続・寺田的陸上日記     昔の日記はこちらから
2005年5月 5月のメイ走
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◆4月23日(土)
 朝イチで実家を発ち、昼前には新宿の作業部屋に戻りました。
 クリール最新号が届いていました。巻頭特集は「リディアード再考」。昨年亡くなったニュージーランドのアーサー・リディアード氏の考え方を紹介しています。大方の人が考えている長距離トレーニングは、リディアード氏の考えが基となっています。基本的なトレーニングを体系化したともいえますね。
 オリンピック金メダリストなどトップアスリートを育てたコーチング法でもありますが、有酸素運動の重要性を説くリディアード式をもう一度見直すことで、走りの楽しさを再検証しようという企画です。中国電力・坂口泰監督もコメントしています。

 宗猛監督(旭化成)の読み物も連載がスタートしました。現役時代から兄の茂氏と宗兄弟というくくり方で紹介されることが多かったのは、皆さんご存じの通り。マスコミへの受け答えは主に茂氏が受け持ったため、宗猛監督の言葉というのは実は、それほど多くは紹介されて来なかった、という視点からスタートしています。
 これは、寺田もかねがね感じていたこと。宗兄弟と一緒に語られますが、成長過程は微妙に違います。マラソンを始めた当初、競技成績が先行したのは猛さんでしたが、76年モントリオール五輪では茂さんだけが代表入り。その理由が実は、2人の走法の違いだったのです。茂さんのストライド走法に対し、猛さんのピッチ走法。その違いがどうして、明暗を分けたのか。その理由を猛さんが語っていますが、目から鱗というか、“そうだったのか”とヒザを叩きました。
 78年には茂さんが世界歴代2位(日本人初のサブテン)を出すなど差を広げましたが、モスクワの選考では瀬古さん、茂さんに続いて猛さんが3番目で代表に(日本はボイコット)。83年の東京国際マラソンで猛さんが2時間8分台を出して記録的には上回り、84年のロス五輪では猛さん1人が4位に入賞しました。
 ソウル五輪は2人とも代表に届かず、その後、茂さんは指導者や陸連の仕事に比重が移りました。一方の猛さんは旭化成の指導は茂氏とともにあたりましたが、40歳過ぎまで走り続けました。練習メニューなどは猛さんが立案したようですが、選手時代に引き続き、茂さんの方が外部に対しては説明をすることが多い立場だったのです。

 新宿に戻った後すぐに、先日の血液検査の結果を聞きに病院に行きました。結果は異常なし。検査は1項目だけでしたけど、ホッとしました。
 その後はひたすら資料づくりの仕事。


◆4月24日(日)
 朝7時台の新幹線のぞみで神戸に。珍しく指定席で行こうと昨日のうちに車両の一番後方の席をキープしていたのですが、発車直前に乗るとそこは、修学旅行の中学生が車両の後ろ3分の2を占めていて、寺田の席には引率の先生がふんぞり返って座っていました。その先生は気を遣っているつもりらしく、車掌に交渉して違う席を取ってくれました。
 新横浜までの15分間がつぶれたのは痛手ですが、席を移ってみるとなんと、隣の席にはTBSの土井アナが。ローザンヌの記者席でも4年ほど前に、土井アナの隣になったことがありましたけど。
 新神戸には10:30頃に着。椎野アナ、全日中800 m優勝の佐藤文康アナとも合流。土井、佐藤両アナは土曜の遅い時間にレギュラー番組を持っています。椎野アナも昨晩は、名古屋で中日−巨人戦のラジオ実況をやっての神戸入り。けっこうハードスケジュールです。自分が体調を崩した直後だけに、アナウンサーは病気になれないだろうな、と心配してしまいました。

 車中では兵庫リレーカーニバルの取材予習をしましたね。兵庫といえば1万m。今日も有力選手が揃って27分台が期待できそうだったので、日本選手の27分台全パフォーマンスを再度整理。03年11月の八王子ロングディスタンス時に整理していたので、昨年のデータを付け足すだけで済みました。
 それを、何度もデータの並び替え作業を行い、項目別に27分台のパフォーマンスが何回出ているかを整理したわけです。それで判明したのが、過去に27分台は68回出されていて、兵庫に限れば9回出ていること。つまり今日、(トップページも書きましたが)27分台で日本人1位の選手は兵庫リレーカーニバル大会史上、10回目の27分台を達成することになり、27分台で日本人2位の選手は日本の1万m史上70回目の27分台ということになるのです。そして、高岡寿成選手が27分台を記録すれば、10回目の27分台となることも知りました。2番目に多いのが瀬古利彦選手と渡辺康幸選手の6回ですから、他のランナーたちを圧倒しています。

 取材は順調……と言いたいところですが、取材が重なってしまって、話を聞きたかったのに聞けなかった選手もいました。A標準を突破した阿蘇品照美選手は、インタビュールームのテーブルの反対側で記者たちが話を聞いているのに、誰だったかな、他の選手を優先せざるを得ませんでした。男子1万m日本人トップの瀬戸智弘選手はちょっとだけ聞けましたが、話の頭からではなかったし、27分台でもなかったので、やはり同じテーブルの畑山茂雄選手に移りました。昨年、男子1500mの日本記録が27年ぶりに更新されたので、今は男子円盤投がオリンピック種目最古の日本記録となったのです。
 800 mで3位(最終組の2位)となった小林史和選手と、1万mで日本人3位の高岡寿成選手はすれ違い取材
 特に高岡選手には“10回目の27分台”を期待していただけに、28分04秒80というタイムには不満がありました。記録にこだわり続けて来た高岡選手なら、日本記録を意地で0.24秒更新した高岡選手なら、国内最高が出た(マサシ選手の27分08秒42)今日のコンディションで27分台を出せないはずはない。
寺田「10回目の27分台は?」
高岡「いやぁ、マラソンをやっていると、こんなもんですかね」

 高岡選手の27分台は、日本記録を出した2001年が最後なのです。信じられないことに、4年も出していない。“スピードが売り”と言っている選手なのに。
寺田「そんな、らしくないことを言ってほしくないなぁ、ラストで負けるのはともかく。伊藤監督の理論にも外れるし。次の27分台は……世界選手権(マラソン)があるから、今年は厳しいか」
高岡「今年中に出します!」

 多少正確さに欠けますが、こんなニュアンスの会話をすれ違いざまに交わしました。マラソン選手らしくなったという意見もありましたが、マラソン選手らしくなってマラソンを走れたら、これまでの選手と同じ。マラソン選手らしくなくてもマラソンを走れる、というのが高岡選手の高岡選手たるゆえんでしょう。


◆4月25日(月)
 昨晩は予定を変更して神戸に宿泊しました。が、早寝早起き。朝の5:30には起床して、仕事をしていました。9時にはチェックアウトして、三宮駅に。駅の前で仙台育英高・渡辺監督にバッタリお会いしました。さっそく、昨日の佐藤秀和選手(仙台育英高→順大)の走り(29分39秒71で最下位)は何だったのかと質問。
「レースに出られる状態じゃなかったね。厳しく書いてやってください」
 とのこと。まあ、渡辺監督のコメントを紹介するにとどめておきたいと思います。佐藤秀和選手とは、囲みで2〜3回取材をしたくらいで面識もないので、それほど厳しいことは書けません。昨日の高岡選手のように、こちらのことを知っていてくれる選手は、それなりに厳しいことも書けるのですが。
 例えば昨日の1万mだったら尾方剛選手(中国電力)にも、もうちょっと頑張って欲しかったです。佐藤敦之選手の中国電力記録(27分56秒86)を破るくらいに。瀬戸智弘選手(カネボウ)は、持ち味のラストにもっと研きをかけてほしいですね。そうすれば、今回のような展開でも27分台を出せたでしょう。
 大森輝和選手(くろしお通信)はまあ、カージナルでの日本記録更新に照準を合わせているので、今回はこのくらいでしょうか(28分12秒83)。確か、高岡選手もカージナル前に兵庫に出て、このくらいのタイムだったんじゃないでしょうか。練習の流れが同じとは限らないので、一緒だからいいというものでもありませんが。
 岩佐敏弘選手(28分19秒89)は少し、大人しくなってしまった印象です。かつては、レース中盤でもっと積極性があったような…。それを反省しているのかもしれませんが。入船敏選手(カネボウ)と山口洋司選手(ホンダ)の27分台ランナー2人にも、かつてのスピードを復活させてもらいたいし、若くて一番イキのいいはずの三津谷祐選手(トヨタ自動車九州)と中村悠希選手(カネボウ)にもちょっとガッカリです。
 若手ではなんといっても佐藤悠基選手。28分27秒50は大学1年生が4月に出した最高記録じゃないでしょうか。入学してすぐに、ここまで走れる選手はちょっと記憶がありません。96年の関東インカレに優勝して、世界ジュニアで銅メダルを取った古田哲弘選手以来ですかね。

 三宮9:38発の新快速で新大阪に。福知山線の鉄道事故直後で、少し電車が遅れましたが、予定の新幹線に乗ることができました。昨年の新潟地震の際も、1日前の同時刻に新潟県で新幹線に乗っていましたし、今回は同じ兵庫県に滞在していました。けっこう、かすっているわけです。
 家族や親しい人を亡くした方の気持ちは、いかばかりでしょうか。自分の場合は、父親が末期癌と宣告されて3カ月、少しずつ覚悟をしていく時間があったのですが、事故の場合は突然の悲報に接するわけで、辛いだろうな、と思います。
 袋井の実家に寄って、初七日のお経をお坊さんや家族と一緒に読みました。
 40行原稿を1本書き上げて送信してから、東京に。


◆4月26日(火)
 昨晩も早くにダウンして、今日も早朝から仕事。いいですね、早寝早起きは……問題は原稿ですが、午前中締め切りの原稿をなんとか、14時に仕上げて送信。世界選手権がらみの原稿でしたが、我ながらよく、ここまで短時間で色々とデータを調べられたな、と自己満足の世界にひたっていたら、担当編集者(営業?)から電話があって、行数が多すぎるとのこと(その懸念を、メールに書いておいたのですが)。泣く泣く、選手を1人、削りました。
 その後は、織田記念以降の打ち合わせを各方面と電話でしました。外は雷と雨だったので、終日、外出せず。


◆4月27日(水)
 明後日の織田記念取材のため、明日はもう広島入り。神戸に3泊くらいした方が東京まで往復するよりちょっとだけ安く上がるのですが、今年は実家(袋井)で法事もありましたし、仕事も海外選手の資料を調べるものがあって、東京に戻った方がいいと判断しました。
 気持ち的にはちょうど、兵庫リレーカーニバルと織田幹雄記念国際の中間的なモードですが、まだちょっと、兵庫モードが強いでしょうか。その間に神戸新聞ネタを紹介しておきましょう。以前にも書いたかもしれませんが、同新聞の兵庫リレーカーニバルの報道の仕方は半端ではありません。今回の紙面を見ても、プロ野球で兵庫県出身の古田選手が2000本安打を達成したのと重なりましたが、一面とスポーツ面(ほぼ2ページ)を費やしています。
 寺田の知る限り、神戸新聞の陸上競技の扱いは都道府県クラスの地方紙では全国一です。伊東浩司選手も、神戸新聞の記事で励まされている選手は多い、と書いていたと記憶しています。兵庫リレーカーニバルは神戸新聞自体が主催者に名を連ねているわけですが、それ以外の大会でも、全国高校駅伝や男女の全国都道府県対抗駅伝などでもスペースを割き、詳細な記事を掲載しています。4月21日の記事で紹介したように、五輪選考会前には日本選手権の展望記事も、的を射た内容で掲載しています。
 兵庫県の選手・チームが強いからできるのでしょうが、それに対応できる人材(記者)を配置しているからこそ、できることなのです。地方紙の運動担当記者は、ほとんど全部の競技をこなすのが当たり前。神戸新聞もそれは同じなのですが、明確に“陸上競技担当”というポジションが確立しているのです。

 今回の兵庫リレーカーニバルには、神戸新聞の歴代陸上競技担当記者が大勢、顔を揃えていました。これは、と閃きましたね。陸上界に強烈な存在感を示す地方紙の陸上競技担当記者の顔写真を紹介しようと。最も長く陸上競技担当記者をされていて、寺田が陸マガ編集者時代にお世話になった力武さんが初代かと思っていたら、実は違っていました。
 1941年に三段跳で15m63をマークした大室雅彦氏(関大)が神戸新聞に入社して、最初の陸上競技担当記者のポジションを確立されたそうです。神戸新聞が兵庫リレーカーニバルの運営にタッチするようになったのが1961年頃から。その直後に、力武さんが関大から入社して2代目の陸上競技担当になったとのこと。
 歴代の担当者は以下の通り。
初代 大室雅彦(関大OB)
2代 力武敏昌(関大OB) 写真
3代 乾  等
4代 陳 友いく 写真
5代 大原篤也(トンボのマークの名門・小野高OB) 写真
6代 中尾義理(県西宮高→慶大競走部) 写真
7代 金海隆至(強豪・上甲子園中陸上部出身) 写真
8代 藤村有希子(関大OB)



◆5月14日(土)
 日記再開です、いつまで続くかわかりませんが。本当は春季サーキットの取材で面白いネタが数限りなくあって(過大表現)、じっくり紹介したかったのです。しかし、試合が続くこの時期は、記事を優先しないといけない事情もありまして。某誌の広告で寺田のサイトに記事が載る、と出てしまったり、日体大OBのHH氏から「新聞では読めない記事を期待しています」とメールをもらったり。まあ、言い訳ですけど。

 ということで、昨日は関東インカレでしたが、今日は東日本実業団です。10:30頃東海駅に着くと、数年来の知己であるM社事業部のO矢さんと一緒になりました。笠松運動公園には1時間に1本くらいのバスか、タクシーを使うしか交通手段はありません。11時競技開始と時間も迫っていましたから、タクシーを探しましたが1台もいない状況。少し待って1台来たと思ったら、我々の手前で乗られてしまいました。それ以前にタクシー乗り場すら見当たらない、と探したら駅前ロータリーから50mほど離れたところに看板が出ていました。やはり、タクシーを探していた選手1人も加わって3人で笠松競技場に。

 最初の決勝種目である男子円盤投で、いきなり好記録が出ました。畑山茂雄選手が58m00と山崎先生の日本歴代2位(58m08)に迫る快投を見せてくれました。2位の土井宏昭選手も初の50m突破日本人初の16m&50m&70mスローワーになりましたが、「広治さんがやったらすぐに、このくらい投げてしまいますよ」と、先輩を立てる土井選手でした。
 円盤投は第2コーナーのサークルの近くで見ていたのですが、ホームストレート側に戻ってくると、スタンドに砲丸投の村川洋平選手の姿が。今春からスズキ自販茨城に入社し、勤務地は水戸市なのです。このときは気づかなかったのですが、村川選手は砲丸投日本歴代3位記録保持者になるので、円盤投歴代3位の畑山選手、ハンマー投歴代3位の土井選手と、歴代3位トリオが同一会場に居合わせたわけです。
 村川選手の姿を見たときは、18m台の野口安忠、畑瀬聡の次は野沢具隆選手かな、と思ってしまいました。野沢選手の17m97は室内の記録で、屋外では村川選手の17m94が歴代3位だったのです。
 円盤投表彰時に畑山・土井選手のツーショットを撮らせてもらいましたが、ここに村川選手に入ってもらえば…と、ちょっと悔やまれました。しかし、転んでもタダでは起きません。この2人は“歴代2位に進出したら価値のある歴代3位記録保持者コンビ”なのです。円盤投は1986年、ハンマー投は1984年に歴代2位の記録が出ています。ともに約20年経っても今の位置をキープしているのですから、歴代2位でも偉大な記録と言える2種目なのです。特にハンマー投は歴代1・2位が室伏父子ですから、そこに割って入ったらインパクトがあるでしょう。円盤投は何度も書きますが、五輪種目では最古の日本記録ですから、日本記録を更新しないと目立たないかもしれません。最低、60mですね。

 女子やり投では小島裕子選手が10連勝、男子やり投では室永豊文選手が自己新と、投てきの話題が多い日でした。
 中・長距離にも話題はたくさん。男子の下里和義選手、女子の渋井陽子選手が1500mに出場していました。三井住友海上といえば女子1万mでは、松山商高の先輩後輩、土佐礼子選手と大平美樹選手が先頭を引っ張り合っていました。
 男子1万mは終盤の走りを見て藤田敦史選手が日本人トップかな、と思ったら、野田道胤選手がラストで切り換えて日本人1位。びっくりさせられました。その1万mのスタート前、ワイナイナ選手と目が合いました。酒井監督から「今日は28分50秒が目標」と聞いていたので、「オリンピック以上のプレッシャー?」と質問すると、「そんなことないよ」とニコニコ顔で話してくれます。それでも、28分43秒79です。引き揚げるときに駐車場で同選手にすれ違いざま「スピードランナー!」と声をかけると「オー、イェイ」と答えてくれました。


◆5月15日(日)
 東日本実業団対抗2日目の取材。朝の9:20に水戸駅近くのホテルを出ようとしたのですが、念のため「駅すぱあと」で時刻表を調べると、東海駅に止まる電車は水戸駅を9:23発でその次は10:01発。以前、松戸市に住んでいたことがあったので、常磐線は本数が多いと勝手に決めつけていたのが失敗でした。でも、ぎりぎりで競技開始に間に合う時間なので、気を取り直して9:45にチェックアウト。
 水戸駅ロータリーの手前で東海駅行きの表示の出たバスを見かけたので、「これは笠松に止まるやつだ」と思って追いかけましたが、簡単に振り切られました。バス停を探したのですが、なかなか東海駅方面が見つかりませんし、間違いなく、次のバスまでは1時間は間隔があるでしょう。出張前に茨城交通のWEBサイトを見たのですが、時刻表が改正したばかりなのか、掲載していないということで、このような非効率的な事態になっているわけです。常磐線の件は、こちらの思い込みが原因で、JR東日本に落ち度はないのですが。

 昨日、寺田と同じように東海駅からタクシーで笠松の競技場に向かった陸上ファンの方からメールをいただきました。東海駅から笠松に向かうバスは9時台に1本、10時台に1本しかなかったとのこと。競技場から帰りのバスは、水戸行きが17時4分で、反対側の東海行きが17時17分くらいしか夕方はなかったそうです。寺田は帰りもタクシーの相乗りをさせてもらいました。でも、タクシー会社内の連絡がいい加減だなあ、と思っていたら、メールをくれたファンの方も、15時頃に予約をしようと電話を入れると、「その時間に電話をしてくれ」と切られたとのこと(朝乗った運転手からは、予約を勧められたそうです)。
 そのファンの方は昨日のうちに移動する必要があり、泣く泣く男子1万mの途中で競技場を後にしたそうです。「こんな不便な競技場は初めて」とのことですが、東海駅からタクシーで1000円ちょっとですから、寺田の感覚では福島のあづま競技場や、宮城の利府競技場の方が不便だと思います。しかし、タクシーがいないのですから、イベント時はどうしようもないですね。補助員の高校生たちは、どうやって移動したのでしょう。自転車かな。

 今朝は東海駅にタクシーが数台、待っている状態でした。タクシー乗り場もしっかり、ありましたね。なんで昨日は気づかなかったのでしょう。
 しかし人生、苦もあれば、楽もあります、水戸黄門の歌のように(水戸から電車に乗りましたから)。昨日の400 m選手に続き、今日は某ハードル選手と某跳躍選手と寺田の3人で、タクシーに同乗して競技場まで行けたのです。それがなんでいいことなのか? いや、それを書いてしまったら、せっかくの幸せ気分が半減するような気がするので、ここで書くのは控えます。
 肝心の競技の方ですが、11時から投てき競技場で男子ハンマー投を観戦。ここまでハンマー投の間近で見たのは、昨年のプラハGPU以来ですね(昨年6月の日記参照)。3位の八鍬選手が自己新を出しましたが、日本歴代2位を狙う土井選手は優勝したものの69m台の記録。「今日は取材はなしね」と言って、本競技場に引き揚げました。別の取材(人物もので100行くらい)が迫っていたこともありまして。でも、日渡選手親子の写真はしっかり、撮らせてもらいました(日渡選手の許可が出たら掲載します)。日渡先生が子供に何て話しかけていたかを書くのは、ここでは控えておきましょう。


◆5月16日(月)
 東日本実業団の記事が書けるかわかりませんので(畑山茂雄選手のコメントは必ず紹介します)、競技ネタも日記で紹介しましょう。書き方は記事とは違ってきますけど。

 ハンマー投を見た後、本競技場のスタンドに移動して、走幅跳を見ながら某投てき選手に取材。面白い話を聞くことができて、ついつい長くなりました。走幅跳で10年ぶりに優勝した森長正樹選手の話を聞き逃しましたが、そういった事情もあります。また聞きですけど、もう一度8mを狙うとのこと。89年の高知インターハイ組ですから今年で34歳(早生まれなので正確には来年ですが)。高知インターハイは100 m&200 mの井上悟選手、400 mの簡優好選手、1500m&5000mの武井隆次選手、400 mHの斎藤嘉彦選手、3000m障害の櫛部静二選手と優勝者がその後も活躍した世代。優勝者以外でも、花田勝彦選手、山崎一彦選手と大物揃いでしたが、ここに名前を挙げた全員が今では指導者になっています。言葉は悪いですけど、森長選手が最後の生き残りですね(森長選手も今井雄紀選手のコーチですが)。
 その他では男子800 mで最後は8位に後退しましたが、1周目を51秒台で飛ばした梁田昭夫選手(達栄工業)、5000mでラスト1周を59秒とキレを見せた鈴木良則選手(富士通)、400 mHで6台目まで13歩で押した対馬庸佑選手(ラ・スポート)、マスターズ1500mでラスト1周を63秒(?)でカバーした寺牛浩之コーチ(?・新電元)らが目に付きました。
 女子では5000mで4〜8位にダダダダっと雪崩れ込んだ三井住友海上勢が目立ちました。チーム状況がいい方向に回転しているのでしょう。昨日から、最も熱心な応援団も来場していましたし。登録チーム名の変わったパナソニック(旧パナソニックモバイル)とSUBARU(旧富士重工、男子ですが)もいい雰囲気。
 短距離では吉田真希子選手が前日の400 mHに続き、400 mにも勝って2冠。上昇の手応えを感じているようです。取材中に、吉田選手のお父さんが英語教師であることも判明。「ヒアリングは完璧」と、今はなき川本和久先生のサイトで紹介されたのもうなずけますが、本人は「文法は大丈夫なのですが」と、微妙な表現。
 国体では丹野麻美選手と吉田選手のどちらかが、800 mに出場することになるという話もしてくれました。東北インカレの丹野選手の800 m(2分11秒85)は、1周目が67秒台で2周目が63秒台だったとのこと。珍しいペース配分です。陸マガ6月号に丹野選手のお母さんの記事が掲載されていますが、それによると“麻美”は小林麻美にちなんで付けられたとのこと。そうじゃないかと思っていたんですよね、足音からショパンの旋律が感じられましたから。
 故障で冬期練習が不足している木田真有選手は、最後に追い込んで“らしさ”は垣間見せましたが、55秒74とまだまだの状態。少しでも早いキタキツネ走り2003年7月25日の日記参照)の復活を期待したいと思います。

 取材の“締め”は今日もコニカミノルタ(昨日はワイナイナ選手)。男子5000mに出場した坪田智夫選手(13分58秒45)は、昨年10月の群馬リレーカーニバル以来のレースだったそうです。この写真は坪田選手ではなくて、コニカミノルタの集合風景。後方は佐倉ACです。


◆5月30日(月)
 今日は雨でした。「梅雨に入る前の五月晴れ(予定)の良き日に下記の通り、簡単な披露の会を」と、案内状に書かれていたにもかかわらず…。そうです。今日は2月に電撃入籍した増田明美さんの結婚披露の会の日でした。
 こういうケースによく使われる“電撃”という言葉は、周囲に知らされていなかった、という意味です。当事者の気持ちの中では徐々にその気持ちが固まってきているわけで、電撃という感覚はないと思います(昨年12月が初デートだったようなので、結婚までの期間は早かったわけですが)。
 その“良き日”に雨というのは残念ですが、皆さん知っていました? 増田さんの初マラソンは雨の中のレースだったことを(2時間36分34秒で当時の日本最高記録を4分22秒更新)。寺田も覚えていたわけではなくて、今日、出かける前に陸マガのバックナンバーを見ていて気づいたのです。
 天候を調べたかったわけではなく、その頃の増田さんが「理想の結婚相手はこんな人」とか話していなかったのかな、と思って。当時(1981〜84年)の増田さんの記事は膨大な量で、とても全部は調べ切れませんが、初マラソン(高校3年時の82年2月)や五輪代表を決めた大阪国際女子マラソン(84年1月)の記事には、それらしい発言が出ているのでは、と期待して調べたのです。残念ながら見当たりませんでしたが。料理なんかに関するコメントはありましたけど。
 しかし、雨の初マラソン雨の結婚披露の会。きれいに一致したかなと思って、会場に入る際に増田さんにも伝えました。新郎新婦が入場者全員を迎えて、言葉を交わしていたのです。「それ、話してよ」……と言われても、それは無理でしょう。一応、陸マガのバックナンバーは持参しました。しかし、すごく盛大な会で、見せて回るような雰囲気ではなかったので、それはまた別の機会があったら、にしましょう。

 2週間ほど試合の取材がなかったので、大勢の関係者と会えたことが新鮮でした。元大阪国際女子マラソン担当の関西テレビ飯田さんや、三重の二枚目助教授とは久しぶりでした。エチオピア帰りの金哲彦氏は、興奮さめやらぬ様子でエチオピアについて、熱く語ってくれました。これからは、キムレ・テツヒカッセと呼ばせていただくことに(“キムレ”が語呂も良さそう)。
 壇上には色んな人たちが上がってお祝いを話していました。俳人の黛まどかさんが友人代表で挨拶。「短い言葉で(五七五)で表現するのに慣れているはずなのに、話が長い」と、司会の永六輔さんに突っ込まれていましたが、面白いエピソードをいくつも紹介してくれました。小豆島の大森喜代治さんは、この記事で増田さんが紹介されている方です。オリーブの冠を新郎新婦にプレゼントしたところがこの写真
 瀬古利彦監督は「女瀬古(増田さんのデビュー当時、こう呼ばれていました)が女になった」と、ユーモアとジェスチャーたっぷりの話しぶり。高橋尚子選手は「独身女性として目標としていましたが、自分も恋愛を…」と、大いに刺激を受けた様子。野口みずき選手や土佐礼子&渋井陽子選手からの祝電も紹介されていました。
 キューピッド役のサンプラザ中野さんは「ランナー」を熱唱。途中から新郎新婦が後方で走り出しました。動きが速くてブレてしまっています。その後、新婦による都はるみさんの物真似まで飛び出しましたが、最後は2人の挨拶で締めました。新郎の木脇祐二さんは大橋祐二選手のように穏やかな話しぶりでした。

 会が終わって退場する間も、皆さんと交流できる貴重な時間。そこで会ったのが高橋健一選手・小出正子さん夫妻でした。2人一緒にいるところは初めてだったので、増田さん(帰る人全員に挨拶しているところ)をバックにツーショットを撮らせてもらいました。
 高橋選手は富士通のコーチ兼任ですが、現時点では紛れもなく現役ランナー。期待の意味を込めて質問しました。
寺田「27分49秒(世界選手権A標準)はいつ破るんだ?」
 知っている選手には厳しい寺田です。
高橋「松宮(隆行)には破ってもらいたいのですが」
 と、花輪高(秋田)の後輩に話をすり替えようとする高橋選手。いったんはその策にはまったふりをしました。
寺田「カージナルではA標準にちょっと届かなくて、ゴールデンゲームズの5000mではB標準に少し届かなかったんだよな」
 しかし、次の瞬間には、1万mでセビリア世界選手権の標準記録(たぶんA標準が28分10秒00)を破れなかった1999年の話を始める鬼の記者に変身していました。
寺田「そういえば、平塚だったよね、1万mで標準記録を破れなかったのは。あのときって、雨上がりじゃなかった? 今日みたいに。増田さんの初マラソンも雨だったんだけど」
 会場のホテルに入る際には雨が小降りになっていたので、てっきり止んでいるものと思い込んでいたのです。
高橋「そう…でしたね」
 と、記憶を確かめるように話す高橋選手。新婦と雨でつながった一日でした。

 おっと、まだ終わりません。新婦の初マラソンと結婚に、もう1つ類似点が。実は増田さんが高校在学中にマラソンに出場することは、公表されていませんでした。ある筋(陸連らしい)からマスコミが知るところとなってしまいましたが、当時の増田さんは、今の安藤美姫か横峯さくらくらいにマスコミが注目する存在。成田高校の瀧田先生(故人)がきっと、騒がれたくなかったのでしょう。
 公にはしていなくても、選手と指導者はずっと、出場するつもりで準備をしていたわけです。事前に公にしなかった今回の結婚と、初マラソン出場を公にしていなかった新婦の初マラソン。似ているといえば、言えなくもないわけです。そのことを退場する際に新婦に話しました。増田さんからなんと言われたかは忘れましたが、新郎とも握手をして帰りました(全員がしたのかも?)。


◆5月31日(火)
 12:20にWSTFを出て、13時に都内某所に。ある人物のインタビュー取材です。その人の名前は“コージ”でした。改めて指摘するまでもなく、日本の陸上界には“コージ”がいっぱいいます。伊東浩司、室伏広治、土谷公二(鹿児島インターハイ棒高跳優勝)、法元康二等々。今日の“コージ”も日本の陸上界を支える1人といっていいでしょう。
 インタビューを終えて、HIS(旅行会社)に寄ってWSTFに戻ったのが16時頃。メールをチェックすると、別の“コージ”からメールが来ていました。こちらの問い合わせへのリプライですが。
 1カ月前になりますが、織田記念の取材中に「広島で“コージ”と言ったら山本浩二のことを指すんですよ」と、某専門誌のE本編集者が教えてくれました。プロ野球・広島の山本監督のことですが、長い間、同チームの4番として活躍した地元のヒーロー。和歌山出身のE本編集者ですが、学生時代に同じ大学の広島出身の女性から言われたとのこと。実はE本編集者の名前も“コージ”(幸司だったかな)なのです。
 ちょっと眉唾っぽい話でもありますが、あり得る話と信じられました。陸上どころ広島としては早く“コージ”という名前の選手を輩出して、広島でも“コージ”といったら陸上の○○と言われるようになってほしいところです。

 昨日の日記で増田明美さんが初マラソンに出場することを、事前には公にしていなかったことを紹介しました。高校生で1万m・5000m・3000mと日本記録を何度も更新し、マスコミでの騒がれ方がすごかったのです。高校在学中にマラソンに出場するとわかったら、それがエスカレートするのは目に見えていました。
 昨日は安藤美姫か横峯さくらの2人の名前を挙げましたが、今でいうなら宮里藍福原愛くらいの騒がれ方だった、と書いてもよかったわけです。スポーツ界に“アイ”は多いのですが、山元愛選手(沖電気)、市丸愛選手(サニックス)、杉原愛選手(大塚製薬)、井桁愛選手(早大)、池田愛選手(中京大)選手と、陸上界も“アイ”に満ちています。
 話は再び織田記念ですけど、広島の誇る女子ボウルターの仲田愛選手(西条農高2年)が3m90の高校歴代2位、高校2年最高記録をクリアしました。成績表を見てビックリしたのが、仲田選手のルビが“メグミ”となっていたことです。てっきり“アイ”だと思っていました。広島陸協が地元選手の読み方を、間違えるはずはありません。
「“アイ”じゃなかったんだっ!」と寺田が驚きの声を発すると、「広島で“コージ”といったら山本浩二ですけど、広島で“愛”と書いたら“メグミ”ですよ」とE本編集者。面白いけど、信じていいのかな?


◆6月1日(水)
 追加取材と原稿の訂正作業。夕方から日本選手権を10倍楽しむページに「標準記録突破者&国立競技場日本人最高&展望コメント」を書き始めました。全種目、書ける保証はまったくありません。去年も、途中で挫折したような気が。でも、集中力はありますね。


◆6月2日(木)
 日本選手権1日目。「標準記録突破者&国立競技場日本人最高&展望コメント」は昨日中に男子を書き終え、今日の午前中に女子の本日分を書きました。明日以降の分は、書けないでしょう。

 今日は、あいにくの雨。増田明美さんを見つけ「雨女じゃないですか」と話しかけました(結婚披露の会・5月30日の日記参照)。「うーうん、私違うよ」とのこと。初マラソン、結婚披露の会、そして日本選手権と続いたら(?)、十分、雨女のような気がしますが…。
 女子200 m予選のレース後、丹野麻美選手とばったり合ったので、「雨が得意?」と聞きました。これはもちろん“雨音はショパンの調べ”に引っかけての質問です。丹野選手の名前は、小林麻美にちなんでつけられたからです(5月16日の日記参照)。
「そういえば、結構多いかもしれません」と丹野選手。

「標準記録突破者&国立競技場日本人最高&展望コメント」の男子5000mで、エントリー選手の発表が各種目上位10人では、日本の注目選手がどうなっているのかわからない、と書きました。今日、会場である人から「地方紙の記者も困っているのでは」と指摘されたので、さっそく地方紙記者の方複数に取材。その通りだと皆さん言っていました。
 地方紙といえば、中国新聞・山本記者と今日、内冨恭則選手(中国電力)の日本選手権の成績を調べました。その結果、すごいことがわかったので、「全種目三行記事と懺悔1日目」で紹介しました。ところで、山本記者は中国実業団男子5000mで2〜4位に僅差でフィニッシュした高岡寿成、尾方剛、入船敏の3人の絵柄の写真を撮った記者。この3人が世界選手権のマラソンで揃って入賞でもしたら、中国実業団での写真の価値が一気に上がります。社長賞ものか?


◆6月3日(金)
 日本選手権取材2日目。
 岡山出身のSP記者こと朝日新聞の小田記者(ケミストリー川畑要に似ていると評判)から「どこが懺悔なんですか」と聞かれました。全種目三行記事と懺悔1日目が、懺悔というよりも記事になってしまっているからでしょう。
 一応、優勝予想した選手がどうだったか、という記述はしているはずです。1日目は優勝予想がほとんど当たったので、枕詞的になってしまっていますけど。全種目の優勝予想の反省をするのが目的のコーナーのはずでした。反省するのなら、ちょっと情報を付け足して記事にしてしまおう、というのが狙いでした。それだったら三行くらい(短い文章という意味です)の記述になるかな、と思っていたら、なぜか多めになってしまっているというのが、経緯です。
 2日目の女子1500mなんか、完全に記事ですね。通過&スプリットタイムは載せるし、小林祐梨子選手のコメントは載せるし……あれ? そういえば、K新聞が来ていなかった? もしかしたら、寺田が知らない記者の方が来ていたのかもしれませんが。

 日本選手権ですからなんとか全種目に触れたいのですが、ここまで丁寧にできるのも、今日が最後かもしれません。決勝種目数も昨日6、本日9だったのが、明日と明後日は11に増えます。大物選手の登場も増えますしね。
 それにしても明日は室伏広治選手、沢野大地選手、為末大選手と重なって、取材が大変そうです。最終日に100 mがあるとはいえ、この3人のうち1人くらいは、別の日に決勝が行くようにしてもらいたかった。土曜日でテレビの視聴者を獲得して日曜日も、という考え方もできますが、大物選手の登場はできるだけ均等に振り分けた方が、新聞紙面の展開を考えると効果があると思います。取材する側の負担も分散するわけです。
 効果といえば、順大・仲村明監督と話をしていたら、光華学園ACの早狩実紀選手が通りかかり、3000mSCについて少し話をしました(仲村監督は3000mSCの世界選手権代表歴2回)。1500m決勝の2〜3時間前だったと思うのですが、この辺の余裕はベテランならでは(余裕の一番はワイナイナ選手の、シドニー五輪スタート前の一件だと思いますが)。
 レースではきっちり4分17秒45(3位)と、32歳日本最高で走りました。3000mSCで世界選手権のB標準を破っていますが、今日本選手権に3000mSCはありません。違う種目ですが、しっかりアピールしないといけないという状況で、それをやってしまうあたり、さすがです。年齢が半分の小林祐梨子選手のレース後の弾けた笑顔もよかったですけど、早狩選手の落ち着いた微笑みも印象的でした。

 中国新聞・山本記者が、5000mに優勝した瀬戸智弘選手の過去の日本選手権成績を一緒に調べようと言うので(若干の誇張あり)、調べました。瀬戸選手自身が、「2位が多かった」と発言していたのです。
1999年 5000m10位
2000年 5000m2位
   (日本人1位)
2001年 5000m4位 1万m17位
2002年 5000m3位 1万m10位
2003年 5000m2位 
2004年 5000m2位 1万m15位

 昨日の3000mSC・内冨恭則選手ほどではありませんが、5年連続で2〜4位だったのです。カネボウを代表する選手は高岡寿成選手ですが、カネボウの典型的な選手が瀬戸選手だというのが、現時点の印象です。5000mを中心に確実に強くなって(大きく落ち込む期間がない)、そのスピードを1万mにも生かせるようになってきましたし、28歳という年齢でマラソンにも挑みました。テレビでは初マラソンの失敗にばかり言及していましたが、そこに目を奪われると、瀬戸選手の特徴がわからなくなってしまうのでは? と感じました。

◆6月4日(土)
 日本選手権取材3日目。
 普段はトラック種目の予選後に、ミックスドゾーンに話を聞きに行くことは少ないのですが、最初の女子400 mで丹野麻美選手が日本記録に0.02秒と迫る52秒90を出したので、急いでスタンドを駆け下りました。これは、国内日本人最高記録です。最後の直線は少し、力を抜いた走り。「53秒台後半だと思って走っていた」そうです。明日の決勝も、今日と同じくらいのコンディションだといいのですが。

 女子800 m予選の後も、杉森美保選手にちょっと確認したいことがあってミックスドゾーンに。続く男子100 mもモニターや巨大スクリーンで見て、ミックスドゾーン付近に居続けました。1組目は土江寛裕選手(富士通)がトップ(10秒43)。シーズン序盤は明らかに調子が上がっていませんでしたが、きっちり立て直してきたようです。
 富士通の新ユニフォーム(赤基調から黒白のツートンカラーに変更)の感想を聞こうと近づくと、日本選手権を10倍楽しむページの「優勝者予想」にも、「ほとんど優勝候補」にも名前がないことに抗議をしてきました。「有力候補」には土江選手の名前もあるんですけどね。「ほとんど優勝候補」は朝原宣治選手だけという格付けなのです。
 抗議は普通、日本選手権を10倍楽しむページ禁止事項の“腹を立てること”に相当しますが、土江選手とは長い付き合いですし、何より“笑顔の抗議”はOKなのです。
 100 mでは3組1位の日高一慶選手(宮崎アスリートクラブ)が10秒29と、B標準に0.01秒と迫りました。日高選手は中学校の教員。これは“教員選手日本最高記録だ”と思ったのですが、山下徹也選手(当時掛川西高教)が91年に10秒22で走っていました。だったら、“国立競技場教員選手日本最高”だろうと思ったのですが、山下選手の記録は91年に国立競技場で行われた日本選手権での記録でした。
 同じ3組では川畑伸吾選手(群馬綜合ガードシステム)が10秒35で2位。昨年はたび重なる故障で10秒41が年度ベスト。03年の静岡国体以来の10秒40未満だそうです。最終組では土江選手と12歳年齢が違う佐分慎弥選手(日体大)が後半(中盤?)で2位以下を圧倒。記録は10秒45でしたが、2位の小島茂之選手(アシックス)に0.24秒の差をつけた強さが際だちました。

 さて、4組で10秒29の朝原宣治選手に次いで2位となったのが、教員となった宮田貴志選手(福島県南陸協)でした。記録は10秒42。ミックスドゾーンで「また10秒4台なの?」と声をかけました。2002年から毎年10秒4台は何度も出していて、その都度「また10秒4台?」と周囲から言われている選手です。
 年次別ベスト記録だったら、高3の96年以降の10年間で8年が10秒4台。例外の2年が99年の10秒37の自己ベスト、01年の10秒53です。日本選手権での記録ではありませんが、一昨日の内冨恭則選手、昨日の瀬戸智弘選手に勝るとも劣らない“安定ぶり”。
「『明日は必ず10秒3台&自己新を出す』(本人談)とサイトに書いていい?」と聞くと「はい、書いてください。宣言して、何が何でもやります」と、力強く言い切ってくれました。

 100 m予選の後、ミックスドゾーンには棒高跳優勝の安田覚選手が誘導されてきました。その後、記録なしに終わった沢野大地選手も来ました。夜、テレビの録画を見ると、「無言で競技場を立ち去った」と紹介されていました。確かに一度、ポールを車に運んだときは、記者たちを振り切って立ち去ったと受け取られましたが、その後ミックスドゾーンに戻ってきて、きっちり話をしたのです。
 マラソンのオリンピック選考レースなどでは、敗れた有力選手が無言で立ち去ることもよくありますが、ひと言でいいので何かをコメントした方が、逆に追いかけられずに済むのです。選手はそういう状況では、自分の世界に入っているので難しいかもしれませんが、マスコミというより、“応援してくれている人たちへのひと言”ととらえたら、何かを話した方がいいんじゃないかと思います。

 110 mHは内藤真人選手と谷川聡選手の2人が同着優勝。テレビ・インタビューでの2人のやりとりが、面白かったですね。ちなみに、インタビューを担当しているNHKの松野靖彦アナは浜松北高の陸上部出身とのこと。93年の宇都宮インターハイ400 m2位の、北川陽介選手と同期だったそうです。
 それにしても、昨年の女子100 mに続き同着2人優勝が2年連続で起こるなんて、本当に珍しいですよね。専門誌の優勝者名鑑とか、種目数でレイアウトを先にしてあると、困るんですよ。宮崎インターハイの4×100 mR同着優勝のときだったかな。苦労した記憶があります。まあ、専門誌の苦労はさておいて、春先に不調だった谷川聡選手がここまで調子を上げてきたのには、驚かされました。
 ミックスドゾーンで「見直したよ」と偉そうに声をかけると、「何回、同じことを言うんですか」と切り返されました。たぶん3回目、もしかしたら4回目かもしれません。いい意味で、こちらの予想を裏切る選手です。
 土江選手もそんな選手の1人。シドニー五輪代表になれなかったとき、その後の土江選手がここまで頑張るとは思っていませんでした。昨年7月の全国小学生大会の研修会で土江選手が講演したときも、小学生にあそこまで受けるとは思っていませんでしたし。今日の髪型にもちょっと、ビックリさせられましたけど。きっと明日も、寺田の予想を上回る結果を出してくれるはず。


◆6月5日(日)
 日本選手権最終日の取材。
 13時競技開始。七種競技の走幅跳と女子円盤投、女子100 m準決勝、男子100 m準決勝まではスタンドの記者席に腰を落ち着けて観戦取材。
 近くのスタンドで世界ジュニア100 mファイナリストの荒川岳士氏にお会いしました。寺田が初めて宇都宮に行ったのが、荒川選手の取材だったと記憶しています。土江寛裕選手の今日があるのは、早大で同学年だった荒川氏の存在があればこそだった、と土江選手がどこかに書いていたと思います。早大競走部出身のTBS・Y氏によれば(Sアナと4人で話をしていました)、入部時の挨拶で荒川氏が「カール・ルイスに勝ちます」と目標を言うと、土江選手は「ルイスに勝った荒川に勝ちます」と言ったそうです。
 その土江選手は、残念ながら準決勝1組6着で落選。スタートが土江選手にしては遅かったのが気になります。昨日の日記で言及した宮田貴志選手が、その準決勝1組でトップでフィニッシュしてガッツポーズ。1位通過が嬉しかったのか、自己新が出た感触があったからなのか、聞いておけばよかったですね。10秒22でしたが、追い風3.2mで参考記録。公認範囲内の風速でもきっと、10秒3台は出ていたと思われます。決勝は向かい風(0.8m)となり、自身の走りもあまりよくなくて10秒55の6位。千載一遇のチャンスを逃してしまいました。

 男子100 m準決勝後はしばらく、七種競技のやり投だけが行われている状態。中田有紀選手の試技には注意しながら、スタンドで成迫健児選手を取材しました。
 15:50には第4コーナーのスタンドに移動。女子走幅跳と男子やり投を近くで見るためです。しかし、ここからはトラックの決勝種目も続き、昨日後半もそうでしたが、多忙を極めました。女子走幅跳が始まって間もなく、女子400 m決勝。100 mだったらレース展開を見るにも、最後の着順を確認するにもフィニッシュ付近のスタンド(記者席)がいいのですが、400 mだったら4コーナーから中央付近でも大丈夫です。200 m通過も計測しやすいですしね(25秒0で通過しました)。
 丹野麻美選手が昨日の記録よりも悪かったら、そのままスタンドに残って男子400 mを見ようと考えていましたが(女子走幅跳と男子やり投も)、51秒台が出たのでミックスドゾーンにすっ飛んでいきました。途中、川本和久先生に合ったので握手。池田久美子選手が1回目を跳ぶところで、お邪魔してしまいました。反省しています。
 男子400 mはインタビュールームで丹野選手の話を聞きながら、モニターで見ていました。金丸選手のコメント取材までしていると、担当種目の女子800 mがモニターでしか見られないので、泣く泣くスタンドに再移動。レースを200 m毎のタイムを計測しながら見て、その後もミックスドゾーン&インタビュールームに。杉森美保選手も日本新で、丁寧に取材する必要があって、女子100 mと男子100 mはモニターで見ました。

 もしかしたら、その間に一度、スタンドに戻れたかもしれません。この辺の記憶が、ちょっと曖昧なのです。村上幸史選手の2・5・6回目の投てきは生で見ることができました。走幅跳の花岡麻帆、池田両選手の跳躍は正確には覚えていません。インタビュールームやミックスドゾーンのモニターでも見ていますから、記憶がごっちゃになっています。
 思い出しました。モニターで池田選手が手を合わせている姿を見て、スタンドに戻ったら6m60と記録を知ったので、1回目は生、2・3回目はモニターです。4回目の花岡、池田選手の跳躍を見た後、やり投の選手がフィールドからミックスドゾーンに向かったので、再度すっ飛んでいきました。
 村上選手のコメントを聞き終えてスタンドに戻って、5回目の池田選手の逆転跳躍は見られませんでしたが、女子走幅跳史上に残る6回目の両選手の跳躍は生で見ることができました。なぜか時計を見て、「テレビでは切れちゃったのではないか」と思ったことを覚えています。この辺が、現地に足を運ぶことのできる人間の幸せなところですね。
 この間に、丹野選手と杉森選手のサインをもらいました。ミックスドゾーンでそんなことを頼めるわけはありませんし、共同会見後はすぐに表彰に移動するので、サインを書いてもらう時間はありません。我ながら、よくそこまでできたな、と思いますが、具体的にどうやってもらったかは企業秘密。日本人女子初の「51」は、ちょっと感激しました。陸マガ次号に載ると思います。

 今日は2種目で日本記録が誕生し、6種目の優勝記録が世界選手権B標準を上回り、最後に盛り上がってくれました。雨が降らなかったら、昨日ももっと盛り上がったと思うのですが。
 最終日は丹野、池田の川本門下選手が活躍しました。しかし、昨日の400 mHではワンツー確実と言われた久保倉里美・吉田真希子両選手が、櫻井里佳選手に敗れています。その前日には沼田拓也選手が1分49秒台と好走していますから、浮き沈みの大きかった4日間だったはず。それでも、地元テレビ局のインタビューで「大変な日本選手権で疲れたのでは?」というニュアンスの質問をされると、「それを楽しんでやっているんです」と川本先生。「みんな勝てたらいいに決まっていますが、相手も頑張っている。一喜一憂しながら、少しずつ進んでいければいい。それが楽しいのです」
 土江選手・宮田選手も含めてすべての関係者が、そう感じてほしいと思いますし、自分にもそう言い聞かせて、もうちょっと(かなり?)続く締め切りの連続を乗り越えたいと思います。


ここが最新です
◆6月6日(月)
 15:30から渋谷のエクセル東急ホテルで、世界選手権代表記者発表がありました。代表選手選考経緯の説明と、質疑応答が行われ(珍しく紛糾しました。詳細は記事で)、その後、新ユニフォームの発表と選手4名(内藤真人・高平慎士・福士加代子・為末大)の会見という流れ。終了後も少し選手たちの話を聞く時間があってよかったです。
 よくなかったのは男子1万mの選考です。先に言っておきますが、選ばれた三津谷祐選手と、選ばれなかった大森輝和選手の、どちらの方が強い、世界選手権で期待できる、という問題ではありません。今回から陸連が選考基準を細分化して事前に公表し、優先順位も付けていました(詳しくは陸連サイトの選考基準を参照してください)。その優先順位をレース後に、陸連が覆した選考をしたことが問題なのです。
 会見での陸連側の説明は、この記事の通り。優先順位はつけたけれど、レースが終わってみたら優先順位が下の選手を選びたくなったから、優先順位を覆したと堂々と言っているわけです。強さの基準を自分たちで決めておきながら、終わってみたらその基準がおかしかった、と。反省するのはいいことですが、いったん公表をした基準を変更したら混乱するだけ。選手たちは、その基準をクリアするために努力しているんですから。
 事前の選考基準を作るのは陸連に権利があります。しかし、いったん公表したらそれは、陸上界全体の認識になるんです。それを事後に変更する権利が、陸連にあるのでしょうか。変更するのなら次回から、というのが常識です。
 くろしお通信サイドから「納得できない」という声が挙がり、最悪の場合は日本スポーツ仲裁機構(JSAA)に申し立てるという話になってきています(代表選考で陸連に抗議へ 男子1万mでくろしお通信(共同通信))。騒ぎが大きくなって世間が広く知るところになったら、陸上界の馬鹿さ加減を宣伝するようなもの。世間が、陸連と陸上界を区別してくれればいいのですが、区別してくれないでしょう。

 寺田が強調したいのは主に、以下の2点です。
 1つはB標準の日本選手権優勝者よりも、A標準の日本選手権入賞者を優先したのは、今回の選考基準変更の大きな特徴だったこと(日本選手権優勝者の即時内定を、前年も含む標準記録適用期間から今年の突破者に変更したことも特徴)。昨年のアテネ五輪だったら、今回のようなケースでどちらを選ぶとは、事前に明示しませんでした。昨年の1万mはレース内容を見て、A標準突破者の大森選手(18位)より、B標準突破で優勝した大野龍二選手をアテネ五輪代表に選びました。110 mHではB標準で優勝の田野中輔選手も、A標準で2・3位の谷川聡&内藤真人選手も、誰も選ばずに南部記念まで決定を持ち越しました。
 しかし今年は、昨年の110 mHのような例なら、A標準選手を優先すると決めたのです。その特徴を安易に覆すくらいなら、どうしてわざわざ変更したのか。陸連は「予測できないことも起こる」ことを理由に挙げていますが、B標準選手が優勝してA標準選手が2位になるケースは、簡単に予想できることです。
 2つめは、レース後に優先順位の変更があることを、選手たちに通達していなかったこと。今回の当事者ではないけれど、選考に絡みそうな有力選手を抱えていたあるチームの監督に、電話をして確認しました。そんな説明はいっさいなかったそうです。つまり、A標準をすでに切っている選手は、入賞でも代表の可能性があると思って走ります(特に昨日のレース展開では、途中で優勝者のA標準突破は厳しいとわかります)。レース内容次第で日本選手権優勝者重視に選考基準が変更される可能性があると知っていれば、入賞を考えずに優勝だけを目指したレースをすることもできる(早めに思い切ってスパートするとか)。
 選手はこういう結果を出せば代表になれると信じて走り、想定した範囲内の結果を出したのに、終わってみたら選考基準が変わって代表になれなかった。そんな状況になって、当事者が納得できるはずがありません。

 三津谷選手と大森選手は同じ香川県出身で、仲がいいことを2人とも公言しています。1月の全国都道府県対抗男子駅伝では、同じ3区で区間1・2位。ともに区間新で、勝った大森選手は「引っ張ってくれた三津谷のおかげです」と、年下のライバルを称えていました。実は昨日のレース前も、2人揃って歩いているところを、寺田は見かけています。今回のことで、2人の友情が壊れるなんてことはないでしょうが、後味がいいはずはありません。
 陸連は今回の決定を速やかに撤回すべきだと思います。
 という言い方は偉そうなので撤回して、陸連組織内の自浄作用を期待します、に変更します。



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