続・寺田的陸上日記     昔の日記はこちらから
2006年11月  淡路、伊勢、飛騨…土佐
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◆2006年10月26日(木)
 日産スタジアムである選手の取材。試合では何十回と来ている日産スタジアムですが、個別のインタビュー取材をするのは初めて。昼食をとりながら、という時間帯です。日産スタジアムには“丸いレストラン”(寺田が勝手に命名。丸い屋根で、壁はガラス張り)がバックストレート裏手の東ゲートよりにあって(こちらのマップ参照)、以前から一度、入ってみたいと思っていました(お上りさんか)。でも、見るからに値段が高そうな雰囲気ですし、イベント開催時には混んでいると思って、敬遠してしまっていました。
 選手、カメラマンとの集合時間は10:30。先に撮影取材を行う予定でしたが、現地に行ってみたらスタジアム内に入れるのが11:30からと判明。先にインタビューに変更。それではと、“丸いレストラン”に行くと開店時間前でした。レストランの名前は「COCOLO(こころ)」と判明しましたが。

 仕方がなく、「四季彩」に場所を変更して、コーヒーを飲みながら取材。1杯380円とは、スタバやタリーズ以上ですね。ちょっとしたショック。取材経費も気にしないといけません。しかし、コーヒーの値段が原因で取材がおろそかになってはプロのライター失格。気を取り直してインタビュー。今日も、むちゃくちゃ面白い話を聞くことができました。
 11:30に場所をスタジアム内に移して撮影取材。終了後、今度こそ“丸いレストラン”(「COCOLO(こころ)」です)で昼食。追加取材もちょっと。寺田はサラダランチを注文。俗にいうサラダバーで、取り放題。栄養バランスにも配慮できるレストランです。ランチタイムだったせいか、予想したよりも安かったですね。飲み物付きで1人900円以内で済みました。某雑誌の経費節減に協力した取材だったかな、と思います。
 昼食後にもう一度、スタジアム内に戻って、捕捉的な撮影取材。明日からジュニアオリンピックと日本選手権リレーが行われますが、その選手たちが練習を行なっています。いい雰囲気の絵柄になりました。

 取材終了後、スタジアム施設内の某所で3時間、原稿を書きました。今日取材した選手の記事をもう、書いてしまおうという試み。ネタが豊富すぎて取捨選択が難しかったことと、ネタ同士の結びつけ方も何通りもあって、ちょっと苦戦。120行の記事ですが、何度も考え直し、書いては削除し、結局60行しか進みませんでした。300行くらいの記事ならちょうど良かったかもしれません。とか書いているとまた編集T氏から「そんなことだからダメなんです」と言われそうなので、この辺で。
 原稿を書いたのは、自販機コーナーの前のちょっとしたスペース。丸テーブルが3つに、その他にもいくつかベンチ(だったかな?)が置いてあって自由に使えます。が、3時間はいくらなんでも居座りすぎ。知り合いの三段跳某選手と、400 m元インターハイ・チャンピオンに目撃されてしまいましたが、2人は口が堅いので大丈夫でしょう。

 20:30頃、新宿の作業部屋にもどって、すぐに仕事モードに。朝早くに出かけたので、まずはメールといくつかのサイトをチェック。昨日の日記で触れた土江寛裕選手の引退ネタで、中国地区の新聞社からメールが来ていました。昨日の日記の締めを「つづく」としたのが失敗でした。用意していたネタを、その記者の方に指摘されてしまったのです。
 もったいぶらずに一気に書けばよかった、失敗したな、と思いました。が、その手のクヨクヨ感を引きずるとよくない、という話を今日の昼食中にもしました。というか、落としどころは他にも用意してあります。
 ということで、つづく、はずです。


◆2006年10月27日(金)
 室伏広治選手がテレビ番組に出演していました。数日前の内藤真人選手が子供向けの朝の番組だったのに対し(23日の日記参照)、室伏選手が出たのは夜遅い時間帯で、大人向けのバラエティー番組。他の出演者がハンマーを実際に持ってみる、というところまではお決まりの展開でしたが、その後は完全に室伏選手個人のキャラに焦点が移っていきました。もちろん、個人のキャラといっても、ハンマー投は切り離せないわけですが。
 それにしても同選手が、DVDまで見て“笑いのつぼ”を研究しているとは知りませんでした。それが、選手同士のつきあい、ひいては競技にも結びついていくとは。スポーツとは“人間がするもの”なのだと、改めて認識させられました。
 そう。技術だけではない。体力だけではない。トレーニングだけでもない。メンタルだけでもない。タリーズに入り浸る向井裕紀弘選手が45秒68で走る。福島市にスタバがない、と嘆く丹野麻美選手が51秒台で走る。人間の営み全体が競技力となるのです(と、わかったようなことを書いて良いのだろうか)。

 日本ハムの新庄剛志選手の引退が、盛んに報道されています。あれだけ大々的にやられると、陸上界としては土江寛裕選手で対抗するしかない。競技レベルという点では土江選手の方がはるかに上ですけど、“印象に残る選手”という点で似ていなくもありません。土江選手が田島記念(10月22日:維新百年記念公園)を引退レースとしたのはなぜか、というテーマでときどき書いているのは、世間の“新庄フィーバー”に対抗するためなのです。
 一昨日の日記で“つづく”としたのは、土江選手が高2のときにインターハイ中国地区予選で、維新百年記念公園陸上競技場を走り、100 mに優勝しているからでした。もしかしたら高校2年の維新百年記念公園での走りが、その後の土江選手の競技人生に大きな影響を及ぼしたのかもしれません。と、書こうと思ったら、中国地区の地方紙記者の方に先にメールをもらってしまったのです。
「高校2年の時に中国大会で走った思い出の競技場。地元に近いところで(引退)できたので嬉しい」と取材に答えていたそうです。

 当初は田島記念の開催日を、土江選手が10月21日と勘違いしていた、というオチも考えていたのです。自己ベストが10秒21だから、と。でも、それはオチとしてお粗末すぎる。と考え直し、インターハイ地区予選の場所だったら面白いのに、と調べ直したのです。こっちの方が陸上競技ライターらしいかな、と思って。
 えっ? 土江選手に直接聞けば、確かなことがすぐにわかる? いやいや。それをやったら、あれこれ想像して、ここに書くことができなくなるじゃないですか。「地元の島根に近いので、知り合いが見に来られるから」とか「ケガで全日本実業団には間に合いそうになかったから」と言われたら、それでおしまいです。直接聞かない方がいいこともあるのです。
 この話題、新庄フィーバーが収まらなかったら、つづくかも。


◆2006年10月28日(土)
 今日は終日原稿書き。月曜日に400行、火曜日に120行と50行の締め切り。それから来月中旬の締め切りが120ページあるのですが、そのうち74ページ(これは写真中心)を11月2日からの出張前にやっておかないといけません。それから11月7日までに名鑑用にプロフィールが残り14人。
 日産スタジアム(ジュニアオリンピック&日本選手権リレー)には……ちょっと行けませんでした。仕事依頼もないのに取材に行って、そこで抱えている原稿の依頼主(クライアント)に出くわしたらどんな顔をされるか。クレーマージャパンの横浜ブランチ(日産スタジアム内にあります)の田野淳店長が「来い」と言ってくれれば行けたのかもしれませんが…。同ブランチ勤務の梶川洋平選手を取材するとかいう口実で。
 でも、そういうときに限っていい記録が出たりします。福島大の単独チーム初の44秒台。取材したかったですね。4年生の栗本佳世子選手あたり、泣いてしまったんじゃないでしょうか(ちょっと自信あり)。
 明日も作業部屋に籠もります。


◆2006年10月29日(日)
 今日も作業部屋で原稿書きと、ある名鑑用にデータ調べ。なんとか、コニカミノルタの2回目の原稿まで終わらせたかったのですが、全然ダメ。取材ノートを読み返しましたが、書き始めるには至りませんでした。原稿に限らず、至らない点ばかり。でも、名鑑のデータは最後まで調べきって提出。陸マガ・高橋次長の催促を受けずに済みます。

 その高橋次長ですが、今日はジュニアオリンピック&日本選手権リレーの取材。昨日の女子4×100 mRでは予想通り、44秒80を出した福島大・栗本佳世子キャプテンの目に、涙が見られたそうです。ただ、感情を爆発させるような泣き方ではなく、明るく爽やかな泣き方だったとか。そこはちょっと予想外ですが、4×400 mRが残っていたからかもしれないし、同学年の長島夏子選手が走れなかったからかもしれません。その辺はチャンスがあれば、取材をしておきましょう。福島大に取材に行く機会があればそのときにでも。なければ来春?

 ところで、インタビュールームにはデスクが置いてあって、高橋次長はコメントをノートにでメモするのでなく、パソコン(白いノートパソコン)にその場で入力したといいます。取材を受ける側には違和感があるかもしれませんが、その辺は慣れの問題。中学生、高校生の頃からキーボードに向かった記者からインタビューを受ければ、それが当たり前になっていくはずです。
 メリットは、紙にメモをとったものを再度入力する手間が省けること。インタビューとして掲載するのだったら、ちょっと体裁を整えればOK。通常の記事にするにしても、書き始めたときにコメント部分が入力されていれば、かなり楽になります。頭の中を整理しやすくなる。本当にいいことずくめ。
 ジュニアオリンピックを取材する記者の数が少なかったからできたことですが、さらに進歩したシステムも考案中とか。実現したら、取材現場の風景を一変させるかもしれません。画期的なシステムです。

 そういえば、92年か96年のことだったと思います。有森裕子選手がNHKの紅白歌合戦で審査員に選ばれました。以前にも書いたと思いますが、彼もタイピングの速さコンテストでメダルを取って、紅白の審査員に選ばれることを狙っていると、社内で噂になったことがありました(噂の発信者はT田だろう、などと根拠もなく言い当てないように)。新システムが実現すれば、紅白審査員も実現するかもしれません。
 でも、詳しく聞くとそのシステムも、どうやらタイピングが速くないとダメみたいです。つまり、高橋次長レベルの速さが要求される。それを、システムと呼べるかどうか。紅白審査員への道は、一筋縄ではありません。一筋縄って、どんな縄なのか知りませんけど。


◆2006年10月30日(月)
 今日は原稿を書きまくりました、と、ここに書けるはずだったのですが…。
 久しぶりにドトール(中野坂上)で原稿を書いて、3時間で約100行ほど進みました。ちょっと書いては削除して書き直す、という作業を繰り返しての100行。400行原稿なので分量的には4分の一ですが、実際の進行度合いとしては半分くらい。この先、何を書いていけばいいか、かなり見えてきた状態です。
 それで油断したわけではないのですが、作業部屋に戻ってから原稿とは別の仕事をして、食事なんかもして、ちょっと読書なんかもすると、あっと言う間に4時間くらい過ぎていました。中野真実選手だったら100本くらい跳躍練習をしてしまう時間です…というのは、真実ではありません。

 夜中の3時まで頑張って、200行まで進行しました。
 さて、ここで迷ったのが、原稿中に出てきた(って、自分で書いているのですが)M選手のコメント。S監督の昔を、「一流じゃなかった」と言っています。もちろん批判として紹介しているのではありません。その選手がどういった状況で、どういった気持ちで発言したのか、背景をきっちりと書き込んでいます。
 問題はないはずですが、指導者には指導者の立場もありますし、周囲のことも考える必要がある。この手のコメントを紹介するには、慎重を期した方がいいのです。ということで、ここはもう直接、S監督に掲載して問題がないかどうか、聞くことにしました。


◆2006年10月31日(火)
 昨日書いた原稿の件を、S監督に打診。幸い、すぐに連絡がつき、出しても問題ない、と了解を取ることができました。良かったです。プロ野球の日本ハムの話題(シーズン中の監督批判→謹慎→謹慎明けの日本シリーズの勝利。これが美談になったわけです)に対抗する意味でも、このネタはぜひ紹介したい部分でした。といった、世間受けを狙ったわけでなく、そのチームの選手と監督の関係、ひいてはチーム成長の過程をよく現しているエピソードなのです。
 具体的にどんな話なのかは、R誌次号を待て!

 いきなり日本語の表現の話です。「○○を待て!」って、ときどき使われますが(最近は少ないかも)、このコピーを見た側、つまり寺田の日記の読者にしてみたら、「待てないぞ」とは言えないわけです。まあ、純粋に声に出すことはできますが、実際の選択肢として待つ以外にできることはありません。つまり、「あなたは○○を待つしか方法がない状況です」と言う代わりに「○○を待て!」と言ってしまうわけですね。
 英語で「Wait the next issue」とか、日本語と同じ意味に使われるのでしょうか?

 待つしかない、といえばアジア大会。12月開催ですからね。日本のシーズンとはまったくマッチしません。取材する側も、福岡国際マラソン、アジア大会、全日本実業団対抗女子駅伝と超過密日程です。
 しかし、すでに動かせない日程に選手が不満を感じていても、競技にプラスとなることはありません。日程が動かせないのなら、それを逆に利用する方法を考える。それが、唯一できることでしょう。我々取材する側も同じ。日本の競技日程は日本陸連がコントロールしますが、アジア大会の日程はまったく別の組織が決めています。総合競技会なので、日本のJOCに相当するアジアの組織ではないでしょうか。つまり「過密日程じゃないか!」と噛みつく相手もいません。
 などと、ダジャレを書きたかったわけではないはずですが、少しは書きたかったのかもしれない、という潜在意識が働いた可能性がなきにしも…とかは本当にどうでもよくて、アジア大会取材が再度、ピンチになったのです。

 事の発端は…などと書き出すと長くなるので、手短に書きましょう。ベースボール・マガジン社と一緒に取材申請、宿泊申請をさせてもらったことは、17日の日記で書いたと思います。しかし、当初は大丈夫ということになった一番安い値段のホテルが、現地組織委員会からダメと言ってきたのです。2倍の金額のホテルにしろ、と。好意的に見れば、安いホテルは発展途上国のメディアに割り当てて、日本のような物価の高い国のメディアは高いところに泊まらせようとしているのでしょう。
 前回も書いたように、陸上競技期間とか関係なく、全日程の期間でしか宿泊申請を受け付けない方針なのです。つまり16泊が2倍になる。金額にしたら20万円以上違ってくるのです。いくら日本に住んでいるとはいえ、貧乏な個人営業主にとっては死活問題。
「どうするの、オレ!?」と、オダギリ口調で叫んでいました。
 ところで、25日の日記で“ライフカードCMの「その後のオダギリ」は結構、笑えます”と紹介しました。これを見て思いついたのが、岡山のSP記者こと朝日新聞小田記者を主人公にした「その後のオダ記者」企画です。この写真(全日本実業団取材)の後、小田記者は誰と一緒に帰ったのか、とか、某海外取材の後はどうなったのか、とか。
 でも、本人があまり面白くないというので、今回はボツ企画に。ちなみに、小田記者もオダギリジョーも、岡山県出身だそうです。などと、呑気なことを書いているということは、アジア大会の件は解決した?


◆2006年11月1日(水)
 昨日、再度問題に浮上したアジア大会取材の宿泊の件は、一件落着ならぬ“一応落着”はしました。16泊のうち、前半をベースボール・マガジン社の他の雑誌の編集部の人間が宿泊し、後半を寺田が泊まらせてもらう、という解決策。しかし、そのあおりを受けて、予定外の事態も生じました。ベースボール・マガジン社がある決定をすることを余儀なくされたのです。企業の判断ですからしっかりと計算してのことでしょうが、こちらとしては申し訳ないな、という気持ちもあります。もちろん、悪いのはドーハの組織委員会です。昨日も少し書いたように、向こうには向こうの事情があるのでしょう。でも、大きな国際大会を開催する都市のホスピタリティとしてはどうなのか。

 まあ、あれこれ考えても仕方ありません。11月になりましたし、気を取り直して行きます。明日から淡路島&伊勢出張ですし。そうです、いよいよ駅伝取材の季節に突入しました。10月にも学生の駅伝がありますが、なかなかそういうムードになれません。個人的には、という意味です。出雲の全日本大学選抜駅伝も仙台の全日本大学女子駅伝も、取材に行ったことはありませんし。
 当事者である大学の監督たちも「10月は…」と言っています。その考えが多数派なのかどうか、まではわかりませんが。以前にも書いたように、女子の某強豪大学の監督が開催時期を、実業団や高校と同じ12月に変えて欲しいと言っていました。それから、これは初めて書きますが、箱根の某名門大学の監督が、夏の走り込みに近い時期の駅伝は長い距離の方が良い、と言っていました。「最後の箱根が一番短い距離でいい」と。

 今、気がつきましたが、「箱根の名門大学」って、我々は普通に使っている言い方ですが、箱根駅伝に関心のない人が聞いたら、“箱根に校舎が建っている名門大学”と思ってしまいます。陸上関係者なら間違いなく“箱根駅伝の名門大学”とわかるのですが。言葉って、相手の理解度でまったく違った意味になる。
 実際、文章を書いて残す(人に見せる)という行為は、書き手側がまったく予想できない反応を、読み手側がしていることがあります。見方によっては、とても怖いことをしている職業です。気を付けないと。


◆2006年11月2日(木)
 早起きして一路、淡路に。新幹線と高速バスを乗り継ぎ、13:29には南あわじ市の南淡公民館に到着。約6時間の行程でした。新幹線の最初の2時間は一昨日と昨日の日記を書きました。名古屋で停車中にPHSでネットに接続してアップ。メールも受信して、次の京都駅停車中にリプライを送信しました。なんか、出張族サラリーマンになった気分です。と文字にするのは簡単ですが、立場の違う人の気持ちはなかなかわかりません(サラリーマンという言葉をこのように使う場合、職種を意味している気もしますけど)。
 高速バスでは毎日新聞名古屋の村社拓信記者と一緒になりました。1年前の中部実業団対抗駅伝か、全日本実業団女子駅伝以来の再会。そのときも書いたと思うのですが、あの村社講平選手の遠縁になるそうです。久しぶりの陸上競技取材のようですが、しっかりと予習をしてきている様子。立場上、下手な取材はできないでしょう。

 14時から監督会議。終了後、まずは藤田信之監督のカコミ取材。来年のシスメックスの駅伝参加について質問しました。そこから聞くのが礼儀でしょう。その次に、野口みずき選手の今後の予定についてをあれこれと。今月の名古屋と神戸のハーフマラソンに出場する可能性はないといいます。出るとしたら、11月26日の上海国際ハーフマラソンですが、これも昆明合宿の様子を見て判断します。決定ではありません。
 フルマラソンの方は一時期、2月の東京マラソンが有力と報じられたようですが、男子の選考レースに出るのは控えたいと言います。その方向で、陸連とも話し合ったそうです。その代わりというわけではありませんが、4月のロンドンまで検討対象に入れ始めた。そうなればハーフへの出場も、1月の宮崎や2月の丸亀もあり得ます。青梅の30kmに出るのも可能になってくる、と藤田監督。
 2時間20分前後の記録となるレースに出る、という前提はありますが、来年11月の五輪選考レースに出場する方が大前提。逆算して、どうしようもなければ、多少タイムが落ちてもマラソンに出るということです。間隔を2年間空けたくはない、と。先日の1万mが予定よりも悪く、本人も落ち着かない様子だとか。早く目標を決めてやりたい、とも言っていました。

 続いてスズキの小沢欽一監督を、村社記者と一緒に取材。
 15時から開会式。その間に、会場の外でミズノの近藤氏と金子氏と情報交換。これも再三書いていますが、メーカーの方の情報は貴重です。
 開会式終了後に、天満屋・武冨監督に短時間でインタビュー。かなり、必要な話を聞くことができました。続いて、小崎まり選手がカコミ取材を受けていたので、記者たちの輪に加わりました。30歳代の選手って、やっぱり魅力的です。味わいがあります。三十路だけにミソの味とは、書きません。
 公民館2階の記者室で展望記事を書いてアップ。

 仕事終了後に陸マガのマラソン・駅伝関係の記事でお馴染みの出口先生(淡路島在住)と一緒に、淡路牛を食べに行きました。蕎麦屋に河岸を換えるタイミングで、神戸新聞の大原記者と藤村記者も合流。色々な立場の人たちと、いつもとは違った視点の話を聞くことができました。有意義な一時を過ごせたと思います。


◆2006年11月3日(金・祝)
 朝は6:30に起床。最近ちょっとだけ早起きです。
 メールをチェックすると、埼玉新聞・宗像記者からメールが来ていました。赤羽有紀子選手のブログを、夫である周平コーチが綴っているとのこと。しかも、先方のリンク許可までとってあるというではないですか。今日は東日本実業団女子駅伝。赤羽選手はまだ出られませんが、関連した話題です。速攻でサイトに掲載させてもらいました。

 淡路島女子駅伝の取材。おそらく、6年連続だと思います。
 スズキが初優勝。2位は天満屋。スズキの小沢欽一監督と天満屋の武冨豊監督は、ともに神戸製鋼で選手時代を過ごしています。記者室の隣の席にすわっていた神戸新聞・大原篤也記者にそれを指摘すると、「一面や!」と叫んでいましたが、本当に一面になったのでしょうか。
 取材の様子を書いていると時間がなくなるので、省略させてもらいます。機会があったら、思い出して(こじつけて?)書きたいと思います。が、今のうちに1つだけ。レース後には東日本実業団女子駅伝の結果も伝わっていて、三井住友海上の強さに驚いていた関係者も多かったですね。
 取材が一段落した時点で、東日本取材のISHIRO記者(毎日新聞)と電話で情報交換でもしたら、陸上競技取材の一線に身を置いている気分が味わえると思って、鳴門海峡を眺めながら電話をしました。

 取材終了後、高速バスで大阪に。明日は全日本大学駅伝の開会式(名古屋)に行くか、宿泊地の伊勢に直接入るか、まだ決めていません。今晩の原稿の進み具合次第。いずれにせよ近鉄を使っての移動なので、ホテルは日本橋に予約してありました。なんばでバスを降り、なんばウォーク(地下のショッピング街ですね)を末續慎吾選手になったつもりでなんば走り、をしようと思いましたが、荷物が多くてできず。
 途中、コンビニで陸マガ宛に宅急便を発送。11/5午前中に届けたかったので、伝票を書く前に到着日時を質問しました。が、アルバイト女子高生らしき店員ははっきり答えられません。あちこち調べて、11/5午前中着が可能とわかりました。そこでやっと宛名ラベルに記入する段階になったのです。
 唐突ですが、一部読者に受けると思うので、女子高生店員との会話を紹介しましょう。
寺田「さらの伝票をください」
女子高生店員「さら、って何ですかぁ」
寺田「なにも書かれていない、ってこと。真っさらのさら」
女子高生店員「えー、ほんまですかぁ」
寺田「じゃあ、サラ・ボーンも知らない?」
女子高生店員「それやったら、聞いたことありますけど…」
寺田「じゃあ、サラ・ジェイミソンは?」
女子高生店員「サラミソーセージやったら知ってますけど…」

  同じ女子高生の小林祐梨子選手が2回も、日本記録を出したときに戦った相手だというのに知らんのか。と思いつつも、大阪女子高生の切り返しのすごさを見せつけられ、ちょっと感動しました。このすごさをなんとか、来年の世界選手権で来日する外国人たちに伝えられないものかと、3秒ほど考えた次第です。

 ホテルで淡路島女子駅伝と、九州実業団女子駅伝(電話取材です)の原稿書き。全日本実業団対抗女子駅伝の展望記事の構想も練りました。


◆2006年11月4日(土)
清水(きよみず)の舞台から飛び降りるつもりで来たよ」
 全日本大学駅伝の開会式で陸マガ・Y口編集者に会った寺田は、こんな言い方で心境を表していました。と書くと、何やら格好よく聞こえるかもしれませんが、さにあらず。単に原稿を抱えながら取材に来てしまった、という意味です。そのくらい、思いきらないと来られなかった、ということです。何百行でしょうか、抱えているのは。
 開会式取材では亜大・岡田監督の話と、立命大・杉本コーチの話が新鮮でした。将来、両指導者から今日お聞きした話が、何かの記事の出発点になるかもしれません。
 会場に重の枚目助教授こと、杉田先生の姿があったことも新鮮だったことのつ(三二一を太字にしたのですが)。会場を見渡す関係者席に座って、にらみをきかしているという感じではないのですが、関係者席に座っているのは事実。長距離よりも短距離・競歩系(ってどういう系統かわかりませんが)の印象が強い指導者なので、なんでだろうと会の成り行きを固唾を飲んで見守っていると、東海学連のヘッドコーチとして来場していることが判明しました。
 あとで話を聞くと、自身も長距離出身だとか。先入観で物事を決めつけてはいけないということです。

 清水の舞台から飛び降りるつもりで、と書きましたが、実際に清水寺(京都です)に行ったことはありません。静岡県の清水市(しみずし)なら……おっと、これも行った記憶がありません。もしかしたら一度だけ、JRから静岡鉄道に乗り換えたことがあるかもしれませんが。
 それに対して、開会式が行われる朝日新聞名古屋本社はもう、7〜8回は来ていると思います。普通の関係者はタクシーを使っていますが、寺田にとっては名古屋駅からもほどよく歩ける距離。こちらはもう、目をつぶっても来ることができます。
 朝日新聞名古屋本社に行ったのと同じくらい乗っているのが近鉄特急。東海インターハイで伊勢に行くときも使ったかもしれませんから、それ以上ですね。そういえば、小林史和選手の取材で桑名に行ったときも乗ったかも。
 電車に乗っている1時間だけ全日本大学駅伝の前日記事を書こう、と思ったら書き終わらず、結局、ホテルでも1時間半くらい貴重な時間を潰すことに。明日は全日本大学駅伝の取材をしますから、抱えている原稿はたまる一方。近鉄電車でも、清水の舞台から飛び降りるくらいの覚悟で書き始めたのですが、降りたときには近鉄電車に飛び込みたい心境でした。


◆2006年11月5日(日)
 今日は全日本大学駅伝。レース展開は例年同様、フィニッシュ地点近くの神宮会館記者席でテレビ取材です。全日本大学駅伝は5km毎の通過タイムを言いません。コアなファンにとっては必要不可欠な要素なんですけど、恐らく、何かしらの理由があるのでしょう。これがマラソンだったら、一般の視聴者も5km毎のタイムは気にするようになっていますから、そうもいかないのでしょうが。
 テレビ取材の間に、パナソニックの星監督に電話。全日本実業団対抗女子駅伝の展望記事用の取材です。レース展開が落ち着く後半にしたのですが、落ち着いた展開にはなっていませんでした。ラッキーなことに神宮会館1Fのロビーに大きめのテレビが設置されていて、その画面を見ながらの電話取材ができました。
 大学駅伝とは関係ありませんが、星監督の話は面白かったです。ちなみに、星監督は中大OB。中日コーチは星一徹。とか書いて、わかってもらえるだろうか。
 フィニッシュ後のコメント取材は、いいリズムで進みましたが、ちょっと時間を掛けすぎた部分もあったという反省も。いつものことですが。反対に、モグス選手の取材がちょっと不十分。カコミ取材に途中から加わると、同じことを聞いてしまうのではないか、という心配が先立ってしまい、思うように質問できません。この辺の対応策もあることはありますが、時間がないなかで進めないといけないことなので、なかなか難しいのです。
 中大・田幸寛史監督のカコミ取材にも出遅れましたが、ここは対応策を講じてというか、成り行きで追加取材ができました。そういうこともあります。
 今日の取材で書く原稿は陸マガに2本くらいで、あとは将来的に役立てる、という感じです。そういえば、10月のコニカミノルタ富津取材の際に、中大OBの池永和樹選手が田幸監督のことを話してくれました。“ちょっといい”系の話です。コニカミノルタの記事には使えなかったので、紹介する機会があればいいのですが。

 取材中「あれ?」っと思ったのは、笹野浩志選手に出くわしたこと。そういえば、立命館大学OBでした。昨日の杉本コーチ、今日の笹野選手。近くまた、立命大関係者に会えそうな予感もなきにしもあらず。
 記者室で1本、帰りの名古屋までの近鉄車中で1本、陸マガの全日本大学駅伝原稿を仕上げました。文字数の割に時間を掛けすぎ。少ない文字数で書くのって、やっぱり難しいです。その辺が弱点だという、自覚はあるのですが。全日本実業団対抗女子駅伝の展望原稿にかからないと。
 そういえば今日もフィニッシュ後、専門誌記者たちの間で「展望原稿はレースを面白く見るための解説であって、順位予想ではない」という意見が出ていました。日記にも何回か書いていますから、わかる人にはわかるはず。


◆2006年11月6日(月)
 全日本実業団対抗女子駅伝の展望記事を書き上げました。


◆2006年11月7日(火)
 単行本の原稿に没頭。


◆2006年11月8日(水)
 朝の10:37に島田駅に着。島田市は静岡県。寺田の生まれ育った袋井市(エコパのある市です)からもそれほど遠くありませんが、来たのは初めてです。もしかしたら、幼い日に父親に連れられて来ているのかもしれませんけど。
 目的は合宿中の資生堂の取材です。毎日新聞社発行の実業団女子駅伝公式ガイドに、“東西のピンク2強”と言われる資生堂&天満屋の記事を書くことになっています。昼食前に川越学監督に話を聞き、昼食後に加納由理選手にインタビュー。2人とも面白い話をしてくれました。ちなみに、川越監督は薩摩隼人ですが、加納選手は須磨学園高&立命大のOB。インタビュー中のポイントとなる言葉は関西弁で話すのが特徴です。偶然ですが、週末の全日本大学駅伝取材での杉本コーチ、笹野浩志選手に続いて、立命大関係者です。
 立命大は先日の全日本大学女子駅伝で優勝しました。資生堂は全日本実業団女子駅伝の、須磨学園は全国高校駅伝のV候補です。
 島田合宿はマラソンを控えた3選手(東京の尾崎選手、アジア大会の嶋原清子選手、大阪の加納選手)の合宿。15:30までの本練習の間に、佐藤由美選手に電話取材。近くのゴルフ場に移動して練習の撮影取材。帰路、静岡駅で新幹線に乗り換える際に、弘山晴美選手に電話取材という流れで、スムーズに行きました。取材対応がしっかりしています。取材だからと変に構えるところがスタッフにも選手にもないことが、それを可能にしているのだと思います。

 ネタの仕込みは十分。あとは、それを限られた字数でいかに見せるか。陸マガの読者ならこの2チームであれば、ある程度の知識は持っています。しかし、公式ガイドの読者となると、両チームの詳しい記事を読むのは初めて、という読者も想定しないといけません。けれども、そのなかでも専門誌的な要素も盛り込む必要がある。その辺が難しいところです。
 取材以外での収穫は、ドーハに下見に行った平田真理コーチ(名門・磐田南高出身)から、現地の写真を見せてもらったり、街の様子を聞かせてもらったこと。イスラム圏の伝統的な街を想像していましたが、写真を見るとかなり近代的な街並みです。アジア大会は寺田にとって初のイスラム圏取材。というか、行くのも初めて。不安が大きかったのですが、飲食店もそこそこあるようで、かなり安心しました。

 もう1つの収穫は、地元の合宿誘致の取り組みを見聞できたこと(見聞って、ちょっと大げさというか、堅い言い方ですけど。見聞きした、の方が柔らかいでしょうか)。コースや設備については、こちらの島田市のサイトを参照していただくとして、良かったのは責任者の前田勇夫課長(島田市企画部スポーツ課)のお話を聞けたこと。
 島田は北海道や南の島、高原の合宿地のような、地理的・気象的なメリットはありません。しかも、冬になれば季節風が強く吹きます。だったら、ホスピタリティを売りにしようということで頑張っています。市の職員が土日を返上して駅までの送迎をしていますし、大井川河川敷のメインコースをはじめ、各種コースを手作りで設定しています。ホテルや旅館には、スポーツ選手用の食事についてのアドバイスもしているとか。高校生、大学生には1泊1200円の補助も出る(最高チーム全体で30万円まで)。地元の人たちも、合宿した選手の活躍を、本当に喜んでいるといいます。前田課長ご自身が、公務員という感じがまったくない方でした。
 寺田が思いついたメリットは、首都圏、関西圏からの近さです。東名高速を使えば、車で数時間の距離。時間やお金をそれほどかけずに行ける場所です。1週間や10日間ほど行く必要はないけれど、3〜4日の合宿をやりたい、というときに適した場所です。風が強いことも、利用の仕方によっては有効にになります。河川敷コースでワンウェイでも延々と走れますから、ずっと追い風の中を走ることができるし、ずっと向かい風の中を走ることもできる。調子の悪い選手に速いスピードを出させることもできれば、調子の良い選手に低速で負荷をかけることもできるわけです。選手の状態によって使い分けができます。
 合宿地の選択肢が増えるのは、現場サイドにとって悪いことは何もありません。


◇2006年11月9日(木)
 高橋尚子選手が帰国。成田空港に取材に行きました。
 その場でスポーツ・ヤァ!用に東京国際女子マラソンの展望原稿を書きましたが、昨年までの経緯を少ない文字数で書き込むのに苦戦しました。

◇2006年11月10日(金)
 実業団女子駅伝公式ガイドの人物ものと、単行本(これはトレーニングもの)の原稿をひたすら進めました。それと、週末の中部実業団対抗駅伝取材の準備。

◇2006年11月11日(土)
 夕方、下呂市入り。陸マガ・Y口編集者から電話で、箱根駅伝増刊の原稿依頼。ここ2〜3年、必ず下呂で箱根駅伝増刊の話をします。
 宿は民宿ですが、去年までのビジネスホテルよりもグッド。
 夕食は近くの食堂で。味噌の朴葉焼き定食を食べました。しょっぱかったです。食事をしながら、女子バレー世界選手権の日本対セビリアを観戦。
 実業団駅伝公式ガイドの天満屋&資生堂企画の原稿を半分(天満屋分)、書き進めました。

◇2006年11月12日(日)
 中部実業団対抗駅伝を取材。詳細を書いている時間がないので、気づいたことを1点だけ。
 3→4区の中継所(折り返してきて4→5区の中継所でもあります)には藤原潤選手(八千代工業)の姿がありました。八千代工業唯一の一般種目選手です。
 そこで思い出したのが、「1つのチームで1人は長距離選手を育てよう」というスズキの筒井総監督の言葉です。スズキは陸上競技日本一のチームですが(全日本実業団総合優勝)、中部地区の各実業団にもそう呼びかけている。中部実業団連盟の事務局長は今年から、あの渡辺辰彦氏(200 m20秒63)です。
 元々、トヨタ自動車と小島プレスはフルタイム勤務ですが、積極的にトラック&フィールドの選手を採用しています。トヨタ紡織も千葉佳裕選手を採用しました。デンソーもちょっと前は、一般種目の選手がいましたよね。会社の体力にも左右される部分ですが、陸上競技に理解がある地区です。

◇2006年11月13日(月)
 実業団女子駅伝公式ガイドの天満屋&資生堂企画を仕上げました。文字数を削るのに苦労しましたが、完成させてみると、思ったよりも言いたいことが書けています。ちょっとコツをつかんだかも。

◇2006年11月14日(火)
 11:30に大宮駅東口側のむさしの銀行前で待ち合わせ。相手が7分ほど遅れて来たので、巌流島の佐々木小次郎を気取って「待ちかねたぞ、武蔵!」と言い放ちました。
 これは、使えますね。使えるというのは、待ち合わせ場所をむさしの銀行前にすることです。遅刻をしても冗談で済ませられるわけです。これからはどこでも、むさし野銀行前で待ち合わせることにしましょう。問題は、同銀行のATMが、どこにでもあるわけではない、ということです。

 今日は陸マガ発売日。内容について詳しく触れている時間がないのですが、次号への注目点を1つ紹介しましょう。陸マガ若手ナンバーワンの高野直樹編集者が担当しているHOT athleteですが、2回目の今回は海老原有希選手でサブタイトルが「スマイリー」。1回目の先月号は塚原直貴選手で「スナイパー」。さて、3回目は誰でしょう?
 サブタイトルから推理するのがいいかもしれません。2回連続で「ス」で始まって「ー」で終わるパターン。ということは、スプリンター……ではひねりが足りません。スローワーも同じく。スーパージェッターならひねりはありますが、相当する選手がいるのかどうか。
 茶化しているのではなくて、次回が注目される企画だということです。

◇2006年11月15日(水)
 単行本の作業を頑張っています。地区実業団駅伝関係の原稿も1本、書きました。
 電話をかなりしました。TBS山端ディレクター(早大では箱根駅伝の秘密兵器)は土曜日オンエアの東日本実業団駅伝の編集中でした。専門は3000mSCで日本インカレ入賞経験有り。仕事も「障害が多い方が燃える」と言っているとか、いないとか。

◆2006年11月16日(木)
 東京国際女子マラソンまであと3日。ワクワクしてきました。今年は、見るポイントがはっきりしていますね。斎藤由貴選手が欠場したことで、高橋尚子vs.土佐礼子に絞っていいでしょう。とか書いておいて、何か違うネタも探しているのですが。
 でも、やっぱり30歳対決でしょう。今日、発売のスポーツ・ヤァ!は、高橋選手の方に字数を割いていますが、勝敗の行方は五分と五分。土佐選手が前半から飛ばすという情報もありますが、朝日新聞・堀川記者の記事を読むと、それは鈴木監督が話していることのようです。まあ、選手にすれば、簡単に決められることでもないわけです。

 そういえば、何かのテレビ番組では35kmから40kmのタイムを比較していました。土佐選手の00年の東京のタイムが2時間24分27秒で、高橋選手の昨年の優勝タイムが2時間24分39秒とほとんど同じ点に着目。35〜40kmまでのタイムが土佐選手が17分58秒で、高橋選手が17分09秒だったことを指摘していました。寺田も昨年、「高橋の強烈スパート健在 35-40kmの17分09秒は過去最速!!」という記事を書きました。
 そのテレビでは、高橋選手がスパートできるタイプで、土佐選手は粘りが特徴、ということを強調したかったようですが、“35kmまでに50秒差なら逆転も可能”と話を持っていっていました。一緒に走ってついた50秒差を逆転する可能性と、それだけの余力があったらついていく可能性と、どちらが高いでしょうか。というメールが来ましたが、テレビ局は無理を承知で視聴者の興味を引くためにやっているのかもしれません。確かにマラソンなら、そのくらいのタイム差を逆転することもよくあります。

 その点、朝日新聞の2人の記事は、上記のテレビのような“結論先にありき”の書き方ではありません。好感が持てる記事です。
 さて、明日は共同会見の取材。どんな話が飛び出すのでしょうか。


◆2006年11月17日(金)
 午前中はビジネスの電話。
 と書いていて、いつもと違う表現なのに気づきました。いつもは仕事の電話と書いているのに、なんでビジネスなのか。それは原稿や取材ではなく、営業の電話だからです。なんの営業かというと、2〜4月に作業をするある冊子の仕事です。

 12:20に新宿の作業部屋を出て、12:50に赤坂プリンスホテルに着。東京国際女子マラソンの共同記者会見の取材です。
 最初は外国人3選手の会見。朝日新聞・堀川記者の代表質問がグッドでした。共同質問って、簡単そうで難しいのです。基本的な情報(順位や記録の目標、現在の状態、合宿場所など)も聞いておかないといけないし、それに加えて、各選手の特徴も1つや2つは引き出したい。外国人選手より、日本人選手の方が難しいかもしれませんけど(理由は何でしょう?)。
 日本人選手と交替するときに写真セッション。堀川記者に“よかったよサイン”を送ると、「時間が長引いちゃって」という仕草。これは、選手が丁寧に答えてくれたためです。し方ありません。

 日本人選手は高橋尚子選手と土佐礼子選手。高橋選手はいつも、聞き方に関係なくしっかりと情報を提供してくれます。その辺は、さすがプロという感じ。ケネス・マランツ記者が「04年の名古屋で土佐選手が快走して、結果的に高橋選手がアテネ五輪代表になれなかったが、それをどう思っているか」と、質問しにくい部分を質問してくれました。
 高橋選手は以下のように答えていました。
「私はそういう風には見ていません。そういうことより、同じ目標を持ち、同じ気持ちで過ごしている。さっき会った時も“久しぶりぃ。いつ以来だろう”と、(時間を感じずに)話ができました。離れていてもやっていることは近いものがある。魂でわかりあえるんです。お互いに、やってきたことを無駄にしないように、お互いにいい時間を過ごせたらいいね、と思えるんです」
 本当に立派だと思いました。と同時に、「あのときの選考で競り負けた相手だからどう接しようか」などと考えていたら、疲れて仕方がない。選考は自分とは関係のないところで勝手に進められるもの。そのくらいの感覚でいないと、身が持ちません。確かに、選考の結果で人生が変わることもありますが、そう考えると、選考に振り回されることにもなりかねません。

 会見後は鈴木秀夫監督にカコミ取材。レース展開や練習内容について、詳しい話を聞くことができました。
 ペースメーカーに関する部分でしっかり裏をとって(要するにペースはまだ決まっていないということです)、1時間ちょっとで、本番のペースについての記事を書きました。
 16:15にホテルと同じ赤坂にあるTBSに。板倉ディレクターとビジネスの話。17:00頃には終了。しばらく山端ディレクターを待ちましたが、明日放映の東日本実業団駅伝の編集作業が佳境で会えませんでした。アポは来週に変更。その間に電話連絡を6本。帰りは六本木まで歩いて都営大江戸線1本で作業部屋に。


◆2006年11月18日(土)
 12:30から法大に。箱根駅伝の前もの取材です。
 グラウンドに行くと為末大選手がストレッチ中。髪の毛の長い学生が現れると、「なんだその髪の毛はっ!」と叱責していました。と、書いたら状況は想像できますよね。外部の目を意識した冗談モードのパフォーマンスと受け取りましたが……。
 取材はあくまで長距離選手なので、一般種目で面識のある選手とは、すれ違いざまの会話くらいでしかできませんでしたが、金丸祐三選手は「だいぶ良くなってきました」と話していました。内藤真人選手がバランス・ボールに座っている姿を見ると、やっぱり手脚が長いな、という印象。川畑伸吾選手も元気そう。薩摩隼人は川越学監督だけではありません。

 取材も面白い話が聞けました。実は法大の長距離を、ここまでじっくりと取材をしたのは初めて。話には聞いていましたが、ここまで違いがあるとは思っていませんでした。末續慎吾選手の表現を借りるなら「ビックリもん」です。どう違うかは、陸マガ増刊号で。
 取材後はバスで京王線の最寄り駅に。電車に乗る前に原稿を2/3は書き上げました。これから1週間で4本の箱根増刊号用の取材がありますが、“電車乗車前”にある程度はメドをつけたいと思っています。そうして行かないと、どう考えても終わらないというか、追いつきません。


◆2006年11月19日(日)
 東京国際女子マラソンの取材。珍しく早めに着いて、テレビ取材のしやすい位置もキープできました。早く着いたので、しばらくは今日のマラソンとは関係のない原稿書き。スタート30〜40分くらいから前から、ネタを仕入れに動き出しました。スタート直前には土佐選手夫妻のこんなシーンに出くわしました。おそらく、寒さ対策用のクリームを手渡されているところです。

 レース中はテレビ取材。テレビ解説は早大競走部OBの金哲彦氏。2つ隣の席にはやはり早大競走部OBの桑原記者(中日新聞)という豪華な顔触れ。レース後にはこんなシーンも。金氏と資生堂の川越学監督。川越監督が一浪していますが、2人は早大競走部の同期です。2人の箱根駅伝の成績は以下の通り(金氏は当時、木下姓)。
木下:5区2位−5区2位−5区1位−5区1位
川越:8区3位−8区1位−9区2位−2区3位
早大:総合2位−総合優勝−総合優勝−総合2位

 早大のKKコンビとか、ダブルKと呼ばれて恐れられていた、のかどうかは、ちょっと覚えていません。川越監督が鹿児島、金氏が福岡の高校出身。九州男児コンビです。

 レース後の共同会見は尾崎選手が一番に行われ、土佐選手と高橋選手と続くはずが、色々な事情で遅れてしまいました。その間に三井住友海上・鈴木監督や川越監督のコメントを取材することができました。国立競技場は記者の動く範囲が長居競技場などに比べると限られているし、選手・関係者の動線も同様なので、「いつ選手が来るんだろう」と、ビクビクする心配がない。その点はラッキーでした。
 閉会式が先に行われ、その後、土佐選手と高橋選手の会見もきっちりと時間をとって行われました。終わったのが17時。新聞記者はすぐに原稿を書かないといけませんが、寺田はフェアウェル・パーティーの行われる赤坂のホテルに移動。選手の取材ができるわけではありませんが、関係者と雑談ができます。明確な狙いは、ある外国選手と接触すること。具体的に誰から何を取材したかは、まだ、明かせません。

 パーティーも終わりに近くなって突然、尾崎選手のもとに飛び込んできた人影がありました。2人は何やら、感激して抱き合っている。よく見ると、資生堂の嶋原清子選手でした(写真)。神戸女子ハーフを走った後(神戸新聞記事)、東京にとって返し、後輩の快走を祝福しに来たのでした。きっと、2人にしかわからない何かを、共有しているのでしょう。もちろん、声を掛けるような無粋なことはしませんでした。


◆2006年11月20日(月)
 16時から日体大で陸マガ箱根駅伝増刊号用の取材。
 某専門誌と撮影は共同取材でしたから、誰にインタビューをしたのか書いてもいいのですが、慣例にのっとって伏せておきます。
 20:30頃に取材終了。今日も、面白い話を聞くことができました。仕入れたネタが多すぎて、取捨選択が大変になりそうです。
 “電車前”に原稿のメドをつけるのが今週の方針です。青葉台駅近くのフレッシュネスバーガーで深夜近くまで原稿書き。分量的に6割まで進みました。帰りの電車車中で8割に。一昨日の法大の原稿は12割まで進んでいます。どこを削るか、という段階ですね。


◆2006年11月21日(火)
 午前中に印刷所に電話してビジネスの話を少々。その後、昔の知り合いにも電話。これもビジネス関係。どちらも大事な用件ですが、あまり神経を使いすぎるのもマイナスです。編集者時代にやっていたことと内容自体は近いので、感覚が戻れば簡単にできることですが、やっぱり立場が違います。直接、自分の利益に跳ね返ってくる部分。ちょっと慎重になってしまいます。
 今日は今週では唯一、取材のない一日……のはずでしたが、電話取材が急きょ2本も入りました。その他はひたすら原稿書き。単行本の原稿の修正作業が思ったよりも時間をとってしまい、完成しかかっている法大と日体大の箱根駅伝増刊用原稿が進みません。
 夜は早大・渡辺康幸監督に電話取材。そのために資料を整えて予習もしました。明日の予習も兼ねられたので、負担が増えたわけではなかったのがよかったです。


◆2006年11月22日(水)
 昨日に続き、午前中に印刷所とのやりとり。
 13時までにテレビ番組雑誌用の記事を書いて送信。アジア大会男女マラソンの展望です。資料不足なので、こういう書き方しかできない、という内容。ですが、当初考えていたものよりは、さまになったと思います。
 14:20に作業部屋を出発して、15:30に小手指着。箱根駅伝増刊用に早大の取材です。渡辺康幸監督と竹澤健介選手は千葉入りしているため不在で、今日は2選手へのインタビュー。昨日の渡辺監督への電話取材で、記事の方向性がおおよそ決まっていたので、今日は効率のいい取材だったと思います。

 早大取材の後、今日は大宮でもう1件、取材を行いました。移動の途中、武蔵野線の新秋津駅前のミスドで原稿書き。今週の取材は“電車前執筆”の方針ですが、新秋津では法大の原稿を仕上げることを優先。法大と日体大は取材直後の“電車前(ビフォア・ザ・トレインって、正しい英語でしょうか)”で8割方書いてあったので、昨晩中に仕上げるつもりでした。それがずれ込んでしまった結果です。
 ということで、早大の記事は手つかず。“電車前”の方針が崩れたということは、今後のスケジュールが厳しくなったということです。

 20:00に大宮駅に。中華料理、昔ながらの喫茶店(店名は珈琲貴族)、マクドナルドと3店を梯子しながらインタビュー取材をしました。23:15に終了。ロングインタビューはともすると冗長、緩慢な話になりがちですが、今日はそんなこともなく、充実した内容でした。高橋尚子選手関係のジョークも時おり出て、息抜きになっていたかな、と思います。


◆2006年11月23日(木・祝)
 朝の9時に某選手に電話取材。スポーツ・ヤァ!に福岡国際マラソンの展望記事を書くためです。かなり面白い話を聞くことができました。1/2ページの記事ですから、仕入れたネタを全部盛り込むのは無理。どこかで公にしないともったいない話です。
 その取材中に携帯に電話がかかってきました。電話取材後にコールバック。某短距離系の解説者(?)からでした。アジア大会について情報の交換。こういったことが朝のうちにできてしまうのも、国際千葉駅伝が13:10スタートとちょっと遅めだからです。助かりました。

 例年より遅くなってしまいましたが、12:00には千葉の天台陸上競技場に到着。千葉まで行ってモノレールで戻る時間がなく、稲毛駅からタクシーでショートカット。30分以上違ってきますから、仕方ありません。今日はスタート前にやっておきたい取材もあったのです。
 具体的に言えば、ニューイヤー駅伝の展望記事関係です。毎日新聞社から出る公式ガイドと、陸上競技マガジンの展望記事用の取材。しかし、中国電力・坂口泰監督をつかまえられず、例年よりもはかどらないな、と思っていましたが、大塚製薬・河野匡監督から、とても面白い話を聞くことができました。これはもう、ストレートに記事に使えるネタです。助かりました。
 大塚製薬・岩佐敏弘選手からは、同社陸上部のサイトができているので、リンクしてほしいとの依頼。

 さて、肝心の国際千葉駅伝の取材。テレビでは男子のレースが終わってから女子のレースがオンエアされますが、実際には13:10に男子、13:20に女子がスタート。同時進行しているのです。しかし、記者室のテレビ画面は、男子はオンエア中の画像なのですが、女子はインターネット配信の動画なのか、とても粗い画像です。音声もなし。しかも今年は、なぜか学生選抜チームをずっと映している。もっと大きな大会だったら、記者たちが猛抗議をしていたはずですが、今回は皆さん、大目に見ていました。単なるケアレスミスの類と思われますし。
 その分、レース後の会見中に、選手たちにレース展開を確認しないといけません。しかし、誰も質問しないんですよ。どの新聞も、今回は男子中心なのでしょう。仕方がないので、寺田が聞きました。

 取材が盛り上がっていたのは男子の方。ナショナルチームに学生選手が3人も入っていましたし、佐藤敦之選手も復調し、次のマラソン(別大)が楽しみな感じになってきたからでしょう。さて、この時期の学生長距離選手となると、どうしても箱根駅伝に向けての話が多くなってしまいます。しかし、公式の会見中に「箱根駅伝の目標は?」と聞くのはできないかな、と思っていました。まずは、国際千葉駅伝の取材です。
 実際、学生選抜の上野裕一郎選手を追いかけているテレビクルーが、役員から「あまり箱根の話だけというのは控えてほしい」と言われていました。実は寺田も、某編集部から箱根駅伝に向けたコメントを某選手からとるよう、厳命を受けていました。うーん、どうしよう。
 と、悩むほどではありません。会見中はあくまで、国際千葉駅伝の質問をして、会見後のぶら下がりでパパッと箱根に関するコメントを取材させてもらいました。箱根駅伝主催筋の某記者と連携などしながら。なんとか上手く行きました。

 などと書くと、ニューイヤー駅伝と箱根駅伝の取材しかしていないじゃないか、と受け取られそうですが、そんなことはありません。それらはあくまで、“ついで”です。メインは国際千葉駅伝の取材。陸マガ次号を見てください。主催系の産経新聞・サンスポを除けば、日本で一番多く国際千葉駅伝の記事を書いた記者が寺田だということがわかるはず。
 元々、この手の国際駅伝って、好きなんですよ。以前はライフカードがスポンサーになってくれて、このサイトでも大々的に報道しました。何が良いかと言えば、世界選手権やアジア大会などのチャンピオンシップの国際大会と違い、比較的小さいプレッシャーで国際経験を積める点です。五輪代表クラスを並べて“ドリームチーム”を編成するのも良いのですが(普及や対スポンサーを考えた場合)、若手に経験を積ませるにはもってこいの場所。
 そういう意味で、学生選手が積極的に出場し、レースも積極的に展開しているのには好感が持てます。その辺を中大・田幸寛史監督が的を射た言葉で話してくれました。これも陸マガ次号で。
 よく、何の意味がある駅伝なの? と聞かれますが「普及と経験に最適の駅伝です」と答えています。

 “電車前”に120行、国際千葉駅伝の原稿を執筆。全部ではありません。


◆2006年11月24日(金)
 朝の10:00に東海大に。跳躍の植田先生の案内で長距離の大崎コーチの元へ。陸マガ箱根駅伝増刊号用にインタビューをさせてもらいました。話の内容は、自信満々だった昨年とは大きく違います。表面的に見たら正反対。
 昨年は4年生に中井選手、丸山選手、一井選手といて、下級生に伊達選手、佐藤悠基選手、杉本選手と揃い始めた年。チームが右肩上がりの時期で、その勢いのまま頂点に立とうとしていたのだと思われます。あくまで、寺田の推測ですけど。コニカミノルタがニューイヤー駅伝に初優勝したときが、それに近い感じで上手くいった例だと思います。
 しかし、今回の東海大は慎重なやり方。具体的にどんな内容かというと、それは陸マガ増刊箱根駅伝2007で。12月9日発売……って、寺田は日本にいないじゃないですか? いつ読めるのでしょう。

 取材後は東海大トラック脇のログハウスで原稿書き。20日に取材した日体大の記事が電車の中で8割完成していましたが、残りを1時間弱で仕上げて送信。昼食で混み合う前に退散しました。
 新宿の作業部屋に移動して、中国電力・坂口監督に電話取材。
 16:30から歯科医院に。かなり大きな詰め物というか、義歯に近いやつがとれてしまって、不便で仕方ありません。アジア大会取材前に治療しておかないと、向こうに行って苦労すると判断して、時間をこじ開けました。
 夜はスポーツ・ヤァ!の福岡国際マラソン展望記事を書き上げました。
 早大の原稿も仕上げるはずでしたが、途中でダウン。


◆2006年11月25日(土)
 早大の原稿を昼前に仕上げて送信。続いて東海大もと思ったのですが、構成でちょっと手間取りました。電話取材も2つほど。1つは沖縄で合宿中の某女子選手に。面白い話を聞くことができたと思いますし、取材以外のネタでもちょっと盛り上がりました。
 昼食(といっても夕方)をはさんで東海大の記事の構想が固まり、夜になってスピードアップ。所定の行数をかなりオーバーしてしまいました。仕上げ(行数削除)までには至らず。
 通常の記事の他にも、単行本の原稿も同時進行……するはずが、あまり進行しません。かなりヤバイ状況になってきました。


◆2006年11月26日(日)
 東海大の原稿を仕上げて送信。
 夕方から日体大長距離競技会の取材。
 ですが、一番の目的はニューイヤー駅伝展望記事用に、日清食品の取材をすること。岡村マネの段取りで、白水監督の話をしっかりと取材することができました。最終組終了後に、松村拓希選手と大島健太選手の話も。大島選手の話は、実業団駅伝公式ガイドにも掲載できそうです。徳本一善選手にもパパッと取材。
 カネボウ伊藤監督や、コニカミノルタ酒井監督の姿もありましたが、取材をする時間がありませんでした。レース中に話を聞くわけにもいきませんし。
 そういえば、ビジネスの話も1つしました。
 それにしても、日体大はいつ来ても風が吹きません。

 才本さん(フリーのテレビディレクター。今回はニューイヤー駅伝用の取材)たちと青葉台駅に移動。寺田はそのまま、駅前のミスドで“電車前”原稿書き。200行原稿ですが、100行ほど進んだところで、渋谷行きの最終電車の時間に。新宿まで移動して、午前2時までかけて一応、書き上げました。


◆2006年11月27日(月)
 昨晩書き上げた200行原稿の仕上げに、約2時間。午前中がそれでつぶれました。
 アジア大会代表の某選手に電話取材。この選手は沖縄ではなく、東京で練習しています。
 その後は、40行原稿を2本、60行原稿を2本。300文字前後の原稿を5本、書き上げました。そのうち2本は国際千葉駅伝関係で、千葉の“電車前”に書ききれなかった分。ビデオも見直したので、それなりに時間がかかりました。
 歯医者にも行きました。30分待たされて、治療に40分。歯も痛かったけど、時間がなくなっていくのがもっと痛かった。


◆2006年11月28日(火)
 昨晩、書き上げた40行原稿2本と、60行原稿2本の仕上げに約2時間。これが午前中。
 昼過ぎに長距離のK監督に電話取材。昼食後、44行原稿を3本。夕食に出かけて、マックで日記を少しまとめて書いています。
 このあと、120行原稿を書き上げないと。
 明日は八王子ロングディスタンスの取材ですが、試合の最初から行くのは無理そうです。ご免なさい、大島コーチ。


◆2006年11月29日(水)
 昼過ぎまで原稿を書いていてから、上柚木の陸上競技場に。八王子ロングディスタンスの取材です(コニカミノルタに全成績)。会場に着いたらダニエル・ジェンガ選手が他のケニア選手2人とジョッグ中。手を挙げて挨拶。あとで顔を合わせたときに、「来年はベルリンにする?」と質問。シカゴ・マラソンで今年も2位。2002年から5年連続3位以内(2位・3位・2位・3位・2位)を続けているのに、1回も勝てないのです。
「うーん、そうだねぇ……ベルリンかもね」という答えでしたが、“……”の間の部分に、シカゴでなんとか勝ちたい気持ちもあるように感じられました。今すぐ決める問題ではありませんが、注目されるところでしょう。そうか。世界選手権のケニア代表に選ばれたら、秋のマラソンはなくなりますね。
 そのジェンガ選手の八王子での役割は、例年のことですが、ペースメーカー。ヤクルト勢のアシストをします。何度も何度も振り返りながら走り、手で「この位置まで頑張って」と励まします。その甲斐あって、今年は新人の首藤弘憲選手(国士大OB)が29分03秒19と25秒も自己記録を更新しました。箱根では5区で区間最下位でしたが、ニューイヤー駅伝で雪辱しそうな雰囲気があります。などと書くと、箱根では失敗している印象を植え付けてしまいそうですが、3年生の時は4区で区間6位と好走しています。

 今年の八王子は珍しく、風もなく穏やかな天候で、C組あたりまでは少し暖かすぎるくらい。だいたい狙った記録ではフィニッシュしていますが、もうちょっと欲しかったところです。26日の日体大と選手が分散する傾向にありますが、山陽特殊製鋼勢は連戦に挑戦していました。日体大で28分台で走った2年目の中東選手と、報徳学園から入った1年目の渡邊和也選手が、今日も29分台前半できっちり走っていました。
 A組のトップは秋葉啓太選手で28分19秒94。手元の資料では自己新のはず。今季は29分を切っていませんでしたが、日本選手権で7位に入っていますから力はついています。ニューイヤー駅伝でブレイクする可能性のある選手でしょう。28分20秒台前半で続いたのが大阪ガスの渡邊浩二選手と高橋剛史選手。正直、驚かされました。関西実業団駅伝で7位と、ニューイヤー駅伝の出場権を逃した悔しさをぶつけたという感じでしょうか。

 さて、今回も大会開催に奔走したのがコニカミノルタの大島コーチ。協賛も26社を数えるまでになりました。ほとんどが陸上競技部を持っている会社ですが、明治乳業クレーマージャパンなどの名前も見られます。各社の看板がトラックの内側にズラリと並んでいて、これがまた壮観です。聞けば、コニカミノルタの最新技術を使って製作していて、従来よりも綺麗に、しかもお手頃価格で製作できるのだそうです。
 クレーマージャパンは優勝者と日本人トップ選手に、ベストなどの賞品を提供しているとか。大塚(国士大OB)&青葉(帝京大OB)のトップ営業マン2人が来場していました。明治乳業も力が入っていました。スタッフもかなりの数が来ていたようです。ここまで、陸上競技をサポートしてくれる企業は、本当にありがたい存在。
 7〜8年前のことですが、箱根駅伝の事前記者会見(記者発表?)で、大会スポンサーがお土産としてビールとお菓子を、出席者が帰る際に配っていました。「そんなものもらわなくても、しっかり取材しますから」と受け取らなかったことがありました。しかし、今回のクレーマージャパンや明治乳業のような企業は、協賛する姿勢が違います。帰りがけ、VAAMやタオルの入ったお土産袋を、ありがたくいただきました。


◆2006年11月30日(木)
 本日、最終的な決断を下しました。福岡国際マラソンの取材には行きません。行けなくなりました。アジア大会前に終わらせないといけない仕事が山積み状態で、どうにも身動きがとれません。
 福岡の仕事をやる可能性があった取引先(雑誌など)には、10日くらい前に伝えてありました。ホテルも2日ほど前にキャンセルしました。でも、最後の最後まで、どこかで驚異的に仕事が進んで行けるようになるのではないか、というかすかな希望は捨てていませんでした。それを今日、最終的にあきらめたということです。
 10月にある仕事を引き受けたときの見通しが甘かったな、という悔いが残ります。
 福岡は寺田にとって、数あるマラソンのうちで別格の存在です。初めて福岡に行ったのが、フリーランスになった2000年。以来、6年連続で取材に行っていますが、こういう形で途切れることになるとは、不徳の致すところというか、能力不足ですね。
「今年は九州だっ!!」と1月に言い始めたときは、当然12月の福岡行きも計算に入っていました。1月の北九州女子駅伝、2月の熊日30km、3・4月にまたがった世界クロスカントリー選手権(福岡)、9・10月にまたがった全日本実業団(大分)、そして12月の福岡国際マラソンと、7カ月の九州最多滞在を記録できると確信していたのですが。

 今日はスポーツ・ヤァ!の発売日。福岡国際マラソン展望記事は、藤田敦史選手を中心に書きました。国際千葉駅伝のあった23日の朝に電話取材をした選手が、同選手だったのです。スポーツ・ヤァ!誌面には、レースに臨む意気込みの部分と、00年・05年と2週間前にピークが来てしまった反省から、練習の流れを変え、従来の2週間前の練習が、レース直前に来るように調整したことを書きました。
 紹介できなかったネタもたくさんあります。藤田選手が話してくれたことを箇条書きにして紹介すると、以下のような感じ。かなり、手応えを感じている様子でした。
・ゲブルセラシエを想定したイメージトレーニングもしているが、昨年のように誰が出てくるかわからないので、ライバル視する選手は決めつけていない。
・ガリブは過去の世界選手権のレースなどから、スパートは一瞬で長続きはしないのではないかと思っている。30kmあたり、ちょうど折り返しのあたりで動きがあるかもしれない。去年もパラノフスキーが(32kmで)スパートした。ポイントの1つになるのではないか。
・今回、記録が出るかどうかは気象条件もあるのでなんとも言えないが、6年前の記録(2時間06分51秒)を生涯記録にはしたくない。高岡さんの日本記録を上回りたい。
・ニューイヤー駅伝のあとに故障や体調を崩したこともあり、春先にあまり走れなかった。例年は春にスピードをやって、7月にハーフに出て、夏に走り込んで、秋にトラックを1回やって、福岡前に仕上げるパターンだった。今年は春ができなかったが、夏から体調がよくなって、例年と同じくらいの練習ができている。去年は1年を通じて走れていて、直前に落ちてしまったが、今年は大きな流れが作りやすかったように思える。
・全日本実業団の1万mも良い感触だった。今年は札幌ハーフを走っていないので、ニューイヤー駅伝の後の試合は5月のゴールデンゲームズin延岡と、9月の全日本実業団、そして今度の福岡。九州を北上している。


 さて、今日で11月も終わり。そういえば、今月のキャッチコピー(日記の上から2行目)を変更するのを忘れていました。「淡路、伊勢、飛騨…」に続いたのは「土佐」でした。


◆2006年12月1日(金)
 福岡には行けませんでしたが、本日の記者会見の写真を入手できたので掲載しました。各選手が色紙に目標を書いて手にしていますが、面白いと思ったのは諏訪利成選手。「無」と記していますね。理由を直接聞いていないので、何を意味するのかはわかりません。言えるのは、諏訪選手が元々、目標設定の仕方に特徴がある選手だということです。
 2位となってアテネ五輪代表を決めた03年の福岡も、レース後のコメントがちょっと変わっていました。
「国近(友昭・エスビー食品)さんの方がアテネへの思いが強かったということ。これがいい経験になって次に頑張れればいい。悔しいけど、それほど悔しくはない。2月の東京か3月のびわ湖に出てもいいし、4月の海外マラソンに出てもいい。オリンピックがダメでも記録を狙っていきます」
 断定した書き方はしたくないのですが、仮に節目となるべき試合でも、そこを最大目標にしない傾向が諏訪選手にはあります。6位入賞したアテネ五輪についても、そこで結果を残すことにこだわっていませんでした。オリンピックを経験することで、その後、世界でも戦っていける選手になりたい、という目標の過程としてとらえていました。
 この考え方って、すごいと思いません? 海外の賞金レースよりも、オリンピックを最高価値とするのが日本社会。日本選手にとって、オリンピック以上の目標はありません。それを諏訪選手は、ステップだと考えたのです。「箱根駅伝はステップ」だという学生トップ選手のような感覚でしょうか。

 でも、この目標設定の仕方は、ある意味、結果を出せる設定の仕方に思えます。箱根駅伝はステップで、オリンピックが大きな目標と言っている選手でも、実際に好結果を残せるのは箱根駅伝の方で、目標と言った国際大会ではダメというケースが多い。国際大会の方がレベルが高いから当然なのですが、目標を高く掲げると、それより低く位置づけた大会で好結果を出せる傾向はあるように思います。実際に、その大会に全力を尽くさないわけではありませんし。
 個人的なことに当てはめて恐縮ですが、昨日の日記に書いたように現在、仕事が山積み状態です。いつもだったら、これだけの行数を書いたら一息入れるだろうな、という原稿を書いても、すぐに次の原稿に集中していけます。最初から、次もあるぞと意識し続ければ、そういったことができるのかな、と感じています。それでも、全日本実業団対抗女子駅伝が終わったら、休みたいと思っていますけど。

 その諏訪選手が、05年のロンドンで7位になりながら、その後の目標設定に苦しんだと、新聞記事は報じています。でも、その記事によれば、今回の福岡で世界選手権の切符を取れなくても臨機応変に考えていく、と現在は考えているようです。記者会見で「無」と書いた意味を、取材できないのが残念です。


◆2006年12月2日(土)
 福岡国際マラソン前日。昼過ぎに朝日新聞福岡の原田記者(全日中4位)に電話。電話の向こうから現地の緊張感が伝わってきます、と書きたいところですが、いつもの穏やかな口調。取材に行けないお詫びをしました。そのときわかったのは、藤田敦史選手の30歳代初取材をしたのが同記者だったということです。
 国際千葉駅伝のあった23日の朝に電話取材をした際、「11月6日(藤田選手の誕生日)から後に取材を受けたのはこれが最初?」と質問したら、すでに朝日新聞とテレビ朝日の取材を火曜日に受けたと話していました。それが原田記者だったのです。だからなんだ、というわけではありませんが、同選手の40歳代初取材は狙いたいと思います。

 昨日の日記の捕捉ですが、目標を1つ高いところに設定しておくと、その一歩前の大会では力まずにすむのかもしれません。インターハイでの入賞を目標にしているから、地区大会は普段通りに力が出せて、好記録が出せたりします。ところが、インターハイ本番になると、力を出せる選手が限られてくる。世界選手権のメダルとか入賞を目標にしているから、日本選手権では力を発揮できる。ところが、世界選手権になると…という図式ですね。
 昔の日本はアジア大会で強かったのは周知の通り(1982年まで)。中国やアラブ諸国、中央アジア諸国が台頭していなかったから、というのが最大の理由ですが、今よりも力を出し切れていたような気もします。当時はアジア大会を、今ほど“結果を出すべき大会”と意気込んでいなかったように思います。(金)メダルを取って当たり前、という感覚だったのではないでしょうか(1960〜70年代)。
 もちろんそういうケースばかりではなく、昨日の例でいえば、箱根駅伝を最大目標にして、箱根できっちり力を発揮できる選手もいるわけです。日本選手権だからと入れ込んでも、力を出す選手もいます。今回紹介したパターンが、絶対に当てはまるとは限りません。

 川本和久監督のブログ池田久美子選手の書き込みがありました。前回の釜山大会の思い出を紹介しつつ、ドーハへの意気込みを書いてくれています。スズキのサイトには、「今は何に対しても、余裕を持って臨むことができている。変に余裕ぶるのではなく、やることを確実にやって金メダルを取りたいですね」とコメントが出ています。
 別に手を抜いているわけではないし、前回の失敗があるから絶対に金メダルは取りたい。でも、どこかに余裕がある。アジア大会も、来年の世界選手権や北京オリンピックへのステップという位置づけ。池田選手、いい感じではないでしょうか。


◆2006年12月3日(日)
 福岡国際マラソンを7年ぶりにテレビで取材。現地にいてもテレビ取材をするのは同じ……そうですね、その辺の話を少し。福岡の報道車には2回くらい乗りましたが、前半は道が狭いこともあって、ずっと後方何10mの位置からしかレースを見られません。後半は少し近づけますが、中継車など大会関係車両が増えた今日では、選手に近づいて表情を観察するなんてことは、なかなか難しい。できるかどうかは運次第でしょう。風の強さとか冷たさを実感できるのが、数少ないメリットでしょうか。でも、その辺も、走っている選手と同じ体感になるわけではありません。
 ということで、現地に行っても東京にいても、同じ絵柄を見るわけです。しかし、緊張感はまるで違います。フィニッシュの直後に何人ものコメントをとらないといけない状況と、何もしなくていい状況。一応、今回は取材モードで見ましたが、やっぱり、取材現場に身を置くほどの緊張度合いにはなりません。

 一般視聴者も記者も同じ絵柄を見ていますが、気持ちはまったく違うと思います。記者は、レースのどこを突っ込んで取材しようか、と考えて見ていますから、見ている点も違うでしょう。記者のなかでも、データ的なところに面白さを感じている記者もいれば、ドラマ性に着目している記者もいる。代表争いなんてどうでもいい、と考えている記者もいるかもしれませんが、紙面には出さないといけないから取材はしないといけないかなあ、と考えている記者もいます。
 もしかすると、緊張感が邪魔をして、見落としてしまっている点もあるかもしれません。

 今日のレースで感じたことは、外国人選手が強いな、ということ。福岡で外国選手が1〜3位を占めたのは99年以来のこと。強いのはわかっていたのですが、3人が揃って、ここまで走れるとは予想外。だいたいどのマラソンでも、調子の良い外国選手って1人か、多くても2人というのが近年の印象なので。
 しかし、同じ外国人選手でも、よく見ると違いがある。ゲブルセラシエ選手はバネを効かせた典型的なトラック走法ですが、ガリブ選手はロード向きのピッチ走法。ですけど、ラドクリフ選手もそうですし、バネの効いた走りの選手がこれだけマラソンに進出してくると、トラック向き・ロード向きという定義の仕方も、考え直さないといけないかもしれません。
 その2人に、白人のバラノフスキー選手も加わっていました。人種は違いますが、ゲブルセラシエ選手同様、バネの効いた走り。かつては1500mが専門でした(1年前の記事参照)。

 日本人選手については、やっぱりマラソンは難しいのかな、という印象を、特にレース直後は持ってしまいます。でも、夏場のマラソンのスピードだったら、日本もまだまだ通用する。というか、バネを効かせた走法の選手が、逆に脚が詰まる状態になってしまう。今日の結果をもって世界選手権、オリンピックで戦えない、と結論づける根拠はありません。
 国内のレースもコンディションを合わせやすいから、まだ戦えます。一番難しいのはシカゴやロンドンなど、有力選手の集まる高速レースで1〜3位に入ることでしょう。

 おっと、他人の心配よりも、自分の心配をする方が先。原稿の進行度合いが、昨日はまあまあでしたが今日はスローダウン。水曜日にはアジア大会に出発しないといけないのですが…。


◆2006年12月4日(月)
 午前中から昼過ぎにかけて、電話取材を一気に4本。全員が長距離の監督さん。ある監督さん(オリンピック選手)は昨日のゲブルセラシエのことを「あの走りをされたら、どうしようもない」と話していました。
 そのうちの1人の監督さんが「昨日、福岡で見かけたよ」と言ってくれました。なかなか鋭いですね。実は、内緒で現地に行っていたのです。その一方で、「福岡に来ていませんでしたね」というメールも届いています。うーん、真実やいかに。

 そろそろアジア大会モードに切り替えないといけません。川本和久先生、川越学監督とネット上はもう、アジア大会色に染まり始めています。寺田も明後日には出発ですが、その前にやらなければいけないことがある。言わずと知れた、原稿書き。
 単行本(トレーニングもの)の原稿が残り34ページなのですが、そのうち18ページ分を11時に送信。残り16ページは、2・4・4・4・2ページと項目が分かれているので、精神的には少し楽になりました。でも、今日明日は駅伝関係の原稿に忙殺されます。謀殺ではないのがせめてもの救いですが、ドーハに持ち込むことになります。
 午後からは駅伝関係の原稿にかかったのですが、夜の4時間が別の仕事に割かざるをえませんでした。仕事以外のメールへのリプライは、いかに短時間で書けるかです。いつもが時間をかけすぎなんですよ。20分、30分かかることも、ちょくちょくあります。それが問題?
 駅伝関係の原稿は400行と230行(ネタ的には9本)と130行。今日は400行原稿が230行までしか進みません。締め切りには遅れていないのですけど。
 230行原稿か130行原稿のどちらかはドーハへの機内で書くことになりますね。持ち歩く資料がまた、多くなりそう。パリの世界選手権のときのように、重量超過チャージの可能性があります。日本から出国するときはOKで、ドーハから帰国しようとするときに10万円とか取られたりして。まさに“ドーハの悲劇”…。


◆2006年12月5日(火)
 アジア大会にはいよいよ、明日出発。今朝、高野徹カメラマンからメールが来て、現地の状況もわかってきました。「快晴でも風が冷たいのでやはりシャツ+ウィンドブレイカーという感じです。夜は更に軽いセーターが必要かもしれません」ということです。円から現地通貨への両替レートも高いとか。これから出発される人……っているのかわかりませんが、参考にしてください。
 懸案はネット接続ですが、「完璧です。お金さえ払えば……」という環境だそうです。我々が泊まるホテルで1日3000円、MMC(メインメディアセンター)で2000円だそうです。なんたる値段! カタールたる値段! そういえば某長距離チームは、1泊15万円のスイートルームに3人で泊まると言っていました。もちろん、好きこのんで泊まるのではなく、他に方法がないのです。
 ドーハ当局は16連泊を強要したり、この機を逃すな! とばかりにたたみかけてきます。ドーハ大ぼったくりアジア大会と、後世に語り継ぐこととしましょう。
 とか書いていますが、1週間後の帰国時には、カタール良い国一度はおいで、とか、書けるようになっているといいなあ、と思います。

 夕方には陸マガ高橋次長から取材分担や、原稿締め切りのレジュメ・メールが届きました。ネットを見れば、室伏由佳選手や川越学監督高橋昌彦監督と、皆さんドーハの情報を書いてくれています。陸上界はもうドーハ一色。
 しかし、原稿は駅伝です。さきほど400行原稿を書き終えました。日記を書いて気分を換えてから、見直し作業をして送信します。230行原稿も、半分くらい書きたいですね、今晩中に。明日の出発までには書き上げないと。これは、某スポーツ新聞の全日本実業団対抗女子駅伝の展望です。機内でも女子駅伝関係の130行原稿が待っています。駅伝のおかげで、日本の陸上界にお金が回ってきているのです。たぶん。

 高野カメラマンからの情報をもとに、着ていく服を決定。スーツケースへのパッキングも、ちょっとずつ進めました。洗剤や洗濯ばさみも忘れていません。栄養補助食品や薬の類も。資料のコピーは家族T氏の尽力で、もう終わっています。留守中のテレビ録画予約もやってもらいました。もちろん、アルバイト料を払っていますけど。
 あとは出発前1時間半くらいの準備で大丈夫でしょうか。16:30までが原稿を書ける時間ということです。


◆2006年12月6日(水)
 なんとか、ドーハに向けて出発することができました。この日記は、関空に向かう機中で書いています。

 今朝は10時に起床。前回の釜山アジア大会が最悪の体調で行った反省から、しっかり5時間睡眠時間を確保しました。この2〜3日、中東時間に合わせて生活しているのです(単に原稿が書けなかっただけではないのか、という根拠のない憶測をしないように)。
 15:30まで原稿書き。230行原稿のうち、5本110行を書き上げたところで、昼食と買い物に。作業部屋に戻ったのが16:30。もう出発準備にかからないといけません。45分で終わらせて、45分は原稿を書こうと思ったのですが、結局、出発準備が整ったのが18時5分頃。原稿は……これから頑張ります。

 18:10頃に福間先生に電話。電話をした目的はもちろん、世間話です。アジア大会の男子4×400 mRは、メンバーが金丸祐三選手、堀籠佳宏選手、山口有希選手、向井裕紀弘選手と4人しかいません(4×100 mR要員に、400 mを走れそうな選手も何人かいますけど)。醍醐直幸選手が、マイル第5のメンバーを狙っているという噂があったので、その真偽を確かめようと思ったのですが、それは控えて、醍醐選手の出発前の状態を聞きました。
 それって取材じゃないかって? そうともとれますが、広義の世間話かな、と。

 羽田空港には19:45に着。羽田→関空→ドバイ→ドーハまでのチェックインを済ませます。関空で乗り換え時間が1時間ちょっとしかないのですが、荷物のピックアップも、座席指定も羽田でできるので、短時間でも大丈夫なのです。
 出発ゲートに行くと、ミズノの中村次長と、トラッククラブの長谷川順子マネがいらっしゃいました。「今頃ですか」などと話をしていると、千葉真子選手もやってきました。TBSで放映するマラソンのリポーター役とのこと。日曜日に放映されたばかりの、ジャンクスポーツで、「これからは(男性との)お付き合いも」と話していたので、その辺の突っ込みも少し、させていただきました。

 関空でミズノ・岩本トレーナーも合流。
 出発まであと30分。ドーハに着いたら、何か書くでしょう。


◆2006年12月7日(木)
 乗り継ぎのドバイ(アラブ首長国連邦)に着きました。これまで利用したヨーロッパの国際空港と比べても、ターミナルの店や人の数は引けを取らないような……と一瞬思いましたが、よくわかりません。店の雰囲気はヨーロッパと変わりません。でも、よく見ると、モスクがあるんですね。イスラム寺院の外見をしていればすぐにわかりますが、普通にターミナルの通路に面しているので、見逃すところでした。
 しかし、朝の6時に着いたのに、これほどたくさん人いるとは思いませんでした。人種も多様です。アラブ系、アフリカ系、東アジア系、ヨーロッパ系。これまで見たなかで、人種の割合が一番拮抗している空港です。しかし、ヨーロッパ系が一番少ないかも。
 目つきの鋭い中国系の人たちは、みんな香港マフィアかチャイニーズマフィアに見えます。ちょっと怖いのですが、向こうも寺田のことを、ジャパニーズ・マフィアと思っているかもしれません。外国人同士の認識なんて、そんなものでしょう。

 ドーハへの便の搭乗口近くには、中国選手団が大勢いました。体格にばらつきがあるところから、陸上競技と想像できます。レスリングや柔道のような、体重別の体格の違いとも、ちょっと違うんですよ。ミズノの中村さんも「陸上だよね」とおっしゃってくれたので、間違いないでしょう。
 ここでも、中国選手はみんな体格はいいし(骨格とか、日本人とちょっと違いますよね)、顔つきが鋭くて、どの選手も強そうです。きっと、中国選手が日本選手を見るときも、同じように感じていることでしょう。

 原稿は230行ものやっと、先ほど終了。深夜便はさすがに眠くなるので、なかなか筆が進みません。40行を書いて、ちょっと休憩して15行、ちょっと仮眠して、朝食後に30行、ドバイに着いて50行という感じで進めました。仮眠といっても、うつらうつらするだけ。飛行機の中で座ったまま眠れる人がうらやましいです。取材帰りの電車とか、眠れるのですけど。
 残りは130行原稿を今日中に。単行本は……。

 ドーハに9:30だったか、その頃に着。タラップを降りてバスでターミナルに向かうのですが、ここで大きなミス。アジア大会関係者用のバスと、一般用があったらしいのですが、寺田は気づかずに一般用のバスに乗ってしまいました。バゲージクレイムでスーツケースががなかなか出て来なくて、ミズノの岩本さんに聞いたら、中国選手団は別のバスで行ったとか。そういえば、バゲージクレームの周辺に、中国選手が1人もいませんでした。
 そこで、「Lost & Found」コーナーに行って交渉。連絡してくれて、一般用の場所で受け取れることになりました。しかし、しばらくして係員がこちらに来て、「あなたの荷物はないから、ロストバゲージの受け付けをして行くように」と言います。そういうことがあると覚悟はしていましたけど、いざ、行方不明になると痛いですね。99年のセビリア以来でしょうか、ロストは。
 しかし、20分くらい受付窓口に並んでいると、いくつかの荷物が出てきたようで、前に並んでいた韓国人などから、歓喜の声が上がります。寺田もタグを見せると、「見つかった」とのこと。しばらく待つと、ターンテーブルが回りだして、スーツケースなどがいくつか吐き出されました。寺田のスーツケースはびしょ濡れ。どうやら、雨脚が強くなっていたようです。

 ここで一安心のはずが、続いて問題が。寺田のスーツケースが運ばれていた先は「アジアン・ターミナル」というみたいで、何度か質問の回答の中に、その言葉が聞かれました。一般用のターミナルの外に出ると、大会関係の窓口は1つもありません。これは、そのアジアン・ターミナルに行った方がいいかな、と思って、11月末から現地入りしている陸マガ高野カメラマンに電話。やはり、アクレディテーション(IDカードの受け付けなど)をそこでしないといけません。
 同じ空港のターミナルだから問題ないだろうと思っていたら、これが空港外。最初、何人かの空港係員に尋ねたのですが、向こうもアクレディテーションが何のことかすぐにわからないのと、車で10分以上も離れた場所に歩いて行こうとしている意図が理解してもらえず、かなり手間取りました。結局、歩いて行くの絶対に不可能だとこちらも理解し、タクシーで行きました。両替はドバイでしてあったので問題なし。ドーハでもできたと思いますけど。
 その後接した大会関係者や、ボランティアの方たちはみんな親切でした。この頃には、雨もほぼ上がっていました。12時前にRAMADAホテルにチェックイン。空港以上に念入りに、荷物検査を受けました。同部屋の高野徹カメラマンは、午前中は競歩の取材、夜に女子サッカーの取材があるため、まだ対面していません。3000円を払って、有料の有線LANに接続。陸上関係各サイトをチェックしました。

 ところで、来る途中のどこかで、ミズノの岩本さんに、奥さん(岩本敏恵選手、旧姓・北田)のアジア大会はどうでしたっけ? と質問。86年のソウル・アジア大会の成績が悪くて(予選落ち?)、北京で雪辱を期していたのに故障で代表になれず、それで94年の広島100 mで日本新(11秒58)の4位という結果を出したのだそうです。思い出しました。他の何人かの選手と一緒に、陸マガの記録集計号の表紙にもさせていただきましたね。
 岩本さんの話を聞いて、一気にテンションが上がったというか、アジア大会モードになりました。しかし、ホテルに着いて有料でメールを見ると、厳しい原稿の催促。一気に現実モードに戻されたというか、大量の原稿を抱えてドーハ入りしたことというか、自分の無能ぶり(優柔不断ぶり)が悔しくなりました。
 近くに、ドーハとしては店の多い通りなどもあるようですが、ホテルにこもります。ホテルの窓から見える風景の写真でも載せたいのですが、砂埃でガラスが汚れていて撮影は無理ですね。
 16:35。先ほどから再び降り始めた雨と、風もちょっと強くなってきました。


◆2006年12月10日(日)
 アジア大会取材3日目(陸上競技は4日目)。
 午前中は男子マラソンの取材。レース展開はたぶん報道されていると思うのですが、現地では2位のヤシーン選手(バーレーン)と3位の大崎悟史選手(NTT西日本)が、いったんは同着と発表されました。しかし、その後2位・3位に訂正され、再度同着と表示されたものですから、混乱に拍車がかかってしまったわけです。
 日本選手団も事情説明を求めましたが、判定写真を見せられて引き下がりました。大崎選手も表彰式ではヤシーン選手と握手。「メダルの色が変わってしまったのは残念ですが、最後まで力は出し切れたので」と、しっかりした態度で話していました。
 ちなみに、日本の記者の質問に対し現地の計時役員は、1000分の1秒まで計時が2時間15分35秒378と2時間15分35秒381だったことを明かしました。

 しかし、負けはしたものの大崎選手の力は、十分に発揮されたと思います。終盤は3人の集団の一番前で積極的に走りました。あくまで、優勝したシャミ選手(カタール)を追い続けていたのです。しかし、往復コースなので前の選手の脚勢がわかります。35kmで金メダルは無理と判断して、銀メダル狙いに変更。フィニッシュ前で5mくらいは離されましたが、「銀メダルと銅メダルでは違う」と最後に0.003秒差まで追い込みました。それもこれも、純地元である大阪の世界選手権に出たい、という気持ちから。
 レース後に上窪隆夫コーチ(NTT西日本監督)が明かした話によれば、1カ月くらい前に風邪を引き、そのマイナスを取り返そうと、30km・40km・30kmと距離走を1週間でつめこんでやってしまった結果、太腿裏の筋が硬くなってしまったのだそうです。なんとか治して最後の刺激練習も上手く行ったようですが、現地入りする飛行機で再発。上窪監督は30kmまで本当に心配していたと言います。
 それでも、レースぶりからは、その間のアクシンデントを感じさせるところがありません。どんな状態でも、マラソンとなればしっかりまとめる大崎選手の力は、かなり評価できると思います。

 午後の部では成迫健児選手、沢野大地選手、池田久美子選手と日本が金メダル3連発。3人とも金メダルの確率が高いと言われていた種目ですが、きっちりと勝ってくれました。その辺の“勝ち方”を記事にしたいのですが時間がありません。
 ここでは1つだけ。会場でしかわからないことを書きます。昨日の男子走高跳でもそうでしたが、土屋光選手が手拍子を求めても、観衆は反応してくれませんでした。スタンドの一画の日本選手団だけが拍手をする。
 今日の池田選手も同様で、1・2回目とまったく無反応。逆に、前回金メダルのジョージ選手(インド)には大歓声。アラブからインドあたりまでの選手には、すごい応援があります。移住してきたり、働きに来ている人たちが多いからでしょうか。もしかすると、あまり、拍手をする慣習がないのかもしれません。
 3回目にちょっとだけ反応がありましたが、4回目は1500mに優勝したカタール選手のウィニングランと重なって、再びなしのつぶて。しかし、優勝が決まった6回目の跳躍のときは、スタンドも沸いていました。
 そして池田選手のウイニングラン。5月の国際グランプリ大阪で記録表示盤に跳ねて行ったように、ウイニングランの足取りにもバネがありました。そして何より、表情が抜群に良かった。カメラマンたちが撮った写真を見せてもらうと、本当に生き生きとした笑顔です。あの笑顔をされたら、どこの国の観衆だろうと、引き込まれてしまうのではないでしょうか。

 個人的には、笑顔に魅了された観客たちとは、また違った感情だったと思います。
 最後にもう1つ。こちらが涙が出そうになったのは、丹野麻美選手がインド選手をフィニッシュ直前で1人抜いて、銅メダルをとったとき。86年ソウル大会の磯崎公美さんの400 m銅メダル以来のアジア大会でのメダル。実に20年ぶりです。女子短距離は、アジアからも置いて行かれ続けている状況だったのです。その流れに歯止めをかけられました。
 でも、丹野選手のことだから、控えめなことしか話さないと思っていました。それが、レース直後の高揚感もあったのか、「後に続いていただけたらいいと思います」とコメントしたのです。“いただけたら”という部分は、丹野選手らしかったと思うのですが。ここまで話してくれたら、ドーハでスタバに行ったのか、とか、アラビック・コーヒーは粗挽きなのか、とか、そういう話はできませんでした。
 今日、川本和久先生の門下生が、丹野麻美選手が銅メダル、久保倉里美選手が銀メダル、そして池田選手が金メダル。釜山のアジア大会ではまったく力が及ばなかった種目ばかり。「銅で泣き、銀で泣き、金で泣いたよ」と同先生。
 本当に、おめでとうございました。


◆2006年12月11日(月)
 アジア大会取材4日目(陸上競技は5日目)。
 決勝種目がなく、日本選手の出場も少なかったので、午前中の部は取材に行かずに、ホテルでひたすら原稿書き。わざわざドーハまで来ているのにもったいない、と思われるでしょう。アジア大会を直接見られる幸せを、なんだと思っているのか、と。自分でもそう思うのですが、本当にどうにもならないのです。
 昨日も、MMCからカリファ・スタジアムに移動するバスで、三重の二枚目助教授にして東海学連ヘッドコーチの三重大・杉田先生にお会いして、スタジアムのあるスポーツシティには見るべきものがたくさんある、とお聞きしました。カタールのスポーツ政策などにも、ちょっとは触れることができる。毎日、そういった施設の目と鼻の先にいるのですが、今回は原稿を優先せざるを得ません。
 という書き方をしても「馬鹿ちゃうん?」と思われるかも。でしたら、仕事を依頼してくれる相手(クライアント)への感謝の気持ちを優先しないといけない、と書いたら、少しは理解を得られるでしょうか。単に、言い方を変えただけなのですが。

 15:40にスタジアム着。ドーハでの取材生活にも慣れてきて、余分な神経は使わなくてよくなっていますが、一昨日に記者のパソコンが盗まれる事件もあったようなので(セキュリティーで東芝パソコンの製造ナンバーがチェックされていました)、昨日からはプレスルームの机に、機材を置いたまま取材に行くことはやめています。ロッカーがあるので、それほど大変でもないのですが。椅子の数にも余裕があって、満席になることもない。この辺は楽です。
 しかし、午前中の記録をチェックすると、十種競技の田中宏昌選手が棒高跳で記録なし。今日は風が強く、予報ではサンダーストームの可能性もあるみたいだと、某専門誌E本編集者が言っていました。その辺の影響を受けてしまったのでしょうか。この点については、競技の様子を見ていた米倉照恭コーチに取材をして、状況を確認しました。
 それによると、円盤投から棒高跳までのインターバルが短く、十分な練習時間がとれなかったようです。風も強くて、ポールを立てる状態まで行かなかった。1回目の試技でそのチェックをしようとしたけど、強風でスタートが切れない。最後に無理やり助走は開始したが、ボックスの手前で止まらざるを得なくて、結局時間切れ。2回目がチェックのための跳躍になり、3回目でやっと跳躍というところまできたけど修正しきれなかった。しかも、最後の跳躍で右ヒジからボックスに落下して強打してしまったとか。
 全体に悪い状態だったことが遠因。1日目から失敗種目があり、次の種目で切り換えようと思ったところでまた失敗。混成競技の悪い方向にはまってしまったようです。

 レベルが高かったのが男子砲丸投。1位が20m42で2位が20m05、3位が19m45。過去3大会は19m前半で優勝していましたから、一気に1mもレベルが上がったわけです。1・2位のサウジアラビアとカタールの黒人選手は、いかにもアメリカ的な雰囲気。スタンドの記者席に記録を配ってくれるカタール人の役員に、「このカタール選手はどこの国の生まれですか」と質問。「知らないけど、この名前はアラビックだ」という答えです。名前はアラビア風に変えられますからね。
 あとで大会サイトを見ると、BirthCountry が記載されていて、Qatar となっていますし、言語は「アラビア語」。移住者も多い国ですから、間違いないでしょう。優勝したサウジアラビア選手は、BirthCountry は記載されていませんが、短距離など黒人選手も多くいる国なので、帰化した選手と推測する根拠はありません。
 しかし、カタールの中・長距離選手の多くは、ケニアからの帰化選手。バーレーンなどに、モロッコからの選手も数人います。カタールのスポーツ政策については、ちょっと感じるところがありました。現地に来たから感じられたことです。この件については、日を改めて書くつもりです。

 さて、大会もいよいよ終盤。今日からリレーも始まりました。男子4×100 mR予選は1組1位のタイが39秒45。E本編集者がタイのバトンパスの上手さを、盛んに褒めます。98年のバンコク・アジア大会も取材に行っていて、4×100 mRが同国の国技というくらいの存在だと実感したといいます。4×100 mRのある日だけ、観客が多いのだそうです。それに対し、中国はバトンパスでミスをすることも多いと。すかさず寺田が、「国土の小さい国ほどバトンパスが上手く、広い国は下手」との持論を展開しました。
 2組の日本(塚原・末續・大前・高平)は詰まったパスが多くて39秒39。パスの巧拙というより、安全運転のバトンでした。短距離はそれほど良い記録が出ていませんが、明日の決勝は38秒台中盤までは行くでしょう。


◆2006年12月12日(火)
 アジア大会取材5日目。陸上競技は6日目で最終日です。
 今日は110 mHで中国の強さに唖然とさせられて、男子4×100 mRでタイに同タイムで敗れて茫然としてしまい、男子4×400 mRで4位と大敗して愕然としました。ミックスドゾーンの日本選手の様子は、110 mHの内藤真人選手は「史(2位のシ・ドンペン)が予想以上に速かった」と脱帽し、4×100 mR2走の末續慎吾選手は「負けた。悔しいです」と足早に立ち去り、4×400 mR2走の金丸祐三選手は「バトンミスはもらう側の責任。若いからとか、後があるからではなく、次が最後という気持ちでやる」と、普段の同選手からは想像できないようなトーンで話しました。
 最終日に1つでも金メダルがあれば上げ潮ムードになれたのですが、残念でした。

 しかし、健闘といえる種目もいくつかありました。男子やり投の村上幸史選手は前回と同じ銀メダルですが、シーズン終盤の不調から脱して勝負強さを発揮。女子1500mの小林祐梨子選手も、最後の周回でいったんは4位に落ちながら、最後の直線で競り勝っての銀メダル。女子4×100 mRの銀メダルも、82年以来の最高順位です。
 記録が悪かったのは寒さと風のせい。そこはとやかく言うべきではありません。でも、現地に来ていない人は、その辺がピンとこないから、記録だけ見てとやかく言うんでしょうね。ホント、記録は出せる気象状況ではなかったですね。トラックの材質も、硬いけどチップという、日本にはないタイプで、記録を出しやすかったのかどうか。

 最終種目の4×400 mR終了後、向井裕紀弘選手にバナナを渡しました。お腹が減っているか確認してから。金色のバトンのつもりで持参したのですが、ちょっと残念です。
 あまり総括するのは好きではありませんが、日本選手団のMVPは間違いなく池田久美子選手。MVP大学も福島大でしょうか。池田選手の金、久保倉選手の銀、丹野選手の銅と、全色を揃えました。それを言ったら東海大も同じですね。末續選手が金で塚原選手が銀、醍醐選手が銅。期待度を上回ったのは福島大ですが、男子短距離という最も激戦の種目で結果を残したのは東海大。甲乙はつけられません。
 日大も沢野大地選手が金、村上選手が銀と頑張り、筑波大は400 mHコンビの成迫健児選手と河北尚広選手で金と銅、小幡佳代子選手も銅でした。なかなかすごいのが国士大。嶋原清子選手、坂倉良子選手、海老原有希選手の女子トリオで銀銀銅。坂倉選手は圧倒的に強いと思われた中国コンビの一角を崩し、A標準を上回りました。海老原選手は今大会の日本選手では唯一自己新(学生新)です。

 ということで、アジア大会も終了。最後の取材は偶然ですが、ドーピングルームから出てきたところの村上選手。そういえば前回の釜山大会でも、ドーピング検査から出てきた村上選手に取材をしました。まさか4年後の広州(中国)でも…。
 夜は昨日が誕生日だったE本編集者のお祝いも兼ねて、ささやかな打ち上げ。初めて、ホテルやアジア大会施設以外のレストランで食事をしました。イスラム圏ですからもちろん、アルコールはなし。短時間で切り上げてホテルで原稿書き。1・2日目の日記も書きたいのですが、単行本の原稿を明日の出発(23:15)までに頑張らないといけません。


◆2006年12月13日(水)
 今日はドーハ23:15発のフライト。ドーハ→ドバイ→関空→羽田と乗り継いで、14日の22:15に東京着のスケジュール。アジア大会大会関係者用にトランスポーテーション・デスクがホテルにあって、12時間前に申請すれば空港まで車で送ってくれます。一緒に帰るはずだった高野徹カメラマンの滞在が延びたので、1人での帰国。朝の8時頃、1人だけ帰りたいんだけど、とお願いに行きました。
 大会ボランティアらしきカタール人のお兄さんが、丁寧すぎるくらいに対応してくれましたが、巻き舌で英語が聞き取りづらい。中東や南アジア系の人の英語って、ちょっとクセがあるんですよね。向こうに言わせれば、こちらはもっと変なのでしょうけど。ホテル受付の人間だと、ノーマルな発音ですが、ちょっと流暢すぎて、こちらはこちらで苦労しました。要するに、ヒアリングがダメということです。

 昨日も、ミックスドゾーンのフラッシュ・インタビュー担当者(インド人っぽい外見)が、内藤真人選手のコメントを教えてくれ、と言ってきました。日本語のできる担当者もいるのですが、1人では全部の日本選手をフォローするのに手が足りないのでしょう。それで、そのインド人っぽい担当者が、寺田の話す英語をなかなか聞き取ってくれない。内藤選手が1月にアレン・ジョンソン選手のコーチに指導を受けに行く、という話をしたので、レースの感想のあと、そのことを最後に付け加えました。面白いネタですから。しかし、He has a pla to train……の、planがまったく通じません。それで紙に書いたのですが、あとはつっかえると全て書かされる。陸上競技の知識はほとんどないようで、アレン・ジョンソンも知らない様子。態度もちょっと尊大なところが感じられて、嫌な兄ちゃんでした。
 びっくりしたのは実際に出たフラッシュ・インタビューには「高校時代はアレン・ジョンソンと同じコーチだった」というコメントになっていたこと。間違っているよ、と言いに行きましたけど、訂正が出たかどうかは不明です。

 今日はもう、昼間は取材がありません。とにかく、単行本の原稿をひたすら進めましたが、メールも無視するわけにもいかず、そちらにも時間を割きました。昼食は朝食会場から持ち出したパンと、機会がある毎にためていた果物、それと日本から持ち込んだ栄養補助食品。3日続けてそのパターンです。
 15:30にホテルの近くのカフェに。初めてのイスラム圏。昨晩、地元料理のレストランに行きましたから、あとはカフェだけだ、と意気込んで行ったのですが、内装は完全にアメリカン・タイプ。丹野麻美選手もカフェに行ったのだろうか、などと考えながら店内の写真を撮りました(店内と、寺田PC&カフェラテ。これは無断で)。メニューを見ても、カフェラテとかエスプレッソとか、見覚えのある名前ばかり。「トラデッショナルなコーヒーはないのですか」と質問すると、「普通のブレンドか、アメリカンか」と聞き返してきたので、「アラビック・コーヒーはないの?」と念押し。
 残念ながら、ありませんでしたが、こういうことは実際に店に入ってみないとわかりません。空振りでしたけど、まあ、勉強です。考えてみたら、日本に来た外国人も大半が日本の伝統的な部分を見たいのに、東京や大阪の街でがっかりしていることでしょう。
 1時間半ほど原稿を進め、その後45分ほど近くを散歩。商店が多い地区のようで、かなりの種類と数のショップがあります。「キムラヤ」のようなディスカウントショップと書店が合わさったような超モダンな店に、車の販売店も3つか4つはありました。フレンチカフェにインターネットカフェ、韓国料理屋にピザ屋。1つか2つ、塀のあるアラブっぽいかなという大邸宅もありましたが、あとはほとんどが現代的な鉄筋コンクリートっぽい建物ばかり。工事中の施設も多くてちょっとほこりっぽいのですが、街の雰囲気としてはアメリカとあまり変わりません。ヨーロッパの方が伝統的な感じが10倍は残っていますね。

 取材で不在の高野カメラマンにお礼メモを残して、20:30にチェックアウト。空港までの車はちょっと高級なタクシーで、乗ったのは寺田1人だけ。運転手は長身のインド人で、人当たりが良さそうだったの、いくつか話しかけてみました。従兄弟が日本でコンピューターのプログラマーをしているとのこと。近年、その分野でのインド人の進出はすごいらしいですから。しかし、このインド人の発音も聞き取りづらい。従兄弟の英語のcousinは、我々の発音では“カズン”ですが、そのインド人は「コウシャン」と言っているようにしか聞こえませんでした。
 しかし、移動中に雨が降り始めたので、ドーハでは年間何日雨が降るのかと質問。ミズノ長谷川マネジャーがブログで1年に3日くらいしか雨が降らないようだと書いていましたが、本当かな、と思って。疑ったわけではないのですが、念のためというかなんというか。そうしたら「two or three times」だと言います。1年でか? と確認すると、「1年で」と言います。それが「今回は2週間。アジア大会と一緒に雨がやってきた」と言います。間違いなく、間違った聞き取りではなかったはず。

 さて、ドーハ到着時は一般用ターミナルから出て失敗したので、今度はアジア大会関係者用ターミナルに。チェックインでドバイ→関空間は通路側座席を確保し、スーツケースも25.5kgで追徴料金なし。関係者専用の場所なので、追加料金はないだろうと読んでいましたけど。エール・フランスじゃないし。
 待機ロビーに行くと陸上競技の日本選手団がいて、木田真有選手&久保倉里美選手がこちらに気づいてくれました。坂水千恵選手を加えると“愛のトリオ”。ちょっと古い話ですけど、3年前の静岡国体の最終日に愛野駅で会ったことから命名しました。
 聞けば、日本選手団も23:15発で、関空まで行き、そこで乗り換えの待ち時間が長いといいます。一緒なんだ、と簡単に思いこんでしまいました。これが大間違い。
 アジア大会ターミナルは仮設ターミナルですから、情報を表示する簡単なボードがあるだけ。この便の乗客は入ってください(実際はバスに乗る)、というインフォメーションが、アナウンスだけなのです。ヒアリングのできない寺田には苦しい状況ですが、日本選手団と一緒の便なら、彼らの後についていけばいいと安心しました。
 待ち時間はまず、女子4×400 mRメンバー4人や、池田久美子選手と川本和久先生のツーショットなど、写真をコピーして選手に渡す作業をしました。この間に、室伏由佳選手が来て寺田の仕事ぶり(?)を撮ろうとしたので、「顔出しはノーグッドだよ」と念押し。亡くなった親父の遺言なのです。
 選手も待ち時間なので、思い思いのことをやっています。話しかけることも可能ですが、こういう状況での取材はノーグッド。よほど仲のいい選手やベテラン選手は別にして、モードが取材を受ける体勢ではないのです。しかし、この機を逃すと次に接するのは4カ月後という状況でもあり、懸案事項を1つだけ確認しました。丹野選手にはドーハでカフェに行ったのかをちょこちょこっと質問したのです。まさかと思ったのですが、今日、スタバに行ったと言います。モールに足を伸ばしたら、偶然にもあったのだとか。

 その後は原稿書き。やがて22:50頃に「オオザカ行きのパッセンジャーは…」というアナウンス。よしと思って荷物をまとめて、通りかかった今村文男コーチに「ドバイ経由だよね」と確認をすると、直行便だと言います。そういえば、通常はドーハ行きの直行便はないけど、今回の日本選手団は直行便をチャーターしたと記事で目にしていました。
 ここで焦りました。ボードで確認すると確かに、同じ23:15発に大阪行きとドバイ行きがあります。もしかしたら、ドバイ行きはもう、搭乗アナウンスがあったのかもしれません。急いでカウンターに行くと、「ドバイ行きは20分後だ」という回答。しかし、20分たっても何もアナウンスがない。再度、聞きに行くと「30分後」だと言います。この答え方が適当で、親身になっている感じがまったくない。ボードにはドバイ行きもon timeの表示。いくつかの便はdelayと出ているのですが。
 3回目の確認に行くと「0:15」だと言います。かなり早口でしたが、聞き取れました。しかし、この頃になると、搭乗していない名前をアナウンスしているのがわかりましたし、係委員が、遅れている人物を捜してもいます。まあ、大丈夫だと落ち着きも取り戻していました。実際に乗ったのは1時近く。出発は1:15頃? だったでしょうか。
 こうして、深夜に6日間を過ごしたドーハに別れをつげました。二度と来ないかな、という予感はあります。勉強になったのは、人種が多くいる社会だという点です。これは日を改めて書くはずですが、アジア大会モードの内に書かないと、テンションが下がってしまいます。そういえば、土江選手ネタもありました。


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◆2006年12月14日(木)
 今日、12月14日は赤穂浪士が吉良邸に討ち入った日ですが、日本を遙かに離れたアラブ首長国連邦ドバイ国際空港で、討ち入りかと見まがう光景を目の当たりにするとは、思ってもみませんでした。
 ドーハを2時間遅れで出発した便には、ミズノの中村次長、岩本トレーナー、長谷川順子マネたちと、NHKの解説陣&スタッフも一緒でした。ドバイ発関空行きの便出発定刻の30〜40後にドバイに着。同じエミレーツ航空ですし、待っていてくれるのではないかと、期待をしていましたが、ドバイだけにヤバイかな、とも考えていました(ここは本気にしないように)。
 寺田は12列と前の方の座席だったので、比較的早くにフライトコネクションに到着。カウンターに前から3列目に並ぶことができ、名古屋行きのエミレーツ便に変更ができました。このとき午前3:55。しかし、他の日本人関係者が列に並んだときには、すでに何十人かが並んだ後。名古屋行きは4:15発。後ろ髪を引かれる思いはありましたが、それほど時間はありません。NHK解説を務めた谷川聡選手にミズノ関係者ら、知り合いの方たちに挨拶をしてセキュリティチェック→名古屋行きゲートに向かいました。

 セキュリティチェックを通ってターミナルに出ると、10番ちょっとの場所。名古屋行きは35番くらいだったと思います。かなり遠いのですが、チェックインは終わっているわけですし、そんなに急ぐ必要はないだろう、と歩いていました。途中、両替所も発見。日本に戻ったらカタール通貨の両替なんかできないだろうと思い、2.8秒ほど躊躇しましたが、窓口に誰も並んでいなかったので両替をすることに。
 なかなか手際の良いお兄さんでしたが、さすがに2.8分くらいはかかったと思います。両替が終わった瞬間に、ターミナルの動く歩道をものすごいスピードで走り去っていく人間がいました。誰かと思って後ろ姿を見ると、赤穂浪士でした。いえいえ、兵庫の生んだスーパーランナー、やはりNHK解説を務めた渋谷俊浩監督でした。出身は加古川東高。インターハイ5000m3位で、数々の筑波大記録を打ち立て(5000m&1万mは今も筑波大記録)、88年の福岡国際マラソンに優勝した伝説の浪士……じゃなくてランナーです。他県の人間から見れば赤穂も加古川も“神戸よりも西側”という認識なのです(実際は、姫路を間に挟んでいるのでそれほど近くはありませんが)。
 続いて谷川選手の姿も。こちらは短距離系だけに、すでにスピードダウンしています。ドバイ国際空港にハードルが置かれていれば、渋谷監督に負けていなかったと思いますが。まだ4:05くらいでしたが、渋谷監督のスピードに圧倒されて、寺田もちょっとビビリ始めました。「走らなくても大丈夫だよね」と谷川聡選手に質問すると「何をやるかわかりませんからね」という答え。国際経験豊富な同選手が言うのですから、こちらも不安になります。寺田も走って名古屋便行きゲートに急ぎました。
 谷川選手にも差を開けられながら、これで1人だけ乗り遅れたら洒落にならないけど、締め切りに遅れる言い訳にはなるな、などと考えていました。スリランカ・アジア選手権の向井裕紀弘選手(陸マガ12月号参照)ではありませんが、言い訳を考えているようでは結果は見えています。寺田だけ名古屋行きの便に乗り遅れた、という悲惨な目に遭ったのではないか、“ドーハの悲劇”ならぬ“ドバイの悲劇”か、と思った方もいらっしゃるかもしれませんが、なんとか間に合いました。

 ゲートから飛行機まではバスでの移動。谷川選手はフライトコネクションで自分だけ先に行った寺田のことを「冷たかった」と言います。“じゃあね”と言って立ち去ったらしいのですが、その言い方があまりにも爽やかすぎたと。うーん。今後、同じような状況になったときは、もう少し申し訳なさそうな演技をしなくては。
 NHKのMディレクターに、乗り継ぎが間に合わなかった経験は? と質問されたので思い出してみたら、セビリア世界選手権(99年)に行った際の、経由地のロンドンがそうでした。あのときはかなり豪華なホテルに泊まった記憶があります。同じくセビリアに向かうJAL機内で谷川選手は……という話は書かなくても皆さんご存じですよね。有名な話ですから。
 14日の20時前に名古屋国際空港着。セントレアは初めて。関空も今回が初めてでしたが。羽田空港行きの便は出ていないため、エミレーツ航空が、名古屋経由の新幹線回数券を支給してくれました。しかし、21:30分頃まで電話とメールでかなり追い込まれながらの仕事。新幹線の最終には間に合いません。名古屋に2泊して、そのまま全日本実業団対抗女子駅伝取材のため岐阜入りすることにしました。ラッキーなことに、ドーハ行きの機内で同駅伝関係の原稿をまだ書いていたので、取材用の資料も持っているのです。原稿が遅いのも、悪いことばかりではありません。悪いことの方が多くあるのですけど。


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