田も当然アテネ五輪に行くものと思われていた節もあります。今後、「どうして行かないの?」という質問を多く受けるでしょう。そういうときにこそ、精神面の強さが問われます。何回も質問されて面倒くさい、その質問は精神的にこたえる、などと逃げ回っていたら、その辺にいる“結果が良かったときだけ話をする選手”と同じになってしまいます。気持ちをしっかり持って、対処していきたいと思います。ちょっと、大げさですけど(かなり、大げさですね)。
 福島大・川本和久監督ではありませんが、「なんのこれしき」です。日本選手権で福島大勢がいまひとつの結果に終わったとき、この言葉を噛みしめたのだそうです(おやじの時々日記の6月6日参照)。アテネ行きが絶望となったとき、寺田もすぐにこの言葉を思い浮かべました。
 なんのこれしき。川本先生と一緒に、ピロシキ(ロシア料理)でも食べに行って、今後4年間の戦略でも練ろうかと思っています。
 ということで、日本にいて何ができるかを考えないといけません。営業もちょっと始めたところ。明日は早くも1つ、打ち合わせが入っています。


◆7月21日(水)
 昨日、今日と何人かの方にお会いしました。昼食を一緒に食べたのは昨日がS原さん、今日がO内さん。どちらかというと内輪に近い立場の方です。昼食後は2日間とも雑誌の編集者の方と打ち合わせ。昨日はちょっと先の話で、1つはオリンピック期間中の話。アテネ五輪取材は断念しましたが、早くも日本にいてできる仕事の話が来るのですから、やっりオリンピックは違います。
 S原さんは海外の記録収集のプロ。寺田なんかが自分の考えを話すのもおこがましいのですが、ヨーロッパのグランプリを見て感じたことを色々と話させていただきました。そうやって人と話すことによって、そのシーンがより鮮明に甦ったり、記憶として強く刻み込むこともできるような気がします。話を聞いてくれる相手がいるということは、幸せなことですね。
 S原さんとお会いした帰路、思い出したのがローザンヌのことです。寺田もいくつかグランプリを観戦しましたが、ローザンヌの雰囲気がかなり気に入っています。ローザンヌはフランス語圏ですから、基本的にはラテン系の乗り(熱く応援してくれます)なのですが、イタリア・スペイン・フランスとは、ちょっと違うのです。少し品があるような感じとでも言えるでしょうか。スイスということが関係している気もしますが、何故なのかははっきりわかりません。人づてに聞いた話ですけど、為末大選手も一番のお気に入りとか。理由が寺田と同じかどうかはわかりませんが。
 女性たちにも、ナポリで寺田をカモにしたベアトリスとはちょっと違って、恥じらいみたいなものも感じます。記録を配ってくれた補助員の女子高生たちとか、3年前にホテルを紹介してくれたツーリスト・インフォメーションの女性とか。今年は、こんなこともありました。
 大会当日の午前中に本部ホテルに行って報道受付をしたときのことです。寺田の名前を探してくれているのですが、なかなか見つかりません。他の日本人記者たちと違う場所にあったからだったのですが、やっと見つけた時の反応が「Mr. Terada. Track & Field Magazine. Great!!」でした。この台詞だけだとアメリカ人のようですが、その口調がどこか違うんですよね。「Great!!」というのは間投詞・感動詞的な言葉ですが、寺田が「not so great」と余計なひと言。普通だったら、「わけのわからない東洋人が変なこと言っている」という気持ちを隠して、ちょっと微笑む程度の反応でしょう。ところが、「Why, not so great?」と聞き返してくれました。その問い返しかたがまた、なんとも品がある。一応、お互いにジョークを言っているのはわかっている話し方で……ダメですね、上手く説明できない。映像があれば一番、伝えやすいんですけどね。


◆8月1日(日)
 富士北麓公園陸上競技場で、スプリントチャレンジカップIN山梨の取材。
 アテネ五輪前最後の調整試合ということで有力選手が多く出場し、ネタもかなり仕入れることができました。
 10日間ほど日記をサボってしまいましたが、ミズノ壮行会、全国小学生交流大会と、じっくり書きたいネタがあったのです。それを書こう、書こうと思いながらも時間がまったくとれず、日付だけが進んでしまいました。仕方ないので“駆け足日記”にして、詳細は時間ができたときに紹介することにします。

◇7月22日(木)
 今日は何カ月ぶりかのオフ。カフェに行って本でも読もうかと思っていましたが、ほとんど寝ていました。夜になって少し仕事の電話も。
 明日から5日連続取材。締め切りもあります。一転して、猫の手モードになりそう。

◇7月23日(金)
 15時からミズノトラッククラブの壮行会取材。その前後に5選手の共同会見もあり、その後に追加代表となった3選手の個別取材もありました。
 この時期になると関係者の間で「アテネ出発はいつ?」という会話がかわされるのが定番。必然的に、寺田がアテネ五輪取材に行けないことも話題になります。自分でも意外でしたが、涙がこぼれそうになったシーンがありました。詳しくは、時間ができたら。

◇7月24日(土)
 全国小学生交流大会を取材。この大会は単に選手を集めて競技会を行うだけでなく、色々と研修もあります。そのうちの1つに、夕食後の講演がありました。演者は土江寛裕選手。このときの様子も、時間ができたら詳しく書きたいのですが…。ちょっと感動しました。

◇7月25日(日)
 午前中に取材。10時からの末續慎吾選手の公開練習には間に合いませんでした。残念。

◇7月26日(月)
 13時から国近友昭選手の共同会見。キャラの違う瀬古監督と国近選手の師弟への期待が膨らみました。今日から締め切りも続きます。

◇7月27日(火)
 昼からカメラマンも兼ねて取材。夜は締め切り。

◇7月28日(水)
 前日締め切りの原稿が終わらず、今日までずれ込んでしまいました。
 いくつか、連絡なども忘れてしまっています。しかし、寺田にとってこれは、仕事ぶりが良くなってきたということ。忘れるくらいの連絡など、重要度は低いわけで、これまではそういったレベルの仕事まで気にして自分を追い込んでいました。今の寺田よりもいい加減な仕事ぶりの人間はごまんといます。
 その人の元の仕事ぶりがどうかが問題ですが、細かいことを気にしすぎるタイプの人間は、いい加減になる覚悟で仕事をするのも一計かと。

◇7月29日(木)
 超大作原稿の締切ですが、書き終わらず。
 担当編集者の方の尽力(気遣い? それとも計算?)で締め切りが明日に伸びました。

◇7月30日(金)
 超大作原稿が夜中までかかってしまいました。手直しなどにも時間がかかりましたし。しかし、出来は自分としてはまあまあ。出来というよりも、ここまで書けたということ自体に達成感があります。これまでの取材で蓄積してきたネタや、感じてきたことを書き込むことができたと思っています。
 具体的に言ってしまうと、陸マガ次号のアテネ五輪日本選手の展望原稿。自分の達成感よりも、読者の評価が重要ですけど。

◇7月31日(土)
 今日も締め切り。朝の4時までかかって3本書きました。


◆8月2日(月)
 午前中に原稿を1本書き、遅めの昼食後に昨晩録画したTBSのグランプリ・シリーズを見ました。今年は寺田も現地に行っていた試合も多かったわけですが、日本人選手のコメントを取るために見逃していた種目もありましたし、それでなくとも、スタンドの記者席から見えることと、TVカメラでとらえる映像は大きく違いますから、「あのシーンは、こんなだったのか」と、思うこともしばしば。これは、国内の試合でも一緒なのですが。陸マガの次号にオリンピック全種目優勝者予想を書かないといけないのですが、かなり参考になりました。
 日本人選手のVTRも勉強になりました。特に為末大選手のVTRは参考になりましたね。取材するとっかかりになりそうな点に1つ、気づいたのです。でも、肝心の為末選手が結果を出すであろう、オリンピックの場にいることはできません。その辺がちょっと辛いところ。
 などと感慨にふけっていたらインターハイのテレビ放映開始時間が過ぎていることに気づきませんでした。16時から1時間枠でしたが、最後の20分間だけ録画しました。電話をかけたり、かかってきたりしていたので、ビデオはまだ見ていません。
 昨晩から予想していたことではあるのですが、夕方の段取りの結果、急きょ出張に。ただ今、国内某所のホテルです。いきなりの出張ということは、いきなり仕事が入ったということですし、それ以外にも追加の仕事が。ただでさえ、今週は締め切りが続くスケジュールだったので、かなりタイトになりました。
 しかし、なぜか心地よい緊張感があるのです。追加の仕事が、男子1500m関係ということもあります。五輪種目では最古の日本記録だった石井隆士さんの記録を、27年ぶりに小林史和選手が更新しました。これは頑張らないといけない“時”です。
 その他、五輪直前ならではの仕事もあります。それに加えて、アテネに行けないのですから、今、頑張らなくていつ頑張るのか、という心境。土曜日まで、本当にきついスケジュールですが、今の集中力を持続できれば乗り切れそう。昨日のスプリントチャレンジカップIN山梨の記事も書けちゃったりして……それは無理か。


◆8月3日(火)
 7:30から成田空港に。もちろん、小林史和選手の凱旋帰国を取材するためです。昨日の時点では誰の取材か明かせませんでしたが、今は書いても大丈夫……ということは、ライバル誌も取材に来ていて、隠す必要がなくなったということ。わかってらっしゃる方も多いとは思いますが、ここは個人的な日記とはいえ、何でもかんでも書けるってわけではありません。
 取材は順調。オリンピック種目最古の日本記録を更新した――そのことだけでも、色々と聞くことはあるのですが、それがなくとも、面白い話のできる選手なのでしょう(ギャグという意味ではありません)。自分のことを観察する目が鋭くて、突っ込んだ考えを持っているからだと思うのですが。
 13時にはWSTFに戻りました。構想は昨晩、別の原稿を書く最中にできていたのですが、移動の車中とWSTFで15時までに原稿を書きました。
 その後、陸マガ次号別冊付録用にアテネ五輪の優勝者を予想。担当編集者の“真夏の夜の秋山”次長に、「優勝者を予想するだけでは、どのくらいの自信を持って予想をしているかわからないので、“優勝確率”のパーセンテージも書いていいか」と質問したら、ダメとのこと。かといって、優勝者予想の解説もできないし。実は、男子ハンマー投は……おっと、このネタは雑誌の発売後にしないと。
 この予想がけっこう時間がかかりました。その作業最中に、急な取材依頼があって、予想作業終了後に電話で高橋尚子選手について話をしました。寺田への電話取材で、この手の依頼はオリンピック前はときどきあります。Qちゃんの今後進む道を予想するという企画でしたが、個人的な希望も話をさせてもらいました。けっこう面白い話をしたつもりです。その“面白さ”が、どこまで通じているか。週刊現代と言っていました。発売はいつなのでしょうか。
 その後はこなさないといけない雑用も多く、なかなか原稿に取りかかれません。わずか20行だったのですが…。今日明日中に200行規模の原稿を3本書かないといけませんし。1カ月前の7月3日は、ローマからナポリに列車の旅をしていました。原稿を抱えていましたから、優雅に「ローマの休日」とは行きませんでしたが、ちょっと懐かしいです。オードリー・ヘップバーンの「ローマの休日」の次の主演作は「麗しのサブリナ」。そうそう。今日はインターハイのテレビ中継もしっかり見ました。男子100 mの優勝者は……。


◆8月4日(水)
 インターハイの男子棒高跳で川口直哉選手(磐田南高)が優勝。今大会の静岡県勢としては優勝者第一号です。静岡県出身(袋井です)の寺田としてはひと安心です。実は昨日、次のようなメールをいただきました。
IH2日目を終えて、静岡県勢男子の入賞がゼロ。
女子では入賞者がわずかに一人。
男女の4継では1チームが決勝に残ったのみ。
うーん・・・。
静岡出身の寺田さんはこの現象をどうとらえますか?
日記へどうぞ。

 2日目終了時点での過去最低成績ってことなのでしょうか。その辺の詳細な記録はわかりませんが、かつの陸上王国としては寂しい限り。でも、静岡の関係者の方には申し訳ありませんが、静岡が弱くても何も感じなくなっています。93年の宇都宮インターハイで、連続優勝が途切れたときは大ショックでしたし、その後もしばらくは王国復活を切に願っていましたが……なんでしょう。プロ野球で言うと、阪神ファンみたいな心境になってしまいました。勝利を願ってはいるけど、負けても仕方ないか、みたいな。
 あっ、93年以降も古田哲弘&村松寛久の頃の浜松商とか、昨年の静岡国体のように、頑張った年もあります。インターハイや国体では、復活気配のあった年もありますが、ひどいのはシニアの代表。オリンピックは96年のアトランタ(馬塚貴弘選手)を最後に、世界選手権は97年のアテネ(尾上三知也選手)を最後に、静岡県の高校出身の選手が世界選手権とオリンピック代表になっていません。釜山アジア大会代表もいませんね。98年のバンコク・アジア大会もいないんじゃないかな。眠くて正確に調べられません。
 凋落の原因はなんでしょうか。たぶん、中学生が全体的に弱くなっています。サッカーに人材が流れているのかもしれません。でも、高校にも問題があるような。
 以前は西部の浜松商・西遠女・浜松工、中部の橘、東部の富士見・富士宮北と陸上強豪校が多くあり(ちょっと昔は磐田南や日大三島)、進学校の浜松北・浜松西・沼津東などからも、それなりに選手が育っていました。進学校の方はまあ、あれですけど、強豪校の低迷が大きいですね。浜松商の山下昌彦先生、磐田北の鈴木吉之先生、西遠女の高田先生、富士見の花崎先生、橘の大塩先生といった優秀な指導者が現場から離れたのが凋落の一因でしょう。浜松商は山下先生の跡を継いだ杉井先生が頑張っていますが。長距離に力を入れる学校が増えても解決しません。
 解決策は社会的背景をどうこう論じるより、上記の先生たちの現場復帰。陸上競技は指導者個人の頑張りが大きい!(福島大を見よ!)


ここが最新です
◆8月10日(火)
 すいません。また1週間近く、日記をさぼっています。それにはもちろん、理由があります。単純に猫の手状態。つまり指が肉球のようになっている……わけないでしょう。要するに、取材と締め切りの連続。飛び込みの調べもの依頼なんかも、今日はありましたし。
 一応日記ですので、今日の出来事を。
 11時くらいまでに原稿を仕上げて送信。難しい内容ではないのですが、“気を遣う”類の原稿でした。その後、“電話かけまくり”タイムに。何本したでしょうか。3〜4本ほどかかってきた電話も。
 その後は15:30からの取材準備に。13時頃だったか、すごい勢いで雨が降り始めました。今日はカメラマンも兼ねての取材でしたが、その勢いで降り続いたら撮影はまず無理。と、思っていたら、WSTF(新宿の作業部屋です)を出発する際には天気は回復していました。こういうことがあると思い出すのが、信岡沙希重選手の静岡国際のときの「日頃の行いの違いでしょう」です。
 本気にする人はいないと思いますが、寺田も日頃の行いがいいのです。いい例が今日、ありました。ある女子選手の取材でしたが、応接室でのインタビューが終わると、その選手がドアを開けて寺田を先に通してくれようとしてくれました。その選手の会社での取材でしたから、一応こちらがお客さんとなるわけで、そう考えると普通のことです。
 しかし、です。アテネ行きのなくなった寺田は最近、妙にパリ(昨年の世界選手権)が懐かしくてしょうがないのです。
「こちらがお客さんですが、パリでは女性より先に出たり入ったりしてはいけないんですよ」と言って、その女子選手に先に出てもらった次第。これって、日頃の“いい”行いにならないでしょうか。
 取材終了後、陸マガ編集部に。今月は12日発売ですから今日が配本日。皆さんより一足早く9月号をゲットしました。表紙は女子4×100 mR優勝の埼玉栄アンカーの高橋萌木子(ももこ)選手。別冊付録が「アテネオリンピック陸上競技完全ガイド」。いやー、どっちにも頑張って書かせていただきました。写真も何点か撮っていますね。具体的な内容については、明日か明後日にでも。
 今晩もWSTFに泊まりで原稿書き。もしかしたら明後日からに変更される可能性もありますが、明日の夕方から2泊3日で出張予定。それまでに、200行原稿を1本仕上げないと。


◇8月5日(木)
 インターハイは男子5000mがすごかったですね。モグス選手が1500mに続いて2冠を達成し、2位の佐藤悠基選手が13分45秒23の高校歴代2位。4位にも佐藤秀和選手が13分47秒65の高校歴代4位で続きました。従来の高校歴代1〜3位は全て、10〜11月に出た記録でしたから、夏場に出たという点が評価されますね。佐藤悠基選手は歴代3位だった佐藤清治選手の13分47秒8を破る、“佐久長聖高”最高記録であり、“佐藤姓”高校最高記録でもあったわけです。
 朝の4時までかかって30行原稿6本セットを書き上げました。


◇8月6日(金)
 2時間睡眠で富士北麓公園へ。短距離・ハードル五輪チームの国内最後の公開練習日です。記事は陸マガ9月号に書きますので、そちらをご覧ください。
 今日のネタは、土江寛裕選手が日本選手団男子最年長選手と判明したことです。同じグラウンドに2学年上の朝原宣治、谷川聡両選手がいましたが、独身では土江選手が最年長だなと、ある記者が気づいたのでした。同学年の室伏広治選手を4カ月抑えての堂々の最年長。だからなんだというわけではりませんし、何が意味があるのかと聞かれれば、意味はないと思いますが。
 土江選手といえば、7月24日の全国小学生の際の講演が印象的でした。最初は、司会の方が末續選手の名前を出したこともあって、ちびっ子たちが「末續選手が来ているのか」と、辺りをぐるぐると見回し始めました。最初の方は小学生たちの集中の仕方が散漫になっていたのです。それを徐々に、ちびっ子たちの興味を惹き付けていった話の仕方、ネタの面白さには正直、感動すら覚えました。退場する際には小学生たちが集まってきて、なかなか帰してもらえないほどの人気ぶり。末續選手も真っ青といったところ。
 話の内容も、寺田が聞いても“そうだったのか”と思えるほど、専門的な部分もありました。そういった部分まで、小学生にも興味が持てるように話せてしまう土江選手。将来、陸上競技の普及に役立つ人材ではないかと思いました。
 でも、それは将来の話。まずは、目の前のアテネで結果を出すことが土江選手の仕事です。そして今回は、寺田がアテネに行けませんので、4年後の北京でも頑張ってもらうということにしましょう。冬期練習中の取材で、今年は引退をかけて走る云々と話していたような気もしますが、いざ、引退しようかという状況になっても、体が動けば「まだ、できるじゃん」という気になるもの。日本選手団最年長の弘山晴美選手が、いい例です。


◇8月7日(土)
 昨日は原稿を即日仕上げ。2時間睡眠で、かなり頑張りの要る仕事だったので、さすがに早めにダウン。その前に、石井隆士先生に電話をして、日本記録を27年ぶりに破られたことに関するコメントをいただきました。かなり濃密に話していただいたので、陸マガ次号に掲載するだけでなく、今後の取材にも活用できそうです。
 今日は成田空港で取材した小林史和選手のコメントをまとめました。
 21:30にはWSTFから自宅に移動。何日ぶりだろう。


◇8月8日(日)
 えーと、久しぶりの休日です。昼間は本当に久しぶりに、高校野球をじっくり見ました。いやあ、野球もよく見ると面白いですね。“能動的に見る”という表現をさせてもらいます。どういう意味かというと、陸マガ9月号の別冊付録にも書いたことなのですが、スポーツは受け身で見ているうちは本当の面白さがわからないということです。自分で考えながら見るのです。
 ピッチャーの投球をしばらく見ていて、配球を考えるのは……みんな、やっているかもしれません。今日、気づいたのは野球の練習方法について。バットの素振りは、某投てき選手が話していたあの練習法、イメージもってやれば有効じゃないかとか(素振りのときのイメージの仕方で、かなり差が出てきそうな気がするのですが)。バッティング練習の量をMAXでやり尽くしたら、次はこんな方法があるんじゃないか、とか。試合のこの局面で監督が選手にかける言葉は、こんな内容で、こんなトーンの話し方がいいんじゃないのか、とか。これまで、取材で見聞きしたものが結構、応用できる気がしました。一応、中学の時は野球部でしたし。もちろん、自分の考えが正しいと思っているわけではありませんが、休日ということで、そういったどんどんイメージが湧いてくる、いい精神状態だったのでしょう。
 23時から仕事モードに復帰。


◇8月9日(月)
 午前中、某タイ選手じゃなくて、某米選手じゃなくて、日本人選手の取材。できれば、別の200行原稿を早めに片づけ、今日取材した原稿に取りかかりたかったのですが、午後はいろいろいろと忙しくて、なかなか原稿が進みません。新宿の作業部屋に、BSアンテナなんぞもつけたりして。やっぱり、オリンピック観戦にはBS放送を見ないことにはダメでしょう。
 8月4日の日記に書いた、静岡の凋落ネタに反響3通。全て、静岡県関係者からでした。1人は静岡県出身カメラマン、1人は現役高校生。1人は元インターハイ優勝者からでした。立場が違いますから感じ方もそれぞれでしたが、共通していたのは強い静岡が復活すること。結局、今インターハイは男子110 mHと棒高跳の2種目に静岡勢が勝ちましたが、入賞者数はどの人も少ないと受け取ったようです(正確な統計資料はありませんが)。



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