続・寺田的陸上日記 昔の日記はこちらから
2002年10月 シュシュッと出張の10月
寺田的陸上競技WEBトップ
■10月31日(木)
今日も“ひた原”。明後日から全日本大学駅伝、淡路島女子駅伝へ出張する予定ですが、またもや出発前が慌ただしくなりそう。いい加減、学習しないと。他の記者の皆さんは、余裕を持って出張しています……というのは、“隣の芝生は青く見える”状態だったようです。
今日はネタがないので、“イチローネタ”で日記を埋めましょう。何を隠そう、今日は仇敵・佐々木一郎記者の陸上競技担当最終日なのです。ということで、電話をしました(本当は昨日)。
寺田 東京国際女子マラソンのQちゃんのネタ、何かある。
佐々木 ありますけど、企業秘密です。ベルリンのあと、取材はいっさい断っているようですよ。
寺田 東京国際女子マラソンは取材に来るんだよね。まさか、この2年間あれだけ追いかけておいて、Qちゃんを取材しないなんてことはないよな。
佐々木 いやー、それが11月15日からイタリアに出張するんです。12月20日過ぎまで。中村俊輔の取材です。
寺田 ニューイヤー駅伝と箱根駅伝には来られると…?
佐々木 イヤー、天皇杯があって、どうなるか…。
というやりとりをしている中で、出張前はいつもバタバタしているという話をしてくれました。
それはともかく、意外なことに彼はイタリアと縁が深かったのです。陸上担当になる前にも、ヴェネツィアでプレイしていた名波選手の取材でイタリアに長期間行っていて、そこで今の奥さんとも知り合ったらしいです。そして、今年7月の新婚旅行はイタリア。その間に、ローマで海外グランプリを初取材。
この日記のイチローネタもこれが最後。いつもネタ提供、ありがとう。それだけの関係だったけど。チャオ、イチロー!
■10月30日(水)
いよいよ10月も押し詰まって参りました。皆さま、いかがお過ごしでしょうか。寺田はいよいよ、切羽詰まってきました。この時期、アジア大会や国体のトラック&フィールドの大会の原稿と、駅伝やマラソンの展望原稿が重なって、かなりタイトになります。どのくらいタイトかというと、食事と睡眠とトイレと入浴と歯磨きと、あとなんだろう……とにかく、生活に必要な最低限のこと以外は、ひたすらデスクに向かっている。読書をしたり、カフェで日記を書いたり、テレビで日本シリーズを見たり、なんてことはいっさいなし。
このサイトも「ヒマだからやっているんだろう」と言われたことがあります。「実はヒマなんです」、と答えることもあれば、「あれは戦略です」と答えることも。どちらが本当ってことはないですね。強いて言えば、どちらも本当だし、どちらもウソ。自分でもわかんないです。選手のコメントを分析すると、けっこう矛盾していることを話していますが、どちらも本当のこと……って話、以前に書いた記憶があります。
10月25日以降の日記を書く予定でしたが、ちょっと無理……と言いつつも、書いてしまいました。大した量じゃないですからね。明日はいよいよ、佐々木一郎記者最後の日。
□10月25日(金)
午前中に高知から東京に移動。機内では、福島大・川本先生の隣になり、いろいろとお話しを聞くことができました。もちろん、企業秘密は明かしてくれませんが(というか、説明困難?)、そんなところにまで気を配っているのか、と感心させられた点も多々ありました。具体的には言えませんが、ユニフォームのことにまでかなり気を配っています。おやじの時々日記に日本選手権リレーでのユニフォームに関するエピソードが書かれていますが、機中の話を聞いていたので、さもありなん、と思った次第。
高知空港や羽田空港、さらには浜松町の駅で電話を何本もしました。たぶん、10本くらい。なんか、編集者に戻ったみたい。
午後は、都内某所で下見。何の下見かは企業秘密。
□10月26日(土)
午前中、S県で取材。雨に降られてしまいましたが、最後に小降りとなって外での撮影もでき、インタビューも面白い内容で、まずまずの取材だったでしょうか。もちろん、完璧とは思っていません。が、今の力は出し切った、といったところでしょうか。
都心にもどり、新宿で乗り換える際にMacで原稿書き。寺田のノートPCはVAIOなのでOSはウインドウズ。MacはPCのことではなく、マクドナルド。喫煙席で仕事をしたので、ちょいときつかったです。羽生夫妻の記事(羽生夫妻の“強さ”に迫る)も、そこで書きました。
□10月27日(日)
日本選手権リレーの取材。おやじの時々日記に寺田のラップ計測の話が出ています。実は国体でもスタンドから立ち見をして何レースも計測していまして、フィニッシュタイムと寺田のストップウォッチが100分の1秒まで同じだった場合(もちろん手動)、隣にいたN村先生に見せて自慢していました。通常、手動の方が0.1〜0.2秒速いタイムになるのですが、去年あたりからでしょうか、電気計時の正式タイム±0.05秒以内で押せるようになりました。97年バージョンの朝原流に言えば、“コツをつかんだ”、ということになるでしょうか。具体的な方法は、企業秘密。
川本先生の日記をちょっと訂正させてもらえば、ラップを正確に測れても、ライターとして食べていくことはできません(現に、独立後、トータルでは赤字)。8月以降は、おかげさまで忙しくさせていただいています(そういう話を、機中でしました)。言葉のあやというか、ユーモアの部分もあるのでいちいち訂正するのはナンセンスなのですが、念のため。
□10月28日(月)
一日中、オフィスにこもりっきり。ひたすら仕事。この“ひたすら仕事”って、短い言葉に略せないですかね。これから、頻繁に使いそうなので。“ひたしご”や“ひたワー”はイマイチ。“ひたビジ”は言葉としてはまあまあですが、ビジネスは作業をするという意味じゃないですよね。ひたすら原稿を書く、ということで“ひた原”……うん、これかな。
■10月29日(火)
「オレはISHOROだ。ISHIROになるんだ」
この1週間、この言葉を毎日5回は自分に言い聞かせました。ISHIRO記者はマリナーズのイチロー選手と顔が酷似している新聞記者です(ご存じですよね)。僅かの空き時間(出張中のホテルや移動の車内で)、1週間分くらいの出来事を振り返り、自分の意見を交えつつ「from ISHIRO」として書き上げてしまう超天才記者。たぶん、20分で100行(20字)くらいは書いているでしょう。寺田も、それを見習って書けなかった日の分を含め、まとめて日記を書きたい一心で、冒頭のようにつぶやき続けたのでした。
でも、念じたり、つぶやき続けたくらいで人の才能が、自分のものとなるわけはありません。並の選手が「オレはイチローだ。イチローになるんだ」と念じたところで、ヒットがたくさん打てるなるようになるわけではありません。当たり前ですね。真似できないから、天才と評されるわけですから。
ということで、8日ぶりの日記です。
その間に、このサイトのアクセス数が100万を突破。お祝い、励ましのメールも何通かいただきました。その中には、「日記も毎日書いてください。ネタがないときは無理矢理にでも」という檄文がありました。今回の日記中断は、ネタ不足よりも時間不足。国体や日本選手権リレーで取材が続いていましたから、ネタはいくらでもありました。書く時間がなかったのです。今もかなりテンパっていますが、ISHORO記者を見習って移動の“隙間時間”で書いています。
今日は朝の6時から原稿を書いていて、本当は9時前に書き上げなければならなかったのに、送信したのが10時過ぎ。それから朝食。14:30から都心で打ち合わせがあり、その資料づくりを11時過ぎから12:40まで。14:30から打ち合わせを約45分間。その後かちどき橋横のデニーズで昼食をして、現在日記を書いています。
このあと、17時にもう1つ都内で用事があり、その後は原稿の締切が2本。1本は明日のAMになってしまいそうですが、なんか、フリーライターみたいな一日です。でも、仮面ライダーのように格好良くはありません(ネタ提供:羽生悟)。100万アクセス突破記事で羽生夫妻の記事を書かせてもらったら、羽生悟選手からメールが来まして、その中に上記のギャグがあったのです。ギャグセンスは寺田に近いものがありますね。羽生夫妻の記事は当初、97万7351アクセス突破記念記事にしようと思っていましたが、油断しているうちに100万を超えてしまいました。どうも、キリ番記念というのは誰でもやっているので、やりたくなかったんですけど。
それはそうと、日記を8日間分、書かなくては。ISHIROに一歩でも近づくんだ。8日分どころか、釜山のことまで書いてしまおう。
釜山の陸上競技最終日の前日(だったと思う)。陸上競技は昼過ぎで終わって、アジアードスタジアムでは夕方からサッカーの決勝、日本対……どこだっけ、確かイランが行われていました。寺田はその間も必死こいて原稿を書いていました。そうしたら、なぜかISHIRO記者に写真を撮られてしまい「サッカーには目もくれず原稿を書く日本の陸上競技ライター」と、写真をサイト上で紹介されてしまいました。こちらの希望を受け入れてくれて、顔がわからない写真にしてくれたので一安心。
しかし、寺田も最後の15分間はサッカーをスタンドから観戦していました。スタジアムにもよるのでしょうが、テレビで見るよりも近く感じましたね。ライブのよさ、ってやつですか。それにしても、イランのサポーターは多かった。それに比べて日本は目と鼻の先の距離にある国にもかかわらず、サポーターの数で負けていました。安っぽいライターなら(100円ライター?)、「敗因はサポーターの数」って書いているかもしれません。
ということで、前回の日記の続き。8日間全部、1行ずつでも書きます。思い出せるか、高知の思い出。コーチの思い出? 岡ひろみか、おれは?
□10月22日
国体取材2日目。夜はA記者と土佐料理に舌鼓。A記者は陸上担当記者最古参。91年の東京世界選手権から取材している唯一の記者です。面白い話をいっぱい聞きました。
□10月23日
国体取材3日目。夜はファミレスで食事&原稿書き。帰りのシャトルバスが寺田1人しか乗っていなかったので、これ幸いとばかりに停留所から少し離れたファミレスで降ろしてもらいました。店に入ったのが19:40頃。20時を過ぎると混み始めてほぼ満席状態。何人か入り口のベンチで席が空くのを待っている状態。日本人的というか奥ゆかしい性格の寺田は、これではパソコンを出せません。原稿は書かずに記録を眺めてあれこれ考えていました。そうこうしているうちに、混雑のピークは脱したので、20:40頃から23:00頃までパソコンで作業。
□10月24日
国体取材最終日。国体最終日はいつも、独特の雰囲気があります。午前中の1時間半ほどで5〜7種目の決勝種目のみを行い、あとは陸上競技の表彰式、そして午後から国体全体の閉会式というパターンが慣例化しています。
しかし、今年は日程が5日間から4日間に短縮された影響で、例年の倍は決勝種目が行われました。それでも、競技は昼頃には終了。色々な取材を兼ねて、サブトラックに顔を出して、色んな人と話をするのが最終日の寺田の慣例となっています。長距離以外の選手や関係者とは、今年最後となるケースも多いわけで、親しい方には「今年もお世話になりました。よいお年を」を言って別れます。
静岡県チームのテントで取材を2つ済ませ、帰ろうとしたら千葉県チームが胴上げを行なっていました。専門誌のカメラマンが撮影しています。残念ながら寺田は間に合わず。しかし、小島茂之&相川誠也の市船橋高先輩後輩コンビを撮っておけば、将来使えるかもしれないと思い2人を探したのですが、飛行機の時間の都合で一足早く引き揚げたとのこと。現時点でも2人合わせると、世界ユースと世界ジュニアとオリンピックのファイナリストの肩書きが並ぶすごいコンビ。ちょっと残念。
最後の最後、福島大の川本監督とお会いしました。ウォーミングアップのこと(おやじの時々日記参照)を話しました。ISHIRO記者がすごくたくさん、まとめて文章を書くのはすごいということで意見が一致。
※10月25日以降のネタは明日……書けるのか?
■10月21日(月)
昨晩できなかった原稿の手直しを、朝やりましたが、10時頃までかかってしまいました。それで、国体の開始時間には間に合わず。11:50開始の少年A男子100 m予選、12:00開始の男子三段跳には間に合わせました。
全部の開催県がそうだとは言いませんが、国体のタイムテーブルは地元選手の活躍しそうな種目を、初日に持ってくることがたまにあります。高知は、優勝の確率の高い照井貴子選手の成年女子5000mWと、小松隆志選手の成年男子三段跳を初日に持ってきました。男子三段跳に関しては記事にしましたので、そちらもご覧ください。
それにしても、小松選手の人気はなかなかのもの。来年以降は指導者として「恩返しをしたい、選手活動を続けるのかどうかは未定」という感じのコメントでしたが、この人気を有効に使うには、やはり現役を続けてほしい。高知で招待競技会を開催して小松選手が出れば、そこそこ観客が集まりそうです。そこで、多くの人に陸上競技の面白さを知ってもらうことができれば、それも陸上競技への恩返しということになるかなと。
いや、あんまり他人の人生に口を出すのは好きじゃありません。それにしても、今回の小松選手に地元選手にありがちな使命感に伴う悲壮感はなく、明るく和やかな雰囲気が漂っていました。使命感そのものは、ものすごく持っていましたけど。雨や向かい風など、自分に有利になることはなんでも祈っていたようですし…。
地元の人間ならずとも、小松選手にはこう言いたくなります。コマッスンニダ(韓国語で「ありがとう」の意)。
■10月20日(日)
今日から25日まで、国体の取材のため高知に出張。シュシュッと出張したかったのですが、なかなかうまくいきません(いつものことですが)。フライトは19:00羽田発。今日が締め切りの原稿を書き上げてから出発したまではよかったのですが、原稿の内容がどうも気に入りません。移動中に手直ししよう、と思って出かけたのですが、電車では座れず、飛行機への乗り込みでもなぜかまとまった時間がとれません。
飛行機に乗り込んだら、滑走路が混み合っていて離陸まで20分以上もかかるとのアナウンス。よしっと思って、というか、これだったらパソコンもOKだろうとスッチーに「パソコン使っていいですよね」と聞いたら、「申し訳ありません。離陸まではお控えください」と、まさかのお答え。
この辺から、睡魔との戦いでもありました。パソコンが使えないならと、取材メモをもう一度見直していましたが、これがものすごくきつかったんです。結局、離陸後も睡魔と格闘しながらの取材メモチェック。結局、いいアイデアが浮かばないまま、高知空港に着陸。全然、シュシュッといきません。
同じ飛行機には、ほとんど知った顔(陸上関係者)はいませんでした。試合前日、この時間に高知入りする人って、多くないのでしょう。まあ、土佐日記の作者・紀貫之も、土佐に着任したときは夜中に着いたといいますから、いいとしましょうか(ウソです)。唯一の知った顔がA新聞のK記者。一緒に高知市内へ。
22時ちょっと前にホテルにチェックイン。すぐに、このサイトの更新とメール・チェック。M岡さんからのメールで、高岡寿成選手がNHKのサンデースポーツに生出演することが判明。22:30頃から高岡選手が出演。目新しい話としては、次回マラソンを来年の福岡国際マラソンと明言したこと。つまり、五輪選考会まではもう、マラソンを走らないということです。来年のロンドンあたりでもう一度、海外マラソンを走るかと思っていたので、ちょっとビックリ。でも、考えられることではあります。機会があったら、そのあたりの理由を取材しておきます。
23時過ぎに食事のため外出。日曜日ですし、あまり店が開いていません。24時間営業のお蕎麦やさんで焼き豚うどんにとろろをかけて食べました。コンビニによって帰宿。国体期間中は国体の仕事以外にも、片づけないといけない仕事がいっぱい。でも、文庫本を1冊、買ってしまいました。
何をやったんだっけな、そのあと。何か、やることがあって、この日記が書けなかったんですよね。メールを書いたんだったかな。懸案の原稿も、手直しできず。
■10月19日(土)
日記を再開します。釜山で体調を崩し、中断してしまったのが12日前。釜山のネタはいろいろとあって、ISHIRO記者のようにまとめて書こうとも思いましたが、これは真似できませんでした。帰国後も、なんやかやで忙しくって…。
いつものことですが、再開にはきっかけが必要でした。今回は、仇敵の人事がきっかけとなりました。仇敵といえば、言わずと知れた“ファミレス論争”の相手である日刊スポーツ・佐々木一郎記者。彼が11月から、陸上担当からサッカー担当(鹿島アントラーズなど)になってしまいます。
彼との関係は、仇敵という表現の他に、腐れ縁と言うこともできます。昨年、ロンドン・マラソンの取材に行くと、大会本部ホテルに佐々木記者が先着していました。今年もロンドンに行く途中、モスクワ空港で出くわしました。さらに、ローマのスタジオ・オリンピコの記者席にまで来ました。札幌駅でばったり合ったこともありましたっけ。おかげで、土佐礼子選手には、「いつも一緒にいますね」と言われる始末(明日から土佐です)。何度でも言いますが、彼は文字通りの仇敵、寺田とは犬猿の仲です。
その仇敵の、たぶん最後の陸上競技取材となるのが、今日の箱根駅伝予選会です。さすがに、一抹の寂しさを感じました。この心境を例えるなら、星飛雄馬が引退したときの花形満か左門豊作といったところでしょうか。取材後、フリーのO山さんと3人で、立川駅近くのファミレスに行きました。以下は、そのときの全会話です。
寺田 陸上担当になった経緯は?
佐々木 シドニー五輪の前年から、前任の渡辺(佳彦)さんのお手伝いをしていて、シドニー五輪後に自然な流れで陸上のメイン担当になりました。渡辺さんは部内一の名文家でしたし、取材力もあったのでプレッシャーは大きかったです。申し送り事項として、「Qちゃんは絶対にプロ宣言するから、その件は絶対に他社に抜かれるな」と言われていて、身が引き締まりました。(プロ宣言の前日に日刊スポーツと報知新聞がスクープ)
寺田 一番、印象に残っている試合の取材は?
佐々木 ……。引退する選手に“一番、印象に残っているレースは?”と質問するのはいかがなものか、無理矢理1つに絞らせるのはよくない、と言っているのは寺田さんじゃないですか。
寺田 じゃあ、一番、印象に残っている選手は?
佐々木 ……。
寺田 じゃあ、日本新記録はいくつ取材した?
佐々木 いくつですかね、かなり見ていますよ。マラソンの男女世界最高と男女日本最高、4つ全部を現地で取材しているのは、新聞記者では僕だけですから、ちょっとだけ嬉しいです。
寺田 一番、印象に残っているインタビューは?
佐々木 ロンドンでラドクリフに、「なぜ、あなたはハイソックスを履くのか?」と聞いたときですね。あとは、綾真澄選手のエドモントンでのコメントですね。
寺田 陸上競技担当になってよかったな、と思ったことってある?
佐々木 エドモントンのトラックを走れたことです。
寺田 他には?
佐々木 シカゴで高岡さんが日本最高を出したあと、「レース前日に眠れず(ちょっと辛かったとき)に、(日刊スポーツが)いい記事を書いてくれたので、それが励みになりました」と、言ってくれたことです。
寺田 一番忙しかったのは?
佐々木 エドモントンですよ。時差の関係で締め切りまで時間が少しあったこともあって、念入りに記事を書きました。一番長く、仕事をやりました。
寺田 心残りは?
佐々木 このインタビューにオチがないことですかね。
この日記のためにインタビューした以外は、特に何も話しませんでした。2人の間はいつも、そんな感じです。日記のネタを提供してもらうだけの、世にも珍しい関係。長い人生、そんな相手が1人くらいいてもいいかな、と思っています。
とはいえ、陸上界に根強い人気を誇る佐々木記者。女子マラソンのY内選手やT佐選手は、ファミレス論争では熱烈な佐々木支持者です。この日記には寺田が勝手に登場させているわけですが、ここまで人気が出ると、その存在は公的なものとなります(???)。一言もなく陸上界から去るのは許されません。近々、佐々木記者からの寄稿があるものと確信しています。
■10月7日(月)釜山日記3日目 インド人記者夫婦との出会い
アジア大会陸上競技初日。ですが、取材環境などはおいおい紹介できるので後回しにして、今日はインド人記者夫婦との出会いについて報告したいと思います。
ホテルに戻ったのが22:40頃。昼食が栄養補助食品だけだったので、ちゃんとした食事をとらないときついと判断し、ホテル界隈を散策しました。3〜4分足を伸ばすと、別の大きなホテルがあり、その周辺の方が飲食店は多いようです。そのうちの一軒に、外にメニューが出ていたこともあって安心できたので、入りました。といっても、焼き肉セットが一皿12000ウォン。決して安い店ではないのですが、日本円なら約1200円。昼食がほとんど0円しかかかっていないということもあって、少しくらいかかってもいいかと、気持ちも大きくなっていました。
カウンター席に陣取りました。背もたれがないのがちょっと不満でしたが、店員さんが肉を焼いたり切ったりしてくれるので、楽かなと判断。そのとき、隣の席にいたのが中年のインド人夫婦でした。英語でなんだかんだと注文をしていますが、まったく通じていません。見かねて、寺田が通訳しました。といっても、寺田が韓国語を話せるわけではなく、店員の1人(お姉さんにしてはちょっと老けていて、おばさんと呼ぶにはちょっと若い年頃の女性)が日本語をちょっと話せたのです。聞けば、以前に日本に滞在したことがあり、今もボーイフレンドが青森にいて、8年間も遠距離恋愛というか国際恋愛を続けているとのこと。青森の男性は外国人女性にもてるんですよ、と言おうとしましたが、意味が通じないと思ったのでやめました(青森県の方、ジョークですから怒りのメールはやめてください)。
話を戻します。
インド人の、主に奥さんの方が話しかけてきました。
インド人奥さん「英語はどこで勉強したの?」
寺田「日本では中学から大学まで、10年間はカリキュラムに入っているけど、自分の学生時代は英会話がなかった。だから、あまり上手く話せません」
インド人奥さん「いいえ、コミュニケーションをとるには十分な英語です」
寺田「旅行はできても、とても仕事では役立ちません」
インド人奥さん「韓国へは何の目的で?」
寺田「アジア大会の取材です。僕は陸上競技が専門のフリーランスです」
インド人奥さん「この人もアジア大会の取材なの」(と旦那を指差す)
インド人記者「今日も取材に行ったのですか」
寺田「ええ。今日は女子走幅跳でジョージ選手(インド)が優勝して、忙しかったんじゃないですか。2位のハナオカ選手は、相当に悔しがっていましたよ」
インド人記者「こーんなにたくさん、記事を書いたよ。明日も陸上競技の取材」
寺田「はい。明日は男子ハンマー投で絶対に日本が勝つし、100 mも見ていてください。アサハラという選手が勝ちますよ。彼は10秒を切る可能性もあります。成功すれば、黒人以外では初めてです」
インド人記者「彼は日本のどこの選手ですか。東京? 名古屋? 大阪?」
寺田「アサハラはアメリカに住んでいます。オバデレ・トンプソンっていう9秒台のスプリンターを知っていますか」
インド人記者「もちろん知っているよ。国はバルバドスだろ」
寺田「アサハラと彼と同じコーチの下で練習しているんです」
最後に、名刺まで交換してしまいました。ニューデリーで135年の歴史を誇る「THE PIONEER」という新聞のSPORTS EDITORで、K N K Menonという記者でした。13日に帰るというので、マラソンは見ないのかと聞くと、あっさり「そうだ」とのこと。日本や韓国とは、お国の事情が違うようです。
■10月6日(日) 釜山日記2日目その2
23;30のバスに乗り遅れ、24:00MPC発のバスで帰宿。中国新聞の黒神さんと一緒になり、あれやこれや話ながらの道中(といっても15分くらい)。地方紙の記者も、かなりハードワークです。その日になるまで取材する競技が決まらないこともあるし、カメラマンもやたなくてはいけません。
途中、広島陸協のWEBサイトを作成している方が、頑張っているという話を黒神さんがしてくれました。前にも書いたかもしれませんが、広島陸協サイトは寺田が書いた為末大選手のヨーロッパ遠征記事を、転載しています。これが、寺田の場合、嬉しいことなのです。官の色の強い組織が、寺田のような無位無官の人間が書いている駄文を、その公式サイトに掲載するなんて、ありえません。たぶん、組織の官の色が濃くなるほど、そして組織が大きくなるほど、野原の石っころのような個人は黙殺します。聞けば、管理者の方はすごく陸上競技が好きらしいです。官民を問わず、そういう方の目に留まったというのは嬉しい限りです。
ホテルに着いたのが0:20頃。背中がどうしようもなく張っていたので、これはビール飲まないときついと判断して、ホテル近くに食事に行きました。釜山のこの地区は、0時過ぎでも営業している飲食店が多くあります。ラテン・ヨーロッパでいうカフェの感覚でしょうか。店内は、深夜だというのにいくつかのグループがわいわいガヤガヤ、話に興じています。
店のおじさんに「ビール」と注文しても、理解してくれません。「ビアー」……「ビーア」……全然ダメ。最後に紙に「beer」と書いてもわかってくれない。仕方なしに、グラスで飲む素振りをし、冷蔵庫を指差したら、やっとわかってくれました。初めてですね、ビールを注文するのにこんなに苦労した国は。寺田が未成年に見えたのでしょうか。
写真を見て注文した料理は、なんだっけ……日本の焼き肉屋にもある料理です。とにかく、大きな骨の周りにちょっとだけ肉が付いていて、煮込んだスープみたいな料理。あとはご飯とキムチ類。これで500円くらい。ビール中瓶1本と合わせて700円。食事は日本の半分から3/4くらいの値段でしょうか。
帰りにコンビニに寄って明日の朝食を購入。入ったとき、ちょっとキムチ臭が鼻を突きますが、品揃えは日本とかなり似ています。ホテルに帰ったのが1時過ぎ。洗濯して、インターネットに接続……成功しました。どうやって成功したかは、企業秘密。強いて言うなら、根性でしょうか。実は昼間、ホテルでの接続ができるように、いろいろと努力をしていたのです。設定の問題とは、ちょっと違います。
でも、料金はプレスセンターの公衆電話でやるのと比べ、最低でも2倍はかかります。ホテルの従業員に袖の下をつかませるような類のことではありません、決して。ホテルの電話代が公衆電話より高ければ(たぶん高いと思いますが)、もっと高くつきます。ということで、この方法は最後の切り札。出来るかぎり封印しましょう。
■10月6日(日) 釜山日記2日目
釜山2日目。試合は明日からなので、今日はメインプレスセンター(MPC)の下見(使い勝手がどうか等)と、釜山に持ち込んでしまった原稿書き。プレスセンターはまあまあかなという印象ですが、ペン記者のワークスペースが狭すぎます。全部のシートにすでに各社の名前の札が貼ってあり、とても割り込むことができなさそう。まあ、明日からはほとんど陸上競技場での作業になるのでいいか。結局、原稿を書いたのはカメラマンのワークルーム。公衆電話でインターネット接続ができました。
15時頃、ちょっと遅めの昼食。6000ウォン(約600円)の「ランチ」で、大きなお弁当箱に入っていて、ちょっと豪華っぽかったです。韓国にもみそ汁がありました。海苔は塩つきの韓国海苔。しかし、温めた料理は一品、キムチ風味のイカだけでして、その他は漬け物類ばかり。あと、骨付きの冷製肉がありました。食べませんでしたけど。
陸上関連の会見は、昨日済んだばかりということで、今日は新しいネタはなし。タイムテーブルがかなり変わっていますので、専門誌でチェックしている方は、さらにWEBサイトでし直した方がベターでしょう。WEBサイトも間違っている可能性もあるようなんですが。
22:45に持ち込み原稿を仕上げ……まだ、メルマガがあります。が、ちょっとしんどいので帰ります。あー、でも23:00のバスに間に合わないから、23:30まで頑張ろう。隣でフォトキシモトのM船カメラマン(この写真は昨年の世界選手権)も頑張っていることだし。メルマガはホテルで頑張って、なんとか明日配信が目標。でも、明日早いんですよ。男子20kmWが8:30スタート。でも、ここで深刻な問題が生じました。競歩はスタジアムから3〜5km離れた場所でやるのですが、これを取材していると9:50からの男子100 m予選に間に合いません。アジア大会史上初の競歩種目金メダルが期待できる男子20kmWと、9秒台もあり得る男子100
m予選。あなたなら、どちらを取材しますか?
■10月5日(土) 釜山日記1日目
なんとか釜山に着きました。いろいろと大変でしたが、人の助けを借りたりして、なんとか出発。18:10成田発のノースウェスト79便。出発が50分も遅れましたが、釜山には定刻より15分遅れただけの21時着。機中でメルマガ用のMIPを書き上げました。着陸の際はパソコンは使用禁止ですが、着陸してから実際に降りるまでって結構時間があったりするものですから、寸暇を惜しんで執筆。一番最後に降りたらバスがいなくて、1台後に来た乗員移動用のバスで入国審査場まで移動。でも、ここで他の乗客たちに追いついたわけです。
荷物を受け取って外に出ると、目の前がレンタルモバイルフォン屋さん。21時を過ぎているのに、これはマジで助かります。それに、日本で借りるよりも明らかにレンタル料や通話料が安い(安井章泰は復帰戦の全日本実業団100 mで3位でした)。
ところが、空港内にあるアジア大会アクレディテーション・オフィスが閉まっています。どこも、やることは官より民の方が利用者のことを考えている、ということでしょうか。大会インフォメーションデスクには人がいたので、どうなっているのか質問すると「あなたが到着するのが遅すぎる」とのお答え。確かに、寺田が乗った来た便には、大会関係者はほとんどいなさそうでした。関係者は明るい内に現地入りする、というのが常識なんでしょうか。でも、一応、プレス申請のときに便名を提出させられたので、主催者も到着時刻は知っているはずなのですが…。まあ、人数が少ないですから、無視してもいいと考えたのでしょう。
しかし、インフォメーションデスクの人たちは親切でした。レンタル携帯電話屋さんのお姉さんは日本語がかなりできましたし、インフォメーションデスクの人たちも日本語が少しできる。日本語と英語がチャンポンになった会話をして、アジアを実感しました。
ホテルまでは車で送ってもらいました。寺田1人をです。1時間もかかる道のりですから、ありがたいですね。街中はハングルだらけ(ホテルの部屋から見た通り)。当たり前ですが、実際に目の当たりにすると、迫力を感じます。ちょっと前に「トリック」か「トリック2」というドラマの中で、文字には力がある、という意味のことを野際陽子が台詞で言っていましたが、なるほどと納得した次第。
渋滞に巻き込まれたこともあって、ホテル着は23:20。こんな部屋です。広さは十分すぎるくらいですが、報告通り、インターネットが接続できません。市外通話、国際電話はいったん交換を通す必要があるという、年代物のシステム。釜山市内にアクセスポイントがあれば可能なのですが、寺田がふだん使っているNIFTYのアクセスポイントは“All Korea”で韓国全域一律の番号なのです(市外扱い)。ホテル内に日本のグレ電のような公衆電話がないかフロントに質問しましたが、ダメ(このお兄さん、英語と日本語とどっちで話すのがいいか聞いたら、答えは日本語でした)。どうやら、ホテルからの接続はあきらめるしかなさそうです。
先に釜山入りしていたO山さんを訪ね、交通の便を確認。メインプレスセンターまで地下鉄で2駅で、そこから各会場行きのバスに乗れるとのこと。なんとかなりそうです。
メルマガを今日配信するのは不可能になったので、もう1本の締め切りの原稿とあわせ、明日やります。今日は寝ます……っと、洗濯しなきゃ。
■10月4日(金)
松山大OBの方からメールをいただきました。一昨日の日記に、「土佐礼子選手は全日本実業団1万m途中棄権」と書きましたが、正しくは欠場でした。「DNF」ではなくて「DNS」です。公式記録を見ると確かに「DNF」になっていますので、これは主催者側の間ミス……ですが、土佐選手ほどの大物の動向をしっかりつかんでいないとは、かなり恥ずかしいことですね。反省します。スーパー陸上で足を捻挫したそうですが、今は元気に練習してるとのことです。
今日は、夕方、打ち合わせが1つ。急な話だったので、寺田が「どうしても、都心まで行くのは無理です」と話したところ、先方が永山(多摩市)まで来てくれました。大変ありがたいことですが、申し訳ないことをしました。
いよいよ明日、釜山に出発。2〜3本、原稿を持っていくことになってしまいました。あー、自己嫌悪。先にパッキングして、睡眠をとり、それから残った時間で原稿かな。ということで、復刊したばかりのメルマガが、早くも配信遅延。申し訳ありません。深く、お詫びします。ちなみに、MIPネタは小島兄弟の予定。
でも、悪い情報が1つ。本日、韓国から連絡があり、寺田が泊まるホテルはインターネット接続不可能とのこと。プレスセンターでなんとかできるとは思っていますが、そこで接続(独り占め状態)を長く続けたらひんしゅくものでしょう。サイト更新はどうなる?
■10月3日(木)
昨日の日記で「忠政啓文選手は土佐礼子選手と、松山大で同期だった(先輩だったかも?)」と書いたところ、愛媛県のマラソンランナー・かんちゃんさんのKANCHAN'S AID
STATION掲示板で取り上げてくださいました。
忠政啓文選手は、松山大学で土佐礼子さんの同級生です。これは間違いないです。彼は、地元のラジオ番組にもよく出ますが、なかなかのお笑い系キャラですよ。「ジャンクSPORTS」にも出られそうです(笑)。
忠政(ただまさ)だけに、“ただ者”ではなかった、というところでしょうか……。
それはさておき、「ただ者で終わりたくない」と、鬼気迫る思いでマラソンに取り組んだのが有森裕子選手でした。どこから見ても、彼女は“ただ者”ではありません。
その点、締め切り時間に40分も遅れ、編集者に「いやあ、☆野くん(Rマガ)からだと思って電話に出たら、別の人でさあ。次の電話は間違いなく☆野くんだと思ったらこれも違ってさあ」などと、言い訳をするライターは、“ただ者”でしかありません。
などというネタづくりの電話に、超多忙のなか協力してくれた編集者は“ただ者”ではありません(暗に、言い訳電話はネタづくりが目的だったと、弁解しているわけです)。
そうそう、「学生結婚して夫婦選手としてインカレに出れば目立てる(薦めているわけではありません)」、というネタに反応してくださったサンドラなっちも、“ただ者”とは思えません。その分野でサンドラなっちの右に出る者はいないと確信します。
あー、もう東の空が白んできました。川本先生の忠告(おやじの時々日記の10月2日参照)を守れず、徹夜とは……。忠政選手も、奥さんに何か忠告をするんだろうか。
■10月2日(水)
今日もひたすら原稿書き。何をそんなに書いているのかというと、それは企業秘密。一段落着いたところでファミレスに行き(といっても夕方になっていましたが)、30分である原稿のアウトラインを考えて、2時間で1本書き上げました。といっても、クリーニング屋によってから帰宅後、締めの部分を書き直したり、細部を直したり、行数削除に約2時間。これでは、時間がかかるわけです。
忙しいのは寺田だけではありません。たぶん、寺田以上に忙しいと思われる陸マガ編集部★野くん(★は伏せ字)からメールで、「全日本実業団1日目には競歩の忠政夫妻も出ていました」との指摘。9月28日の日記に、3組の夫婦選手が出ていたと書いたのですが、これは、大物を見逃してしまいました。かなり反省。もしかしたら、他にも夫婦選手はいらっしゃるかもしれません。見逃しがあったらお詫び申し上げます。
考えてみたら、夫婦出場は実業団の試合だったら、そんなに珍しいことではありません。インカレだったら珍しいでしょうけど。目立つためには、学生結婚をしてインカレに夫婦出場する方がいいでしょう(薦めているわけではありません)。
話を戻します。忠政良子選手は昨年の世界選手権代表ですし、夫の啓文選手は「土佐日記」で有名な土佐礼子選手と、松山大で同期だったという(先輩だったかも?)、見逃すべからざる夫婦。大変失礼しました。
そういえば、土佐礼子選手は全日本実業団1万mで途中棄権。人気者の土佐選手のこと、「どうしたのか」、とベルリン・マラソン取材中の記者からも問い合わせが来ました。ちょっと心配。
ちょっと心配なのは、寺田も同じ。あと2日で仕事を片づけて、釜山に行けるのか?
■10月1日(火)
昨日、今日と自宅兼事務所に缶詰状態。今日はファミレスに行って仕事の効率をよくしようかと思いましたが、台風で雨が強くなった中を歩くのもなんだったので断念。
それにしても、もう10月。今年度も上半期が終わってしまったわけです。下半期の前半は、おかげさまでかなり忙しそう。10月は釜山に11日間、高知に6日間の出張。そうこうするうちに、駅伝関係の仕事もこなすことになるでしょう。12月以降はまだ仕事の予定が入っていませんが、単行本の編集作業の仕事をすることになるかもしれません。
ということで下半期最初の今日、景気をつけるために、世界ジュニア金メダリストの三村芙実選手の記事を掲載しました。オリンピアンのご好意で、雑誌掲載の記事全文を掲載します。今回の記事では、行数の都合で書ききれなかった部分があります。それは、三村選手が国際感覚に優れていて、それが競技にプラスとなっていると思われる点。実際の誌面では写真説明として、その部分に触れていますが、ここでは補足の意味で、寺田がいったん書いた記事の一部を紹介したいと思います。
ここまで紹介してきたことの他に、三村のもう1つの武器として、日下部先生をはじめ関係者が口を揃えるのが、三村の国際経験、国際感覚だ。アメリカ・シアトル市で小学校1年のときまで生活した経験が、競技にも生かされている。ジャマイカでも、三村の国際性はいかんなく発揮された。選手村で同じ建物だったカナダやアイルランドの選手と仲良くなった。ほとんどの日本選手が閉口したとい食事も、「おいしくて太っちゃいそう」と一人だけ気にしなかった。
「あの環境でベストを出すのは並大抵のことじゃない。言葉を操れて、社交性もある。外国人に対して、“外国人だから”という意識はないんです。環境への適応能力はすごいと思いますよ。これは、教えてできることじゃありません」と、日下部先生も舌を巻く。
陸上競技は今月7日からですが、ニュースを見るとアジア大会の各競技がもう始まっています。4日後には寺田も釜山入りしなければなりません。ところが、それまでに片づけないといけない仕事が山積状態。缶詰状態が続きそう。なかなか国際モードになれません。
■9月30日(月)
夜の9時頃、福島大・川本先生のおやじの時々日記を読んだら、なんと宮田貴志選手の話が。“先を越された!”、“ネタがかぶった!”と2つの思いが瞬時に沸いてきました。昨日の日記は、ちゃんと昨日のうちに書いたんですよ、帰りの電車の中で。しかし、ベルリン・マラソンの話とどちらを出すか迷っているうちに、今日になってしまったのです。でも、切り口が違いますし、別にいいかな、ということでまずは宮田選手ネタの昨日分を掲載。
で、ベルリン・マラソンですが、昨年も全日本実業団最終日と同じ日で、寺田は全日本実業団の取材。自宅でビデオを見るまで結果を知らないようにしようと、金沢からの帰路、ベルリン関連情報をシャットアウトしようと試みました……が、空港の搭乗口脇の大型モニターでQちゃんが月桂冠を被ってニコニコ笑っている姿を見てしまい、せっかくの計画はおじゃんに。
今年はもう、そこまでする気はありませんでした。世界最高も出ないと予測していました。展開的には前半はハイペースで飛ばし、練習不足の影響が出る後半でどれだけ粘れるか、というレースをすると思っていました。そして、セットで出場する(というほど短い間隔でもないですけど)東京国際女子マラソンで、後半に抜け出す展開を試みるんじゃないかと。
前半はフェルナンデス選手と一緒に走りましたが、それはたまたま、フェルナンデス選手がQちゃんの考えていたペースだったということでしょう……と思っていましたが、今日、いろいろな記事を読むと、そうではなかったようです。練習不十分の中でどういったレースが、チャレンジができるのか、という狙いだったようです。前半をどうしよう、後半をどうしよう、ということではなくて。その辺のニュアンスは、The Marathon〜高橋尚子の新たなる「挑戦」・ベルリンから東京へ〜で。
そうそう、報告が1つ。ビクターの出張修理が来てくれて、VHSデッキが無事に直りました。部品の1つが何かの衝撃で外れてしまい、テープが入るのを邪魔していたのです。それも困りものですが、修理代金が3980円と納得できる範囲だったのでビクタギロワの話(9月24日の日記参照)は言わなくて済みました。
■9月29日(日)
全日本実業団2日目。地元福島勢も頑張りました。女子100 mでは松本真理子選手が3位、400 mでは吉田真希子選手が優勝。女子やり投では福島県出身の小島裕子(白梅学園高教)選手も優勝しました。100 mH3位の藤田あゆみ選手、5000m5位の橋本康子選手の2人は、清陵情報高出身コンビです。女子400 mの表彰後には、吉田選手にサインを求める列ができました。テレビ出演した効果でしょうか? それ以前からの人気なのかもしれませんが…。会場には、山下訓史先生や雪下良治先生、畑中良介先生、下重庄三先生と、ちょっと前に陸上専門誌上を賑わせた顔ぶれも見ることができました。
そんななか、宮田貴志(福島大)選手が補助員とはちょっと違う役目ですが、それっぽい仕事を2日間、かいがいしくこなしていました。宮田選手97年の京都インターハイ100 m優勝者で、前年のシドニーの世界ジュニアでも取材した選手。当時から好青年で、記者たちの間でも(専門誌と、たぶん地元紙でも)人気が高かったですね。98年の日本インカレには1年生優勝も達成しました。将来が嘱望されたわけですが、その後はこれという戦績はありません(と言い切るのは、本当はよくないですね)。
鋭い読者はお気づきと思いますが、現在の所属が福島大ということは、大学5年目ということになります。院生ではありません。日本インカレで頑張るために留年したと、ちょっと前に川本先生から聞きました。ところが、今月の同大会では100 mで6位。準決勝まではかなりいい走りで3位以内も十分考えられる走りで、そうなったら取材したいと考えていたんですが…。
卒業できる単位はすでにほぼ獲得している自主留年。話を聞くと、仕組みはよくわかりませんが今月いっぱい、つまり明日で卒業できるのだそうです。卒業後の進路は川本先生が当たっているのだそうですが、現時点では未定。それでも、特に不安がる様子はなく、「まだまだ陸上を頑張ります」と元気に話していました。陸上競技を続けられる職場を選ぶようで、どんな業界・職種になるかは気にしていない様子でした。
今回、取材をして認識を新たにしたことが1つあります。実業団選手というと、陸上競技が仕事というイメージがありますが、“通常の仕事”をフルタイムでこなしながら練習している選手が、かなりの割合でいること。優勝者に限っても、男子の競歩とフィールド種目、女子のフィールド種目に何人か見られました。対象を入賞者に広げれば、半分以上がフルタイムで働いている人たちでしょう。
実業団とひとくくりで表現してしまいますが、中身の異なる2タイプの選手たちの競技会なのだと、強く思った次第。そんなこと、言われなくてもわかってるって?
■9月28日(土)
全日本実業団1日目。取材の日は、ネタが多くて困ります……が、やはり、福島陸協の報道への記録配布システムを、紹介させてください。
記者1人に2つのボックス(白と黒)を配ってくれ、親切にも社名まで紙に書いて貼り付けてくれます。で、黒い方にスタートリスト、白い方にリザルツと分けて配るのです。記録配布用にボックスやカゴを用意してくれる陸協は多いですけど、2つに分けてもらったのは初めて。もしかしたら、福島国体がそうだったかもしれませんが…。福島国体は、他のことに気を奪われていて、気づかなかったのかもしれません。他のこととは、もちろん取材でしょう。この方式は、目当ての種目を探すのに、能率が2倍になるわけです。
しかも、紙をボックスに入れるときに、天地を一方向に統一して配ってくれます。これって、意外と気づかない陸協が多いんですけど、天地がばらばらに配られるのと比べると、思いっきり記録をチェックしやすいのです。これをやるのとやらないのでは、文字通り天地の差…。福島陸協は最高です。かなり頭のいい人が仕切っているものと推察します。
いきなり個人的な話に変わりますが、実は寺田にも家族がいます。法律上の用語でいうと、配偶者というやつですね。結婚したのが7年前。独身最後の取材が95年10月の福島国体でした。今日、7年ぶりに“思い出の競技場”に足を踏み入れたわけです。
その競技場で3組の夫婦が競技をしていました。小坂田淳・美恵夫妻(200 m・400 mH)、羽生悟・美保夫妻(走幅跳・走幅跳)、尾上三知也・洋子夫妻(走高跳・走幅跳)。羽生(はぶ)夫妻が2位・優勝という結果で、惜しいところで夫婦同日優勝を逃しましたが、この夫妻はすごいです。どうすごいかは、紹介する機会もあると思うので、今回は省(はぶ)きます(このネタ、羽生悟選手の方から「使ってください」と言われたので)。
小坂田夫妻も同日優勝の可能性大でした。まずは出産を経て復帰した美恵選手が400 mHに優勝し、明るい雰囲気に会場が包まれました。夫の淳選手も200 m予選をトップ通過。決勝もコーナーをトップ(だと思いますが自信なし)で出てきて、夫婦同日優勝かと多くの人が期待したところで、大腿を痛めて倒れ込んでしまいました。アジア大会を控えた時期でもあり、ケガの状況が心配です。
実は、寺田の家族も弱いながらも短距離選手でして、以前、東日本実業団に出た際、目の前で肉離れを起こしました。それまで、選手が「あっ」とやるのを幾度も幾度も見ていましたが、今思うとそれは、頭で「ケガをして気の毒だな」という認識はしていても、当事者の痛みや不安を肌で感じていたわけではなかったのです。家族が「あっ」とやったのを見たときの、あの感覚は言葉では言い表せません。強いて言うなら、その瞬間に全身に鳥肌が立ち、何かが脳天を突き刺す感じなのです。その突き刺すというのが、外部(真上)から刺されるようでもあり、内部(真下)から刺されるようでもあり…。強いて擬音にするなら「ぐぁわわぁん」という衝撃が渦巻きになって、身体の内部と外部の両方を包む感じ、とでも申せましょうか。
淳選手の側に付き添っていた美恵さんに、心から同情いたします。そして、一刻も早い小坂田選手の復帰を、心からお祈り申し上げます。
■9月27日(金)
なんとなく、そうなるんじゃないかと思っていましたが、福島入りが最終の新幹線になってしまいました。
今日締め切りの原稿を、15:30頃本文を書き上げたのまではよかったのですが、そこで気持ちの張りがゆるんでしまったようです。昼食休憩を入れたのはいいとして、本文の見直し・リード・見出し・プロフィールなどを書き上げるのに手間取り、送信したのが18時ちょい前。
福島行きの準備がほとんど進んでいませんでした。19:30京王永山発の電車に乗ると22時ちょっとに福島に着けたのですが、厳しい状況に。できればですが、日本インカレの東海大短距離5種目完全制覇の記事も、完成させたかったのですが…。あきらめムードでふとテレビを見ると島谷ひろみのコンサートをやっていたので、すかさず録画。こういうとき、テープを入れる必要のないハードディスクレコーダーは楽です。
シャワーを浴び、荷造りが終わったのが19:45。それから再度、資料のコピーなどで20:15。東海大の原稿は移動の最中に完成させよう……という考えは甘かったです。
金曜日の夜の埼京線(新宿→大宮)は通勤ラッシュ状態。大宮からの東北新幹線も満席で、座れたのは宇都宮から。でも、記事を完成させたのは、ホテルの部屋で0:30頃。ホームページ作成ソフトでデザインしてサイトにアップしたのが午前1時。コンビニから帰ってきたのが2時。明日は8時競技開始なので6時起床。睡眠4時間かあ。まあ、なんとかなるでしょう。ホテルが駅から近かったので、助かりました。
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