2010/1/31 大阪国際女子マラソン
小幡、38歳日本最高の2時間27分19秒
女子マラソン史上最高のラストラン
38歳の小幡佳代子(アコム)が日本人2位となる5位で、長かった競技生活にピリオドを打った。26回目のマラソン(表参照)は、日本代表レベルの選手としては驚異的な多さである。
小幡のマラソン全成績
回数 |
年 |
月日 |
大会 |
順位 |
記録 |
1 |
1994 |
8.28 |
北海道 |
7 |
2.53.18. |
2 |
1995 |
3.26 |
信毎 |
5 |
2.43.22. |
3 |
1995 |
8.27 |
北海道 |
5 |
2.42.53. |
4 |
1996 |
1.28 |
大阪国際女子 |
21 |
2.37.27. |
5 |
1996 |
11.17 |
東京国際女子 |
9 |
2.37.10. |
6 |
1997 |
3.09 |
名古屋国際女子 |
9 |
2.32.01. |
7 |
1997 |
9.28 |
ベルリン |
4 |
2.27.27. |
8 |
1998 |
1.25 |
大阪国際女子 |
12 |
2.33.09. |
9 |
1998 |
10.11 |
シカゴ |
4 |
2.28.39. |
10 |
1999 |
1.31 |
大阪国際女子 |
4 |
2.26.18. |
11 |
1999 |
8.29 |
世界選手権 |
8 |
2.29.11. |
12 |
2000 |
1.30 |
大阪国際女子 |
5 |
2.25.14. |
13 |
2000 |
4.30 |
シドニー |
4 |
2.43.10. |
14 |
2000 |
10.22 |
シカゴ |
5 |
2.31.59. |
15 |
2001 |
1.28 |
大阪国際女子 |
5 |
2.32.14. |
16 |
2001 |
10.07 |
シカゴ |
6 |
2.32.19. |
|
2001 |
11.04 |
土山 |
1 |
2.54.44 |
17 |
2002 |
1.27 |
大阪国際女子 |
23 |
2.45.13. |
18 |
2002 |
10.13 |
シカゴ |
7 |
2.28.15. |
19 |
2003 |
10.12 |
シカゴ |
206 |
3.14.25. |
20 |
2004 |
1.25 |
大阪国際女子 |
17 |
2.39.11. |
21 |
2004 |
4.04 |
パリ |
12 |
2.42.59. |
22 |
2004 |
11.21 |
東京国際女子 |
17 |
2.40.56. |
23 |
2006 |
1.29 |
大阪国際女子 |
2 |
2.25.52. |
24 |
2006 |
12.09 |
アジア大会 |
3 |
2.30.38. |
25 |
2008 |
1.27 |
大阪国際女子 |
23 |
2.43.12. |
26 |
2010 |
1.31 |
大阪国際女子 |
5 |
2.27.19. |
思い出のレースとして2000年と2006年の大阪のマラソンを挙げた。
1999年から2000年は小幡が最も充実していた時期で、99年大阪で自己新、同年のセビリア世界選手権で8位入賞。00年大阪は生涯ベスト(当時日本歴代4位)で日本選手2位となり、シドニー五輪補欠に選ばれた。
ここまで長く続けることになった理由を問うと、その時期に「マラソンの面白さに気づいたこと」だったと明かした。
マラソンにピークを合わせれば、ハーフマラソンの自己記録と同等のタイムで中間点を通過することもできた。自身の体調を見ながら練習の追い込み方を変えていく。故障の痛みの程度でスピードをコントロールする。試合に向けてのテンションの高め方等々。1万mのベストが32分32秒36でも、マラソンなら世界を意識できた。
しかし、00年大阪の後はパッとしなかった。
その後の5年間10レースで2時間30分を切ったのは1回だけ。01年には所属していた営団地下鉄が廃部となり、05年には腎臓を患った。1万mで周回遅れになりながらも必死の形相で走る小幡を見たのは、1度や2度ではなかったと思う。
そこから再起を果たしたのが2006年の大阪だった。2度目の2時間25分台で日本選手1位となってアジア大会代表に選ばれた。年齢と戦績を考えたら、引退していても不思議ではない。「マラソンなら世界と」の思いがあったからだが、精神面の忍耐力はレースにも通じる部分があった。
2008年の大阪を最後にマラソンから遠ざかった。右脚のしびれが1年以上も続き、練習が以前の半分もこなせなくなったという。
引退レースには迷うことなく大阪を選んだ。
当初は走るだけでいいと考えたが、トレーニングを重ねるうちに、良かった頃の感覚が戻ってきたという。レース前には「目標は自己新」と言えるまでになった。
ブランクがあってもそのレベルに戻すことができるのは、小幡ならではだった。5km毎を16分台のペースになっても「わりと希望していました」と考えられたのも、99〜00年にハイペースを経験していた小幡だからだろう。
「16kmで遅れましたが、自分の良い感覚が残っていましたし、最後まであきらめずに走ろうと思いました」
野尻あずさ(第一生命)に追いつかれても食い下がり、40km手前で引き離した。大物初マラソン選手の木崎良子(ダイハツ)は、40km過ぎで抜き去った。
ラストランで自己4番目の2時間27分19秒。
1つ年下の高橋尚子のように、高レベルのマラソンを何本も続けられたわけではない。30歳を過ぎてからの爆発的な走りでは、3つ年上の弘山晴美には及ばない。だが、弘山が持っていた38歳日本最高記録を更新し、2時間27分台の最高齢記録を樹立したのは、1万mの“周回遅れ”を繰り返した小幡だった。
佐々木七恵が引退レースの85年名古屋国際女子マラソンで優勝しているが、ロス五輪を走った翌年のことだった。小幡はセビリア世界選手権入賞の10年2カ月後である。自身の特徴を引退レースでここまで発揮したのは、日本の女子マラソン史上、小幡の他にいないと断言していいだろう。
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