続・寺田的陸上日記     昔の日記はこちらから
2008年9月  風に吹かれて天童

最新の日記へはここをクリック

◆2008年8月26日(火)
 10時過ぎにグランドプリンスホテル高輪に。東京の朝の空気は、思ったよりも暑くなかった。海外から帰って翌朝の取材はおそらく初体験だ。しかし、頭の切り換えが大変だった、ということはなかった。北京では結局、日本人社会に身を置いていたからだろう。ジャパンハウス、ニューオータニ、日本人同士の電話連絡。ヨーロッパを1人で移動して取材をするのとは全く違った。そもそも、取材らしい取材はしていなかったし、疲れもなかった。時差も1時間とこれまでで最も小さい。帰国してからが勝負と、北京滞在の中盤で覚悟を決めていた。
 ホテルではJOCの解団式が行われていたが、解団式自体を取材するわけではなかった。解団式後に数人の選手に個別取材をするのが目的。実際、解団式というものが、スポーツ取材の範疇に入るのだろうか? どのメディアもそこに来る選手でお目当ての対象がいるから来ているだけだろう。
 寺田は途中で会場からは抜け出して、取材の下準備を始めた。知らなかったことだが、会場から一度退出したら、再入場はできないことになっていた。どうでもいい話だが。
 解団式後の短い時間で、3人の選手に個別取材。高橋編集長が2人の話を聞いてくれた。陸マガから与えられたテーマは、本来なら五輪後2〜3カ月経ってから取材する類のものだった。10月号の発売日が大会終了後数週間たっていることもあり、陸マガは大会報道記事というよりも、分析とか反省の要素を色濃くした記事を載せようとしているのだ。
 しかし、取材をするタイミングは五輪終了直後である。選手もまだ、自分の中で整理し切れていないことも多い。寺田の感覚ではこの手の取材は無理が多いと思うのだが、読者の立場を優先させるのが高橋編集長。「そこをなんとか」と押し切られてしまった。まあ、編集部の考えもわからないわけではないので。
 で、取材の出来はというと、3人中2人は成績が合格点の選手で、オリンピックを振り返ってもらう部分も、今後の話の部分も“通常”に近い感じで取材ができた。しかし、もう1人はやはり、難しい部分は難しかったという成果。失敗とは言い切れないし、その選手1人でなく数人をまとめて紹介する企画なので、なんとかなりそうな感じもあるのだが。

 取材終了後はいったん新宿の作業部屋に戻って仕事をして、夜になって再び品川に。御殿山ガーデン ホテルラフォーレ東京というところで、富士通の帰朝報告会を取材するためです(いつもの文体に戻します)。
 寺田が到着したときにはちょうど、五輪帰りの4選手が挨拶をするところ(写真)。4×100 mRの2選手は首相官邸に挨拶に行っているため、少し遅れての到着になります。真打ちは後から登場ということですが、4人の挨拶がなかなかしっかりしていて、聴衆をしっかりと引きつけていました。
 日本代表クラスの選手はこの手の挨拶をする機会が多いからなのでしょうが、そのくらいできないと、代表選手は務まらないのかも。代表選手というか、多くの人から支援してもらって初めて成立するのが実業団選手。感謝の気持ちを持っていない選手、それを伝えられない選手は続けられないのかもしれません。
 質問コーナーもあって楽しめました。そこで発見したのが堀籠佳宏選手のトーク上手ぶり。北京で良かったことと悪かったことは? という質問に対し
「良かったことは選手村のマクドナルドが食べ放題だったこと。悪かったのは、マスコットキャラが5体いましたが、中からおじさんが出てきたのを見てしまったこと」
 と、つぼを押さえた答えをしていました。中国語を何か覚えましたか? という質問には
「“ニーハオ”に“マ”をつけると、ご機嫌いかがですか、お元気ですかという意味になります。(中略)現地の言葉を使うと現地の人は喜んでくれます。かなりの交流ができました。“愛している”は“ウォーアイニー(?)”ですが、反応がありませんでした。この点は反省してリベンジしたいです」
 ユーモアがあるというか、社会性があるというか。北京での気迫あふれる走りもそうでしたが、堀籠選手を見直す夜になりました。

 4×100 mRメンバーの2人は20時頃に登場。「高平ぁー、脚長いぞっ!」と声を掛けようかと思ったのですが、「視線、こっちにもおねがいしまーす」にしました(写真)。2人には社長賞が贈られていました(写真)。金一封ということです。
 社内行事ということで本来、あまり時間もないのですが、囲み取材の場も設定されていて助かりました。記者は4×100 mRコンビに集中しますから、寺田はチャンスとばかり醍醐直幸選手のところに。10分くらいですが、独占取材をさせてもらうことができました。午前中と同じで、ちょっと難しいテーマでの取材です。一筋縄ではいかないな、と感じながら話をしていましたが、醍醐選手が1つ、手応えのあるネタを話してくれました。
 せっかくの機会なので、銅メダルに触らせてもらいました。写真もアップで。メダルはあくまでも形であって、彼らの取り組みにこそ意味がある。とわかってはいても、こうして近くで見て、触ると嬉しいですね。これがメダルの威力か。
 最後には、今日の最大の目的である土江寛裕監督の写真を撮影できました。今さら紹介するまでもないと思いますが、4年前のアテネ五輪4位のときに1走だった人物で、当時は富士通の選手でした。レース後のインタビューで号泣していた姿は、日本中を感動させた…かどうかはわかりませんが、寺田はグッと来ました。パリ(2003年世界選手権)の涙は目の前で見ていましたし。末續選手抜きで決勝に進出したときに、「自分が疫病神だった」と、人目もはばからずに涙していたのが、昨日のことのように思い出されます。
 アテネ五輪で3走だった高平選手は当時、順大の2年生。昨年、土江監督と入れ替わりで富士通に入社し、土江氏に替わって1走に定着した塚原選手は、今年富士通に入社。2つの銅メダルを首にかける資格は十分あります。
 22日の日記で、銅メダル獲得シーンを見て土江監督は絶対に泣いているはず、と断定しましたが、「自宅の****で見ていましたけど、泣いていませんよ。うらやましいという気持ちが大きかった」と言います。感極まった声で北京に電話をしてきた、という証言もあるのですが。


◆2008年8月27日(水)
 終日、自宅にいました。さすがに、少しは休んでおかないと。仕事もしましたけど。

 新聞のオリンピック記事やら、テレビの特集番組(総集編?)を見て過ごしました。今日感じたのは、寺田が北京でちんたらしている間に、陸上記者の方たちは相当な量の記事を書いていたことです。そういえば、男子マラソンの2日前会見のときだったと思いますが、ジャパンハウスで某記者から「どうですか?」と聞かれて「張り合いがないよ」と答えました。ラインを引く仕草をしながら「こっち側とそちら側では、まったく違うんだから」と。
 すると某記者は「こっちも大変ですよ。見られない種目もたくさんありますから」と言います。確かに、そうだったかもしれません。昨年の世界選手権も夜の部の競技時間が遅かったですけど、北京五輪もアメリカのテレビ局の都合か、かなり遅い時間に行われていました。日本とは1時間の時差ですから、夜の10時の競技は日本の11時。締め切りはかなりきつかったと思います。
 救いは、他の競技で日本選手の好成績があれば、陸上競技のスペースが小さくなること。それが世界選手権との違いですが、そういうケースが予想される日は、陸上競技を担当する記者の数も減らされるんですよね。

 まあ、そんな記者事情はどうでもよくて、オリンピックの感動を新たにした日だったということが重要です。


◆2008年8月28日(木)
 今日は電話取材を多数こなしました。大塚製薬・河野匡監督には北京五輪マラソン/男子長距離統括コーチの立場として、ワコール・永山忠幸監督には女子長距離コーチの立場として。陸マガ10月号でチームJAPANの総括的な記事と、マラソンも含めた長距離種目の記事があるのですが、そのための取材です。
 今回の日本チームの特徴として、故障者の多さが挙げられます。特にマラソンは野口みずき選手と大崎悟史選手がスタートラインに立てず、土佐礼子選手も途中棄権。長距離以外でも、内藤真人選手と金丸祐三選手は明らかに、直前のケガの影響が大きく出ていましたし、為末大選手と成迫健児選手も影響はあったように感じられました。
 その辺をどうとらえていったらいいか。避けては通れない話題でした。今回はマラソンが一番影響が出てしまったので、嫌な役目というのは重々承知していましたが、河野監督に話をお願いしました。チームJAPAN記事に使用します。
 永山監督への電話取材で、福士加代子選手も少しケガの影響があったことが判明。「ケガを避ける方法は、正直ないですよね?」という問いかけを、ついついしてしまいました。真っ向から答えがあるとは思っていませんでしたが、これが、ありました。その内容は陸マガ次号で。

 河野監督にはもう1つ、男子マラソンの“ワンジル・ショック”についても話していただきました。夏のマラソンの高速化の話題です。これも答えづらい内容だったと思いますが、丁寧に答えてくれました(さすがに、当事者の坂口泰監督に聞くのは控えました)。ロンドンで予想されていたことが、4年早く生じてしまったという見解です。
 意外だったのは、北京とロンドンの話をしているなかで、シドニー五輪の話題が出てきたことです。河野監督が指導した犬伏孝行選手のことです。記事に厚みを持たせられると思うので、これも記事中で紹介すると思います。

 先日も書いたように、大会直後には話しにくいテーマが多いのが、10月号の一連の取材です。高橋編集長と夜、緊急の対策会議……というほどのものでもないですね。単なる四方山話をしただけのような。
 夜には赤羽周平コーチにも電話。これは取材というよりも、その準備段階の電話でした。ブログにはっきりと書けない部分もお聞きすることができましたが、その話は赤羽選手が活躍するときまで温めておくつもりです。1つだけ情報が。マラソンの世界選手権選考レースには、出場する意向だそうです。


◆2008年9月4日(木)
 今日は地下鉄を乗り継いで半蔵門駅へ。寺田の記憶が正しければ、この駅を使うのは、過去10年以上はなかったと思います。ということはどうでもよくて、目的はFM東京というラジオ局で為末大選手を取材するためです。
 同選手が部長(番組のホスト役)を務めている「週末ランニング部」という番組で、北京五輪から帰国後初めて、公式の場でオリンピックを振り返ると知らされていました。為末選手がホスト役の番組ですが、今回は内容からして、ホストでは話しにくい。ということで、同番組“監督”の前園真聖さんがホスト役で、為末選手はゲストという形になりました(こちらのサイトを見ると、前園さんがホスト役をすることが多いようです)。
 ビックリしたのは、2人のトークが1時間半近くにも及ぶロングトークだったこと。3回分を一度に収録したようです(別に隠すことじゃありませんよね)。番組の看板パーソナリティが、最大目標の大会を終えたのですから、当然といえば当然かも。3回分ということで陸上競技や400 mHを始めた頃から話がスタートしました。クライマックスというか、一番長く話したのはもちろん北京五輪ですが。

 1996年から取材をし続けてきた選手ですから(編集作業には93年の全日中から携わっていました)、初めて聞くエピもありますが、知っているネタが多いわけです。ただ、同じネタでも説明する言葉が違えば、理解度が違ってきます。北京五輪に関しては、そこまでの練習過程など、結果が出て初めて評価できますから、そういうところは新鮮な内容でした。
 日本選手権後にヒザなどに痛みがあった時点で「ここから先はちゃんとトレーニングをする時期は作れないと判断した」という話は、南部記念のときの取材でわかっていたことです。しかし、「行けるときは、これは行けるかな、という“藁”みたいなものがつかめるのですが、今回はそれもなかった。痛いポジションに入れられなくて、ずらすしかないのですが、そうするとちゃんとした力が出ない」というところは、レースが終わって初めて話せることでしょう。
 ただ、最後まで一縷の望みは持ち続けていたようです。この記事で紹介した“特殊な能力”が発揮されることを自身で期待していた。「ちょっと厳しいな」という気持ちと、「スイッチが入って切りかわるのではないか」という気持ちが交互にもたげてきたようです。

 収録後のカコミ取材では、引退を決断する時期や、それを判断するのにどういう考え方をするのか、という話題に。
「(結論は)それほど伸ばすわけにはいきません。みんなのシーズンが終わるまでには決めないといけないでしょう。(判断までの考え方として)自分は選手とコーチの、2つの役をこなしてきました。選手としての情熱は消えていません。日々、高まってきている感じすらします。その一方で、コーチの目で自分を見たとき、ヒザなどは使いものにならない。その折り合いをどうつけるか、なんです」
 このコメントからだと、引退の可能性が強いように思われます。しかし、次のようにも言っています。
「1つわかったのは、燃え尽きてゼロになる類のものではないということ。求道に近いかんじでしょうか。ゴールがあると思ってやるのではなく、走ることに関わっていくといくと思う。簡単に言うと、自分の体でやっていくのか、他人の体でやっていくのか」
 他人の体で、という部分は指導者になるという意味にもとれますが、従来の指導者とは違って、アジアから人材を発掘するなど、プロデューサー的な指導をしていくこともイメージしているようです。

 その後、陸マガ10月号用の個別取材をさせてもらいました。北京五輪の(というよりも五輪後を見据えた)400 mHのページと、チームJAPAN企画用に、為末選手の考え方を聞きたかったのです。場合によっては、選手として取材をするのは最後になるかもしれない。それに、取材に入る直前に気づきました。12年間にも及ぶ同選手への取材が最後になる。
 気づきましたが、極力、それは意識しないようにしました。取材をする上では、そういった意識は邪魔になると考えたからですが、本音をいえば、「これが最後」という気持ちで人と接するのが苦手なのです。この後二度と会えない、とかいうシチュエーションは嫌ですね。
 ですから、必要な話を聞いて、パパッと切り上げました。いつもと同じように。


◆2008年9月6日(土)
 陸マガの北京五輪関係記事を書き終えました。締め切りを守れたかどうか、という議論は脇に置きまして(2段階めの設定は守りました)。最後は長距離企画の200行でしたが、これは比較的スムーズに書けました。長距離関係者がしっかりと取材に答えてくれたというか、問題提起をしてくれました。締めは書き手があれこれこねくり回さずとも、関係者の意見を列挙するだけで、記事としては良い終わり方になったのです。
 時間がかかったのがチームJAPAN企画(総括原稿)の300行。これは、本当に大変でした。まず、原稿を書き始める直前に、男子ハンマー投のベラルーシ2選手のドーピング違反が発覚。室伏広治選手の銅メダルが濃厚になったのです。
 アテネ五輪でも室伏選手は、アヌシュ(ハンガリー)の検査拒否で繰り上げという形の金メダルでした。このときは、マラソン以外の金メダルは戦後初、投てき種目は史上初という快挙で、我々の注意はそちらに行って、「やったぞ」、という気持ちが強かったと思います。その点今回は、室伏選手の銅メダルは嬉しいものの、「なんなんだよ」という気持ちの方が大きかった。これは、新聞記事に出ている関係者のコメントを見ても、陸上界、あるいは世間全体の受け止め方だったと思われます。

 まあ、そういった感想は置いておきまして、違ってくるのは日本選手団の評価の部分です。「メダル1、入賞2」だったものが、「メダル2、入賞1」になるのです。そのメダル2個も、マラソン以外の「メダル2」という点が評価できます。これまで、日本が複数メダルを取ってきたのは、マラソンで2個(バルセロナ五輪)か、マラソンと一般種目で2個(アテネ五輪)というケース。一般種目の2個は、戦前のベルリン大会(1936年)が最後です。当時の参加国の数、選手層などを考えたら、今回の2個がどれだけすごいことか。
 ということで、チームJAPANの原稿が“惨敗”という書き出しができなくなりました。元から、書き出しは“惨敗”でも、高橋編集長の用意したデータで、全体としてはそうでもないですよ、でも、こんな問題点がありますよ、という展開になる予定でした。
 でも、元々、原稿の一番のアピールポイントは“こんな問題点がありますよ”の方でしたから、そちらに影響があったわけではありません。具体的にいえば“8位以内が3”だったことこそ、今の日本の最大の問題点です。つまり、伝統的な得点源である長距離・マラソン種目で入賞できず、期待された男子400 mHと末續世代も同じく入賞できなかった。その問題点を書くのにめちゃくちゃ時間がかかりました。
 実は末續世代、長距離企画、400 mH企画と独立したページの原稿も書いています。そこでは、個々の事情を書いていて、そこから問題点を抽出する形でチームJAPAN記事で日本チーム全体の問題点として指摘しています。

 記事が面白いかどうかは、読者の判断に委ねることになりますが、何はともあれ、一仕事終えた感じでホッとしています。現地取材はほとんどできませんでしたが、今できることはやったというか。といっても、次の大きな仕事の締め切りも迫っています。


◆2008年9月11日(木)
 充実した1日でした。
 まずは9:30に汐留に。今年、よく行きますね、汐留。富士通の選手が頑張っているからでしょう。誰の取材だったのかは明かせませんが、短時間ながら面白い話を聞くことができました。
 そういえば書き忘れていました。先月の富士通帰朝報告会のときに続いて今日も、藤巻理奈さんにお会いしました。東京以外にお住まいの方はわからないかもしれませんが、汐留は新興のビジネス地区。時代の先端を行く企業がこぞってオフィスを構えています(陸上関係では富士通や日本テレビ、共同通信など)……まあ、そういことです。何を言いたいかは、文字にしなくてもいいでしょう。
 取材終了後、選手とI広報(女性)と一緒に地下の書店に。「夏から夏へ」(佐藤多佳子著・集英社)を購入しました。皆さんご存じかと思いますが、男子4×100 mRチームのノンフィクションです。昨年の大阪世界選手権から、北京五輪前までが描かれているようです。そこで取り上げられた選手が一緒にいたからではなくて、是非読んでみたかったからです。資料的な価値もある、という判断もありましたけど。その書店は電子マネーのEdyも使えましたし(ポイントがたまります)。

 寄り道はしないで作業部屋に帰り…はしませんでした。11:30頃まで、汐留のカフェで原稿書き。出先のカフェでパソコンを広げるのはもう、寺田にとってはルーチンワークみたいなもの(と、佐藤敏信監督も認識してくれています)。仕事効率が明らかに上がります。コーヒー代くらいは、AMAZONと楽天のアフィリエイトで稼いでいますから。ということで皆さん、ホテルは左の楽天トラベルのロゴをクリックして予約してください。それが寺田のカフェ代になり、仕事効率が上がり、そうすると、このサイトに書く記事も多くなるはずですから。
 12:30に作業部屋に戻り、14時過ぎに新しいコピー機が届きました。北京五輪前から、前のコピー機の調子がおかしくなっていました。白い斑点が出て、その部分は文字が読めません。選手がケガをしていることを秘匿するように、寺田もこの事実を書きませんでした(一緒にする理由はまったくありませんが)。
 帰国してしばらくしてその症状に我慢ができなくなり(当たり前ですが)、購入した店のサービスマンを呼んだところ、修理をすると10万円近くかかることが判明。買い換える決断をしました。10万円ちょっとで購入した中古機ですが、2年5カ月しかもちませんでした。保守サービス契約をしておけば無償修理となるのですが、まさか2年半で壊れるとは思っていませんでしたから。

 新しいコピー機は17万円。最初のトナー(兼保守契約代)は4万円。この額を個人事業主が出すのは、かなりきついです。でも、コピー機なしでは仕事になりません。こういうとき、組織はいいなあ、といつも思います。でも、これが自分で選択した道ですから、仕方ありません。洗濯も自分でしていますが…と書いてあるのは忘れてください。
 高額の買い物ですから、機種選定にはかなりの時間をかけました。最初は12万円でコピー・FAX・プリンタ機能の中古複合機を購入するつもりでした。以前の機種はコピーとFAXだけでしたから、1つくらい機能を増やさないと面白くないかな、と。プリンタはインクジェット式を使っていますが、このインク代がけっこう高いのです。家庭で使う分にはいいのでしょうが、寺田のように個人事業主が業務で使うと、2〜3カ月に1回はインクを買います。そのインク代が6000円弱。馬鹿になりませんでした。コピー機にプリンタ機能が付けば、絶対にコストパフォーマンスが良くなります。
 9割方それに決めていたのですが、16万円くらいでスキャナー機能がつくものがありました。それはネットワークを介してパソコンにデータを送ります。コピー作業とさして変わらない手間で、紙にコピーをするのでなく、PDFファイルなどデジタルデータ化ができるのです。この機能を上手く使って資料を蓄積すれば、海外取材の際にスーツケースに資料を詰め込まなくて済むようになるかもしれません。そうなれば、オーバーウエイト追徴料金で戦々恐々とすることもなくなります。まあ、そう簡単にはいくとは思いませんけど。
 さらに1万円を出せば、USB接続の機種がありました。パソコンとの接続や諸設定は、USB接続の方が楽に決まっていますし、保守契約がトナー式(トナーが切れるまで、保守契約も続く)というのも、寺田くらいのコピー・プリント枚数なら有利だと判断。色々と考えた結果、17万円のUSB接続の機種にしました。

 15時に電話取材を1本しました。これも何の仕事なのかは明かせませんが、午前中の取材と関連があります。面白い話を聞くことができました。取材中に“この言葉は絶対に使える”、という言葉を、その選手が使ってくれました。取材中にそこまで明瞭に、感じることはそれほど多くありませんし、そうと決められると原稿を書くときは楽になりますね。そういった電話取材でした。

 夜は新宿駅で、陸マガ・高橋編集長から10月号を受け取りました。「締め切りを守ってくださいね」と編集長が言えば、「やっかいな記事ばかり押しつけるなよ」と寺田。本当はちゃんと反省しましたが、10月号は本当に大変でした。以前も書いたと思いますが、数カ月してから出すような記事を、直後に書いたのですから。コメントを中心に紹介すればいい記事を書いてみたいな、と思う今日この頃です。
 10月号の表紙はもちろん、北京五輪の4×100 mRの4選手。だいたい、リレーメンバー4人が写真に収まるときは、1走から順に並んでいるものです。実際、メダルセレモニーの表彰台はその順ですし、空港で撮影した4人の写真も、走順に並んでいます。インターハイなどの写真も、必ずそうなっていると思います。カメラマンも走順に、という注文を付けますし、選手たちもそれが当たり前の感覚になっているのでしょう。
 それが10月号の表紙は、左から塚原選手・末續選手・朝原選手・高平選手の順に並んでいます。さすがに走順を意識してウイニングランをしたりはしませんよね。もしもカメラマンが「走順に並んでください」という注文を付けたらKYでしょう(山本一喜選手のことではありません)。


◆2008年9月12日(金)
 今日も複数の取材をこなしました。
 13:30から岸記念体育会館でスーパー陸上の記者発表。主催者から出場選手の発表があり、その後に朝原宣治選手の会見です。このところ、同選手が公の場に姿を現す機会が多く、どの記者も“通常ネタ”は十分と考えていたのでしょう。会見では質問が続きません。だったら寺田がと、9秒台について質問しました。大阪で行った引退表明会見時に、スーパー陸上で9秒台を狙うと話したと報道されていました。そこを、どのくらいの気持ちの強さで狙うのか、詳しく聞きたかったのです。
「話の流れとして、ファイナリストの目標がかなわなかったというのがあって、9秒台もかないませんでしたね、という質問のされ方だったので、それはチャンスが残っていると言ったんです。条件さえ揃えば4人全員にチャンスはあると。9秒台が出てやめたらカッコ良いな、というのもあります。それほど深い考えはなく言いました」
 解説はしません。読んだ方が判断してください。

 多くの記者は“囲みネタ”に賭けていたようです。フォトセッション後の出足がちょっと遅れましたが、寺田も囲み取材に合流。スーパー陸上前に合宿をすることや、他のリレーメンバーとの最近のやりとりなどが話題に。しかし、一番の話題は北京で朝原選手が放り投げたバトンの行方について。一部報道で朝原選手が他のメンバーからヒンシュクを買った、というものがありましたが、これは誰かが冗談で言ったのだと思います。元から、バトンは持ち帰れるものではありません。
 しかし、メンバーの気持ちを汲んだ関係筋が申し入れをしたところ、北京五輪実行委員会なのか北京市陸協なのか、先方も探してくれたようで、入手できるメドが立っているようです。もしもスーパー陸上に間に合ったら、すごい話題になるのではないでしょうか?
 スーパー陸上に間に合う、間に合わないは別にして、バトンが入手できた場合、最終的に誰の手元に置くことになるのか、ということが話題に。スーパー陸上でトップを取った者が持つという案が出て、いくつかの新聞もそのネタを記事にしていました。記事にはなりませんでしたが、4つに分断して“友情のメダル”ならぬ“友情のバトン”にしたらいいじゃないか、という案を日刊スポーツ・佐々木一郎記者が出していました。
 “友情のメダル”はご存じのように、1936年ベルリン五輪棒高跳2・3位の西田選手と大江選手が、それぞれのメダルを2つに分断し、相手のメダルとつなぎ合わせて持つようにした美談です。佐々木記者は縦に4つに割ったらどうか、と話していましたが、寺田は横に4分割する方が良いと思っています。やっぱり、アンダーハンドですから。バトンを持つ位置が少しずつ上にずれていって、走者によって持つ位置がだいたい決まっているわけです。
 問題は4つに等分すると、実際に持つ位置と微妙に(かなり?)ずれてしまう点ですが…。期間を決めて持ち回りにするのが現実的な方法でしょうか?

 記者会見のあとは、同じ岸記念体育会館内で別の取材。昨日からの一連の取材です。短時間でしたが、ポイントを抑える良い取材だったと思います。

 岸記念体育会館を後にして国立競技場へ。場所的には近くていいのですが、「なぜに日本インカレをやっている真っ最中にスーパー陸上の会見をするのか?」という素朴かつ、腹立たしい疑問が残ります。確かに、会見の間に行われていた種目で、すごい記録が出る可能性は小さかったのですが…。日本インカレは日本学連、スーパー陸上は日本陸連と主催団体が違うのは重々承知していますし、主催者も好きこのんで同じ日にしたのではないと思いますが。
 到着したのは男子1万mWの途中。競歩は途中から見ると先頭がわかりにくいのでつらいですね。長距離の場合はトップと周回遅れでは明らかにスピードが違います。その点、競歩はスピードの差がわかりにくい。通告も、途中から見始めた人間のことを考えて通告してくれるはずもありません。というか、国立競技場の音響は聞きとりづらい。有力選手でアタリをつけるしかありませんでした。
 寺田は今回、女子種目の担当です。いない間にやり投で江島成美選手(中京大3年)が優勝しています。記録も54m39と悪くありません。江島選手は2年前の円盤投チャンピオン。これは、取材が必要でしょう。

 男女の400 mは対照的でした。最初に行われた女子は、北京五輪代表だった青木沙弥佳選手(福島大)が田中千智選手(福岡大)に敗れ、男子は北京五輪代表の金丸祐三選手(法大)と安孫子充裕(筑波大)がワンツー。女子は53秒47の学生歴代4位タイで走った田中選手がよかったと言うべきでしょうか。
 敗れた青木選手は「色々な原因があると思いますが、最近1日1本という試合が続いていたので、朝の4×100 mRから1日3本にしっかり対応できなかったのかもしれません。去年より戦力が落ちたチーム状態で、どうしても勝たなきゃ、勝たなきゃという意識が強すぎたのかもしれません」と、冷静に話してくれました。
 男子は安孫子選手が前半をぶっ飛ばしました。「200 mを20秒7〜8で通過したことがあります。48秒台でしたが」というのは極端にしても、21秒台前半で200 mを通過します。今日はそこまでは出ていませんでしたが、金丸選手をはっきりとリードしていました。しかし、金丸選手が200〜300 mで差を詰め、最後の直線で前に出ました。46秒41の優勝タイムは良くありませんが、故障の多かった今季の流れを考えると、前半をやや抑えた走りでもきっちりと勝った金丸選手は評価できます。

 上手く時間が合ったので、男子400 mで3位の大島勇樹選手(九州情報大)の話を聞くことができました。砲丸投前日本記録保持者の野口安忠氏が監督を務める大学です。話を聞いていると大島選手が、野口監督のことを信頼しきっていることが伝わってきました。専門種目が違いますし、大学レベルですし、メンタル的な指導が合っているのかな、と最初は予測しましたが、純粋に練習メニューや戦術面の部分でも信頼しているようなのです。
「最初の頃は投てきの監督だと思っていましたが、僕らが知らないところで情報を仕入れていらっしゃりました。なんでこの人が、ここまでのメニューを組めるんだ、って。井上さんや田端さんたちに、色々と相談をされていたんです」
 井上悟氏は100 mの元日本記録保持者で、田端健児先生は400 mのオリンピック選手。ともに、野口監督の日大の先輩である。日大ネットワークが九州情報大の躍進を支えたわけです。とはいえ、最後の詰めは、直接指導する野口監督が工夫をしなければいけなかったはず。その辺の取材をする機会があったら、面白い話が聞けるかも。

 この日の最終種目は男子ハンマー投。予選を代々木公園陸上競技場で同じ日に行ったこともあり、18:15の開始。他の種目と重ならないので取材はしやすいのですが、締めきりのある新聞社・通信社は大変そうでした。そこまでするのですから結果が出てほしいところ。遠藤彰選手が期待に応え、67m55の好記録をマークしてくれました。これは、川田先生の持つ関東学生記録を5cm上回ります。ただ、遠藤選手は院生のため、関東学生記録にはならず、関東学生大学院記録となるのだそうです。でも、学生歴代順位は3位とカウントします。歴代順位は主催団体が公認するものではなく、集計する側(陸マガとか)の判断です。
 2位も国武大の横野哲郎選手。国武大のワンツーが過去にあったのかどうかを岩壁先生に聞くと、この2人が初めてだと言います。昨年に続いて。ということで、写真を紹介させていただきます。


◆2008年9月20日(土)
 某広告代理店の人物と12時から渋谷で会食。広告代理店といっても、某世界選手権を仕切ったD社ではありません。ではありませんが、女性です。約2時間、面白い話を聞かせてもらいました。広告業界の話題はもちろん、セビリア世界選手権を観戦したときの朝原選手の話とか。引退レースを控えて(朝原選手の原稿執筆にも)、参考になりました。

 一度作業部屋に戻ってトイレ掃除とちょっと原稿書きをした後、鴻巣ナイターの取材に向かいました。絹川選手の復帰レースというだけでなく、有力高校生や日清食品の選手も出場すると聞いていましたから。抱えている原稿もそれほど多くないので…というのは関係ありません。
 到着するとM島ディレクター(女性)とM田記者が、いつもの鋭い視線でフィニッシュ地点付近に立っています。エドモントン世界選手権以来、国際大会では必ず目にするコンビです。ローカル大会取材の気分はぶっ飛びました。埼玉陸協の報道対応も本格的。報道受付をすると記者ビブを渡され、控え室まで案内してもらいました。絹川選手のレース後のインタビュー位置まで決まっていました。

 女子3000mのスタート位置に歩いていくと途中、佐久長聖高の両角速先生が専門誌ライターたちと話をされています。近くには高見澤勝先生の姿も。握手の手をさしのべて、遅ればせながら北海道マラソン優勝を祝福しました。ただ、本人も言っているように本職は佐久長聖高のコーチ。今日は村澤明伸選手をはじめ、同高の主力もエントリーしています。話したいネタもありましたが、それはまたの機会にすることに。
 そのとき、某専門誌のO村ライターが「今年は見馴れない方が多いですね。僕は(鴻巣に)毎年来ていますけど」と話しかけてきました。寺田の鴻巣取材は2回目。北京五輪でストップウォッチをドンピシャで止めた寺田が、現地に来ていないO村ライターに対し一方的に勝利宣言をしました。その意趣返しであるのは明らかです。この辺は宿命のライバル同士。O村ライターのいきなりの勝利宣言で、取材への緊張感がさらに高まりました。

 3000mのスタート地点に行くと、ミズノ関係者の姿も。絹川選手を指導する渡辺高夫コーチも加わって、北京五輪のワンジル選手の話題になりました(寺田は渡辺コーチの埼玉栄高監督時代のネタに振ろうとしたのですが)。ワンジル選手も仙台育英高OBで渡辺コーチの教え子です。こちらに記事にした絹川選手の復帰過程とも関連する部分もありますが、示唆に富む内容だったので、いつか紹介できればと思います。
 肝心の絹川選手ですが、さすがに緊張の色は隠せません。スタートラインに着いたときはこの表情。しかし、ピストルと同時に飛び出すと、馬目綾選手の欠場したこともあって、あとは無人の野を行くがごとし。スタート地点で撮影とラップ計測をしていたので見ることはできませんでしたが、満面の笑みでフィニッシュしたそうです。
 トラックの外を半周回ってフィニッシュ地点に行くと、すでに囲み取材が始まっていました。やばい、と思いましたが表彰後にもインタビューできると聞いていたので、慌てないですみました。こちらの記事にある「パズルのピース」の話をしていたようですが、絹川選手の絶妙な例え方も健在でした。今年陸上競技担当に復帰し、絹川選手を初めて取材する日刊スポーツ・佐々木記者はビックリしていました。
 絹川選手にはブログへのリンク許可もいただきました。これも、とても10代の選手が書いているとは思えない筆力。負けそうです。
 佐々木記者といえば自社共催のスーパー陸上を3日後に控えています。先ほどO村ライターの勝利宣言で鴻巣ナイター取材に対する緊張感・集中力が高まった寺田ですが、陸上界全体に対する視野も忘れてはいません。昨年のスーパー陸上が強い雨が降って散々な大会になったことを思い出し、てるてる坊主を作っているのか佐々木記者に確認。「任せてください」と同記者。どうやら天気には自信があるようです。

 絹川選手と渡辺コーチの取材が終わると、ちょうど女子5000mの一番強い組がスタートしたところ。加納由理選手(セカンドウィンドAC)が格の違いを見せつけて独走しています(写真。後方は周回遅れの選手)。渡辺コーチは2年生の土田真由美選手(仙台育英高・写真)に注目しろと言います。絹川選手タイプで、ポイント練習を多くこなすことはできなくても、高い能力で走れるタイプだと言います。将来的には日本代表も可能な素材だと(本当はもっと高いレベルを話していました)。
 レース後はM島ディレクターが加納選手を取材していたので便乗させていただきました。続いて佐々木記者も取材をするというので、さらに便乗取材。緊張感が本当にあるのか疑われてしまいますが、記事を絶対にこの媒体に書く、という予定がないときはどうしても控えめになります。
 加納選手が東京国際女子マラソン出場を表明しているので、朝日系列のメディアは取材に積極的なのです。ただ、寺田も最後の東京国際女子マラソンには力を入れようと思っているので、チャンスは逃さずに便乗取材をしているわけです。便乗というと言葉は悪いのですが、情熱あればこその便乗だと解釈してください。

 加納選手の話を聞いている間に、男子5000mの一番強い組がスタート。日清食品勢と村澤選手が出場しているので、目はレースを追いながら、佐々木記者と加納選手が話をするのを横で聞いていました。でも、どちらかに気を奪われてしまうこともあります。徳本一善選手1人がゲディオン選手についていたのですが、ちょっと目を離した間に後退していました。徳本選手だけでなく、合宿明けの日清食品勢は全体に走れていませんでした。
 最後は男子1万m。佐久長聖高勢と仙台育英高・上野渉選手が交替でレースを引っ張り(写真)、最後は上野選手が抜け出しました。上野選手が1万mでもきっちりと走れることを見せたのは、今年から高校駅伝1区に留学生選手を起用できないことを考えると、大収穫だったのでは?
 それよりも、恐るべきは佐久長聖高勢。エースの村澤選手は国体の1万mに出場するため5000mに回りましたが、4選手が29分台でフィニッシュしたのです。これまで鴻巣では5000mに出ることが多かったのですが、日体大競技会などを含めても、同一レースで4人が29分台だったことはなかったと言います。
「昨年、2時間3分台でも駅伝を勝つことができませんでした。その上を目指すとなると、スピードもスタミナも、いっそう必要になってきます。そうすると1万mも走れないといけなくなるわけです」
 と両角速先生。
 特筆すべきは2位になった佐々木寛之選手。頸骨の疲労骨折が判明し、世界クロスカントリー選手権以来、半年ぶりのレース出場だといいます。集団が4人になったときに遅れましたが、6000m過ぎで追いつき、終盤では自ら仕掛ける場面もありました。
 名門校の場合、練習を休んだ選手は、その間に相当量の練習をする同僚選手たちを近くで見ることになります。不安を持つのが当たり前ですが、以前に実績のある選手はプライドなのか、指導者が不安を持たせないような指導をするのか、復活してくることも多く見受けます。西脇工高の福士選手もそうですよね。


◆2008年9月21日(日)
 終日、多摩市の自宅近辺で過ごしました。仕事もしましたけど、休日モードに近かったと思います。
 今日のニュースはボルト選手(ジャマイカ)の来日が決定したこと。なんでスーパー陸上2日前というタイミングで決定したのか。朝原宣治選手の引退試合に花を添えるため、関係者が招聘の方向で努力をして、やっと合意を得られたということでしょうか。
 朝原選手の最後を、ボルトで締めようという洒落ではないと思いますが、99年に手術をしたとき、ボルトをしばらく足首(だったかな?)に入れていたことが朝原選手にはあります。そのことを覚えていた関係者がいたのでしょう、きっと。

 間に合うかどうか関係者をやきもきさせていたのは、北京五輪で朝原選手が放り投げたバトンの行方です。これがスーパー陸上で選手の手に渡されれば話題になるのですが、ちょっと間に合いそうにない、という情報も入ってきました。


◆2008年9月22日(月)
 早めに新宿の作業部屋に移動して仕事。14時から電話取材を約30分。
 すぐに川崎の日航ホテルに移動。16時からのスーパー陸上前日会見に備えました。
 ところが、室伏広治選手が風邪のため出席できなくなり、最初に行われる予定だった同選手とコズムス選手の会見が中止になりました。ハンマー投コンビが先に行われ、フォトセッションをはさんで4×100 mRメンバー4人の会見という段取りでした。
 例年と比べ、前日会見に呼んでいる選手の数が少ないのは、今年の目玉がその2つだけということでしょう。専門誌記者の立場からすると、もう少し話を聞きたい選手もいるのですが、そうすると選手個々の話す時間が短くなります。大会の性格を考えると、一般メディア優先です。

 会見前に少し時間ができたので、情報を集めました。ボルト選手の招聘はスーパー陸上関係者というよりも、テレビ局が独自に行なったとようです。それにスーパー陸上側が相乗りして、イベントに協力してもらうことになったようです。ギャラの支払い比率などはわかりません。
 外国人選手で大物選手の欠場は、走高跳のトーンブラド選手くらい。日本選手では藤光謙司選手と桝見咲智子選手が欠場。来年のベルリン世界選手権を目指すべき2人なので、こちらはちょっと残念。

 4×100 mRメンバーの会見の模様は、こちらに記事にしました。
 塚原選手が「引退ではなく“勇退”」と話しています。これは大会プログラムの記事で末續慎吾選手も使っている言葉です。ただ、やめていく当事者自らが“勇退する”とは言ってはいけません。あくまで、周囲が使う言葉なのです。
 引退というと“力が衰えてやめていく”という印象があるのに対し、勇退は“まだ頑張れば続けられるが、色々な状況を考えて自ら退く”というニュアンスです。スポーツ選手で勇退というケースはほとんどなく、政治家などによく使われます。スポーツでは指導者などに使われますね。
 スーパー陸上で4人が一緒に走ることは、北京五輪決勝翌日の会見で朝原選手が言い出したことですが、実は事前にスーパー陸上で勝負をしたい、という話は選手間で出ていたそうです。北京でバトン合わせと一緒にネタ合わせもしていたと、誰かが言っていました(寺田がそういって、同意してくれただけかもしれません)。
 “勇退”という言葉を使うことも、選手間でネタ合わせが行われていたようです。言い出しは次期リーダーの末續選手でしょうか? 「走るのはやめるけど、朝原さんの陸上競技に対する気持ちは残っていく。だから引退ではなく勇退なんです」と、話していました。いや、プログラムの記事に書いてありました。

 高平慎士選手が着順予想をしていて、「鼻差で朝原さんが勝つと思う」と言ったのはもちろん、競馬と朝原選手の鼻の大きさにひっかけた洒落です。寺田が「※ルールでは鼻差は判定されない。あくまでトルソー(胴体)の先着」と注釈を付けたのも、もちろんユーモアです。書くまでもないことですが。
 寺田の着順予想では1着は塚原選手。日本選手間の連勝記録が伸びると思います。
 ただ、100 mに出場する外国人選手は微妙に強いですね。1人は今年の全米選手権7位で、もう1人は06年の世界ジュニア優勝者。シーズンベストは10秒06と10秒10。日本選手を微妙に大きく上回っています。今年に限ればボルト、ゲイ、パウエル以外だったら呼ばない方が良い。大会関係者にもそう申し上げていました。
 しかし、これは寺田の推測ですが、外国人選手を呼ぶにはどうしてもエージェントが窓口になり、呼びたくない選手も押しつけられてしまうのでしょう。「金を払ってでもやめさせるべきだ」という強硬論も、一部記者たちからあがっていましたが。

 末續選手は大人しめの発言に終始していました。主役が朝原選手で、若手2人が盛り上げ役だったので、そういう感じになってしまったのかもしれません。ただ、大人しめの発言だからこそ、強い気持ちで臨むのだと伝わってきました。


◆2008年9月23日(火・祝)
 スーパー陸上取材ですが、午前中のイベントやボルト選手の会見はパス。ぎりぎりまで、作業部屋で原稿を書いてから等々力に移動しました。
 今月というか、9月10日から10月10日までの1カ月間を見たとき、大会取材がものすごく多いのです。日本インカレ3日間、鴻巣ナイター1日、スーパー陸上1日、全日本実業団3日間、大分国体5日間。合計で13日間です。国体は移動だけで1日はつぶれます。抱えている原稿はそれほど多くないのに、書くのにあてる時間が極端に少ないのです。

 ということで、試合開始の14:30ちょうどに等々力競技場に到着。会場レイアウトは日本選手権のときとほぼ一緒ですが、動線は取材しやすくなっていましたし、LANは無線でなく有線に(それもかなりの数)。動線が変わっていたので記者席への通路を、共催の日刊スポーツ・佐々木記者に聞くと、ボルト選手の弓矢ポーズをとって方向を教えてくれました。格好良かったかどうかは、聞かないでください。
 ちょっとビックリしたのはトラックの近さ。レーンの外側に砂場のあるレイアウトにもかかわらず、スタンドからトラックまでの距離が近いのです。これは見やすい。北京五輪の鳥の巣のように、巨大スタジアムではありませんが、陸上競技には2万人くらいの中規模スタジアムがちょうど良いでしょう。

 見やすいのは良いのですが、肝心の記録が…。ホームストレートが向かい風になるのが等々力の欠点です。だったらバックストレートが追い風で、400 mと400 mHでは記録が出やすくなるのですが、今日は周回種目も低調でした。昨年は記録が出なくて当然という大雨でしたが、今年は何が理由だったのでしょうか? オリンピック後だから?
 というよりも、陸マガ10月号で分析したように、日本のトップレベルが全体的に、勢いがなかったり、力が落ちているのだと思います。今から考えれば昨年の日本選手権あたりから、その雰囲気はありました。そのときの記事を読み返すと、良い方に解釈しようとしている跡が見られますが…。年齢的には大丈夫のはずの世代も、今大会はケガや体調不良の影響でだめでした。

 しかし、です。陸マガ10月号で高橋編集長が試みたシーズンベスト(以下SB)の順位と、その大会での順位を比較する方法では、スーパー陸上もだいたいがSBの順位でした。SBの差が小さい場合に入れ替わるケースはありましたが、番狂わせ的に変わったケースはごくわずか。
 男子100 mもSBでは外国人選手が1・2位(だから、呼ばない方が良かった)。400 mHの成迫健児選手、走高跳の醍醐直幸選手、棒高跳の澤野大地選手という世界レベルの選手が今ひとつだった印象がありますが、順位的に2位というのは、SBと同じで順当な結果。女子100 mで福島千里選手が黒人選手相手に優勝してすごいと思いましたが、SBでは1位でした(黒人2選手はハードルが専門で急きょ出場)。
 その見方をした場合、健闘したのが女子走幅跳の池田久美子選手。6m45で、優勝したレベデワ選手とは36cm差の2位ですが、SBでは4番目でした。上の記録の選手を2人も破ったわけです。走幅跳の記録は全員が、自己記録から30〜50cmも悪かった。オリンピック後という理由だけではなく、記録を抑えてしまう何かがあったのかもしれません。

 スーパー陸上が盛り上がらなかったのは、見る側の意識にも原因がありました。ホームの有利さがあるのだからSBが上の選手に勝ってほしい、秋のメインイベントだからピークも合わせて好記録を出してほしい、と期待してしまうわけです。
 ただ、一歩譲ってそういう分析ができると理解しても、以前はもう少し好記録が生まれて盛り上がったではないか、と思ってしまうわけです。それに対しては、陸上競技が成熟してきた、という見方をすることができます。先ほど書いたように、勢いがなくなってきている、力が落ちている、ということだと思います。インターハイがそうなったきているように、毎年、ほとんどの種目が盛り上がるという時代は過ぎました。

 そんななかで光っていたのが室伏広治選手。81m02ですからね。SBでは3番目でした。上位2選手との差はわずかでしたが、きっちりとひっくり返したあたりは流石です。記録が良ければ勝ちますしね。勝ったから記録が良かった、という見方は室伏選手の場合は当てはまりません。今さら理由は書きませんが。MVPがあれば間違いなく室伏選手でした。

 今大会で“光を当てられた”選手もいました。男子砲丸投で日本人トップの3位となった大橋忠司選手です。今大会の記録は17m31で、7月のトワイライト・ゲームスで出した17m84には届きませんでしたが、166cmの身長でそのレベルの記録を投げることがいかにすごいかが、データ面からはっきりしたのです。
 JAAF Statistics Informationsが以下のデータを提供してくれました。
<男子砲丸投/身長の低い選手の世界歴代リスト>
記録 選手 生年月日 身長-体重 成績 場所 月日
1 17,84 Ohashi Tadashi 21.07.1983 166-110 JPN 1 Tokyo 25.Jul 2008
2 16,20i Rodriguez Trey 20.02.1988 168- 84 USA 3 Houston 9.Feb 2008
15,94 1 Houston 18.Apr 2008
3 18,78 Singh Balwinder 05.12.1958 170-108 IND 1 Patiala 14.Sep 1983
4 18,33 Garcia Nick 27.04.1979 170-113 USA 1 Los Gatos 27.Jul 2006
5 16,75 Ferrara Chris 21.05.1980 170- 82 USA 1 Chelmsford 12.Jul 2003
6 16,61 Said Khalil Ali Ahmed 10.03.1986 170- 89 KUW 2 Al Kuwait 16.May 2004
7 16,56 Hernandez Erik 14.03.1987 170- 97 USA 2 Lisle 21.Apr 2007
8 16,14 Watanami Ichiro 02.06.1939 170- 83 JPN Tokyo 15.Oct 1965
9 16,38 Berta Emilio 20.06.1942 172- 82 ITA 1 Torino 26.Jul 1972
10 16,15 Fujimoto Kazuhiko 12.03.1973 172- 86 JPN 2 Tokyo 11.Sep 1994
 説明は不用でしょう。身長の高い選手が有利というのはことあるごとに聞かされていましたが、ここまでとは。背の小さい選手はやろうとしないという背景もあるのでしょうが、だったらなおのこと、そういう不利な種目で頑張るのはすごいと思います。

 最後にちょっと。タイムテーブルの組み方が良くありませんでした。ハンマー投で逆転優勝が決まったとき、寺田は醍醐直幸選手の取材をしていました。昨年までと違ってミックスドゾーンにテレビモニターがあったので助かりましたが、そのあたりの時間は池田選手、澤野大地選手、成迫健児選手が続いて引き揚げてきました。そして、室伏広治選手のインタビュー中に女子100 mが行われました。続いて男子100 m。
 インタビューで競技を見られないのは陸上競技取材の宿命ですが、イベント的にも価値の高い種目が重なっていたということです。その分、見る側も集中する種目が散らばりがち。大物選手はつまみ食い的に見ることはできるかもしれません。でも、勝負の展開などをじっくり堪能できたのでしょうか?
 盛り上がりという点でも、記録が出なかったこともあり、大会の前半は会場の雰囲気がいまひとつ。最後の男子100 mで盛り上がるのは間違いないところなので、ハンマー投の勝敗が決する時間を最後の方に持ってくる必要はなかったと思います。最初に持ってくれば良かったのではないでしょうか。大会関係者にも伝えておきました。

 朝原選手の引退レースである100 mは、1回フライングがあったおかげでスタンドまで移動して見ることができましたが、見る前に集中する時間がとれなかったのが残念。それは仕方ありません。レース後のセレモニーも取材モードで見てしまって、なかなか入れ込めませんでした。周りの人たちやネットの意見では、感動したというものが多かったので、成功だったと思います。
 ただ、野村智宏選手がブログで紹介しているように、周囲を取り巻くカメラマンの数が多かったですね。ずっとついていましたから。スタンドから見たら若干、引いてしまうかもしれません。撮影エリアを限定したほうが良かったと思いますが、こういうことは運営側もそれほど経験がありません。盛り上がり方を読み切れなかったということです。次回は大丈夫でしょう。


◆2008年9月26日(金)
「ぴよぴよ、ぴよぴよ」
 いきなり雛鳥の声が鳴り響きました。場所は山形県天童の陸上競技場に向かうバスの中。全日本実業団1日目の取材に向かっているときでした。
 鋭い読者はピンと来たと思いますが、寺田が北京五輪を観戦しに鳥の巣競技場に入場する際、手で雛鳥の振りまでつけて声に出したのが、この「ぴよぴよ、ぴよぴよ」でした。M社のK藤さんに言われてやりました。まったくウケませんでしたが。
 今日の「ぴよぴよ、ぴよぴよ」は、そのK藤さんの携帯電話が鳴る音でした。ここまで徹底しているとは。日本の営業マンで五指に入ると言われているのは伊達ではありません(佐藤です、とか書かない方がいいでしょう)。
 当然、北京の話題で盛り上がりました。

 もう1つ盛り上がったというか、寺田が勝手にしゃべっていたのが1992年の山形国体(べにばな国体)の話題。この国体は“ミズノ国体”と呼んでもいい大会だったのです。
 ざっと紹介すると、成年男子ハンマー投で等々力信弘さん(現陸上営業チームの主要スタッフ)が優勝。女子400 mHでは長谷川順子さん(現MTCマネジャー)が、2位に2秒近い大差で圧勝。走高跳ではその年のバルセロナ五輪で7位に入賞した佐藤恵さんが優勝。日本のトップ選手が集まったチームですから当然といえば当然かもしれませんが、その後、ミズノに入社する選手も多く出場していました。
 成年B200 mで大森盛一さんが2位。少年Aでは男子400 mで田端健児先生が優勝し。走幅跳では渡辺大輔さんが優勝し、田川茂さん(現営業チーム若手ホープ)が2位。成田高3年生だった室伏広治選手が2位、と書くとビックリされるかもしれませんが、種目は少年共通やり投でした。女子では少年A400 mで柿沼和恵さんが優勝、少年B200 mでは当時中学3年生の信岡沙希重選手が4位、共通走高跳で今井美希さんが2位。
 これってすごくないですか?

 全日本実業団初日の種目は男女の1万mだけですが、全部で5組行われました。すでにご存じかと思いますが、北海道から東北はいきなり寒くなりました。19時の気温は13.6℃。雨もかなり降っていました。東京は30℃近かったようです。高岡寿成選手は20kmを***で走ったと伊藤国光監督が教えてくれました。取材としてではなく、世間話中に聞いた記録なので、ここでは伏せておきます。次のマラソンはまだ決まっていないとのこと。
 この日の質問傾向は、次のマラソンは何か?
 原裕美子選手は名古屋の後、今大会が初レースかと思ったらホクレンの釧路大会に出ていたとのこと。マラソンは大阪を希望しているそうです。決定というわけではありませんが。日本人トップの大南博美選手も大阪。福士加代子選手は取材していませんが、たぶん、まだ決めていないのではないでしょうか。マラソンに出場するかどうかを。

 男子の注目は旭化成勢。岩井勇輝選手が日本人2位に入りました。故障の多かった同選手が今季は、試合に続けて出ているので、その背景を山本佑樹コーチに話を聞きました。やっぱり、それなりの努力をしているようです。
 マラソン出場は過去2冬、ケガで実現していません。宗猛監督によると「まだポイント練習の4回に1回はできなくなる。オリンピック前なら一か八かで出るが、じっくりと持って行った方が無難かもしれない。10〜11月の練習が上手く積めれば、3月のマラソン出場があるかもしれない」と言います。
 大野龍二選手は連続27分台が途切れてしまいましたが、いずれはマラソンにという考え。実際、2月の延岡では30kmまでペースメーカーを務めています。「夏に40km走をやってメドは立ったが、練習が100%できてから考える」と宗監督は言います。ただ、この2人は明らかにスピード型。「やっても月に800から850km。その分、1回1回のポイントをキチッとやっていく」
 陸マガにも書いたように北京五輪の結果で、佐藤敦之選手のようなスピード型の選手が今後、絶対に必要になってきます。その候補として旭化成の2人が注目されるわけです。27分ランナーの九電工・前田和浩選手も「しっかりと練習をして、この冬どこかで出られたら」と、元5000mジュニア記録保持者の綾部監督が話していました。練習は距離を踏めるタイプのようですが「スピードは殺さずに」(同監督)ということです。

 とはいっても、マラソンはやっぱりスタミナ型の選手のためにある種目。スタミナ型が多数派だからこそ、スピード型の存在価値があるわけです。北京はスピード型の選手に有利な気象でしたが、毎回そうなると決まっているわけではありません。スピード型とスタミナ型を1人ずつ選んでおくのが理想だと個人的には思います。
 その意味で注目されるのが、スタミナ型の藤田敦史選手です。話の途中から取材に加わりましたが「真っ向勝負で勝てるほど甘くありません。練習も試合も、工夫しないと太刀打ちできないでしょう。トータルで1km3分のスピードでも、トラックで揺さぶりに耐える力をつけてマラソンに出る必要がある。マラソン選手だから、トラック選手だからというのはなくなっている」と話していました。


◆2008年9月27日(土)
 全日本実業団2日目の取材。今日も寒かったです。長距離・競歩種目以外の記録が悪かったのは、季節外れの低温のせいと言って間違いないでしょう。

 今日、最初に決まった優勝者は女子やり投の海老原有希選手。国士大からスズキに入社したルーキーです。今年35歳になるベテラン、小島裕子選手の4連覇を阻みました。2位も同学年の吉田恵美可選手。表彰台でのツーショットです。
 女子やり投は小島選手が初優勝した1996年以降、小島選手、山本晴美選手、三宅貴子選手(日本記録保持者)という73〜74年生まれの3選手で1位を占めてきました。新たな波が押し寄せたと言って良いでしょう。

 続く優勝者は男子走幅跳の志鎌秀昭選手(阿見アスリートクラブ)。優勝記録こそ7m64(+0.1)にとどまりましたが、荒川大輔選手と手に汗握る接戦を展開しました。5回目には7m63の同記録で並ぶシーンも。
 ここでも同学年のツーショットを撮ることができました。志鎌選手を祝福しに来たのは筑波大で同学年だった植竹万里絵選手。阿見アスリートクラブの同僚でもあります。
 2人のことはそれぞれのブログ(志鎌選手ブログ植竹選手ブログ)でご覧いただくとして、特筆すべきは志鎌選手が沼津東高出身である点です。鋭い読者はお気づきかと思いますが、日本インカレの走幅跳に優勝した堀池靖幸選手(早大)も沼津東高。同じ年の日本インカレと全日本実業団の走幅跳を、同じ高校のOBが制したのです。それも、成田高や清風高、洛南高という名門校ならあり得る話かもしれませんが、沼津東高は静岡県東部の超進学校。陸上部はそこまで強くありません。確率的には小数点以下のパーセンテージではないでしょうか。
「堀池の優勝は良い刺激になりました。国体に堀池を出せば良かったと言われないように、先輩の意地を保とうと思いましたから」
 と志鎌選手。ちなみに、直接対決はそれほど多くないようですが、負けたことはないと言います。ベスト記録でも2cm、志鎌選手が勝っています。

 走幅跳の取材が終了すると、TBS・佐藤文康アナの姿が。佐藤アナも静岡県東部の富士高出身ですし、早大競走部の堀池選手の先輩。さっそく沼津東高ネタを話しましたが、それよりも重要なのは同アナが昨日もネタにした92年の山形国体を経験していること。少年B男子800 mで5位になっています。さっそく思い出を聞きました。
「前の年の全日中で勝っていましたし、その年のインターハイも1年生で出場した選手はほとんどいなかったので(佐藤アナはインターハイ出場)、優勝を目標にしていました。5位に終わってサブトラの静岡県テントで大泣きしたことを覚えています」
 はたからは順風満帆の人生を送っているように見えても、やっぱり苦労しているんですね……今、スーパーサッカーに出ていますけど、とんぼ返りで明日も来るのでしょうか?
 昨日の日記で紹介したミズノ関係者にも山形国体の思い出を聞きました。
 長谷川順子さんは「国体初出場初優勝」だったと言います。92年が入社何年目かは知りませんが「インターハイも出ていませんし、大学生でも国体は出ていないんです」と。
 等々力信弘さんは94年の広島アジア大会の“第一代表”。その2年前の国体は勢いがあった時期です。「1投目が100 mのスタートと重なって、待っていたらタイムオーバーになってしまいました」。それでもまったく慌てず、当時の自己記録かセカンド記録の67m42で優勝しています。
 ちなみに、記者では朝日新聞の酒瀬川記者が、16年前の山形国体を取材しています。寺田は陸マガ編集部員として国体取材はインターハイよりも長年続けましたが、92年だけはなぜか行けませんでした。開催が例年より早い10月初旬で、ページ数が少なかったためだと思います。あるいは、入稿の締め切りまで時間がなく、現場取材をあきらめたか。

 ところで、山形開催の全国大会は、国体の後では98年に全日中が開催されています。昨日はそれが何年だったのか調べられませんでしたが、今日、佐藤孝夫先生に教えていただきました。志鎌選手と植竹選手が天童の全日中を経験した世代です。2人ともブログでそのことに触れています。明日は25歳の学年にちょっと気をつけて取材しましょう。
 佐藤先生は筑波大で川本和久監督の後輩。池田選手がシザースに変えたときにアドバイスをした先生です。その池田選手ですが、出身地である山形での試合は高校1年生以来だといいます。2年時に仙台育英高に転校しているからです。
 中学時代は走幅跳全日中3連勝、走幅跳と100 mJHで中学新など大活躍した時期。当時、酒田三中で陸上部顧問だった後藤由美子先生を、佐藤先生が紹介してくれました。その頃、池田選手はお父さんの実さん(故人)が指導していましたが、後藤先生と上手く連携ができていたようです。
「真面目で大人しくて、目立つ生徒ではありませんでしたね。でも、陸上には本当に一途に取り組んで、この子は違うなと感じていました」
 と、当時の池田選手のことを振り返ります。
 実は以前から中学時代の先生に聞いてみたいことがありました。
 池田選手ほど1つのことに一生懸命な人間は、今の若者世代の風潮に合わないというか、そういう人間を格好悪いと見る風潮があるのでは、と。中学・高校では周囲の意識がそこまで高くありませんから、浮いてしまうこともあるのではないかと。
「それはなかったですね。久美子に引っ張られてチーム全体が伸びていきましたから」
 酒田三中はジュニアオリンピックの4×100 mRアベックVをしています。池田選手が浮いた存在だったらできっこありません。実さんだけでなく、後藤先生の指導力も大きかったことがわかります。その後赴任した中学では、今日の5000mで25位となった五十嵐藍選手(シスメックス)を育てています。

 池田選手、後藤先生と取材をしている間に、女子5000mWで川崎真裕美選手が日本新を出していました。レースは最初の1000mくらいしか見ていません。最初から飛び出し、1人だけ次元の違う歩きを見せていましたが、違ったのは次元というよりも“気持ち”だったようです。
 5000mWで日本新を出せば、3000mW・5000mW・1万mW・10kmW・15kmW・20kmWのすべての日本記録を保持することになるのです(3000mWは日本最高記録)。それを記者の誰も気づかなかったため、川崎選手の方からアピールしてくれました。
 それが史上初めてのことかどうか。そこまでは調べきれるものではありません。小島真奈美選手の頃に あったかもしれない、と言い出したのはベテランの中日新聞・桑原記者。寺田は小島選手と平山選手のことを思い出していましたが、名前が出てきませんでした。
 円盤投の畑山茂雄選手の大会新&9連勝も素晴らしい成績です。58m73は自己3番目。川崎清貴選手の日本記録こそまだ更新できていませんが、自己4番目の記録まで、川崎選手のセカンド記録を上回りました。北京五輪出場はかないませんでしたが、モチベーションはまったく落ちていないと言います。今後も、男子円盤投は“いつ日本記録が出ても不思議ではない種目”という状況が続きそうです。

 最後は男女の5000m。女子では中村友梨香選手が出場。最後は9位にまで後退してしまいましたが、4000mくらいまでレースを引っ張りました。オリンピック後に最初にレースに出たマラソン代表ですが、そう簡単に気持ちは切り換えられなかったようです。この大会をきっかけにしたいと話していました。
 中村選手、マラソンはしばらく出ないようです。今年、来年はトラックとハーフマラソンに取り組むとのこと。
 今日のレースに話を戻すと、4000mを過ぎてペースを上げて先頭に立ったのはケバソ選手(豊田自動織機)。それを弘山晴美選手(資生堂)が追いましたが、最後の1周では那須川瑞穂選手(アルゼ)が弘山選手の前に。それを最後の200 mからスパートを見せてかわしたのが積水化学の清水裕子選手でした。
 スーパー陸上の1500mで優勝し、今大会でも注目されていた1人です。今季は1500m、3000m、5000mの自己記録を更新していますが、勝負にも強いところが良いですね。スーパー陸上は残り500mから自分で行き、今回は最後のコーナーで逆転しています。高校(岐阜の中津商高)ではインターハイ3000mで決勝に残っているので、それなりの実績を持って入社しているのですが、昨年まではそれほど目立った戦績はありません。2年目に全日本実業団のジュニア3000mに優勝しているくらい。
 清水選手自身は成長の理由をこれだと強調しようとしませんが、4年かけて徐々に体重を落としたことや、故障をしなくなったことだと言います。今年から加入した野口英盛コーチが一緒に走ってくれることや、自己記録を更新する選手が多く、チームの雰囲気が良くなったことも要因に挙げていました。
 深山監督はとにかく故障をしないことだと言います。
「特別なことはしていないが、腹7〜8分目でずっと続けられている。精神的にも大人になって、周りが見えるようにもなってきた。一冬越えれば15分10秒台まで行けますね」
 変わったことをやるのでなく、普通のことを“続ける”ことが長距離選手としての成長になるのでしょう。“続ける”ために、新しいことをやる手もあるとは思いますが。特に若いうちは、続けることで自然と成長していきます。

 ところで、この時期、それも五輪イヤーとなるとどうしても、引退の話題がいくつか出てくるのですが、思ったほどないですね。寺田もオリンピックを区切りとするのは、あまり好きではありません。ちょっとありきたりというか。オリンピックがあるから頑張ってこられた、という気持ちもわからないではありませんが。
 大物では小島初佳選手が、明日の100 mがラストランです。ということで、原田康弘さんとの師弟ツーショットもこれが最後かもしれないと思い、写真を撮らせていただきました。走高跳の野村智宏選手はこの冬の練習次第。いつかも紹介したように、2m10が跳べなくなったらやめる意向です。


◆2008年9月28日(日)
 全日本実業団3日目の取材。
 トラック種目は予選だけということもあり、午前中は第2コーナー付近で取材をしていました。女子円盤投、男子砲丸投、男子棒高跳と3種目を見るのに都合が良かったのです。
 天気はなんとか持ちましたが、やっぱりちょっと肌寒かったです。
 そんな悪条件の中で自己新を出したのが男子砲丸投に優勝した大橋忠司選手。1cmの自己新ですが、畑瀬聡&村川洋平の18mプッター2人を抑えました。表彰台(写真)でも対照的な表情でした。単に大橋選手だけスタンドを見たタイミングでシャッターを押したのかもしれませんが。
 畑瀬選手は日本選手権で負傷しましたが、今大会は脚にテーピングをしていなかったので大丈夫なのかなと思っていました。しかし、スーパー陸上が17m00(日本選手間で4位)で、今回が17m21(2位)。徐々に上向いてはいますが、「まだ怖がってしまう」ということでした。

 女子三段跳は優勝者の吉田文代選手に、所属が中大レディースから成田空港に変わった経緯を取材。フルタイム勤務ですが、地元のスポーツ選手を支援したいというのが成田空港株式会社のスタンスで、競技をやる前提での採用です(9月1日入社)。種目がまだ決まっていませんが、千葉国体(2010年)も見据えて頑張るようです。
 所属の変更といえば、錦織育子選手も来年から「丸三」になることが決定したと言います。400 mHの荒川勇希選手が所属している島根県の会社です。

 12:50からは女子100 m予選。小島初佳選手のラストランでした。こちらに記事にしたように、決勝に進める体の状態ではなかったようです。セレモニーは決勝の後ということで他の取材と重なりそうだったので、レース後に取材をさせてもらいました。
 アシックスの吉田さんからは花束が贈られました(写真)。この辺をきっちりと用意するあたり、メーカーの営業のみなさんはさすがです。

 投てき種目の自己新といえば、男子やり投の荒井謙選手も76m75と自己記録を34cm更新しました。村上幸史選手に21cm届きませんでしたが、堂々の2位。今年の日本選手権は3位で、“アラケン・サンバとか揶揄されたいましたが、3番手から抜け出し、トップの座も奪おうかという態勢です。
 ただ、村上選手も負けませんね。北京五輪は予選落ちでしたが、シーズンベストや自己ベストでのランキングを大きく上回りました。各メディアも健闘と評価していました。今大会では1、2投目に「背中を使って大きく構える」投げを試したといいます。左脚の接地が上手くいかずに3投目以降は従来の投げ方に戻しましたが、スズキのホームページ記事にあるように意欲もさらに高まっているようです。表彰台の表情からも充実ぶりが伝わってきます。

 男子400 mは東北出身トリオが表彰台を独占。優勝した堀籠佳宏選手が宮城、2位の佐藤光浩選手が“追い込み白虎隊”のニックネームからもわかるように福島、3位の伊藤友広選手が秋田です。全員がオリンピック選手です。
 しかし、伊藤選手はアテネ五輪以降、いいところがありません。そして、今季から所属が為末大選手と同じAPFに変わっています。そのあたりの事情と、低迷した経緯を聞かせてもらいました。予想通り故障の影響でしたが、どうやら復調していきそうな様子です。
 富士通コンビは4×400 mRが1時間後(!!)にあるので取材を控えました。女子100 mでも渡辺真弓選手が11秒67と自己2番目の好タイム。ですが、45分後に4×100 mRがあります。タイムテーブル、なんとかならないのでしょうか。

 男子100 mは仁井有介選手(北海道ハイテク)が優勝。10秒43は大学2年時の10秒36に次ぐセカンド記録。高平慎士選手の200 mに続き、北海道&順大出身が制しました。しかも2人は同学年。順大では仁井選手がキャプテンでした。
 初めて取材をさせてもらいましたが、中村宏之監督の指導法は以前に陸マガに書いた記事で少し触れましたが、スピードがキーワードのようです。「技術トレも基礎トレも、すべて速さを求めてやっている」とのこと。仁井選手が中村監督の指導法を理解したのは北海道ハイテクに入ってからだそうですが、今では「ショートスプリントの指導では日本一だと思う」と言い切ります。
 仁井選手の場合、仕事が中心で練習にはそれほど時間は割けないようですが、やるときは福島千里選手、北風沙織選手、寺田明日香選手らと一緒になるわけです。女子選手に囲まれての練習ですが「女子でもすごく学ぶところがある」と言います。レース直後の取材ではなかなか突っ込んだ話は難しいのですが、突っ込み所がわかることがあります。今日の仁井選手の取材はその典型でした。

 女子100 mの表彰後に小島初佳選手の10年出場表彰があり、続いて引退セレモニー
 原田康弘クレーマージャパン副社長と、ナショナルチームでリレーメンバーを組んだ石田智子選手から花束が贈呈されました。こちらの一問一答にもあるように、レース直後は“自分の引退には泣かない”と話していましたが、石田選手がウルウルしていたのが引き金になって、小島選手の目からも涙が(写真1 写真2 写真3)。
 そういえば朝原宣治選手も引退セレモニーのとき、「泣かないと思っていたら、早狩(実紀)がウルウルしているのを見たら泣いてしまった」と話していました。同じパターンです。
 夫の小島茂之選手もマイクを取り、妻にねぎらいの言葉をかけていました。スタンドへの挨拶だったかな? 最後は胴上げ。カメラが一眼レフではなくレンズ一体型だったので、胴上げには対応できませんでした。ちょっと残念。

 その後に男子4×400 mRの表彰。富士通4選手のラップは寺田の手動計時で
1走・48秒2 堀籠選手
2走・48秒4 笹野選手
3走・46秒6 佐藤選手
4走・46秒4 高平選手

 400 mの1時間後の3走・佐藤選手が頑張りました。
 表彰後には杉町マハウ選手に久しぶりに取材。今季は5台目まで12歩で行っているそうです。北京五輪の予選では初めて成迫健児選手に勝っています。「国体は成迫君の地元ですが勝ちたい。前半で食い下がれれば、ラストは僕の方が速い」と、意気込んでいます。


◆2008年9月29日(月)
 サニーサイドアップからメールが来ました。為末大選手が明後日10月1日に、引退するか現役を続行するのか、進退を表明する会見を開くというもの。
 会見に臨む直前に決心するということはないでしょうから、すでに心は決しているはず。記者たちも正確な情報はつかんでいないようですが、明日の新聞でどこかがスクープする可能性もないとは限りません。

 そもそも、プロ野球やサッカーのJリーグと違って、陸上競技選手が“選手登録を抹消”されることはありません。どんなに競技力が落ちても、その意思さえあれば選手として登録することはできます。
 しかし、為末選手の性格を考えると、それはしないでしょう。FM東京でサッカーの前園さんと対談をしたときの囲み取材で、「成績は悪くても自分の好きな種目をやり通す選手もいれば、良い成績をとれる方の種目を選ぶ選手もいる」と陸上選手の分類ができることを話していました。為末選手は明らかに後者です。
 中学では100 mチャンピオン(200 mと三種競技で中学記録を出しましたが)。高校3年時に400 mH49秒台&400 m45秒台を出した際のサイン色紙には、「でも100 mスプリンターだよ」と書いていました。本当は100 mをやりたいけど、世界と戦える400 mHをやってきました。世界で戦えないとわかったら、引退するでしょう。まだ戦えると思ったら、現役続行。判断基準は単純のはずです。

 しかし、もう1つの可能性があります。種目の変更という。
 為末選手が引退を考えている一番大きな理由は、ひざなどの慢性的な痛みでした。ハードルを跳ぶことで長年負担をかけてきたからです。FM東京での囲み取材の際に「もう一度400 mやる?」と聞きました。ハードルを跳ばなければ、なんとかなる可能性もありそうな口振りだったからです。正確ではありませんが「日本代表になれそうだったら」という答えだったと思います。
 あるいは、価値観を変えて、好きな100 m選手として走り続けるか。その可能性は限りなくゼロに近いですけど、ゼロではないでしょう。
 当面は価値観を変えて100 mや400 mをやりながら、ひざの状態が良くなったら400 mHをやるという方法もあります。これかもしれませんね。


◆2008年9月30日(火)
 全日本実業団から一昨日の深夜に東京に戻り、10月2日には成迫国体…じゃなくてチャレンジ!大分国体に向けて出発します。東京にいる3日間でやることはいっぱいです。

 昨日やっと、某大会の原稿5本を書き上げました。本当は天童で終わらせたかったのですが、2本がやっと。目の前で面白いことが起こるとどうしても、そちらに神経が行ってしまいます。それで、日記が長くなるのです。
 ということで、今日は陸マガの朝原宣治選手の引退原稿に取りかかりました。締め切りは明後日ですが、大分への移動日なので明日中には仕上げたいところです。そのためには今日が勝負……と思ったのですが、300行中40行しか進みませんでした。
 ただ、資料や過去の記事を読むのに8時間以上を費やし、記事の構成はイメージできています。H選手にも電話をして、参考意見を聞かせてもらいました。文字数でなく記事の完成度という点では、6割は進んだかな、という感じ。なんとしても、大分に抱えて行くのは避けなくては。

 そのチャレンジ!大分国体の目玉は地元期待の成迫健児選手。陸上競技が始まるのは10月3日ですが、全日本実業団の頃に国体開会式で選手宣誓をしていました。大変そうです。
 成迫選手は“国体王子”の異名を持つほど国体で活躍してきました。自身初の48秒台が4年前の埼玉国体。セカンド記録の48秒09が岡山国体。これは、同じ年のヘルシンキ世界選手権の為末大選手の銅メダル記録を上回りました。
 本人もシーズン当初から、今季の目標として北京五輪と地元国体の、2つを並列で挙げていたほどです。

 ただ、同選手のブログでも明らかなように、状態は万全ではありません。地元だからと変にテンションを上げて頑張ったら、大阪世界選手権の先輩たちの二の舞でしょう。
 スポーツ選手が期待されるのは仕方ありません。期待されなくなったら、その競技に流れてくるお金が少なくなって、廃(すた)れていくことになります。
 期待される立場で、なおかつ自身の状態が良くない状況で、それをどう凌げるか。これも選手が乗り越えないといけない試練の1つでしょう。日本インカレの金丸祐三選手がヒントになるような気がしますが。

 陸上界では真面目な性格で知られている成迫選手。個人的には、「ナリケンサンバ」とか、「チャレンジ!電子レンジ国体」とか、ギャグを言うくらいの余裕があればいいな、と思っています。
 そういう意味で、成迫健児選手に注目しています。


◆2008年10月1日(水)
 10:30に岸記念体育会館に。為末大選手が進退を表明するため会見に臨みます。かなりの緊張感。本人ではなくて取材する側が。
 記者たちはもちろん、あの手この手で情報を仕入れていますが、どの社も“抜く”ところまで正確な情報は入手できなかったようです。現役続行を予想する“続行派”の記者が多かったのですが、To記者のように引退説の記者も。理由は「サニーサイドアップ関係者がたくさん、それも正装で来ているから」というもの。確かにその通りです。現役続行だったらこんなに来ないだろう、という多さでした。
 為末選手はこの表情で登場。その瞬間、「続行だな」と思いましたが、周囲の予想を裏切るのが為末選手ですから、引退かもしれない、という思いが頭をかすめました。

 結論はこちらの記事にしたように現役続行です。29日の日記に書いた予想と、結論は同じでした。でも、“予想”としては外れです。価値観を“当面”変えることはあっても、最終的には勝つために走るのだと思っていました。まさか、“負けてもいいから走り続ける”という決断をするとは思いませんでした。今回も“予想を裏切る為末”でした。

 2時間ほどで記事を書き上げ、いったん新宿の作業部屋に。2時間ほど原稿を書いた後に、竹橋の毎日新聞社に。実業団駅伝公式ガイドの打ち合わせです。毎年この時期にパレスサイドビル(毎日新聞社の入っている巨大ビル)に行くと身が引き締まります。
 今日は例年よりも会議の人数が多くてビビリましたが、寺田は勝手にこれが良い、あれが面白そう、と言っているだけなので気は楽です。今年は北京五輪の日本選手成績が悪く、取り上げる選手の人選や、読み物を何にするかで苦労をするかな、と思いました。でも、それはそれで何とかなるものです。元々、公式ガイドのメインは全チームの顔写真入り選手名鑑ですし。
 今年も女子が12月上旬、男子が中旬発売です。


◆2008年10月2日(木)
 13:35のJAL便で大分に。大分は07年の別大マラソン以来。
 空港で食事をすると、次のバスまで1時間半の時間があったので原稿書き。無線LANが無料で使えたので助かりました。
 ホテルは大分ではなく別府。シーサイドですが、微妙に離れていて海は見えません。18:30に着くと、曽輪・中尾の関西ライター・コンビが食事に行くところだったので、寺田も19時過ぎに合流。関西の陸上事情を色々と聞くことができました。最近は高校生の取材機会が少ないので、東大阪敬愛の情報など貴重でした。

 夜は朝原選手の引退記事を進めました……が、なかなか進みません。朝原選手の足跡を振り返れば振り返るほど、考えれば考えるほど、書きたいことが山ほど出てくるのです。
 過去の記事を読み返していると、こことここがつながるのだな、と気づくことがあります。この2つは矛盾しているけど、たぶん、この話(考え)が表に出ていなくて、そう見えるのだろうとか。今回もそれがありました。
 面白かったのはウエイト・トレーニングの活用の仕方。ドイツ留学時代のウエイト、アメリカでのウエイト、そして、ここ数年のウエイト。朝原選手も苦労していますが、最終的には走りに生かせていたと思います。
 重要なのはウエイトもそうですが、個々の練習メニューが走りに結びついているかどうか。練習のための練習で終わらせない方法ですね。そういったところが、朝原選手の優れていたところの1つではないでしょうか。

 明後日からチャレンジ!おおいた国体の取材です。陸上競技は明日から始まりますが、明日は別の用事がありまして。温泉に行く予定はまったくありません。


◆2008年10月4日(土)−その1
 チャレンジ!おおいた国体2日目の取材でした。別府から大分までJRで移動して(12〜13分)、大分駅から無料シャトルバス。発車時間5分前に行ったらバスは満席。会場の九石ドームまでは30分かかると書いてあります。この手の所用時間は、渋滞したらそのくらいかかるという前提で書かれているのが普通なので、20分くらいで着くだろうと思っていたら、本当に30分かかりました。正確には26〜27分くらい。ちょっときついですけど、利用者がどのくらいの数になるのか把握するのは難しいのでしょう。数人乗っているだけ、ということもよくあったので文句は言えません。
 会場に着くと知り合いの記者たちから「昨日はどうしたの?」と聞かれます。いちいち説明するのは面倒なので、「10月3日は“別府原稿デイ”(別府健至監督ではない)だって知らないの? 別府で原稿を書くと温泉に無料で入れるって」と答えておきました。

 昨日は記録がいまひとつでしたが、今日は盛況。トラックで好記録が続出しました。
 口火を切ったのが女子400 mH。久保倉里美選手が55秒46の日本新です。全日本実業団で57秒40もかかっていましたが、やっぱりあれは、山形が寒すぎたんですね。
 タッチダウンタイムは久保倉選手で測りましたが、1台目がテントに遮られて失敗。記者席の場所が低い位置だったので(と言い訳)。2台目以降は計測しましたが、青木沙弥佳選手も良いのではないかと思って、フィニッシュだけ青木選手で押しました。寺田の手元で55秒92(正式計時は55秒94)。学生新は間違いありません。
 ミックスドゾーンに降りると、久保倉選手はテレビのインタビューで来るのがちょっと遅れそうだったので、青木選手のコメントを少しでもと聞きに行きました。1分ほどで久保倉選手に移動。記者の動線の通路が太かったのか、記者の数が日本選手権に比べて少ないからなのか、スムーズに移動できて助かりました。

 少年A男子400 mHを見るのはあきらめ、そのままインタビュールームで久保倉選手のコメントを取材しました。青森の岸本鷹幸選手が50秒17の高校歴代4位を出していましたが、これはもうどうしようもありません。反省点としては、インタビュールームにモニターがあったのに活用できなかったこと。ただ、広い部屋だったので距離的に無理でした。インタビュールームが広いのは、本来良いことです。
 もう1つ失敗したのが、久保倉選手のインタビューの途中で、成年男子400 mHが始まると思って外に出てしまったこと。これが大チョンボ。寺田がプリントアウトして持参したタイムテーブルが、古いものでその後微妙に変更されていたのです。変更はよくあることでして、本当に初歩的なミス。それで、この記事に(中略)という部分が生じてしまったのです。

 成年男子400 mHは成迫健児選手が48秒62の今季日本最高記録で地元V(タッチダウンは上の方の記者席でしっかり計測工房…スポンサーへの配慮も忘れてはいけません)。初めて48秒台を出した2004年の埼玉国体から5連勝を達成しました。オリンピックまでアキレス腱に痛みがあってハードル練習が満足にできず、北京では49秒63で予選落ち。それを考えたら見事な復活劇です。
 ミックスドゾーンで成迫選手を待っている間に「やっぱり“国体王子”だなぁ」と言うと、ライバルのO村ライターも同意してくれます。「でも、“電子レンジ国体”はないですよ」と、痛烈なひと言。9月30日の日記にダメ出しをしてきます。実は自分でもイマイチかな、と思いながら書いていました。成迫選手が料理好き(同選手のブログ参照)ということで、業界的にはOKかなと思ったのですが。
 こちらを動揺させようという意図も見え隠れしますが、今回、寺田は陸マガの仕事ではありません。逆に、O村ライターの方が余分な神経を使ったことになります。この辺は陸マガ高橋編集長の陽動作戦です。
 しかし、昨日会場に来なかった時点で陸マガの仕事でないことはバレているかもしれません。だとしたら、O村ライターの方が一枚上手ということ。まあ、どうでもいいことですが、地元スター選手優勝の陰で、ライバル・メディア間で虚々実々の駆け引きが行われていたことを世間にも知ってもらいたいのです。

 話を競技に戻しましょう。成迫選手の喜び方は半端ではありませんでした。地元ということや、オリンピックで不甲斐ない成績だったことなど、色々な経緯や思いが凝縮したのだと思います。「もう最高です。これ以上の喜びはあるかわからないです」とまで言います。当然、地元メディアは勇み立って取材します。全国紙の記者たちも、世界に通用する選手ということで手は抜けません。寺田はあまり質問しないようにしました。
 しかし、インタビューが終わって記者の輪が解けると、成迫選手が「これで“国体王子”も卒業ですね。エクスプレスになりますよ」と言ってきました。思わず「400 mで45秒台を出したらだよ」と答えてしまいました。“筑波エクスプレス”は学生時代に出してくれないと使えません(筑波エクスプレスが秋葉原〜筑波間を45分で結んだことに引っかけたコピーです)。○○エクスプレスというコピーを考えないと。
 とまあ、この辺は冗談ですが、「来年は400 mでも日本選手権に勝負できるくらいにしたい。金丸クンや堀籠さんと競って走力をつけたい」と言っていました。

◆2008年10月4日(土)−その2
 次の成年女子200 mは高橋萌木子選手が23秒48(+0.7)の学生新&日本歴代3位(青木選手と同じです)。前半で大きく差をつけられた福島千里選手を、直線で追い上げ、逆転しました。
 元から高橋選手は後半型です。実際、高校1年時の国体少年Bや、2年時のインターハイには200 mで勝っています。3年時のインターハイで中村宝子選手がジュニア日本新で高橋選手に勝った印象があまりにも強いので、高橋選手の200 mの印象が薄れてしまったのです。奇しくも、今日のタイムは中村選手の大阪インターハイのタイム(ジュニア日本記録)とまったく同じでした。
 今年は国体種目が200 mということもあり、夏から200 mを意識した練習をしてきたと日本インカレのとき話していました。スタンドからは、コーナーを抜けたときの福島選手との差は、ちょっと無理だろうと思える差でした。にもかかわらず、高橋選手は「あまり離れていなかった」と振り返ります。この辺は、彼女にしかわからない距離感のようです。
 清田監督が100 mを重視していることもあり、これまでは“100 mの高橋”でした。それは今後も変わらないと思われますが、22秒台一番乗り候補の1人になった……と言っていいでしょうか?

 実はこのレースは、別の意味で注目していました。100 mの福島選手、200 mの信岡沙希重選手、400 mの丹野麻美選手と日本記録保持者が3人揃ったのです。日本選手権では実現しませんでした。先日引退した小島初佳選手が100 m・200 mで日本記録を持っていた頃に、柿沼和恵選手と200 mで一緒に走っていれば、そういうこともあったのでしょうが、ちょっと記憶が定かではありません。“3人”ではありませんしね。
 インタビュールームではその辺を各選手に聞こうと思いましたが、丹野選手はインドの試合以来体調が完全ではないようですし、信岡選手も「病気のこともあって、3本目(決勝)は24秒5くらいかかると思っていた」と言います。福島選手も「今できる100%は出せた」と言います。俗に言うところのタメがなくなってきていることを自覚しているようです。
 信岡選手4位、丹野選手6位でした。3人のコンディションを考えると、“日本記録保持者3人の対決”というテーマの記事は厳しそうです。
 ただ、高橋選手にだけはそっと、日本記録保持者3人に勝った感想を聞きました。3人のコンディションがわかっているのでそれほど喜べないようでしたが、ちょっとだけ笑みを浮かべて「嬉しいです。自分も日本記録保持者になれたらいいのですが」と話してくれました。

 男子200 mは優勝した安孫子充裕選手が20秒74(+0.6)と2度目の世界選手権B標準突破。日本インカレ100 m優勝の江里口匡史選手と、同200 m優勝の斉藤仁志選手を抑えました。もちろん、日本選手権から強かったので北京五輪代表になったのですが、さらに強くなった感じです。
 ただ、今季はもう、無理にA標準を狙いに行くことはしないようです。今季中に出しておけば楽は楽なのですが、男子短距離の場合、本番と同じシーズンのA標準が必要との、谷川聡コーチの判断もあるようです。

 成年女子800 mでも好タイムが相次ぎました。優勝は陣内綾子選手で、2分03秒42の日本歴代4位&大会新&3年ぶりの自己新を出しました。
 実は日本インカレ(2分04秒38で優勝)のときに陣内選手に「ラップはどうでしたか」と質問されたのですが、国立競技場スタンド下のちょっと奥からと見ていて、タイムを計測できませんでした。今回は測り逃すまいと、しっかりと計測工房(スポンサーへの配慮も…)。
 その後、陣内選手のコメントを聞くと、今日の自己新記録は400 mから600 mの走り方がキーポイントになっていました。記事にするとしたら、役立てられそうです。
 女子800 mは陣内選手以外も好記録でした。8人中5人が自己新。
順位 選手 所属 記録 備考
1 陣内綾子 佐賀 佐賀大 2分3秒42 大会新、自己新
2 岸川朱里 神奈川 ノーリツ 2分4秒92 自己3番目
3 久保瑠里子 広島 デオデオ 2分5秒03 自己2番目
4 佐々木麗奈 富山 龍谷富山高教 2分5秒91
5 品田貴恵子 新潟 筑波大 2分6秒43 自己新
6 熊坂香織 山形 スポーツ山形21 2分6秒52 自己新
7 木田真有 北海道 ナチュリル 2分6秒78 自己新
8 須永千尋 東京 創造学園大 2分6秒79 自己新

 自己新の選手は調べるのが可能ですが、そうでない選手は本人に聞くのが手っ取り早いわけです。2位の岸川選手が「自己3番目」、3位の久保瑠里子選手が「2番目」と教えてもらいました。4位の佐々木麗奈選手だけが「2分5秒ちょっとがダダダっとある」ということで、何番目かわかりませんでした。ただ、「近年では一番良い」ということです。
 ちなみに佐々木麗奈選手の年次別ベストは以下の通りです。
記録
2008 2.05.91
2007 2.08.68
2006 2.07.54
2005 2.05.95
2004 2.08.17
2003 2.09.16
2002 2.05.39
2001 2.05.72
2000 2.05.00
1999 2.10.41
1998 2.08.11
1997 2.05.92
1996 2.08.71
1995 2.09.95
1994 2.12.43
1993 2.16.96

◆2008年10月4日(土)−その3
 全種目が終わった後、サブトラックに向かいました。確認したいことがあったので。タイミング的に選手・コーチが引き揚げてくる頃で、多くの方たちとすれ違いました。そのなかの1組が成迫健児選手とお父さんの成迫壱(まこと)先生。この機を逃すなとばかりに、写真を撮らせていただきました。
 共同取材のときには聞けなかった専門誌チックなトレーニング内容の話も、ちょっとだけ取材させてもらいました。
 そこに現れたのが同学年の小池崇之選手。高校3年時の国体は、小池選手が優勝しました。こちらも写真を。小池選手は前半が14歩インターバルですが、今日はその前半をかなり速く行けていたようです。杉町マハウ選手も2人と同学年。サブトラまで小池選手と話をしながら行きましたが、話を聞いて、3人の記事が書けそうな気がしてきました。問題は時間があるかどうか。

 サブトラックの前には筑波大コーチングスタッフが集結していました。宮下憲コーチには成迫選手のトレーニングの話を少し、谷川コーチには前述のように安孫子選手の話を少し取材させてもらいました。投てきの大山圭悟コーチもいらっしゃいます。察しのいい読者はピンと来たと思いますが、同コーチはトンボのマークで有名な兵庫県(小野高)出身。このところ朝原宣治選手、小島初佳選手と兵庫県の大物選手に引退が続いています。
 先日、大原記者が朝原選手の引退を特集した神戸新聞を送ってくれたのですが、すごいスペースを充てていました。スポーツ面は見開き2ページの8割くらいを割き、1面と社会面にも関連記事がありました。過去の戦績、記録の推移、節目節目の大会戦績とそのときのコメントなど、大、大、大特集です。
 そこで大山コーチです。神戸インターハイ世代ですから朝原選手の2つ上。今年で38歳ですが現役の砲丸投選手です。「兵庫の選手の引退が続いていますが?」と水を向けると、「神戸新聞の記者さんをこれ以上忙しくさせたら悪いですから」と、小野高で同級生だった大原記者に気を遣っていました。
 というのは冗談で、健康のことを考えても投げ続けたい、というニュアンスの話をしてくれました。ただ、今季の試合出場は2試合と、さすがに減っています。ちなみに谷川コーチも現役ですが(110 mH日本記録保持者)、今季は日本選手権1試合だけしか出ていないそうです。あれだけ有力選手を抱えていたら、大変でしょう。

 筑波大スタッフに取材ができたのにはワケがあります。サブトラックに入ろうとしたら入れてもらえなかったからです。過去に何度か紹介しているように、国体ではサブトラックの周囲を各県のテントがナンバーカード順にぐるりと設置されています。そこで、試合を終えた選手や、コーチたちに取材ができたのです。
 基本的にはミックスドゾーンやインタビュールームで話を聞きますが、スタッフの話はサブトラに出向かないと聞けません。また、恩師やチームメイトとの写真も、サブトラでないと撮れません。寺田にとっては、大変にありがたい取材の場でした。多くの地方紙記者たちも、取材に活用していました。
 それが、なぜかNGになっていたのです。現場サイドからクレームでもあったのでしょうか? それとも、選手と記者が接触して事故でも起きたのでしょうか? これは、サブトラ取材を活用していた熱心な記者ほど打撃を受けます。中国新聞・山本記者も「こんなの初めてですよ」と、憤りを隠しません。
 言わずもがなですが、国体は総合競技会です。新聞紙面も、テレビ放映時間枠も、陸上競技だけで埋めなくてはいけないわけではありません。陸上競技の話題(ネタ)が面白くなければ、いくらでも他の競技に変わってしまいます。もしも問題があるのなら、取材を禁止するのでなく、別の解決方法を考えるべきではないでしょうか?
 国体最終日のサブトラ巡りを楽しみにしている記者を、どうしてくれるんだ?


◆2008年10月5日(日)
 チャレンジ!おおいた国体3日目の取材。
 国体らしい風景といえば、地元選手への取材の多さですが、今日の少年B男子110 mJHでは、優勝した加藤誠也選手よりも、2位の成迫泰平選手への取材に記者たちが殺到していました(テレビカメラも)。お兄さんが五輪選手ですし、予想されたことですが。
 加藤選手にも2〜3人は記者が行っていましたからよかったです。県によっては地方紙が来ないところもありますので。
 かく言う寺田も今日は、成迫泰平選手の取材に行きました。少年Bでの順位が、3位だった兄の健児選手を1つ上回ったということで喜んでいました。タイム(14秒45)が健児選手と同じだと地元テレビ局の方が泰平選手に言っていましたが、2000年の陸マガ掲載のリザルツでは、健児選手のタイムは準決勝で14秒46、決勝で14秒47。予選は14秒49。他の大会で出しているのでしょうか? チャンスがあったら確認します。
 寺田が知りたかったのは有名選手の弟という立場の大変さ。必ず比べられますからね。親子選手もそうですけど。その点、泰平選手は明るく話していたので、変なプレッシャーは感じていないようです。
 健児選手と同じように、高2となる来年から400 mH進出を予定しているといいます。健児選手はそこで一気に伸びました。世界ユースで3位でしたから。泰平選手がそこで、同じ成績を残さないといけない、と考えたらプレッシャーになります。気軽にやってほしいところです。
 ただ、兄とまったく同じというのも面白くないと思ったので、違うことを考えていないか質問してみました。「兄はどちらかというと長い距離が速いですけど、僕はスピードで攻めていきたい」と答えたので、面白いなと思いました。

 今日は記録的には、昨日ほど盛り上がりませんでした。外は雨でしたが、九石ドームが威力を発揮してスタジアムは雨の影響は受けなかったのですが。やっぱり、昨日は風が上手い具合に吹いていたのでしょう。200 mも好記録でしたが、周回種目の記録の方がより良かったですから、周回のかなりの部分が追い風だったと思われます。
 ただ、それが悪いかといったら、別に悪くない。今の日本記録などはほとんど、そういった好条件で出ています。力がついたから記録が狙えるというレベルではなくなっています。条件が良くなければ記録は狙えません。

 そうではありますが、ネタが減る…いや、取材が減るのも事実。地方紙記者たちと世間話…じゃなくて、情報交換をする時間が増えます。
 信濃毎日新聞の中村恵一郎記者(インターハイ中距離2冠)を見ると佐久長聖高の話題になりがちですが、そればかりではありません。インターハイのときは、地域によって強さに偏りがある棒高跳で、どうして長野からインターハイ・チャンピオンが生まれたのか(松沢ジアン成治選手・高遠高)、という話をしました。
 今日は清水裕子選手(積水化学)の話題に。スーパー陸上の1500m優勝、先週の全日本実業団5000mで日本人トップ。記憶に新しいところですから、「中学は長野県だったんだって?」と話を振りました。
「そうなんですよ。○○中学から、羽柴先生(中津商)のところに行ったんです」と中村記者。口調から、長野の選手ですよ、とでも言いたげなところが伝わってきます。だったら、静岡県出身の寺田も言わないわけにはいきません。
「清水選手が長野なら、佐藤悠基選手(佐久長聖高OB)は静岡ということで」
 そうですね、とは言ってくれませんでしたが、まあ、強くなれば、県がどうのこうのというのは、どうでもいいことです。静岡から兵庫に行った福士選手も今年、復活してくれましたし。

 昨日、サブトラ取材ができない不便さを訴えていた中国新聞・山本記者と、中日スポーツ・寺西記者は、セリーグのクライマックス・シリーズ進出を争う広島カープと中日ドラゴンズの地元同士です(元担当記者)。一触即発の気配を周囲は感じていたのですが、寺西記者に言わせると「いやー、紳士的にやらせていただいていますよ」ということです。ドラゴンズに決まりましたからね。
 少年A男子1万mは記事にもしたように、初1万mの田村優宝選手が高2歴代2位の快記録で優勝。山本記者は田村優宝選手のことを取材したことがある、と言います。なんで? と思いましたが、中国新聞は全国都道府県対抗男子駅伝の主催者。同駅伝のメイン担当記者として、全日中や少年Bで優勝している田村選手を取材しているのだそうです。
 くどいようですが、サブトラ取材禁止は、そういった熱心な記者の取材機会を減らすことになっているのです。

 今日は成年2種目で千葉県勢が優勝。澤野大地選手と土井宏昭選手です。千葉県は地方紙の取材がないのですが、2人とも日本を代表する選手ですから、全国紙(誌)の記者が殺到していました。ただ、澤野選手はミックスドゾーンでそれなりに話が聞けたので、インタビュールームでは8位の木越清信選手に。
 競技終了後に胴上げされていた選手がいて、誰なのか確認できていませんでしたが、澤野選手に聞いたら木越選手と教えてくれました。最後の試合は筑波大新グラウンドのこけら落とし競技会にするようですが、今年で引退するということで、選手仲間に胴上げされていたのです。
 木越選手といえば澤野大地選手の前の学生記録(5m51)保持者です。しかし、学生記録よりも、シドニー五輪のA標準(5m60)を越えられなかったことが一番印象に残っているそうです。
「横山(学)さんがA標準を跳んでいらして、もう1人A標準を越えれば代表になれそうな感じでした。それを、あとちょっと、腹でかすって落としたんです。跳躍の中身も良かったです」
 それでも、競技人生は「楽しかった」と総括してくれました。
「すべての人間関係、人生経験は陸上競技を通したものでした。就職(愛知教育大)も嫁さんも、陸上ですから」
 木越夫人が誰なのか知らなかったのですが、「前の名前は京田です。三段跳をやっていました」とのこと。珍しい名前ですから、あとはこちらのデータで調べられると思ったら、三段跳で京田という名前の選手が2人いました。この辺は、謎として残しておきましょう。

 やめる選手もいれば、続ける気持ちになった選手もいます。男子ハンマー投で4位に入った静岡県の馬渕将臣選手です。土井宏昭選手の話を聞き終わって後ろを見ると、静岡の記者たちが馬渕選手を取材していたので、寺田も加わりました。
 馬渕選手は浜松工高出身で東海大の4年。国体前のベストは64m01でしたが、今日66m70を投げて4位に。日本インカレ優勝の遠藤彰選手(国武大院)とは36cm差でした。大分入りした後の練習で技術的につかんだものがあり、自己記録を3m近く伸ばすことができたそうです。
 ハンマー投で実業団選手として競技しているのは、上位3人だけです。短距離や長距離と違って、フィールド種目のつらいところ。馬渕選手も「64mでは無理」と、大学卒業後は一線を退く予定でしたが、今日の記録で続けたい気持ちが大きくなったそうです。記録もそうですし、もっと行けるという手応えも、気持ちを変えるのに大きな要因となったのでしょう。
 最終的に続けられるかどうかは、今後の環境づくりにかかってくると思われますが、碓井崇選手をはじめ多くの選手が、自分で環境づくりに奔走して、十分とは言えないまでも、その環境で頑張っています。来年の競技会出場を待ちたいと思います。


◆2008年10月6日(月)
 チャレンジ!おおいた国体4日目を取材です。

 最初にコメントを聞いたのは少年A女子400 m優勝の三木汐莉選手。自身初の54秒台(今季高校最高)を出したからですが、高校生も積極的に取材をしようという意思表示でもあります。東大阪敬愛高のネタを、独身の曽輪ライターが吹き込んでくれたおかげで、興味を持って話が聞けそうだと思ったからです。
 54秒台を出せたのは、前半を速く入れたことが大きかったようです。「自分は後半が強い方なので、上手く前半を入れれば、後半も走りきれる」。前半の200 mを26秒0くらいで行くつもりだったそうです。「予選が26秒1で入って余裕を持てていたのに、準決勝は27秒1になってしまった」と反省していたそうです。
 寺田の手元では26秒3の通過。測定誤差もあると思いますし(謙虚に)、バックストレートの風の影響もあると思うので、三木選手の想定通りの通過と見ていいでしょう。
 ふだん、丹野麻美選手の通過タイムばかりを記事にしているので、26秒台と聞くと遅いな、と思ってしまいますが、初めて54秒台の選手です。前半が26秒3なら後半は28秒6。“前半から飛ばした”と十分に言える数字です。

 このペース感覚はどうやって養成されたのかというと、練習はもちろんだと思いますが、三木選手のレース数の多さに裏打ちされているのかもしれません。三木選手は100 m、200 m、400 mに400 mH、そして両リレーも走るので膨大な数になります。JAAF Statistics Informationによれば、国体まで60m&100 mを29本、200 mを8本、400 mを26本、400 mHを23本走っています。大きな試合の翌週も試合に出ていますし、全部が全力というわけではないと思います。でも、それを差し引いてもすごい数です。

 東大阪敬愛高で注目されているのは日本選手権リレー。
「大学生が強いと思いますが、優勝を目指したいです。3分30秒台を狙います」
 記録はともかく、福島大の牙城はさすがに崩せないと思いますが、高校生が一般の試合に臨む場合、そのくらいの気概を持たないとシニアの試合の雰囲気に飲まれてしまうでしょう。いずれにせよ、日本選手権リレーの注目ポイントが増えました。

 続いて取材したのは成年男子800 m。特に記事を書く予定もないのですが、ライバルのO村ライターが優勝した横田真人選手の話を聞きに行ったので、徹底マークしました。というのはもちろん冗談で、日本インカレで予選落ちした後、短期間で“戻してきた”点を取材したかったのです。
 日本インカレは、日本選手権後初の試合出場でしたが、その間ずっと故障が長引き、2週間前からやっと練習が再開できた状況だったからです。
「全カレに合わせようと実践的なメニューを取り入れましたが、基本ができていないのにやってしまって、悪循環になってしまいました」
 それから3週間ちょっと。どんなメニューをやってきたのか興味のあるところです。
「僕の中でつねに新しいことをやろうという意識があって、今回は昔やったメニューと同じものでも、設定タイムを上げてやりました。スタートダッシュやウエーブ走など、基礎としてやってきたメニューを、動きも意識しながらやりました。それが今回、上手くいきました」
 “基礎=走り込み”という観念はもはや、過去のものです。弘山晴美選手や高岡寿成選手が実証してきました。最近では絹川愛選手もそう。こちらの記事で紹介したように、夏からやっとまともに走れるようになり、少ないポイント練習で復活しました。

 取材の最後の方で今後のトレーニング方針などの話題になりました。寺田の脳裏に、来るかな、という予感がよぎった次の瞬間に、来ました。
「リディアードをやるつもりはありませんから」
 リディアード式で強くなったピーター・スネル氏が来日して、陸マガ誌上で横田選手と対談をして以来、寺田がよく話題にしていたのです。別にリディアードを薦めているつもりはなく、将来的には選択肢の1つという話をしていたので、話のネタとしてですね。
 日本選手は走り込みをしないといけない、という意見は正論だと思います。間違いなく、アフリカ選手に対抗するための有効な手段です。あのダニエル・ジェンガ選手も、マラソンに取り組み始めた最初の頃は失敗続きでしたが、走り込みをするようになって強くなりました(今週末のシカゴ・マラソンに期待しています)。
 ですが、選手個々の力を伸ばすことをまず考えるべきで、走り込みができないけど、スピードで押していくことができるタイプの選手がいます。俗に“能力が高い(けどケガも多い)”と言われる選手たち。両者の境目を判断するとき、どうしても“走り込みが必要”という判断が優先されてきました。アフリカ選手にはスピードで劣る、という大前提に考え方が縛られてしまっていたのではないか、という気はしています。

 横田選手は今季、群馬リレーカーニバルと浜松中日カーニバルの2試合を残していますが、世界選手権の標準記録には縛られないと言います。
「今年は北京、北京と言って、やらないといけないことを見失っていました。今は、来年に向けてスピードをつけることを優先してやって、その延長に標準記録があれば、くらいの気持ちです。狙いに行くことはありません」
 B標準が1分46秒60ですからね。焦って狙って、なんとかなるものではありません。

 続いて女子1万mWで日本新を出した川崎真裕美選手(茨城・海老沢製作所)のコメントを取材。先週の全日本実業団5000mWでも日本新を出していますから、ラップを計測工房しながらレースもしっかりと見ました。日本記録ペースでしたが、2回警告が出てペースダウンしました。
 川崎選手に話を聞いて初めて知りましたが、選手は審判からマークを出されたとき、警告なのか注意なのかがわからないのだそうです(お恥ずかしい話ですが、初めて知りました)。掲示ボードを見て初めて知ることができる。
「歩いている最中に映像を見ましたが、今日のフォームでは私が審判でも挙げるだろうな、と思いました。自分でそう思うときは、相当に悪いです。体調が悪かったことと、右ヒザの状態が良くありませんでした」
 今日は地元・大分の桐生文香選手(環微研)が失格。北京五輪の標準記録Bを破っていた選手ですから、ポイントゲッターとして期待されていたと思われます。それを男子優勝者の森岡紘一朗選手(長崎・富士通)がスタンドから見ていました。どんな思いだったのでしょうか。
 周知のように森岡選手は、地元インターハイで失格した選手。その後フォームを矯正し、インターハイ以後は失格がないと言います。桐生選手もそうなるきっかけになれば、今回の経験が無駄にはなりません。高すぎた代償かもしれませんが。
 今日は男子1万mWでも谷井孝行選手、杉本明洋選手、明石顕選手と日本代表経験のある選手たちが失格。そのレベルの選手の動きが甘くなる時期なのでしょうか?
 川崎選手が2回出たと気づいたのがおそらく6000m付近。1周毎が1分46秒台から47秒台、48秒台、49秒台と徐々に落ちていきました。しかし、しかし、8000m付近から1分48秒台、47秒台と徐々にペースを上げ、日本人初の43分台をマークしました。ただ、自身の20kmの途中経過の方が速いと言います(07年の全日本競歩能美大会で43分40秒)。

 女子走幅跳は池田久美子選手(静岡・スズキ)と花岡麻帆選手(千葉・成田国際高教)が大接戦を展開し、1cm差で池田選手が優勝しました。今日は最後に4×100 mR準決勝があり、女子100 mHでジュニア記録をマークした寺田明日香選手ら、何人かの選手の取材がリレー後になりました。
 池田選手はリレーに出ないということで(静岡の成年は都留文科大の長倉選手と慶大・中村宝子選手)、池田選手をミックスドゾーンで取材できました。時間はかなり後になりましたが、リレー後に女子走幅跳の選手たちもインタビュールームで取材。
 ライバルのO村ライターと寺田は、花岡・池田対決を久しぶりに見られて意気込んでいました。この種目でオリンピック選手同士が対決したのは、過去30年以上なかったこと。正確に調べることはできませんが、72年のミュンヘン五輪代表だった山下博子選手が、モントリール五輪後に、同五輪代表だった湶純江選手と試合をしているかどうか。
 インタビュールームでも最初は池田選手の話を聞いていましたが、途中からO村ライターと2人で花岡選手の話を聞き始めました。こういうとき、千葉県は地方紙が取材に来ないので、話が進んでいなくて助かります。こちらに書いたように、五輪代表同士の名勝負というトーンで記事にすることはできませんが、新たな取り組みをしている2人がまた、以前のようなレベルで勝負ができるようになったら素晴らしいですね。
 O村・寺田が花岡選手に話を聞いている間に、池田選手が結婚について記者たちに話していました。北京五輪中に結婚予定であることが記事が出て、その後もテレビなどで発言していたようなので、初出の情報ではありません。入籍の日取りや相手の名前など、具体的なことは明かさなかったようですが、明日のスポーツ紙に今日話した内容が載る可能性はあります。相手が誰なのかつかんでいる記者もいるようですが、一般人ということで、きちんとした形で公表されない限り名前は出せないのだそうです。

 順番は正確に覚えていませんが。成年男子110 mH優勝の田野中輔選手にはインタビュールームで取材。大橋祐二選手との接戦を制しました。この2人も、名勝負と言うにはもう少しのレベルアップが必要です(面識のある選手には厳しい寺田)。2人が13秒4台で競り合えば日本初になりますから、その辺を期待しています。
 田野中選手はスーパー陸上の日に30歳になったそうです。野口選手、為末選手、杉森選手といった日本記録保持者3人と同じ世代。何か新しいことに取り組んでいますか? という質問に「方向性は合っていると思う。感じよく前半は突っ込めています」と言います。来季以降もまだまだ、頑張りそうです。

 成年男子砲丸投に優勝した大橋忠司選手は17m86の自己新。ミックスドゾーンで取材しました。畑瀬聡選手、村川洋平選手という18mプッター2人が最近不調ということもあり、シーズン後半は日本選手間で負け知らず。7月に17m84、9月に17m85、そして今大会で17m86。自己記録を1cm刻みで更新する“離れ業”を演じています。
「イヤになりますよ。ブブカじゃないんだから。自己新が出ることは嬉しいですが、一発でボーンと18mを出したいです」
 トワイライト・ゲームスのときの記事で紹介したように、18mを出せば技術も1つ上のレベルに達することになり、さらに記録を伸ばせるのではないかと大橋選手は考えています。群馬リレーカーニバルにも出るようなので、注目しています。
 記録もそうですが、あの身長で、すごい速さで砲丸を弾き出すのは見ていて気持ちが良いです。注目されてほしい選手の1人です。

 福島千里選手には、北海道の記者たちがミックスドゾーンで取材をしていたので、隣で話を聞かせていただきました。今年の北海道の4×100 mRは少年がやや弱いのか、準決勝で落ちてしまいました。「1年の締めと考えていたので残念ですが、少年の選手たちが色々なことを感じてくれたら、今回のリレーは成功だと思います」。このコメントもそうでしたが、少年選手たちに接している様子を見ると、大人になったなという印象です。単に、こちらが気づいていなかっただけかもしれませんが。
「良い意味で激動の1年でした。この1年を超えられるように、年を追うごとに冷静に、落ち着いてできるようになりたいです」
 朝原選手の引退に際しても、同じニュアンスのコメントが聞かれました。記事にはできるほどの裏付けはありませんが、本当に成長した1年だったと思います。記録よりもメンタル面の成長の方が、今後には大きな意味を持つかも。記録を出すことで、そのための経験ができたとも言えるわけですが。

 男子の4×100 mRでは小島茂之選手が千葉のアンカーで激走。と正面から見ていて思ったのですが、ミックスドゾーンで本人に話を聞くと、バトンをもらったときにもう、かなりリードしていたようです。アキレス腱の状態が良くならず、日本選手権以来のレースだそうです。準決勝2組は4走に、北海道の高平慎士選手、栃木の斉藤仁志選手と北京五輪代表も出ていました。「3人並んでヨーイドンだったらきつかったですね」
 新潟ビッグ陸上フェスタ、田島記念と出場予定ですが、「ケガなく終わって上手く冬期に入りたい」と言います。あえて、引退した奥さん(小島初佳選手)のメッセージには触れませんでしたが、来年に向けてやる気十分と見ました。

 4×100 mR準決勝後には、100 mHでジュニア日本記録を出した寺田明日香選手に話を聞くことができました。この辺は陸連がしっかりと誘導してくれています。記事はこちらに。シーズン序盤に記録が出なかったのは、高校時代のようにレース本数をこなせなかったことが原因だったと自己分析しています。経験を重ねることで、シーズン序盤でも出力が大きくなっていくのが普通です。
 今日の取材の最後は少年の男子走幅跳。インターハイに続いて優勝した皆川澄人選手の話を、これまた北海道記者たちの後ろで聞いていました。

 走幅跳は第4コーナー近くの砂場で行われましたが、3回目くらいまでは目の前のスタンドで見ていました。インターハイのときの記事で触れた助走スピードですが、皆川選手がやはり速いと思いました。5回目まで大混戦だったインターハイと違い、今回は2位に32cm差の圧勝でしたから、スピードの違いが大きかったのは当然です。
 昨年の佐賀インターハイで7m75を跳んだときは追い風1.7m。今日の7m70は向かい風0.4m。内容的には今回の方が評価できるのは明らかです。皆川選手も去年のインターハイや、今年の北海道高校で跳んだ7m73よりも良かった点を記者たちに話していました。「追い風だったら7m90を跳べる」と。
 国体取材の記者は、陸上競技に詳しい人もいれば、そうでない人もいます。田村優宝選手が尊敬する選手としてベケレ選手の名前を挙げたとき、残念ながらベケレ選手を知っていた記者はほとんどいませんでした。皆川選手は自身の可能性や願望について話していたのですが、風による記録の価値の違いがわかれば、記事の大きさも違ってきます。

 記録の価値という部分は本来、選手よりも指導者やスタッフが地方紙記者たちに説明する方が良いに決まっています。そういう意味でも、サブトラ取材ができないのはマイナスだと思います。
 サブトラ取材の禁止は陸連の判断ということだったので、賛同してくれる複数の記者の意見として陸連に伝えておきました。思ったよりも反響が多かった話題ですので、連絡をいただいた記者の方には経緯をお知らせします。

 今日で国体取材は終了。明日の最終日は現地に行くことはできません。
 国体の記事や最近の日記に対して、メールで情報をいただいたので紹介させていただきます。
 まずは、一昨日の日記で紹介した女子800 mの記録について。佐々木麗奈選手の記録だけが、自己何番目かわかりませんでしたが、野口純正氏が「自己7番目」と教えてくれました。このくらい高いレベルだと、野口氏は一発でわかるのです。ちなみに、2分5秒台は9回とのこと。2分05秒00の自己新を出したのは大学3年時の2000年。花岡選手同様、練習や競技へのスタンスは若い頃とは変わっていると思いますが、ここまでたくさん2分5秒台を出したら…。

 青森県の方からは田村優宝選手の29分01秒66が、高校生だけのレースで出た最高記録ではないか、というご指摘をいただきました。
 高校生だけのレースで記録を出せそうなのは国体くらい。その国体で1万mが行われたのは、渡辺康幸選手(現早大監督)と尾方剛選手(現中国電力)が競り合った91年が最後。パフォーマンスリストが手元にないので絶対とは言い切れませんが、田村選手より上の記録は日体大競技会、中大競技会が多く、たぶん、そうだと思われます。どなたか、わかる方がいらしたらメールをください。

 国体取材最後の夕食は別府のファミレスで。期間中2回目です。席もそこまで混んでいなかったので、ちょっと長居して原稿も。コーヒーのお代わりをウエイトレスが持ってきてくれたときは、座りながらですが背筋を伸ばして一礼していました。これは大分バージョン。成迫健児選手をイメージしてやりました。


◆2008年10月7日(火)
 チャレンジ!おおいた国体最終日ですが、ホテルを延長使用して13時まで原稿書き。国体最終日恒例のサブトラ巡りができないから、現地に行かなかったわけではありません。純粋に締め切りが迫っていて(過ぎていて?)どうしようもなかったのです。

 チェックアウト後、大分最後の食事くらい土地のものを食べようと思い、ホテルから別府駅の間をうろうろしましたが、これという店を見つけられません。結局、泊まったホテルの通りをはさんで向かいにあるビルの7階にある百膳の夢という店に。これが、複合ビル(百貨店かも)に入っている店とは思えないくらいの本格派。湯布院こだわり豆腐料理膳が、なかなか美味でした。
 しかし、食べ終えた後に「めじろん膳」という国体特別メニューがあることに気づきました。大分特産の鶏肉や豚肉を中心に、野菜もそこそこ盛り合わせて、ボリュームもあってバランスも良い。スポーツ選手向けのメニューです。事前に気づけば記念に食べていたでしょう。ちょっと量が多すぎたかもしれませんが。

 食後は、同じビルの1階にあるスタバで原稿書き。
 16時頃にスタバの前のバス停(別府北浜)から空港行きのバスに。さすがにバス車内ではパソコンに向かえません。読書の時間に充てるつもりでしたが、同じバスに某大学某コーチがいらして、色々と話を聞かせていただくことができました。1つ2つ紹介できるネタもあったような気がしますが、すみません、ちょっと思い出せません。
 空港では原稿書き。と思ったのですが、なかなか進みません。国体の後ということで、知った顔がたくさん通るのです。栃木県チーム、埼玉県チーム、2年後に国体開催の千葉県視察団などなど。大橋忠司選手も通りましたし、大橋祐二選手も向こうのベンチに座っています。

 ところで、何とはなしに独り言を言いたくなることってありますよね。それも、何の意味も脈略もないことを。このときの寺田もそうでした。
「栃木県歴代ナンバーワン・スプリンター!」
 と少し大きな声で独り言を言うと、近くを通った人物が振り向いてこちらに来ます。栗原浩司先生でした。
 詳しいことは書きません…が、ソウル五輪100 m代表で、4×100 mRでは日本初の38秒台をマークしました。大阪で60mの室内日本記録を出しました。日本インカレの100 mを1年生で制しました。100 mタイプですが、インターハイは200 mで2位でした。
 ここ数年教育委員会方面に勤務されていていましたが、今年から現場指導に復帰したそうです。国体の点数に対する姿勢も色々とあるのだと知りました。

 栗原先生と話していると、珍しく寺田の携帯が鳴りました。早大競走部OBのYディレクターです。国体のサブトラ取材禁止に反対だということと、実業団駅伝関連の話でした。
 機内では千葉県の某先生が通路を挟んで隣の席。千葉県ネタ、県陸協事情など、ここでも面白い話を聞かせていただきました。
 羽田空港の荷物ピックアップ場では某男子選手と、“大分は美人が多い”ということで意見が一致。この件に関しては今のところ賛同者3、非賛同者1です。


◆2008年10月8日(水)
 国内某所に日帰り出張。某大物選手に2時間のインタビュー取材をしました。
 いつものスポーツ報道とは違って、不特定多数の人間を対象にしている媒体に載る文章です。世間一般の人間にも「そこは興味がある」と思ってもらう書き方をしないといけません。つまり、いつもとはちょっと違うテーストが求められる仕事ということです。

寺田「今回はマニアックにならないような書き方をするから」
 そのつもりで取材に答えて欲しい、ということですね。しかし…。
某選手「寺田さんがそんな書き方ができるのですか?」
 そのくらいでひるむ寺田ではありません。というか、相手を不安にさせたら取材者として失格。
寺田「マニアックなのは世を忍ぶ仮の姿だから」
 クラーク・ケントみたいなものですね。ケネス・マランツではありません。
 同行した編集者がスケジュールについて説明。
某選手「寺田さん大丈夫ですか。他にも原稿があるんじゃないですか?」
 こう紹介すると、いかにも信用がないライターという感じですが、必ずしもそうではないのではないか、と思っているのですが、どうなのでしょう? そこそこ長い付き合いなので、あうんの呼吸だったと自分では思っているのですが。


◆2008年10月9日(木)
 都内某社で打ち合わせ。続いて編集者ともカフェで打ち合わせ。
 今月中に書籍の原稿を7割方仕上げないといけないことになりました。以前から取材は進めていたのですが、来週中に4人ほど取材をして、10月後半の2週間で200〜300ページ分を書くスケジュールです。クラーク・ケントのままではできないでしょう。


◆2008年10月10日(金)
 陸マガ11月号の配本日。配本は発売日の2日前が普通ですが、取り次ぎが土曜日を休むことが増えています。13日の月曜日が祝日ということで、今月は4日前の今日になっていました。
 表紙はスーパー陸上の朝原宣治選手。巻頭カラーも朝原選手の引退特集です。スーパー陸上のときのコメントを編集部が2ページでまとめ、競技歴を寺田が4ページで紹介し、最後に早狩実紀選手が「贈る言葉」(送る言葉?)を1ページ書いています。

 寺田の書いた記事がおこがましくも一番長いのですが、これはザックリとですが、朝原選手の競技人生を高校時代から一通り記述しているからです。しかし、単に年代記にしても面白くありません。話に芯を通す意味でも、技術やトレーニング法をテーマにしました。本当は“愛”とかにしたかったのですが、以前の取材ノートや記事を読み込んでいくうちに、技術でも行ける手応えを得たのです。
 といっても、いつもと比べて書き手の判断が相当に入るので、原稿は朝原選手に見てもらっています。修正点が1個所も入らなかったのは、正直嬉しかったのですが、朝原選手のキャラも影響していたかもしれません。

 しかし、なんといっても引退特集を締めているのが早狩選手のメッセージ。まずは最初の方に、朝原選手を知っている人間が読むと絶対にウケルだろうな、という一節が出てきます。引用させていただきます。
「朝原くんの印象は、ひょうひょうとしていて、何も考えていなさそう。というか、物事に無頓着な感じ。私が思うに、一応は考えるけど途中からどうでもよくなっている。自分が感じてヒットしたことは細かく考えるけど、まわりからはなんとなく適当にしているように見られてしまう。それを人に説明するのも面倒で、まぁええんちゃう、などと言動がアバウト・・・同類の匂いがするな」
 だから寺田の原稿にも注文が付かなかったのですね。救われました。
 寺田が技術を隠しテーマに淡々と書いているのに対し、早狩選手の言葉は読者の涙腺を刺激する内容です。「贈る言葉」の最後の方はもう、ジーンとくる文章の連続です。ここまで感動的な内容で攻めてくるとは思いませんでした。真面目で、泣けて、それでいて温かみがある文章です。

 早狩選手が分析している朝原選手のキャラも、早狩選手の肩に力の入らない生き方も、個人的にはうらやましく思っています。見習えたらどんなにいいことか。でも、真似できないからうらやましいと思うのでしょう。2人のような、ほんわかした関西弁を話せるようにもなりたいですね。これも見果てぬ夢か、な。


◆2008年10月11日(土)
 今週末の陸上界はイベントや大会がいくつもあって、陸上記者たちも日本各地に分散しての取材になります。
 何人かの記者は今日、佐渡島に行っています。野口みずき選手がサンモリッツから帰国後初めて、公の場に姿を現します。そのうち何人かは、13日の新潟ビッグ陸上フェスタの取材に行くはず。明日は群馬リレーカーニバル、明後日が新潟というパターンもありそう。
 明日は東京の丸の内と大阪の御堂筋で、昨年為末選手が行なったようなストリート陸上があり、そこから13日の出雲全日本大学選抜駅伝に行く記者もいるようです。
 北京五輪後にデスクに出世した記者は、社内で“受け”です(現場が好きな記者にはつらいことのようです)。
 寺田は明日が群馬リレーカーニバルで明後日が中部実業団選手権(岐阜県多治見)。前橋からの移動は東京に出て、名古屋まで新幹線を使って行くのが早いのですが、料金だったら長野まで新幹線で出て、中央線の特急で多治見まで行くのが5000円くらい安いのです。これは、ちょっとした盲点でした。

 海外でも、明日はシカゴ・マラソンと世界ハーフマラソン選手権(ブラジル)が行われます。日本から行く陸上記者がいるとは聞いていませんが、“成田取材の鬼”と言われる日刊スポーツ・佐々木記者が、世界ハーフマラソン選手団の出発を成田空港で取材しています(赤羽有紀子選手の記事と、木原真佐人選手の記事)。単独取材だったといいます。渋井陽子選手の合宿出発時は、朝日新聞と2社だけだったとか。東京国際女子マラソンの主催系列ですね。
 昨年の世界ハーフマラソン帰国取材(佐藤敦之選手と大崎千聖選手)が寺田1人だけだったことを言うと、「オレが陸上担当だったら行っていた」と悔しさをにじませていました。

 夜はある夫妻プラス1名と会食。楽しい一時でした。


◆2008年10月12日(日)
 早起きをして湘南快速新宿線と吾妻線を乗り継いで前橋に(降りた駅は新前橋)。群馬リレーカーニバルの取材です。スタンドが閑散としていることが問題視されている大会ですが、記録はまずまず良かったと思います。
 トップページでも紹介しましたが、女子三段跳の吉田文代選手が13m41の今季日本最高。13m50を2度跳んでいるので自己3番目ですが、10月に出た記録としては日本最高ではないかな、と思って集計号を見たら、花岡麻帆選手の14m04の日本記録が10月1日でした。1999年の日本選手権です。花岡選手は翌2000年も10月の日本選手権で13m50を出しています。
 最近、10月のトラック&フィールドは記録が出ない雰囲気がありますけど、以前は違いました。日本選手権という大きな大会があれば、今も出るのでしょうか。それよりも、北京五輪以降何度か書いているように、勢いのある選手が少ないことの方が問題点のような気がします。夏のオリンピック、世界選手権に出場した“主力”に秋の好記録を期待するのは酷ですが、それ以外の選手は秋に試合があるのはチャンスのはず。今の日本は、それを生かせていないような気がしています。

 話が群馬から逸れましたが、13m41が好記録であることに変わりはありません。9月からは成田空港勤務の吉田選手。教員だった西内誠子選手の13m40を上回りましたから、フルタイム勤務の日本最高です。
 吉田選手は中大卒業後、(フルタイムに近い勤務の)ニシスポーツ、秋田ゼロックスを経て、今年の4〜8月は貯金を切り崩す生活をしました。競技環境の面では苦労をしてきた選手です。会見時にその点で何か思うところはないか、という質問が出て、経験者ならではの重みのある言葉を聞くことができました。できれば、記事として紹介したい言葉なのですが…。
 最後に「こんなことを話すようになるなんて、私もトシをとりましたね」と、照れ隠しで言っていましたけど、本当に“力のある”言葉でした。それに、27歳は微妙な年齢なのかもしれませんが、まだまだ若いと思いますし…。

 吉田選手以外では、女子走高跳の福本幸選手が今季日本最高タイの1m86。七種競技の中田有紀選手も5715点の今季日本最高。かと思ったら、追い風参考記録でした。昨日の200 mが追い風6.1m。以前は追い風4.1m以上が1種目でもあったら全体の記録が参考記録になりましたが、数年前にルールが変更されていました。
 100 mHが追い風2.2m。今日の走幅跳が向かい風2.3mなら3種目の平均が2.0m以下となって公認になったのです。このルール変更が適用される機会が近年はなく、今回、中田選手に教えてもらうまで知りませんでした。その後、尾縣貢先生と話しているときに、そういえば記事で見たような気がしてきましたが…。
 男子800 mの横田真人選手と、男子砲丸投の村川洋平選手が今季セカンド記録。

 村川選手、斉藤仁志選手、横田選手、久保倉里美選手、福本選手、中田選手も、会見で色々と話を聞かせていただきました。種目数が適度に少ないおかげで、競技を見ることとコメント取材が両立しやすかったです。インタビュールームはトラックに面していましたし、福本選手のときなど、女子400 mHが終わるまで待ってもらうことができました。群馬陸協の報道対応はきっちりしていましたが、柔軟に対応してくれたので助かりました。
 スタンドは閑散としていました(写真)が、スタンド下のインタビュールームは盛り上がったと思います(記者の数は5人くらいと少なかったのですが)。

 普通で言うところの好記録には含まれませんが、楊井佑輝緒選手が予選で21秒05。もしや、と思って年次ベストと今季リストを調べると、自己新であることがわかりました。決勝は斉藤選手に次いで2位に。
 楊井選手はスプリンターの宝庫、兵庫県出身。今年更新されてしまいましたが、100 mで10秒68の中学タイ記録を2001年に出しました。全日中の100 mは3位でしたが200 mで優勝。国体少年Bでも200 mで佐分慎弥選手(日体大)と同着優勝。しかし、その後はインターハイで3年時に6位になっていますが、下の年次ベストからわかるように、ずっと低迷していました。

2000 11.31 22.95
2001 10.68 22.95
2002 10.80 21.52
2003 10.62 21.65
2004 10.58 21.70
2005 10.68  
2006 10.98  
2007   21.45
2008 10.52 21.05

「高校2年時からコーチがいなくなったこともあって狂い始めて、ケガ、ケガと続いていました。高2、高3とほとんど練習はしていません。3年時のインターハイ路線だけ無理矢理合わせました。一番苦しかったのは大学2年の頃です。シーズンベストが10秒98でしたから。腰が落ちてヒザ下を振り出す動きが原因でした。それを冬期から変えようとしましたがまたケガをして、やり始めたのは2月から。それまでは動きづくりをやっても上手く変えられませんでしたが、今季は2月から始めたことが良い形で表れました」

 今年は8月末の日体大記録会で21秒32、9月の日本インカレ予選で21秒29と自己記録を更新しています。個人種目は群馬リレーカーニバルが学生最後の大会だと言います。卒業後は不動産関連の会社に就職することが決まっているとのこと。卒業後も試合に出る可能性がないとは言い切れませんが、個人種目最後の試合で自己新記録を出したということになりそうです。
 朝原宣治選手のように36歳まであのレベルを維持する例もあれば、楊井選手のようなケースもある。競技人生は本当に人それぞれです。
「個人がダメでしたから、リレーに懸けるしかなかった。後輩に助けられてきました」。
 楊井選手にはまだ、日本選手権リレーが残っています。

 楊井選手には表彰を待つ間に話を聞いたのですが、隣には北京五輪代表の斉藤仁志選手。斉藤選手は3年生ですが、一浪していますから同い年。一緒の写真もいいかな、と思って撮らせてもらったのがこれです。左から斉藤選手、楊井選手、3位の小川恭輔選手。小川選手も同い年ということで、斉藤選手が一緒にと声を掛けました。小川選手のことは知らなかったので、後で読売新聞・新宮記者が取材しているところに加わらせてもらい、少し話を聞かせてもらいました。
 あの大阪高で金丸祐三選手の1学年先輩。三段跳でインターハイ3位で、昨年の関西インカレでは15m76まで記録を伸ばしました。しかし、左膝を痛めて昨秋から本格的に200 mに転向。今年の日本インカレは5位に入賞しています。ベスト記録は21秒20で、100 mも10秒46を出しているといいますから、三段跳選手にしては相当に速い数字です(走幅跳は7m29)。
 165cmという身長は、ジャンパーとしてもスプリンターとしても小柄。良い動きをするのではないかと思います。大阪高仕込みなのか、小川選手自身のセンスなのか。
 今日は予選で21秒16w。「20秒台を出したかった」と悔しがりますが、来年も学生として競技を続けるようなので、いくらでもチャンスはあるでしょう。
 上位3選手が面白いトリオだと思ったので、紹介させていただきました。

 今日は十種競技の進行が遅れに遅れました。垂直ジャンプ種目は、選手が頑張るほど進行が遅れますから仕方ありません。予定では最後まで見られるはずでしたが、多治見に今日中に着くには新前橋発18:12の電車に乗らなければいけません。タクシーを17:30に呼んでおき、ぎりぎりまで粘ったのですが、最終種目の1500mの途中(17:40頃)で敷島競技場を後にせざるを得ませんでした(観客たちにトラックへ降りてもらっていました=写真)。それで、トップページの記録の紹介がやり投終了時点のものになったのです。
 高崎駅では吉田恵美可選手に会いました。明日の新潟ビッグ陸上フェスタのやり投にも出場するのです。書く順番が逆転してしまいましたが、今日は七種競技への出場。4790点で9位でした。
「やり投で今以上に行くには、色んなことができないとダメ」という考えで、日本選手権後に取り組み始めたそうです。7月の兵庫県選手権に続いて2度目の七種出場で、「砲丸投以外は全部自己ベスト」だったと言います。やり投は51m54ですから、“七種競技中の”という意味だと思われます。
「この春から助走スピードが上がっているのに、それに耐えられる身体能力がないんです。走高跳も走幅跳も接地時間が長かったらダメですし、やり投と同じように上体が早く突っ込んだらダメな種目も多いんです。今日の砲丸投もそうで、上体が早く行って押せませんでした」
 5500点くらいを出せるようになれば、やり投でも効果が出ると考えているようです。実現すれば2回連続出場となる来年の世界選手権に間に合うかどうか。注目していきたい選手です。
 コメントを聞いたのは競技場ですのでお間違えなく。移動中の駅では、よほど状況が揃わない限りは取材しません。

 高崎から長野まで長野新幹線、長野から多治見まで特急しなので移動。長野の次の駅が篠ノ井で、「ここが篠ノ井か」とプチ感動しました。インターハイ中距離2冠の中村恵一郎選手(現信濃毎日新聞記者)が篠ノ井高でしたから。真っ暗で何かが見えたわけではありませんが。
 途中、出口先生からメールをいただきました。10月6日の日記で、田村優宝選手の記録が高校生だけのレースで出た最高記録ではないか、というメールが青森の方から来た、ということを書きました。出口先生から間違いないというお墨付きをいただきました。
 佐々木麗奈選手の記録が自己何番目かを教えてくれた野口純正氏といい、兵庫県の陸上関係者の知識はすごいですね。知識=情熱でしょうか。そういえば神戸新聞・大原記者(“国体サブトラ取材禁止”反対の急先鋒)がちょっと前に、佐治由佳さんが持つ女子走幅跳の兵庫県中学記録が破られた、とメールをくれました。一部陸上関係者にとって衝撃的なことでした。
 多治見には22時頃に到着。イメージしていたより、はるかに近かったです。東濃地区(岐阜県東部。ホテルの名前はトーノーでした)が交通の要衝だったというのが実感できました。長野や北陸、名古屋や京都を結ぶ地区です。この地域が日本の首都になれば、北信越地区も活性化するだろうし、名古屋や関西にも近くて良いのではないか、などと考えました。

◆2008年10月13日(月)
 多治見で中部実業団個人選手権を取材。
 会場に着いて一番に感じたのが、スタンドの雰囲気が昨日とはまったく違うことです。ひと言でいえば熱気があります。ホームストレート側のスタンドはこんな感じ。ホームストレート側以外は芝生席ですが、そこもかなりの人数で埋まっています。地元の中高校生がメインですが、家族もかなり駆けつけていたように思います。午後になるとブラスバンドも登場。
 トップ選手としては村上幸史、池田久美子、マーティン・マサシというスズキの五輪選手が出場。スズキでは村川洋平選手(写真)が昨日の群馬リレーカーニバルに続いて連日出場をしていました。サンメッセの太田和憲選手と岩船陽一選手も、地元競技会を盛り上げます。
 それでも、トップ選手数はごく僅か。日本GPの群馬リレーカーニバルとは格が違います。にもかかわらず、会場の盛り上がり方は中部実業団選手権の方が格段に上でした。

 この大会は多治見フェスティバルが併催されて、地元選手がトップ選手と一緒にレースを走ったり、一緒にピットに立てます。トップ選手との距離が近いんですね。
 砲丸投と円盤投が同時に行われていて、3種目に出場した村川選手や村上選手は、両方のサークルを行き来しています。砲丸投の撮影中に「19m○○!」という記録を読み上げる審判の声がしたのでビックリしたら、隣で行われている女子円盤投の記録でした。そのレベルの選手が積極的に試合に出場しているのも、競技の普及ということでは良いことでは?(ペグ計測方式なので、失敗試技の記録ではないと思います)
 女子走幅跳はこの写真のようなレベルです。池田選手の記録が突出していますし、5mジャンパーも数えるほど。選手たちも記録を狙うというよりも、精神的にリフレッシュするのが狙い。池田選手は昨年来の不調を反省する意味で、スーパー陸上以降の連戦は、リラックスすることに主眼を置いています。
 村上選手が良いことを言っていました。
「この年齢まで来ると身体が変わるのは仕方がないが、気持ちは変えずに行きたい。そういう点で、このような大会に出られるのは良いこと」
 そういう大会を、実業団選手権と銘打って行う中部実業団連盟と岐阜県の協力体制も、評価されてしかるべきでしょう。

 岐阜と言えば日下部光先生と海鋒佳輝先生の、筑波大跳躍OBコンビが欠かせません。日下部先生はインターハイ七種競技3位の桐山智衣選手のことを「見ていてくださいよ」とプッシュしていました。師弟の会話を聞いていても、良い雰囲気なのがわかります(抽象的な表現で申し訳ありません)。
 寺田が東濃地区を日本の首都にするのも良いのでは? と言うと、首都移転の話が出ていた頃には実際、候補地として名乗り出ていたそうです。
 海鋒先生はおおいた国体でハンマー投選手として名を馳せましたが(ベンチ脇で行っていた空ターンが印象的でした)、今日は本職の走高跳の審判員。旗の挙げ方が、以前とちょっと変わっていました。と、いつも冗談モードで紹介させてもらっていますが、全競技終了後に生徒たちを前に話をしている様子は、日本の陸上界を支える地方の先生の姿そのもの。良いシーンを見させてもらったと思います。

 取材に来ていたペン記者は中日スポーツと中日新聞、それに寺田くらい。
 池田選手の結果を携帯電話にアドレスが登録してある記者たちに送信すると、その返信で各記者の居所がわかります。毎日新聞・ISHIRO記者と共同通信・宮田記者、朝日新聞・小田記者は新潟ビッグ陸上フェスタ。絹川愛選手がジュニア日本新を出した情報を教えてもらいました。読売新聞・大野記者と日刊スポーツ・佐々木記者は出雲。中日スポーツ・寺西記者は女子レスリングの世界選手権でした。それで、別の記者の方が多治見に来ていたのです。
 デスクになった朝日新聞・堀川記者は、会社で出雲駅伝観戦中とのこと。群馬リレーカーニバルにも、中部実業団選手権にも来られませんでした。現場に出られなくなった記者が精神的に落ち込んでしまうというのはよく聞く話ですが、堀川記者のことだから大丈夫でしょう。たぶん。


ここが最新です
◆2008年10月14日(火)
 朝10時前に陸マガ高橋編集長から電話。ラジオ局(FM東京)が学生駅伝についてコメントしてくれる人間を探していますがどうですか、という問い合わせです。実は以前にも出たことがある番組で、先週末に直接依頼があったのですが、立て込んでいるので断っていました。出るのであれば、それなりに下準備をする必要もありますし。
 しかし、昨日の出雲駅伝はそれなりに成績や選手をチェックしました。今週末に全日本大学駅伝展望記事の締め切りもあり、取り上げる選手を昨晩中に提出しないといけなかったのです。それで、電話出演を受けることに。
 10:30から収録。3分の尺ですが、なんだかんだで30分は話したと思います。ディレクターが「長くて良いですから」と言ってくれるもので。編集作業は大変だろうな、と話した本人が感じていました。これで二度と出演依頼は来ないでしょう。

 午後は都内某所で取材。放送メディア関係者で、話すのが専門の方たち(2名です)。午前中のラジオ出演のことを話すと「どう編集されてもいいように、最初に結論を言うこと」だと、コツを教えてもらいました。なるほど。そうかもしれません。
 でも、それが難しいんですよね。最初に結論を言うと誤解されそうで、それで、これこれこういう理由(背景)があって、それでこうなんです。という話し方になってしまいます。良く言えば親切だから。相手が理解しやすいように、面白く感じられるように、という部分を意識しすぎてしまうわけです。
 選手では内藤真人選手がまさにそういうタイプ。自分の感想を話す前に、そのレースの背景を語ってしまったり、他の選手の状態を話してしまったりして、それで話が長くなります。
 周りから注意をされて、最近は短くなったと聞きますが、基本的には寺田と同じだと思います。そういえば、いじられキャラという点も同じですね。寺田の場合は10年前の話ですけど。

 今日は陸マガ11月号発売日。
 何度か紹介してきているように、寺田が担当したのは朝原宣治選手の引退記事です。高橋編集長のただのインタビュー記事よりも、競技人生全体を振り返られるようなものを、という意向で今回のような記事になりました。
 書き込む時代が長いため、どうしても1つ1つのエピは短く、淡々と書かざるを得ません。それでも、これだけの分量(400行)になり、テーマも一貫させているので、自分ではまずまず上手く書けたのではないか、と思っています。
 実はここだけの話ですが、締めの部分だけは引退記事らしくしようと思って、ちょっと違う雰囲気にしました。しかし、そこまでの文章あまりにも変えすぎているから、という判断で変更しました。以下がお蔵入りになった部分です。

「朝原は陸上に執着していない」
「すぐにでもやめるのではないか」
 そういう類の声が、選手や関係者の間で出た時期もあったと聞く。大らかな(大雑把な?)性格や、闘志を表に出さない振る舞いが、周囲にそう感じさせたのだろう。
 だが、その朝原がこそが、最も熱いものを気持ちの奥底に持っていたわけである。
 07年の大阪世界選手権で、朝原は1次・2次予選と10秒1台を揃え、準決勝まで進んだ。準決勝後のテレビ・インタビューでは初めて声を詰まらせ、涙を見せた。地元の大観衆が、自分の走りに期待しているのが痛いほどわかった。応えることはできなかったが、そういう状況で走れたことが最高の幸せに感じられた。
 振り返ってみると、「専門種目は100 m」とは、なかなか言わなかった。「9秒台が目標」とも、言い出さなかった。覚悟が決まったときにしか、自身の思いを言葉にしない。“これをやってやるぞ”という願望を、簡単には口にしなかった男である。
 そんな朝原が、大阪世界選手権の4×100 mR決勝の前に「僕にメダルをください」と言った。それができるチームだという手応えがあったればこそ口にした。日本の短距離界にとっても、大きな意味があることを痛いほどわかっていた。
 その願いは、北京五輪で実現し、朝原は再び涙を流した。感情を表に出さない男が、二夏続け、人目を気にせず泣いた。一見クールな朝原が、実は熱い男であることは、全国民の知るところとなった。
 スーパー陸上の引退セレモニーでも、「自分では泣くとは思っていなかった」が、涙目の早狩とリレーメンバーたちに花束を渡されると、またも涙が頬を伝った。
「年をとって涙もろくなってしまいました」
 年齢のせいではない。やり遂げた気持ちが涙になった。



寺田的陸上競技WEBトップ


ベビーマッサージならPRECIOUS(東京都府中市)
楽天の陸上競技関連商品


昔の日記
2008年 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 
2007年 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
2006年 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
2005年 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10・11月 12月
2004年 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
2003年 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
2002年 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月 
2001年 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月