続・寺田的陸上日記     昔の日記はこちらから
2007年8月  浪速の夜の夢
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◆2007年7月20日(金)
 6:00起床。若干の睡眠不足ですが、体調は良好。
 スカイライナーで成田空港に。 チェックイン後に、モナコに行くので○○○を購入。出国手続き後、メールと電話を数本。
 1年ぶりのヨーロッパ取材に胸は高鳴っています。
 でも、持ち込む原稿&データ調べもあって、気持ちの切り換えが大変そう。ただ、昨年のアジア大会ほどではないので大丈夫でしょう。

◆2007年7月20日(金)
ユーロ取材2007・1日目
 アムステルダムへの機内では400字原稿5本と、600字原稿1本を書きました。離着陸や食事の前後はパソコンに入力ができませんから、その間に構想を練ります。文字数としては大した量ではありませんでしたが、それぞれ違う選手のことを書くので、大変と言えば大変。入れ込まなかったのが逆に、集中力につながった気がします。アジア大会からの帰りの機中など、気持ちだけ焦って筆は進まない状態でしたから。あれ? それは去年のヨーロッパ取材帰りだったかな。
 アムステルダムはスキポール空港。世界選手権ヘルシンキ大会の帰りがスキポール経由でした。ここはターミナルが複数に分かれていてバスか電車で移動しないといけない、ということはありませんが、とにかく広い。マドリッド行きの便が「ゲート82」でしたが、表示を見ると「歩いて25分」とか書いてあります。これは、入国&手荷物検査の時間も込みで表示してあるようですが、それにしても油断のならない空港です。

 マドリッドには21時頃着。まだ明るいですね。スペインはヨーロッパでも西の方に位置しているのに、時間はフランスやドイツ、イギリスと同じ時間帯を使っています。緯度的には高くなくても、日が長くなるのが道理です。明日の試合が19:30開始と遅いのも、その辺が理由? 集客面でいっても、シエスタ(昼寝)の習慣がある国ですから。
 スペインはたぶん、1999年の世界選手権セビリア大会以来。数少ないロストバゲージを経験した国です。ターンテーブルに荷物が出てくるまでの緊張感は、これまでにないものでした。実際、なかなか出てこなかったし。
 しかし、荷物をピックアップしてドアを出ると、いきなり出迎えの人たちが待ちかまえている場所でした。つまり、入国審査はなし。ヨーロッパのいくつかの国は、域内で審査が一度してあれば省略する国が増えているといいますから。

 そこで探したのはマドリッドGPのインフォメーションデスク。上手く行けば、大会本部ホテルまで車で送ってくれます。最初のヨーロッパ単独取材をした、2001年のローマ大会がそうでした。このときは為末選手が一緒にいてくれたから、でもありましたが、その後のいくつかのグランプリ取材をして、親切なところは市内まで送ってくれます。
 今回は宿泊ホテルは別にとってありましたが、大会本部ホテルまで日本人コーチに会いに行くという理由まで用意して、交渉(?)に行きました。
 ボランティアのヤングリーダーといった雰囲気の女性が、電話で本部らしきところと話をして、便宜を図ってくれようとしてくれましたが、結局、大会公式ホテル(3つか4つあったみたいです)に泊まっていない人間は送れないとのこと。泣く泣く、タクシーを使いました。地下鉄もありますが、乗り換えが2〜3回かかりますし、もう22時が近かったので。25ユーロの出費。まあ、仕方ありません。

 ホテルに着くと先に乗り込んでいるO田記者から電話。色々と情報を教えてもらいました。マドリッドの取材は初めてで、複数回行っているローザンヌやヘルシンキ、パリと違って土地勘がありません。その前に、どこが会場なのかも知りません。大会サイトにスタジアムの名称も、アクセス方法も出ていません。宿泊ホテルのフロンで「明日の陸上競技イベントの会場は?」と質問しても、陸上競技の大会があること自体、知りませんでした。そんなものでしょうか。
 しかし、小田記者のおかげで、スタジアムも大会本部の位置も判明。なんとかなりそうです。
 ホテルは思ったよりグレードが高かったですね。こんな雰囲気。1泊1万2000円(本部ホテルは2万円以上)。ネットができる条件で探しましたが、今後はもう少しグレードを落としても大丈夫かな、という実感があります。ただ、無線LAN接続が信じられないくらいに高いです。1時間9ユーロで、次のコースが24時間で15ユーロ。
 そこで取った方法が、なんとアナログ接続。久しぶりに56kのモデムを使いました。そういうこともあろうかと、海外接続ソフトの最新バージョンをダウンロードしてきたのです。

 到着して、このサイトのメンテナンス。ナローバンドはやはり遅いです。そして、ヨーロッパ入りしたその日は、こちらもやっぱりですが、眠いです。
 続いて洗濯。眠気冷ましをを兼ねてやりました。
 メールをチェックすると、モナコに持っていく○○○は、もなかじゃないでしょうね、というH氏からの指摘。いや、実は、その通りなんですが……。困りますね、根拠のない当てずっぽうで真実を言い当ててしまうのは。
 マドリッドからの初メール(5人くらいに一斉に送信)だったので、H家の間取りを教えてくれ、と返しておきました。


◆2007年7月21日(土)
ユーロ取材2007・2日目
 朝食はホテルで。ヨーロッパのホテルの朝食には2種類あって、火を通す食事が用意されているケースと、火を通さない食事のケース。どちらもバイキング形式ですが、前者では卵料理やベーコン、ソーセージ、トマトなどが温められたプレートに乗せられています。後者はハムとチーズというのがよくあるパターンです。どちらにしても、あまり健康的ではありません。特に野菜類は自分で調達する必要がありますね。
 今回のホテルは火を通した朝食もありました。その分、宿泊費に跳ね返ってきていますが、こうなったら朝食をしっかり食べて、昼食と夕食を軽くする(=お金をかけない)パターンにするしかないでしょう。
 朝食後にホテルの近くを散策。スーパーマーケットがあって、昼食にサンドウィッチやヨーグルト、ミネラルウォーター、それに単三乾電池を購入しました。
 その後は原稿書き。できれば8年ぶりのスペインを満喫しに街に出たいところです。外国に来るといつも悩むのがこの点。今しかできないことを優先するか、原稿を優先するか。街に出たかったというのもありますし、大会本部ホテルに一度行っておきたい気持ちもありました。取材IDを先に入手しておくと、競技場に行ってからが楽になります。取材が最悪、深夜0時以降までかかる可能性もあったので、競技場から帰りの移動手段もシャトルバスになるかもしれない。その運行予定なども調べておきたかったのです。

 800字原稿を2本書き上げ、17時20分頃に出発。初めて乗る地下鉄と、最寄り駅からスタジアムの時間がわかりませんでしたが、約1時間と見積もりました。地下鉄は本数もそれなりにありましたし、駅からスタジアムも迷わずに行くことができました。ただ、入り口に行ったつもりが、正面玄関の反対側に行ってしまったようで、「一度道路に出て向こうに回れ」と言われました。500〜600mのロス。アクレディテーションセンターに行くと、「お前のIDはプレスセンターにある」とのこと。プレスセンターに行くと、「ここに来る前にアクレディテーションセンターに行け」とのこと。
 まあ、外国のグランプリ取材ではよくあること。この程度で意気消沈してはいられません。我々は普段、横浜国際競技場や国立競技場で当たり前のように受付に行きますが、外国人メディアにとってはわかりにくい場所なのかもしれません。

 結局、プレスセンターに半ば強引に入ると(お勧めできる方法ではありませんが)、プレスチーフというには若いお兄ちゃんが、「テラーダか。待っていたよ」という歓迎ぶり。「名前を覚えているんだ?」と聞くと、「当たり前じゃないか」という反応。いくら極東の島国から遠来のメディアとはいえ、ちょっとビックリ。
 今回の取材はカメラマンも申請しておきました。で、そのお兄ちゃんがカメラマン仕切り役のおじさんのところに連れて行ってくれ、ビブを手渡してくれました。その代わり、胸にさげる報道IDはなし。それも初めてのケースで不安を覚えましたが、ここだったらなんとかなるかな、という気がしました。

 プレスルームは20人も座ったらいっぱいになるくらいの部屋。日本人プレスの区画があったので(自然にできたのですが)仲間に入れてもらいました。折山さん、読売新聞・大野記者、朝日新聞・小田記者の3人。カメラはドイツ在住の木場さん。
 驚いたことに、今回のビブはインフィールドも入れるもの。昨年、ナイトオブアスレティックでもインフィールドに入りましたが、大会の格はヨーロッパプレミアム。マドリッドは大阪GPと同じIAAFグランプリ。大阪で寺田がインフィールドに入るビブを入手するのはまず不可能です。ところ変われば、ですね。
 マドリッドは会場も中規模のスタジアム。サッカーなみの大きさ、あるいは世界選手権セビリアのときのスタジアムを想像してきたので、ちょっと意外でした。日本でいえば平和台や皇子山クラス。観客の入り具合にもよりますが、この規模の競技場の方がいいと思いますね。パリやローマのスタジアムは大きすぎて、道に迷うと大変です。
 音響もパリやローマのように、耳をつんざくような大きさではありません。会話もできます。それでいて、効果音や選曲などはセンスがいい。昨年のスーパー陸上でパリ・ローマ版の音響を試みていましたが、マドリッドを見習ってほしいですね。
 もう1つ見習ってほしいのは、砲丸投の見せ方。インフィールドのホームストレート側の中央付近に、サークルがあるのです。落下地点も、この写真のように1mおきに白いエリアと芝生のエリアが交互に色分けされていて、落下地点がスタンドからもわかるように工夫されていました。これは、サークルの位置はなかなか変えられませんが、落下地点の色分けはすぐにでも真似していい点だと思います。

 ちょっと長くなりました。女子走幅跳のレベデワ選手、走高跳のヴラシッチ選手への取材の様子は、TBSのコラムに書きましたので、そちらをご覧ください。この取材が終わったのが午前1時頃。ホテルに戻って気が付けば午前2時。睡魔と戦いましたが、3時にはダウン。


◆2007年7月22日(日)
ユーロ取材2007・3日目
 マドリッドで若い女性から声を掛けられました。スペイン娘に声を掛けられたくらいで喜ぶ寺田ではありませんが、場所は街角ではなくて空港の搭乗口前。ちょっとの間(1.37秒くらい)をおいて日本人だと気づき、顔を上げたら池田久美子選手と久保倉里美選手、トレーナーの松下美穂さんの3人でした。スズキの馬塚広報からフライト時間は聞いていて、寺田よりかなり遅かったと記憶していたのでちょっとビックリ。
 池田選手と松下さんはフランクフルト経由でアムステルダム、そこから練習拠点のデン・ハーグへ向かうところ。久保倉選手はフランクフルトからヨルダンのアジア選手権へ移動するところ。デン・ハーグで共同生活をしたトリオもこれが最後ということで、記念撮影をさせていただきました。池田選手には「3分だけ」と時間を制限して取材。ちょうど今日が、世界選手権デイリープログラムの池田選手原稿の締切だったのです。スタジアムに観戦に来た人が、外国選手と池田選手のどこが違うのかに注目できる内容にしようと思っていました。昨日の試合後も少し質問したのですが、その確認をする意味の取材でした。

 寺田のフライトは13:30マドリッド発でアムステルダム行き。
 朝食取材も想定していましたが、今回は見送り。昨日の日本選手は全員がいまひとつでしたから。ただ、内藤真人選手はかなりいい感じ。次戦がナイトオブアスレティックだったら良かったのですが、スペインのサラゴサです。日本記録が出たら電話を……ちょっとだけして、きっちりした取材は帰国後ですね。内藤選手とファミレスで2時間話ができる記者は、そう多くはないはずです。
 前半で13秒1台の選手に先行するなど、技術的な進歩も大きい内藤選手ですが、表情も精悍になりましたよね。これは予選のフィニッシュですが、皆さんもそう思いませんか?

 空港までは地下鉄で行った方が安いのですが、昨晩が遅くてあまり仕事が進まず、今朝もホテルで原稿を書かないといけなかったため、ぎりぎりの時間になっていました。ネット接続も空港だとまた別料金ですから。ということで、再度タクシーで空港まで。といっても、成田空港までスカイライナーで行くよりも安いです。来るときより8ユーロも安かったのは、昨日が深夜料金だったから?
 ぎりぎりだと思っていたのですが、チェックインも長蛇の列だった割りには早く進んで、搭乗ゲートには離陸1時間くらい前に着きました。ここでもパソコンを取り出して原稿を書いているときに、声が掛かったのでした。

 アムステルダムのスキポール空港では、昨日の男子砲丸投優勝のスミス選手を見つけ、ちょっとだけ突撃取材。取材というほどの会話ではありませんが、この辺の経緯はTBSのコラムに書きました。
 デン・ハーグまでは2等車両で7ユーロ。思ったより安くて助かりました。しかし、デン・ハーグ駅からホテルまでがタクシーで18ユーロ。マドリッド空港までよりも高いとは。何度も何度も曲がりました。確かに、そういう街ですけど、ちょっと18ユーロはなあ。3200円ですよ。デン・ハーグでタクシーに乗るのはやめようと誓いました。

 夕食は打ち合わせも兼ねて、中華料理で。待ち合わせ場所のホテルまでは、意地で歩きました。初めての都市で地図を片手に歩くと時間がかかってしまいますが、ぎりぎりでセーフ。とっても有意義な夕食でした。夕食の前に、ちょっとした取材もさせてもらいました。


◆2007年7月23日(月)
ユーロ取材2007・4日目
 デン・ハーグ2日目ですが、今日は対人物の取材はなし。比較的、自由に時間が使える日…のはずですが、これがそうでもないのです。午前中はホテルの部屋にこもってデータ入力作業(と書いておけば、陸マガ高橋編集長を少しは安心させられるかも)。カフェで昼食をとって、そのまま原稿を書こうかな…と思っていたら、雨が降ってきました。やむことを期待して15時まで部屋で作業。結局、やんでくれませんでした。
 無線LANの接続が1日5ユーロと安めなのはいいのですが、容量が小さい回線なのか、頻繁に切断されます。大きな容量のファイルは何度トライしても送れません。他の作業をすると、送受信がさらに遅れると思うので、他の仕事もできない。これは結構、ストレスになりますね。
 部屋自体はこんな感じ。本物か飾りか微妙なところですが、レンガの壁をくり抜いたような跡が部屋の中にあります。テラスには出られませんが、雰囲気はありましたね。

 トラム(路面電車)に乗って街の中心部に。ご免なさい。運賃の払い方がわからずに、そのまま降りてしまいました。どうやら、旅行者など回数券や定期券を持たない人間は、乗るときに運転手に支払う方式のようです。ヨーロッパではときどき、こういうことがあります。私服の巡回員もいるらしくて、見つかったときは相当な金額を請求されるらしいので、くれぐれも無賃乗車をしないように注意しましょう。今日の日記は、次にデン・ハーグに来る人のことを意識しながら書いています。
 中心部のカフェで何とかサラダを食べました。愛嬌のある猫が、客たちの足下を歩き回っているので携帯で写真を撮りました。が、携帯から画像を送信すると高くつくので、掲載はできません。食事のあとはマウリッツハイス美術館に。大内さんが教えてくれたフェルメールの「真珠の耳飾りの少女」を見るためです。美術館の外にもこうして大きく紹介されていました。もちろんフェルメール以外の展示も多く、Avercampの冬景色など、数点の絵はがきを購入。まだまだ移動が続く旅なので、お土産は軽いものに限られます。
 ヨーロッパ取材中に美術館に行くことなどめったにない寺田ですが、今回は特別です。“真珠の耳飾り”といえばアジア大会の池田久美子選手。同選手によれば「ここぞという大会」でしか付けない方針で、次は世界選手権になるとのこと。その池田選手が、ヨーロッパ遠征中はこのデン・ハーグを拠点にしています。これは何という偶然。見ておかないわけにはいけません。

 美術館を出た後、ふと見ると目の前を24番のバスが通ります。成田空港で為末選手が言っていた、駅からホテル、練習グラウンドに行く系統です(7月15日の日記参照)。実は昨日、朝日新聞・小田記者が先発隊(1人ですけど)として下見に行っています。選手の取材ではなく「北京五輪を考えての行動」だと話していました。なるほど。今後、代理人のフィース女史の契約日本選手が増えれば、この地でトレーニングをする日本選手が増えるでしょう。行ってみる価値はあります。
 小田記者からだいたいの場所は聞いていましたが、正確な停留所名は覚えていません。バスに乗るときは通りの名前だけを言って料金を払い(3段階の料金しかないのでそれでもOKでした)、近くなったら地図とにらめっこ。何とかなるものです。今後に行く人のために紹介すると、通りの名前はSPORTS LAAN、停留所の名前はOude Buizerdlaanです。

 閑静な住宅街に囲まれていて、グラウンドの周りも緑が多いので、地図がなかったらまさかそこにスポーツ施設があるとはわかりません。トラックは8レーン。サーフェスの硬さはどうでしょうか。安易なことは言えないので、今度誰かに聞いておきます。周囲には他の競技施設もありますし、ウエイト場もあると池田選手から聞きました。
 すでに夕方の18時。トラックには誰もいないのですが、中に入ることができました(これは真似しない方が良いかも)。砲丸投のサークルが3つ並んで作られているのには感心しました。これが2個所にあるのです。これは棒高跳の支柱とマット。走高跳のマットにも、同じ箱がかぶせてありました。マットは倉庫から出してくるもの、という考えを覆すアイデアです。
 トラックの中と周囲を回って唯一で食わしたのが、隣接するバスケットボール・コートで1人、黙々と練習をしている少年でした。ちょっとためらいましたが、外国では人格が積極的になるのが寺田です。思い切って声を掛けました。

寺田:英語は話す?
少年:ちょっとなら。僕はポーランドから来たんだ。
寺田:僕も英語はそんなに話せない。日本の記者なんだ。日本選手がここでトレーニングをしていたのを見たことある?
少年:僕には日本人と中国人の区別がつかないんだ。
寺田:街には中国人がいても、ここに来るのはたぶん日本人だよ。
少年:うん。見たことはあるよ。
寺田:去年のこと?
少年:いや、3日くらい前かな。
寺田:男? 女? 
少年:男。
寺田:背は? 大きかった、小さかった?
少年:僕と同じくらいかな。
寺田:ポールを持って練習していた?
少年:いや、ずっと走っていた。
寺田:なるほど。誰かわかったよ。君の写真を撮らせてもらっていい?
少年:いいけど。
寺田:じゃあ、さっきやってたみたいに、指の上でボールを回して。
少年:こう?

寺田:そうそう。名前を聞いていい?
少年:ラファエル。


 ということで、ラファエル君の写真を撮りました。

 帰りはバスとトラムを乗り継いでホテルに。僅か1日ですし、バスに2回とトラムに2回乗っただけですが、デン・ハーグの土地勘ができました。地図を何度も見回しましたしね。距離がなんとなくイメージできて。
 ホテルの近くには残念ながら、原稿書きに適したカフェがないので、ホテルの部屋で仕事。メールの返信に2時間。そうか、今日は月曜日ですね。メールの量で曜日感覚が戻りました。
 それにしても、ネット接続のストレスがたまります。


◆2007年7月24日(火)
ユーロ取材2007・5日目
 今日ばかりはダメだと思いました。生まれて初めて、飛行機に乗り遅れることを覚悟させられたのです。今日の11:30。アムステルダムのスキポール空港でのことでした。

 デン・ハーグのホテルを9時に出発。荷物が多くてトラムに乗れるかどうかが心配でした。東京のバスのように満員だったら、あの荷物を持って乗り込むのは無理。昨晩からホテルのお兄ちゃんにも相談していたのですが、実際に朝のトラムの込み具合を見て、乗れると判断。ここはスムーズに行きました。
 ところが、電車(インターシティ)が20分遅れました。空港に行ってKLMのカウンターを見つけ、近くにいたKLMのお姉さんにチケット(エレクトリックチケット)を見せると、「この番号札をとって待て」と言われました。ところが、なんとなく雰囲気がおかしい。チケット自体を購入する場所でした。そのお姉さんに確認すると「ごめんなさい。間違えたわ」。謝ってくれるのはいいけど、10分のロスは痛い。

 続いて自動チェックイン機の列に並びました。自分の番が来て、記載の番号を入れても拒否されるだけ。近くのお兄さんは、あっちこっちの人から質問責めでなかなか手が空きません。やっとつかまえると、姓を入力するところに名前を入れて見ろ、と言います。「中国人の名前と名字はよく、入れ替わって登録されているだ」って、そんなこと言われても。
 ところが、名前を入れると時間切れの表示。12:10発で、そのときは11:00頃だったと思います。先ほどのお兄さんに再度状況を説明。「16番の有人カウンターでチェックインしろ」。最初からそこに行けば良かったと思いましたが、知らないものはどうしようもありません。たぶん20分くらいのロス。

 有人チェックインでも問題が。列が進むのも遅々としていましたし、あと1組となったところで、寺田の前のカップルの手続きがなかなか終わりません。10分くらいは大人しく待ちましたが、そろそろこちらも限界です。白人の男と、東洋人の女性。よく見ると、女性が胸に子犬を抱えていて、その処遇についてKLMの受付が何度も電話をしています。ペットって、今はそこまで厚遇されているのですね……などと感心している場合ではないので「あと何分かかるんだ」と、KLMのお姉さんに声を掛けました。
「知らないわよ」
 かなり怖かったです。そのとき11:30。出発まで40分というタイミングで、あきらめました。ニース行きの便だったら、同じ日にもう1本くらいあるでしょう。
 やっと自分の番が回ってきたのは11:40。なげやりにチケットを見せて、「間に合わないよね」と先ほどのお姉さんに言うと、「問題ないわよ」と、スーツケースを受け取ってくれます。ホントかな、と思っていたら、荷物検査が驚くほど早く進みます。EC内同士だからか、パスポートコントロールはなし。搭乗ゲートは遠かったですけど、11:53に着きました。実際の離陸も10分以上遅れていて、問題なくニース行きに乗ることができたのでした。

 ニースは快晴。寒かったオランダとの温度差は10℃以上。
 到着後の経緯はTBSのコラムに書きましたので、そちらをご覧ください。主役はパブロフ選手で書きましたが、澤野大地選手ももちろん関わってくるし、謎の二枚目エージェントも序盤で登場させています。コート・ダ・ジュールで出会った棒高跳選手たちが主役のコラムです。
 モナコへ移動する車内から見る景色は、写真で見た南仏の景色そのもの。
「ここが国境ですか?」
「ここはF1のコース?」
「ルイ2世スタジアムはもう過ぎちゃった?」
 物静かなパブロフ選手とは対照的に、うるさい日本人記者だったと、こう書くと思われてしまうかもしれませんが、20分で3つの質問なら7分に1回だけ。それほどお喋りという印象は持たれなかったはずです。

 大会本部ホテルに到着すると、散歩に出かける澤野大地選手とばったり。TBSコラムに書いたように、撮影取材をお願いしました。出かける際に、デン・ハーグの代理人、キャロライン・フィース女史とも再会。澤野選手も女史の契約選手です。
 取材のあとは記者会見場に。ちょうどベケレ選手の会見が行われていて、朝日新聞・小田記者と読売新聞・大野記者が熱心に取材中。寺田は途中から加わるのも何かと思い、会見場の外で仕事をしていました。
 本部のFAIRMONTホテルは桁違いに大きいですね。1階の海に面しているスペースの大半が、大会用に提供されています。会見後、原稿を書き終わった両記者と一緒に成田空港で買ってきたもなかを食べました。紺碧の海を背景に、モナコでもなかを食べる小田記者の写真を撮りましたが、掲載は自主規制。社内的な立場もありますから。

 両記者はスタジアムに下見と、選手たちの練習を見に行きましたが、寺田は自分のホテルにチェックインしてTBSコラムを書きました。大会前に出したかったネタだったので。
 宿泊ホテルは歩いて5分ほどの距離にあるMETROPOLE MONTE CARLO。6月末の時点で楽天トラベルに残っていた一番安いホテルで、2泊で3万1280円です。ところが、行ってみるとこれが超高級ホテル。部屋の写真を撮りまくりました。
●これが外観(夜ですが)
●ベッド
●デスク(と白いモバイルパソコン…がモナコにはよく似合う?)
●洗面所(蛇口と、このくぼんだ部分=なんて言うのでしょうか=が2個所)
●テラスから見える海
●テラスから見る市街地

 ホテルではありませんが、モナコらしい写真も何点か載せたいと思います。
●本部ホテル近くの海岸線
●海の水はこんな色
●有名なカジノ


 こんなところにしておきましょう。

 ホテルですが、設備の豪華さだけでなく、接客ぶりが違うな、と感じました。金額相応のもてなし方は、形ではありませんね。大金を使うということはこういうことなのだと、初めて実感した気がします。単に、以前はそれに接しても気づかなかっただけかもしれませんが。
 3時間ほどで原稿を仕上げ、21時に大野・小田両記者と合流して食事。小田記者が明日の取材を最後に日本に戻ります。モナコの夜景を見ながらの食事は、最初で最後かも。
 最初にビールで乾杯。「乾杯モンテカルロ」と寺田。
 ところが、両記者とも庄野真代の有名な曲を知りませんでした。せっかくですから、紹介させていただきます。
モンテカルロで乾杯  ダウンロード

 寺田は鮭料理を頼みましたが、思ったほどねっとりした味ではなく、おいしかったです。
 ところで、モナコといえばグレース・ケリー皇妃。ハリウッドの女優から、モナコの皇太子か王様の夫人になった人です。ワインを頼もうという段になって、大野記者がメニューを見ながら品定めをしていました。「モナコといったらグレース・ケリー・ワインでしょう」と寺田。「聞いてみてくださいよ」と大野記者。
 日本ではできないことですが、海外ではちょっと人格が変わります。黒人のおじさんウエイターが、冗談のわかりそうなタイプに見えたので、「日本ではモナコのグレース・ケリーワインが有名なんだけどある?」と聞きました。
「グレイ…ンっ?」とおじさんウエイター
「グレイス・ケリー・ワイン」と寺田。
「…シロ? アカ? ロゼ?」とおじさんウエイター。
 こちらの発音が悪かったのかもしれませんが、日本語で切り返されてしまいました。


◆2007年7月25日(水)
ユーロ取材2007・6日目
 METROPOLE MONTE CARLOの朝食はなんと、テラスでした。アングル的に海は見えませんが、それでも空間の優雅さが違います。しかも、欧米のホテルで当たり前のバイキング形式ではなく、給仕をしてくれる形式。てっきりバイキングだと思って席を立ち、うろうろしていたらインド系のウエイターお兄さんが「我々が持っていくから」と教えてくれました。確かに、少ないお客の数なのに、ウエイターが5人も6人も歩き回っています。知らなかった恥ずかしさよりも、そこまでするのか、という驚きが大きかったです。
 朝食なのにメニューから選ぶみたいです。よく見ると、金額が記されています。飲み物で6〜10ユーロ。あとは30ユーロと20ユーロのコース。「もしかして別料金?」という懸念が浮かびましたが、今さら「じゃあ帰る」とは言えません。
 前述のインド系ウエイターが1つ1つ、「これはどうする?」「こっちはどうする?」と質問してきましたが、料金を考えて控えめにしておきました。
 ただ、後で予約コンファメーションを見ると「朝食込み」の料金になっています。別料金が請求されることはないと思いますが、そのくらいに世話を焼いてくれるということです。

 仰天の事実が判明したのは、その直後でした。寺田の泊まっているホテルは1泊486ユーロ、8万3000円だったのです。7月19日の日記に明日(26日)もモナコか南仏で過ごす可能性を記しましたが、最終的にそうすることを決断。27日のニース→ブリュッセル便を昨晩、予約しました。
 日本にいるときはオランダを拠点とする格安航空会社でニース→ブリュッセル60〜80ユーロ前後の値段を見つけましたが(曜日や時間帯で変動)、それは180ユーロになっていました。ちょっと高すぎます。代わって予約したのがブリュッセル航空。こちらは150ユーロ。ハッセルトまでの電車代も、こちらの方が安くつきます。
 航空券が手配できたら、次はホテル。METROPOLE MONTE CARLOに3連泊ができれば一番楽です。荷物も置いたまま外出できるし、洗濯だってできちゃいます。それで、もう1泊したらいくらですか、とフロントで値段を聞いたわけです。

「あなたはミキ****トラベルを通しての予約だから特別料金でしたが、もう1泊となると通常料金になります。486ユーロですね」
 親切にも、料金の一覧表を手渡してくれました。間違いありません。8万3000円のホテルに1万6000円で泊まっていたのです。我ながら、頭がちょっとくらくらしました。
「Let me think」
 考えさせてね。とは言いましたが、考える余地などありません。部屋に戻ってすぐに、ニースの80ユーロ、無線LAN無料のホテルを予約しました。といっても、あれこれ調べて選んだので、1時間以上かかってしまいましたが。

 その後は、たまっていた日記も含めて原稿書き。昼食も外出せず、手持ちの食料ですませました。昨晩、今朝とたっぷり食べているので、食欲がなかったのです。若干、疲れが出てきているのかもしれません。
 もう1つビックリしたことが。午後の3時くらいに部屋の電話がなります。部屋の掃除をどうするのか、という問い合わせだと予測しました。
 案の定「ハウスキーピング」(語尾を上げる)という声。「掃除は要りません。タオルも石鹸も2泊分あるし」と答えます。普通ならこれで「サンキュー。グッバイ」となるのですが、まだ何か言ってきます。
「夜の行動は?」
「夜はエルキューリス(大会名称。発音を昨日確認ずみ)の取材だけど」
「では、夜に掃除をします」
「6時には出かけます」
 という感じ。カジノの国だからかもしれませんが、夜の部屋掃除も初体験でした。

 ホテルを17:30頃に出発。大会本部ホテルまで歩き(5分)、そこからシャトルバス。小さめのバスで人数も少なかったせいか、知った顔の選手がいませんでした。18:15には会場のルイ2世スタジアムに。入り口からプレスルームに行くのに苦労をしましたが、その後の移動は問題なくできました。
 スタンドの規模は2万人くらいではないかと、朝日新聞・小田、読売新聞・大野両記者の見解です。人口3万何千人の国で2万人のスタジアムがあるって、すごくないですか。要するに、モナコだけでなく、周辺からも観客が集まってくるということです。書くほどのことでもないか。
 スタンド裏に出て1つ下のフロアは、1周ずっとつながっています。違う区画に移動することもできました。この辺が、他の大会との違い。寺田の記憶ではパリ、ローマ、ローザンヌは、そう簡単には移動できません。警備員もいるにはいるのですが、怖い顔でいちいちチェックすることもない。おおらかです。
 ということで、棒高跳の写真も正面から撮れましたし、バックスタンド側からのスタジアムの全景写真も撮れました。

 オスロやストックホルムのスタジアムでも感じたことですが、トラックとの距離が近いのがいいですね。選手たちの迫力がストレートに伝わってきます。バックスタンド側の三段跳があそこまで大きく見えると、見てみよう、という気にさせられます。もちろん、トラックの内側だからです。競技場のレイアウトはやっぱりこれでしょう。トラックの外側にピットを作らず、内側に作る。それだけで、トラック種目も走幅跳&三段跳も、スタンドからの距離が近くなるのです。
 拍手が多かったのはやはり、フランスの選手たち。スタジアムが一番わいたのは女子100 mにクリスチャン・アーロン選手が優勝したとき(この写真は競技開始前のセレモニー。ヨーロッパでは定番のクラシックカーに乗っての場内1周)。2番目は110 mHのドゥクレ選手か、棒高跳のメスニール選手か。アーロン選手の人気は本当にすごいですね。
 さて、選手との距離が近いと、技術的な上手さ、下手さもわかりやすくなります。その辺を、澤野大地選手のネタと合わせて、TBSのコラムに書きたいと思っていますが、難しい部分もあって、どうしようか迷っています。

 マドリッドと違って22時には取材も終了。昨日が小田記者の最後の晩餐になるいはずでしたが、時間も早かった(?)のでスタジアム近くのカフェで両記者と食事。ニース風サラダを頼んでみました。出てきたのは、早い話がツナサラダ。敷いたレタスの上にツナが山盛りに置かれていて、周りにゆで卵とトマトの切ったもの。ツナにオリーブが混ざっています。マドリッドでも感じましたが、日本で瓶詰めで売られているオリーブよりもしょっぱくないのが嬉しかったです。
 ツナの中にもう1つ、ちょっと塩味がきいた食材があるのに、もう食べ終わろうかというタイミングで気づきました。ツナと色が似ていて気づかなかったのですが、味も明らかに違います。「これは何?」と小田記者に聞くと「アンチョビですよ」との答え。そうか、これがアンチョビか。聞いたことのある魚でしたが、目にしたのは初めて(これまで見たことはあっても、認識できなかった)。と一部関係者にだけ受けるネタを書いて、モナコの日記を締めましょう。

 スタジアムはモナコの西端で、泊まっているホテルはほぼ中央。ですが、夜景を撮りながら(丘の途中から西の方の海岸を撮影 グレース・ケリーゆかりのイベントでしょうか)ゆっくり歩いても20分くらい。明日、東端まで歩けばモナコ公国を徒歩で横断したことになります。が、やっぱり原稿優先でしょう。


◆2007年7月26日(木)
ユーロ取材2007・7日目
 Cote-d'Azur de Data Nyuryoku da
 こう書くとなんか、格好良くありません? 「コート・ダ・ジュールでデータ入力だ」をローマ字表記にしただけなんですけど。今回のヨーロッパ取材は、これを文字にするためだけに来た、と言っても過言ではありません(と書くときはもちろん、言い過ぎに決まっていますけど)。

 朝からの行動を振り返りましょう。昨晩は2時に米倉照恭コーチに電話取材。こちらの深夜2時が日本の朝9時。ヨーロッパの夜中の試合は、取材をするのに好都合と言えば、好都合なのかもしれません。取材の成果はTBSのコラムに反映しています。昨日の日記に書いた“難しい部分”が、それで解決しました。技術的な話は決めつけて書くと怖いのです。特に、トップ選手の技術や感覚は、そう簡単に文字にできないところもあります。この辺は慎重を期しました。
 4時に就寝して9時に起床。先にシャワーを浴びてから、テラスへ行って朝食。チェックアウト時に支払ったのはネット接続だけでしたから、朝食は事前の支払いに含まれていました。ちなみにネット接続は1日20ユーロと今朝の1時間8ユーロの合計28ユーロ(=4828円)。信じられません。
 チェックアウト時間ぎりぎりの12時までホテルで仕事。この手のホテルって、チェックアウト時間がどこにも書いてないのです。かなりの時間を費やしてホテルのインフォメーション冊子を読んだのですけど。

 荷物をホテルに預けて、大会本部ホテルに移動。まずは、フラッシュインタビューなどの資料が出ていないかを確認。あまりないですね、大会翌日にそうした資料を丁寧に出している大会は。昨日、PC上に出ただけでした。プレスセンターが使えてネット接続もできたので、TBSのコラムを書いて送信。
 その後、写真も撮りながら少し東の方に散歩。

●紺碧の海に浮かぶ白い客船
●2日前にも撮ったモナコ東の方の海岸
●建物の間の細い階段。その上にはプチホテルが


 そのままモナコ公国の東端まで行ってしまおうかとも考えましたが、疲れを考慮して自重しました。モナコは東西に細長い国ですが、ちょっと面白そうな路地なんかも発見して、北の方にも足を向けたら、少し道に迷って1時間近い散歩に。こんなことなら東端にまで行けば良かった。
 ホテルで荷物をピックアップしてモンテカルロ駅に。地図で見たら1kmあるかないかの距離。歩いて行こうと思いましたが、モナコは丘だらけの国。200 mで挫折してバスに乗りました。このあたりで疲労感が大きくなってきました。道に迷ったときにかなり、上り下りを繰り返しましたし。

 モンテカルロ駅から30分弱でニースに。駅を降りたとたん、同じコート・ダ・ジュールなのに雰囲気が違うことがわかりました。ちょっと汚れていて、猥雑な感じがします。同じレマン湖岸のローザンヌとジュネーブの違いみたいです。という例えで、何人の人がわかってくれるでしょうか。
 一昨日予約したホテルは駅の近くですぐにわかりました。80ユーロで予約して、朝食をつけたら90ユーロ。1万5000円台ですから、モナコの超高級ホテルと同じになってしまいました。でも、無線LANが無料。無料だと電波状態が悪いのが当たり前ですが、ここはしっかりしていました。有料だったデン・ハーグのホテルよりもまし。それだけが救いでした。

●ニースのホテルの部屋
●ニースでも、白いパソコンが窓辺にマッチ

 しばらく休憩して、コート・ダ・ジュール散策に出かけました。先ほどモナコよりも猥雑とか書きましたけど、コート・ダ・ジュールとしてはこちらが本家。モナコは浜辺と呼べる部分はそれほどなかったと思いますが、ニースはそれらしい雰囲気の海岸が何kmにもわたって続きます。

●西日に照らされる東の方の海岸
●逆光となる西側の海岸
●夕暮れの、ちょっと物憂げな海岸(を撮ったつもり)


 東の方の海岸の写真を見ると、モナコの写真とよく似た景観です。数年前に行ったイタリアのコモ湖畔も同じような雰囲気でした。リゾート地として発展するには、丘が入り江となって海や湖に出ていることが重要な要素となっているのだと思われます。
 ホテルを出たのが19時近かったので、ホテルのおばさんにお勧めポイントを絞ってもらって、海岸の東の方の歴史地区まで往復することに。何kmあるのか距離は確認しませんでしたが、歩いていけるだろう、と。
 しかし、今日はモナコでかなり体力を使っていて、途中でかなりきつくなってきました。カフェがあったら入って、休憩がてら仕事をしようと思っていたのですが、適当なカフェが見つかりません。
 そこで、海沿いの道にあるベンチですることに。海岸の中央付近はかなり埋まっていましたが、東に行くと徐々に空きベンチが多くなっていたので、これだったら行けると判断。コート・ダ・ジュールを眺めながら、ベンチに腰掛けて仕事をしました。2004年だったと思いますが、ナポリの丘でベンチに腰掛けて仕事をしたことを思い出しました。

●海岸沿いの歩道にはいくつもベンチが。色はもちろん白

 それが、冒頭で紹介したデータ入力の仕事です。コート・ダ・ジュールでデータ入力……陸マガ高橋編集長も白いモバイルパソコンの持ち主ですから、コート・ダ・ジュールで仕事をやりたかったのだと想像できます。彼の思いも込めて、データ入力を頑張りました。
 具体的に何のデータなのかを書いたらもっと面白いネタになるのですが、ここは我慢。大阪で日本選手に追い風が吹いたら、コート・ダ・ジュールの風だと思ってください。

 2時間くらい仕事をして、さすがに暗くなってきたのでやはり、カフェを探すことに。さらに東に行ってニース城を過ぎます。モナコもそうですが、ヨーロッパの海沿いの都市の起源は、城塞だったというケースも多いようです。
 ニース城を過ぎたところにカフェを発見。さっそく、店の外の席に陣取ってまずは食事。ピザやスパゲッティを食べる気力はなく、昨晩モナコで食べたにもかかわらず、再度ニース風サラダを注文しました。

●ニースで食べたニース風サラダ
●カフェの中。ここでも白パソコン


 昨日は丸いお皿でしたが、本家は長方形。モナコではツナの量が多すぎたのですが、今日は程良いバランス。今日もオリーブがおしかったですね。ただ、アンチョビが入っていなかったように思います。メニューには書かれていたので品切れだった? その代わりといってはなんですが、レッドピーマンが絶品でした。まろやかでちょっと甘味さえ感じたほど。ピーマンであの味は初めてでした。内側の軟らかい部分の歯ごたえがなんとも言えない食感でした。
 食事終了後にカフェの中に移動。途中での席の移動はやばいかな、とも思いましたが、ちょっと寒いからと口実を作って、了解をもらいました。店の中でもデータ入力。22:30まで作業をした後、ホテルまで1時間くらいをかけて、ニースの夜景を撮りながら帰りました。

●カフェから撮った夜景
●カフェから撮った夜景その2。赤い灯りの点滅していたのは燈台?
●コート・ダ・ジュールの夜景。歴史地区から西側の海岸を撮影
●夜の海に浮かぶ月
●ローラースケートで走高跳を行うパフォーマンスもやっていました
●ニースにもあるカジノ。同じ建物の1階がマクドナルド


◆2007年7月27日(金)
ユーロ取材2007・8日目
 ニースの悪霊の仕業だったのでしょうか? 昨晩、カフェで食事をしているときから、右の脇腹の上の方が痛くなりました。それもあって、ホテルへ帰るのに1時間も要したのです。帰って1時間ほどでベッドに。なんとなく以前にも経験していた痛みだったような気がしましたし、すぐに治まるだろうとタカをくくっていたら大間違い。ますますひどくなって、息をしても痛みがあるほどに。浅めの呼吸しかできませんし、横になっても寝返りもできない。ベッドから起き上がるのにもかなりの労力が要ります。
 夜中も5〜6回目が覚めました。眠っている間も、眠りは浅い状態。これは取材続行は無理かな、と思いました。まず、荷物が持てない。慣れない撮影取材をして、右腕を幾度も上げ下げをしたのが原因かな、と考えました。

 問題はこの後です。明け方になっていくつかのパターンを考えました。

1)最悪、ヨーロッパで入院
2)こちらのホテルに滞在して療養
3)ビジネスクラスにアップグレードして帰国
4)最小限度の荷物を残し、残りは全部日本に送って取材だけは続ける


 朝、6時頃に起きて状態を確認。ちょっと良くなっていましたが、荷物を持って移動するのは厳しい状態。フロアを移動するときなど、一度に持たずに2回に分けて運ぶ必要がありました。
 ニースの空港までは駅からバスがあるのですが、ここはもう、タクシーを呼びました。これが10分の距離なのに30ユーロという法外な請求。「空港までは一律、その金額なんだ」と言います。「10分しかかからないのに?」と食い下がると、「ホテルに迎えに行くまで10分かかっているんだ」と言い返してきます。それほどきつい感じの言い方ではありませんが、足下を見られたような気がしてなりません。
 まあ、今日のところは仕方ありません。

 ベルギーのブリュッセル空港でも、ゆっくりと移動。途中、売店で寿司を買って食べました。フルーツの盛り合わせと、ミネラル水の3点で18ユーロ。3000円の昼食です。
 空港の地下に鉄道の駅があり、ハッセルトまで1回の乗り換えで行くことができました。電車が混んでいなかったので、荷物の移動もなんとかなりました。少しずつ快方に向かっている気もします。
 乗換駅のLeuvenで40分ほど待ち時間があったので、駅構内のカフェでコーヒーを飲みました。空港のミネラルウォーターは2ユーロ。ここのコーヒーは1.6ユーロ。

●ルーベン駅のカフェで。木目を基調とした内装にも白いPCが合っています(くどい)
●ルーベン駅前の広場


 ハッセルトには16:23に着。ホテルまではタクシーを使いました。めちゃくちゃ近かったですけど、今回ばかりは仕方ありません。

●ハッセルトのホテルの窓から見える風景。隣の建物の屋上。猫も歩いていました

 ハッセルトで楽なのは、ホテルが1個所に集中していること。寺田の宿泊がエクスプレス・ホリデイインという安めのホテル(それでも1泊9000円)で、本部ホテルが200mほど離れたホリデイイン。日本選手や関係者が泊まっているのが、エクスプレスから50mの距離のイービス。
 大会本部ホテルに行く途中で岩水嘉孝選手にすれ違い、数分話をすることができました。大会本部ホテルでアクレディテーションをしようと思ったら、「それは明日、大会会場でやってくれ」とのこと。しかし、会場のヒュースデン・ゾルターのスタジアムまで、ちょっと距離があるので足を確保しておかないといけません。IDカードなしでシャトルバスに乗れるの? と聞くと、大丈夫だと言います。これで一安心。
 スタートリストができるのは夜の8時過ぎだと言いますし、もらえる資料はほとんどなし。シャトルバスの時刻表と、競技のタイムテーブルが張り出されていたので、ノートにメモ……をしていると、木路コーチ(大塚製薬)と平野コーチ(アコム)が来ました。1年前は夜遅くにハッセルトに着きましたが、ホテルのバーで木路コーチと平田監督がパソコンに向かって仕事をしていたのが、今でも印象に残っています。

 両コーチの話では日本選手は5000mAレースに竹澤健介選手と松宮隆行選手。Bレースに前田和浩選手、上野裕一郎選手、尾田賢典選手。800 mの笹野浩志選手や1500mの渡辺和也選手は、Bレースとのこと。その他には100 mHの池田久美子選手、男女3000mSCの岩水選手、早狩実紀選手。
 アジア選手権で小林史和選手が転倒した情報も、木路コーチが話してくれました。
 エクスプレスホテルに戻ると、50m先のイービスホテル前に日本選手が何人かいるようです。行くと永里監督(山陽特殊製鋼)、木村マネ(エスビー食品)ら。フランクフルトの小口さん(日本選手の渡航や宿泊のコーディネイトをしてくれる方)、読売新聞の大野記者も姿を見せます。世代的に寺田と近い木村マネは、庄野真代のファンだったそうです。2人で、モンテカルロで乾杯を知らなかった大野記者を糾弾(というほどのものでもないのですが)。木村マネとは、久保田早紀は異邦人以外もいい曲が多いということで、意見の一致を見ました。

 ちょうど、ジョグに出かけた選手たちが戻ってくる時間帯でした。コニカミノルタ・酒井勝充監督も散歩から戻ってきました。永里、酒井両監督に脇腹の痛みのことを話すと、肋間神経痛ではないか、と言います。その近辺の筋肉が張った状態になると、起こることがあるらしいです。幸い、症状は軽くなっていましたが、くしゃみをしたりすると相当に痛いです。
 しばらく談笑していると、エスビー食品・瀬古局長と、早大・渡辺康幸監督も出てこられました。池田・早狩・岩水の3選手は自身のエージェントを通じての参加で、竹澤・上野・高橋の学生3選手が、瀬古局長の率いるグループ。その他の選手たちが実業団連合の派遣です。学生選手たちには日本テレビとテレビ朝日が、冬の駅伝に向けて取材に来ていました。
 ハッセルトの人口が何万人なのかわかりませんが、ここに日本の長距離関係者がここまで多数そろっているとは、地元の人たちは知っているのでしょうか?


◆2007年7月28日(土)
ユーロ取材2007・9日目
 今日はナイトオブアスレティックの取材。
 午前中は雨が降っていましたが、昼頃から晴れて来ました。ホテルの窓を開けてみると気温は20℃台前半かな、というところ。風もありません。昨日、渡辺康幸監督の話では、竹澤健介選手は日本新ペースで行くとのこと。酒井勝充監督によれば、松宮隆行選手はあくまでB標準(13分28秒00)狙い。B標準を切れば、世界選手権代表に決まります。早狩実紀選手とはまだ接触していませんが、もちろん日本記録狙いでしょう。岩水選手は、DNガラン狙いのようです。
 昨年はインフィールドでカメラ取材もした大会ですが、今回は脇腹の痛みも考えてペン取材に徹しようと思います。ラップも測りたいですしね。あと1時間で取材に出かけます。

※ここからは取材後
 ナイトオブアスレティックは2年連続の取材です。右脇腹の痛みはほとんどなくなりましたが、大事をとってカメラ取材は控えました。でも、これというシーンでは別でした。そのシーンがたくさんあったのがよかったですね。

 男子800 mB組には笹野浩志選手が出場。先頭は1周目をおそらく50秒台で通過。縦長の集団の最後尾が笹野選手で52秒1。ここまで速いと、この展開は仕方ありません。しかし、笹野選手は2周で粘って順位を上げて行きます。さすがに国内で見られるような豪快なスパートはできませんが、最後の直線も粘りきって7位でフィニッシュ。寺田の手元で1分47秒55でした。
 タイムよりもレース内容が良かったと日本人記者たち(折山さん、読売新聞・大野記者、寺田)は思ったのでしょう。全員、コメントを聞きに行きました。取材中にもしかしたら北京五輪のB標準を破っているのではないかと思い笹野選手に確認すると、北京のB標準は1分47秒60。この種目は世界選手権よりも1秒下がっているのです。
 しかし、ナイトオブアスレティックは記録の発表がなかなか行われません。というか、電光表示はしませんね。上位だけしているかもしれませんが、日本選手の記録を知ることはできません。寺田の計時で決めつけてコメントしてもらうわけにもいきませんし、昨年は小林史和選手がB標準を破ったと喜んでいたら(このときは寺田の計時ではありませんでした)、百分の何秒か届きませんでした。
 いったんダウンに行ってもらい、標準記録を破っていたら再度、コメントしてもらうことに。

 気が気ではない大野記者と寺田が、記録をプリントアウトしているスタンド下の部屋に行きます。すると、最初は「ちゃんと配るから来るな」という対応。しかし、「笹野という選手の記録だけでも教えてくれ」と食い下がりました。こういうとき、2人いると少し強気に押すことができます。すると理解してくれて調べてくれましたが、なんと「ササノはディドゥ・ノット・フィニッシュだ」と言います。なかなかその意見を取り下げませんが、こちらはレースを目の前で見ているのですから、簡単には引き下がれません。「確認するから待っていろ」と、やっと言質を得ました。
 かなり待たされましたが、配られたシートのタイムを見ると1分47秒54。さっそく、その記録を持ってサブトラックに。以下はその記録を見せたときの笹野選手の表情です。

●「オレの名前はどこだ?」と上から下に視線を移す
●「記録は?」と右の方向に視線を移す
●「やったぁ。破ってる。4年越しだあぁ」。2004年に1分47秒02の自己新をこの大会で出すもアテネ五輪標準記録に0.02秒届かず
●「おめでとう」(平野コーチ)
●「どれどれ」と、他の中距離仲間+岩水選手ものぞき込みます


 あらためて日本人記者団が笹野選手に取材。終わった後、隣で取材の様子を見ていたおじさんが声をかけてきました。
おじさん「彼は大阪の世界選手権に出るのか?
寺田「大阪には出られないけど北京五輪の標準記録を今日破ったんです」
おじさん「だったら、大阪にも出られるのではないのか」
寺田「他の選手がもう代表に決まっていて、彼は出られない」

 北京オリンピックの標準記録が1秒下がっていることや、地元枠との兼ね合いなどを説明する英語力はありません。相手が日本人でも、標準記録と地元枠の関係を理解してもらうのって大変ですよね。

 時間がないので残りは写真中心に。

●女子100 m・200 mの2種目を制した地元ベルギーのゲハールト選手。女子走高跳のヘルバウト選手とともに人気は抜群

●女子3000mSCでは早狩実紀選手が9分38秒68の日本新で8位
●男子5000mでは松宮隆行選手が13分13秒20の日本新で4位。竹澤健介選手も13分19秒00の学生新。両方とも高岡寿成選手が持っていた記録を破りました
●学生記録を更新してきた早大トリオ。右から渡辺康幸監督(1万m)、竹澤、エスビー食品・瀬古利彦局長(5000m・1万m)。「学生新だけど松宮さんの強さを思い知らされた」と竹澤選手に笑顔はありませんでした
●同じ日に長距離2種目の日本新が出たのはいつ以来でしょうか? 祝杯をあげる両選手

●酒井勝充監督にお礼の印にお酌をする松宮隆行選手

 写真はありませんが、男子3000mSCの岩水嘉孝選手は8分28秒43で15位。2周目の水濠で前の選手と接触して転倒してこのタイムですから、状態はかなり良くなっています。しかし、岩水選手自身は日本記録前後のタイムを想定していたようです。速い選手と一緒に走る予定だったのが、1人で走ることを強いられました。接触した相手の障害越えがかなり下手だったようで、レース後はかなり立腹した様子で引き揚げていきました。
 新記録、自己新を出した選手たちのレース後の様子は、“選手それぞれ”という感じ(当たり前かも)。
 最初は女子3000mSCの早狩実紀選手。いつもの“たおやか”な話しぶりですが、日本記録は出して当然というか、出さないといけなかった、というトーンで話をしてくれました。6月のオスロGL、日本選手権と9分40秒台前半を連発していましたし、この2年間の世界の進歩を考えると、世界選手権では9分30秒台前半を出す必要があると考えているようです。

 予想外の日本新だった男子5000mの松宮隆行選手は、本人も“まさか、ここで出せるとは思っていなかった”という反応です。欲張らずにB標準の13分28秒00だけを狙っていました。それが、走り出したら日本記録ペースの集団の最後尾につくと、ちょうど良いリズムに乗ってしまった。本人も言っていましたが、これまで記録狙いに行ったレースや、代表を取りに行った日本選手権(04・05年)では失敗することが多かった。
 それが、05年の世界ハーフを最後に日本選手間では無敗。昨年、今年と日本選手権2冠。そして今回、標準記録を出さないと代表入りができない追い込まれた状況で、しっかりと結果を残すことができました。練習の状態からB標準は絶対に切れる自信があったことが大きかったと思いますが、間違いなく安定した強さが身についています。
 駅伝だけではなく「目指すのは世界だ」と言い続けてきた酒井勝充監督も、ホッとされたのではないでしょうか。実は寺田もホッとしました。というのは、ヨーロッパ取材第1戦のマドリッドGP取材中に、コニカミノルタのデジカメ(レンズ一体型)を落としてし壊してしまったのです。日をおいて何回か電源を入れたのですが、ピントがまったく合いません。あきらめて、今回のヨーロッパ取材はキャノンの一眼レフだけで乗り切りました。
 こんなことが選手の成績に影響するわけはないのですが、もちろん、レース前に言い出せるわけもありません。松宮選手が代表入りしたら話そうと思っていたネタですが、こちらも5000mの日本記録を取材するのは初体験(高岡選手は帰国後に電話取材をしましたっけ)。カメラを落としたネタはコロッと忘れていました。

 5000mのA標準を突破した学生2選手の表情もそれぞれ。竹澤健介選手はレース直後は、日本選手権と同様、松宮選手に完敗だった、という表情。学生新、日本人3人目の13分10秒台とわかっても、それは変わりません。瀬古さんや渡辺康幸監督との記念撮影時にも、“自分はそこまでの選手じゃない”という表情です。これは、竹澤選手が貫いているスタンスでしょう。
 もう1人の上野裕一郎選手は、A標準ぎりぎりでしたがガッツポーズでフィニッシュ。2分40秒ペースで押していける、ハイペースでも最後の1000mを2分37秒でカバーできた、という達成感があったのでしょう。ただ、A標準でも日本選手権の成績で世界選手権代表入りはありません。今回も竹澤選手にはタイムで負けています。
 レース後にどこまで話してくれるかわかりませんでしたが、気持ちはもう、来年の北京オリンピックに切り換えていました。笹野選手同様、北京のA標準突破。「来年は13分10秒台は出せる。来年の自分が見えてきた」と、上野選手らしい強気のコメントも口にしてくれました。

 取材終了後、ホテル行きのバスを待っていましたが、なかなか来ません。その間に、サラゴサ(スペイン)の内藤真人選手に電話を入れました。松宮選手の取材中に電話が鳴ったのですが、取材中で出られませんでした。あとで履歴を見ると内藤選手から。これは日本新が出たかな、と思って掛け直しました。残念ながら記録は13秒44(自己2番目。パフォーマンス日本歴代3位)でしたが、話を聞くといいマドリッドよりも内容のレースだったようです。
 地面にノートを広げてメモを取っていたら、バスがやってきて轢かれそうになりました。平野コーチが荷物を移動してくれて、事なきを得ましたが。
 バスの車内では、日本新誕生を携帯のメールに書きました。男子5000mの日本新は大ニュースです。学生新も一緒に出ている。2つとも高岡寿成選手の記録です。日本時間は朝の6〜7時台。躊躇しましたが、メールだからいいか、と送信。高岡選手に送信しようかどうしようか迷いましたが、結局、知ることになるのは一緒。だったらメールを送ってもいいだろうと判断。「5000mが先とは予想外でした」という返信が来ました。
 レース直後はこちらも、とにかく取材をしなくてはいけない、という気持ちが強かったため、今回の記録の意義について考える余裕がありませんでした。よく考えれば考えるほど、すごい快挙だったという認識になってきました。

 ホテルに戻ったのが何時だったでしょうか。よく覚えていません。すぐに原稿書きに取りかかりたかったのですが、松宮選手と早狩選手が祝杯をあげる写真を撮りに行きました。3年前のナイトオブアスレティックで小林史和選手が日本記録を出した際、選手たちと街中のカフェで食事をしたという話を聞いていましたから、そういうチャンスがあると思っていました。
 今回は実業団派遣のメンバーがそろって食事をとっていました。松宮隆行選手が一番後れてきたのは、きっと何カ所か連絡をしていたからでしょう。永里長距離部長も今回の記録の意味を、半ば興奮気味に話してくれます。岩水選手たちトヨタ自動車の一行も同じ店にいて、話を聞くこともできました。レースからしばらく時間がたっていることもあり、今日の失敗について、「水濠越えが良かったから接触した」と、前向きにとらえていました。
 取材(食事会)が終わったのは2時頃……だったと思います。


◆2007年7月29日(日)
ユーロ取材2007・10日目
 6:30に起床。実業団派遣チームが7:30にホテルを出発するというので、挨拶に行きました。こんなこともあろうかと、色紙を持参しています。誌面掲載用に松宮選手にサインをもらいました。陸マガ掲載となったらここには載せませんが、文字が青なのは、サインペンを日本から持って行くのを忘れたから。幸い、ホテルのフロントで借りることができましたが、青色しかなかったのです。でも、それほど変ではないので、良しとしました。
 続いて、8時から早狩実紀選手のブレックファスト取材。すでに出発準備を万端、整えてからインタビューに応じてくれました。昨年のヨーロッパ取材中には、同選手とマインツで一緒にカフェに行きました。それがナイトオブアスレティックの前日のこと。カフェに行く途中か帰る途中で、ナイトオブアスレティックには出られないとの報が、早狩選手の携帯電話にかかってきました。ちょっとした縁(えにし)を感じます。
 このインタビューは陸マガに載ります。

 9時に空港行きのバスに乗る早狩選手を見送り、昼までホテルで仕事。12:17にハッセルト駅に行くと、瀬古さん率いる学生陣と一緒になりました。
 寺田は12:22のアントワープ行きに乗るつもりでしたが、その電車は平日ダイヤで日曜日は13:10発。ハッセルトはそれほど大きな街ではないので、トーマスクック時刻表に休日ダイヤまで明記されていなかったわけです。という話をエスビー食品・木村マネにすると、トーマスクック時刻表にフィンランドの小さな駅が載っていなくて、違う駅で降りてしまったことがあると話してくれました。
 しかし、時間ができたおかげで、ヨーロッパでも“途中下車”ができることがわかりました。国や距離で違ってくることだと思いますが、ハッセルトからスキポール空港駅までの切符で、途中のアントワープで途中下車できることができると切符売り場で確認。ここは半分、筆談にして100%を期しました。今日のうちにスキポール空港まで行って、明日の15:20のフライトまで仕事に専念する方法もありましたが、それでは味気ないですから。せっかくヨーロッパにいるのですから、それらしい雰囲気の街に一泊しようと思って、ベネルクス3国のガイドブックを見て、アントワープに寄ろうと決断したわけです。

 という話をすると、渡辺康幸監督が「アントワープなら世界クロカンで行ったことがありますよ」と言います。渡辺監督の世界クロカンといえば、ボストン大会で入賞した写真を陸マガに掲載した記憶がありましたが…。「高校2年のときです。そこそこ大きい街ですよね」。人口50万人くらいで、ベルギーではたぶん、ブリュッセルに次いで2番目に大きい街です。ボストンは高3のときだそうです。
 木村マネも「オリンピックをやった街ですよね」と言います。そういえば、そうでした。1920年の開催地です。オリンピックといえば1928年のアムステルダム五輪が、織田幹雄さんが日本人初の金メダルを取ったオリンピックということで、我々の記憶のスタートになっています。もちろん、1回大会が1896年のアテネで、映画「炎のランナー」の舞台になったのが1924年のパリ大会だというのは知識として頭に入っているのですが、日本の陸上界にとってアムステルダム五輪こそが、なんというか、スタートのような感覚なのです。
 と書くと、金栗選手や三島選手が参加したストックホルム大会(1912年)はスタートじゃないのか、という抗議のメールが来そうですが、そこは寺田が中島亥太郎さんと机を並べていたことがあるので、と言い訳をさせていただきます。中島さんは400 mで初めて50秒を切ったスプリンターで、織田さん直属の後輩だった方です。

 ハッセルト駅のホームで瀬古さん一行と別れ、アントワープに14時半頃に着。ホテルは駅前。50ユーロと今回の旅で一番安いホテルです。ハッセルトでネットを通じて予約しました。ネット接続ができるとそのサイトには出ていたのですが、「もっと高い部屋でなくてはできません」とのこと。荷物を運び込んだ後に言われても困るのですが、大きな街なのでなんとかなるだろうと判断。さっそく、昼食とネット接続場所を探して外出しました。
 すぐに、近くのマクドナルドで“Free Wi-Fi”(無料無線LAN)のステッカーを見つけましたが、「ヨーロッパに来てマクドナルドも味気ないだろう。ここはカフェを探そう」と思ったのが失敗でした。いくつかのカフェのドアをくぐりましたが、「食事はやっていない」という店ばかり。時間帯のせいだったのか、日曜日だったからなのかはわかりません。街で一番大きな広場まで行くと、かなり大きなカフェもありましたが、「食事は17時から」。
 しかし、その広場でパソコンを開いている人を発見。試しにベンチに座ってチェックしてみると、無料無線LANができました。ただ、肌寒くて長時間は無理。とりあえず、アジア選手権の最終日の成績が出ていないかを確認しましたが、出ていません。今ヨーロッパ取材中の最大の宿題であるデータ入力作業は、アジア選手権の結果も必要なのです。

 まあ、とにかく写真を紹介しておきます。
●荘厳なアントワープの駅
●アントワープはダイヤモンドの街としても有名
●馬車も走っていましたが、もちろん観光客用
●街の一番大きな広場。無線LANができましたが電波は弱いです
●フランドル派の画家を何人も輩出した街。これはルーベンスでしょうか。自信なし


 そんなこんなで、食事は結局、駅近くに戻ってメキシコ料理屋で。ミックスサラダ(もちろんパン付き)が5ユーロと、今回の旅行では最安値の外食です。マクドナルドにも寄って無線LAN接続を確認。今日は移動電車の車内も含め、ほぼ1日かけてテレビ雑誌の世界選手権展望原稿を頑張りました。


◆2007年7月30日(月)
ユーロ取材2007・11日目(最終日)
 朝6時には起床。テレビ番組雑誌の原稿が為末選手のインタビュー記事と、少ない文字数ですが見どころを10本というもので、残り2本が書けていませんでした。それを書き上げてから朝食に。古いホテルですが昔は(19世紀とか)高級ホテルだったようで、朝食は豪華でした。欧米のホテルで主流のバイキング形式ですが、卵とベーコンは鉄板で温めることもできました。
 朝食のあと、先に荷造りを済ませてから近くのマクドナルドに。ネットに接続してテレビ番組雑誌の原稿を送信。28日と30日の2回に分けて送ってほしいと言われていましたが、最終締め切りに一括して送ることになってしまいました。編集者にも国際電話を入れておきました。

●アントワープのマクドナルド

 アジア陸連サイトを見ると、アジア選手権最終日の結果も載っています。陸マガ高橋編集長に、アジア選手権の結果もこちらで入力できるから、とメール。アジア選手権の結果は編集部でフォローするからとにかく30日中にデータが欲しい、というのが出発前の陸マガの要望だったので、かなり喜んだのではないかと思います。
 10:00にホテルに戻ってチェックアウト。スキポール空港駅まで電車で約2時間。その間にアジア選手権の結果も入力できましたし、デン・ハーグを通過したときはちょっとした感慨がありました。いよいよヨーロッパともお別れか、と。なにせ大赤字の取材旅行です。次にいつ来られるか、わかりません。

 空港ではニース行きのときに苦しめられた自動チェックインに再度トライ。今回は一発で成功。余裕があればなんとかなります。フライトまで3時間弱。とにかく早めに搭乗ゲートまで行っておいて、そこで仕事をしようと考えました。
 搭乗ゲートに行くと、すでに何人かの乗客の姿が。成田行きの便ですから日本人が多くなるのは当然です。西ヨーロッパばかり回っていたので、久しぶりに日本人の女性を見ると美人が多いと実感できます(ヨーロッパの中では西よりも東の方が美人が多いというのが持論です。04年のチェコ、クロアチア取材で確信、と書くと大内さんの奥さんからまた何かご指摘があるかも)。
 と思っていると、久保倉里美選手がベンチに1人座っていました。マドリッドGP後、フランクフルト経由でヨルダンに行き、アジア選手権に出場。ヨルダンからフランクフルト、アムステルダムとヨーロッパを経由しての帰国。他の日本選手たちはトルコ経由で12時間のトランジットだそうです。それで、信岡沙希重選手のブログにトルコの写真が載っているわけです。ブルーモスクということはイスタンブールですね。
「モンテカルロで乾杯」に続いて、今度は「飛んでイスタンブール」。今回のヨーロッパ取材は庄野真代づいています。小田、大野両記者は「モンテカルロで乾杯」を知りませんでしたが、「無粋な連中ですな」というメールが朝日新聞・堀川記者から届きました。エスビー食品・木村マネも庄野ファンだったと言ってくれましたし、同世代の援護がある限り、何度でも書きましょうの……と、結婚記念に佐藤敦之選手のギャグを応用してみました。以前、兵庫リレーカーニバルに尾方剛選手か油谷繁選手と一緒に出場したことがあって、レース中に「一緒に行きまひょうご」と考えてペースアップしたと聞きました。

 話を久保倉選手に戻しましょう。時間に余裕があることを確認してから取材。アジア選手権を含めた今回の遠征全体を振り返ってもらいました。3試合をして56秒台中盤から57秒台というタイムでしたが、経験という点では得るものが多かったと話してくれました。アジア選手権では、気持ち的にもかなり余裕を持って臨めたようです。
 中東での国際大会は何かと苦労が多い遠征。久保倉選手のようにある程度経験も、力もある選手はそこで自信をつかむことができます。経験の少ない選手は、そこで大変な思いをすることで、地元世界選手権で気持ちに余裕を持てるようになる。というのが、多数の世界選手権代表をアジア選手権に派遣した理由ではないかと推測します。
 ただ、今回の遠征はものすごい暑さで、食事も慣れないものだったということで、体調を崩した選手、コーチも多かったとか。そういった選手たちが体調を戻すのに、時間がかからなければいいのですが。

 久保倉選手への取材終了後は時間までパソコンを広げて仕事。ネットも30分6ユーロで接続できました(これも高い!)。でも、締め切りは守りたかった……という気持ちもありますが、Cote-d'Azur de Nyuryoku sita Data はヨーロッパから送りたかったのです。


◆2007年7月31日(火)
 成田空港に10時前に着。機内ではナイトオブアスレティックの5000mで新記録・好記録が続出したことを、TBSサイトのコラム用に書きました。考えれば考えるほど、すごい快挙だったと思えてきたのです。ただ、「5000mでメダルも…」というのは書き過ぎかな、とも思いました。
 目の前で快挙を見ると、評価が高くなる傾向があります。アテネ五輪の男子両リレーがそうでした。現場にいた記者たちと、日本から見ていた寺田と、書く内容のトーンに違いを感じたものです。今回のナイトオブアスレティックについては、現場にいた寺田の方が高く評価をしてしまっているのだろうな、と感じました。
 そこで、コラムでは末續慎吾選手の世界選手権銅メダルを引き合いに出させてもらいました。以前は誰も考えられなかった男子短距離種目でのメダルです。トラック長距離種目の現状も、以前の男子短距離と同じです。“絶対に無理”と決めつけたらダメでしょう。ただ、目の前でアフリカ勢の走りを見ると、厳しいかなと感じることもしょっちゅうあるのですが…。これまでと同じ感覚でやっていては無理、ということだと思います。

 成田空港ではなかなか荷物が出てきません。その間に久保倉里美選手に最後の質問。「マドリッドで何か、ニックネームを付けられませんでしたか?」と。「池田さんが“東洋の真珠”なので、私は“東洋のカルメン”と呼ばれていました」という答えを期待していたのですが、残念ながらそういう事実はなかったとのこと。
 武骨で実直なドン・ホセが内藤真人選手で、久保倉選手がカルメン。「犯罪者に例えるとはけしからん」という無粋なメールを寄こす人間はいないと信じています。


◆2007年8月3日(金)
 佐賀インターハイは台風の影響で競技スケジュールが変更に次ぐ変更だったとか。夜の10時過ぎまで競技が行われたとテレビのニュースで見ました。
 選手やスタッフは大変だったと思います。陸上競技はタイムテーブルが変わっても、数十分の後れですむのが普通です。何時間も狂うと、移動手段や食事の手はずを変更しないといけません。
 その日がインターハイ期間中最後の出番という選手はいいのですが、翌日以降も出場機会のある選手も多いはず。そういった予想外の事態になったとき、慌てないで腰を据え、集中力を維持できるかどうか。

 もしかすると今年の高校生たちは、インターハイの記録は悪くても、今後の伸びが期待できるかもしれません。3年前の島根インターハイで雨の中を勝ち抜いた選手が、今年の世界選手権代表に入っています。金丸祐三選手とか、高橋萌木子選手とか……断定するには例が少なすぎますね。

 しかし、夜の10時まで競技をやっていたら、朝刊の締め切りに間に合わせられなかった新聞もあったのでは? 特に地方紙は、この日の紙面はこの選手でと、特定しているケースも多かったと思われます。かなり大変だったと思います。


◆2007年8月4日(土)
 佐賀インターハイの男子走幅跳で好勝負が展開しました。
 嘉山大介選手(深谷商)が2回目に7m69(+3.2)を跳ぶと、4回目に皆川澄人選手(白樺学園)が7m75(+3.3)で逆転。皆川選手は5回目に公認で7m75(+1.7)の高校歴代6位&高2歴代2位。6回目には小西康道選手(白樺学園)が7m72(+2.9)と追い上げました。
 この3人はいずれも高校2年生。小西選手と嘉山選手が世界ユースの1・2位で、皆川選手と小西選手が同じ高校と、ドラマ性も十分でした。

 現地に行っていないので詳しいことは書けませんが、白樺学園の2選手については、去年のインターハイのときに、こんな記事を書いています。


◆2007年8月5日(日)
 佐賀インターハイで笹瀬弘樹選手(浜松市立)が5m41の高校新に成功しました。澤野大地選手が5m40がこんなに早く更新されるとは、正直思っていませんでした。そのくらいインパクトの強い新記録でした。
 笹瀬選手については去年の国体で記事を書いています。


◆2007年8月6日(月)
 佐賀インターハイも最終日。寺田明日香選手が100 mH3連覇、100 m&4×100 mRと合わせて3冠という偉業を達成しました。寺田選手の記事は去年のインターハイで書いています。100 mHの3連覇、100 mとの2冠、高校新と全て、1年前に口にした目標を全て達成しています。これも珍しいケースです。
 同じ寺田でも、こっちの寺田は目標が何も達成できていません。仕事を効率よくこなすとか、業務を拡張させるとか、色々とあるのですが…。目標設定の仕方自体がよくないのでは、と最近考え始めています。

 話をインターハイに戻しましょう。
 男子総合は浜松市立が優勝。杉井将彦先生は浜松商のときも総合優勝しています。2つの学校で総合優勝を実現した先生って、これまでにいるのでしょうか? 「インターハイ50年史」に掲載されている97年までのデータでは、複数回優勝の先生は何人かいますが、別の学校で優勝したケースはありません。

 今年のインターハイも連日、中心となる話題があって盛り上がったように思います。やっぱり、それがインターハイのすごいところです。


◆2007年8月8日(水)
 陸連男子短距離合宿を取材。富士北麓に年に1回行くのも恒例となってきました。
 朝6時に起床。2時間睡眠ですが、どこかでヨーロッパ時間から戻す必要があります。取材でもないと生活サイクルを変えられないというのも情けないのですが。
 指定席は昨日の午後にみどりの窓口に行った時点でソルドアウト。自由席も満席で、大月までの1時間を立ちっぱなしというのが、余分な体力を使ったかな、と不安になりました。と同時に、大槻康勝選手は元気にしているのかな、という思いも過ぎりました。今日は法大、富士通選手も多いので。

 大月からは富士急。各紙記者ら関係者の顔もちらほら。毎日新聞は筑波大OBのISHIRO記者、読売新聞は大阪の新宮記者(静岡県出身)、中日新聞は早大で瀬古さんと同期だった桑原記者、朝日新聞は東京の堀川記者(神奈川県出身)と、モナコで別れた大阪の小田記者(岡山のSP記者)。いつもの面々です。堀川記者は相変わらず磯崎公美さんと同学年ですが、ISHIRO記者とはずいぶん久しぶりの気がします。たぶん、同記者が冬季五輪開催地を決めたIOC総会取材で日本選手権に来られなかったためでしょう。

 小田記者は、日本記録&学生記録が出たナイトオブアスレティックの前に帰国したことを悔いていました。「なんやオダ、そのくらい予想できんかったんか」と、Kデスクから雷が落ちたのかもしれません。まあ、こればかりは運としか言いようがない。天下の朝日新聞といえども出張予算が無限にあるわけではありませんし、前半のローザンヌやローマで日本記録が出た可能性もあったわけです。実際、為末・池田・澤野選手たちに合わせてパリ、ローザンヌから行った社が多かったのですけど、ナイトオブまで居残ったのは読売新聞と折山さんだけでしたから。
 と、第三者は慰めることもできますが、本人にとっては悔やみきれないところ。小田記者の2007年ヨーロッパ取材は、ナイトオブまで残らなかったのは記者人生の汚点というほろ苦い思い出と、“モナコでもなか”を食べられた(7月24日の日記参照)という甘い思い出が混在して残ることでしょう。

 電車内では小田記者の向かいにミズノ・木水広報の顔も。ミズノ・サイトの原稿は全て書き終わった後だったので良かったです。こういうときはこそこそ隠れずに挨拶ができます。サニーサイドアップからは為末大選手担当の井口さんと坂井さん。2人揃って来るほど力を入れているのはなぜかというと……世界選手権直前だからでしょう。
 富士吉田駅で陸マガ前編集長・児玉女史と合流して、タクシーで富士北麓公園陸上競技場へ。この競技場ばかりはタクシーを使う以外に行く方法はありません。

 10時から練習開始。練習中はカメラ取材。メインカメラはいつものEOS(一眼レフ・デジカメ)ですが、今日はサブカメラが昨日購入したキャノンのIXY DIGITAL 900IS
 マドリッドでレンズ一体型デジカメ(12倍ズーム)を落として壊してしまったので、今日の短距離合宿取材と、明日のスズキ壮行会取材の前に後継機種(取材に使うという意味での後継)を購入したかったのですが、ネットで各社のカタログを見て決めたパナソニックの一体型が8月25日の発売でした。世界選手権の開幕日。どうしようかと迷った末に、初めてコンパクトデジカメを購入しました。
 一体型はズームが12倍(300〜400mm)で重量が400〜500gなのに対し、コンパクト型はズームが3〜4倍(100mm)で重量が125〜175g。一体型はウエストバッグに入れて常に持ち運べますが、ペン取材の時は邪魔に感じることもあります。その点、コンパクト型はポケットに入れることも可能です。
 今回、試しに広角(28mm)のコンパクト型を購入しました。これも、ヨーロッパ取材がきっかけです。澤野大地選手をモナコで取材した際、同選手の持っていたコンパクトデジカメに触らせてもらいました。思ったより高機能というか、便利な機能がついていて驚きました。メーカーによって呼称は違うと思いますが、フェイスキャッチ機能というやつです。ファインダーの中の顔をカメラが自動的に認識し、ピントと露出を合わせてくれるというもの。カメラのオート露出は逆光では役に立たないというのが我々の常識でしたが、この顔認識機能がきちんと働けば逆光でも使えます。
 一番期待したのがスタンド下の屋内で、明るい外をバックに選手や関係者の写真を撮るケースです。さっそく試してみましたが、内外のコントラスト差が大きいとダメでした。外に近い場所に移動して、コントラスト差が小さいとなんとかなることもあるようです。ただ、順光時の色は綺麗でしたし、結構使えるじゃないか、という感想です。もしかしたら、世界選手権(ほとんどペン取材です)もこのカメラで行くかもしれません。

 ということで、今日の取材は写真を中心に紹介しましょう。
※写真をクリックすると拡大表示します
写真1:男子4×100 mR陣のバトンパス練習。通しで行うのは明日ということで、今日は控えめでした。5人の位置を見ると1走・塚原、2走・末續、3走・高平、4走・朝原というフォーメーションで走っていますが、冬の合宿からいくつもの走順を想定して練習をしてきています。シドニー五輪のように小島茂之選手がカギを握ってくる可能性もあります。
写真2:真剣な眼差しの佐藤光浩選手。福島にいるときと陸連合宿では「キャラが違う」(某選手)との情報あり
写真3:今合宿参加最年少の金丸祐三選手。ジャイアントベイビー(選手間のニックネーム)にもあごひげが
写真4:田野中輔選手と為末大選手のハードル・コンビ。実は同学年。野口みずき選手も同学年。メダリストの数でいったら“末續世代”よりも上です
写真5-1&5-2:ハードルを2台目までセットして跳んでいた為末選手。しかし、なかなか足が合わずに、その都度、山崎一彦ハードル部長と話し合い、やり直すシーンが目立ちました。写真5-1では1台目は越えましたが、そこで中止。写真5-2で初めて2台目まで跳びました。ビデオ撮影をしている白いシャツの人物が前橋育英高OBのサニーサイドアップ坂井氏。
写真6:練習の最後には、翌日の新聞にも紹介された“丹田トレーニング”
写真7:男子110 mHで3人のフルエントリーをするのは世界選手権では初めて。ということで3人の記念写真を撮らせてもらいました。ポーズは案の定“まさちゃんポーズ”(かなりメジャーになっています)。帰りのバスに乗り込む直前というとっさのタイミングでしたが、IXY DIGITAL 900ISが役立ちました。ちなみに、3人エントリーが過去のオリンピックであるのか確認したら、1936年のベルリン大会で1回だけありました。そのときは2人が予選落ちで1人が準決勝1組で5位。2人準決勝に行けば日本110 mH史上過去最高成績。内藤選手は過去3大会連続準決勝進出してますし、今季の状態から予選突破は堅そうです。ということで、110 mH過去最高成績の実現は田野中選手と八幡選手の頑張りにかかってきます。というか、内藤選手が決勝に行けば110 mHの新たな歴史が幕を開けます。そのときは、日本中がまさちゃんポーズをして祝福するでしょう。
写真8:この日は3作目の著書「走りの極意」(ベースボール・マガジン社)の見本が届けられました。後方では内藤選手が“まさちゃんポーズ”


◆2007年8月9日(木)
 17:40からスズキの世界選手権壮行会取材。村上幸史選手、マサシ選手に加え、今朝、成田空港に着いたばかりの池田選手も参加。
 老婆心がもたげて「休めているの?」と聞くと、「機内で眠ってきましたから」と池田選手。飛行機で眠れない寺田とは正反対。それができないと帰国した日が一日、無駄になってしまうんですよね。逆に「脇腹は大丈夫ですか」と心配されてしまいました(7月27日の日記参照)。選手に体調を気遣われるようでは記者失格。これは反省材料です。
 共同会見では中日新聞・桑原記者の次に、技術的な質問をさせてもらいました。池田選手も予期していたはず。不調の原因は「助走が“前さばき”になりすぎていたから」という分析を話してくれました。もしかすると、“前さばき”がわからない記者もいるかもしれません。普通なら“前さばき”はこういうことですよね、と質問を続けますが、今日は時間が心配だったのでそこはパスして、矢継ぎ早に(というほどでもないのですが)2つくらい質問させていただきました。

 しかし、終わってみればちょっとだけカコミ取材の時間がありました。そこでは、今日が森千夏さんの命日という話題に。ちょうど1年経ったのですね。東京高・小林先生のブログに、写真がいくつか掲載されています。
 遺品のブレスレットを池田選手がしていたので、ここでも買ったばかりのIXY DIGITAL 900ISの出番がありました。他の記者たちも撮っていたので、掲載した新聞もあったのでは?
 ただ、この話題は正直、苦手です。それで記者が務まるのか、とお叱りを受けそうですが、池田選手の場合はちょっと事情が違うのです。彼女の周囲で亡くなった人間を3人知っています。森さんと、父親の実さん。そして、もう1人は寺田とも近い関係の人間でした。どうしても、感傷的になってしまいます。
 でも、人の死というのは、我々の生活で“身近”なものです。誰でも、身近な人間の死を、何度も経験している。自分の気持ちの中で、感情は処理していかないと生きていけません。池田選手の話の中に「森ちゃんは私以上に前向きだった。その影響を受けました」というコメントがありました。不必要なところで感傷的になるのはやめたいと思います。

 村上選手の話も聞くことができました。どうしても池田選手にばかり注目が集まりがちですが、入賞ラインの記録を見たら、村上選手にもチャンスは十分あります。そういった客観的な状況に加えて、今年の村上選手の技術的な状態、練習での手応えなどを聞いて、こちらが感じる入賞の可能性は、さらに高まりました。絶対に有望種目だと思います。

 浜松駅までは桑原記者と朝日新聞・増田記者の早大競走部OBコンビと同じタクシーで向かいました。車内で「しまった」と思ったのが、馬塚貴弘広報と増田記者のツーショット写真を撮らなかったこと。2人は早大競走部で同期だったと以前、聞いていたのです。コンパクトデジカメを買ったのに、宝の持ち腐れですね。いくらハードが良くなっても、ソフトが命令を出さなかったら役に立ちません。
 しかし、そこに気づく記者というのも希少価値はあると思いますが、気づいても価値があるのか、という疑問もあります。世の中、価値があることだけではない、と開き直ることもできますが、ここで開き直って意味があるのかといえば、こんな日記を読むことに意味はない、という三段論法が成り立ちます。というのは嘘なので信じないように。三段跳の出口大貴選手と走幅跳の出口義人選手が兄弟というのは本当です。


◆2007年8月11日(土)
 今日、明日でけっこう締め切りもあるのですが、多少は読書をするゆとりもありました。専門誌2誌と世界陸上展望ムック、そして為末大選手の「走りの極意」(ベースボール・マガジン社)を4時間ほど読みました。
 専門誌はとても全部を読んでいる時間はありません。必要と思われるページを優先します。時期的に自ずと、世界選手権関連の記事になりますね。「走りの極意」は半分(ドリル説明の途中)まで読んでありましたが、残りを一気に読破しました。
 3日前に富士北麓に行く途中、サニーサイドの井口さんに「過去の2冊との違いは何ですか?」と、ちょっと意地悪な質問をしました。すると井口さんは「寺田さん向けですよ」とニヤリ。
 井口氏はまだ若いのですが(為末選手より1学年下か上?)、以前「○○は寺田さんに仕事を頼めばいいのに」と、正鵠を射た指摘をしてくれた人物です。TBSサイトのコラム担当者の佐藤さんもそうですが、寺田の特徴をよくつかんでくれている気がします。
 話を書籍に戻すと、要するに、これまでの著作はビジネスマンなど、ある程度広い読者層を意識してきましたが、今回は陸上競技関係者向けの内容だということです。前半は(67ページまで)ドリルの連続写真とその解説がずっと続くのです。後半のストーリー部分も、一般人が読んで共感できる内容というよりも、指導者や選手への示唆に富んだ内容と言えるでしょう。

 ドリルについては、すでに合宿などで為末選手がやっているのを目にしていましたし、陸マガ5月号掲載の金丸祐三選手との技術対談の内容から、ある程度は想像できた内容でした(もちろん、自分で思いつける内容ではありません)。ではありますが、ここまで丁寧に紹介してくれると、実際に取り入れてみよう、という気になる選手も出てくるでしょう。
 新鮮だったのは前傾姿勢の捉え方。前傾姿勢をとることで加速区間を長くできる、というのが常識でした。特に、モーリス・グリーン選手(米国)の走法が紹介されたときに、そういうイメージが定着したような気がします。それを為末選手は、加速している間は必然的に前傾する、という解釈を打ち出してきたのです。これは、インパクトがありました。
 レース終盤で後傾することの意味も、前傾と同じ理屈で面白く感じました。「減速局面を指導した本はない」という言葉に、力がこもっていましたね。あとは細かい部分の話になりますが、大学1・2年時の走れなかった理由も、これまでよりも明確に説明しています。そういう話がゴマンと載っている著作です。

 書店に並ぶのは恐らく8月17日頃。法律上の発行日(書籍の最後の方に記してあるやつ)は8月28日。これは、世界選手権の男子400 mH決勝の日です。


◆2007年8月12日(日)
 陸マガ9月号にモナコで撮影した澤野大地選手の写真が掲載できなかったので、ここに掲載させていただきます。
モナコの澤野選手1
モナコの澤野選手2
モナコの澤野選手3
 1つはTBSサイトに載りましたが、残り2点もなかなかの出来だったと自負しています(これはEOSで撮影)。単にモデルが良かったから、という意見も聞こえてきそうですが、お蔵入りさせるには惜しいので。昨年のハイデルベルクといい、澤野選手にはヨーロッパが似合います。


◆2007年8月15日(水)
 セントレア(中部国際空港)で室伏広治選手の帰国取材。セントレアは昨年のアジア大会帰国時、5月の池田久美子選手海外遠征出発時、そして今回と3回目。昼間に行ったのは初めて。海の中にある空港だなんて初めて知りました。中日スポーツ・寺西記者は教えてくれませんでしたし…。
 室伏広治選手のコメントの特徴については、TBSコラムで触れさせてもらいました。そこで書けるかな、と思っていたけど書けなかったネタが1つ。コラムにあるように、メダルや練習の手応えについては慎重な回答に終始しましたが、技術については自身の成長ぶりを話してくれました。
 ハンマー投は回転中に同じ割合で加速していくのでなく、回転毎の速度変化が大きい方が良いと強調。「3回転目と4回転目の速度変化は大きくなっているか」と問われると「その辺は良いと思いますよ。日本選手権の頃よりは」と、明言。
 EPISODE4で紹介した“片足局面での加速”については、「これからのハンマー投は、ハンマーへの張力と自分の重心を置く位置で、自分で回転しようと思わなくても回転できる位置がある。実際は減速しますが、張力がつねに働いて、スキのない回転ができるようになります。その方向で頑張れていますよ」とのこと。
 こういった技術的な取り組みへの手応えを聞くと、どうしても期待してしまいます。マスメディアの人間の習性でしょうか。その辺が、とことん技術をつきつめる競技者との立場の違いでしょう。
 ただ、そういったメディア的な立場の人間も必要だと思っています。選手の話を試合への期待度という要素に変換をしないと、世間の関心を喚起できないからです。この辺は別の角度からも紹介したいと思いますが、報道の難しい部分でもあります。


◆2007年8月20日(月)
 12:20から東京駅八重洲地下街で高野進強化委員長のトークショーを取材。ミズノが主催しているような感じでしたが、さすがにこの時期に選手を引っ張り出すわけにはいきません。が、時期的には世間の関心を世界選手権へ引きつける好機なのです。それで、大阪に向かう高野委員長に、新幹線に乗る直前の時間を割いてもらったようです。
 撮影は今回もIXY DIGITAL 900IS。
●トークショーの光景
●代表選手たちの競技写真
●選手への寄せ書きコーナー
●ミズノ選手のスパイク

 道行く人たちの世界選手権への興味をあおっていました。

 取材後、たぶん生まれて初めて八重洲地下街で食事。来たこと自体、1、2回しかないでしょう。大丸デパートの地下と、八重洲地下街の区別が難しくて、ミズノ木水広報に「場所がわかりません」と電話で泣きついたくらい。20分前に東京駅に着いておいてよかったです。
 食事の後は新宿に移動。携帯電話のバッテリーの持ち時間明らかに短くなっているので、SoftBankショップへ交換に行きました。よく、箱根駅伝の指導者たちが本番を前に、バッテリーを新しくするという話を聞きます。が、1時間近く待たされた挙げ句、「在庫がありません」。
 だったら、電話本体を購入するのがてっとり早いのですが、今のタイミングで機種変更をすると、メールの送り方や文字入力に慣れない状態で世界選手権の会期に入ってしまいます。かなり悩みましたが、今の端末を使い続けることに。日本開催ですから、合間を見て充電することもできるでしょう。

 作業部屋に向かう途中、街路樹の逆光が綺麗だったので、ポケットにあったIXY DIGITAL 900ISですかさず撮影。十二社通りと方南通りの交差点には、末續慎吾選手バージョンのTBS世界陸上の巨大広告看板が。思わぬ形で師弟を撮影した一日となりました。


◆2007年8月21日(火)
 予定では今日の夜、大阪に入るはずでしたが、準備が追いつかず19時頃に断念。新幹線の指定席が取ってあるわけではないし、ナイジェリアの短距離は一時ほど勢いがないのですが、フライト変更のきかない飛行機というわけでもありませんし、千駄ヶ谷には最近行っていないことに気づきました。国立競技場よりも長居競技場にいる時間が圧倒的に長くなっています。これが本当の長居競技場とか書いたら、世界選手権ホスト国の記者として良識を疑われるので、常識的に考えてこの日記を書いているのは別の人格だということが想像できるでしょう。

 文章が混乱していますが、16年前の世界選手権東京大会も混乱の極みで取材をしていました。毎晩3〜5時まで代表取材の写真分け作業があって、それは世界選手権だけの作業でしたが、通常の編集作業ももちろん大量にあります。どの種目を実際に国立競技場で見たのか、不覚にも記憶が曖昧模糊となってしまっています。
 午前中はまず、国立競技場には行っていません。ルイスが世界記録を出した男子100 mとか、パウエルとルイスが激闘を展開した男子走幅跳とか(パウエルが世界新)、女子短距離2冠のクラッベとか、現地で見たと思いたいのですが自信がありません。午前中は行けなかったと書きましたが、男女マラソンのどちらかは頑張って行って、生でフィニッシュを見ましたが、どちらかはテレビでした。いずれにせよ、全体の3分の1くらいしか国立競技場にいなかったと思います。

 今回の世界選手権も午前セッションがいつもの大会より、早く始まります。深夜の3時くらいまで仕事をして、7時スタートのマラソン・競歩を取材しないといけない日もあります。かなりきついスケジュールです。何日間かは午前の取材をパスしないと体が持たないでしょう。
 それでも、91年の国立競技場よりも長く、競技場にいることは間違いありません。これが本当の長居競技場と2度も書いたら単なる馬鹿なので、ここを書いているのは先ほどとはまた別の人格でしょう。

 今日、とある新聞の仕事依頼がありました。別のある仕事が成立しなかったので引き受けることに。今回はテレビ(TBSサイトのコラム)、新聞(企業秘密)で帯の仕事をして、雑誌、WEBサイトにも記事を書きます。人格の3つか4つもなければ、今度の世界選手権は乗り切れません。


◆2007年8月22日(水)
 10:30頃東京発の新幹線で大阪入り。いよいよという感じですが、車内ではすでに提出した原稿のフォロー。書けばおしまい、というケースだけではありません。
 新大阪駅でホームに出ると、ムッという暑さ。東京よりも確実に暑いです。数日前のTBS男子マラソン特集を見ていて、大阪の方が10日以上も真夏日が多いと知りました。世界選手権がきっかけで、関西と関東の相互理解が進むわけです。
 カネボウも東京に移転して1年半。高岡寿成選手が東京をどの程度理解してきたか、気になるところです。「西京(山口県)→東京→北京」というプランを以前話してくれましたが、そちらの進行具合も気になります。

 新大阪から御堂筋線で淀屋橋に。御堂筋線は大阪を南北に貫き、新大阪、梅田、淀屋橋、心斎橋、なんば、天王寺、そして長居と、主だった主要駅をほとんど結んでいます。大阪国際女子マラソンの以前の大会本部ホテルがあった千里阪急にも、なんとか線に乗り入れていて1本で行くことができる。しかし、大阪国際女子マラソンを初めて取材した頃は、ずっと“ごどうすじせん”だと思っていました。寺田にとっては大阪国際女子マラソンも、相互理解をしてきた重要な大会なのです。
 淀屋橋ではミズノオフィシャルショップ@大阪(ミズノ大阪店)に。世界選手権マラソン選手用のウエアと、尾方・諏訪・嶋原・原4選手の使用するシューズについての記者発表会です。

●シューズを手に説明する河野光裕さん
●「ドライサイエンス」タイプのウェア
●「アイスタッチ」タイプのウェア
●レーシングキャップ2種類とセームタオル
●尾方剛選手のシューズ


 ドライサイエンスは新開発のメッシュ地で、写真でわかるように従来品よりも大きな穴が開いているのが特徴です。アイスタッチもドライ設計メッシュですが、ミズノ独自の涼感素材を使用して“ひんやり感”があります。どちらを着用するかは、当日のコンディションを見て選手が決めます。
 と、商品説明はここまで。面白かったのは河野さんの説明でした。尾方選手と諏訪選手のシューズは、かなり大きな違いがあります。それは、選手の動きによって違ってくる部分。走りの違いも理解することができた記者発表会でした。
 が、せっかくのチャンスです。マラソン選手だけでなく、MTCの選手のシューズの情報も仕入れておきたくなりました。そこで、末續慎吾選手の過去のスパイクと、今のスパイクの違いを河野さんに質問。世界選手権でもパリ、ヘルシンキ、そして大阪と違いがあります。室伏広治選手は対照的に……というネタは、別のところで記事にしたいと思います。ちょっと補足取材も必要かも。

 ミズノショップを後にして、いったんはなんばのホテルにチェックイン。シングル1泊9000円の、高級ビジネスホテルといったタイプ。有線LANが速いし、何より空調がいいですね。エアコンの機械が室内にないタイプ。寒くなりすぎたり、送風が直接体に当たって冷えすぎることがありません。
 ちょっと休んだ後、長居競技場に行き、まずはアクレディテーション。この辺は何度も経験していますし、日本語が通じるのでまったく問題なし。大阪市営地下鉄とバスのフリーパスももらいましたが、こういったサービスはパリでもヘルシンキでも行われていました。A4の大きさの感謝状が、アクレディテーションをした全員に発行したようです。これは大阪独自のアイデア。
 しかし、システム的な部分よりも、ボランティアの女性の方たちの雰囲気が明るいのが良かったと思います。ものすごくアットホームで、これは大阪以外の日本開催だったらなかったことかもしれません。

 続いてプレスセンターを下見。これも、いつもと同じ感じですが、日本独自のスタティスティクス・データが提供されるので助かります。フラッシュインタビューや公式会見のコメントなど、メディア向けに情報提供をするのが大会組織委員会のメディアチーム。その部屋にお邪魔すると、元陸マガ編集長の野口氏に、前編集長の児玉女史、メディアチーフ代理はケン中村さんと知った面々。
 寺田が行くと雰囲気が一変。いじりモードになった気がします。といっても、元上司1人が寺田をいじるのですが、これも関西だからでしょうか。元上司は兵庫県出身です。
 しかし、その雰囲気もなつかしかったです。土江選手や内藤選手、佐藤光浩選手と同じいじられキャラでした。それで、彼らにシンパシイを感じてこの日記で多く取り上げるのかも。いじられキャラは意思が強い、という分析も、自身の経験から……とか書いたら、自分のことをよく言っていることになるので、冷静な分析の結果だと書いておきましょう。

 続いてTBSのエリアに。スタンドのプレス席とメディアセンター、TBSのコンパウンドが主な仕事場所になります。ここでもいじられる…ことはさすがにありません。逆に佐藤文康アナをいじる(=励ます)のが仕事です。同アナはちょっと痩せたようで、世界陸上に懸けているのが伝わってきます。その点、山縣苑子さんは元々スリムですし、相変わらず美人でした。とか書いたらM社のS監督みたいなので、後からデリートするかもしれません。
 今後10日間以上に渡って仕事をする場所なので、環境に合わせるための作業をしました。LAN接続は、無線LANに苦しんだ前回とは違い、有線でまったく問題なし。LAN経由でプリンター設定にも成功しました。ネット上の資料を持ち運ぶことができると、全然違いますからね。
●21時か22時頃に雷雨になりました
 その後、23時まで期間中のコラムについて佐藤ディレクターと打ち合わせ。最終の地下鉄でホテルに戻りました。


◆2007年8月23日(木)
 8:00頃にホテルを出て、8:50には新神戸に。日本選手団の結団式と、それに続く有力選手、男子マラソン選手の会見取材のためです。結団式では一致団結、世界選手権の歴史といった要素が、強調されていたと感じました。高野進監督や朝原宣治主将の決意表明などから感じたことを、TBSのコラム新バージョンに書きました。
 元々、寺田は世界選手権が日本の陸上界(特に一般種目)に与えた影響は大きかったと考えていました。欧米やアフリカの選手たちは元から、ヨーロッパを中心に行われているGPに出場して経験を積んでいたわけですが、日本選手で遠征ができるレベルの選手は限られていました。
 それが世界選手権が1983年から行われるようになり、そこまでのレベルでない選手たちも世界選手権に参加するようになり、いくつかの種目のレベルが上がったと思います。4年に一度のオリンピックだけでは、刺激を受ける機会が少なかったのだと思います。特に91年以降は世界選手権が隔年開催となり、そういった機会が増えました。そこから日本の一般種目のレベルがグッと上がってきたと思います。

●一般種目7選手。会見後のフォトセッション
●男子マラソン5選手
●中国新聞・山本記者


 山本記者は昨日、甲子園で広陵対佐賀北戦を取材し、そのまま世界選手権の取材に突入しました。昨日の甲子園は、佐賀北高への応援が地鳴りとなって響いていたといいます。「あの声援が世界選手権でもあれば、日本選手は佐賀北になれます」と断言していました。示唆に富むコメントです。問題は入場料金の……。

 神戸での取材後は梅田に出て、ヨドバシカメラで買い物。1つは、ホテルの部屋のテレビチューナーから出ているビデオケーブルと、パソコンに接続するビデオケーブルを中継するコネクタ。もう1つはビジネス・キャリーバッグです。

●2台のパソコン。左が富士通、右がEPSONの白いモバイルパソコン
●左が今日、購入したキャリーバッグ
●大きめの段ボール箱にいっぱいの選手資料など


 今回の出張には、アナログ放送のテレビ録画ができる富士通のノートPCも持ち込んでいます。世界選手権の放映を録画して、原稿を書く資料にしたいわけです。短距離種目のレース展開って、なかなか正確にメモがとれません。場内にもリプライが出るのですが、選手の表情を追っていることも多いのです。
 問題はハードディスクの容量で、毎日DVDにデータを移さないといけないこと。深夜の3時とかにホテルに戻って、ダビング作業をする時間があるのかどうか。そもそも、録画を見直している時間があるのか。このあたりは、何日間かやってみないことには、仕事のリズムがつかめません。

 キャリーバッグ(車輪&取っ手付きのバッグ)は、新神戸に行く途中で購入を決断しました。今回は地元ということで、なんでも何とかなるだろうと考えてしまいます。上述のパソコン録画もそうでしょう。本当に活用できるのかわからないのに、とりあえずできそうだからやってしまう。資料もそう。海外だったら持ち歩かないようなものまで、国内だったらと持ち歩いてしまいます。
 ニースでひどい目に遭ったので(7月27日の日記参照)、無理はしまい、と判断。同じ大きさのバッグで、キャリータイプのものを購入しました。写真でわかるように、ちょっと厚さがあるのですが、取っ手で場所をとるので、ほぼ同じくらいの容量です。
 購入してその場で荷物を入れ替え、なんばのホテルまで移動したら、ものすごく楽でした。1万5000円近くしましたけど、買って正解でした。

 しかし、長居近くの某所に行く予定でしたが、疲労が大きかったのでホテルで休養。今回も、仕事を持ち込んでいるのです。夜は、TBSサイトコラム新シリーズ?の原稿書き。


◆2007年8月24日(金)
 世界選手権開幕前日。今日は内輪写真で1日を紹介させていただきます。

 今日だけは8:30とゆっくり起床。朝食はなかなかグッドなバイキング。和食も朝食も選べます。寺田は和洋折衷、近藤記者は和食派でした。
 午前中はホテルで原稿書き。
 14時頃にホテルを出発。1階に朝日新聞事業部の大串氏とばったり。手の内は明かしてくれませんが、福岡国際マラソンに向けて秘策を練っているようです。昨年のゲブルセラシエ選手に続き、サプライズがあるのでしょうか?

 長居競技場に着くとさっそくプレスルームに。日経新聞の陸上競技前担当の山口記者が声を掛けてくれました。前々担当の串田記者、そして現担当の市原記者と3人が揃っていたので、この機を逃すなとばかりに日経陸上競技記者トリオの写真を撮らせていただきました。この3人が揃って取材をするというのは、ものすごいことなのです。日本経済界における世界選手権の重要性がわかるというものです。
 TBSコンパウンドに行くと、解説陣の吉田孝久コーチと千葉真子さんの姿が。吉田コーチとは同学年で、同じ横浜市出身、世界選手権東京大会にも一緒に出場したのが苅部俊二監督です。前回まで世界選手権キャスターとして活躍していましたが、今回は日本選手団のコーチのためいません。
 ということを考えていたら、千葉さんと苅部監督がともに、“パリの銅メダリスト”だということに気づきました。苅部監督は1997年の世界室内選手権パリ大会400 mで3位。為末選手が4×400 mRでロシア選手に接触されて転倒した大会です。千葉さんはまだ記憶に新しいところで、2003年世界選手権パリ大会女子マラソンの銅メダリスト。
 代表選手では室伏広治選手と末續慎吾選手も、パリの銅メダリストです。だから何だという話ではないのですが。4人の共通点は、あれですね。

 夕方から明日の開会式のリハーサルをやっていました。
 写真を撮っていると、三重の二枚目助教授こと杉田先生の姿が。陸連科学委員会の仕事です。
 夜はTBSコラムの原稿書き。ちょっと難しいテーマに挑んでみました。


◆2007年8月25日(土)
 世界選手権開幕。7:00から男子マラソン取材です。
 前回のヘルシンキは杉田先生のホテルがコース沿いにあったこともあり、沿道取材とホテルでのテレビ取材を交互に行いましたが、ちょっときぜわしない取材となり、いまひとつ集中できませんでした。沿道の人垣がすごくて、レースを見るポイントに移動するのが大変だったからですが、やっぱり、レース展開を見続けた方がいいですね。沿道の雰囲気を感じることよりも、その方が取材にはプラスになります。
 ということで、今回はスタジアムから動かずにテレビ取材。プレス席には5km毎の全選手通過タイムが、リアルタイムに近いタイミングで表示される端末があります。映像と合わせて見れば、各選手の展開がかなり正確に把握できます。
 レース後の取材も、陸連広報の方たちがタイミング良く選手を誘導してくれて、日本の上位3選手をしっかりと話が聞けました。日本選手に関しては、ミックスゾーンでの取材にもマイクが用意されています。
 ミックスゾーンの取材光景として、選手に遠い位置の記者があとから、近くで聞き取れた記者からコメントをもらうシーンが展開されます。全ての記者が完全に聞き取れるようになったわけではありませんが、これまでとは全然違います。

 デイセッションでは七種競技の中田有紀選手が好調そう。女子3000mSCの2人はともに転倒してしまい、特に早狩実紀選手は担架で運ばれるほどで、ちょっと心配です。
 小林史和選手は予選突破。頑張ってきた甲斐がありました。朝原宣治選手も10秒14のシーズンベストで余裕のトップ通過。かなり、期待が持てます。
 と、種目毎の戦評を書いていると大変なので、やっぱり内輪ネタ中心で行きましょう。

 開会式までの空き時間が4時間近くありました。早大競走部OBの金哲彦さんが、後輩の朝日新聞・増田記者(スズキ・馬塚広報と同期)から取材を受けていました。2人の大先輩の中日新聞・桑原記者にTBSコラムの話(nearly a medalistの価値観創出)をすると、「“近”メダリストでいいじゃないですか」と、目から鱗のアイデアを出してくれました。面白いのですが、同じ発音はややこしくなるのでダメでしょう。
 イヴニングセッションが始まるので、プレスセンターからスタジアムに。移動中にがいました。昨日の夜にも見た猫です。もう一匹、黒猫も昨晩、うろちょろしていました。長居公園と隣接するお寺には、猫が何匹か住み着いていると見ました。それが何だというわけではありませんが、猫好きの室伏由佳選手への報告でしょうか。

 この写真はミックスドゾーンで撮った貴重な一枚。信濃毎日・中村恵一郎記者と読売新聞・近藤記者。早大競走部で同期だった2人です。近藤記者が「メディアレース(8月30日)に出るよな」と誘っていました。種目は800 m。中村記者がインターハイに優勝した種目です。1500mも勝っていますけど。
 こちらは20数年前に長野県のハードルを熱くした2人。松田克彦混成部長(十種競技元日本記録保持者)とTBS山上プロデューサー。「塚原直樹の前の長野県のエースですね」と寺田がいうと、「塚原が怒るよ」と山上プロデューサー。そういえば、間に中村記者がいました。

 今日一番のニュースは、為末大選手の予選落ち。これはもう、なんと表現していいか、わかりません。為末選手は世界選手権観戦を、ことある毎に呼びかけていました。選手は頑張りますから、と。でも、スポーツというのは残酷で、コンサートや演劇とはわけが違います。主役になると思われた選手が、主役になれないこともままあります。
 TBSのコンパウンドに戻ると解説の谷川聡選手と、ウルウル目の山縣苑子さんが、為末選手落選のことを話し合っていたようで、寺田に為末選手の様子を聞いてきました。ミックスドゾーンで話したことは、TBSのコラム(「ポリシーを貫け、為末大」)でかなり盛り込みました。それにしても、やるせない、というのが正直な感想です。


◆2007年9月3日(水)
 世界選手権開幕の次の日記が、閉幕した翌日になってしまいました。ごめんなさい。大会期間中に書けなかった理由は……まあ、いろいろありますが、その間のネタも折を見て紹介していきたいと思います。
 今日は朝の8:30からミズノ本店で土佐礼子選手の一夜明け会見を取材。土佐選手の取材の常で、これをやったからこの結果が出ました、という内容にはなりません(その点は鈴木監督が補足してくれます)。でも、彼女の場合はそれが特徴でしょう。あれこれ考えてやるというよりも、自然体で競技に取り組んでいるから、無理が生じない。練習での追い込み方がすごいと聞きますが、本人にしたらそれも当たり前、という気持ちで臨んでいるのではないでしょうか。その辺が、鈴木監督の言う“人間力”なのかもしれません。
 そういえば、昨日、インタビューをした尾方剛選手にも、似た部分を感じました。キャラクターはまったく違うのですが、「強くなりたいのだから、そのくらいやって当たり前」という言葉が印象に残っています。以前はストレスを強く感じて、全身脱毛症になったこともある尾方選手ですが、「気持ちが変わればできるんです」と言います。詳しくは陸マガ次号……に書く予定ですが、レースの話題が中心なので、もしかすると別の機会になるかもしれません。

 会見終了後、滞在ホテルのある難波にもどり、スタバで原稿書き。TBSの最後のコラムになってもいいように、日本選手団の敗因に触れつつ、最終日のネタ(米国の長距離白人選手の活躍)について書きました。
 いったんホテルに戻ってネットにつなぎ、サイトのメンテナンス。
 15時くらいに長居競技場に。メインプレスセンターで資料を収集し、最後の原稿書き。これが予想以上に手間取って、19時くらいまでかかってしまいました。
 20時でメインプレスセンターはクローズ。その直前に引き揚げましたが、デイリープログラム最終版(全部のリザルツが掲載)が余っているようだったので、11冊ほどもらいました。「売ってもいいですよ」という冗談付きで。大阪人は最後まで、ユーモアたっぷりです。
 競技運営のミスなども多く指摘された大会ですが、ボランティアの人たちの明るさ、元気の良さは救いとなった大会です。

 22時に道頓堀のグリコに。今回、最初で最後の外食になりました。


◆2007年9月4日(火)
 朝から重要な電話をして、その返事待ちの状態で11時にチェックアウト。新大阪駅に着いても、その重要な電話がいつ来るかわからないので、新幹線には乗らずに待合室で仕事。
 幸いなことにもう1件別の重要な連絡があり、その場で電話取材をすることに。15分の取材時間をもらえたのですが、10分くらいで寺田の携帯がバッテリー切れ。すぐに、近くの公衆電話に走ってことなきを得たのですが、新大阪駅でなかったらすぐに見つかったかどうか。バッテリーの消耗には気をつけていたのですが、大会前に購入できなかったのです。わずか1年前発売の機種なのですが、メーカー側は“古い機種”という扱いしかしていませんでした。

 幸い、新大阪の改札内の待合室には、モバイルコーナーがあってコンセントと、幅は狭いのですが仕事ができるテーブルがあります。そこで携帯電話の充電と原稿書きができました。しかし、肝心の連絡は、こちらからも電話を入れますが、なかなか連絡がつきません。やっと電話が来たのが18時20分頃。電話取材自体は明日ということになりました。
 この間、約4時間。パソコンは使えましたし、有料ですけど無線LANでネットに接続もできました。時間が無駄になったわけではありません。追加になっていたTBSの最後のコラムもほぼ、書き終えました。が、大会全体を振り返るのはプレッシャーがかかります。見落としている部分がないか、気を遣わないといけないのです。

 新幹線で東京に移動。さすがに緊張が途切れてしまい半分は眠っていました。最後の1時間でやっと、陸マガの原稿にかかりました。


ここが最新です
◆2007年9月5日(水)
 16時にTBSに。中野浩一さんのラジオ番組「中野浩一のフリートーク」の収録です。以前、澤野大地選手や川崎真裕美選手も出演されていました。選手でなく、寺田のような立場の人間が呼ばれるということは、世界選手権の結果を客観的に話してほしい、という番組サイドの意向は明らかです。
 自分のような話し下手が出演していいものか迷いましたが、世間話をするくらいの軽い気持ちで良いから、と言ってもらえたので出演させていただきました。それと、世界選手権の日本選手があの成績でしたから、ここは他人に任せるのでなく、自分が話をしようと思ったわけです。

 しかし、“話す仕事”ではいつものことですが、惨憺たる結果に終わりました。事前に、何をか「1つ挙げてほしい」という質問はやめてください、とディレクターの方にはお願いをしておきました。陸上競技は複数の面白さがあるのが特徴だから、と。それが裏目に出たというわけではありませんが、3つ理由を挙げたいと思っていても、上手くまとめられなくて2つになってしまったり。本当に、短時間で話すことって難しいです。

 1つだけ上手くいった点は、中野さんに話を1つ振れたことです。中野さんは八女工高でインターハイの4×100 mR(3走)に優勝したスプリンター(宮崎久選手のことを気にかけていらっしゃいました)。これも事前に「中野さんに振っていいのですか」と、ディレクターに確認しておきました。リレーの話題になったので、“リレーと腕振り”に関して話を振ったところ、“さすが”と思える話が返ってきました。個人的には、ここが一番面白い個所だと思っています。
 放映は9月15日(土)の17:15からとのこと。



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