続・寺田的陸上日記     昔の日記はこちらから
2006年1月  今年は九州だっ!!
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◆12月24日(土)
 いったい何年ぶりだろう?
 全国高校駅伝取材のため、京都に来ています。昨日から今日の午前中まで関西某所で取材があり(いい話を聞くことができました)、それを済ませて昼頃に京都入り。最後はタクシーを使って、13時から始まっていた監督会議に間に合いました。といっても、会議をやっている会場の外で、区間エントリー表が出るのを待っていただけなのですが。

 今日の目的は、有力校監督たちのコメントを聞くこと。特に、女子は3強(諫早、須磨学園、興譲館)の力が接近していて、どこが勝つのか予断が許されない状況です。なんとか3チームの監督全員に取材したいと考えていました。
 しかし、ここ数年高校生選手の取材が少なく、各監督とも面識がありません。こういうときは、他の記者たちが囲んでいるときにご一緒させていただくのがベターです。
 女子の3監督については産経・O氏、読売・S氏と、関西の陸上競技担当記者の方たちに便乗させていただきました。男子では豊川工高・渡辺監督を中日新聞・K記者たちが囲んでいたので、そこに合流。佐久長聖高の両角監督は面識もあるので、寺田から声をかけることができました。
 本当に久しぶりの西京極取材で、どう動いたらいいか勘が鈍っていました。他の記者たちの動きを参考にして、なんとかなったという感じです。

 ところで、会場まで行くタクシーの運転手が相当なスポーツ好きな方で、こちらが高校駅伝の取材とわかると色々と話しかけてきます。ジュニア時代にすごい活躍をするのはいいことなのかどうか、とか。なかなか本格的です。水泳の金メダリスト、柴田亜衣選手が京都観光をしたときにチャーターしてくれたこと、プレゼントをもらったことを嬉しそうに話します。
 そのスポーツ通運転手が言うには、地元で行われている全国高校駅伝で記憶に残っている最後の選手は渡辺康幸選手(現早大監督)で、「その後はケニア選手ばかりでよく覚えていないし、関心も低くなっている」と言います。正確には、渡辺選手の卒業翌年は小林雅幸選手(現SUBARU)が1区の区間賞を獲得していますけど、それが世間の印象なのでしょう。

 夜はちょっとした食事会。7人の集まりでしたが女性が1人来ると聞いていたので、プレゼントを購入しようと思い立ちました。西京極から四条河原町まで阪急電車で移動。たぶん、目の前を何十回と通ったことのある阪急デパートに、初めて入りました。アテがあったわけではありませんが、なんとなくぶらぶらしていると、ヘルシーコーナーっぽい一画でピンと来るものがありました。ものの数分悩んだだけで、ハーブティーを購入。正確には覚えていませんが「二日酔いによく効く」というようなコピーが大きく印刷されたパッケージです。
 その女性の方が、明日の午前中の早くから仕事だとわかっていたので、洒落のつもりで買ったわけです。今夜はお酒を飲んでも大丈夫ですよ、という意味を込めて。ラッピングはしっかりクリスマス用にしてもらいましたけど。高校駅伝当日に午前中から仕事をする陸上競技関係者……って、いっぱいいますよね。


◆12月25日(日)
 全国高校駅伝の取材は7年ぶりでした。1988年から取材に行き始め、最後が何年だったか、なかなか思い出せなかったのですが、過去のリザルツをずっと見ていて1998年が最後だったと思い出しました。西脇工高に清水将也・智也双子兄弟がいましたから。中尾栄二選手がエースだった年で、兵庫勢5連覇の最後の年(西脇工2連覇・報徳学園・西脇工2連覇)。2区だった藤原正和選手(現ホンダ)が、今や初マラソン日本記録保持者です。7年間あれば、大きいことも成し遂げられる。
 その98年、女子は田村が優勝しましたが、前年の97年までは埼玉栄高が3連覇した時代。当時、監督だった大森国男先生が今は京セラの監督で、今年はついに原裕美子選手を世界選手権マラソン6位にまで育てました。7年間頑張れば、大きいことができますね。
 男子の西脇工は02年にも優勝していますが、高校駅伝は寺田が取材に行かなくなった後、仙台育英中心の時代に変わりました。女子は埼玉栄の後、優勝校は毎年変わって2連覇するチームはありませんが、ここ数年は諫早と須磨学園、興譲館が3強といえる時代に入っています。

 昨日の日記にも書いたように、7年間も来ていないと勘が鈍ります。この大会の取材の不便なところは、プレスルームのある建物と競技場の間に選手の走る取り付け道路があり、記者の動線が遮断されることです。報道担当の役員の方が、女子の5区への中継前にそのことを言いに来てくれて思い出しました。
 でも、「優勝チームはしばらくテレビのインタビューで拘束されるだろうから、47チームが走り終わってからでも間に合うはず。できるだけプレスルームで記録を集めよう」と思ったのが失敗。最下位の富岡東が大きく遅れていて、取り付け道路がなかなか渡れません。レース展開をしっかり把握しておかなかったこちらのミス。勘が鈍っていたことの一例です。

 そのため、優勝チームの興譲館の取材に出遅れました。新谷選手の話はもう、他の記者たちが聞き終わった後。森政芳寿先生も大人数の記者に囲まれていて、話が聞き取りにくい位置にしか行けませんでした。そういうケースでも、粘って取材をすれば挽回もできますが、他のメディアに記事を書く予定もないので、須磨学園の取材に切り換えました。
 長谷川重夫先生と小林祐梨子選手のコメントをしっかり聞けたので、これは記事にできるでしょう。興譲館の取材が不十分ではありますが、この2チームのスタンスは対照的だと感じました。どちらが良いとか悪いとかという話ではなく、強くなることへの情熱は同じでも、そこに至ろうとする考え方に違いがある。ちょっと面白く感じました。

 閉会式の最中に、某専門誌E本編集者に「(来ていなかった間に)何が変わりましたか?」と聞かれました。とっさに、「ケニア選手が多くなったことかな」と答えました。寺田が取材に来ていた98年までは、1区といえば仙台育英の選手だけでした。実際、93年から03年まで11回連続で同高のケニア選手が区間賞を取り続けました。それが昨年、今年と別の学校のケニア選手が区間賞を取りましたし、近年はケニア選手たちが集団でレースをしています。
 1・2位チームが国際記録となったのは史上初めてですし、入賞8チーム中3チームが国際記録となったのも初めて(2チーム入賞でも初めて)。
 そういう状況の1区で、森賢大選手は上手く走ったと思います。1kmまでケニア選手の集団について、そこで速すぎると判断して後退しました。けれども、しばらく日本人集団で様子を見て、遅いと見るや4〜5kmの間で抜け出した。名前同様、クレバーな走りだったし、日本人ナンバーワンの意地も力も見せてくれました。

 男子の取材は、取り付け道路が遮断される前にしっかり競技場に移動。高校駅伝史上2回目の3連覇の偉業を、生で目撃することができましたし(女子を含めると3回目)、仙台育英・渡辺高夫先生のコメントもしっかり取材しました。続いて、豊川工の集合場所を見つけ、渡辺正昭先生と1年生で3区区間賞の三田裕介選手を取材。さらに運がいいことに、閉会式20分前に会場の外で森選手の話まで聞くことができました。
 昨日の取材中「同じ県立の工業高校として、西脇工が目標」と話していたのが印象に残っていたので、豊川工の渡辺正昭先生にはその辺を突っ込みました。期待通りの答えが返ってきたので、それは記事にする予定です。
 偶然ですが、98年に初出場を果たしたのがこの豊川工と佐久長聖。佐久長聖はその年早くも4位に入賞していますが、寺田が来なくなった7年の間に、仙台育英に迫るポジションを確固なものとしたのが、この2校です。
 佐久長聖は佐藤清治、上野裕一郎、佐藤悠基に続いて今年、松本昴大選手が5000mで13分台を出しました。昨年まで3人で大牟田も並んでいましたが、歴史の浅い佐久長聖が一歩抜け出ました。高校記録を出してきた3人は傑出した力を持っていましたが、松本選手はそこまでの存在ではありません。その松本選手が13分台を出したことが、チームにとってはプラスだということを、両角速先生は以前話していました(国体か11月の日体大で)。
 全国大会の豊川工は00年に2時間6分台をマークすると、03年まで6分台を続け、昨年は2時間4分台。過去、国際記録以外で2時間3分台を出しているのは、渡辺正昭先生が目標にしている西脇工だけです。陸マガ別冊付録を見ると佐久長聖の今大会の目標記録は2時間03分00秒で、豊川工が2時間03分59秒。ともに、“西脇工の域”を目標にしていたわけです。
 今日も豊川工が3位で、純和製チームでは最高順位。渡辺先生によれば、そこを目標にしたり気にしたりしているわけではないとのことですが(この点も記事に盛り込もうと思っています)、客観的に見たとき、同高が2年連続純和製チームトップというのは事実です。2年前は佐久長聖がトップでした。

 7年ぶりの高校駅伝取材最大の収穫は、仙台育英の3連覇という偉業を見ることができたことです。「谷間の学年」(渡辺高夫先生)で、なおかつレースでミスをしても勝ってしまう強さで、チーム作りの基本的な部分が上手く回転していると思われます。
 女子も、埼玉栄高以来1時間6分台は出なくなっていましたが、03〜04年の全国大会で3強が1時間7分台を記録し、今年の県予選でも3強が揃って1時間7分台。そろそろかな、と期待していたら興譲館が今日、1時間6分台を出してくれました。このあたりの思いを、興譲館に取材したかったのですができませんでした。陸マガ別冊付録には「昨年の記録を1秒でも上回る」とあります。まあ、客観的に見ている側と当事者では、記録への意識の仕方も違ってくるでしょう。
 豊川工と佐久長聖高が失敗をしながらもきっちり3・4位に入り、最初の3連覇チームの報徳学園も、レース巧者ぶりを発揮して5位に食い込みました。報徳学園の監督は、3連覇の1回目に1区で区間賞を取った平山征志先生です。
 西京極からの帰り、阪急電車に乗ると、反対側のホーム(梅田方面行き)に報徳の選手がいます。走った選手まで電車で帰るのかどうかは知りませんが、3連覇の頃と同じ風景です。


◆2006年1月1日(日)
 あけましておめでとうございます。いよいよ2006年。陸上界にとっては大阪世界選手権のプレシーズンとなる年です。今季をどう過ごすかで、来年が左右されるとっても重要な年。というような話を原稿にも書きましたし、昨日、等々力投てき部長もそんな意味の話をしてくれました。

 本来、堅苦しい挨拶など、特にこの日記ではしたくないのですが、たまにはいいでしょう。でも、実生活ではそうもいきません。今日も、ニューイヤー駅伝のスタート前は、面識のある方たちには新年の挨拶をしました。大一番を控えている監督たちに新年の挨拶もどうかと思うのですが、走るのは監督たちではありませんから、手短に「今年もよろしくお願いします」と言う分には問題ないでしょう。
 スタート前に選手に声を掛けるようなことはしませんが、先方から声をかけてきたり、会釈してくる選手もいます。さすがに、新年の挨拶まではできませんけど。

 レースはコニカミノルタが快勝。中国電力が約1分差で続きましたし、3区以降は踏みとどまって、コニカミノルタの完全独走というレースにはしませんでした。でも、競り合うシーンがなかったのも事実。中国電力の選手たちも、その点を悔やんでいた選手が多かったです。尾方剛選手など、個人でも高卒新人にやられてしまいましたから、相当に悔しがっていました。
 ただ、尾方選手を破ったヤクルトの松下朋広選手は、なかなか面白い選手です。話を聞いていてそう思いました。詳しくは、次号陸マガで。

 取材は順調…でもなかったですね。
 重川材木店のフィニッシュまでテレビで確認し、フィニッシュ地点付近に移動。あるチームが集合をしていたので、まずはその取材から。この記事がけっこう大作なので、5人の選手と監督に話を聞きました。時間もそれなりにかかり、そのチームの取材終了時には閉会式が始まりました。選手への取材は中断しましたが、閉会式に出席していなかったヤクルト・物江コーチに、松下選手のことや4位と過去最高成績を収めたチーム状況について取材。その最中に、某社監督も通りかかったので、そのチームのある選手について、こちらも下調べの取材をさせてもらいました。
 閉会式後は高岡寿成選手にはパパッと手短に話を聞き(「後で電話をするかも」と言い残して)、陸マガ用に松下選手と某選手の話を聞きました。最後になったのが2位チーム・中国電力の取材です。
 これが、苦しみました。松下選手や某選手は、取材中に「この話で行けるな」という手応えがありましたが、中国電力は何を中心に書いたらいいのか、その時点では見通しが立っていませんでした。選手たちに話を聞いていても、「これで行きたい」と感じるものがないのです。敗れたチームの取材というのは、そういう傾向があるにはあるのですが、1区以外は、ここで大きく差がついたという点は見当たりません。“ここが失敗だった。だったら次からは…”という展開の方が書きやすいんですね。
 しかし、取材後に記録を見たり、頭の中でレースを振り返っていたら、あることにピピンっと気づきました。(雪が降らなくてホッとしたと思われる)毎日新聞事業部の大矢さんにその点を話すと、同意してくれたので、自分の認識が間違っていないのだと確信。なんとか書けそうです。

 レース前は新年の挨拶をして回りましたが、レース後はそんなことをしている余裕はありません。挨拶なしで、いきなり取材に入ります。取材対象の選手や指導者以外は、きっちり挨拶しないといけないところですが、その時間もありません。すれ違いざまに、パパッと済ませます。これは選手ですけど、重川材木店の萩野智久選手には「10日過ぎあたりに取材に行くから」とひと言だけ。
 ヘルシンキでお世話になったTBSの石原未来さん(インターハイ走高跳2連勝選手)への挨拶も、そんな感じですれ違いざまにひと言だけ。お互い足を止める余裕はなく、ほんの一瞬でした。石原さんはTBSの倖田來未と言われている女性……なのかどうかは知りませんが、レコード大賞受賞の感想などを聞こうと思っていたのです??? 


◆2006年1月2日(月)
 朝の7時からFM東京の「6SENSE」という番組に、電話ですけど生出演。箱根駅伝のみどころを話しました。といっても、時間は5分程度。パーソナリティの女性の方の質問に答える形でした。
 生出演ですけど、事前にちょっとした打ち合わせはしておきました。優勝候補が東海大で、それを阻止する可能性があるのが駒大、日大、中大、日体大、順大。でも、たくさん候補を挙げると聴取者が混乱するので、駒大を中心に話そうと。
 本番では普通に話せたと思います。実は11月の国際千葉駅伝の朝にも同じ番組に出ていて、朝練習帰りに車の中で聞いたというS社の監督とコーチから、「眠そうな声でしたね」と指摘を受けていました。眠かったわけではありませんが、テンションを上げすぎると“浮いて”しまいそうだったので、ちょっと抑えたのです。
 失敗したかな、「駒大が連覇を続けられる理由は?」という質問に対し、どれを挙げるか迷いました。結局、1年前の陸マガ増刊の記事で書いた中から、“各学年に核となる選手が必ずいる”という話をしたのですが、今回に限っては4年&2年なんですよね。“日常生活をしっかりする”という話の方が良かったかな、と後悔もちょっぴりしています。でも、日常生活と競技力がつながる話って、短時間にパパッとするのが難しそうに思えたんです。
 とにかく、じっくり考え、書き直しができる記事と違って、話すメディアは大変です。そういう世界でやっている人たち(金さんや増田さん)は、どうしたらあんなに上手く話せるのだろう。頭の回転の速さかな。

 ラジオ出演後は、箱根駅伝をテレビ取材。2年くらい前から、往路の取材に芦ノ湖に行くのはやめています。ちょっと、体が持たないかな、と感じ始めたので。テレビを見終わった後は、昨年はニューイヤー駅伝の原稿に取りかかったと思いますが、今年は駅伝とは関係のない、ある大作原稿執筆に費やしました。本当だったら、昨年中に書き上げないといけなかったのですが、これがなかなか終わりません。
 明日は朝早くに大手町に行きますから、かなりやばい状況。


◆2006年1月3日(火)
 8時には大手町の読売新聞社に。復路はスタートからしっかり、プレスルームでテレビ取材をします。それにしても、箱根駅伝の復路はいつから、こんなに忙しくなったのでしょう。以前は、テレビから目を離しても、全然OKでした。はっきり言えば、ニューイヤー駅伝の原稿を書いたこともありました。でも最近は、とても別の原稿なんか書けません。上位の順位がかなり入れ替わるようになっていますから。
 それでも、コマーシャルの間は目を離せます。前橋に来なかった記者の方に新年の挨拶をしたり、某専門誌E本編集者に立て替えてもらっていたお金を返したり。
 お金の部分も含めてかなりお世話になったので、オマケをつけて返した方がいいかなと感じていました。それで、年末に電話で話したときに「倖田來未は好き? ****があるんだけど」と質問したら、「別に好きじゃありませんよ」と強い口調で言われてしまいました。ところが今日、再度確認すると「それは欲しいです」とのこと。この数日の間に、E本編集者にどんな心境の変化があったのだろうか。

 優勝争いは二転、三転。復路のスタート前は、駒大かな、と予想していた記者が多かったようですが、7区終了時には、順大がこのまま行きそうだ、という雰囲気に。しかし、8区で順大のアクシデントもあって駒大がトップに立ち、やっぱり駒大だ、という雰囲気に。しかし、9区では伏兵の亜大がトップに。このあたりから、プレスルームはもう、蜂の巣をつついたような騒ぎでした(かなり誇張した形容です)。
 どの社も、ある程度順位を予測して紙面展開や、取材の担当を決めています。予測と違ってくると、それを練り直し、誰がどのチームを担当するか、その場で打ち合わせないといけないのです。10区の後半は恐らく、近年では一番騒々しかったと思います。これは、間違いありません。

 陸マガは事前に、どの大学を誰が担当すると決まっています。寺田は東海大と山梨学大の担当。どちらの大学も持ちネタは十分でしたが、レース後の取材がやっぱり重要。フィニッシュ地点に降りていくと、両校は近くに待機していました。しかし、選手たちの表情は対照的です。山梨学大は4年生の森本直人選手が「4年越しや!」と、興奮気味に叫んでいます。辻大和主務の目には、うっすら涙が浮かんでいます(本人は否定していたかも)。後から聞いたところでは、向井良人キャプテンも涙を浮かべていたようです。
 山梨学大が2位でフィニッシュし、東海大は予想外の6位。どちらの取材を優先するか迷いましたが、成績が悪かったチームの方が難航するかな、と感じて東海大の選手についていきました。各大学とも、フィニッシュ地点近くに陣取っているスペースがあり、そこに移動する最中に、9区で区間2位の一井裕介選手のコメントを聞き、東海大のスペースに着くと2人の選手に取材。
 間もなく、応援に来た関係者やファンに、選手1人1人が挨拶。この間は、こちらは取材ができません。6区で追い上げ体勢を築けなかった石田選手と、直前の故障再発で出場できなかった中井祥太選手は、挨拶の途中で涙をこらえられなくなっていたようです。普段は冷静沈着な小林主務の目にも、涙がありました。
 全体的な敗戦ムードは隠しようもありませんが、市村キャプテンの言葉には力強さがありましたし、4年生の丸山敬三選手や一井選手は、ユーモアも交えて挨拶をしていました。チームカラーなのか、新居監督のカラーなのか。見ているこちらも、肩の力を抜くことができました。

 挨拶が終わった後、5区で発熱の影響でブレーキをしてしまった伊達秀晃選手に、話を聞きに行きました。昨日の往路フィニッシュ後は、どの社も取材はできなかったと聞いています。元々、取材に対して“立て板に水”という感じの受け答えをする選手ではありません。どちらかというと、遠慮しがちな話し方になってしまうタイプ。そして、今回の結果ですから、落ち込んでいないわけがない。
 もちろん、話ができなさそうな状態であれば、取材はしません。逆に、決意を話したいと思っている選手もいます。後者と思ったわけではありませんが、今日の伊達選手は、サポーターへの挨拶の仕方や、表情などを見て、なんとか取材できると判断しました。それでも、最初に声を掛けたときの反応や表情で、しない方がいいと感じれば中止します。
 話してみて正直、痛々しさも感じましたが、これまでの取材で最も、芯の強さが感じられる話しぶりでした。具体的な内容は陸マガ2月号で。

 東海大の取材を終えてプレスルームに戻り、記録を整理した後に、昨年から閉会式を行うようになった東京ドームホテルに移動。山梨学大を中心に取材しました。さすがにもう、涙は見られませんでしたが、各選手の様子からも感動の余韻が伝わってきます。
 印象的だったのは、モグス選手のポジティブシンキング。チームへの溶け込み方も、これまでの留学生選手とは違うと思いました。これも、陸マガ2月号で記事にします。
 そして、出場20回目の上田誠仁監督の話が、含蓄のあるものでした。優勝したときの感動とは、種類が違う感動だと言います。

 予想以上の成績だった山梨学大と、予想を大きく下回る成績だった東海大。同じ箱根駅伝で、これほど対照的な涙を短時間のうちに見たのは初めてです。その両チームを取材できたのは、記者としてやり甲斐のあることだったと思います。


◆2006年1月9日(月・祝)
 最近、日記を書く日数がめっきり減って、“週一”日記のような頻度になっています。日清食品の1区は藤井周一選手ですが……読まなかったことにしてください。試合の取材に行くと、“これは面白い”と思えることがあって書く。試合のない日は書かない、というパターンです。これはいけません。心を入れ替えて(今さら何を、という感じですが)、頑張りましょう。

 さて、今日は何を書くかといえば、最近のパターンを踏襲するなら朝日駅伝ということになります。でも、取材に行ったわけではありません。記録を見た範囲で気づいたのは、九電工、旭化成、安川電機と九州勢が1位から3位までを独占したこと。これは、何年ぶりなんでしょうか。あやふやな記憶で申し訳ありませんが、この駅伝は日清食品やホンダ、ちょっと以前はNECと東日本のチームも頑張っていた印象が強いのです。4月からは東日本の一員となるカネボウも頑張っていたような気がします。
 選手個人では、7区区間賞の旭化成・小島宗幸選手が、区間2位に41秒、3位に1分12秒の大差をつけています。ニューイヤー駅伝の3区でも日本人2位(区間12位)ですから、いよいよ本格復活ですね。98年でしたでしょうか。あのマルティン・フィス(スペイン)選手を向こうに回してびわ湖マラソンに優勝したイメージが、今も鮮烈に記憶に残っている選手。シドニー五輪も補欠に泣きました。もう一花、咲かせてもらいたい選手の筆頭ですね……三代直樹選手(富士通)と双璧ということにしておきましょう。

 昔のことを思い出しました。恐らく、小島兄弟がまだ高校生だった頃(西脇工高です)。千葉国際クロスカントリーのジュニアの部を走っていたのだと思います。陸マガのトレーニングワイド・ハードル編を長く担当していただいた高木直正先生(順大のハードルコーチ)が、通告をされていたんですね。小島兄弟のことを「こじま兄弟」とアナウンスされていたので、急いで通告席に行って「おじま兄弟です」と、訂正してもらったことがありました。
 なんでそんなことを思い出したんだろう、などと考えていると、井上将憲・鯉川なつえ夫妻から年賀状が来ていたからだ、と思い当たりました。これは恐らく、2人が順大の4年の時。何かの大会で2人一緒に通告を担当していて「高木先生みたいだね」と声を掛けると、「尊敬しているんです。高木先生みたいになりたい」と、井上選手が答えてくれたことがありました。

 それから11年。その2人が昨年(一昨年?)ついに結婚して、連名で年賀状が来る。井上選手は110 mHの日本チャンピオンからボブスレーの五輪代表になり、鯉川さんは福岡ユニバーシアードで辛い経験をして、今は順大女子の監督。千葉クロカンのジュニアの部を走っていた小島選手は、競技生活の酸いも甘いも経験し、今、復活しようとしている。そういえば、朝日駅伝の行われている福岡県は、鯉川監督の出身地です。

 浜崎あゆみの「Will」を聞いていたら、なぜかセンチな気分になって、昔の思い出が次々につながってしまいました。

ひとは旅路の途中で幾度
訪る岐路に気付けるだろう
そこでどれほど心の声が
導くものを選べるだろう

誰も知ることのなき明日という闇
この手力の限り伸ばし君の隣で誓う

ひらひらひらひら花びら散るように
ゆらゆら揺れる心誇り高くあれと



◆2006年1月10日(火)
 今日の昼でやっと、ニューイヤー駅伝関係最後の原稿を書き終えました。12月から全日本実業団対抗女子駅伝、全国高校駅伝、ニューイヤー駅伝、箱根駅伝と3週連続で続いた駅伝行脚と、駅伝原稿ラッシュも一段落です。
 4つの駅伝が終了して、今年の各駅伝のレベルはどうだったのだろう?、と考え始めました。なぜ、そんなことを考え始めたのかというと、たぶん、箱根駅伝のレベルが低かったと、あちこちで言われているからでしょう。

 最初の全日本実業団対抗女子駅伝ですが、あの寒さ(−0.2℃〜2.1℃)の中で2時間13分台を記録した三井住友海上は、大会記録の2時間13分17秒を更新する力があったと判断できます。2位に2分近いタイム差をつけたことからも、コンディションが良くて、全体的に記録が良かったわけではないことは明白。ただ、京セラが力を発揮できなかったという事情もありますが。
 1週後の全国高校駅伝。午前中の女子は、興譲館が1時間6分54秒で優勝しました。埼玉栄高以外に出したことのなかった1時間6分台を記録しましたし、2位の須磨学園も1時間7分台で、レベルは高かったと思います。象徴的だったのが、1区で新谷仁美選手(興譲館)、2区で小林祐梨子選手(須磨学園)が区間新を連発したこと。7年ぶりに京都に足を運び、高校女子長距離は充実しているな、と感じたものです。
 午後の男子は、対照的に低レベル。優勝した仙台育英が2時間05分04秒ですし、2位以下は2時間6分台。1年前の仙台育英の優勝記録(=大会記録)は2時間01分32秒です。前回、前々回の仙台育英のレベルが高すぎたとも言えますが…。その分を考慮しても今回は悪かったと、渡辺高夫先生自身も言っています。
 ただ男子は、女子の行われた午前中と比べると、風が強くなっていたのは事実です。女子のときは0〜1mと微風だったのに対し、男子のときは2〜3mでした。同じ日に行われたにもかかわらず男女でレベルが違ったのは、気象条件の違いも働いた結果だと思います。

 元旦のニューイヤー駅伝(全日本実業団対抗駅伝)が、一番判断が難しいですね。というのも、後半の向かい風の強弱が、記録を左右するからです。全長100kmに延長されて6回目。今年のコニカミノルタの優勝記録、4時間44分54秒は大会記録に6秒と迫るものです。でも、前述したように、後半区間の向かい風が強かったときの4時間47〜48分と、どちらがレベルが高いと判断するのは難しい。何とも言えません。
 しかし、レース内容自体は間違いなく、レベルが高かった。2位の中国電力は、1区で付けられた差だけがマイナスで、残りの区間はしっかり走りました。ズルズルと差を広げられても不思議ではない序盤の展開だったのに、中盤以降で踏みとどまった。コニカミノルタも同様に、ミスなく走りました。その結果が、1・2位の差が少し縮まったかと思えばまた開く、というドラマ性の乏しい展開となった原因でしょう。
 でも、よく見ていれば、両チームの展開は緊迫感があったのです。前述の中国電力の踏ん張りに加え、3位以下でも富士通とヤクルトの好走がありました。それが、お屠蘇気分のお茶の間には、なかなか伝わりにくかった。その結果、視聴率が2%ほど期待を下回る結果となったわけです。まあ、視聴率には、他局の番組との比較や、外出率なども関わってきます。一概にレース内容だけで原因を特定できるものではないのですが。

 最後の箱根駅伝については、あちこちで書かれている通り。まさに、有力チームによる“ブレーキ”のかけ合いでした(その結果、レース展開は面白くなったわけですが)。気象条件が悪かったわけではないのに、総合記録は軒並み低下しています。実業団の監督たちに合えば必ず「何、箱根は?」と言われましたし、関東学連の役員ですら「厳しく書いてやってください」と言う状況。
 過去の優勝チームの区間順位を見ると、区間10位以下の区間の数はそれほど多くありません。
05年・駒大 1区間(8区)
04年・駒大 なし
03年・駒大 なし
02年・駒大 1区間(1区)
01年・順大 1区間(8区)
00年・駒大 なし
99年・順大 なし
98年・神奈川大 1区間(1区)
 それが今回は……数えてみてください。10区間の区間順位の平均でも、今年の上位校は例年と比べると低いそうです。下位校が頑張った結果の平均化ではなく、上位校が崩れた結果の平均化といえるでしょう。
 しかし、そういった状況のなかでも、優勝した亜大と2位の山梨学大は、各選手が力を出し切った。その結果の1・2位ですから、決して価値が低いとは思いません。

 ミスの多発により予想外の展開となって盛り上がった箱根駅伝と、ミスが少ないため予想通りの展開となって(表面的には)盛り上がらなかったニューイヤー駅伝。全体のレベルが高くなると、目立つ走りがしにくくなる傾向も出ます。
 しかし、ニューイヤー駅伝の3、4位を見ると、何かヒントがあったように思いました。3位の富士通は6区で藤田敦史選手が区間2位に35秒もの差をつける走りをしましたし、4位のヤクルトは4区の松下朋広選手が予想外の区間賞獲得で、チームを流れに乗せました。チームの他の選手もしっかり走り、その中で2人が快走することで上位に進出した。快走した個人も目立ち、チームも好成績を残すことができる駅伝を見せてくれました。亜大のチーム成績と、9区・山下拓郎選手も同じような感じでしょうか。

 駅伝の原稿が終わったので、ちょっと全体を振り返ってみました……が、まだ重川材木店の記事がありました。大事な仕事を忘れてはいけません。金曜日に新潟に行くことが、今日決まりました。予想以上の成績だったチームですし、どんな話が聞けるか楽しみです。


◆2006年1月11日(水)
 今日は夕方から動きが活発に(株価とかではなく、寺田の動きです)。昆明で合宿中の京セラ・大森国男監督に17時に電話取材。大阪国際女子マラソンの展望記事を書くためです。しかし、昆明への国際電話はもう、日常茶飯事のこと。日本・昆明間の電話料金を安くするサービスを始めたら、絶対にもうかりますね。請け合います。
 17:20には作業部屋を出て、17:40から新宿駅近くで打ち合わせ。
 18:50には山手線に乗り、渋谷で東急田園都市線に乗り換え、神奈川県某所に。駅まで車で迎えに来てもらい、近くのファミレスへ。サラダとドリンクバーを注文して、ここでも約1時間の打ち合わせです。2人で700円ちょっと。この時間の打ち合わせにしては、低予算で済みました。
 22時には自宅の最寄り駅である京王永山に。駅の真下にある書店がまだ開いていたので、中をブラブラしました。何かを買ったわけではありませんが、その書店に入るのが久しぶりだったし、早い時間に帰宅したのが久しぶりだったので。
 色々なことができた一日だったので、ちょっと嬉しかったのです。その後、原稿も書かないといけなかったのですが。

 一昨日の日記はちょっと評判がいいのですが、浜崎あゆみの「Will」も好きだという声もちらほら。こちらで試聴できます。最近はこうして、なんでもサイト上で知ることができて、便利になりました。オーストラリアに留学(居候?)中のあゆも、ぜひ聞いてください。
 この曲、何かのテレビCMで使われていた気がしたのですが、パナソニックのデジカメだったんですね。これも、パナソニックのサイトで映像が見られます。別に、パナソニックの宣伝をしているわけではありませんが、倉林俊彰コーチが喜んでくれるかもしれません。
 コニカミノルタの大島唯司コーチが怒るんじゃないかって? それはないでしょう。ニューイヤー駅伝に3連勝して、母校の亜大も箱根駅伝で初優勝したばかりです。それに、なんてったってアイドル……じゃなくて九州男児(熊本県出身です)。このくらいのことで怒るほど、度量が狭くはありません。


◆2006年1月12日(木)
 午前中は電話段取りのオンパレード。比較的、スムーズに進みました。
 1月のスケジュールもだいたい固まってきましたね。取材は来週が北九州女子駅伝。初めて行く大会ですが、今年は九州がキーワードですから。その前後で広島に寄るかもしれませんが、全国都道府県対抗男子駅伝の取材には残念ながら行けません。
 その翌週は大阪国際女子マラソン。短いものですが今日、展望記事を1本、書き上げました。当初は、実績のある日本選手の参加が少なく、盛り上がりがどうかな、と思っていました。しかし、阿蘇品照美選手(京セラ)と大平美樹選手(三井住友海上)に加え、宮崎女子ロードで奥永美香選手(九電工)が優勝し、初マラソン・トリオが楽しみな存在になってきました。気象条件にもよりますが、2時間25分は切ってくるんじゃないでしょうか。1人くらいは2時間23分台を出せるかも? 初マラソン日本最高は坂本直子選手の2時間21分51秒です。九州男児の末續慎吾選手の表現を借りるなら、ひょっとすると、ひょっとするかもしれません。
 ちなみに、阿蘇品選手は熊本、奥永選手は大分出身。九州出身選手の女子マラソン最高記録は意外に低くて、小川清美選手が昨年の名古屋で出した2時間26分02秒。その小川選手も今回出場しますから、九州最高記録の誕生はかなり高い確率といえます。
 大山香織選手、嶋原清子選手、小幡佳代子選手にも注目しています。大山選手は全日本実業団対抗女子駅伝の5区で区間3位と、いい走りをしていました。駅伝でお姉さんの大山美樹選手(6区3位)より目立ったのは、初めてかもしれません。嶋原選手はスピードにも対応できるレースができることを、見せる好機ではないかと思います。優勝(日本人1位)になったら、九州男児・川越学監督との約束もあります。寺田と川越監督の約束ですけど。
 小幡選手を代表する肩書きはセビリア世界選手権入賞ですが、大阪でもいい走りをしている選手。久しぶりに大阪で小幡選手の笑顔が見たいですね。よく、笑顔の似合う選手に○○スマイルとつけますが、小幡選手も実は笑顔が最高に輝く選手だと思います。

 19時には陸マガ編集部へ。刷り上がった2月号を受け取りました。表紙は箱根駅伝のフィニッシュです。巻頭は高橋尚子選手のインタビュー。為末大選手の連載手記(2回目)が、相変わらず面白いです。
 編集後記をなにげなく読んでいると、秋山編集者が「倖田來未とゴリエが頭から離れない」と書いています。いよいよ陸上界にも、倖田來未ブームが到来したようです。寺田のバッグにたまたま入っていた倖田來未の***を、プレゼントしました。
 最近、どうして倖田來未の名前をよく出すのかといえば、ちょっと考えているオチがあるのです。倖田來未という名前を見て、TBS石原未来さん(筑波大OB)の名前と、順番が逆だなと思ったのがきっかけです。筑波大関係のオチか? 高橋次長も筑波大だし。


◆2006年1月13日(金)
 なんでも好き放題書いている。と一部で思われている寺田だが、そんなことはまったくなくて、“書いてはいけないこと”を、誰よりもわきまえている。と、自分では思っている。「当人の前で言えないことを書くな」というのが、ベースボール・マガジン社創業者の故池田恒雄の考えだったが、その教えは今も寺田の潜在意識に刷り込まれている。
 昨日、陸マガ編集部に2月号を取りに行った際「これ日記に書いちゃダメですよ」と3回も繰り返していた秋山編集者は、寺田のことをよく理解していないようだ。会社の先輩をもう少し、信用してもらいたいものだ。

 その点、今日取材にお邪魔した重川材木店の重川隆廣社長(陸上競技部総監督)は、その辺を理解してくれていました。文字にはできないことでも、背景として知っておくと記事を書く際に役立つことが多くあります。そういった部分への理解があった上で、下手なことは書かない記者だと信用してもらえていると、取材はよりスムーズになります。
 竹石実コーチからは、練習中(選手はロードでジョッグ)や燕三条駅へ車で送ってもらう途中、面白い話をいくつも聞かせてもらいました。選手時代は日大、雪印で活躍した人物です。同学年には早田俊幸選手、田幸寛史中大監督、実井謙二郎選手とすごいメンバーがいて、スターウォーズ並にエピソードには事欠きません。田幸監督が大手銀行の内定を蹴ってエスビー食品に入社した話は、寺田も一昨年の箱根駅伝MOOKに書かせてもらいました。

 新たに紹介したいのはエリック・ワイナイナ選手とダニエル・ジェンガ選手のこと。竹石コーチは2人がまだ若かった頃(ジェンガ選手が学生の頃)に、2人と一緒に話す機会があったようです。その頃からもう、2人は日本語がペラペラ。でも、話しぶりが違うんですね。寺田もその辺がよくわかります。ジェンガ選手は“ですます”言葉で、丁寧に話します。それに対してワイナイナ選手は、フランクな調子でユーモラスな話し方。
「ジェンガは日本語が上手いけど、ワイナイナは冗談が上手いよな」と、2人に言ったそうです。日本育ちの世界的なマラソン2選手と面識のある方は、頷いているでしょう。


◆2006年1月14日(土)
 昨晩は最終の新幹線で東京着。重川材木店・竹石コーチに送ってもらい、燕三条駅に着いたのは19:15でしたが、急ぎの電話連絡をして、急ぎの原稿を書いていたら、20:31の最終1本前の新幹線に5分間に合いませんでした。燕三条ですから、返しのような速さで原稿を書きたかったのですが、三行書くのに30分かかりました(これはウソ)。
 でも、21:43の新幹線で東京まで帰れるのですから、新潟も遠くありません。
 自宅までの最終電車はないので、新宿の作業部屋に泊まりました。今朝は8:30に起床……するはずが、目が覚めたのは11:30。うーむ? 世の中、不思議なことがあるものです。13時に電話取材の約束があったので、慌てて朝食をとって取材の準備。ところが、電話取材は明日に延期に。こういうこともあります。
 このサイトのメンテナンスをして、昨日の日記を書いて外出。雨の中、専門誌の発売日なので書店に。作業部屋近くの書店は陸上競技専門誌を置いていないので、新宿駅京王デパートの啓文堂書店に。この本屋は京王線の駅には必ずある書店で(正確には100%ではないかも)、陸上競技専門誌も必ず置いてある素晴らしい書店です(実際は永山、聖蹟桜ヶ丘、稲田堤、新宿くらいしか足を運んだことはないのですが)。某専門誌を購入しました。

 同じく今日発売の月刊バーサスには、九州男児の末續慎吾選手の記事を書きました。「記憶に残る王者の肉体」というテーマで、かなりの数のトップアスリートを取り上げている70ページの特集の1つ。選手自身に、取り上げて欲しい身体のパーツを予め挙げてもらって、それについて取材をするという手順でした。
 末續選手が提案してきたのは背中です。05年のシーズンを反省し、冬期練習にどう取り組むかを考えていて、その重要性に気づいたといいます。目指す野生の走りをする上でも、背中の使い方がやはり重要になる。なんば走法とも、流れはつながっている。詳しくは、バーサスをご覧ください。
 バーサス用の取材で東海大に行ったのが、12月7日でした。11月下旬には陸マガの箱根駅伝増刊用に東海大に行きましたし、末續選手の取材の9日後には、箱根駅伝に向けた共同取材。1カ月の間に3回もお邪魔しました。

 2日前に入手済みの陸マガも、発売日は今日です。もう、ご覧いただいていますでしょうか。駅伝関係では全日本実業団対抗女子駅伝、ニューイヤー駅伝、箱根駅伝と、ちょっとずつ書かせてもらっています。どの記事も全力投球。その点で変わりはありませんが、特に読んでほしいのは、やはりP42の東海大の記事。1月3日の日記でも触れた、伊達秀晃選手のコメントです。自分で言うのも何ですが、読み返すと、伊達選手が話してくれたシーンが甦って、ジーンときます。書いた当人が、一番リアルに思い出せる。この記事を読んで、一番感動できる人間です。特権と言っていいかもしれません。
 いやいや。それは当たり前。問題は、その様子を読者にどれだけ伝えられているか。
 こういうとき考えてしまうのは、テレビなど映像メディアと活字メディアの違いです。伊達選手の様子をそのまま伝えるのなら、映像メディアの方がいいに決まっています。でも、今回のような状況で、伊達選手がカメラの前で話ができたかどうか。そして、インタビュアーが、コメントを引き出せたかどうか。
 もう1つ注意してほしいのは、今回の箱根駅伝で最も、“箱根駅伝の範囲だけでストーリーが完結しにくいチーム”が東海大です。伊達選手のコメントにも、それが出ています。そういった部分が、映像メディアでどこまでできるか……これは、映像メディアと活字メディアの違いではなく、一般メディアと専門メディアの違いかも。

 1つ大事なことを忘れていました。今年のテーマ(何のテーマ?)が九州になったのは。全日本実業団対抗女子駅伝3区で日本人1位となった扇まどか選手を取材したときに決まりました。正確には、その数分後に、選手たちに囲まれて写真撮影をしている沖電気・谷口浩美監督を見たときですが。旭化成の楠マネジャーや、十八銀行の高木監督と話をしたことも影響しています。来年(06年)は福岡で世界クロカンもあるし、熊日30kmは確か50回大会。成迫健児選手をはじめ九州出身選手のさらなる躍進や、川越学監督をはじめとする九州出身指導者の活躍も期待できそうです。寺田の頭の中で、九州の文字がぐるぐると回り始めたのが師走の美濃路でした。


◆2006年1月15日(日)
 今日はミズノ創業100周年イベントの取材で東京ドームに。午前はどうしても外せない用事があり、午後の部から。午後の部に先だって行われた水野正人社長、室伏広治選手、松井秀喜選手の会見に間に合いました。
 それにしても、100年です。寺田も同じスポーツ事業の世界に身を置いているわけですが、ちょっと想像がつかない長さです。個人と大きな組織という違いがありますから、当たり前かもしれませんが。
 どうやって乗り切ったのだろう、と思った時期が1つあります。それは、太平洋戦争の時期。戦時など非常時は、スポーツどころではなくなります。全てが戦争優先になる。そういった時代を、スポーツの火を消さないで事業を続けてきたのです。
 今だったら、大地震が日本を襲ったらどうなるか。国民生活は衣食住など社会インフラの確保が最優先されます。スポーツの記事なんか、誰も読まなくなるのでは? 社会が混乱した状態になっても国民が、スポーツの記事を読みたい、と思ってくれるような世の中になったら理想的なのですが。

 今回、スポーツクリニックとして、野球・サッカー・柔道・ゴルフ・陸上競技・テニス・バレーボールのクリニックが同時に開催されました。これまでは、個々の競技では開催してきましたが(特に陸上競技はMTCとTMAを中心に多数開催)、一会場で一斉に行うのは初の試みということです。
 それを一番喜んでいたのが室伏広治選手(たぶん)。「僕自身、野球やゴルフ、テニス、全てのクリニックに回りたい」と会見でも話し、クリニック終了後のイベントの空き時間に実践していました。ゴルフの腕前はよくわかりませんでしたが、テニスはアメリカ留学時代に熱中したとあって、強烈なストロークを披露。柔道では、谷本歩実選手の押さえ込みから脱出するなど、ギャラリーをあ然とさせていました。さすがに、古賀選手の押さえ込みからは逃げられませんでしたが。
 そういったちょっとした体験や、各競技のトップ選手との会話から、ハンマー投に役立つヒントを何か掴むこともあるのかもしれません。
 そうそう、末續選手も谷本選手の押さえ込みにトライしましたが、脱出することはできませんでした。その後の会見で「女性に対して本気は出せない、ということにしておきます」と話していました。それが、九州男児たるゆえんでしょうか。

 ミズノが一貫して提言していることの1つに、子供たちへのスポーツの普及があります。水野正人社長や室伏広治選手も言っていましたが、子供たちが家の中でテレビゲームばかりするようになる世の中は、なんとしても避けたい。寺田など大したことはできませんが、仕事に追われる陸上競技OB(中学・高校・大学で陸上競技経験のある人たち)が、昔を思い出せるような情報提供ならできるかもしれません。そういった陸上競技OBたちが子供を連れて競技場に行く。そういった雰囲気になる情報の提供をしていけたら、と思っています。


◆2006年1月16日(月)
 2日続けて後楽園に行きました。といっても、昨日のミズノ創業100周年記念イベントは東京ドームで、今日のコニカミノルタ優勝報告会は東京ドームホテル。同ホテルには箱根駅伝の閉会式も行われたため、今年に入ってすでに3回も後楽園の敷地に足を踏み入れました。念のために書いておきますが、箱根駅伝は“閉会式の取材”ではなく、選手や指導者に取材するために、閉会式会場に行っただけです。

 コニカミノルタの優勝報告会は以前は、八王子と都心と2会場で行なっていました。都心が主に取引先向け、八王子が主に社員と陸上界向け、という振り分け方だったと聞いています。それが昨年から、東京ドームホテルで一本化され、規模が拡大されました。それ以前に、都心でどのように行われていたか知らないのですが、八王子と比べると演出が華やかです。昨年はどうだったのか記憶があやふやですが、今年のBGMは生演奏でした。
 ここまで力を入れるのも、会社が駅伝を重要な営業戦略と位置づけているから。実際、「年始めに駅伝の話が出ると、取り引きは成立する」と社長さんが話していました。駅伝の成績がいいからできることなのでしょうが、ここまで営業に役立ててもらえると、選手やスタッフも嬉しいでしょう。自分たちが役立っていると実感できます。

 しかし昨年のパーティーは、八王子の時と比べて、選手やスタッフの話を聞く機会が減ったのが残念だと感じました。その点、今年は優勝報告会前に共同会見がセッティングされていました。もしかして昨年、不満を言った記者がいたのでしょうか。いずれにせよ、広報の方たちの気遣いに感謝したいと思います。
 広報のT橋さんのことを以前“○○広報”とこの日記に書いたら、中国新聞・山本記者がなぜか気に入ってくれたようで、ニューイヤー駅伝の際に話題にしてきました。中国新聞は全国都道府県対抗男子駅伝の主催紙ですから当然、コニカミノルタの選手たちも取材しているのです。今日も報告会が始まるとすぐに、山本記者から電話が入りました。まったくの別件だったのですが。
 T橋さんは「もっと選手に聞きたいことがあったのでは?」と、会見時間の短さも気にしてくれます。急いで聞く必要のある質問があれば、色々と手段も講じますが、今回はその必要はありませんでした。ちょっと別の角度で、気にしていることはあったのですが、それはパーティー後に佐藤コーチから話を聞く手筈になっていたので大丈夫なのでした。
 その代わり、松宮隆行選手や太田崇選手のことについて話し合いました。有意義な一時だったと思います。

 昨日から東海大関係者に多くお会いします。ミズノ100周年記念イベントでは、末續慎吾選手と高野進コーチだけでなく、吉野達郎選手(RaSport、千葉県出身)もクリニックを手伝っていました(RaSportからは坂上香織選手も)。短距離部門の手伝いでなく、谷川聡&内藤真人選手と一緒にハードル部門を担当していたので、「“吉野ハードル転向”と書いていい?」と聞くと、首を横に振っていました。千葉県では肯定の意味かもしれないので、真相は不明です。
 今日も来年度入社の中井祥太選手の姿が、下重正樹選手、池永和樹選手とともにありました。各選手の指導者も招かれているので、新居利広監督と大崎栄コーチも。訳あって某誌の某氏(英語で言ったらhat & capみたいなものか)としか書けませんが、その某氏も東海大OB。陸マガの箱根駅伝東海大記事を読んでくれたと言います。伊達選手の様子が読者にどれだけ伝わっているか、一抹の不安も大きかった(?)のですが、OBにはよく伝わったようです。
 聞けば、富士高(静岡県)の卒業生で、TBS佐藤文康アナの先輩とか。全日中800 mチャンピオンだったにもかかわらず、高校でサッカーをするか陸上競技をするか迷っていた佐藤アナを、陸上部に引っ張り込んだ人物だそうです。某氏、佐藤アナ、山縣苑子さん、寺田、と静岡県出身者が4人揃いました。だから何だ、というわけではありませんが。
 TBSスポーツの石原未来さんが、ニュース担当に部署が変わったと聞きました。新しく山縣さんに“TBSの倖田來未”を襲名してもらおうと提案しましたが、遠慮されてしまったことよ(唐突な語尾変化)。静岡県人は慎み深いのです。

 TBSといえば、山上プロデューサーと話をしていると、毎日新聞事業部の大矢氏が通りかかりました。「今年も(男女)実業団駅伝の公式ガイドを頑張りましょう」と、僭越ながら言わせていただきました。箱根駅伝は放っておいても複数社から展望雑誌が発行されますが、実業団駅伝は毎日新聞社だけ(TBSがスポンサーの1社)。外部からはわからないご苦労も多いと思いますが、楽しみにしている駅伝ファンも多いはず。
 どちらの駅伝がいいとか、好ましいと言っているわけではないのでご注意を。そんな議論はとっくに「卒業」さ(と、サイモン&ガーファンクル)。

 報告会後に佐藤コーチとお話しさせていただきました。正式決定はまだですが、ある取材を考えていまして、その予備取材とでもいうべきもの。面白い話を聞くことができました。その後、元大広(日本選手権などの広告代理店)の大内さんも合流(昼食時に寺田が忘れ物をしたからですが)。大内さんによれば、秋田県人は面倒見がいいと、小出正子さん(千葉県人)が言っているとか。夫君の高橋健一選手(松宮兄弟と同じ花輪高OB)がたいそう、太っ腹(?)な性格なのだそうです。寺田が、「それって県民性ですか? 単に個人のキャラでは?」と疑問を呈すると、秋田県出身の佐藤コーチも、高校(増田高)の先輩でもある酒井勝充監督を引き合いに出し、小出説を支持します。
 かくして、“秋田県人は面倒見がいい”説が確定しました。だったら、山縣さんと寺田の“静岡県人は謙虚で慎み深い”説も信憑性があるだら。


◆2006年1月17日(火)
 昨日の日記は、最後の2文字のために書きました。「だら」は静岡県地方(もしかしたら遠州地方)の方言で、「そうだら」とか「行くだら」とか、語尾に使います。どういうニュアンスなのかというと、説明が難しいですね。主語の行動を、相手にも確認・同意を求めながら話すときに使う感じでしょうか。でも、他動詞だけでなく、昨日の日記のように自動詞にも付けますね。漬け物のような方言です。
 実際の静岡弁を聞いたことのない人にはピンと来ないかもしれませんが、このオチに持っていくために、千葉県、秋田県、静岡県のネタを出しました。東海大や中国新聞も、さらにはコニカミノルタの優勝報告会も、そこに持っていく要素に過ぎません。と言ったら書き過ぎですね。取り消します。

 しかし、重要なのはその1点。実は中国新聞・山本記者と高橋健一選手につながりがあるとか、サイモンとガーファンクルの曲は正しくはサウンド・オブ・サイレンスで「卒業」は映画のタイトルだった、とかはどうでもいいのです。
 えっ? 山本記者と高橋健一選手のつながりを知りたい? それはですね、2人とも松健サンバが得意…なのかどうかは知りません。実は山本記者の奥様が順大で長距離を走っていた方で、浜野健選手の同級生だったか近い学年。その浜野選手を、2001年のニューイヤー駅伝2区で、今も残る区間記録の激走で抜き去ったのが高橋健一選手でした。追いつかれた浜野選手が振り向いたときの「えぇっ?」という表情が忘れられません。
 ちなみに、中井祥太選手の京都外大西高時代の恩師の西出先生と、新居監督は東海大で同じ釜の飯を食べた間柄だそうです。

 今日は各方面と打ち合わせ、ホテルなんかも予約して、週末の行動が決まりました。選抜女子駅伝北九州大会の取材に行きます。やっぱり、今年は九州ですからね。全日本実業団対抗女子駅伝2位の天満屋と3位の沖電気が出ますし、同大会に出られなかったスズキも参戦します。高校の部には興譲館、須磨学園、諫早の3強が顔を揃えます。楽しみです。
 前日はもしかしたら、全国都道府県対抗男子駅伝の開会式に顔を出すかもしれませんが、諸事情を考えると厳しそう。レース後は北九州から広島に移動して、某大学の懇親会に行く予定(もちろん取材です)。

 プライベートなことを言ってしまうと、今日はろくなことがなかった。
 1つめには、ハードディスクレコーダーが故障してしまいました。ダブルチューナーが売りの機種なのですが、片方のチューナーの音声が出なくなってしまいました。メーカーに電話で問い合わせをすると、チューナーの交換なら15000円、回路の基板交換なら3万円はかかるといいます。どうするか思案中です。
 2つめは、ライブドアの一件で、株価全般が大幅に下がったこと。株に手を出しているのかって? 大人しめの金融商品ですけど。
 株で思い出したことが1つ。野口みずき選手のシスメックス移籍で同社の株が上がったと思うのですが、藤田監督をはじめ関係者は本当に、正式発表まで移籍先は頑として明かしませんでした。この人だったらと話してしまって、その人がシスメックスの株を大量に買っていたら、インサイダー取り引きの罪に問われます。
 本当にそうなるのか、元旦に前橋駅から乗ったタクシーの中で、日本経済新聞の市原記者に確認しましたから、間違いないでしょう。広瀬コーチの口が堅くてよかったです。


◆2006年1月18日(水)
 何度か書いているように、このサイトは“18禁”である。少年少女が読まない方がいいことが、頻繁に出てくる(オーストラリアで居候中のあゆのサイトほどではないが)。その辺は中国電力の選手ならずとも、自己責任でお願いしたいところだ。
 例えば、車が来ていなくて安全なことが確認できるなら、交通信号無視もOKだと思っている、と平気で書く。別に、信号遵守がプレイに悪影響があると主張したトルシエ(サッカー日本代表チーム前監督)を気取っているわけではないのだが。
 1月3日に大手町で箱根駅伝の取材をしている際も、かなり急いでプレスルームに戻る必要があった。しかし、読売新聞社周辺の交差点は必ず信号がある。そのときは不運にも赤信号。偶然隣にいた某専門誌の二枚目ハードラーと一緒に赤信号を渡ろうとした。
 と、そのとき、道の向こうに小さな子供の姿が目に入った。“18禁”がどうのこうのと言っているが、やっぱり判断力のない子供の前での信号無視ははばかられる。二枚目ハードラーを手で制し、子供の方を指さした。その子供をよく見ると、顔が光り輝いている。これは、ただ者じゃない。将来の大人物に、信号無視をする大人の姿は見せられない、と思った。さらによく見ると、その光は……日比野記者(報知新聞前陸上競技担当)の額から発せられていた(これが、そのときの写真)。
 日比野記者はサッカー担当を半年くらい務め、この1月からは整理部勤務になったとのこと。仕事でなく箱根駅伝を見る気持ちは、いかばかりだったのか。「現場に戻りたい」と何度も繰り返して言っていたけれど。

 株の話は“18禁”に近い内容かもしれませんが、書きます。
 ライブドアの一件の影響で、今日は東証の全取引停止という事態にまでなりました。株価下落の不安から、売りに走った人が多く出た結果です。たかがライブドア一社のこと、と腹をくくることができれば静観もできるのでしょうが、どうしても自分の持っている株の値段が不安になる。「その不安が下落の原因だ!」と言ってやりたいのですが、株式市場は大衆心理で左右されますから、どうしようもないのかもしれません。おかげで、寺田の持っている金融商品も数万円下がってしまいました。でも、株は自己責任です。誰かのせいにしてはいけません。
 それでも、堀江社長については、正直がっかりですね。キャラはともかく、既存の価値体系に敢然と挑んでいたところは好感が持てました。噛みつく相手が、既得権の上にあぐらをかいているような人間や組織でしたから、内心、応援もしていた。でも、結局、グレーゾーン(有罪が確定したらブラックゾーン)で資金調達をしていたわけです。
 世間の人たちに、自分も頑張ればできるのでは、と期待を持たせ始めたのに、「結局、真正直に頑張ったのでは、既存の価値観や組織には挑戦できないのか」と、夢を砕くようなことをしていたわけです。この一事をもってして、堀江社長のイメージは地に落ちました。よっぽど、反対の事実が出て来ない限り、イメージは回復しないでしょう。

 堀江社長のせいじゃないですけど、記録集計号の作業をしていたら、パソコンが壊れました。トラックボール(マウスの役割)の接触がおかしくなったのか、ポインタが天地方向に動かなくなりました。左右は大丈夫なのですが。
 壊れたのはNECの「98」ノートPC。90年代中盤(Windows95の登場)まで、日本のパソコンといえばNECの「98」でした。僅か10年前のことですが、今はもう生産されていません。記録処理は「98」でしか動かないソフトを使っているので大ピンチ。集計号は発売日に間に合うのでしょうか?
 もしも、これが原因で間に合わなかったら、寺田の信用も失墜します。仕事も来なくなるでしょう。おまけになぜか、携帯電話の電波も入らなくなりました(これまでも、弱くなることが多かったのですが)。本当に、アクシデント続きの1日でした。以後ずっと、1月18日のことは寺田の前では禁句となるかも。これも、“18禁”ですか……?
 まあ、編集部に行って作業をすればいいだけのこと。何とかなるでしょう、じゃなくて、何とかします。自己責任ですから、必ずやり遂げます。


◆2006年1月19日(木)
 電話を掛けまくった一日でした。
 まずは、NECの「98」パソコンをなんとか使えるようにしないと、記録集計号の作業が進みません(昨日の日記参照)。NECのサポートや、陸マガ時代に「98」の師匠だった野口純正氏に電話。野口氏は陸上競技統計者の日本の第一人者ですが、「98」パソコンの使用時間でも恐らく、日本一の人物かと思います。おかげで、トラックボールの代わりに外付けマウスが動作するメニューを見つけ、なんとか作業ができるようになりました。
 皆さんは恐らく、OSはWindowsとマックしかご存じないでしょう。ちょっとマニアな人ならリナックスとかトロンとか知っていると思いますが、「98」の時代はMS−DOSでした。モビルスーツ−・ドムじゃないですよ。MSはマイクロソフト、DOSはディスクオペレイティングシステム(たぶん)。WindowsやマックのようなGUI(グラフィカル・ユーザー・インターフェイス。アイコンをクリックする方式)でなく、アルファベットでコマンドを打ち込むものでした。

 何かの記事に出ていたのですが、WindowsはMS−DOSの上にメッキをほどこして、GUIにしたもの。MS−DOSとの(上位)互換性に配慮しました。その点、マックOSは元々、GUIとして設計されたそうです。アップル社が文字コマンドのOSからマックOSに切り換えた際(1990年前後?)、以前のOSとの互換性を断ち切ったので、その分、Windowsよりも技術的に優位に立てた。
 同じソフトのWindows版とマック版を比較した場合、マック版の方がバイト数が小さかったり、処理速度が速かったりするのはそのためです。では、どうしてWindowsより普及しなかったのか。それは、IBM互換機という言葉がありますが、マックには基本的に互換機がなかったから(一時期、あったらしい)。つまり、アップル社が互換機を作らせなかったのです。
 まあ、それでも、1社で10%前後のシェアをとれば、十分にやっていけるのですけど。寺田も93年にマックを購入しましたが、ネットワーク機能など、その頃からコネクタを装備していました。明らかにWindows陣営より先進的でした。大学関係者にもマック派は多くて、90年代の筑波大陸上関係の先生方はほとんど、マックだったのじゃないでしょうか。筑波大OBの陸マガ高橋次長も編集部では唯一のマック派(編集部としてDTPはマックです)。しかし、マック派にもかかわらず、種目は棒高跳じゃなくて走幅跳でした(?)。

 マックと言えば、12月の福岡国際マラソンが行われた12月の第一日曜日の前日が、福岡天神にアップルストアがオープンした日でした。大会本部の西鉄ホテルのすぐ近く。レース当日の閉会式後にその前を通ると、どこかで見たような外国人が、奥さんらしき女性と2人で、しきりに店員に質問をしています。
 誰だろうと思ってよく見ると、2位になったスペインのフリオ・レイ選手でした。そのちょっと前まで、フェアウェルパーティーにも出席していて、3位の藤田敦史選手に友好的に接していたのに何という変わり身の速さ。藤田選手が富士通の社員と知っての所業……なわけはないか。我々も、レイ選手の勤務している会社とか、所属チームまでは知りません。

 「98」パソコン関係以外の電話は(こちらの方が多かったのですが)、アポどりが3〜4個所。某チームの広報(男性)には、取材申請書だけでなく、質問事項までFAXするように要求されました。まあ、民間会社ではなく、その手の部分に気を遣わないといけない職種ではあります。複雑な取材ではないので、15分で対処。
 その辺の作業はSONYのバイオで。しかし、どうしてSONYを使う人間が巨人ファンと思うのか、土江選手の感覚はいまだに理解できません。富士通こそ、パソコン業界では主流派なのでは?


◆2006年1月20日(金)
 昨日は取材のアポどりの他、北九州女子駅伝の取材段取りの電話も4個所にしました。まずは、主催者の北九州市教育委員会に。取材に関してはすべて、毎日新聞に一任しているとのことだったので、毎日新聞の百留記者に電話。特に申請書を送らなくてもいいような話でしたが、千々和記者が今は事業部のデスクで、今回の責任者とか。挨拶の電話を入れました。
 千々和氏は以前、別大マラソンの担当が長かった方です。寺田が陸マガの編集者だった頃に何度も電話で話していた相手で、フリーになって九州方面に行くようになり、やっと直接お会いできました。千々和氏が一時期、記者の仕事がメインになっていたこともあって、よくご一緒することにもなった時期もあります。
 しかし、面識ができると話が早いですね。電話だけとか、メールだけの相手とは、ここまでは行きません。北九州行きが楽しみになってきました。

 17日の日記を読んだ佐倉アスリート倶楽部の阿部コーチ(静岡県出身とは存じませんでした)が、同チームサイトで県民性について書かれています。嬉しいような、申し訳ないような気持ちです(かなり適当に書いたことですし)。
 佐倉ACで思い出しましたが、小出義雄監督の特徴の1つに、常識にとらわれないところがあります。高橋尚子選手がシドニー五輪前に行なった標高3500mの超高地トレーニングなどが有名ですが、小出監督の著書を読むと、高校の先生だった頃から、その手の話がいっぱいあります。
 またライブドアの話題で恐縮ですが、堀江社長と小出監督のイメージが、常識破りという点で寺田の中ではダブっていました。夢を語るのに必要な資質かな、と感じてもいました。
 しかし、小出監督の常識破りは基本を踏まえた上でのもの。それに対し、堀江社長の常識破りは、ドーピングで築いたような基本の上にあったのです(有罪なら)。本当にがっかりさせられた一件でした。


◆2006年1月21日(土)
 初めて北九州に来ました。開会式は北九州芸術劇場で。リバーウォーク北九州という、どでかい(死語?)複合商業施設のなかにありましたが、この建物は小倉城に隣接しています。城を保存して観光に役立てている街は多いと思いますが、距離的にここまで近くに商業施設がある場所は初めて見ました。
 会場に着くとさっそく毎日新聞・千々和デスクに挨拶し、メンバー表とプログラムを受け取りました。この時期の駅伝ですからどのチームも、ベストメンバーで臨むのは難しいようです(区間エントリーはこちら)。12月の全日本実業団対抗女子駅伝から山陽女子ロード、宮崎女子ロード、全国都道府県対抗女子駅伝、そして北九州女子駅伝。2週間後には丸亀ハーフマラソンもあります。その全てに全力投球というわけにはいかないでしょう。その後、お話しした指導者の方の何人かも、はっきりと言っていました。
 しかし、そういった状況でも、参加する以上は上手く活用しなければもったいない。若手を抜擢したり、新しい調整法を試したり。高校生・大学生と実業団が一緒に走ることも特徴ですから、高校生・大学生にとってはまたとない勉強の機会でもあります。最上級生と下級生がタスキをつなぐ最後の大会、と話していた先生もいらっしゃいました。

 開会式前後には少し取材をした他は、監督や関係者への挨拶に充てます。陸連・砂原晋さんは世界クロカン事務局に出向中で今は福岡在住ですが、ここまで来たのか、というリアクションをしていただきました(期待通り)。十八銀行・高木監督は全日本実業団対抗女子駅伝のときの日記で“宮崎工高で阿万亜里沙選手(女子100 m元日本記録保持者)の1学年上”と書きましたが、その後、公式ガイドで年齢を拝見して、計算が合わないなと気づきました。今日、確認したところやはり、“阿万選手が1学年上”ということでした。こちらの聞き違いです。失礼しました。
 ワコール・永山忠幸監督には、5kmの距離に対応し始めた湯田友美選手のことや、福士加代子選手の丸亀ハーフマラソン出場について話を聞かせていただきました。福士選手はハーフマラソン用の練習は、いっさいしていないとのこと。明日のレースを終えてから、考えていくようです。沖電気・谷口浩美監督は全日本実業団対抗女子駅伝のとき、“涙があった”という記事もあったのですが、「想定内だった」ことを繰り返していました。「復活でもなんでもない」とも言います。明日のレースに関しては、控えめなコメントでしたけど。

 全日本実業団対抗女子駅伝に出場できなかったスズキの小沢欽一監督は、その責任をとって頭を丸めました。髪はもう、それなりに伸びていましたけど、ご苦労があったことは想像に難くありません。恨み言の1つも言いたくなるケースですが、懇親会では謙虚ですが力のこもった挨拶をして、一番の拍手をもらっていました。


◆2006年1月22日(日)
 トップページにまで出してしまったように、選抜女子駅伝北九州大会と全国都道府県対抗男子駅伝を梯子しました。といっても、広島の会場に着いたのは、男子駅伝レース終了後50分くらいだったと思いますけど。

 北九州女子駅伝は千々和デスクの配慮で、スムーズな取材ができました。北九州の先生方も臨機応変な対応ぶりで助かりましたし、受付の方々(北九州市教育委員会や北九州芸術劇場)も丁寧で気持ちが良かったです。百留記者が、過分な紹介の仕方をしてくれたことも、“どこの馬の骨だ”と思われなかった要因でしょう。とにかく、好感度の高かった北九州取材でした。
 レースは4区までスズキがリード。アンカーがワゴイ選手でしたから、逃げ切るだろうと思いましたが、本当に駅伝はやってみないとわかりません。ワコール・福士加代子選手が逆転しました。
 福士選手は先週の全国都道府県対抗女子駅伝後に発熱し、この1週間練習はしていなかったといいます。にもかかわらず区間記録を38秒も更新する快走。快走というより、表情を見ていると力走でした。本人も「今日は笑顔を見せる余裕がなかった」と話していました。ワコールの勝因は福士選手の力走が一番ですが、4区の湯田友美選手が区間1位でスズキを追い上げたのが効いたと思います。5kmの距離を完全に自分の手の内にしたような印象を受けました。06年のトラックは5000mで行くことになると、永山忠幸監督は話しています。
 一方のスズキも、4区までは予想通りの走りを見せました。2区以降は区間2・1・2位。しかし、アンカーのワゴイ選手が、故障でこの1カ月間で3回しかスピード練習ができていなかったと言います。昨日の記事ではコンディショニングではワゴイ選手が有利と書きましたが、わからないものです。
 それでも、全日本実業団対抗女子駅伝に出られなかったブランクを埋め、今後も全国上位を狙う力があることを証明した継走でした。

 “九州の駅伝”を見たのは初めてですが、予想通り、九州の駅伝ファンは熱いですね。駅伝は実業団だったら男女の全日本実業団対抗駅伝、学生だったら箱根駅伝、高校生だったら全国高校駅伝と、メインの駅伝はこれ、と決まっています。その他の駅伝はどうしても、焦点がゆるくなる。にもかかわらず、今日の沿道には、熱心なファンが多数出ていました。主催新聞社の旗をを振る“お決まりでお仕着せ”の応援ぶりでないのもいいですね。何より、実業団チームの会社関係者が、相当数見かけられました。
 さすが、駅伝どころ九州です。しかし、そういった社会的な背景があるから、九州大会でも力を抜けない。“両刃の剣”的なことにもなります。その辺の微妙なコントロールが、各チームの監督には必要となるようです。
 とまあ、真面目なことも考えていましたが、全日本実業団対抗女子駅伝のときに記事を書かせてもらった扇まどか選手(十八銀行)の顔を見たら、ある疑問を思い出しました。九州の女性から見た○○○○とは、具体的にどういったイメージなのか知りたかったのです。十八銀行チームが引き揚げるところでしたから、次に会うときまでに考えておいてもらうことにしました。

 予定よりも1本早く14:17の新幹線に乗ることができ、広島には15:09着。16時から男子駅伝の閉会式なので、ホテルに荷物を置いていく余裕がありました。これが失敗。閉会式会場に着くと、優勝した長野県チームの共同会見がちょうど終わったところです。まあ、仕方ありません。
 レース終了後に報道受付をしたのはたぶん、初めての経験です。「なんだ、この記者は」と思われても仕方のないところですが、そこは、広報活動に熱心で丁寧な広島陸協です。親切に対応していただき、とっても助かりました。
 受付を済まして5mも歩かないうちに声をかけられました。誰かと思ったら中国新聞前陸上競技担当の下手(しもて)記者。今はデスクです。親分デスクの渡辺氏の顔は見えませんでしたが、下手氏の上手にはイタリア系二枚目記者として有名な山本記者の姿も。寺田のところに「男子駅伝の記事をいったい何本、山本記者は書いているのでしょうか」という質問が寄せられていたので、数えておくように依頼しました。

 せっかく会場に来たのですから、何か1つは取材をしようと思って閉会式が終わるのを待ちました。幸い、7区区間賞の仲野旭彦選手の話を聞くことができました。中部実業団対抗駅伝、ニューイヤー駅伝といい走りを見せていましたが、このメンバーで区間賞を取ったのはちょっとした驚きです。なんとか、記事を書きたいと思っています。
 さすがに、それ以外の取材はできませんでしたが、佐久長聖高の両角速先生から、5区で区間2位に32秒もの差をつけた松本昴大選手の話をパパッと聞けました。
 残念だったのは、3区区間賞の油谷繁選手の話を聞く時間がなかったこと。大学1年生の竹澤健介選手と僅か2秒差という点で、本人は納得していないと想像できます。ですが、出場が決まったのは前日だったか前々日。その点を考慮すると頑張ったともいえます。ニューイヤー駅伝で初めての全国大会区間賞。“区間賞男”として新境地を開拓した心境を聞きたかったのですが。

 面白かったのは会場から乗ったタクシーの運転手との会話です。「お客さん、どこからですか」というお決まりの台詞で始まった会話ですが、寺田が北九州女子駅伝の取材から移動してきたことをいうと、「デオデオはどうでしたか」と聞いてきます。デオデオは欠場しましたと答えると、「小鳥田が引退しましたからね」とさらりと言います。
運転手 結婚したみたいですよ。中国新聞に出ていました。
寺田 その記事を書いたのは山本記者でしたか?
運転手 そこまで覚えていませんけど。

 山本記者に電話をしようかとも思いましたが、超忙しい時間に決まっているので控えました。小鳥田選手の引退は、その後に行った某大学の懇親会で裏をとりました。
寺田 駅伝に詳しいですね。
運転手 好きですから。マラソンと駅伝はだいたい見ています。
寺田 じゃあ、中国電力については、広島の人たちはどう思っているのですか。駅伝ではコニカミノルタに勝てませんが、マラソンでは世界的に活躍している。どんな評価なのでしょうか。
運転手 どうですかね。広島のスポーツファンは、意外と覚めているところもありますから。阪神なんかと違って、広島カープは負けたら観客が入りません。勝っていても、テレビで見ればいいという人間も多い。だから、年間観客動員が100万人に満たないのでしょう。

 うーん。まあ、この分析が絶対に正しいとも限りませんが。


◆2006年1月23日(月)
 昨晩は某大学関係の取材が1つと、また別の用事が一件あって、ホテルに戻ったのが23時過ぎ。日記を書いただけ(といっても、1時間以上かかったような…)で就寝しました。
 今朝は6時に起きて仕事。朝食を挟んで9時15分には送信できました。
 メールのチェックをして、シャワーを浴びて、10時にチェックアウト。路面電車(広島に来たらこれでしょう!)で広島駅に。

 全国都道府県対抗男子駅伝の取材はまだ2回目ですが、この大会と織田記念の翌朝は、広島駅で中国新聞を購入するのが日課(?)になっています。新幹線のホームでは3位だった愛知県チームと、大会初の3連覇を達成した長野県チームを見かけました。残念ですが出発間際だったため、面識のある指導者の方たちにも挨拶をすることはできませんでしたが。
 愛知県の亀鷹律良監督には、7区区間賞の仲野旭彦選手を抜擢した理由(経緯)を聞きたかったのです。愛知県ですから、他にも強い選手は多くいます。仲野選手については、ニューイヤー駅伝の結果の評価が別れてきます。区間10位を今回の区間賞と比較して、良くなかったととらえる記事もありました。しかし、三津谷祐選手や佐藤敦之選手ら、有力選手揃いの集団に追いつかれてから粘った走りを評価することもできます。最後は、集団の中で2番目でしたから。寺田は後者の意見です。成長過程の選手が、きっかけをつかんだレースだったように思います。ニューイヤー駅伝の後に7区への出場が決まったと言いますし。
 ただ、仲野選手自身は、別の大会の方が自信になったと言っていました。具体的には、記事にする予定です。
 三田裕介選手の不調の理由も知りたかったのですが、これは中国新聞の記事に出ていました。直前の風邪が影響したようです。箱根駅伝の伊達秀晃選手もそうですが、風邪を引いた選手にはこういうケースが目立ちます。大物選手がブレーキをすると目立ちますが、直前に風邪を引いていても事なきを得ることもあるわけで、そういうケースは表面には出てきません。だからこそ、「風邪は引いていたけど、あの選手に任せるしかない」ということになります。本当に、判断の難しいところだと思います。

 新幹線の車内では、ある有名人と一緒の車両でした。新大阪駅に停車中に、3つ前の座席で網棚の荷物を取るために立ち上がった人の顔を見ると、信濃毎日新聞の中村恵一郎記者でした。中国新聞の山本修記者がイタリア系なら、中村記者は癒し系。かつてのインターハイ中距離2冠ランナーも、今はもう30歳代中盤か後半でしょうか。
 中村記者の同学年には、今も800 m・1500mの中学記録を持つ和田仁志選手が同じ長野県にいて、同県の中距離はレベルがめちゃくちゃ高かった。当時、仮に全国都道府県対抗男子駅伝があったら、長野はやはり強かったと思います。中山竹通選手(現愛知製鋼監督)がふるさと選手ワクで呼び戻せます。カネボウ伊藤国光選手(現監督)はギリギリ現役だったかどうか。でも、93年世界選手権代表の福島正選手(現富士通監督)がまだ地元にいた頃です。中・高生の選手層がどうだったのかわかりませんが、優勝争いができたでしょう。
 話を聞くと、中村記者は2月上旬から1カ月間は、トリノ五輪の取材だそうです。駅伝も強いですけど、長野といったらやはり、ウインタースポーツなのでしょう。冬季オリンピック取材は地元の長野五輪から3回目になるとのこと。すっかりベテラン記者です。

 新宿の作業部屋には15時ちょっと過ぎに着き、記録集計号の作業に。数日来紹介しているNECの「98」パソコンの調子が、また別の個所が悪くなりました。長時間使っていると、ACアダプタが働かなくなるのです。バッテリーの電源も10分くらいしか持たないので、しばらく中断してACアダプタの熱が下がるのを待つしかありません。
 その間に、以前の集計号の高校歴代記録を見ていると、中村記者の名前がありました。1986年のアテネ世界ジュニアで1分50秒57で走っています。そのときが高3ということは、今年で38歳……癒し系というのは、昔の話? いえいえ、今も癒し系です。


◆2006年1月24日(火)
 昨日の日記で“癒し系”の中村恵一郎記者について書きましたが、癒し系と言えばTBSの土井敏之アナの名前がすぐに浮かびます。土井アナはタレントのえなり君(えなりかずき)のお兄さんのニックネームを付けられていた時期がありましたし、中国電力の尾崎輝人選手もえなりかずき似として、陸上界では話題になっていました。要するに、この3人は同じ系統の顔立ちということです。えなり君が世間では最も名が売れていることもあって、土井アナも尾崎選手も“えなり君似”と扱われていました。
 でも、陸上界で最も有名なのは尾崎選手です。尾崎選手には負けますが、土井アナも世界選手権や男女の実業団駅伝の実況で、陸上界にも名前は浸透しています。土曜夜のブロードキャスターなどで世間への認知度も高い。両方に名が知られているという点では、土井アナが一番でしょう。世に出た時期も一番早い。癒し系トリオの中では本来、土井アナが元となるべきなのです。つまり、えなり君は“土井アナ似のタレント”、尾崎選手は“土井アナ似”の長距離ランナーと言われるのが筋なのです。

 全国都道府県対抗男子駅伝の取材で広島に行った際、尾崎選手が3月に結婚すると聞きました。お相手は、同じ中国電力の卓球部の女性だそうです。日本でも十指に入る選手とか。中国電力の選手は内冨、五十嵐、尾方といったベテランたちはもちろん、油谷繁選手も子供が生まれてから駅伝で2回連続区間賞と好調です。尾崎選手も今後が期待できます。
 尾崎選手は選手同士ですが、社内結婚というのはいいことではないかと思っています。「陸上だけやっていればいい」という態度で会社にいたら、社内結婚にはならないでしょう。走るプロなら社内のポジションはどうでもいい、という考え方もあると思いますが、実業団選手の全員が全員、そう言い切れる力があるわけではありません。むしろ、会社に居場所があった方が、しっかり競技に取り組めるケースが多いようです。長距離に限らず、一般種目の選手でもそうだと聞きます。
 別に勧めているわけではありませんが、鈴木亜弓選手の旦那さんも社内の方ですし、最近聞いた話ではコニカミノルタの酒井勝充監督と佐藤敏信コーチも社内の方とのこと(陸上競技とは直接関係のない方という意味です)。陸上競技関係者同士ですが、ミズノの等々力信弘・長谷川順子夫妻も社内には違いありません。

 マスコミの人間と選手、という組み合わせもあります。真木和選手の旦那さんはテレビ局の方で、筑波大の村木征人コーチの奥さんは陸マガの編集者だった方。報知新聞・日比野記者の奥さんは、ホッケーの元日本代表選手です。サンプルも少ないですし“こういう意味がある”とは断定できませんが、取材する側の一生懸命な姿が、選手の目に格好良く映ったということでしょうか。そういえば、寺田のところも、このパターンです。
 尾崎選手は結婚しますが、本家の土井アナは未だ独身。女子選手の皆さん、どうでしょうか。ついでですけど、佐藤文康アナも独身です。


◆2006年1月25日(水)
 昨日は土井&佐藤という独身アナの紹介をしましたが、某専門誌のE本編集者も独身です(専門誌編集者は独身ばかりなので、珍しくないのですが)。年末には「別に好きじゃありませんよ」と言っていた倖田來未(の***)を、正月には「それは、欲しいです」と豹変ぶりを見せた男です。広島男子駅伝の取材終了後のブレイクタイムに、実際に***を見た感想を聞くと「エロかっこいい」と言います。
 倖田來未サイドが宣伝キャッチに使っている言葉そのままだったので、寺田が「ひねりがない」と指摘すると、E本編集者はものすごいことを言いました。具体的には、誤解を招く恐れがあるので書きません。実際のE本編集者を知っている方なら、その言葉の裏にある奥深さに気づきますが、そうでない方が読んだら単なる○○編集者と思ってしまいます。

 E本編集者の奥深さは、どこに由来するものなのか、安芸の海を見ながら考えました。思い当たったのは、和歌山でやり投をやっていたことです。同県の先輩には、吉田雅美選手、溝口和洋選手と、2人のオリンピック選手がいます(2人とも日本記録も更新。溝口選手は当時の世界歴代2位)。偉大な先輩2選手に追いつこうと、来る日も来る日も熊野灘に向かってやりを投げる日々だった、と思われます。しかし、先輩は偉大すぎて、そう簡単に追いつけるものではありません。
 そうこうするうちに、今度は年下の村上幸史選手が台頭しました。村上選手は瀬戸内を拠点とした村上水軍の末裔ですが、E本編集者の実家の裏には、熊野水軍の城跡があります。中世にはライバル関係にあった地区の後輩が、どんどん強くなっていくのを見ているしかなかった。
 屈折した性格になっても仕方のない状況ですが、E本編集者は持ち前の明るさで自分の気持ちに折り合いを付け、専門誌編集という作業に邁進しているのです。人には話せないような葛藤があったのは想像に難くありません。その辺が、奥深さとなって現れているのでしょう。

 という仮説も立てられますが、実証することはできません。今度、同じ編集部の二枚目ハードラーに意見を聞いておきます。
 そのE本編集者が、「倖田來未をもっと流行らせましょう」と言います。確かに寺田も、将来を見越してこの日記で名前を出すようになりました。でも、大ファンというわけではないのです。歌は好きですよ。特にバラード系の曲は。映像や写真を見ないで、歌を聴いたときに「いいな」と思ったのが最初です。だけど、あの外見と話し方は、個人的にはちょっと、ね。
 その辺を、日清食品・岡村マネジャーはどう思いますか?


◆2006年1月27日(金)
 9:50発の新幹線で大阪に。14時から大阪国際女子マラソンの共同会見ですが、13:20には会見場の千里阪急ホテルに。同大会は今回で25回目。記憶に間違いがなければ、阪神淡路大震災で中止となった95年を除き、92年大会から皆勤で取材をしています。
 会場に着くと、関西の陸上競技担当記者の方たちが、揃っています。今年もよろしくお願いします、と挨拶。その中には、今回を最後に陸上競技担当を離れる産経新聞大阪の大谷記者の姿も。後任の方を紹介していただきました。
 今大会は関西テレビや産経新聞が主催メディアで、代表質問は産経新聞大阪の陸上競技担当者が務めています。大谷記者は今回で4回目の大役。「代表質問後に真っ先に手を挙げて、選手でなく大谷記者に4年間の感想を質問していいですか」とお伺いを立てると、「いらんことは言わないでくださいよ」と釘を刺されてしまいました。さすがの寺田も、公式会見の場でそこまで実行する勇気はありません。
 ちなみに、山口有希選手は4月からは大阪ガスの社員です。同じ“ゆうき”でも、カネボウ・中村悠希選手は4月から東京です。カネボウが活動拠点を東京に移すことが、ちょうど今日、発表されました。移動先は小田原ではないかと、一時は噂されていたことがありました。音喜多コーチから、「もっと近いですよ」と言われていましたが、まさか都内とは。阪神ファンの高岡寿成選手は、どんな気持ちで東上するのでしょうか。

 話を大阪に戻しましょう。報道受付で渡された資料の1つに、招待選手の欠場者リストがありました。個人的に残念だったのが、大平美樹選手と大山香織選手の欠場です。大平選手は今回が初マラソン。阿蘇品照美選手、奥永美香選手とトリオで取り上げると、面白いかな、と感じていました。誰かしら、2時間23分前後は出すのではないか、という期待も持っていましたし。
 大山選手は全日本実業団対抗女子駅伝5区で区間3位。お姉さんの大山美樹選手の陰に隠れがちでしたが、やっと素質が開花し始めたようで、密かに楽しみにしていたのでした。姉妹の名前について、確認したいこともあったのです。これは、いつでもいいことですけど。

 小幡佳代子選手は、当方の資料では今回が23回目のマラソンです。94年の初マラソンから例年2回、多いときは3回のペースでマラソンを走ってきた選手。ところが、2005年のマラソンが1つもない。資料の間違いではないかと思い、本人に確認しましたが、昨年は走っていないそうです。その理由を尋ねると小幡選手は、「謎の1年です。その間に若返りました」と、いたずらっぽい笑みを浮かべます。
 かつての“筑波の若お嬢様”も昨年で34歳ですが、そう言われると若返ったような印象もあります。元々、若く見られるタイプで、特に欧米人から見たら、東洋系のすっきりした顔立ちは絶対に20歳台前半で通用する。近くにボルダー在住のエージェント、ブレンダン・ライリー氏がいたのでその点を聞いてみました。すると、「デレバのコーチがムスタファ氏が、『25歳くらいだと思った』と言っていた」と、教えてくれたのです。
 明後日のレースで優勝したら、日本中のマラソンファンがビックリしてしまうかもしれません。「マラソン回数と同じ年齢です」と言っておいた方が混乱しないで済むのでは、と申し上げておきました。
 前述のライリー氏も、ディータ(ルーマニア)やザハロワ(ロシア)など、35歳で頑張った選手の例を挙げて励ましていました。頑張って欲しい選手です。


◆2006年1月28日(土)
 午前中は心斎橋のホテル(正確にはウィークリー・マンション)で仕事をして、13時頃に出発。ホテルの目の前がアシックスのシューズショップなので、写真を撮ってから地下鉄駅に。これが、その写真です。明日は無理ですけど明後日あたり、どんなショップなのか覗いてみようかな、と思っています。後学のために。
 本来なら今日は、11時くらいにはホテルのロビーに行くべき日です。なんでかというと、レース前日は本番の時間に合わせて練習をするケースが多いから。今日は締め切りではありませんでしたが、午前中に原稿を書かないと、来週前半がどうしようもなくなるのです。
 まあ、仮に11時に行っても、練習前後の選手に声をかけることはありません。原則的に、ホテル内の取材は禁止ですし。表情を見るだけです。

 14時くらいに千里阪急ホテル着。共同通信・宮田記者がロビーにいたので合流。九電工・浦川哲夫監督、アコム・長沼祥吾監督も。間もなく、両監督と入れ替わりでデイリー・ヨミウリのケネス・マランツ記者も現れました。国際千葉駅伝には取材に来ても、実業団・大学・高校などの国内駅伝には来ません(もちろん箱根駅伝も)。2カ月ぶりの再会です。
 ケネス記者が読んでいた今日のサンスポに、昨日の共同会見時の写真が載っていたので、小幡佳代子選手の年齢がいくつに見えるか質問。「23歳?」とケネス記者。ドンピシャでした(昨日の日記参照)。やっぱり欧米人には、若く見える顔なのです。

 またしばらくすると、今度は青戸敦子さんがいらっしゃいました。100 m元日本記録保持者の青戸慎司氏の夫人で、名古屋のテレビ局で働いています(元アナウンサー)。早大陸上同好会の出身で、宮田記者や陸マガ・曽輪ライターの先輩になります。昨年の大阪で出した2時間56分55秒がベスト記録で、今回が12回目のフルマラソン。雑誌やテレビ番組の企画でホノルルを走る“にわかランナー”とはわけが違います。
 テレビ関係とは職種が少し違いますが、自分の生活を顧みたとき、サブスリーの走力を維持するトレーニングをするのは驚嘆に値します。聞けば、最近は週に2回くらい、名城大と一緒に朝練習をされているとか。米田監督とは同学年で、やはり同学年の100 mH・小林尚子選手ら、共通の知り合いも多く、そういった話になったようです。
「2時間50分切りが目標。練習があまりできていないので、突っ込んで失速するか、運よく行けるかのどちらか」だと言います。明日の注目ポイントが1つ増えました。

 青戸さんの参加は、今朝の移動中にプログラムの一般参加選手リストを見ていて気づきました(赤ペンでマーキングしました)。所属を見ていると、けっこう面白いことに気づきます。青戸さんの他に赤ペンでチェックしたのは、“チーム走兄弟”という所属の篠原由紀さん。そして、“日本女子大”の増田安希子さんという選手も。実は、家族T氏も早大陸上同好会で青戸さんの後輩なのですが、本当の(?)大学は日本女子大で、同大に陸上競技部を作ったのでした。増田さんのベスト記録は2時間45分21秒と本格的ですから、こちらも注目です。
 木谷麻衣子さんの所属は朝日新聞。前陸上競技担当、現大阪運動部の金重デスクが現れたので、さっそく「朝日新聞も陸上部を創設?」と聞きました。金重デスクは寝耳に水という反応です。朝日新聞も大きな会社ですから、陸上競技担当記者が知らないところで、走っている人もいて不思議ではありません。
 同社の原田記者は全日中800 m4位ですし、早大競走部OBの増田記者もいます。最近、元グローバリーの選手も入社したそうです。戦前の話ですが、織田幹雄さんや南部忠平さんといった日本代表レベルの選手が新聞社に所属していました。東京五輪前の時期ですが、安田矩明氏も日刊スポーツで記者をされていました。新聞社が陸上部を持っても、それほど違和感はないように思います。

 17時から歓迎の集い。第一生命・山下佐知子監督や千葉真子選手ら、明日のテレビ解説者たちも姿を見せ、華やいだ雰囲気でした。
 中略。
 その嶋原選手ですが、昨日から今日にかけて、関係者間の評判が高くなっています。嶋原選手は日本人トップとなった04年の東京国際マラソンは後方集団から追い上げました。昨年の北海道も、序盤は千葉選手に付きましたが、早い段階で後退しています。最初から勝負所がくるまでずっと、トップ集団でレースを進めたことがない。昨日の記者会見後に川越学監督に今回はどうするのか質問しました。嶋原選手にも。
 その具体的な内容は、嶋原選手が好結果を出したときに、記事にしたいと思います。


◆2006年1月29日(日)
 大阪国際女子マラソンのスタート1時間半前。寺田はなぜか、パントマイムを演じていました。長居競技場のスタンド下のプレスルームでのことです。たまたま両手を伸ばした方向に、1組の男女がいました。寺田の表情は、意味ありげな笑みを浮かべていたのかもしれませんが、何かを意図したわけではありません。その男女がどう受け取ったのかは、こちらの知る由もありませんが。
 次に、伸ばした両手をプレスルームの外、トラックの方向に向けました。パントマイムですから、言葉は発していません。こちらは単に演技者として振る舞っただけです。しかし、その男女は外に出て行きます。そうなったらもう、成り行きに身を任せるしかないでしょう。という経緯で、この写真を撮らせていただきました。

 大阪国際女子マラソンに出場する青戸敦子さんと、夫君の100 m元日本記録保持者、青戸慎司氏です(昨日の日記参照)。慎司氏はカメラマンとして来阪されていました。長居競技場で走った思い出を聞くと、大きな大会はないと言います。長居競技場が改装されたのが93年頃(94年の女子マラソンは第二競技場がスタート&フィニッシュでした)ですが、今のスタジアムになってからは走っていないようです。
 長居のようなどでかいスタジアムよりも、こぢんまりした競技場が好きだったと言います。今はもう使われていませんが、以前に兵庫リレーカーニバルが行われていた王子競技場などを例に挙げていました。自身はまだそれほど強くなかった頃に、同競技場で山内健次選手(兵庫県出身。200 mの元高校記録保持者。87年には日本タイ)にサインをもらったこともあるそうです。

 慎司氏とそういった話をしていると、大阪高の岡本博先生がいらっしゃいました(この頃はもう、敦子さんはアップに行かれていたと思います)。40〜50分前までは、陸マガ次号の大阪高の記事を書いていたのです。陸マガ2月号の大阪高記事の前編で紹介したことですが、金丸祐三選手はレース終盤で大きく肩を振りますが、その動きで軸を保っているのだと岡本先生は説明してくれました。山内選手も上体の揺れが目立ちましたけど速かった。細かく分析したら、まったく同じということはないのでしょうけど、上体の動きを上手く使って軸を保つという点では一緒なのかもしれません。というような話をしました。
 その後、陸マガ&クリールの曽輪泰隆ライター(独身、と書けと言われています)と話をしていて、岡本先生と大森国男監督から同じ質問を受けていたことに気づきました。岡本先生は12月の取材中、大森監督からは全日本実業団対抗女子駅伝の後に岐阜から名古屋に移動中の電車内でした。優秀な指導者は、社会的にも鋭い部分を突いて来ます。そこを指摘してくる曽輪ライターも、なかなかの切れ者です。顔は癒し系ですけど。

 肝心の敦子さんの結果ですが、2時間59分14秒で54位。目標の自己記録(2時間56分55秒)更新はできませんでしたが、5km毎のスプリットを見ると、一気に落ちているのでなく、なだらかな落ち方をしています。練習が不十分な状況で、終盤までよく粘った走りだったようです。大阪入りしてから数日間、慎司氏が一粒一粒、気持ちを込めておむすびを握った甲斐があったというものでしょう。

 レース前のネタを書いてきたら、こんなに多くなってしまいました。
 レース後も色々とネタがありました。ネタというか、色々と考えさせられたことが多い一日だったように思います。レースのこと、選手のこと、報道のこと、イベント的な要素のこと、自分のこと。書くかどうかは、神のみぞ知るところです。


◆2006年1月30日(月)
 ホテルを10時に出て、15時前には新宿の作業部屋に着。移動の間に電話を3本ほどしたでしょうか。新幹線車内では産経新聞とサンスポの関西版に目を通しました。毎年思うことですが、この2紙の大阪国際女子マラソンの扱い方は、マラソン報道としては最大のスペースを割いているように思います。神戸新聞の全国高校駅伝もすごいですけど。

 昨日のレース後の行動ですが、長居競技場で取材後、16:30頃にバスで千里阪急ホテルに移動しました。車内では、まずは記録をよく見ます。レース直後も記録は見ますが、選手や監督たちの話を聞くことが優先されますから、なかなか冷静な分析ができません。今日は日本選手の中では嶋原清子選手が30km以降は一番速いな、とか、小幡佳代子選手の中間点通過は宮崎女子ロード(ハーフマラソン)よりも速いな、とか。あっ、小幡選手のことは、テレビを見ながら気づきました。
 あとは、AC・KITAの選手たちがたくさん頑張っているのが目に留まりました。「もしかして」と思って、ワールドカップ(世界選手権のマラソンで行われている国別対抗戦)のように所属チーム上位3選手の合計タイムを調べようとしました。ケニアはデレバ姉妹以外に、100番以内に名前はありません。京セラも阿蘇品照美選手が棄権したので坂田昌美選手と小川清美選手の2人だけ。資生堂も2人だけです。AC・KITAは河野真己選手の14位を筆頭に、34位、41位と50位以内に3人が入っています。だから実業団チームより強い、ということにはなりませんけど、頑張っているチームだということは、はっきりとわかります。

 ホテルに着くと、表彰式兼フェアウェルパーティーまでには40分くらい時間があります。新聞記者たちは通常、競技場の取材ですぐに原稿を書いて送らないといけません。ホテルに来られる記者の数は、グッと少なくなります。ホテルまで来る常連のなかに、元大広(日本選手権などを扱っている広告代理店)の大内さんと、有森裕子さんと一緒に会社を立ち上げた深山さん(ライツのサイトのプロフィール)がいらっしゃいますが、今日も3人で話をしていました。お2人とも大ベテランで、昔の選手の名前を注釈抜きで話せる方たち。話がポンポンと弾みます。
 その深山さんが「34歳の最高記録とか、調べたでしょう」と寺田に言ってきます。実は、その通りです。中間点くらいで、歴代パフォーマンスの上位記録を出した選手の年齢をチェックしました。今回の小幡選手よりも年上で活躍した選手といえば、弘山晴美選手だけ。弘山選手が02年の大阪で2時間24分34秒を出したときは33歳、昨年11月の東京で2時間24分39秒をマークしたときの高橋尚子選手も33歳。05年の大阪で弘山選手は36歳でしたが2時間25分56秒と、今回の小幡選手の記録を4秒下回っています。

 長居では1〜3位選手と、その指導者の話しか聞けなかったので、ホテルでは初マラソン選手を主に取材しました。小幡選手にも、ポイントを絞って話を聞くことができました。前述の宮崎よりも速いタイムで中間点を通過できるのはなぜか、ということです。自己ベストを出した2000年の大阪でも、同じように宮崎よりも速いタイムで通過しています。いくら、3週間前のロードレースは練習の一環で、調整もしていない状態だったとはいえ、普通の選手では考えられません。特に男子ではそうですね。日本選手だったら1時間2分(もう少し速いか?)、世界のトップ選手なら1時間00分くらいで、3週間前のハーフマラソンを走るでしょう。そのタイムでマラソンの中間点を、通過できるとは思えません。
 その小幡選手のことも含め、今回のレースには謎が多くありました。
@小幡選手がなぜ、中間点を宮崎よりも速く通過できたのか?
A先頭集団についていくとレース前日に決めていた嶋原清子選手が、なぜ第2集団に位置したのか?
B招待の初マラソン2選手はなぜ、後半で失速したのか?
C一般参加の初マラソン2選手がなぜ、兵庫出身なのか…じゃなくて、2時間27分台でまとめられたのか?

 これらの謎を解き明かす記事を書く予定です。ただ、Bについては謎というほどでもありませんし、Cについては力があったから、マラソンへの適性があったから、というだけのことかもしれません。現実はなかなか、“こうだから、こうなった”と決めつけては書けないのです。Aの嶋原選手については、書けない部分もあったのですが、今日の新聞記事に出ていることなので、書けることになりました。
 問題は、実際に書く時間があるのかどうかです……と、最初から言い訳をしているようでは、ダメでしょう。絶対にやり抜くんだ、という強い意思がない。大成しないタイプです。でも、全国都道府県対抗男子駅伝の仲野旭彦選手の記事、書きました。あと少し、細かい部分(ニューイヤー駅伝のレース展開とか)を調べたら掲載します。


◆2006年1月31日(火)
 火曜日です。月曜日はまだ、日曜日のレースの余韻があります。新聞に記事が載りますし、一夜明け会見があったり、レースの結果を受けての反応が各方面であったりします。しかし、そういった余韻も、火曜日となると一段落するわけです。選手やスタッフも、翌日はレースの反省や会社への報告などで、それなりに忙しいことが多いようです。火曜日になって一息つくことができる、と聞いたことがあります。
 ということで、寺田も今日になって少し、大阪モードから脱しつつあります。原稿は相変わらず抱えている状態ですが、それはいつものことなので、取り立てて書くこともありません。かように、何もないのが火曜日です。


ここが最新です
◆2006年2月1日(水)
 陸マガの大阪高連載2回目の原稿を書き上げました。
 大阪高を取材したのは12月。全国高校駅伝の前々日でした(それがあったから、7年ぶりに西京極に行けたわけです)。その際、連載2回分の取材を一気にさせてもらいました。1月に入って追加取材をしたわけではないのです。丸々1カ月も書く時間があったのに、この時期になってしまうとは…。実際に取材した順番に書けないことも多い、という一例です(単にサボっていたことの言い訳という気も、しないではない)。
 昨年終盤、陸マガに書いた中国電力企画も連載でした。内容が違うので単純な比較はできませんが、中国電力企画の方は連載1回単位で取材をしました。1・2回目は坂口泰監督の論文とその捕捉記事、3回目は選手たちの証言、4回目は坂口監督と故・中村清監督の関係という構成。1・2回目は1回の取材で書きましたが、3回目は選手7人の話を聞く必要があったので、広島まで行きました(岡山国体の直前)。4回目は国際千葉駅伝の前後で、幕張のホテルで話を聞かせてもらいました。

 中国電力の特徴の1つに、“自己責任”の原理がありました。主力選手はマラソンに向けた練習メニューを自分で考えますし、出場レースの選択も自身で行う。自分で決めた以上、自己責任でしっかりやるという考え方。
 2つの連載を担当した陸マガ編集部のT次長は、どうやら中国電力のやり方を見習ったようです。今回の原稿の締め切りをなかなか言ってきません。ライターの方から「何日までに書くから」と、言い出すのを待っていたのでしょう。しかし、寺田もさるもの。原稿を抱えていても、「締め切りはいつ?」と問い合わせません。
 大阪高の締め切りについてやっと電話が来たのが今日。「坂口監督の真似?」と問うと、他の仕事や編集部の引っ越し作業で忙しかったと言います。本心かどうかは、本人しかわかりません。締め切りは3日の昼ということでしたが、こちらは目処がたっていたので「今日中に書いて、明日、大阪高サイドと確認作業をして送ります」と申し上げました。

 かように(今日は水曜ですが)虚々実々の駆け引きをしているのが、編集者とライターです。
 と言い切ると誤解を招くので捕捉しましょう。寺田も6年前までは陸マガ編集部の人間でしたから、少しは作業手順も読めるのです。それで今回は、締め切りの打ち合わせを後まで引っ張っても大丈夫かな、と考えました。もちろん、編集部サイドはその都度その都度、事情が異なってきます。一概には言えませんが、急ぐのであれば連絡が来るわけです。
 良い子のライターはこのようなことはしませんので、特殊なケースと受け取ってください。


◆2006年2月2日(木)
 大阪高の岡本博先生と連絡を取り、大阪高連載原稿の手直し作業。取材対象に原稿を見せるのは例外的なことですが、練習メニューに関する記事なので、万全を期すことにしたわけです。特に今回は12月の取材にプラスして、93年に一度掲載した大阪高の練習メニューなども参考にしているので、注意を払う必要がありました。幸い、それほど大きな手直し作業にはなりませんでした。
 原稿の手直しはよくしていますが、たまには世直しもしたいと、時々思います。でも、思うだけで実行することはないでしょう。などと書いていたら、箱根八里のHH氏の言葉を思い出しました。それは「世界的な選手を育てようと思ったら、中学や高校の先生にはならない」というものです。
 詳しくは機会を改めて書けるのか、本人も知らない。


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