続・寺田的陸上日記     昔の日記はこちらから
2005年4月 ワンダー・エイプリル
寺田的陸上競技WEBトップ

最新の日記へはここをクリック

◆3月14日(月)
 今日は陸マガ4月号の発売日。表紙は、恒例のアスリート・オブ・ザ・イヤー・ジャパン(AOYJ)受賞選手。今年は室伏広治選手でした。2位の野口みずき選手とはAOYJ史上初の、総合得点が同点という珍事(1位得票で1人の差)。五輪金メダリスト2人誕生というシーズンにふさわしい結果だったかもしれません。
 寺田も投票させていただきました。編集部から投票依頼用紙が届いたのが12月22日。その日の日記にも書いたように、WSTF(新宿の作業部屋)に届いたタイミングと、寺田が留守にしたタイミングが合ってしまい、投票(これはEメール)が翌日になってしまいました。その結果、例年、一番乗りを果たしているAOYJの投票で、陸マガ編集部のY口君に後れをとり、2番になってしまったのです。痛恨の極みと言わずして、なんと言っていいのかわかりません。しかしY口君は人の数少ない楽しみを奪って、何か楽しいのだろうか?
 だいたい、投票依頼をその場で受け取れる編集部員と、郵送で受け取る外部スタッフでは、タイムラグが生じるのは当然です。というか、編集部員がその気になれば、絶対に負けないシステムになっている。外部スタッフで一番、ということで十分に価値があると思います。

 トップ10は以下のような顔触れとなりました。
1位 室伏広治(ミズノ)
2位 野口みずき(グローバリー)
3位 油谷 繁(中国電力)
4位 土佐礼子(三井住友海上)
5位 渋井陽子(三井住友海上)
6位 沢野大地(ニシ・スポーツ)
7位 諏訪利成(日清食品)
8位 谷川 聡(ミズノ)
9位 坂本直子(天満屋)
10位 小林史和(NTN)


 寺田の投票とはかなり違います。それは、当然といえば当然。多数の人間の投票を集計すれば、平均的なものになるわけです。個人でランキングを作成すれば、個々の考え方が強く出ますが、投票ではそれが出ない。以前にも書いたように、種目が違う選手の優劣を決める明確な基準なんて、あるわけがありません。だから、投票という手法を用いるのです。

寺田が投票は以下の通りでした。
1位 室伏広治(ミズノ)
1位 野口みずき(グローバリー)
3位 油谷 繁(中国電力)
4位 沢野大地(ニシスポーツ)
5位 谷川 聡(ミズノ)
6位 森 千夏(スズキ)
7位 杉森美保(京セラ)
8位 中田有紀(栄クリニック)
9位 小林史和(NTN)
10位 小島初佳(ピップフジモト)

 どうしても、1・2位別にしないといけないときは、こっちの選手にしてほしいと書きました。が、室伏選手と野口選手のどちらと書いたのか、忘れてしまいましたけど。
 投票結果はほぼ、オリンピックの活躍度とイコールです。そこに、女子マラソン日本最高&世界歴代4位の渋井陽子選手が5位に入り、男子1500mで27年ぶり日本記録更新の小林史和選手が10位に入ったわけです。オリンピックの活躍度という尺度で、まとまっている結果だったといえます。

 その点寺田は、5位まではオリンピックでの活躍度で選んでいますが(同一種目で2番目の選手は避けています。なぜだと問われると困るのですが)、6位以下は別の尺度で選びました。森千夏選手は女子砲丸投で初めて18mを突破したこと、杉森美保選手は女子800 mで2分の壁に迫ったこと、中田有紀選手は七種競技で6000点突破に迫ったこと、プラス、この3人はそれぞれの種目で40年ぶりの五輪代表となったことを評価しました。小林史和選手は最古の日本記録更新、小島初佳選手は日本選手権女子100 mの7連勝を評価してのリストアップでした。
 このランク付けの背景はたぶん、寺田がオリンピック至上主義でないことでしょう。もちろん、オリンピックが選手たちの最大目標であり、競技レベルも高いのは承知しています。でも、オリンピックという1つの価値基準で陸上競技を見たら、面白くないと思うのです。レベルの低い種目でも、頑張っている選手がいれば感動します。
 繰り返しますが、色んな評価基準があると思いますので、自分の考えが絶対だと言うつもりは毛頭ありません。こんな見方もある、という参考になればと思っただけです。というか、投票結果と寺田の投票との違いを見て、楽しんでいただけたらそれでいいのです。こういった企画は。

 今日は、世界選手権マラソン代表の発表がありました。世間の注目度はオリンピックほどではありませんが、今回もそれなりに注目を集めました。オリンピックのマラソン代表選考に関しては、システムが現状に合っていないと、1年前の日記で何度も書きました。しかし世間は“誰を選ぶべきか”だけで議論百出状態でした。そういえば、選考レースの結果よりも人気が判断基準になっている世間の反応に、「選考レースでなく、投票で五輪代表を選べばいい」と言っていた人がいました。


◆3月15日(火)
 一昨日の山口→名古屋梯子取材を、山口インターハイと金子宗弘さんを軸に紹介したら、一般種目の話がメインになってしまいました(主人公が金子さんでしたから)。しかし、レースはあくまで長距離の2大会。当たり前ですが、長距離ネタもたくさんありました。
 まずは、沖電気の谷口浩美監督。13日(土)に名古屋国際女子マラソンの前日会見でお会いしたUFJ銀行・高橋監督、有森裕子さんと同じく日体大OB。このサイトの会見記事をご覧になったようで「名古屋じゃなかったんですか」と、声をかけてくれました。
 実業団ハーフでは2位の平良茜選手を筆頭に、沖電気の選手が2・7・15位に入り、女子団体優勝を飾りました。一時は自身が走ることに比べ、選手を走らせることの難しさを感じていたようですが、最近の結果で少しずつ手応えも感じているのではないでしょうか。
 久しぶりにお会いしたのが、富士通監督前監督だった佐藤信春氏。オールバックの髪型での登場(写真を紹介できればよかったのですが)。JAL・AGSの監督として、現場復帰されたのです(正確にいつからだったのか確認しませんでしたが)。それを祝福するかのように、河南耕二選手が10位入賞しました。
 もう1人、久しぶりに会ったのが、元駒大マネの中村君。箱根駅伝4連覇の1回目だったか2回目に、駒大の敏腕主務だった人物です。そういえば、中村君の実家は山口県のお寺だったと思い出しました。当時、駒大の主務は仏教学部の学生が続いたような記憶もあるのですが。しばらく会わないうちに、すっかり精悍になりました。そういえば、某女性ライターも中村ファンでしたね。

 名古屋国際女子マラソンのパーティー会場では、江田良子選手初マラソンの某選手、京セラ大森監督とサミーの森岡監督に話を聞くことができました。


◆4月1日(金)
 前回の日記が3月15日……半月ぶりですね。日記だけでなく、記事の掲載も少なくなって、どうしたんだ? というメールも2〜3来ています。確かに、この半月、取材は少なかったと思います。でも、ネタがないわけではないんです。ロシア語通訳の方からメールをいただいたりして、寺田の周囲に陸上競技のネタは尽きません(と言い切れるのって幸せなことですよね)。陸マガをやめて昨日でちょうど丸5年。仕事は陸上競技だけ、というスタンスは崩れていません(稼ぎは悲しくなるほど少ないですけど)。生活も陸上競技というか、仕事一色に染まっています。
 しかし、それが3月上旬から崩れているのです。仕事以外、つまり陸上競技以外のことにエネルギーを割いています。それで、このサイトに注ぐエネルギーも減っていたわけです。こう書くと、別のスポーツにも進出したのか、と思われそうですね。実際、「他のスポーツを取材しているのでは?」とか、「嫁さんとケンカしているのでは?」とか、「スポーツメーカーの4月のイベントの仕事をしているのでは?」などという噂もあるようです。

 他の競技を取材しないのか、という質問は、独立した頃によく受けました。陸上競技だけのライターなんて、専門誌専属という立場にならない限りは存在しません。フリーのスポーツライターといえば、複数の競技を取材するのが常識でした。そこを、陸上競技だけでやろうとしたところが、寺田らしいと言えば、らしいところ。
 他の競技を取材しないのか、と問われると「専門誌出身という特徴を活かしたいですから」とか、「プロ野球の選手が、サッカーのJリーグの試合に出場しますか?」などと言っていましたっけ。ある年輩のカメラマンから、説教くさく「他の競技の取材も役に立つよ」と言われて、「その話はしないことに決めています」と応じたときもありました。
 複数の競技に手を広げたら、どうしても取材対象を絞る必要があります。オリンピック選手や一部長距離選手だけを取材するような記者にはなりたくなかったというか、それでは専門誌出身の特徴が生かせないし、何より、トップ選手だけの取材では面白くありません。人と同じことをしたくなかった、と言えばカッコいいのですが、要は、陸上競技でもまだまだ勉強することがたくさんあるのに、複数の競技にまで手を広げる勇気がなかったのです。ですから、複数競技を取材できる人は本当に尊敬しています。

 ただ、他のスポーツに興味がないかといえば、最近はそうでもありません。以前に書いたかもしれませんが、他のスポーツを見て、この動きだったらこういう練習も考えられるな、とか、この指導者の意図していることはこれだな、とか、かなり積極的にイメージしています。陸上競技のトップ選手たちが他の競技に関する話をしてくれて、なるほど、と思って見ることもありますね。
 社会的にも、陸上競技だけのクラブは難しくても、総合スポーツクラブの一部として陸上競技が存在する。そういう可能性の方が高いと思います。総合型ならトレーニング設備や指導者・トレーナー・スタッフなどの人的資源も共有できます。陸上競技の指導者が、他の競技を指導することもあるでしょう。
 独立した頃は、意地になって「陸上競技以外の仕事はやらない」と言っていたところもあったかもしれません。結果的に、陸上競技に絞ったことで上手く行ったところもありますが、今は「他のスポーツも面白いな」と感じられるようになっています。少しは成長したのかもしれません。単なる変化だという見方もできますけど。

 3月上旬から陸上競技以外のことに時間をとられている状況ですが、無駄なことをしているわけでもないし、自分が成長できる状況なのかもしれません。いったい何が言いたいのか、よくわかりませんね。具体的に何をしているか書いていないからですが、抽象的な表現の方が、わかる人にはわかって面白い、ということが最近わかってきました(これも、なんのこっちゃ、ですね)。
 でも、陸上競技の仕事だけ、というスタンスは続けようと思います。杉林孝法選手や末續慎吾選手が、練習にボクシングを取り入れたことがありましたし、室伏広治選手は相撲部屋を見学したときに四股を踏みました。でも、ボクシングや相撲の試合に出たわけではありません(トップ選手と自分を一緒にするな、って)。

 少しは日記らしいことを書きましょう。今日は、電話取材を11人にしました。そのうちの1人が、川本先生だったわけですね(「ときどき日記」参照)。アポ取りのための電話を含めると、30本弱はかけたでしょうか。年度始めの忙しい日に、お時間をいただいてしまった皆さん、ありがとうございました。しかし、11人の話を聞くと、かなり濃密な一日になりますね。明日の夜には東京を離れますので、頑張る必要もありました。


◆4月2日(土)
 昨日からある記事のために一連の電話取材をしているのですが、今日も4本の電話取材をしました。携帯電話が普及したので、この手の電話取材が楽になりましたね。昨日と合わせて15本。月曜日にも5本前後はする予定なので、3日間で20本前後の電話取材をすることになります。10年前だったら絶対に、これほど短期間ではできなかったでしょう。
 ただ、かかる電話代は2倍どころじゃないでしょう。今回は陸マガ負担になりますが、安く上げるために極力、IP電話(インターネットを使った電話)からかけています。研究室でつかまえられる大学の先生は問題ないのですが、携帯に電話をした場合、050で始まるIP電話の番号が表示されてしまいます。そうすると、見慣れない番号という理由で出ない方も多いのです。そういう場合は2〜3回かければなんとなくわかりますから、自分の携帯から電話をして、相手が出たら事情を説明して、IP電話からかけ直しています。
 そういうケースがある一方、別の問題も生じてしまっています。最初からIP電話の番号でも出てくれた方の中には、寺田が携帯の番号を変えたと勘違いして、050で始まる番号を登録する方もるいようです。陸マガの山口編集者も、IP電話が携帯だと、しばらく勘違いしてかけていましたし。うーん、世の中、思うように行きませんね。

 電話取材で思い出したのですが、昨日、福島大の川本和久先生に電話をしたら、木田真有選手と久保倉里美選手の進路も決まったとのこと。陸マガ発売時期には公表してもいいということでしたが、この手の話はデリケートなことも多いので、ここでは控えておきます。
 2人とも福島で練習を続けますが、福島大“愛のトリオ”のなかでは、一足先に京セラに進路が決まっていた坂水千恵選手だけが福島を離れます。この3人の仲がいいことは知る人ぞしるところで、試合などではいつも一緒に行動しています。飲み物の自動販売機なんかに一緒に並んだりして。聞けば、寮(アパート?)も一緒とか。
 そのトリオも解散。きっと、感傷的な気持ちになっていることでしょう。と、こちらが勝手に想像して、久保倉選手と丹野麻美選手の取材で1月末に福島大にお邪魔した際、記念に3人の写真を、同行したカメラマンに撮ってもらいました。あくまで記念のつもりだったのですが、陸マガの秋山編集者が誌面に掲載してしまいましたね(3月号)。

 ちなみに“愛のトリオ”の命名は、03年にエコパ(静岡県袋井市)で行われた国体のときのエピソードに由来します。最終日に、愛野駅(エコパの最寄り駅)のホームで3人一緒にいるところに会って、それまでも、いつも一緒にいるなあと思っていたので、これはと思って名付けた次第です(誰も使っていませんけど)。去年、久保倉選手にそのトリオ名を言ったら、気に入ってくれたのかすぐに、他の2人にも話しに駆け寄って行きました。
 今日は電話取材の後、データ調べの仕事を一心不乱に進め、20:50にWSTF(新宿の作業部屋)を出て、袋井市にある実家に移動しました。


◆4月3日(日)
 朝の8:40に電話取材。その後はプライベートな用事をこなし、夕方には谷川聡選手に電話。本当は昨日かける予定でしたが、忘れていました(ご免なさい)。成迫健児選手が筑波大記録会の400 mに出るというので、その結果を早めに知りたかったのです。残念ながら46秒台中盤とのこと(その後、46秒76と判明しました)。肌寒さも影響したよう……って、45秒台とか表面的な数字にとらわれると残念だと思ってしまいますが、400 mH専門の選手がこの時期に46秒76ですから(自己ベストは昨年の46秒72)、めちゃくちゃ期待できますね。

 話は変わりますが、日記を書いていなかった間に、これは「へぇ」だな、と思ったネタがいくつかあったのですが、思い出せません。1つ思い出しました。3月23日にJISSで行われた男子長距離研修会の際に、あることが判明しました。中国電力の坂口泰監督と油谷繁選手が同じ携帯電話を持っていて、坂口監督によれば「救命病棟24時で松嶋菜々子が持っていたのと同じ」とのこと……すみません。トリビアでもなんでもないですね。

 そうそう、昨日も書いた1月末の福島大取材の際に、1つ「へぇ」がありました。実は福島にはスタバがないそうです(スターバックスはシアトル発祥のカフェのチェーン店)。寺田がちょうど、コーヒーミル(手動のアンティークなもの)を買った時期で、スタバの豆を挽いて飲み始めた頃だったのです。研究室にお邪魔したら坂水千恵選手がコーヒーを淹れてくれたので、豆はどこのものか質問したらドトールでした。寺田が図々しくも「うちではスタバの豆です」と言ったら、川本先生が「福島にスタバはない」と教えてくれたのです。
 ということで、2月の中野真実選手の取材の際にも、「香川にスタバはありますか」と質問(羽田空港第2ターミナルでの取材だったのですが、寺田はスタバで話を聞きたかったのに、秋山編集者の意向でイタ飯屋になった)。中野選手によれば、高松にはあるけど三豊・観音寺地区にはないとのこと。
 こうして、取材する毎に「○○にスタバはありますか」と質問し続ければ、日本全国スタバ地図が完成します。えっ、スタバのWEBサイトを見ればいい? それでは、ロマンがないでしょう。


◆4月4日(月)
 昨晩は袋井の実家から東京に戻り、新宿の作業部屋に泊まって、力の続く限りデータ調べの作業。

 昨日、スタバのことをあれこれ書きましたが、取材のときに無理やりスタバの話を出していると思われてしまったかもしれません。それを否定はしませんけど、陸上競技とスタバは関係が深いと以前から感じていました。最初にそう思ったのは、たぶん、2001年の箱根駅伝のときです。初めて取材バスに乗って、(5区以外は)沿道の人垣が本当にまったく途切れないことにビックリしましたが、もう1つ驚かされたのが、沿道のスタバ店舗の多さでした。
 その1カ月前(2000年12月)には初めて福岡国際マラソンの取材に行き、やはりスタバが多いなあ、と感じていましたし、時間の隔たりはありますが、昨年初めてシカゴに行ったとき(シカゴ・マラソンの取材です)にも感じました。広島では、中国電力本社の近くにありましたね。2回くらい、原稿を書いた記憶があります。
 シドニーで合宿中の瀬戸智弘選手も、スタバを愛用しているようです(無線LANができるらしいです)。
 しかし、迂闊なことにスタバ発祥のシアトルに行ったときは、人垣の中で佐々木一郎記者に電話して「ハイ、イチロー」と大声で話す計画に気を奪われて、スタバに意識が行っていませんでした(振り返る人がいたので計画は成功でした)。2001年のエドモントン世界選手権の際に、飛行機の乗り継ぎで空港だけの滞在だったんですけど。

 今日は、電話取材を数本。あとはひたすらデータ調べの作業。集中力は高く保てています。これだけ忙しいのに日記を書けていることも、その表れです。


◆4月5日(火)
 午前中に電話取材を3本。
 15:00からMTCのシーズンインを前にした記者会見。久しぶりに電話以外の取材でした。受け付けに行ったら、早くも“いいこと”がありました。それだけで「来た甲斐があった」と思ったほど。詳しくは書けないことですけど……いえいえ、書けることでした。受付でATHLETE'S ROAD vol.04をもらうことができたのです。ミズノが作っている16ページの小冊子で、スポーツ小売店などで無料で配布しています。A4のスキャナーよりも大きな判型なので、2枚になってしまいますが、表紙はこれこれです。
 内容は、MTCからアテネ五輪に出場した5人の選手を2ページずつ特集しています。“子供との触れ合い”“中・高校生へのメッセージ”がテーマのようです。
 まず、写真が良いですね。アテネ五輪の写真を1ページ全面にドカンと掲載し、もう一方のページに各選手のクリニックで子供と一緒のところ、表情のアップ、競技合間にふと見せた表情、そして小さい頃の写真を格好良いデザインで配置しています。キャッチコピーもイケていて、編集者とデザイナーのセンスの良さが、一目でわかります。
 小さい頃の写真はもちろん、スポーツをしているもの。室伏広治選手はサッカーボールを手にしたもの、末續慎吾選手は走幅跳の空中動作、室伏由佳選手はテニスラケットを手にしているところ、谷川聡選手は野球のピッチャーをしているところ、内藤真人選手は野球でバットを構えているところです。この小さい頃の写真がまた、可愛らしいものばかり(特に室伏由佳選手)。一見の価値あり、でしょう。
 本文は小さい頃から、“どのようにスポーツに取り組んできたか”を縦軸に、その選手なりのエピソードや考え方、今年の目標などが散りばめられています。Q&Aでは、いつもの記事には載らないようなコメントもあって、「そうだったのか」と思わされることも。これがタダなのですから、皆さんもスポーツ店に行かれて入手されることをお勧めします。

 会見の内容は……時間ができたら記事にもしたいのですが、ちょっと厳しそう。
 取材後は新宿の作業部屋にとって返して、電話取材。MTC会見の報告を、大阪のKデスクにメールでしました。“いいこと”の報告ですけど。


◆4月6日(水)
 昨日の記者会見では“いいこと”もありましたし、電話取材でも面白い話がたくさんありました。が、嫌なこともいくつかありました。続いて今日も、ストレスのかかることばかり。仕事にも関係していることで、なかなか難しい問題もあって、これだけ続くと、どうしてもネガティブな考えに陥ってしまいます。やっぱり、フリーでやっていくのは無理なのかな、とか。
 そういう気持ちから立て直すのにも、昨日の日記で紹介したATHLETE'S ROAD vol.04は役に立ちます。実際、読み返してみて、かなり前向きな気持ちになれました(完全ではありません)。昨日、今日の嫌なことも、自分を見つめ直すいい機会にはなりましたし、仕事の将来を考えるきっかけにはなりました、と思うことができました(仕事の基本的な問題点はずっと以前からわかっていることですが)。

 ということで、気分転換のためにも、日記をサボっていた3月後半から、楽しかった話題を紹介したいと思います。
 23日にJISSで行われた男子長距離研修会の帰り、赤羽から新宿まで瀬古さんと、電車をご一緒させていただきました。これは増田明美さんから教えていただいたのですが、瀬古さんが市民マラソンなどで挨拶するときに話す定番ネタがあります……が、これは書いたらダメですね。
 中村孝生コーチと金井豊さん(故人)の話になって、研修会で奥谷亘選手と話した直後だったこともあり、“長距離・群馬”の話になりました。というか、寺田が勝手に、「最近の群馬は長距離がすごい」という話をし始めたのです。
 昨年は、国定村出身の諏訪利成選手がアテネ五輪で入賞し、今年は奥谷選手と江田良子選手が世界選手権マラソン代表になりましたが、2人の所属する富士重工とヤマダ電機は群馬県が拠点です。花田勝彦氏を監督に迎え、上武大が長距離強化に力を入れ始めたのが昨年4月。今年の4月からは八木たまみさんの母校、関東学園大が小林雅幸選手を指導者として、女子駅伝の強化に乗り出します。高校でも、農大二高が全国高校駅伝で2位です。まさに、“長距離・群馬”なのです。

 群馬といえば、長距離よりも一般種目の印象が強い県です。短距離では農大二高出身の3選手(太田裕久・不破弘樹・宮田英明)が100 mで相次いで日本記録をマーク。不破選手と宮田選手は、高校時代に出しました。これは、すごいインパクトでしたね。100 mですから。110 mHでは岩崎利彦選手が日本人初の13秒台、400 mHでは斎藤嘉彦選手がこれも日本人初の48秒台。走高跳では阪本孝男選手が日本人初の2m30に成功し、十種競技では金子宗弘選手が今も日本記録保持者です。女子では走高跳で八木さんが初めて1m90をクリアし、400 mHの青井由美子選手は初めて60秒を切りました。走幅跳と七種競技で日本記録をマークしたのが磯貝美奈子選手で、走幅跳は初の6m50、七種競技は初の5500点越えでした。
 群馬の一般種目のすごさが、わかっていただけましたでしょうか。

 そういった一般種目優位の群馬にあって光っていたのが、エスビー食品の中村・金井の群馬出身コンビでした。中村選手は日本がボイコットしたモスクワ五輪代表、金井選手はロス五輪1万m7位です。女子では五十嵐美紀選手がバルセロナ五輪代表になりました。それでも、一般種目のすごさに比べたら、長距離はオマケみたいなものでした(言い過ぎですね。明日あたり削除するかも)。
 という話を瀬古さんにしたら、「マニアックだ。面白いけど誰もわからないよ」と言われました。そうかなあ(と、世界の瀬古に疑問を呈す寺田は許されるのか?)。

 暖かくなりました。夕方から、近くの新宿なんとかビルのパティオ(地中海地方によくある中庭)に、原稿を書きに行きました。なんとかビルの1階にはスタバがあるので、コーヒーを買って。“本日のコーヒー”がケニアでした。ジェンガ選手のロンドン・マラソンが楽しみです。


◆4月7日(木)
 昨日の日記の訂正です。関東学園大の監督に就任するのは、小林雅幸選手でなく、小林正幹選手でした。お詫びして訂正します。

 ところで、大学や実業団の駅伝強化は、“上から”発案されるイメージが強いのですが(上武大は学生の行動が大学を動かしたので、ちょっと違うと思うのですが)、高校駅伝チームが少しずつ力を付けていくのは、その土地に根ざしているというイメージがあります。
 便宜的に“上から”の強化と、“下から”の強化と使い分けることにします。高校でも、資金力にものをいわせてポンと強くしたら、“上から”の強化でしょう。
 農大二高は私立高校ですが、鳥羽完二先生がチームを手塩にかけ、徐々に強くした。つまり“下から”の強化で成長していったチームという印象があります(内情を正確に把握しているわけではありませんが)。
 昨日紹介した太田・不破・宮田の100 m日本記録トリオを指導したのも鳥羽先生でした。それが昨年は、駅伝で全国2位ですから。当初は一般種目の指導で実績を残し、しばらくして長距離でも選手を育てることに成功したわけです。埼玉栄高の大森国男先生(現京セラ監督)もそうでしたし、浜松商高の杉井将彦先生もそうでした。長距離の指導って、陸上競技全般を指導できる指導者たちを、惹き付ける何かがあるのかもしれません。そういえば、不破選手が女子のマラソンランナーを指導していた時期がありましたね。大阪国際女子マラソンで会って、ちょっと驚いた記憶があります。
 そういえば、磯貝美奈子さんも、ナイキ社員として、小出義雄監督の担当だったと記憶しています。不破選手とは同学年のライバルだった市川武志選手は、現在ワコールのコーチ。永山忠幸監督のゴールドウイン時代の後輩というつながりだから、だと思いますけど。

 “下から”の強化の代表例が福島大です。川本和久先生が、裸一貫、一から造り上げてきたチームです。川本先生のときどき日記に、福島大関係選手の4月からの所属先が出ていました。そのうちの1人、久保倉里美選手は新潟アルビレックスランニングクラブ。サッカーのアルビレックスの会社です。久保倉選手のように、一般種目の選手採用は例外的で、来年以降は女子長距離チームの強化に本格的に乗り出すとのこと。コーチは中距離でならした小林哲也選手。小林雅幸選手もそうですが、新潟の生んだ強豪ランナーでした。
 このチームは一応、最初はそれなりの資金が投入されますから“上から”の強化に分類されますが、チームの運営基盤となるのは市民であったり、複数の地元企業だったりします。中間的な存在になると思われます。
 以前にも書きましたが“下から”の強化チームは、1人の影響力のある指導者が中心になるケースがほとんど。最初は個人規模の資金で運営されますから、結果が出なくても誰からも文句は出ません。逆に“上から”の強化の場合は、最初に大きな資金が動きますから、効率的で短時間で結果を出せます。その代わり、結果が出なければ出資した人間から文句が出るわけです。
 市民や地元企業を巻き込んでの強化ですから、企業や大学が投資するチームに比べれば、時間はかかるかもしれません。でも、その分、上手く地元に根付けば、現場は長い時間をもらえるわけです。今後、こういった試みが増えていくと思われます。そう簡単に行かないかもしれませんが、中間的な強化システムとして、注目していきたいと思います。


◆4月8日(金)
 一昨日の群馬ネタで小林雅幸選手と小林正幹選手を間違えたのは、昨日の小林哲也選手につなげるため、わざとではないか、との声も聞かれますが、決して、そのような理由でわざと間違えることはありません。そこまで、性格は歪んでいません(と自分では思いたい)。

 小林選手の間違いは野口純正氏からすかさず、指摘のメールをいただきました(何度も書いているので、野口氏がどんな人物か、もう紹介しませんよ。知りたい人はネットで検索をかけてみてください)。もうお一人、群馬県出身の“ランニング愛好家”と名乗る方からも。その方は、寺田が書いた選手に渋沢奈保美選手、佐藤陽子選手、新井文子選手らも紹介して欲しかった、と書き添えていらっしゃいます。
 これは、うっかりしていました。渋沢選手は女子やり投日本人初の60m突破(旧規格)、新井選手は女子800 m2分5秒と4分20秒突破、佐藤選手は400 mHで初の58秒突破をやってのけた選手です。これは、ご指摘の通り。
 新井選手は800 mで河野信子選手、1500mで今野美加代選手と、1970年代に一時代を築いた中距離選手の日本記録を、80年代後半に破ったことで、とても印象に残っています。渋沢選手は、高校生で台頭してきた松井江美選手と同じ時代で、「いったい、どっちが強いんだ」と、感じたものです。プロレスの「馬場と猪木のどっちが強いんだろう」という子供たちの疑問と似た感覚でしたね。

 ところで、最近リンクさせていただいた兵庫投擲倶楽部の一員に、松井さんの名前も見られます。ということは、松井さんの高校は岡山県の美作高ですが(日本がボイコットしたモスクワ五輪代表)、出身は兵庫県なのでしょうか?


◆4月9日(土)
 日帰りで熊本に出張しました。もちろん、金栗杯熊本中・長距離選抜の取材です。一昨日、昨日と実家方面で用事をこなして、昨晩遅くに東京に戻ったのですが、金栗杯のシニア種目は15:05の女子1500mが最初の種目。高校生のレースも見たかったのですが、体調も考慮して14:05熊本空港着の便のチケットを、昨晩ネットで取りました。会場のKKWINGのサイトを見たら「空港から公共の交通機関はございません」との記載が。弱小フリーランスにとっては痛いのですが、あきらめてタクシーを使えますから、はっきり書いてもらっていて良かったと思います。
 14:30には到着。昨年は五輪イヤーということで新聞各紙も東京から陸上メイン担当記者を派遣していましたが、今年、東京から来た記者はゼロ。読売新聞は大阪の新宮記者、朝日は福岡の小田記者。共同通信も福岡のイトウ記者。あとは存じ上げない方たちですが、毎日新聞や時事通信も記事が出ていましたから、同様に東京以外の方が来られていたのでしょう。

 15時の気温は26.5℃。汗ばむ陽気ってやつです。今回はカメラマンと記者を兼ねての取材。トラック&フィールドでは珍しいのですが、中・長距離種目だけなので頑張れるかな、と判断しました。しかし、最初の女子1500mには杉森美保選手が出ます。持久力強化が進んで、かなりいい状態とか。さすがに日本新までは予想しませんでしたが、自己新は出るかもしれないと思っていました。だったら、ラップタイムも計測したい。でも、カメラマンとラップ計測の両立は、かなり難しい作業なのです。
 一計を案じた寺田は、スタート地点である第2コーナーに移動。幸いなことに、取材規制のうるさくない大会で、インフィールドからの撮影も、通常の報道IDでできそうです(規制されている大会の方が少数なんですけど)。果敢に、写真撮影とラップ計測にトライしました。
 スタートラインの15m手前のトラック外側に陣取り、1周目の杉森選手を撮影(360m地点前後で数コマ)。すぐにカメラからストップウォッチに持ち替え、400 m通過を計測。2周目も同様に撮影(770m前後)と800 m通過の計測。
 ここで、第1コーナーと第2コーナー間のインフィールドに移動。1100m(残り1周地点)のタイムを計測するためです。計測したらすぐにカメラに持ち替えて、1125m付近で撮影。1200m通過を測定して、ダッシュでフィニッシュの正面に移動して、最後の直線を撮影しました。

 ラップタイムは、日曜の夜あたりに掲載できると思います。ちなみに、1000m通過は京セラ・スタッフがスタンドから読み上げたタイムが聞こえました。いつも思うのですが、長距離の指導者は“通る声”を出せないようでは務まりません。観客がいっぱに入っていたら厳しくなるのですが、インカレなどで国立競技場スタンドの最上段から、声をかけてしまう指導者もいますから。

 フィニッシュ後、すぐにタイマーと一緒のところを撮影。熊本陸協が気を利かせてくれたようで、カメラマンが表示をお願いしていなかったと思うのですが、記録をしばらくタイマーに表示し続けてくれました。「次の種目が始まるからダメだ」と言い出す先生もいますから、助かりました。
 熊本陸協の報道担当者は、フランクな方たちが多いという印象です。非常に親切でした。試合終了後も「何時までに帰れ」とか言いませんしね。気配りということだけでなく、記者への接し方も、柔らかい物腰というのか、好感が持てました。

 ところで、試合終了後、ある記者が「新記録が出て気合いが入った」と、報道係のちょっと年輩の女性の方と話をしていました。報道係の方はさもありなんという話し方で、「ここでは、2月には松宮隆行選手が30kmで世界記録も出したんですよ」と言います。続けて「その前にも、あの選手が…」と言われた途中で、言葉が出てこなかったので、寺田が横から話に加わって「伊東浩司選手ですか?」と言うと、「そんなに古い話ではなくて、マサシ選手の10マイルですよ」とのこと。
 寺田の中では熊本の記録=伊東浩司選手が98年の日本選手権で出した10秒08(当時日本タイ)と20秒16(当時アジア新)なのですが、それは、ごくたまに熊本に来る人間が思うことなのですね。地元で運営をしている人間にとっては、その後も目の前で新記録を見ているわけで、昔のことと感じるのは当然です。

 伊東選手と言えば神戸新聞ですが、同社の藤村記者も、2週間後の兵庫リレーカーニバルに向けた事前取材も兼ねて、来ていらっしゃいました。大原記者が、ATSUYAなメール「丸12年」で触れていた方で、たぶん、寺田より年下だと思うのですが、落ち着いた雰囲気のある方でした。寺田はそういう雰囲気を出すのは到底できないことなので、無理に落ち着いたふりはしないで、馬鹿ばっかり言っているわけです。どうでもいいことですけど。


◆4月10日(日)
 今日は早起き。昨晩は23時半頃に新宿の作業部屋に戻りましたが、体調不良もあって早めに就寝。今朝から昨日の原稿に取りかかりました。まずは陸マガ用に40行を昼までに書かないといけません。
 ちょっと迷ったのは、2つの書き方のうち、どちらをとるかということ。新記録の原稿ということで、とにかくその場の臨場感を出すものにするか(テレビ放映もありませんし)、専門誌らしい“視点”を出すか。文字数が少ないこともありますし、締め切りまで時間が少ないこともあって、前者にするしかないと昨晩から漠然と考えていました。しかし、朝食後にスタバのコーヒーを飲みながら、昨日の写真を見ていたら、ある視点が浮かびました。
 杉森選手の最後の直線の走りが、まるで去年の日本選手権の800 mのようだと感じたのです。単に、全力を振り絞ったときの彼女のフォームといえば、それまでなのかもしれませんが、ラスト200 mのタイムを見ても800 mのときと大きく変わりません。男子の800 mと1500mのラストだったら、それほど違わないのでしょう。でも、ハイペースで全力を出し切ったレース同士で比べて、800 mと1500mで1秒しか違わない……。
 それで、過去の杉森選手のラップタイムを調べました(それがこれ)。続いてある行動をとったのですが、これは企業秘密。なんだかんだで12:20頃に完成させ、メールで送信しようとしているところに秋山編集者から催促の電話が来ました。この時期の大会を14日発売の雑誌に載せるのって、それはもう大変なのです。

 話を昨日のことに戻しますが、杉森選手はこれで800 mと合わせて中距離2種目の日本記録保持者になったわけです。4月8日の日記で新井文子選手のことを書いたばかりですが、その新井選手以来の女子中距離2種目のレコードホルダーとなったわけですね。
 新井選手は88年から90年にかけて2種目保持しましたから、杉森選手は15年ぶりの快挙ということになります。さっそく、2種目の記録をサインにしてもらいました。陸マガ誌面にはスペースの関係もあって掲載できなかったのですが、寺田がサインをもらった後に、そのときのマジックを使って女子高生が2人、サインをもらえたのですから無駄ではなかったということにしましょう。


◆4月11日(月)
 本日は16:30から陸連強化委員会と、記者団との懇談会。強化委員会各ブロックの部長が、記者たちの前で今後の強化方針、期待の選手の近況などを話してくれました。部長も何人かが新しくなり、ハードル・山崎一彦、投てき・等々力信弘、混成・松田克彦の3氏は30歳代です。女子長距離・マラソンの金哲彦氏もそうでしょうか?
 いくつか「おっ」と思わせる情報もありました。時間があったら紹介したいのですが、優先しないといけないことが多々ありまして…。個人的に興味を引かれたのは、男子長距離が9〜10月に昆明で高所トレーニングを行うことです。選手8名、指導者8名で行われる予定ということです。どんなメンバーになるか、注目していきたいと思います。

 またまた、野口純正氏からメールをもらいました(陸マガ時代は毎日、顔をつき合わせていたわけですが)。杉森美保選手の日本記録は、1000mと4×400 mR(1走)も合わせると4種目だという指摘です。1000mが特殊種目なので、「中距離2種目」という表現が間違っているわけではない、ともフォローしてくれています。
 新井文子選手に関しても
1988.10.20----->1989.05.09 に800、1000、1500
1989.07.30----->1990.06.29 に800、1500、2000
1990.08.10----->1992.06.13 に800、1000、1500
と上記の3つの期間に、単独種目3種目の日本記録を持ち、3200mRを加えると、上記の3つの期間に4種目の日本記録を持っていました。

 というデータまでいただきました。こういった資料がすぐに出てくるあたり、淡路の“記録神童”と言われていたかどうかは知りませんが、東四国国体の際に淡路にお邪魔したときに聞いた話から推測すると、そう言われてもおかしくない幼少時代を送られていただけのことはあります。

 実は熊本での取材中にも、他の記者の方から「中距離3種目の日本記録保持者と書いていいのか、中距離2種目とした方がいいのか」と質問を受けました。
「1000mはオリンピック種目ではないので2種目と言ってもいいと思います。でも、1000mも公認の日本記録であるのは間違いないことなので、3種目と言ってもいい。どちらで書いても間違いではないと思います」と、答えました。
 同じようなことが、高岡寿成選手や弘山晴美選手の3000mの日本記録をカウントするかどうか、でも悩まされます。女子は以前、3000mがオリンピック種目でしたからカウントする場合が多いのですが、男子の3000mはそうではないので、カウントしない場合が多いかもしれません。
 しかし、この2人のように複数の種目でなく、高橋健一選手や野口みずき選手のように、ハーフマラソン1種目の日本記録を持っていたら、「ハーフマラソンの日本記録保持者」って書きますね。そう考えると、オリンピック種目でなくても含めた方がいいのかもしれません。でも、一般的な認識では“中距離は2種目”ですし…。

 現時点での寺田の結論は、書き手の認識や、そのとき書いている記事の論旨で、どちらに書いてもいい、と考えています。寺田の認識を言わせてもらえば、“中距離は2種目”です。1000mの日本記録は、チャンス(レース数)が少なすぎるので、重みが800 mと1500mに比べたらまったく違います。認識というより感覚ですね。新井文子選手や河野信子選手、今野美加代選手と比較したときも、1000mのことはまったく頭にありませんでしたし。
 と、ここまで書いておいてあれですが、1000mで日本記録が出たとき、世間にアピールしない手はありません。大会スポンサーに対しても、選手の所属する会社の経営陣に対しても。社会の現状を考えたら“中距離3種目”としておいた方がいいですね。前言撤回です。


◆4月12日(火)
 昨晩だったと思いますが、テレビを見ていたら嫌なニュースばかりでした。大阪市の職員ぐるみの空残業事件とか(何千人の職員がやっていたらしいじゃないですか)、道路公団の保養施設入手の問題とか。大きな組織が、既得権……じゃなくて、何て言ったらいいんでしょう。立場を利用した悪事ですね。「見つかりっこない」「(大きな組織では)やって当たり前のこと」という意識がもろに見えます。
 こういうニュースを聞くたびに、何の役得もないサラリーマンは「けしからん。俺たちの血税を何だと思っているんだ」と憤るわけです。その気持ちは寺田のような個人事業主も同じというか、もっと大きいかも。大阪市の職員が空残業で仮に1万円を懐に入れたとしましょう。1万円を稼ぐために我々フリーランスが、原稿を何行書かないといけないのか。その何行を書くために、どれだけの経験と知識が必要なのか。怒り心頭です。

 と普通の感覚の人間なら書くのでしょうが、寺田は今、感覚がおかしくなっています。何て言ったらいいのか…。自分が格好良く見えてくるんですよ。こいつら、俺に優越感を持たせるために、わざと格好悪い生き方をしているんかな、と思えてしまう。大きな組織の一員というだけで、大きな組織の幹部というだけで、自分の能力や頑張りとは関係のない対価を得ている。そんな格好の悪いことをしたら、死ぬときに、自分の人生に満足できるんでしょうか。
 要するに、大きな集団になればなるほど、綱紀を正すのは難しくなるのでしょう。どんどん、目的意識が低くなる(個人事業主の意識は高いですよ)。似たようなことが、スポーツにも言えるかも。オリンピックや世界選手権の代表を争う、日本で何十人しかいない選手と、何百人も参加できる大会の選手では、意識レベルが天と地ほども違う。だからこそ、そういった低い意識の選手を1つの方向に向かわせて、結果を出すのは指導者の手腕が問われるのかもしれません。

 そのお、書きにくいことですが、○○駅伝なんかの記者会見に行くと、スポンサー筋からお土産が渡されるんです。こちらは陸上競技の情報を得るために会見に行くのであって、ビールやお菓子やボールペンが欲しいわけじゃない。でも、渡す側は、それが当たり前という感覚でいるんです。受け取るのを拒否して帰ろうとすると、すっ飛んでくるんですよね。委託を受けたらしい受付のお姉さんなんかが。無理やり手に押し込もうとする。そんなことをする時間とお金があるのなら、大会を盛り上げるための別の使い道を教えてあげたくなります。
 こういった変なお金の使い方を、大会を主催する陸上界側の組織は、改めさせることはできないのでしょうか。昨日の日記でスポンサーへの配慮をすべきだと書きましたが、遠慮をしろということではないんです。でも、言えないでしょうね、もしも自分の頑張りとは関係のない対価をもらっていたりしたら。

 テレビを見ていたら、三井住友銀行が日曜日も相談用の窓口業務を始めたと、CMでアピールしていました。やっとかよ、と言いたくなります。何度か、日曜日に休む病院と銀行はおかしいのでは?と書きました。どちらもエリートたちの組織で、既存のシステムでお金が儲かるから努力をしない代表でした(ライブドアの社長がやっていることの是非はわかりませんが、きっと、大きな組織ということや既得権にあぐらをかいている人間が嫌いなのでしょう)。
 社会背景は違いますが、日曜日に営業しないヨーロッパのデパートも同様です。安息日? キリスト教が成立した社会背景を勉強しなさい、中世キリスト教社会を勉強しなさい、資本主義の成立過程とキリスト教の位置づけを勉強しなさい、と言いたいですね。


◆4月13日(水)
 昨日は自分の憤りを抑えられずに、柄にもないことを書いてしまいました。ちょっと過激に書きすぎた点もあります。記者会見のビールやお菓子は意味がないと書きましたが、贈呈される物がなんでもよくない、と言っているわけではありません。選手のメダル獲得や新記録を記念したTシャツなどは、もらって嬉しい物ですね。以前(2000年)、日刊スポーツの渡辺記者が、ヨーロッパ取材のお土産でDNガランのTシャツを買ってきてくれたときも。そういった、意味のある品、気持ちのこもった品だったら大歓迎なのです。その辺を、誤解されないでください。
 怒っていたせいで、大事なことを書き忘れました。
 昨日はずっと新宿の作業部屋で仕事をしていましたが、夜になってから陸マガ編集部に行きました。陸マガ5月号の配本日です。日曜日の昼に送った原稿が2日後には雑誌になっているのは、ちょっと感動しましたね。自分が編集者だった頃にも経験したことですが。内容については、発売日の明日以降に紹介していきたいと思います。
 それにしても、編集部に行くのはなぜか夜が多いですね。

 帰りは、九段下の駅の近くにあるスタバに入ろうとしましたが、昨日はやめておきました。たぶん、スタバに入っても原稿は書かず、陸マガを読みふけってしまうと判断したからです。たまには、カフェでゆったり本を読むこともありますが、基本的には原稿を書くために入るのがカフェです(本当は、読書がしたくて仕方がないのですが)。
 川本先生のアメリカツアー日記に「スタバに寄るのはお金を使う行為」というニュアンスの記述がありましたが、寺田にとってスタバに行くのは、選手が合宿に行くのと同じ感覚だと思います。日常とは場所を変えることで、自分を追い込んだりもできますし、新しい発想が沸くこともあります。お金を使うというよりも、必要な出費というか、投資ですね。
 これは“スタバ論争”でもなんでもなくて、指導者と記者では立場も違いますから、感覚も違って当然です。寺田と似た立場のISHIRO!記者からも「スタバと私」と、ミュージカルのようなタイトルのメールが届きました(「王様と私」って有名ですよね。そうか、ISHIRO→イチロー→一路真輝か)。
私、最近イチローバージョンのスターバックスカードを買いました。いま使ってるカードのデザインに飽きたので、そろそろ違うのにしようと思っていたら先日見つけたので。早くイチローのカードを使いたいので、今のカードの残高を減らすのに懸命です。
ちなみに自宅で飲むコーヒーはスタバの豆を買ってきて自分で挽いてますが、最近はもっぱらエチオピアシダモです。

 寺田はこの前も書いたように、知り合いのケニア選手も多いので、コーヒー豆もケニア派です。しかし、ISHIRO記者のこのメールを見る限り、記事を書くためというより、ちょっと消費の傾向がありますね。でも、彼も本来、記事を書くならファミレス&カフェ派のはず。きっと、イチローに気を奪われてのことでしょう。

 ところで、スタバにイチローカードがあるというのはスタバのサイトで知っていました。スタバは、シアトルが発祥の地ですから、イチローに目を付けるのは当然です。が、スタバのカードが何に使えるものなのか知らず、一昨日の取材の際にISHIRO記者に確認しました。単にスタバのコーヒーや商品を、現金なしで購入できるというものでした。クレジットカードでもなければ、回数券のように1割増しで買える特典もない。SUICAのように電子マネーとして他で使えるものでもないようです。ひねりが足りませんね。

 ところで今日、舞の海の高岡寿成選手インタビューと、諏訪利成選手が実は結婚していたアテネ6位のマラソン諏訪、結婚していた(報知新聞)、という2つの記事がありました。実は、アテネ五輪前に諏訪選手も舞の海インタビューに登場しています。トシナリつながりとか言いたいわけではありません。実は、諏訪選手がそのインタビューで……これは、本人に確認してから書いた方がいいことでしょう。


◆4月19日(火)
 また、1週間ほど日記をサボってしまいました。もう、お叱りのメールも来なくなりましたね。本当はもう20日なのですが、昨日(19日)が寺田にとって特別な日となったので、こうして19日の日記から再開しようと思います。

 今回の中断の理由は明白。体調不良です(不良ライターとも言われていますが)。4月8日から喉の痛みが出て、9日の金栗記念選抜中長距離熊本大会の取材は、マスク着用で行きました。会場で最初に会った読売新聞大阪の新宮記者が、すぐに寺田と気づいてくれたので「外見はそんなに変わっていないのか」とも思ったのですが、NTN師弟(越井監督と小林史和選手)やスズキの三潟監督、トヨタ自動車九州の森下監督らは「誰かわからなかった」という反応でした。
 会場では花粉症と言い張っておきましたし、東京に帰ってきたらすぐに治ったのでやはり花粉症だったかなと思っていたら、先週の木曜日になってネッパツ(業界用語で発熱のこと)。金曜、土曜と腰まで痛くなる熱にやられました。日曜日にだいぶ下がったのですが、今度は喉がひどく痛み出して、首筋(リンパ?)とかバンバンに張れて、筋違いかと思えるくらいでした。
 ということで今日、意を決して病院に行きました。熱も上がったり下がったりを繰り返していたので、放っておかない方がいいかな、と思って。医者にかかるのはたぶん、4年か5年ぶりです。02年以降は間違いなく、1回も行っていません。
 医者は喉を見るなり「自分で見ましたか。白い斑点が出てますよ」と、扁桃腺炎の診断を下しました。ただ、症状が長く続いているので念のため、血液検査もしようということになり、これも4年か5年ぶりに腕に注射器をぶっ立てたました。ベテランの看護士さんだったためか、まったく痛くありませんでしたね。検査の結果は土曜日に聞きに行くことになりました。フリーになってから5年間、健康診断とかしていませんでしたから、ちょっとハラハラしています。

 最初に言った特別な日というのは医者に行ったことではなくて、今日の明け方、父親が亡くなったことです。2月末に実家のある袋井で入院して以降、寺田もびわ湖マラソンの頃から毎週、2〜3日の割合で帰省して付き添いをやっていました。最後に言葉を交わしたのが、熊本に取材に行く前日の夜でした。特に陸上競技と関わりのある人間ではありません。1980年に磐田北高がインターハイ女子総合優勝を果たしたとき、同高で先生をやっていたというくらいでしょうか。わざわざここで紹介することでもないのですが…。
 実は父親が亡くなった午前5時頃、寺田は夢を見ていまして、それは書いてもいいかな、と。細かいところまでは覚えていないのですが、某社事業部主催のイベントに高橋尚子選手と野口みずき選手が揃って出席していました。なぜか寺田はカメラマンに向かって「2人のツーショットは撮ったのか。この2人が一緒にいるのは初めてなんだぞ。日本の金メダリスト2人が…」とか叫んでいまして、信じられないことにそのカメラマンが撮っていなかったのです。公式の撮影セッションはもう終了していました。
 そこで寺田が、ニコニコ笑ってくれている2人を、他の人たちから見えない場所に連れて行きました。せっかく他社を出し抜いているのだから、2人が表紙になった記録集計号を手に持ってもらおうと、シドニー五輪とアテネ五輪の行われた年の記録集計号を2人に渡そうとしました。そうしたら、表紙が室伏広治選手の顔のアップだったのです。図らずも戦後の金メダリスト全員が揃う形で撮影ができた……という夢でした。

 アシックス三村さんの「現代の名工」受賞記念パーティーで初対面した両金メダリストの写真を、某記者がメールで送ってくれたことが、印象に残っていたのでしょう。父親の死とはなんの関係もないのですが、自分の父親が天に召されたその瞬間にも陸上競技の夢を見ていられた寺田は幸せ者かな、と思ったものですから。普段は夢を見ることなどめったにないのです。今日はたまたま熱があっただけ、ということなんでしょうけど。


◆4月20日(水)
 なんとしても今日中に体調回復を、という思いが天に通じたわけではないのでしょうが、喉の痛みはまだあるものの、昨日までと比べたら全然よくなりました。父親のことに関してY新聞のMカメラマンと松岡さんから、さっそくメールをいただきました。ありがとうございます。

 父親が磐田北高のインターハイ女子総合優勝時に同高で教師を務めていたことを書きました。そのインターハイとは1980年の愛媛大会。この大会で活躍したのが、4月8日の日記でちょこっと触れさせてもらった女子やり投の松井江美選手(美作高・岡山)でした。その年のモスクワ五輪代表(日本はボイコット)に高校生ながら選ばれた選手で、大学2年のアジア大会で60m52の日本タイ&ジュニア日本新&学生新の快投を見せ、84年のロス五輪にも連続代表になった選手。寺田にとって、岡山を代表する選手といえば松井選手なのです。
 世間一般では、岡山といえば有森裕子さんであり、有森さんの前の銀メダリスト(36年ベルリン大会800 m)の人見絹枝さんでしょう。でも、有森さんが活躍したのは小出門下になってから。関東インカレ800 mでの活躍もありますが、いずれにせよ高校時代の活躍はありません。
 人見さんが活躍したときの所属まではもちろん知りませんし、我々からすれば歴史上の選手という認識……だけでもないですね。実は陸マガの顧問だった中島亥太郎さん(400 m日本人初の50秒突破)からよく、人見さんの武勇伝はお聞きしていました。本当にアネゴ肌の方だったようです……いずれにせよ日本を代表する女傑というイメージで、“岡山の人見”という印象ではありませんでした。

 今年は岡山で国体もありますから、念を入れて説明しましょう。
 これは、その選手のせいではなくて、受け取る側の問題なのですが、高校卒業後に強くなった選手はどうしても、郷土色が薄れます。もちろん、有森さんの就実高での押し掛け入部の経緯や、全国都道府県対抗女子駅伝への熱い気持ちなどを記事で読んでいるので、有森さんと岡山との関わりも知識としてはあります。
 しかし、長く陸上競技を見ているとどうしても、高校時代に活躍し、その後も強いポジションを保った選手に、「あの選手は○○県の選手だ」というイメージが付きやすいのです。最近で言えば伊東浩司選手は、あれだけ国際的な活躍をしても、兵庫の選手というイメージがあります。為末大選手も同様に、広島の選手という印象です。その点、朝原宣治選手は、100 mで世間的に注目されるようになったのが日本記録を出した大学3年から(ジュニア選抜優勝とかもありますけど)ですから、走幅跳のインターハイ優勝者でも兵庫色がちょっと弱い。
 ただ、土江寛裕選手のように、高校よりも学生時代以降の活躍の方が顕著なのに、島根県の選手というイメージが強い例もあります。お父さんが強かったということと、あとは本人がしきりに、地元をアピールしているせいでしょう。福士加代子選手も、世間に知られたのはワコール入社後ですが、青森のイメージをきちんと持っています。これは、キャラのなせる業かもしれません。

 何度も書きますが、客観的に分析しての話ではなく、受け手の共有している時代感覚もあっての部分。ということで寺田には、岡山イコール松井選手というイメージが強かったのです。ところが、兵庫投擲倶楽部に入っているように、松井選手は中学までは兵庫県だったとのこと。岡山の生んだショットプッター記者の朝日新聞・小田記者と、淡路の生んだ“記録神童”野口純正氏がメールで教えてくれました。


◆4月21日(木)
 11時に東京を出発して、14時には袋井着。夕方から父親の通夜でした。体調は、かなりよくなっていますので大丈夫です。

 昨日、選手の郷土イメージの付き方について書かせていただきました。高校時代の活躍の有無が、その選手の地元色の濃淡に強く影響していると。すると、かんちゃんから「土佐礼子選手はどうですか?」と質問メールが来ました。ちなみに、かんちゃんは愛媛県在住で、地元出身の土佐選手をいつも温かく見守っている方です。土佐選手が全国レベルで活躍し始めたのは三井住友海上に入社後、という点を考慮しての質問と思われます(地元の人間にとっては、その選手の地元色の強弱に、高校時代の活躍とか関係ないですから)。
 土佐選手に関して言えば高校時代の活躍はなくても、愛媛色は強いと感じています。なんでだろう、と考えてみると、地元の松山大に進学したことが大きいですね。全国的に強くはないですけど、四国ではそこそこ強い大学。そこで日本インカレに出ていますし、在学中に地元で初マラソンも走っています。「大学の先輩と長距離恋愛もしている」と、以前から聞いていましたし。確か、2002年のロンドン・マラソンの頃です。その方が現在の旦那さんでしょう(違っていたらどうしよう)。
 特に寺田の場合、記事を書く立場の人間です。三井住友海上入社後の成長ぶりがあまりにも急だったので、かえって、それ以前の競技への取り組み方に目が行った選手と言えます。

 一昨日の日記は、父親が旅立った時間に寺田が見ていた夢の話を書きました。昨日は朝原宣治選手にもちょっと言及しましたが、朝原選手といえば兵庫県の夢野台高出身。そして今日、神戸新聞の兵庫リレーカーニバル展望記事神戸発ヘルシンキへの道を読むと、野口英盛選手が同大会のことを、「中学時代は夢のレースだった」と振り返っています。夢つながりですね。
 それで、ちょっと思い当たることがありました。朝原選手について昨日、兵庫色が薄いというようなことを書きましたが、それは一般的に見た場合のこと。
 何度か紹介したことですが、1996年の日本選手権(長居開催)で伊東浩司選手が、200 m優勝後に「神戸新聞が“100 mは朝原、200 mは伊東、400 mは小坂田。神戸出身トリオで短距離3種目を制覇しろ”と書いていたので、まずは200 mで勝ちました」とコメントしました。そのことを同新聞社元陸上競技担当のO原記者が、このようにも書いてくれています(伊東浩司さんとの想い出)。
 この一事をもってして、寺田にとっては朝原選手も、兵庫色の強い選手なのです。


◆4月22日(金)
 昨晩は兄と交替で父の柩の傍で過ごし、今日は告別式、出棺、荼毘(だび)と収骨、精進落としと慌ただしく……でもないですね。いい形容詞が見つかりませんが、思ったよりも落ち着いて、父親を見送りました。荼毘にふすときはさすがにグッと来ると、事前に教えてもらっていたので、そのあたりの覚悟もできていました。涙がこぼれそうになった場面は、何回かありましたけど。
 そういった一連の儀式よりも、父親の色んな側面を知ることができたのがよかったかな、と感じています。昨日の通夜の前にも、自宅まで来られてじっと父親の遺体を見つめる方に話を聞きましたし、弔辞などで生前に関係の深かった各方面の方から、自分の知らなかった事実を聞かせていただきました。当たり前ですが、息子に見せる顔と、外で活動するときの顔は違ったようです。知らなかった父の活動、人となりなどを垣間見て、たぶん充実した人生だったのだろうと感じました。それが、一番良かったです。
 それと、実際に経験して、実感したことが1つあります。葬儀などでは遺族が一番の中心になりますが、あれは便宜的なものだということです。故人への思いは、送る人それぞれにあり、比べられるものではありません。かといって、特定の人たちが葬儀を仕切るわけにもいきません。他のグループの人が気を悪くしますからね。だから、家族が形の上では表に立たなければいけないのです。
 20年ぶりにくらいに話をすることができた従姉妹や中学の同級生もいて、懐かしくもあり、新鮮でもありました。

 すみません。陸上競技のネタにつなげられませんでしたけど、そうですね。今度、土江寛裕選手と話ができるかもしれません。「葬儀のどの場面で泣いた?」とか。
 土江選手も99年くらいに父親を亡くしています。日本選手権に優勝したこともあるスプリンターでした。直後の日本選手権では、スタート地点で合掌する姿が、陸マガに掲載されました。そういう選手も多いと思いますが、誰とでもできる話ではありませんし。


◆4月23日(土)
 朝イチで実家を発ち、昼前には新宿の作業部屋に戻りました。
 クリール最新号が届いていました。巻頭特集は「リディアード再考」。昨年亡くなったニュージーランドのアーサー・リディアード氏の考え方を紹介しています。大方の人が考えている長距離トレーニングは、リディアード氏の考えが基となっています。基本的なトレーニングを体系化したともいえますね。
 オリンピック金メダリストなどトップアスリートを育てたコーチング法でもありますが、有酸素運動の重要性を説くリディアード式をもう一度見直すことで、走りの楽しさを再検証しようという企画です。中国電力・坂口泰監督もコメントしています。

 宗猛監督(旭化成)の読み物も連載がスタートしました。現役時代から兄の茂氏と宗兄弟というくくり方で紹介されることが多かったのは、皆さんご存じの通り。マスコミへの受け答えは主に茂氏が受け持ったため、宗猛監督の言葉というのは実は、それほど多くは紹介されて来なかった、という視点からスタートしています。
 これは、寺田もかねがね感じていたこと。宗兄弟と一緒に語られますが、成長過程は微妙に違います。マラソンを始めた当初、競技成績が先行したのは猛さんでしたが、76年モントリオール五輪では茂さんだけが代表入り。その理由が実は、2人の走法の違いだったのです。茂さんのストライド走法に対し、猛さんのピッチ走法。その違いがどうして、明暗を分けたのか。その理由を猛さんが語っていますが、目から鱗というか、“そうだったのか”とヒザを叩きました。
 78年には茂さんが世界歴代2位(日本人初のサブテン)を出すなど差を広げましたが、モスクワの選考では瀬古さん、茂さんに続いて猛さんが3番目で代表に(日本はボイコット)。83年の東京国際マラソンで猛さんが2時間8分台を出して記録的には上回り、84年のロス五輪では猛さん1人が4位に入賞しました。
 ソウル五輪は2人とも代表に届かず、その後、茂さんは指導者や陸連の仕事に比重が移りました。一方の猛さんは旭化成の指導は茂氏とともにあたりましたが、40歳過ぎまで走り続けました。練習メニューなどは猛さんが立案したようですが、選手時代に引き続き、茂さんの方が外部に対しては説明をすることが多い立場だったのです。

 新宿に戻った後すぐに、先日の血液検査の結果を聞きに病院に行きました。結果は異常なし。検査は1項目だけでしたけど、ホッとしました。
 その後はひたすら資料づくりの仕事。


◆4月24日(日)
 朝7時台の新幹線のぞみで神戸に。珍しく指定席で行こうと昨日のうちに車両の一番後方の席をキープしていたのですが、発車直前に乗るとそこは、修学旅行の中学生が車両の後ろ3分の2を占めていて、寺田の席には引率の先生がふんぞり返って座っていました。その先生は気を遣っているつもりらしく、車掌に交渉して違う席を取ってくれました。
 新横浜までの15分間がつぶれたのは痛手ですが、席を移ってみるとなんと、隣の席にはTBSの土井アナが。ローザンヌの記者席でも4年ほど前に、土井アナの隣になったことがありましたけど。
 新神戸には10:30頃に着。椎野アナ、全日中800 m優勝の佐藤文康アナとも合流。土井、佐藤両アナは土曜の遅い時間にレギュラー番組を持っています。椎野アナも昨晩は、名古屋で中日−巨人戦のラジオ実況をやっての神戸入り。けっこうハードスケジュールです。自分が体調を崩した直後だけに、アナウンサーは病気になれないだろうな、と心配してしまいました。

 車中では兵庫リレーカーニバルの取材予習をしましたね。兵庫といえば1万m。今日も有力選手が揃って27分台が期待できそうだったので、日本選手の27分台全パフォーマンスを再度整理。03年11月の八王子ロングディスタンス時に整理していたので、昨年のデータを付け足すだけで済みました。
 それを、何度もデータの並び替え作業を行い、項目別に27分台のパフォーマンスが何回出ているかを整理したわけです。それで判明したのが、過去に27分台は68回出されていて、兵庫に限れば9回出ていること。つまり今日、(トップページも書きましたが)27分台で日本人1位の選手は兵庫リレーカーニバル大会史上、10回目の27分台を達成することになり、27分台で日本人2位の選手は日本の1万m史上70回目の27分台ということになるのです。そして、高岡寿成選手が27分台を記録すれば、10回目の27分台となることも知りました。2番目に多いのが瀬古利彦選手と渡辺康幸選手の6回ですから、他のランナーたちを圧倒しています。

 取材は順調……と言いたいところですが、取材が重なってしまって、話を聞きたかったのに聞けなかった選手もいました。A標準を突破した阿蘇品照美選手は、インタビュールームのテーブルの反対側で記者たちが話を聞いているのに、誰だったかな、他の選手を優先せざるを得ませんでした。男子1万m日本人トップの瀬戸智弘選手はちょっとだけ聞けましたが、話の頭からではなかったし、27分台でもなかったので、やはり同じテーブルの畑山茂雄選手に移りました。昨年、男子1500mの日本記録が27年ぶりに更新されたので、今は男子円盤投がオリンピック種目最古の日本記録となったのです。
 800 mで3位(最終組の2位)となった小林史和選手と、1万mで日本人3位の高岡寿成選手はすれ違い取材
 特に高岡選手には“10回目の27分台”を期待していただけに、28分04秒80というタイムには不満がありました。記録にこだわり続けて来た高岡選手なら、日本記録を意地で0.24秒更新した高岡選手なら、国内最高が出た(マサシ選手の27分08秒42)今日のコンディションで27分台を出せないはずはない。
寺田「10回目の27分台は?」
高岡「いやぁ、マラソンをやっていると、こんなもんですかね」

 高岡選手の27分台は、日本記録を出した2001年が最後なのです。信じられないことに、4年も出していない。“スピードが売り”と言っている選手なのに。
寺田「そんな、らしくないことを言ってほしくないなぁ、ラストで負けるのはともかく。伊藤監督の理論にも外れるし。次の27分台は……世界選手権(マラソン)があるから、今年は厳しいか」
高岡「今年中に出します!」

 多少正確さに欠けますが、こんなニュアンスの会話をすれ違いざまに交わしました。マラソン選手らしくなったという意見もありましたが、マラソン選手らしくなってマラソンを走れたら、これまでの選手と同じ。マラソン選手らしくなくてもマラソンを走れる、というのが高岡選手の高岡選手たるゆえんでしょう。


◆4月25日(月)
 昨晩は予定を変更して神戸に宿泊しました。が、早寝早起き。朝の5:30には起床して、仕事をしていました。9時にはチェックアウトして、三宮駅に。駅の前で仙台育英高・渡辺監督にバッタリお会いしました。さっそく、昨日の佐藤秀和選手(仙台育英高→順大)の走り(29分39秒71で最下位)は何だったのかと質問。
「レースに出られる状態じゃなかったね。厳しく書いてやってください」
 とのこと。まあ、渡辺監督のコメントを紹介するにとどめておきたいと思います。佐藤秀和選手とは、囲みで2〜3回取材をしたくらいで面識もないので、それほど厳しいことは書けません。昨日の高岡選手のように、こちらのことを知っていてくれる選手は、それなりに厳しいことも書けるのですが。
 例えば昨日の1万mだったら尾方剛選手(中国電力)にも、もうちょっと頑張って欲しかったです。佐藤敦之選手の中国電力記録(27分56秒86)を破るくらいに。瀬戸智弘選手(カネボウ)は、持ち味のラストにもっと研きをかけてほしいですね。そうすれば、今回のような展開でも27分台を出せたでしょう。
 大森輝和選手(くろしお通信)はまあ、カージナルでの日本記録更新に照準を合わせているので、今回はこのくらいでしょうか(28分12秒83)。確か、高岡選手もカージナル前に兵庫に出て、このくらいのタイムだったんじゃないでしょうか。練習の流れが同じとは限らないので、一緒だからいいというものでもありませんが。
 岩佐敏弘選手(28分19秒89)は少し、大人しくなってしまった印象です。かつては、レース中盤でもっと積極性があったような…。それを反省しているのかもしれませんが。入船敏選手(カネボウ)と山口洋司選手(ホンダ)の27分台ランナー2人にも、かつてのスピードを復活させてもらいたいし、若くて一番イキのいいはずの三津谷祐選手(トヨタ自動車九州)と中村悠希選手(カネボウ)にもちょっとガッカリです。
 若手ではなんといっても佐藤悠基選手。28分27秒50は大学1年生が4月に出した最高記録じゃないでしょうか。入学してすぐに、ここまで走れる選手はちょっと記憶がありません。96年の関東インカレに優勝して、世界ジュニアで銅メダルを取った古田哲弘選手以来ですかね。

 三宮9:38発の新快速で新大阪に。福知山線の鉄道事故直後で、少し電車が遅れましたが、予定の新幹線に乗ることができました。昨年の新潟地震の際も、1日前の同時刻に新潟県で新幹線に乗っていましたし、今回は同じ兵庫県に滞在していました。けっこう、かすっているわけです。
 家族や親しい人を亡くした方の気持ちは、いかばかりでしょうか。自分の場合は、父親が末期癌と宣告されて3カ月、少しずつ覚悟をしていく時間があったのですが、事故の場合は突然の悲報に接するわけで、辛いだろうな、と思います。
 袋井の実家に寄って、初七日のお経をお坊さんや家族と一緒に読みました。
 40行原稿を1本書き上げて送信してから、東京に。


◆4月26日(火)
 昨晩も早くにダウンして、今日も早朝から仕事。いいですね、早寝早起きは……問題は原稿ですが、午前中締め切りの原稿をなんとか、14時に仕上げて送信。世界選手権がらみの原稿でしたが、我ながらよく、ここまで短時間で色々とデータを調べられたな、と自己満足の世界にひたっていたら、担当編集者(営業?)から電話があって、行数が多すぎるとのこと(その懸念を、メールに書いておいたのですが)。泣く泣く、選手を1人、削りました。
 その後は、織田記念以降の打ち合わせを各方面と電話でしました。外は雷と雨だったので、終日、外出せず。


◆4月27日(水)
 明後日の織田記念取材のため、明日はもう広島入り。神戸に3泊くらいした方が東京まで往復するよりちょっとだけ安く上がるのですが、今年は実家(袋井)で法事もありましたし、仕事も海外選手の資料を調べるものがあって、東京に戻った方がいいと判断しました。
 気持ち的にはちょうど、兵庫リレーカーニバルと織田幹雄記念国際の中間的なモードですが、まだちょっと、兵庫モードが強いでしょうか。その間に神戸新聞ネタを紹介しておきましょう。以前にも書いたかもしれませんが、同新聞の兵庫リレーカーニバルの報道の仕方は半端ではありません。今回の紙面を見ても、プロ野球で兵庫県出身の古田選手が2000本安打を達成したのと重なりましたが、一面とスポーツ面(ほぼ2ページ)を費やしています。
 寺田の知る限り、神戸新聞の陸上競技の扱いは都道府県クラスの地方紙では全国一です。伊東浩司選手も、神戸新聞の記事で励まされている選手は多い、と書いていたと記憶しています。兵庫リレーカーニバルは神戸新聞自体が主催者に名を連ねているわけですが、それ以外の大会でも、全国高校駅伝や男女の全国都道府県対抗駅伝などでもスペースを割き、詳細な記事を掲載しています。4月21日の記事で紹介したように、五輪選考会前には日本選手権の展望記事も、的を射た内容で掲載しています。
 兵庫県の選手・チームが強いからできるのでしょうが、それに対応できる人材(記者)を配置しているからこそ、できることなのです。地方紙の運動担当記者は、ほとんど全部の競技をこなすのが当たり前。神戸新聞もそれは同じなのですが、明確に“陸上競技担当”というポジションが確立しているのです。

 今回の兵庫リレーカーニバルには、神戸新聞の歴代陸上競技担当記者が大勢、顔を揃えていました。これは、と閃きましたね。陸上界に強烈な存在感を示す地方紙の陸上競技担当記者の顔写真を紹介しようと。最も長く陸上競技担当記者をされていて、寺田が陸マガ編集者時代にお世話になった力武さんが初代かと思っていたら、実は違っていました。
 1941年に三段跳で15m63をマークした大室雅彦氏(関大)が神戸新聞に入社して、最初の陸上競技担当記者のポジションを確立されたそうです。神戸新聞が兵庫リレーカーニバルの運営にタッチするようになったのが1961年頃から。その直後に、力武さんが関大から入社して2代目の陸上競技担当になったとのこと。
 歴代の担当者は以下の通り。
初代 大室雅彦(関大OB)
2代 力武敏昌(関大OB) 写真
3代 乾  等
4代 陳 友いく 写真
5代 大原篤也(トンボのマークの名門・小野高OB) 写真
6代 中尾義理(県西宮高→慶大競走部) 写真
7代 金海隆至(強豪・上甲子園中陸上部出身) 写真
8代 藤村有希子(関大OB)



◆5月14日(土)
 日記再開です、いつまで続くかわかりませんが。本当は春季サーキットの取材で面白いネタが数限りなくあって(過大表現)、じっくり紹介したかったのです。しかし、試合が続くこの時期は、記事を優先しないといけない事情もありまして。某誌の広告で寺田のサイトに記事が載る、と出てしまったり、日体大OBのHH氏から「新聞では読めない記事を期待しています」とメールをもらったり。まあ、言い訳ですけど。

 ということで、昨日は関東インカレでしたが、今日は東日本実業団です。10:30頃東海駅に着くと、数年来の知己であるM社事業部のO矢さんと一緒になりました。笠松運動公園には1時間に1本くらいのバスか、タクシーを使うしか交通手段はありません。11時競技開始と時間も迫っていましたから、タクシーを探しましたが1台もいない状況。少し待って1台来たと思ったら、我々の手前で乗られてしまいました。それ以前にタクシー乗り場すら見当たらない、と探したら駅前ロータリーから50mほど離れたところに看板が出ていました。やはり、タクシーを探していた選手1人も加わって3人で笠松競技場に。

 最初の決勝種目である男子円盤投で、いきなり好記録が出ました。畑山茂雄選手が58m00と山崎先生の日本歴代2位(58m08)に迫る快投を見せてくれました。2位の土井宏昭選手も初の50m突破日本人初の16m&50m&70mスローワーになりましたが、「広治さんがやったらすぐに、このくらい投げてしまいますよ」と、先輩を立てる土井選手でした。
 円盤投は第2コーナーのサークルの近くで見ていたのですが、ホームストレート側に戻ってくると、スタンドに砲丸投の村川洋平選手の姿が。今春からスズキ自販茨城に入社し、勤務地は水戸市なのです。このときは気づかなかったのですが、村川選手は砲丸投日本歴代3位記録保持者になるので、円盤投歴代3位の畑山選手、ハンマー投歴代3位の土井選手と、歴代3位トリオが同一会場に居合わせたわけです。
 村川選手の姿を見たときは、18m台の野口安忠、畑瀬聡の次は野沢具隆選手かな、と思ってしまいました。野沢選手の17m97は室内の記録で、屋外では村川選手の17m94が歴代3位だったのです。
 円盤投表彰時に畑山・土井選手のツーショットを撮らせてもらいましたが、ここに村川選手に入ってもらえば…と、ちょっと悔やまれました。しかし、転んでもタダでは起きません。この2人は“歴代2位に進出したら価値のある歴代3位記録保持者コンビ”なのです。円盤投は1986年、ハンマー投は1984年に歴代2位の記録が出ています。ともに約20年経っても今の位置をキープしているのですから、歴代2位でも偉大な記録と言える2種目なのです。特にハンマー投は歴代1・2位が室伏父子ですから、そこに割って入ったらインパクトがあるでしょう。円盤投は何度も書きますが、五輪種目では最古の日本記録ですから、日本記録を更新しないと目立たないかもしれません。最低、60mですね。

 女子やり投では小島裕子選手が10連勝、男子やり投では室永豊文選手が自己新と、投てきの話題が多い日でした。
 中・長距離にも話題はたくさん。男子の下里和義選手、女子の渋井陽子選手が1500mに出場していました。三井住友海上といえば女子1万mでは、松山商高の先輩後輩、土佐礼子選手と大平美樹選手が先頭を引っ張り合っていました。
 男子1万mは終盤の走りを見て藤田敦史選手が日本人トップかな、と思ったら、野田道胤選手がラストで切り換えて日本人1位。びっくりさせられました。その1万mのスタート前、ワイナイナ選手と目が合いました。酒井監督から「今日は28分50秒が目標」と聞いていたので、「オリンピック以上のプレッシャー?」と質問すると、「そんなことないよ」とニコニコ顔で話してくれます。それでも、28分43秒79です。引き揚げるときに駐車場で同選手にすれ違いざま「スピードランナー!」と声をかけると「オー、イェイ」と答えてくれました。


ここが最新です
◆5月15日(日)
 東日本実業団対抗2日目の取材。朝の9:20に水戸駅近くのホテルを出ようとしたのですが、念のため「駅すぱあと」で時刻表を調べると、東海駅に止まる電車は水戸駅を9:23発でその次は10:01発。以前、松戸市に住んでいたことがあったので、常磐線は本数が多いと勝手に決めつけていたのが失敗でした。でも、ぎりぎりで競技開始に間に合う時間なので、気を取り直して9:45にチェックアウト。
 水戸駅ロータリーの手前で東海駅行きの表示の出たバスを見かけたので、「これは笠松に止まるやつだ」と思って追いかけましたが、簡単に振り切られました。バス停を探したのですが、なかなか東海駅方面が見つかりませんし、間違いなく、次のバスまでは1時間は間隔があるでしょう。出張前に茨城交通のWEBサイトを見たのですが、時刻表が改正したばかりなのか、掲載していないということで、このような非効率的な事態になっているわけです。常磐線の件は、こちらの思い込みが原因で、JR東日本に落ち度はないのですが。

 昨日、寺田と同じように東海駅からタクシーで笠松の競技場に向かった陸上ファンの方からメールをいただきました。東海駅から笠松に向かうバスは9時台に1本、10時台に1本しかなかったとのこと。競技場から帰りのバスは、水戸行きが17時4分で、反対側の東海行きが17時17分くらいしか夕方はなかったそうです。寺田は帰りもタクシーの相乗りをさせてもらいました。でも、タクシー会社内の連絡がいい加減だなあ、と思っていたら、メールをくれたファンの方も、15時頃に予約をしようと電話を入れると、「その時間に電話をしてくれ」と切られたとのこと(朝乗った運転手からは、予約を勧められたそうです)。
 そのファンの方は昨日のうちに移動する必要があり、泣く泣く男子1万mの途中で競技場を後にしたそうです。「こんな不便な競技場は初めて」とのことですが、東海駅からタクシーで1000円ちょっとですから、寺田の感覚では福島のあづま競技場や、宮城の利府競技場の方が不便だと思います。しかし、タクシーがいないのですから、イベント時はどうしようもないですね。補助員の高校生たちは、どうやって移動したのでしょう。自転車かな。

 今朝は東海駅にタクシーが数台、待っている状態でした。タクシー乗り場もしっかり、ありましたね。なんで昨日は気づかなかったのでしょう。
 しかし人生、苦もあれば、楽もあります、水戸黄門の歌のように(水戸から電車に乗りましたから)。昨日の400 m選手に続き、今日は某ハードル選手と某跳躍選手と寺田の3人で、タクシーに同乗して競技場まで行けたのです。それがなんでいいことなのか? いや、それを書いてしまったら、せっかくの幸せ気分が半減するような気がするので、ここで書くのは控えます。
 肝心の競技の方ですが、11時から投てき競技場で男子ハンマー投を観戦。ここまでハンマー投の間近で見たのは、昨年のプラハGPU以来ですね(昨年6月の日記参照)。3位の八鍬選手が自己新を出しましたが、日本歴代2位を狙う土井選手は優勝したものの69m台の記録。「今日は取材はなしね」と言って、本競技場に引き揚げました。別の取材(人物もので100行くらい)が迫っていたこともありまして。でも、日渡選手親子の写真はしっかり、撮らせてもらいました(日渡選手の許可が出たら掲載します)。日渡先生が子供に何て話しかけていたかを書くのは、ここでは控えておきましょう。



昔の日記
2005年 1月 2月 3月 
2004年 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
2003年 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月

2002年 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月 
2001年 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月