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2005年12月  師走に夏休み?
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◆11月30日(水)
 今日は年に一度の……という書き出しは、1年の間に何回もできるのですが、今日は年に一度の上柚木競技場での取材です。11月末の平日に行われる八王子ロングディスタンス。主催は東日本実業団連盟ですが、コニカミノルタの主導で行われている大会です。
 京王線の南大沢駅に11:49に着。アシックスの吉田さんと一緒になりました。道すがら、この大会と日体大記録会の違いなどについて話し合いました。詳しい内容は明かせませんが…。この大会の特徴と少しは重なる部分があると思いますが、駅伝チームが強くなる過程を見ていると、初期の頃はトラックの記録を積極的に求めますけど、チームとして成熟してくると、トラックの記録にこだわらなくなる傾向があります。ちょっと古いですけど、80年代の報徳学園がそうでしたし、最近では駒大もそうです。
 どうやら、コニカミノルタもその段階(どの段階?)になっているようです。以前は松宮兄弟や磯松大輔選手、坪田智夫選手らがこの大会で積極的に記録を狙いました。しかし、今日、A組の速いペースメーカー(28分15秒の設定タイム)についたのは、太田崇選手と米田尚人選手の2人だけ。米田選手が今季の成長株で、1万mの好記録を出しておきたかった選手。太田選手はすでに28分ヒト桁を持っていますが、本番までの流れの中で、速い動きをしておきたかったのだと思います。対照的に松宮隆行選手や坪田智夫選手は、その必要がなかった……この話、陸マガのニューイヤー駅伝展望記事にも少し、使えるかな。
 米田選手が走れなかったのはあれですが、A組の日本人トップ(28分09秒62)を太田選手がとり、C組の松宮祐行、前田和之の2選手も、予定通りの動きができたようです。

 日本人2位(28分14秒03)はカネボウの真壁剛選手。26日の日体大の28分28秒48に続く自己記録更新ですが、これでカネボウは今季の日本代表4選手(高岡寿成・入船敏・瀬戸智弘・中村悠希)に続いて、柱となる選手が誕生しました。いい流れにはまれば、元旦に優勝する力は十分にあるチームのように思います。
 日本人3位(28分14秒92)は大坪隆誠(大阪府警)選手で、やはり大幅な自己新記録。6月で29歳ですが、昨年初めて28分台を出したと思ったら、今年の全国都道府県対抗男子駅伝、全日本実業団ハーフマラソンと快走して世界ハーフマラソンの代表に。5月の静岡国際では日本人の集団から抜け出して、日本人トップか、と思わせる走り。国際千葉駅伝のメンバーにも招集されて、アンカーで区間2位。
 180cmの長身。独特のリズムで走るところに、強さの要因があるのかもしれません。単なる憶測ですが。

 カネボウで思い出しましたが、B組のレース後にこの2人が一緒に引き揚げてきました。澁谷明憲選手(カネボウ)と市之瀬進選手(八千代工業)。市之瀬選手が今季から八千代工業に移っていますが、昨年までは同僚だった2人。澁谷選手は恐らく、今年に続いて来年の東京国際マラソンを走るものと思われます。グローバリーの移籍先は明日の16時からの会見で発表されますが、もう1つの注目されているカネボウの移転先の発表は、もう少し先のようです。
 その他には、ダニエル・ジェンガ選手と大崎悟史選手の29歳コンビも、大崎選手が走ったB組のレース後になにやら談笑。お互いの頑張りを誉め合っているような感じでした。ジェンガ選手の次のマラソンは、もう数週間で決まりそうとのこと。失敗したのは、大崎選手の次回マラソンを聞くのを忘れたこと。どこだろう。

 今日の取材はおもに、陸マガのニューイヤー駅伝の展望記事用のネタを仕入れること。真壁選手の話も聞けましたし、トヨタ自動車の安永コーチからは名古屋ハーフの話を聞きました。もちろん、コニカミノルタの選手、スタッフにも取材を敢行。最後は、コニカミノルタのデジカメでこの写真を撮らせてもらい、年に一度の八王子取材の一日を締めました。


◆12月3日(土)
 朝7時台羽田発の飛行機で福岡入り。福岡国際マラソンの取材です。
 昨日の記者会見に来られなかったので、まずは大会本部のある西鉄グランドホテルの事務局でプログラムを入手。その際、事務局のO氏から、いくつかの情報をゲット。3人のペースメーカーのうち、イサック・マチャリア(ケニア)とジョセフ・カリウキ(ケニア)は昨年と同じ選手で、そのうちマチャリア選手はサムエル・ワンジル選手(トヨタ自動車九州)と知り合いで、一緒に練習をしていたこと。ハウ・ロブ選手(英国・2時間14分33秒)は英国で行われている馬とのクロスカントリー・レースで、初めて馬に勝った選手であることなど。
 馬に勝ったことだけなら、やや色もの的な意味にしかなりませんが、マラソン転向と福岡出場を勧めたのが、1968年の福岡国際マラソンに優勝したビル・アドコックス氏というのですから、ロブ選手も“福岡色”の強い選手ということになります。

 10:30からは世界クロカン・コースの記者への公開ツアーがあり、参加しました。福岡国際クロスカントリーの取材に来たことはないので、初めて見るコース。競技コースだけでなく、選手のテントやウォーミングアップ場、ミックスドゾーンなども示されたコース図が配られ、選手の動線がよく理解できたので助かりました。
 従来のコースとの大きな違いは、大きな1つのマウンドと、3つの連なる中小のマウンド。愛称があったほうがいいだろうと質問すると、「年内にはつけたい」という回答でした。
 福岡国際クロスカントリーでは海沿いを走りますが、今回は基本周回コースが3kmではなくて2kmということで、その部分はカットされました。その代わりというわけではないと思いますが、菜の花がコース沿いに植えられますし、フィニッシュ地点の脇は桜のゾーンで、開催期間の4月1・2日には、かなりの絶景になりそうです。

 午後は西鉄グランドホテルのロビーで原稿を書きながら、記者や指導者の方たちから情報を入手していました。チームQの藤井コーチの話も聞くことができましたし、夜に福岡入りした大八木弘明駒大監督の話も(こちらにコメント)。気になるのは、明日の福岡が相当に寒くなるらしく、雨か雪になる可能性も大とのこと。
 注目のWワイナイナこと、エリック・ワイナイナとジェームズ・ワイナイナには、取材ではなく世間話。ジェームズは「2時間6分台で優勝が目標。寒さ? 僕の背中がヒートアップしているから大丈夫だよ」と話していました。エリックは、「明日の目標は明日ですよ」と、いつものように哲学的なコメント。新聞記事によれば、2時間7分台が目標とか。昨年2月の東京国際マラソンではジェームズが2時間11分00秒で7位、エリックが3秒差で8位。明日は、もうちょっと上の順位で走りそうな雰囲気です。


◆12月4日(日)
 10:30には平和台陸上競技場に着。福岡国際マラソンの場合、平和台競技場の施設が小さいこともあり、選手・コーチや役員が入れるスペースに、報道陣が入ることはできません。その他の主要マラソンの発着点である長居・瑞穂・皇子山・国立競技場では、報道陣と関係者が接することができ、スタート前に色々と情報をゲットできるのですが、その点については不便な大会です。でも、仕方ありません。多少、制約はあっても、博多の森発着よりも平和台発着の方が便利ですから。
 しかし今日は、スタンドの外側で色々な方々にお会いすることができ、有意義なスタート前でした。ニューイヤー駅伝展望記事の取材までできましたし、某社美人広報の方にもお会いできましたし。

 朝日新聞・原田記者からは、昨日このサイトに書いた「選考レースでないからこそ“純”福岡が面白い」を読みましたよ、と声をかけられました。岡山のSP記者こと同社の小田記者もいたので、それぞれの大会が特徴を出し、その存在価値を高めることが重要ではないか、という話をしました。それが、オリンピック一極集中の価値観から脱却し、陸上人気を高めることにもつながるのではないかと。
 ちょうど昨日、K監督から「日本の陸上界で人気・ステータスがあるのはごく一部の選手だけ」という話がありました。高橋尚子・野口みずきの両金メダリストを頂点に選手の人気・ステータス分布図があるとしたら、そのヒエラルヒー(ピラミッド型の何です)は底辺部分ばかり幅が広くて、上に行くほど極端な先細りの分布をしている。それが、陸上界の置かれている現状だと。
 それを打開するための方策として寺田が考えていることの1つが、オリンピック一極集中の価値観を崩すことです。人気のあるスポーツであるサッカー、野球、格闘技などの選手は、活躍する舞台がオリンピックとは限りません。その点、人気のないスポーツはだいたい、オリンピックのときだけ注目されるという構図です。
 陸上競技の場合、最近では世界選手権のステータスも上がっています。でも、それほど大きく変わったわけではありません。その象徴が、国内の各マラソンの注目のされ方が、結局いつも“選考レース”という部分なのです。
 それは違うんじゃない? もっと違う楽しみ方、注目の仕方があっていいんじゃない? というのが寺田の考えです。そのためには、各大会の主催者が頑張って、選考レースという部分でなく、その大会自体の価値を高める。福岡国際マラソンだったら、福岡で好成績を収めること自体に、選手が一生懸命になれる、そういう大会になって欲しいということです。そういう価値観が世間一般にも浸透すれば、オリンピック以外の大会で活躍しても、その選手の人気が上がります。五輪メダリスト以外も知られるようになり、陸上競技全体の人気上昇にもつながるわけです。
 もちろん、それが行き過ぎて、全ての大会が箱根駅伝のようになったら問題でしょう。そうではなくて、あくまでも最終的には世界での活躍を目指すけど、そのステップとして、各大会に全力を尽くすことができる。そこで全力を尽くすことが、世界につながる。そういう形になっていくのが理想かな、と愚考しています。

 レース終了後には、その福岡の運営に事務方の中心人物として20年間頑張ってきた朝日新聞事業部の田島勇次さんの話を聞きました。来年が定年退職なので、今大会が田島さんがかかわる最後の大会。近いうちに、記事にするか日記で紹介したいと思います。

 レース後はすぐに大会本部の西鉄グランドホテルに。福岡の不便なところは、レース直後に選手を取材できる機会と場所が極端に少ないこと。特に雨の日は、さらに事情が厳しくなります。中国新聞の山本記者は国近友昭選手だけをマークしていたのですが、結局、会場では取材ができず、ホテルでの取材となりました。選手に寒い思いをさせるわけにはいかないので、どうしようもないのですが、他の主要マラソンとの較差があり過ぎます。この辺は主催者にもう一工夫してほしいところです。

 西鉄グランドホテルでは国近選手のほか、優勝したバラノフスキー選手にも話を聞くことができました。昨日、寒さに対して自信を見せていたジェームズの話を聞くことはできませんでしたが、Wワイナイナのもう1人、エリックには得意のすれ違いざま取材。寒さがこたえた、と言っていました。大阪の世界選手権だったら日本でトレーニングができるから、そこで好成績を収めて北京五輪の代表になって行く、という戦略を話してくれました。
 ホテルには1万mジュニア世界記録保持者、トヨタ自動車九州のサムエル・ワンジル選手の姿も(写真)。ペースメーカーを務めたイサック・マチャリア選手と同郷で、仙台育英高に入学する前からの知己という間柄だそうです。「僕も北京五輪後にはマラソンをやる」と、話していました。


◆12月11日(日)
 本日は日体大の箱根駅伝用の共同取材日。11:35に青葉台駅に着き、松屋でパパッと食事をとってタクシーで合宿所に。駅伝合宿所に行くのは初めてでしたが、所番地を頼りにタクシーを降りたら、まったくの住宅街。なかなかのハイソな雰囲気の街でした。さすが、東急沿線。電柱の番地表示を頼りに5分ほどで合宿所を探し当てました。
 取材は合宿所の食堂で、カコミ形式で行われました。記者たちがリクエストした選手を、マネジャーの方が呼んできてくれます。日体大長距離競技会に出る鷲見知彦選手を除いた28分台ランナー3選手(熊本剛、保科光作、北村聡)と、1年生の石谷慶一郎選手に話を聞きました。ちなみに、熊本選手と北村選手が西脇工高出身。鷲見選手の豊川工高と並んで、日体大の選手に多い出身高校です。

 選手たちの後は、別府健至監督の話を記者全員で聞かせてもらいました。早いものでもう、就任7年目です。別府監督も西脇工高出身。同高の全国高校駅伝初優勝時の1年生アンカーでした。アンカー決戦を演じた八千代松陰高(千葉)の選手は、前年の全日中とジュニアオリンピックの3000m優勝者。両校が並走しているときは、八千代松陰高有利と思われましたが「5kmだったら自信があった」と、別府監督は23年前を振り返ってくれました。そういった気持ちでレースに臨めることが大事なのかもしれません。
 その点、今季の出雲と全日本の日体大は、「120%を期待してしまった選手配置だった」とのこと。全日本のときなど、選手たちはそれなりに自信を持って臨んでいましたが、どこかに無理をしていたところがあったのかもしれません。それを反省して、箱根はとにかく堅実に、というスタンスで臨みます。ただ、選手配置などやレース展開に堅実さが出ても、全日本などで期待した部分は期待として、箱根にも存在するわけです。別府監督にもその点は確認しました。
 堅実な駅伝でも優勝に手が届く可能性はあるチーム。“期待”の部分まで発揮できたら、可能性は相当に高くなるでしょう。

 合宿所での取材後は、健志台グラウンド(ブルートラックになりました)で行われている日体大長距離競技会に。寮でプログラムを見せてもらうと、1万mの最終組には鷲見選手の他、小林史和選手(実際は欠場)や注目の重川材木店の選手も数人エントリーされています。寮からは500〜600mほどの距離。これは行かない手はないでしょう。
 この日の競技は男子5000mが21組、1万mが6組、女子の3000mが5組、5000mが2組。最初の種目が朝の8:00、最後の種目は20:45開始です。ここまで長距離種目をぶっ通しで行う競技会も珍しいでしょう。海外では考えられないと思われます。
「あれ?」と思ったのが、主務の能條君とサブマネの学生が、取材対応を寮の方でやっていてくれたことです。自分たちの大学で競技会をやっているのに、主務がその場にいない。その点を質問すると「マネジャーは全部で13人いますから」(人数、もしかしたら間違っているかもしれません)との答え。さすが日体大と思いました。

 競技会では鷲見選手が28分57秒11で走りました。レースをずっと引っ張るスタイルも健在です。出雲、全日本と故障の影響で欠場しましたが、無理をしないで箱根に合わせてきました。この1万mでも、無理に28分台を狙った仕上げをしたわけではないようです。
 別府監督は、こちらの記事でも紹介したように、1区がしっかり走れれば、4区までは上手く流れると自信を持っています。鷲見選手にメドが立ったことで、堅実な駅伝が実現しそうです。

 競技会で他に目立った選手は、5000mの最終組で橋ノ口滝一選手が1位に。寒さのため記録は14分台でしたけど。1万mでは最終組の方が少し前の時間で、自体学勢が2・3・4・7位を占め、その4人が28分台。ニューイヤー駅伝が楽しみになりました。5位が鷲見選手で、6位が重川材木店の松本真臣選手。松本選手は重川材木店の日本選手初の28分台(28分58秒06)で走りました。走った松本選手はもちろん、応援していたチームメイトたちも興奮を隠せない様子。こちらも、ニューイヤー駅伝が楽しみになりました。
 学生では5組1位の高橋和也選手(早大1年)が29分29秒05の自己新。箱根駅伝のチームエントリー時点では、1万mの記録欄が空欄でしたから、恐らく今回が大学入学後の初1万m。ラストは強かったですね。2位の野口拓也選手(東北高)は2年生。29分31秒94は高2歴代12位でしょう。11月末にも日体大で、5000mに14分16秒55を出している選手です。宮城県インターハイ5000mでは仙台育英高2選手に続いて3位でしたが、宮城県高校駅伝の1区では仙台育英高・梁瀬選手に1分19秒も離されています。その悔しさが、モチベーションになっているのかもしれません。

 こういった高校・大学のエリート選手たちの頑張りが目立つ一方で、1万m3組では中村高洋選手(名大)が29分48秒89で走りました。素質のある選手は、どこに埋もれているかわかりません。名大は東海学生駅伝に優勝していますから、練習もかなりやっている大学だと思われます。それでも、関東の大学に比べたら、やっていないでしょう。中村選手は4年生。その人にはその人の人生もありますから、立ち入ったことは言えませんが、実業団に行ったら面白い存在になるんじゃないでしょうか。


◆12月16日(金)
 夕方の5時から東海大の箱根駅伝に向けた共同取材。先週の土日に日大、日体大とあったので、これで3校目です。一連の取材で面白いのは、“横のつながり”とでも言う部分でしょうか。例えば、日大の土橋啓太選手(3年)と東海大の伊達秀晃選手(2年)は、大牟田高の先輩後輩。高校時代は2年間、同部屋だったそうです。
 土橋選手には、伊達選手の印象など、少し話を聞くことができたのですが、今日の東海大取材では、そこまでの余裕が持てませんでした。その理由は2つ。日大では共同会見部分が長く、その後、個々に話を聞いた選手は土橋選手と吉岡選手の2人だけでした。時間もあって、最後の方は雑談モードに。それに対して今日は、個々に話を聞いた選手が多かったのです。陸マガの取材で主要選手は話を聞いてあるのですが、それでも、やっぱり佐藤悠基選手は聞かないといけないですし、前回山下りの石田選手に、前回9区区間最下位の倉平選手、そして1年生1区候補の杉本選手にも話を聞こうと考えていましたから。
 もう1つの理由は、取材する記者の数が多かったこと。広報の方によれば、東海大始まって以来の人数が殺到したそうです。末續選手の世界選手権銅メダルの時は? と思いましたが、考えてみたら、当時すでに末續選手はミズノの所属。会見はミズノでやることが多かったですし、公開練習は陸連合宿のときが多かったのでした。

 土橋・伊達選手のような高校の先輩後輩は、かなりの数になります。月曜日には中大で同様の共同取材がありますが、中大には佐藤悠基選手の佐久長聖高の先輩である上野裕一郎選手がいます。
 指導者のつながりもあります。日体大の別府監督は、西脇工高が全国高校駅伝に初優勝した際のアンカーだったことは、11日の日記で紹介しました。そのとき2位だった八千代松陰高の3区で区間賞を取ったのが、東海大の大崎栄コーチです。大崎コーチは前年にも4区で区間賞を取っています。1982年のこと。
 そのときの八千代松陰高の監督が、東海大の新居監督です。
「別府君も大崎も、駅伝をやってきたことで色々な出会いがあった」
 と新居監督はしみじみと振り返ります。一番おいしいお酒が飲めた駅伝はどれか、と質問したところ、「全国高校駅伝に初出場で7位になったとき」という答えでした。大崎コーチが2年生の時ですね。翌年は2位ですが、西脇工高に“負けた”印象が強いようです。東海大に来てからは、これというレースはないようです。
 今回の箱根駅伝も“2位”では、本当に美味しいお酒は飲めないでしょう。


◆12月18日(日)
 朝7時に起きるとホテルの窓から見る岐阜市街は雪景色。元旦のニューイヤー駅伝に続いて「やばい」と思いましたが、8時を過ぎると晴天に。なんとかなりそうで、一安心しました。9:20にホテルを出て、10時前には長良川競技場に着。その後は記者の方たちと話をしつつも、書きかけの原稿に集中しました。
 中日新聞・桑原記者とはフィギュアスケートの話になりました。以前、安藤美姫選手と今井美希選手の“愛知のミキ”談義をした記憶があったのです。今日の駅伝でも、三井住友海上のWミキが活躍しそうでしたし。ちなみに、昨日の国際グランプリファイナルで安藤選手が失敗しましたが、トリノ五輪候補5人のうち3人は、愛知県出身の選手だそうです。
 元大広(広告代理店)の大内さんは、スタンドでニューイヤー駅伝公式ガイドを購入して来られました。公式ガイドの購入が目的ではなく、スタンドに出て大会全体の雰囲気や運営、観客や関係者の様子をチェックされているわけです。競技場の玄関に車で乗り付け、あとは大会本部でふんぞり返っているだけ、というお偉いさんには見習って欲しい部分です。

 いつもだったら、レース1時間前くらいから監督たちと雑談をしに行くのですが、今日は11:30まで原稿書き。30分だけスタート前取材をしました。
 三井住友海上・鈴木監督は、「ええっ?」とビックリするようなギャグを言ってきます。余裕があるのか、今さらジタバタしても仕方がないと思っているのか。天満屋・武冨監督は、いつものように穏やかな笑顔。レース中にテレビに映っていた真剣な表情は、普段はあまり見られません。
 寺田は今回、陸マガは小ネタ担当ですが、3本はレース前にネタを確定させ、1本は取材を済ませました。

 レースはこちらの結果に。2位の天満屋、3位の沖電気は予想外。昨日も、この2チーム関係者への取材はまったくしませんでした。まさか天満屋が、坂本直子選手を欠く陣容でここまで走るとは、完全に想定の範囲外です。1区の中村選手(3位)で好位置を確保したのはあれですが、3区まで並べた入社2年目トリオがここまで走るとは。武冨マジックですね。淡路島のときの日記にも書きましたが、あの表情に騙されてはいけないということでしょう。
 沖電気の谷口監督の話は聞けませんでしたが、毎日新聞の記事によれば涙も浮かべていたとか。1年くらい前までは、「選手を走らせるのは難しい。自分で走る方がよっぽど楽」とこぼしていましたから。きっと何か、指導法でつかんだものがあるのでしょう。

 今回は九州勢が目立ちました。沖電気が3位に入っただけでなく、3区では十八銀行の扇まどか選手が区間3位。渋井陽子選手を抑え、日本人トップの快走でした。競技とは関係ありませんが、名前のまどかの由来は、ご両親が教えてくれないと話していました。三木まどか選手(女子100 mで89年のインターハイ優勝)を思い出したので、ちょっと気になったのです。
 十八銀行の高木監督は、以前は沖電気でコーチ。宮崎工高で阿万亜里沙選手(女子100 m元日本記録保持者)の1学年上と言っていましたから、谷口監督とは同学年ですね。そういえば、武冨監督は佐賀県、4位の資生堂・川越学監督は鹿児島県。九州出身の監督が頑張った大会でもあったわけです。
 1区では宗由香利選手も4位(日本人2位)の好走。注目されていた1500m選手間の争いで、頭を取りました。
 高木監督と旭化成の楠マネジャーから、このサイトを選手たちが見ていると聞かされました。地域的には、関東のネタが多くなるのが現状です。どうしても、取材の多い地域になりがちなのですが、今後は福岡以外の九州ネタも増やしましょう。

 ところで、番狂わせがあったということは、予想以下の順位になってしまったチームもあるということ。そういったチームの選手や監督に話を聞くのは、難しいところもあります。敗因を面と向かって聞けないことも多いですね。他の記者たちと一緒ならともかく、それ以外のシーンで改めて聞くとなると。
 資生堂・川越監督とは、優勝したらあることを寺田のサイトで公表する約束をしていましたが、「大阪女子マラソンで○○選手が優勝したときに」と、こちらから変更案を提案しました。京セラの選手たちには、閉会式会場の外で出くわしたので、敗因を質問しました。さすがの杉森美保選手も上手く説明できないようでしたが、そういった状況でも笑顔で対応してくれます。もちろん、すぐに退散しましたが、こちらもちょっと複雑な心境になりました。その後、京都新聞の宮脇記者と話をしたりして、寺田なりに推測したことはあるのですが、今日のところは書かないことにします。時間をおけば、関係者に話を聞く機会もあるかもしれませんし。
 などと考えていたら、なんと京セラの大森監督と岐阜から名古屋に移動する電車で、偶然一緒になりました。今日の駅伝の話をしないのも不自然なので最初に少しはしましたが、場所が取材の場ではありませんから、根ほり葉ほり聞くことはしません。むしろ、陸上界全般の話題や、大森監督の埼玉栄高時代の選手のこと、寺田の個人的なことを話して美濃尾張間を過ごしました。


◆12月24日(土)
 いったい何年ぶりだろう?
 全国高校駅伝取材のため、京都に来ています。昨日から今日の午前中まで関西某所で取材があり(いい話を聞くことができました)、それを済ませて昼頃に京都入り。最後はタクシーを使って、13時から始まっていた監督会議に間に合いました。といっても、会議をやっている会場の外で、区間エントリー表が出るのを待っていただけなのですが。

 今日の目的は、有力校監督たちのコメントを聞くこと。特に、女子は3強(諫早、須磨学園、興譲館)の力が接近していて、どこが勝つのか予断が許されない状況です。なんとか3チームの監督全員に取材したいと考えていました。
 しかし、ここ数年高校生選手の取材が少なく、各監督とも面識がありません。こういうときは、他の記者たちが囲んでいるときにご一緒させていただくのがベターです。
 女子の3監督については産経・O氏、読売・S氏と、関西の陸上競技担当記者の方たちに便乗させていただきました。男子では豊川工高・渡辺監督を中日新聞・K記者たちが囲んでいたので、そこに合流。佐久長聖高の両角監督は面識もあるので、寺田から声をかけることができました。
 本当に久しぶりの西京極取材で、どう動いたらいいか勘が鈍っていました。他の記者たちの動きを参考にして、なんとかなったという感じです。

 ところで、会場まで行くタクシーの運転手が相当なスポーツ好きな方で、こちらが高校駅伝の取材とわかると色々と話しかけてきます。ジュニア時代にすごい活躍をするのはいいことなのかどうか、とか。なかなか本格的です。水泳の金メダリスト、柴田亜衣選手が京都観光をしたときにチャーターしてくれたこと、プレゼントをもらったことを嬉しそうに話します。
 そのスポーツ通運転手が言うには、地元で行われている全国高校駅伝で記憶に残っている最後の選手は渡辺康幸選手(現早大監督)で、「その後はケニア選手ばかりでよく覚えていないし、関心も低くなっている」と言います。正確には、渡辺選手の卒業翌年は小林雅幸選手(現SUBARU)が1区の区間賞を獲得していますけど、それが世間の印象なのでしょう。

 夜はちょっとした食事会。7人の集まりでしたが女性が1人来ると聞いていたので、プレゼントを購入しようと思い立ちました。西京極から四条河原町まで阪急電車で移動。たぶん、目の前を何十回と通ったことのある阪急デパートに、初めて入りました。アテがあったわけではありませんが、なんとなくぶらぶらしていると、ヘルシーコーナーっぽい一画でピンと来るものがありました。ものの数分悩んだだけで、ハーブティーを購入。正確には覚えていませんが「二日酔いによく効く」というようなコピーが大きく印刷されたパッケージです。
 その女性の方が、明日の午前中の早くから仕事だとわかっていたので、洒落のつもりで買ったわけです。今夜はお酒を飲んでも大丈夫ですよ、という意味を込めて。ラッピングはしっかりクリスマス用にしてもらいましたけど。高校駅伝当日に午前中から仕事をする陸上競技関係者……って、いっぱいいますよね。


◆12月25日(日)
 全国高校駅伝の取材は7年ぶりでした。1988年から取材に行き始め、最後が何年だったか、なかなか思い出せなかったのですが、過去のリザルツをずっと見ていて1998年が最後だったと思い出しました。西脇工高に清水将也・智也双子兄弟がいましたから。中尾栄二選手がエースだった年で、兵庫勢5連覇の最後の年(西脇工2連覇・報徳学園・西脇工2連覇)。2区だった藤原正和選手(現ホンダ)が、今や初マラソン日本記録保持者です。7年間あれば、大きいことも成し遂げられる。
 その98年、女子は田村が優勝しましたが、前年の97年までは埼玉栄高が3連覇した時代。当時、監督だった大森国男先生が今は京セラの監督で、今年はついに原裕美子選手を世界選手権マラソン6位にまで育てました。7年間頑張れば、大きいことができますね。
 男子の西脇工は02年にも優勝していますが、高校駅伝は寺田が取材に行かなくなった後、仙台育英中心の時代に変わりました。女子は埼玉栄の後、優勝校は毎年変わって2連覇するチームはありませんが、ここ数年は諫早と須磨学園、興譲館が3強といえる時代に入っています。

 昨日の日記にも書いたように、7年間も来ていないと勘が鈍ります。この大会の取材の不便なところは、プレスルームのある建物と競技場の間に選手の走る取り付け道路があり、記者の動線が遮断されることです。報道担当の役員の方が、女子の5区への中継前にそのことを言いに来てくれて思い出しました。
 でも、「優勝チームはしばらくテレビのインタビューで拘束されるだろうから、47チームが走り終わってからでも間に合うはず。できるだけプレスルームで記録を集めよう」と思ったのが失敗。最下位の富岡東が大きく遅れていて、取り付け道路がなかなか渡れません。レース展開をしっかり把握しておかなかったこちらのミス。勘が鈍っていたことの一例です。

 そのため、優勝チームの興譲館の取材に出遅れました。新谷選手の話はもう、他の記者たちが聞き終わった後。森政芳寿先生も大人数の記者に囲まれていて、話が聞き取りにくい位置にしか行けませんでした。そういうケースでも、粘って取材をすれば挽回もできますが、他のメディアに記事を書く予定もないので、須磨学園の取材に切り換えました。
 長谷川重夫先生と小林祐梨子選手のコメントをしっかり聞けたので、これは記事にできるでしょう。興譲館の取材が不十分ではありますが、この2チームのスタンスは対照的だと感じました。どちらが良いとか悪いとかという話ではなく、強くなることへの情熱は同じでも、そこに至ろうとする考え方に違いがある。ちょっと面白く感じました。

 閉会式の最中に、某専門誌E本編集者に「(来ていなかった間に)何が変わりましたか?」と聞かれました。とっさに、「ケニア選手が多くなったことかな」と答えました。寺田が取材に来ていた98年までは、1区といえば仙台育英の選手だけでした。実際、93年から03年まで11回連続で同高のケニア選手が区間賞を取り続けました。それが昨年、今年と別の学校のケニア選手が区間賞を取りましたし、近年はケニア選手たちが集団でレースをしています。
 1・2位チームが国際記録となったのは史上初めてですし、入賞8チーム中3チームが国際記録となったのも初めて(2チーム入賞でも初めて)。
 そういう状況の1区で、森賢大選手は上手く走ったと思います。1kmまでケニア選手の集団について、そこで速すぎると判断して後退しました。けれども、しばらく日本人集団で様子を見て、遅いと見るや4〜5kmの間で抜け出した。名前同様、クレバーな走りだったし、日本人ナンバーワンの意地も力も見せてくれました。

 男子の取材は、取り付け道路が遮断される前にしっかり競技場に移動。高校駅伝史上2回目の3連覇の偉業を、生で目撃することができましたし(女子を含めると3回目)、仙台育英・渡辺高夫先生のコメントもしっかり取材しました。続いて、豊川工の集合場所を見つけ、渡辺正昭先生と1年生で3区区間賞の三田裕介選手を取材。さらに運がいいことに、閉会式20分前に会場の外で森選手の話まで聞くことができました。
 昨日の取材中「同じ県立の工業高校として、西脇工が目標」と話していたのが印象に残っていたので、豊川工の渡辺正昭先生にはその辺を突っ込みました。期待通りの答えが返ってきたので、それは記事にする予定です。
 偶然ですが、98年に初出場を果たしたのがこの豊川工と佐久長聖。佐久長聖はその年早くも4位に入賞していますが、寺田が来なくなった7年の間に、仙台育英に迫るポジションを確固なものとしたのが、この2校です。
 佐久長聖は佐藤清治、上野裕一郎、佐藤悠基に続いて今年、松本昴大選手が5000mで13分台を出しました。昨年まで3人で大牟田も並んでいましたが、歴史の浅い佐久長聖が一歩抜け出ました。高校記録を出してきた3人は傑出した力を持っていましたが、松本選手はそこまでの存在ではありません。その松本選手が13分台を出したことが、チームにとってはプラスだということを、両角速先生は以前話していました(国体か11月の日体大で)。
 全国大会の豊川工は00年に2時間6分台をマークすると、03年まで6分台を続け、昨年は2時間4分台。過去、国際記録以外で2時間3分台を出しているのは、渡辺正昭先生が目標にしている西脇工だけです。陸マガ別冊付録を見ると佐久長聖の今大会の目標記録は2時間03分00秒で、豊川工が2時間03分59秒。ともに、“西脇工の域”を目標にしていたわけです。
 今日も豊川工が3位で、純和製チームでは最高順位。渡辺先生によれば、そこを目標にしたり気にしたりしているわけではないとのことですが(この点も記事に盛り込もうと思っています)、客観的に見たとき、同高が2年連続純和製チームトップというのは事実です。2年前は佐久長聖がトップでした。

 7年ぶりの高校駅伝取材最大の収穫は、仙台育英の3連覇という偉業を見ることができたことです。「谷間の学年」(渡辺高夫先生)で、なおかつレースでミスをしても勝ってしまう強さで、チーム作りの基本的な部分が上手く回転していると思われます。
 女子も、埼玉栄高以来1時間6分台は出なくなっていましたが、03〜04年の全国大会で3強が1時間7分台を記録し、今年の県予選でも3強が揃って1時間7分台。そろそろかな、と期待していたら興譲館が今日、1時間6分台を出してくれました。このあたりの思いを、興譲館に取材したかったのですができませんでした。陸マガ別冊付録には「昨年の記録を1秒でも上回る」とあります。まあ、客観的に見ている側と当事者では、記録への意識の仕方も違ってくるでしょう。
 豊川工と佐久長聖高が失敗をしながらもきっちり3・4位に入り、最初の3連覇チームの報徳学園も、レース巧者ぶりを発揮して5位に食い込みました。報徳学園の監督は、3連覇の1回目に1区で区間賞を取った平山征志先生です。
 西京極からの帰り、阪急電車に乗ると、反対側のホーム(梅田方面行き)に報徳の選手がいます。走った選手まで電車で帰るのかどうかは知りませんが、3連覇の頃と同じ風景です。


◆2006年1月1日(日)
 あけましておめでとうございます。いよいよ2006年。陸上界にとっては大阪世界選手権のプレシーズンとなる年です。今季をどう過ごすかで、来年が左右されるとっても重要な年。というような話を原稿にも書きましたし、昨日、等々力投てき部長もそんな意味の話をしてくれました。

 本来、堅苦しい挨拶など、特にこの日記ではしたくないのですが、たまにはいいでしょう。でも、実生活ではそうもいきません。今日も、ニューイヤー駅伝のスタート前は、面識のある方たちには新年の挨拶をしました。大一番を控えている監督たちに新年の挨拶もどうかと思うのですが、走るのは監督たちではありませんから、手短に「今年もよろしくお願いします」と言う分には問題ないでしょう。
 スタート前に選手に声を掛けるようなことはしませんが、先方から声をかけてきたり、会釈してくる選手もいます。さすがに、新年の挨拶まではできませんけど。

 レースはコニカミノルタが快勝。中国電力が約1分差で続きましたし、3区以降は踏みとどまって、コニカミノルタの完全独走というレースにはしませんでした。でも、競り合うシーンがなかったのも事実。中国電力の選手たちも、その点を悔やんでいた選手が多かったです。尾方剛選手など、個人でも高卒新人にやられてしまいましたから、相当に悔しがっていました。
 ただ、尾方選手を破ったヤクルトの松下朋広選手は、なかなか面白い選手です。話を聞いていてそう思いました。詳しくは、次号陸マガで。

 取材は順調…でもなかったですね。
 重川材木店のフィニッシュまでテレビで確認し、フィニッシュ地点付近に移動。あるチームが集合をしていたので、まずはその取材から。この記事がけっこう大作なので、5人の選手と監督に話を聞きました。時間もそれなりにかかり、そのチームの取材終了時には閉会式が始まりました。選手への取材は中断しましたが、閉会式に出席していなかったヤクルト・物江コーチに、松下選手のことや4位と過去最高成績を収めたチーム状況について取材。その最中に、某社監督も通りかかったので、そのチームのある選手について、こちらも下調べの取材をさせてもらいました。
 閉会式後は高岡寿成選手にはパパッと手短に話を聞き(「後で電話をするかも」と言い残して)、陸マガ用に松下選手と某選手の話を聞きました。最後になったのが2位チーム・中国電力の取材です。
 これが、苦しみました。松下選手や某選手は、取材中に「この話で行けるな」という手応えがありましたが、中国電力は何を中心に書いたらいいのか、その時点では見通しが立っていませんでした。選手たちに話を聞いていても、「これで行きたい」と感じるものがないのです。敗れたチームの取材というのは、そういう傾向があるにはあるのですが、1区以外は、ここで大きく差がついたという点は見当たりません。“ここが失敗だった。だったら次からは…”という展開の方が書きやすいんですね。
 しかし、取材後に記録を見たり、頭の中でレースを振り返っていたら、あることにピピンっと気づきました。(雪が降らなくてホッとしたと思われる)毎日新聞事業部の大矢さんにその点を話すと、同意してくれたので、自分の認識が間違っていないのだと確信。なんとか書けそうです。

 レース前は新年の挨拶をして回りましたが、レース後はそんなことをしている余裕はありません。挨拶なしで、いきなり取材に入ります。取材対象の選手や指導者以外は、きっちり挨拶しないといけないところですが、その時間もありません。すれ違いざまに、パパッと済ませます。これは選手ですけど、重川材木店の萩野智久選手には「10日過ぎあたりに取材に行くから」とひと言だけ。
 ヘルシンキでお世話になったTBSの石原未来さん(インターハイ走高跳2連勝選手)への挨拶も、そんな感じですれ違いざまにひと言だけ。お互い足を止める余裕はなく、ほんの一瞬でした。石原さんはTBSの倖田來未と言われている女性……なのかどうかは知りませんが、レコード大賞受賞の感想などを聞こうと思っていたのです??? 


◆2006年1月2日(月)
 朝の7時からFM東京の「6SENSE」という番組に、電話ですけど生出演。箱根駅伝のみどころを話しました。といっても、時間は5分程度。パーソナリティの女性の方の質問に答える形でした。
 生出演ですけど、事前にちょっとした打ち合わせはしておきました。優勝候補が東海大で、それを阻止する可能性があるのが駒大、日大、中大、日体大、順大。でも、たくさん候補を挙げると聴取者が混乱するので、駒大を中心に話そうと。
 本番では普通に話せたと思います。実は11月の国際千葉駅伝の朝にも同じ番組に出ていて、朝練習帰りに車の中で聞いたというS社の監督とコーチから、「眠そうな声でしたね」と指摘を受けていました。眠かったわけではありませんが、テンションを上げすぎると“浮いて”しまいそうだったので、ちょっと抑えたのです。
 失敗したかな、「駒大が連覇を続けられる理由は?」という質問に対し、どれを挙げるか迷いました。結局、1年前の陸マガ増刊の記事で書いた中から、“各学年に核となる選手が必ずいる”という話をしたのですが、今回に限っては4年&2年なんですよね。“日常生活をしっかりする”という話の方が良かったかな、と後悔もちょっぴりしています。でも、日常生活と競技力がつながる話って、短時間にパパッとするのが難しそうに思えたんです。
 とにかく、じっくり考え、書き直しができる記事と違って、話すメディアは大変です。そういう世界でやっている人たち(金さんや増田さん)は、どうしたらあんなに上手く話せるのだろう。頭の回転の速さかな。

 ラジオ出演後は、箱根駅伝をテレビ取材。2年くらい前から、往路の取材に芦ノ湖に行くのはやめています。ちょっと、体が持たないかな、と感じ始めたので。テレビを見終わった後は、昨年はニューイヤー駅伝の原稿に取りかかったと思いますが、今年は駅伝とは関係のない、ある大作原稿執筆に費やしました。本当だったら、昨年中に書き上げないといけなかったのですが、これがなかなか終わりません。
 明日は朝早くに大手町に行きますから、かなりやばい状況。


◆2006年1月3日(火)
 8時には大手町の読売新聞社に。復路はスタートからしっかり、プレスルームでテレビ取材をします。それにしても、箱根駅伝の復路はいつから、こんなに忙しくなったのでしょう。以前は、テレビから目を離しても、全然OKでした。はっきり言えば、ニューイヤー駅伝の原稿を書いたこともありました。でも最近は、とても別の原稿なんか書けません。上位の順位がかなり入れ替わるようになっていますから。
 それでも、コマーシャルの間は目を離せます。前橋に来なかった記者の方に新年の挨拶をしたり、某専門誌E本編集者に立て替えてもらっていたお金を返したり。
 お金の部分も含めてかなりお世話になったので、オマケをつけて返した方がいいかなと感じていました。それで、年末に電話で話したときに「倖田來未は好き? ****があるんだけど」と質問したら、「別に好きじゃありませんよ」と強い口調で言われてしまいました。ところが今日、再度確認すると「それは欲しいです」とのこと。この数日の間に、E本編集者にどんな心境の変化があったのだろうか。

 優勝争いは二転、三転。復路のスタート前は、駒大かな、と予想していた記者が多かったようですが、7区終了時には、順大がこのまま行きそうだ、という雰囲気に。しかし、8区で順大のアクシデントもあって駒大がトップに立ち、やっぱり駒大だ、という雰囲気に。しかし、9区では伏兵の亜大がトップに。このあたりから、プレスルームはもう、蜂の巣をつついたような騒ぎでした(かなり誇張した形容です)。
 どの社も、ある程度順位を予測して紙面展開や、取材の担当を決めています。予測と違ってくると、それを練り直し、誰がどのチームを担当するか、その場で打ち合わせないといけないのです。10区の後半は恐らく、近年では一番騒々しかったと思います。これは、間違いありません。

 陸マガは事前に、どの大学を誰が担当すると決まっています。寺田は東海大と山梨学大の担当。どちらの大学も持ちネタは十分でしたが、レース後の取材がやっぱり重要。フィニッシュ地点に降りていくと、両校は近くに待機していました。しかし、選手たちの表情は対照的です。山梨学大は4年生の森本直人選手が「4年越しや!」と、興奮気味に叫んでいます。辻大和主務の目には、うっすら涙が浮かんでいます(本人は否定していたかも)。後から聞いたところでは、向井良人キャプテンも涙を浮かべていたようです。
 山梨学大が2位でフィニッシュし、東海大は予想外の6位。どちらの取材を優先するか迷いましたが、成績が悪かったチームの方が難航するかな、と感じて東海大の選手についていきました。各大学とも、フィニッシュ地点近くに陣取っているスペースがあり、そこに移動する最中に、9区で区間2位の一井裕介選手のコメントを聞き、東海大のスペースに着くと2人の選手に取材。
 間もなく、応援に来た関係者やファンに、選手1人1人が挨拶。この間は、こちらは取材ができません。6区で追い上げ体勢を築けなかった石田選手と、直前の故障再発で出場できなかった中井祥太選手は、挨拶の途中で涙をこらえられなくなっていたようです。普段は冷静沈着な小林主務の目にも、涙がありました。
 全体的な敗戦ムードは隠しようもありませんが、市村キャプテンの言葉には力強さがありましたし、4年生の丸山敬三選手や一井選手は、ユーモアも交えて挨拶をしていました。チームカラーなのか、新居監督のカラーなのか。見ているこちらも、肩の力を抜くことができました。

 挨拶が終わった後、5区で発熱の影響でブレーキをしてしまった伊達秀晃選手に、話を聞きに行きました。昨日の往路フィニッシュ後は、どの社も取材はできなかったと聞いています。元々、取材に対して“立て板に水”という感じの受け答えをする選手ではありません。どちらかというと、遠慮しがちな話し方になってしまうタイプ。そして、今回の結果ですから、落ち込んでいないわけがない。
 もちろん、話ができなさそうな状態であれば、取材はしません。逆に、決意を話したいと思っている選手もいます。後者と思ったわけではありませんが、今日の伊達選手は、サポーターへの挨拶の仕方や、表情などを見て、なんとか取材できると判断しました。それでも、最初に声を掛けたときの反応や表情で、しない方がいいと感じれば中止します。
 話してみて正直、痛々しさも感じましたが、これまでの取材で最も、芯の強さが感じられる話しぶりでした。具体的な内容は陸マガ2月号で。

 東海大の取材を終えてプレスルームに戻り、記録を整理した後に、昨年から閉会式を行うようになった東京ドームホテルに移動。山梨学大を中心に取材しました。さすがにもう、涙は見られませんでしたが、各選手の様子からも感動の余韻が伝わってきます。
 印象的だったのは、モグス選手のポジティブシンキング。チームへの溶け込み方も、これまでの留学生選手とは違うと思いました。これも、陸マガ2月号で記事にします。
 そして、出場20回目の上田誠仁監督の話が、含蓄のあるものでした。優勝したときの感動とは、種類が違う感動だと言います。

 予想以上の成績だった山梨学大と、予想を大きく下回る成績だった東海大。同じ箱根駅伝で、これほど対照的な涙を短時間のうちに見たのは初めてです。その両チームを取材できたのは、記者としてやり甲斐のあることだったと思います。


ここが最新です
◆2006年1月9日(月・祝)
 最近、日記を書く日数がめっきり減って、“週一”日記のような頻度になっています。日清食品の1区は藤井周一選手ですが……読まなかったことにしてください。試合の取材に行くと、“これは面白い”と思えることがあって書く。試合のない日は書かない、というパターンです。これはいけません。心を入れ替えて(今さら何を、という感じですが)、頑張りましょう。

 さて、今日は何を書くかといえば、最近のパターンを踏襲するなら朝日駅伝ということになります。でも、取材に行ったわけではありません。記録を見た範囲で気づいたのは、九電工、旭化成、安川電機と九州勢が1位から3位までを独占したこと。これは、何年ぶりなんでしょうか。あやふやな記憶で申し訳ありませんが、この駅伝は日清食品やホンダ、ちょっと以前はNECと東日本のチームも頑張っていた印象が強いのです。4月からは東日本の一員となるカネボウも頑張っていたような気がします。
 選手個人では、7区区間賞の旭化成・小島宗幸選手が、区間2位に41秒、3位に1分12秒の大差をつけています。ニューイヤー駅伝の3区でも日本人2位(区間12位)ですから、いよいよ本格復活ですね。98年でしたでしょうか。あのマルティン・フィス(スペイン)選手を向こうに回してびわ湖マラソンに優勝したイメージが、今も鮮烈に記憶に残っている選手。シドニー五輪も補欠に泣きました。もう一花、咲かせてもらいたい選手の筆頭ですね……三代直樹選手(富士通)と双璧ということにしておきましょう。

 昔のことを思い出しました。恐らく、小島兄弟がまだ高校生だった頃(西脇工高です)。千葉国際クロスカントリーのジュニアの部を走っていたのだと思います。陸マガのトレーニングワイド・ハードル編を長く担当していただいた高木直正先生(順大のハードルコーチ)が、通告をされていたんですね。小島兄弟のことを「こじま兄弟」とアナウンスされていたので、急いで通告席に行って「おじま兄弟です」と、訂正してもらったことがありました。
 なんでそんなことを思い出したんだろう、などと考えていると、井上将憲・鯉川なつえ夫妻から年賀状が来ていたからだ、と思い当たりました。これは恐らく、2人が順大の4年の時。何かの大会で2人一緒に通告を担当していて「高木先生みたいだね」と声を掛けると、「尊敬しているんです。高木先生みたいになりたい」と、井上選手が答えてくれたことがありました。

 それから11年。その2人が昨年(一昨年?)ついに結婚して、連名で年賀状が来る。井上選手は110 mHの日本チャンピオンからボブスレーの五輪代表になり、鯉川さんは福岡ユニバーシアードで辛い経験をして、今は順大女子の監督。千葉クロカンのジュニアの部を走っていた小島選手は、競技生活の酸いも甘いも経験し、今、復活しようとしている。そういえば、朝日駅伝の行われている福岡県は、鯉川監督の出身地です。

 浜崎あゆみの「Will」を聞いていたら、なぜかセンチな気分になって、昔の思い出が次々につながってしまいました。

ひとは旅路の途中で幾度
訪る岐路に気付けるだろう
そこでどれほど心の声が
導くものを選べるだろう

誰も知ることのなき明日という闇
この手力の限り伸ばし君の隣で誓う

ひらひらひらひら花びら散るように
ゆらゆら揺れる心誇り高くあれと



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