続・寺田的陸上日記     昔の日記はこちらから
2009年8月  ベルリンの大輪

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◆2009年7月25日(土)
 昨日の陸連短距離合宿取材の時に、ライターの石井信さんから著書の「つなぐ力 」(集英社)をいただき、昨日と今日で読み終えました。陸マガでも紹介されていますが、北京五輪男子4×100 mRの銅メダルを、アンダーハンドパスをキーワードに、おもに指導者たちへの取材をもとにまとめた1冊です。
 オーバーハンドとアンダーハンドの違い、それぞれの利点などは(アンダーハンドが疾走姿勢を崩さないこと、オーバーハンドが利得距離が大きいことetc.)、専門誌などですでに紹介されている内容ですが、こうして整理して書いてもらえると、読み手も自分の理解を整理しやすいと思います。
 それに、専門誌では技術解説的に紹介されることが多いのですが、「つなぐ力」は完全にストーリーの形態ですから面白く読み進むことができます。2001年からアンダーハンドを採用した経緯に始まり、北京五輪の銅メダルに収束していく形で話が進みます(さかのぼって書き進む場面ももちろんありますが)。その間に指導者や選手のエピソードが盛り込まれ、登場人物の“人となり”もわかって感情移入もできるようになっています。息をつく間(暇?)もなく読み終えました。

 “通”の読者を一番アッと言わせるネタは、アンダーハンドでは渡しにくい選手もいるという指摘でしょう。アンダーハンドの方が渡しやすい選手と、オーバーハンドの方が渡しやすい選手に、走法によって分かれるというのです。詳しくは書籍を読んでほしいのですが、それを明言しているのが、パリ世界選手権とアテネ五輪で自身も1走として入賞に貢献した土江寛裕監督です。
 土江監督はオーバーハンドの推奨者で、オーバーハンドの欠点を補う方法もあると話しています。以前、スプリント学会で静岡大学の方が提唱されたサイドハンド・パスに近い方法のようですが、文面だけではそこまで断定できません。

 通常の記事でも言えることですが、1つのテーマを軸に据えて話を進めるとき、反対意見はなかなか掲載しにくいものです。ライターが書きにくいというよりも、編集者が反対することが多いですね。読者が混乱するから、という理由で。それを、両論併記の形で掲載してくれるのは、第三者にとってはありがたいことだと思います。文字数が多く、丁寧に説明できる書籍だから踏み切りやすかったのかもしれません。

 また、当事者がそれを言えるというのも、良い雰囲気であることの裏返しではないでしょうか。異なる意見の選手がいても、自身の立場でできること、果たすべきことをしっかりとやる。そういった大人の関係を築けていなかったら、日本の男子4×100 mRがここまで来らなかったはずです。

 苅部部長や朝原さん、末續選手、高平選手、塚原選手らのエピソードもふんだんに出てきます。彼らを直接知っている人間はニヤっとするところ。あるいは「えっ? そんなところもあったんだ」と感じるところかもしれません。
 今後の男子4×100 mRチームを見ていく上でも、大いに参考になる1冊だと思います。本当に、楽しく読むことができました。

 今日は午前中は自宅で、午後は作業部屋で仕事。
 昼頃、TBSの坂井厚弘ディレクター(「65億のハートをつかめ! スポーツ中継の真実 世界一の国際映像ができるまで」の表の主人公)から電話がありました。TBSがキャッチコピーをつける選手数を少なくするのは、陸連からの“通達”があったから、という内容の本日のサンスポ記事についての話でした。
 記事では陸連からの“通達”とか“強権を発動したとみられる”という表現が使われています。坂井ディレクターの話では「非公式の場では何年も前から言われていましたが、陸連から正式な通達があったわけではありません。ベルリン世界陸上に向けてTBS社内の方針として決定しました」とのこと。実際、「65億のハートをつかめ!」のなかでも、ユニ映像(国内向け映像)の方針変更について、前プロデューサーの菅原さんと坂井さんが今回の決定を示唆するコメントをしています。
 どこまでを通達というかで意見は分かれると思いますが、陸連の“強権発動”ということはなかったようです。


◆2009年7月26日(日)
 14時に日吉の慶大グラウンドに。横田真人選手の取材です。森岡紘一朗選手に続いて日清ファルマ様のスポンサードにより陸マガ&寺田的に記事が載ります。
 今日はインタビューだけで、練習の写真取材は後日というスケジュール。特に本サイトは文字数が多い記事になるので、2度目があるとめちゃくちゃありがたいですね。最初の取材で突っ込み方が浅かったところを、少しの時間でも2度目に補足取材ができるのですから。
 インタビューは慶大キャンパスのタリーズで1時間ちょっと。まずはユニバーシアード(4位入賞)の話を30〜40分ほど聞かせてもらいました。

 今回のユニバーシアードでは予選、準決勝と勝ち抜いて、さらに決勝でも力を出したのですが、横田選手のレベルではそこまで予選・準決勝で力を温存することができません。各ラウンドのスタートリストで自己ベストとシーズンベストを調べたところ、特に予選が厳しい組でした。記録的に上の選手が多いなかでどう勝ち抜いたのか。そこを突っ込もうと思っていましたが、結果的にいいところを突いたかな、という感触です。
 インタビューの残りは今、横田選手が取り組んでいるテーマ、目指している方向などを聞きました。面白い話を聞くことができましたが、こちらの理解度も問われる内容だったので、ちょっとプレッシャーがかかっています。2度目の取材があるということで難しい話に突入してもいいかな、と考えたわけではなく、単なる成り行きでした。
 写真は後日ですが、念のために今日も表情だけ撮らせてもらいました。タリーズの近くは完全に日陰になって暗かったので、グラウンドに移動してパパッと撮らせてもらいました。これは後輩の横田将人選手(横田2号と呼ばれているようです)と話しているところ。

 横田選手の取材を15:40頃に終えると、東横線で渋谷に出て、代々木公園陸上競技場まで歩いて移動。トワイライト・ゲームスの取材です。
 最初に話を聞いたのが男子400 mHに49秒84で優勝した今関雄太選手(順大)。初めて話を聞く選手でしたし、一緒に話を聞く記者もいないのでプレッシャーがかかるケースですが、近くに近野義人コーチや堀江真由選手ら面識のある順大関係者がいたので、スムーズに声を掛けることができました。
 同じ種目で世界選手権代表の吉田和晃選手と同学年。世界選手権直前という時節柄(?)、吉田選手と比較しながら、今関選手の特徴を聞き出す流れになりました。
 目立った違いは前半の歩数です。13歩の吉田選手に対し今関選手は14歩。その14歩もこの冬から「ようやく形になり始めた」と言います。トップ選手ばかり取材していると13歩や14歩が当然、という感覚になってしまいますが、上背がそれほどない学生選手は14歩も簡単なことではないのかもしれません。
 インターハイ(も近い時節ですが)は、今関選手は渋谷幕張高(千葉)の3年時に3位。大学1、2年時は吉田選手がケガを頻発していたこともあり、今関選手の方が強かったといいます。昨年からそれが逆転したわけですが、今回の49秒台で少し差を詰めてきました。9月の日本インカレが学生最後の勝負の場。「吉田に続くか、できれば勝ちたいですね。世陸で疲れている時期なので、そこをつけたら…。勝つには悪くても49秒台中盤が必要でしょう」と、虎視眈々の様子です。
 400 mのベストは47秒56ですが、4×400 mRのラップでは46秒0で走ったこともあるそうです。そういえば、今年の関東インカレは順大が熾烈な2位争いを制しました。全員が4年生のメンバーで、でも、400 mでは1人も決勝に残っていなくて、インカレらしい力が働いたな、と国立競技場で思っていました。帰って記録を見ると、そのときの4走が今関選手で、早大に0.01秒差で競り勝っていました。
※トワイライト・ゲームスの話題、もう少しありますが、書けるかどうか。

 今関選手の話を聞いたあと、記者席にもどるときに塚原直貴選手とすれ違いました。足を止めたわけではありませんが、「追い風参考でもいいから、大台を出したいですね」とすれ違いざまに話してくれました。過去にもトワイライト・ゲームスで自己新を出している塚原選手です。故障明けの今回も、そのひと言で本気モードだとわかりました。
 東日本実業団でもそうだったように、試合に出るからにはしっかりしたパフォーマンスをする、というのが塚原選手流のようです。
 時間は正確に覚えていませんが、女子三段跳が始まる前に吉田文代選手がこちらを見つけてくれて、足合わせのチェックをしている最中にもかかわらず、クウタンを紹介したことにお礼を言いに来てくれました(こちらから試合前に声を掛けたわけではありません)。この辺は、選手と観客・関係者の物理的な距離が近いトワイライト・ゲームスならではです。他の大会ではあり得ないでしょう。
 クウタンに関してはこちらが勝手に騒いでいるだけで、お礼を言ってもらう必要はありません。日本選手権のときに催促を受けたのも事実ですけど、東日本実業団のときに写真を撮って「サイトに載せるから」という約束を忘れていたのはこちらなのですから。

 観客・関係者から近いと書きましたが、この競技場は本当に客席から近いので、迫力がものすごく伝わります。ハードルを目の前で越えていく迫力は、文字メディアはもちろんのこと、映像メディアでも伝えきれないのではないでしょうか。会場に足を運んだ者の特権です。
 アップ中の石野真美選手も間近で見ましたが、ここまで顔が小さいのかと、改めて印象を強くしました。顔が小さいのは高平慎士選手の専売特許で、それが速さの一因のように言われていますが、石野選手も小さいです。そういったことが本当に、目の前でわかるのです。
 しかしながら、これは以前から書いていますが、フィニッシュ側スタンド(僅かに傾斜がついて高くなっているスペース)から見ると本部席のテントが視界を遮り、ホームストレートの半分近くが見えません。何人かの方から苦情を聞きました。その他にも各チームが拠点とするスペース、アップとダウンをする場所、選手や観客の動線(通路)と、通常の試合会場と比べ、いたるところが手狭になります。

 取材するスペースもなく、ちょっとした混乱を来していました。
 今年は世界選手権代表選手・注目選手のエントリーが例年より多かったのだと思います。専門誌と新聞が3〜4社というのが例年の取材陣の数でしたが、今年は20社近く来ていました。昨年は日本歴代5位の記録が出た選手の話も2〜3人の記者しか話を聞いていませんでしたが、今年は1500mに優勝した上野裕一郎選手を20人以上が囲みました。
 1500m終了後にフィニッシュ地点近くのインフィールドで、会場向けにインタビューが行われます。そこに記者たちが雪崩れ込みました。インフィールドに入っていいのかな、という雰囲気が記者間にありましたが、他社が行ったら行かないわけにはいきません。記者たる者、他社に抜かれるわけにはいかないのです。
 やばいな、という感じは多くの記者が持っていて「ここで取材するの?」「このインタビュー(会場向けインタビュー)は観客に選手を見せないといけないんじゃないの?」という声が挙がっていました。案の定、主催者サイドからフィールド外に退去するように要請を受けました。
 しかし、取材ができそうなスペースが近くに見つけられません。インフィールドのインタビューが終わったら、選手がどこを通って、どこに行くのかもわからない。どこで取材をしたらいいのか? どこかに誘導してもらえないか? という要望を記者側がしましたが、主催者はそこまで想定していないようで、とにかく移動してほしい、という要請だけです。
 記者たちは指示に従ってフィールドの外に出ました。インフィールドで取材はしたくないという考えをほとんどの記者が持っていたので、声が掛かればそれに乗りたかったのでしょう。その意味では良い措置でした。正直、主催者と衝突してまでして取材するほどでもないか、という雰囲気がありました。
 結果的に、後援新聞社の記者の方が上野選手を誘導してくれたので、話を聞くことができましたが。

 せっかく斬新なコンセプトで開催されている競技会です。このトワイライト・ゲームスを開催するだけで、主催者の関東学連の株は上がっていると思います。よくぞやってくれた、と多くのファンが感じているでしょう。あとは、会場が狭いことに起因する欠点を解決していくだけで、さらに素晴らしい大会になっていくのではないでしょうか。
 解決策としては、これも以前に書きましたが新木場の競技場で行うのはどうでしょうか。駅からの距離は代々木よりも近いですし、ゴールデンゲームズinのべおかのように観客をトラックのすぐ外側まで入れるようにすれば、選手を近くで見ることもできます。タイムを測りたい人はスタンドから見ればいいわけですし。どうでしょうか。


◆2009年7月29日(水)
 奈良インターハイの陸上競技が開幕。
 一時は、大会3日目と4日目あたりに弾丸ツアーを敢行しようかというプランもありましたが、世界選手権の資料づくりがとても終わりそうにないことと、現実的(予算的)な問題もあって今年のインターハイ取材は断念。
 奈良は個人的に行ったことはあるのですが、取材として行ったことのない県なので、今回はチャンスだと思っていたのですが。

 今日は男女の400 mが決勝まで行われました。女子は世界選手権代表の新宮美歩選手が圧勝。三木汐莉選手の走り(準決勝で58秒30)がちょっと気になりました。
 インターハイは会期が5日間に長くなっても、400 mは初日に予選・準決勝・決勝までというのは変わりませんでした。というか、以前は女子の決勝は2日目でしたけど。
 予選・準決勝で力をどう温存するかが重要になります。300 mまでは全力で行って最後の数10mで流すのが普通のやり方ですが、その辺で失敗したのでしょうか? 専門誌の記事を待ちたいと思います。
 女子やり投が好勝負でした。男子砲丸投が大会新ですが、重量変更があって間もない種目の記録的な評価が、寺田のなかで追いついていません。勉強しないと。


◆2009年7月30日(木)
 奈良インターハイ2日目。
 女子の100 mのレベルが高かったですね。世古選手が11秒68(+1.6)で優勝し、11秒7台が2人、11秒8台が4人、11秒9台が1人。これだけ良いと、風とかトラックが記録が出やすかったということが背景にあると思われます。
 それでも、優勝記録の11秒68は高校新でも大会新でもない。高校歴代6位です。一般メディアは大きく見出しにしにくいところですが、これは今後の陸上報道の課題ですね。トラックが良くなればそのときは記録は上がりますが、毎年それが続くわけではありません。
 パフォーマンスの評価を表面的でなく、もう一歩踏み込んでする必要がある。それをマニアックで一般読者には興味がない、で片づけてしまったら、陸上競技は尻すぼみでしょう。
 そのために、陸連がスタティスティクス・インフォメーションを出していますが、まだ、記者側が十分に活用できていません。その対策も一度、提案させていただいたことはあるのですが…。

 あれ? と思ったのが、男女の1500mは昨日が予選で今日が決勝だったこと。これは以前は、大会初日に決勝まで行っていました(女子がなかった頃)。リレーとの兼ね合いで400 mは初日3本なのでしょうか。
 男子の油布郁人選手に感じるものがあります。

 ここに来て世界選手権前の仕事依頼が、なぜか増えています。インターハイ取材もあきらめましたし、今年は出発前にドタバタしなくてすむと思っていたのですが、ちょっとやばそうな雰囲気。
 それに対して川本和久先生は、日記を読むと相変わらず多忙な様子ですが、自分の手の内にして処理されている感じです。代表合宿に行き、大学の練習も見て、学内の仕事をこなし、ナチュリルとの提携研究を進め、東京で人と会い、福島県各界のトップたちに働きかけ、夜も人と会い続ける。自分のなかに芯ができているからこなせるのでしょう。
 とても真似はできませんが、少しでも参考にさせていただきたいと思います。


◆2009年7月31日(金)
 奈良インターハイ3日目。
  女子円盤投は、今季高校新を投げている糸満みや選手と渡辺茜選手の対決が注目されましたが、糸満選手が大会新で優勝。中西美代子選手と高間麻里選手の92年宮崎インターハイのときと似ている印象も受けますが……と思って記録を見たら、92年は優勝の中西選手が48m28で、2位の高間選手が47m02でした。予選では高間選手が48m94の高校新を投げていました。本大会前に高校新を投げ合った今回とは、ちょっと違いましたね。
 今回は2位の渡辺選手とは3m近い差がつきましたが、円盤投でこの差は大きいと言っていいのか、“ちょっとしたこと”がこの距離になると言えるのか。
 その三木選手は400 mHできっちりと優勝。東大阪大敬愛高の総合優勝は確定した頃でしょうか。東大阪大敬愛高は総合優勝の記事が100 %あるので、負けた選手についても「専門誌の記事を待ちたい」、と書けるわけです。池田大介選手ブログの「待っとけベルリン」と同じです……違うかもしれません。

 女子4×100 mRは宇治山田商が46秒02の大会タイ。世古和選手が2冠です。大会前、女子短距離のスター候補はそこまで絞り込まれていませんでした、特に100 mは(と言っていいですよね。違っていたらライバルのO村ライターから弾劾メールが来るでしょう)。インターハイ本番の蓋を開けてみた結果、スター選手が確定されたケースです。
 高校生にスター選手という言葉は、適切でないというご意見もありますが、いわんとしているところはご理解いただけると思います。

 逆に、スター選手候補だった安部孝駿選手は51秒04で、ちょっとインパクトが薄かった感じです。50秒台前半を出すと盛り上がったと思うのですが。シーズンベスト(50秒83)にも届きませんでした。まあ、シーズンベストでなくても快勝というのは、力が抜き出ている証拠でもあるわけです。それに、為末選手はともかくとして、1990年代中盤に48秒台を出して400 mH界をリードした山崎一彦、苅部俊二、斎藤嘉彦のトリオは、全員が高校時代は51秒台がベストでした(大学では50秒を大きく破っています)。
 ただ、安部選手も総合優勝を狙える玉野光南のエース。地方紙、専門誌以外でも記事になる確率……は低いですけど、全国紙の記事になる可能性もないとは言い切れません。


◆2009年8月1日(土)
 昨日のインターハイ記事は、全国紙は予想通り女子円盤投を取り上げているメディアが多いようです。ファウルで50mラインを越えた投てきもあったといいますから、インパクトもあったのでしょう。
 しかし、朝日新聞は安部孝駿選手でした。岡山のSP記者のニックネームを持つ小田記者が、気合いを入れて書いていました。それなりのスペースをとっていますから、社内の評価も高かったのでしょう。気合いが入った記事やね、とメールを送ったところ、「気合いが空回りしました」という反省の言葉が返ってきました。
 天下の朝日新聞の記者でいながらこの謙虚さ。さすが、デンハーグで池田久美子選手に「○○○○○○○○」と言われただけはあります。見習いたいところです。

 今日は奈良インターハイ4日目。
 男子5000mでは油布選手が1500mに続いて日本人1位。実際の走りは実は見たことがないのですが、石本文人さんもブログで触れていたように記憶していますし、ちょっと注目したい選手です。
 男子走高跳の戸辺選手は昨日か今日、テレビのCMに出ているのを見たばかりでした。優勝記録は2m18。高校歴代だと14位なんですね。2m20の選手が多いからですが、バーを上げる種目特性のためとも言えます。高校記録との差は4cm。2m20の大台まで2cm。
 高校記録も大事ですが、今の走高跳はトップ選手の層が極めて薄くなっています。貴重な素材をどう育てていくかが重要になります。と、寺田が書かなくとも、関係者が痛いほどわかっていることだと思います。

 明日の全国紙記事は、女子800 mでしょうか。真下選手が新宮美歩選手を破りましたから。


◆2009年8月2日(日)
 今日は奈良インターハイ最終日。
 注目の1つに安部孝駿選手のハードル2冠がなるかどうか、という点がありましたが、矢沢航選手という強力なライバルがいます(下馬評では矢沢選手が上でしたし)。それともう一つ、競技スケジュールが安部選手にとっては難題でした。
 最終日は4×400 mRの準決勝、決勝も並行して行われます。110 mHの予選は8割の力で通過できるでしょうし、準決勝も最後は流せます。とはいっても、110 mH3本と4×400 mR2本をこなすのは並大抵のことではありません。
 110 mHは予選・準決勝と矢沢選手が14秒1台、14秒0台と快記録を連発するのに対し、安部選手は14秒6台と14秒5台。その間、4×400 mRの準決勝を3分13秒67で通過。4×400 mRのラップはわかりませんが、そちらも考えての110 mHの動きだったのではないでしょう。
 日本選手権のタイムテーブルは、その年の有力選手の種目の兼ね合いを考えて立てるべきですが、さすがにインターハイとなるとそこまで配慮はできません。110 mHの選手が4×400 mRでもエースというのは、それほど多いことではありませんし。

 岡山のSP記者ことA新聞・小田記者からも「キレがないからこの種目はきついです」というメールが来ました。ただ、玉野光南の総合優勝はかなりの確率で行けそうとのこと。「そうなれば岡山工業以来34年ぶり」とも書いてあったので、寺田が「長尾隆史以来ですね」と返しておきました。
 110 mHは順位こそ2位と予想通りでしたが、タイムは14秒20(しかも−0.7)と予想以上。優勝の矢沢選手とも0.11秒差という善戦でした。そして最終種目の4×400 mRはアンカーの安部選手が追い上げて3位と0.02秒差の2位。埼玉栄とは競り合えませんでしたが、総合優勝に花を添える2位だったと思われます。
「感無量です」とメールをしてきた岡山のSP記者にとって、ヒーローは前述の長尾隆史手と山本寿徳選手だそうです。長尾選手は400 mで高校生初の46秒台を出し、筑波大では日本人初の400 mH49秒台を出した選手。今のようなテレビ中継が行われていれば“○○のパイオニア”と間違いなく命名されていたでしょう。
 山本選手は走高跳で中学生初の2mジャンパー。それも2年生で達成しました。高校でも2年時に2m21の高校新。日本選手権にも優勝しました。インターハイは3連勝。その後の岡山県の高校生にとっては、伝説的な存在だったようです。
 その2人にはまだまだ及びませんが、安部選手への期待度と岡山工高以来の岡山県勢の総合優勝が重なって、SP記者の感動を誘ったようです。

 岡山ネタが長くなりましたが、最終日は印象的なパフォーマンスの連続でした。
 女子100 mHは宮崎商コンビがワンツー。男子ハンマー投の行田、女子800mの埼玉栄など、同一学校の選手による1〜3位独占の例もありますが、同一校ワンツーはやっぱりすごいことだと思います。今回は記録的にも清山選手が13秒44(+1.7)の高校歴代2位タイ、川崎選手が13秒49の歴代4位とレベルが高かったですから。
 あとは、その学校がどこまで選手を集められる環境か、という点もあります。その種目に力を入れている学校とか、その種目のカリスマ的な指導者がいるとか。その辺を合わせて考慮すると、今回の宮崎商のワンツーはどうなのでしょうか。ここで詳しく検証はできませんが、かなり価値が高いのではないでしょうか。

 女子4×400 mRは東大阪大敬愛(筬島,新宮,高橋,三木)が3分37秒86と驚異的な高校新で4連勝。2秒以上の更新は、今年のメンバーならと思えるところもありますが、それでも驚異的な記録です。女子の総合優勝に、これは注釈抜きで花を添えた大記録でした。
 ラップは以下のようだったと聞きました。
55秒8
53秒6
54秒7
53秒8
 女子4×400 mRでは宇治山田商も決勝に進出し、100 m優勝者の世古和選手がアンカー。注目してテレビを見ていましたが、世古選手に渡る前にバトンを落とすミスがあって、競り合いに加われませんでした。ちょっと残念。


◆2009年8月5日(水)
 12:30から渋谷のホテルで世界選手権の仕事の打ち合わせ。なんでもEメールで済ます風潮のある昨今ですが、やはり会って話をすると具体的なイメージがわきますし、どうでもいいと思われる細かい部分も、その場で質問ができます。その結果、理解が深まることも多々あります。こういうのをアナログ人間……とは言わないと思いますが。というか、人間の感性をデジタルとアナログにわけ……ますかね、やっぱり。この件は考えるのをやめます。

 13:30から同じホテルで世界選手権結団式の取材
 受け付け時に陸連に確認すると、公式の会見やカコミ取材は設定していないとのこと。そうなると、取材は非公式のぶら下がりしかありません。会場(部屋)を出たときにつかまえる方法ですが、選手や指導者が急いでいたらあきらめるしかありません。
 この方式だと、寺田のように話を聞きたい相手が絞れていない記者は大変です。
 でも、今日はまず、室伏重信先生に最初に行きました。メダル候補の室伏広治選手の動向確認が、一番の優先事項です。内容は報道されているように、メダルを争うには明らかに準備不足のようです。おそらく、メダル争いだけが世界選手権に参加する理由ではないのでしょう。その理由や、故障の経緯を室伏選手が明かしてくれるかどうか。
 もちろん、短い調整期間でそれなりの状態に仕上げてくる可能性も、ないとは言い切れません。言い切れませんが、室伏先生があそこまで言うということは、可能性としてはかなり低いのだと思います。
 室伏先生の次には、陸マガ編集部からの依頼で、某選手にあることを打診。

 実は昨日まで、世界選手権代表選手の資料づくりに没頭していました。その作業中に、この部分は今、どうなっているのだろう? と思う点がいくつかありました。できれば今日、何人かの選手にそのことを確かめたかったのですが、技術的な話がほとんどで、ぶら下がり取材で聞けるような内容ではありません。
 それでも、桝見咲智子選手にはエスカレーターで一緒にフロアを降りたり上がったりする間に、取材してしまいました。川本和久先生にも久保倉里美選手と丹野麻美選手の状態を聞くことができました。仕入れたネタは、現時点でどうこう結論づけられるものではありません。世界選手権が終わってからの記事に生かします。

 今日は室伏選手の他にも、マラソン選手ら数人が欠席。ほとんどが海外や北海道で合宿している選手たちです。江里口匡史選手の名前がなかったのが意外でした。故障の治療か!? と思って確認すると、当初から授業のため出られない予定だったとか。
 山崎勇喜選手も海外合宿で欠席。小坂部長に状態を聞くと、北京五輪前の練習タイムと比べもかなり良いと言います。

 岡山のSP記者こと朝日新聞・小田記者が大荷物を抱えていたので何かと思って聞いたら、インターハイ取材から直接、結団式の取材に来たといいます。のりぴー(酒井法子)のことを心配して話し始めましたが、本当はそれよりも、玉野光南高や岡山ネタのことを話したがっているようでした。その辺を察して、こちらから突っ込みました。
「本当に感無量ですよ。僕らの頃、岡山の男子はそんな強くなかったんです。長尾さんの岡山工高のあとは、総合優勝にからむ学校はなかったですし。玉野光南は安部選手の活躍はもちろんですが、森本選手が伸びたのが大きかったと思います。大会前のベストが53秒台(400 mH)でしたが、本番で4位に入りましたから。僕も玉野光南への進学を考えた時期もあったし、リレーではライバルだったので、なんていうのか……目の前で玉野光南の総合優勝を見られて、ジーンと来ました。個人的には新人戦の4×100 mRの3走をぼくが走って、玉野光南の応援団の目の前でバトンを落としたことが忘れられないです。4×400 mRはウチが勝ったんですけどね」
 小田記者の高校時代、岡山県の選手にとってヒーローが長尾選手と山本寿徳選手だと聞いていましたが、ヒロインはなぜか特定しませんでした。松井江美選手と三宅貴子選手というやり投の新旧規格の日本記録保持者に、マラソンの有森裕子選手、そして戦前の人見絹枝さん、最近では新谷仁美選手と候補がたくさんいすぎるからでしょうか。
 そこを無理矢理聞き出すのも、好きではありませんが寺田の役目です。
「個人的には奥田昌子さん(就実高→筑波大)ですね。北田敏恵さんと同学年で、インターハイが2番か3番で。(砲丸投が専門の)僕も11秒台半ばで走りましたが、加速走では負けていました」
 ということで、小田記者と岡山ネタでした。「のりぴーとどっちが好きだったんだ?」という無粋な質問はしませんでした。


◆2009年8月6日(木)
 7月26日の日記で、トワイライト・ゲームスの会場の狭さ、ホームストレートを走る選手が見にくいことを書きました。個人的に面識のある関東学連の方が、代々木開催の理由を教えてくれました(公式というよりも個人的に)。
 一番の理由は立地だそうです。アンケート結果なども参考にして、都心から少し外れている新木場では、“陸上競技に興味を持っている人”しか足を運ばない、という判断をしているとのこと。トワイライト・ゲームスのそもそもの狙いが、陸上競技にそこまでのめりこんでいない人に、仕事帰りに(今年は日曜日でしたが)ビール片手に陸上競技を気楽に見てもらうのが狙いです。競技終了後に食事をすることも想定して、代々木開催が最適という判断だそうです。
 陸上競技好きのファンのことを考えるとちょっとあれなのですが、そもそもがそういうコンセプトなのです。

 ベルリン出発まで1週間を切りました。準備は進んでいるような、いないような。いつもの海外取材と比べると、ほんの少しだけ余裕があると思っていたのですが、ここに来て出発前の仕事、現地での仕事の話が来たりします。
 海外取材のときは、その場所にちなんだ小説やら文学作品を読むのが慣例になっています。しかし、ベルリンを舞台にした小説が意外と少ないことが判明しました。ベルリンにこだわらず、ドイツ文学から何かと思ってネットを検索して調べてみました。
 興味を持ったのがミヒャエル・エンデの「モモ」。T選手を意識したわけではありませんが、タイムリーな題名の本です。その辺の書店には置いてないでしょうから、ネットで購入しました。

 書籍といえば、折山さんの書いた「チーム朝原の挑戦」も読みました。子供向けの体裁なのですが、内容はもう完全に“陸上好き”を満足させるもの。面白かったです。石井さんの「つなぐ」が指導者サイドの視点が多かったのに対し、「チーム朝原の挑戦」は選手サイドの視点です。
 時間ができたら、もう少し詳しく紹介したいと思いますが、世界選手権が一段落してからになりそうです。


◆2009年8月12日(水)
 これからベルリンに出発です。
 荷造りは順調に進みましたし、スーツケースの重さが24.8kgと表示されたときは感動もしました。しかし、出発直前に入ってきた仕事(原稿)が終わっていません。いつものことですが、機内はゆっくりできそうにありません。
 次の更新はベルリンからです。
 あっ、そういえばクウタンの写真を撮ったのですが…。

<ベルリン日記1日目>
 ミュンヘン経由で20時頃ベルリンに到着。日本はもう朝の3時ですが、家族T氏に到着したよメールを送信。
 IDカード発行のため、その足でアクレディテーションセンターに移動。顔写真を撮影して、その場でIDカードを受け取ります。順番待ちの列に並んでいると、筑波大・宮下憲先生とお会いしました。成迫健児選手の状態を聞きたいところですが、なぜか話題は筑波大のことに。というか、本当は成迫選手のこともお聞きしたかったのですが、アクレディテーションの順番が来てしまって聞けなくなったのです。残念。筑波大の話になったのは、近くに教え子の石原未来さん(TBS。走高跳のインターハイ優勝者。1998年に1m80)がいたからかもしれません。
 石原さんは4年前のヘルシンキ大会がADで、かなり大変そうでした。一時期、ニュースの部署で修行をされて、今大会は実況担当のディレクターに昇格。トラック種目のいくつかを担当するようです。

 ホテルにはバスで移動。車窓から見ると、21時を過ぎているのに開いているカフェがありました。フランスや南欧は遅くまで飲食店が開いていて、イギリスとか北欧は早く飲食店が閉まる印象があるのですが。カフェ好きの寺田としては嬉しいことなんですが、たぶん、行く時間はないでしょうね。
 でも、待てよ。パリのときは深夜にカフェが開いていて、KYを装って原稿を書きましたね。ホテルの近くにあればトライしましょう。

 ホテルには21:20頃に到着。
 22時から日大・小山先生たちと食事。室伏広治選手がベルリンに来ていないことを知りました。
 ホテルに戻って、機内で書き上げていたAJPS(日本スポーツプレス協会)サイト用の世界選手権展望記事を、推敲して送信。最後に洗濯。


◆2009年8月13日(木)<ベルリン日記2日目>
 午前中にホテルの部屋で仕事をして、10:30頃に出発。ホテルの近くはこんな感じの街並みです。
 ホテルから5分ほどのSバーン(たぶん近距離の地上の電車のこと。地下鉄がUバーン)の駅から20分くらいでオリンピア・スタディオン駅に到着。スタジアムまでは2分ほどの近さなので助かります。
 今大会はプレス用のシャトルバスがなく、公共交通機関を利用しなければなりません。取材が終わるのが22〜23時くらいで、その後コラムを毎日書くので帰るのは午前1時とか2時。駅に貼り出されていた大会期間中の臨時ダイヤで、午前2時台まで電車があることを確認して一安心です。

 今回の取材でお世話になる方面に挨拶した後、スタジアムの内外をぶらつきました。
 これが外から見たスタジアム。収容人数が7万4000人というのですから陸上競技場では最大級のスタンドのはずですが、ローマやパリ、北京(鳥の巣)と比べるとスタンドの高さがちょっと低いように感じました。横に長いというか。
 中に入ってわかったのですが、外側の地上レベルよりも掘り下げてトラックがあるようです。昨年、南部記念が行われた函館の競技場もそうだったように思いますが。

 これが第3コーナーのスタンドから撮った競技場の全景(今回のレンズの広角では収まりませんが)。テレビ中継のリハーサルを兼ねた記録会が行われていましたが、なんとなくトラックに降りられる雰囲気があって、行ってみると、フィニッシュ地点の少し第2コーナー寄りから何のチェックもなく降りることができました。
 全天候舗装のサーフェスはこんな感じのチップ・タイプでした。清田監督もブログに書いてらっしゃいましたが、日本国内の高速トラックとは少し違います(その辺の情報はとっくに入手しているのでしょうが)。
 記録会を横目にトラックの外周を3/4周して、第3コーナーのスタンド下から外に出ようと思ったら、奥の方に続いている通路がありました。「もしや」、と思って進んで行くと、相当に長い地下通路です。途中でこんな文字が壁に書かれています(たぶん、本来の意味と“記録”を引っかけているのでしょうか)。これは、サブトラックにつながっている通路だと確信しました。
 数百m歩いて階段を上ると、案の定、サブトラックに出ました。トラック・レベルが、競技場の外側レベルでは地下の高さになるのです。確かヘルシンキも地下通路でサブトラックと本競技場がつながっていました。鳥の巣はサブトラックの外側でしたが、本競技場への地下通路の入り口がありました。雨天のことを考えると都合がいいと思います。

 夜は原稿書き。日清ファルマ様のスポンサードによる横田真人選手の記事もアップしました。夜中の00:15に競技場最寄りのオリンピアード・スタディオン駅に。ホームが6本か8本あって、どこから出る電車に乗っていいのかわかりません。大きな駅なら必ず表示が出るのですが、小規模な駅は本当にまったくといっていいほど案内らしきものがありません。質問をする駅員もいなければ、乗客すらいません。
 たぶ、、1本か2本逃したあと、0:31発の電車で無事に帰ることができました。1:00ちょっと過ぎにホテル着。ちょっと仕事と洗濯をして就寝。


◆2009年8月29日(土)
 3日前に帰国しました。ベルリン日記はどうなったんだ、というお叱りの声もしっかりと届いています。ちょっとのところでリズムに乗り損ねたのが原因です。いったんリズムに乗り損ねると、毎日の“仕事”もありますから、後手後手に回ってしまって追いつきません(洗濯は毎日きっちりやりました)。リズムに乗るチャンスも1〜2回あったのですが、その都度、取材が入ったり○○に行ったりで……。
「もう1回、世界選手権の頭からやり直させてくれないかな」
 という思いがあります。

「もう1回、投げさせてくれないかな」
 と、寺田と同じようなことを言ったのは、話題の銅メダリストでした。
 本日は13:40に日産スタジアムに。全国小学生の会場で、村上幸史選手が始球式(写真)を行い、表彰プレゼンターを務めるということだったので取材に行きました。
 ソフトボール投げの始球式に登場した村上選手は、いつもの豪快なフォームから大アーチを架けました。約95mの投てき。これがすごい数字かというと、実はすごくありません。この大会の大会記録が87m50ですから、その差は約8m。小学生と世界のメダリストの差が8mなのです。
 いくらイベントとはいえ、取材する側としては看過できません。どうしたんだ、という質問が出たのもやむを得ないこと。
「失敗しました。角度が悪かったですね。ベルリンではそこが上手く行ったんですが…」
 今日の優勝記録も87m40。メダリストのプライドというよりも、小学生との8m差というのがショックだったのでしょう。「もう1回、投げさせてくれないかな」と、寺田が聞いただけで3回は言っていました。
 こうなったら、やりを87m50以上を投げるしか、名誉挽回の手だてはありません(何のことか、わかりますよね)。

 全国小学生の取材は4〜5年ぶり。たぶん、2004年だったのではないでしょうか。土江寛裕さんが小学生たちの前で講演して、すごく面白い話で子どもたちのハートをがっちりつかんでいました。
 最初に登場するときのフリで末續選手の名前が出て(一緒にリレーで入賞した、みたいなフリだったと思います)、子どもたちは一瞬、末續選手が登場するのかと期待してしまいました。土江さんが登壇して一度は落胆の色が見えましたが、そこから子どもたちの関心を引きつけていった話しぶりは本当に見事でした。
 久しぶりの全国小学生でしたが、ビックリしたのは池田久美子選手の大会記録とタイの、5m14を跳んだ小学生が現れたことです。天城帆乃香選手という静岡県の選手でした。たぶん、“ほのか”と読むのだと思います。池田選手が直球勝負の名前なら、天城選手は切れ味鋭い変化球という感じの名前です。
 話がそれないうちに元に戻すと、小6〜中3にかけての池田選手の、同世代間での突出ぶりはすごいものがありました。同学年の末續慎吾選手も同じ全国小学生に出ていて、自分の走幅跳の記録よりも跳ぶ女の子がいるということで、表彰を見に行ったエピソードはあまりにも有名です。

 実は今日、表彰のプレゼンターは村上選手末續選手が務めていました。銅メダルを取った直後の村上選手に対し、末續選手の200 mは6年前。ちょっとだけ心配してしまいましたが、スタンドからの声の掛かり方を見ていると、末續人気は健在。考えてみたら(みなくても)、昨年の五輪4×100mR銅メダリストです。
 末續選手とはちょっとだけ話ができて、池田久美子選手の大会記録とタイ記録が出たことを真っ先に話しました。末續選手もしっかりと見ていて、「○○○○○○○○○○○○」とコメントしていました(雑談中の会話なので伏せます)。
 時間があったら、村上選手の銅メダルへのコメントなんかも聞きたかったですね。年齢的には銅メダルまでのプロセスは違いますし、トラックとフィールドで違いもありますが、初の決勝進出でいきなりメダルまで届いた点は一緒です。為末選手もそうですけど。その辺の話を先に聞けば良かったと、ちょっと後悔しています。まあ、またチャンスがあるでしょう。

 ところで、今日は思ったほど取材に来た社が少なかったです。テレビはTBSだけで、新聞は3〜4社、専門誌は1誌。あと、昨年の野口みずき選手の菅平取材で知己を得た、全国高校生新聞の安藤記者も来ていました。共同取材のあとに個別取材をされていましたが、ネットにも記事を載せてくれると思うので、そのときは紹介させていただきます。
 記者の数が少なかったのは、直前の決定だったことと、北海道マラソンを明日に控えているからでしょう。S紙のY記者も言っていましたが、世界選手権直後の大会ですが話題は豊富です。世界選手権の1万mに出場した佐伯由香里選手が出ますし、同じアルゼからは東京マラソン優勝の那須川瑞穂選手も出ます。世界選手権銀メダルの尾崎好美選手の姉の尾崎朱美選手と、北海道に強い嶋原清子選手。そして、復活(?)を期す坂本直子選手。
 男子では日清食品グループから五輪&世界選手権ダブル入賞者の諏訪利成選手が出場します。男子では世界選手権9位の清水将也選手の弟の智也選手も出場します。日清食品OBの高見澤勝先生(佐久長聖高)も2連勝を狙ってきていると思われます。そういえば、今日の全国小学生も日清食品がスポンサーです(日清食品カップ)。この大会をずっとスポンサードしてきた企業です。
 小耳に挟んだ話(でも確かな筋からの情報)では、この大会は他のどの全国大会よりも、選手の滞在などの環境に対し、主催者側が配慮しているそうです。陸上競技をやっていない小学生が集められているのですから、そのくらいの配慮は必要なのです。それを可能にしているのが、同社のスポンサードなのでしょう。


◆2009年8月30日(日)
 昼から北海道マラソンをテレビ観戦。男女とも面白かったです。
 気温が低く、北海道マラソンにしては速いペースになりました。優勝は男子がダニエル・ジェンガ選手。後半、追い込まれたシーンもありましたが、粘って逃げ切りました。
 女子の優勝は嶋原清子選手が独走。2時間25分10秒の大会新でしたが、2時間26分14秒の自己記録も4年ぶりに更新しました。7月10日の日記に次のように書きました。
 先日、セカンドウィンドAC取材時に嶋原清子選手から、北海道マラソンに懸ける気持ちを聞かせてもらいました。世界選手権やオリンピックでなくても、気持ちをしっかりと持って取り組んでいる選手です。嶋原選手の場合は自己記録も北海道で出した2時間26分14秒ですから、その更新も十分に可能性があるわけです。
 快走を予測したのはいいのですが、心残りが1つ。「北海道マラソンの取材に来ないのですか?」と言われていたのに、「世界選手権1週間後は無理ですよ」と行かないことを7月の時点で宣言してしまいました。結果論ですが、世界選手権後の仕事が少なくなったので、日程的には行けましたね(予算的には…)。
 川越監督門下選手の特徴として、決してオーバーペースをしないことが挙げられます。今日の独走からすると、よっぽど良い練習が積めていたのだと思います。と同時に、北海道に懸ける思いがものすごく強かった。嶋原選手の思いを知っていながら、その理解度が浅かったと反省しています。
 その点、ミズノの鈴木さんは、今年は優勝者に真っ先に握手を求めに行くことはありませんでした(3年前に吉田香織選手が優勝した際、川越監督=当時は2人とも資生堂=よりも先に握手をしてしまった人物です)。

 4月に取材をさせてもらったこともあり、男子の昨年優勝者の高見澤勝選手(佐久長聖高コーチ)にも注目していました。が、2時間13分05秒で4位。連覇はなりませんでした。
 しかし、昨日の日記で日清食品グループのことを書きましたが、今年もOBでコーチ業がメインの高見澤選手が“日清食品グループ”でトップでした。
 女子では、セカンドウィンドACコンビが自己新で1・2位だったのに対し、佐伯由香里選手と那須川瑞穂選手のアルゼ・コンビが振るいませんでした。体調不良なのか故障なのかわかりませんが、明らかにどこかに変調を来していました。
 那須川選手は東京マラソン優勝の次のマラソンでしたし、佐伯選手は昨年の優勝者で、直前のベルリン世界選手権1万m代表。ここで好走すれば1つ高いレベルに行けると思われましたが、順風満帆に行くとは限らないのがスポーツです。捲土重来を期待したいと思います。

 19時半頃に選挙に行きました。ファミレスで食事をして帰宅すると、すでに民主党圧勝がテレビで報じられていました。
 立候補者各陣営は、NHKの選挙速報の当確を見て、あの“バンザイ”をするのだそうです。という話を、ベルリン取材中に朝日新聞・増田記者から教えてもらいました。そのNHKに対抗意識をもって、開票中の票の厚さを見て当確判断をするのが朝日新聞記者たちの仕事だそうです。そのデータをもとにテレビ朝日が速報して、NHKより早く出した、出さないで一喜一憂するのだそうです。
 ベルリン帰りの増田記者も、今日はその仕事に駆り出されていたはずです。そういう裏事情を知っていると、選挙速報も少しだけ面白くなります。
 北海道マラソンは、岡山のSP記者こと小田記者の担当。電話をして、テレビ中継で気になったあることを確認しました。

 増田記者といえば、ベルリンの日本人記者のなかで、ファッションに主張が感じられた一番の記者でした。そういえば昨年の全国高校駅伝のとき、「デザイナーですか」と初対面の人から言われていましたね。
 もちろんファッションだけでなく、記事も一番だと増田記者自身は思っていたことでしょう。そのくらいの自負を持って、どの記者も取材にあたっています。かくいう寺田も、ライバルのO村ライターがベルリンに来ていたので、めちゃくちゃ燃えましたね。
 表面的にはがっついたりはしませんでしたが、それはO村ライターも同じ。そもそも、世界選手権など大きな大会になればなるほど、取材ができる場はミックスゾーンに限られます。その場で仕入れられるネタは同じなのです。
 だからこそ、それまでに持っているネタや感性が重要になります。ただ、残念ながら今回は、寺田が専門誌に記事を書かないので土俵が違ってしまったのです。それでも、ライバルはO村ライターただ1人と、ここにはっきり書いておきます。


◆2009年8月31日(月)
 今日は各選手のブログを読んでいて気づいたことをいくつか書きます。
 丹野麻美選手がブログに書く文章は、日常の些細なことを取り上げて真剣に考察を加える様がなんともいえない味があるのですが、今日はいつもとはちょっと違って、「同級生」というタイトルで文章を綴っていました(チーム川本の選手DokiDoki-Blog)。世界選手権代表に同学年選手が7人もいた、という話です。
 実は学年分類は、寺田もよくやっているネタです。今回も大会前にデータは作っていました。下がその一覧表です。今大会からマラソンは、「補欠も含め6人で戦う。現地にも帯同する」(陸連幹部)という姿勢だったので、マラソンの補欠選手も含めてあります。
女子 長距離 早狩実紀 1972/11/29 男子 競歩 森岡紘一朗 1985/4/2
男子 投てき 室伏広治 1974/10/8 男子 短距離 塚原直貴 1985/5/10
女子 跳躍 近藤高代 1975/11/17 男子 長距離 上野裕一郎 1985/7/29
男子 マラソン 入船 敏 1975/12/14 女子 競歩 大利久美 1985/7/29
男子 マラソン 佐藤敦之 1978/5/8 女子 短距離 丹野麻美 1985/9/25
男子 マラソン 高橋謙介 1978/5/30 女子 投てき 海老原有希 1985/10/28
男子 ハードル 田野中輔 1978/9/23 女子 長距離 中村友梨香 1986/4/1
女子 マラソン 加納由理 1978/10/27 男子 混成 池田大介 1986/4/15
女子 マラソン 渋井陽子 1979/3/14 男子 短距離 藤光謙司 1986/5/1
男子 長距離 岩水嘉孝 1979/6/20 女子 競歩 渕瀬真寿美 1986/9/2
女子 マラソン 赤羽有紀子 1979/10/18 男子 短距離 齋藤仁志 1986/10/9
男子 投てき 村上幸史 1979/12/23 女子 短距離 和田麻希 1986/11/18
男子 マラソン 清水将也 1980/11/12 女子 ハードル 青木沙弥佳 1986/12/15
女子 競歩 川崎真裕美 1980/5/10 男子 跳躍 鈴木崇文 1987/5/25
男子 跳躍 澤野大地 1980/9/16 男子 短距離 木村慎太郎 1987/6/30
男子 跳躍 醍醐直幸 1981/1/18 男子 ハードル 吉田和晃 1987/8/31
男子 マラソン 前田和浩 1981/4/19 男子 短距離 金丸祐三 1987/9/18
女子 マラソン 尾崎好美 1981/7/1 男子 競歩 藤澤 勇 1987/10/12
女子 マラソン 藤永佳子 1981/8/15 男子 競歩 鈴木雄介 1988/1/2
男子 マラソン 藤原 新 1981/9/12 女子 短距離 福島千里 1988/6/27
男子 跳躍 荒川大輔 1981/9/19 女子 長距離 佐伯由香里 1988/11/5
女子 長距離 福士加代子 1982/3/25 女子 短距離 高橋萌木子 1988/11/16
女子 ハードル 久保倉里美 1982/4/27 女子 長距離 小林祐梨子 1988/12/12
女子 短距離 佐藤真有 1982/9/14 男子 短距離 江里口匡史 1988/12/17
男子 長距離 岩井勇輝 1982/12/30 男子 短距離 廣瀬英行 1989/7/20
男子 競歩 谷井孝行 1983/2/14 女子 ハードル 寺田明日香 1990/1/14
女子 短距離 渡辺真弓 1983/6/6 女子 短距離 新宮美歩 1991/11/29
女子 マラソン 森本 友 1983/12/27
男子 競歩 山崎勇喜 1984/1/16
男子 短距離 高平慎士 1984/7/18
男子 ハードル 成迫健児 1984/7/25
女子 跳躍 桝見咲智子 1984/12/20

 丹野選手が7人もいる、と書いているように、一番人数が多い学年が今年24歳になる丹野選手の学年でした。男女の短距離(塚原・丹野)、男女の長距離(上野・中村)、男女の競歩(森岡・大利)、そして投てきの海老原選手という面々。寺田の個人的な見解ですが、体力がピークに達する年代が24歳前後。日本記録を出す選手も多くいます。
 ただ、丹野選手の学年は看板となる選手が現れていません。かつての末續世代、野口&為末世代のように、世界大会でメダルを取った選手がいないのです。塚原直貴選手が100 mで決勝に行けば、学年の代表といえるのですが。

 2番目に多い6人を輩出した学年は、今年23歳の学年と22歳の学年。この2学年も、種目が多岐に渡っています。今回、若手が多い印象を受けたのは、5人を出した21歳学年も含め、21〜24歳の学年が頑張っていたからでしょう。

 もう1つ6人を出しているのが28歳の学年。ただ、この学年は荒川選手以外は全員が長距離です。5人の31歳学年も田野中選手以外はマラソンと、年齢が上がるほど持久系種目のパーセンテージが多くなる傾向はあります。
 しかし、29歳学年は澤野、醍醐の跳躍2選手がいてちょっと違います。というか、この世代こそ末續世代で、内藤真人選手や池田久美子選手が加われば、一般種目選手が多くなるはずです。坂本直子選手や藤原正和選手というマラソン選手もいるのですが。

 面白いのが5人を出している21歳学年のメンバー構成。小林選手と佐伯選手は同じ長距離でも対照的です。スピード型の小林選手に対し、スタミナ型の佐伯選手。福島選手と高橋選手も同じ短距離でも、前半型(と言い切れないほど全体に強いのですが)の福島選手と後半型の高橋選手で対照的。5人目は唯一の男子の江里口選手ですが、学年内でどう位置づけるべきかはっきりしません。

 先ほどマラソン補欠の話題がありましたが、今回の男子補欠は高橋謙介選手。ベルリンで河野匡長距離・ロード特別対策委員会副委員長に話を聞いたところ、かなり良い状態を作ってきていたようです。本人には帰国する際に空港でちょっと話を聞きましたが、「ベルリン・マラソンで2時間8分台を狙いたい」と話していました。
 その高橋選手の所属するトヨタ自動車は、浜野健選手、尾田賢典選手を加えたベテラン・トリオが今季好調です。浜野選手のブログからも、なんとなく充実ぶりが伝わってきます。今日は距離走を行ったようです。ブログの文章から察すると、予定のタイム設定ではできなかったと想像できます。でも、大崩はせずに、次につなげる土台にはできる練習になった、ということでしょう。
 日本選手権1万mでも5位入賞。粘るレースが印象的でした。マラソンにつながりそうな雰囲気が出ていると思っています。

 綾真澄選手と中野真実選手のブログには、四国選手権出場について書かれていました。世界選手権を逃した選手たちは、地道に立て直しをはかっています。体力的には一気に上がる年齢ではありません。それだけ、奥行きのある取り組みができたかどうかで、村上幸史選手のような30歳台(となる年)で飛躍できるかが左右されます。

 池田大介選手ブログには“秘密結社K会”の文字が。K会が何を意味をするか、わかる人が見ればわかるのだと思います。寺田も“秘密結社L”の一員です。9月になったら秘密裏に会合を開かないといけません。今回はドイツ料理の店にしようかな、などと考えています。会津料理もいいかもしれません。


◆2009年9月1日(火)
 一昨日の北海道マラソンで優勝した嶋原清子選手と、昨年優勝者の高見澤勝選手が交際中ということが、主催の北海道新聞の記事に載っていました。
 4月に高見澤選手を取材させてもらったときは、「2人とも北海道マラソンの歴代3位なんですよ」と、嶋原選手と自身の記録のことを話していましたが(4月9日の日記参照)、一昨日の結果で高見澤選手の昨年の記録は大会歴代4位に後退。一方の嶋原選手は大会新記録ですから歴代1位です。
 しかし、2人とも歴代優勝者に名を連ねることになりましたし、2人とも自己記録が北海道という点は変わりません。まあ、釣り合っているということにしておきましょう。
 年齢差は5歳(嶋原選手の方が上です)。かたやセカンドウィンドというクラブチームのエリート選手で、かたや駅伝優勝高のコーチ&教師です。立場も180度違います。それでも2人の仲が続いているのは、精神的な部分で似たところがある、あるいは同レベルにあるからだと思います。どちらも相手に、良い意味で甘えていないのでしょう。悪い意味で頼り合っている交際であれば、2人の最近の実績が残せるわけはありません。
 というのは寺田の勝手な想像です。いずれ、しっかりした記事も出ると思うので、その辺の情報はそれまで待ちましょう。

 北海道マラソンの記事では那須川瑞穂選手と、佐伯由香里選手のアルゼ・コンビの記事が見つけられません。現地の記者たちが取材をしていないわけはないので、それを書くスペースが社内で認められなかったということだと思います。
 やっぱり、これと思う情報は、現地に行かないと入手できませんね。指導者に電話をしてしまう手もありますが、成績が悪かったときの電話取材は神経を遣わないといけないと、北京五輪後の取材で再認識していますので。

 昨日紹介した世界選手権代表の学年別構成で、清水将也選手の誕生日を間違えていました。1980年の1月生まれで出してしまいましたが、正しくは11月生まれ。全国高校駅伝の取材には行っていた年ですが、毎年京都開催なのでインターハイと違って……と言い訳はよくないですね。日大で村上幸史選手と同学年だったのか澤野大地選手と同学年だったのか、という点に気づかなかった寺田のチョンボです。猛反省しています。
 というか、末續世代と書いた藤原正和選手と西脇工高で同級生でした。清水智也選手と同学年だとは気づいていたのですが……。

 今日は電話をたくさんかけましたし、たくさんかかってきました。
 寺田の仕事も世界選手権で一区切り。2009年年度の下半期に向けた仕事だったり、スポンサーの方がある出版社を紹介してくれたり、ということで、来週、再来週と打ち合わせも増えそうです。
 駅伝関係の仕事も話が始まります。陸マガ増刊の大学駅伝の取材が1つ入りました。ISHIRO記者が陸上担当から外れたのでどうなるかとビクビクしていましたが、今年も毎日新聞発行の実業団駅伝公式ガイドのお手伝いをすることになりました。
 ただ、秋以降の大会については、新型インフルエンザがめちゃくちゃ心配です。
 明日は某大会関係者と打ち合わせ。


◆2009年9月2日(水)
 今日は16時から後楽園ホテルで某大会関係者と打ち合わせ。
 古巣のベースボール・マガジン社の近くですが、ホテルに着くのと同時に、元陸マガ編集部の秋山氏から電話が掛かってきました。あるテニス大会のプログラムに、O選手のインタビューを載せたい、という話です。
 ということで、最初の打ち合わせ終了後に、ベースボール・マガジン社へ。そのテニス大会の中枢にいる方が、O選手の言葉をぜひとも載せたい、と言われているとのこと。他の競技関係者(業界)から評価されるのは、陸上界にとってはいいことです。
 テニスの話が寺田にできるのか、とお思いの方も多いでしょうけど、テニス漫画を読んだのがきっかけで、グランドスラム大会を録画までして見ていた時期もあるのです。
 勇んで秋山編集者と打ち合わせ。O選手にテニスの話題をしてもらうわけではないとわかってちょっと残念でした。自身のことを話してもらうなかで、スポーツ全般に通じる話題にすればいいようです。でも、大会に参加する選手の特徴などを聞いているうちに、これだったら“テニスより”のコメントをしてもらうこともできそうだという手応えを得ました。
 面白い取材になるかもしれません。

 今日の2つの打ち合わせは、大会主催者サイドの仕事といえるもの。こういうケースはそれほど多くありませんが、実業団駅伝公式ガイドやデレゲーションブックなどもそれに近いかもしれません。フリーランスにとっては重要な仕事です。新聞記者も自社主催の大会では同じ立場になります。
 しかし、一般の方からすると、記者が大会サイドに立って物を書くのってどうなの? というご意見もあるかもしれません。中立の立場で報道することができなくなるのでは? という疑問です。

 寺田は自分がお世話になっている業界のイベントであれば、盛り上げたいと思っています。前述の疑問に対する直接の答えにならないかもしれませんが、大会自体に“良し悪しはない”という考えです。害が生じるのであれば、その大会やカテゴリーが“過熱しすぎる”ことに原因があると思います。
 今年の1月に朝日駅伝の取材に行ったとき、朝日駅伝のようなユニークな駅伝があってもいい、ということを書いたらご批判をいただきました。駅伝が多いのは問題で、それを擁護するとは何事か、というご意見です。寺田が言いたかったのは、朝日駅伝は過熱した大会ではないので、選手や指導者が強化プランの中に組み入れやすい大会という点です。

 それが過熱してしまうと、組み入れるというよりも、その大会だけが“至上の価値”となって振り回されてしまう。トラック&フィールドも同じです。過熱したら、駅伝と同じような弊害が生じます。インターハイやインカレだけで満足する選手もいると思います。
 この問題は、陸上界で生きている人間にとって“壁”となっています。過熱することと、お金が流れてくることが表裏一体だからです。基本的に、お金が流れてくることは良いことで、それで選手や関係者が(記者も)生活できるわけですし、専門誌も恩恵を受けています。競技の普及にもなるし、組織も強化費を工面できる。
 理想は、世間の注目が集まりお金も流れてくるけれども、選手や関係者は冷静さを保つということですが、それができないから苦労をしているわけです。現場だけにそれを押しつけるのもどうかと思いますし。
 さきほど色々な側面から検証した文章を書き始めてみましたが、上手くまとめることができませんでした。もう少し、考えと言葉を熟成させる必要があるようです。


◆2009年9月3日(木)
 一昨日、昨日と、村上幸史選手のベルリン取材で聞くことができたコメントを掲載しました。一昨日載せたこの記事が、競技終了直後のミックスゾーンでのコメントです。
 このときはまだ、取材するこちら側も感動がピークではありませんでした。4回目までは「そのうち1人か2人、84〜85mを投げるだろう」と予想していました。5回目が終わっても順位が落ちず、「ひょっとするかもしれない」という雰囲気に取材する側もなってきました。
 しかし、どうしても“取れる”とは思えません。「82m台でメダルはないだろう」と。最低でも85mは投げないと。でも、過去の記録を見ると2005年のヘルシンキ世界選手権が83m54で銅メダルです。4年前ということは今年と同じように五輪翌年。たぶん、風もやり風ではなかったのでしょう。村上選手は風に苦しめられ、60m台で予選落ちしましたから。

 いよいよ6回目。ピトカマキらフィンランド勢が記録を伸ばせず、取ったかな、と認識はしました。認識はしても、まだ信じられませんでした。
 村上選手が今年、絶好調なのは、取材をしていればわかります。というか、昨年の北京五輪後に浜松のスズキ本社で話を聞いたときに、これまでの手応えとは違うな、と感じました。さらにさかのぼれば、プレ五輪の頃からその兆候は感じられました。
 ですから、今回こそは決勝に行ってくれるのでは、と取材する立場の手応えを感じていました。それでも正直、ベストエイトはどうかな、と思っていました。「次は入賞が目標です」という話をするような予感まで持っていたくらいです。予選の結果から、もしかして入賞も? という予感もしましたが、世界は甘くないだろうな、という思いの方が強かったですね。

 テレビなどの取材ゾーンの方が前にあるので、ペン記者用のミックスゾーンに来るまでに10分とか15分は時間があります。それだけ時間があっても、感動しながらのインタビューができるようなテンションにはなりませんでした。
 末續慎吾選手もパリ世界選手権で、初めての決勝進出でメダルを取りました。大会前に期待されていたのは決勝進出です。エドモントン世界選手権の為末大選手も同じです。でも、その2回のときはもう少し興奮しながらの取材でした。トラック種目とフィールド種目の違いなのか、こちらの先入観に違いがあるのか。
 いずれにせよ、メダリストの取材というよりも、通常の取材に近い精神状態でした。そこにやってきた村上選手も同じような状態で、信じられないといった様子です。
 記事にも書いたように、たぶんメダルセレモニーを理由に、5分も取材をしていないのに、国際陸連のお姉さんが村上選手を連れて行ってしまいました。ドイツ時間の18時半頃だったと思います(違っていたらごめんなさい)。翌朝の朝刊の締め切りは過ぎていましたし、夕刊の締め切りにも間があった時間帯です。締め切りが近かったら、日本の記者たちは一気にヒートアップしていたでしょう。

 メダルセレモニーまでの間に寺田がしたのは、スタンドにいる今治明徳高・浜元一馬先生を探し出すこと。世界選手権とオリンピックは毎回、現地まで応援に来られていて、それも決勝のチケットも必ず買ってくれていると、村上選手がトワイライト・ゲームスのときに話していました。しかし、スタンドのどこにいるかがわかりません。
 でも、TBSコラムではありませんが、寺田にも“人のつながり”があります。テレビ実況席の日大・小山先生のところにお祝いを言いに行くと、日本選手団投てきコーチの等々力さんもいらっしゃいます。この2人なら、浜元先生の居所を知っているでしょう。案の定、報道席のすぐ近くで、等々力コーチが案内してくれました。
 すると、すぐにメダルセレモニーが始まりました。浜元先生にとっては生涯忘れ得ないセレモニーになるはずです。インタビューで邪魔をしてはいけない、と判断。セレモニー中の写真を撮らせていただきました。このときすでに、浜元先生は村上選手に会っていたのですが、それを知らない寺田はメダリスト会見後にツーショットを撮らせてもらえないか、と無理なお願いをしてしまいました。
 このあたり、メダルの興奮が徐々に寺田のなかでも沸いてきていました。しかし、取材もしないといけないということで、少し冷静さを欠いていたと思います。
 小山先生に挨拶に行かれるというので、一緒に行かせていただきました。2人は顔を合わせると握手をし、抱き合って涙を流されていました。必死で写真を撮らせていただきましたが、一眼レフではありませんので、機動性がありません。本当はもっともっと感動的なシーンでしたが、そのうちの1枚を掲載させていただきます。

 この後、すぐにメダリスト会見が始まると思ったのですが、前の会見が終わらないのか、誰かのドーピング検査が長引いたのか、なかなか始まりません。しかし、その間に浜元先生の話をたっぷりと聞くことができました。小山先生との感動シーンまでは寺田の独占取材でしたが、ここからはライバルのO村ライターをはじめ、日本の記者団も浜元先生を囲んで取材をさせていただきました。
 メダリスト会見が始まったのは1時間後くらい。
 村上選手のまぶたは明らかに、ウルウルしていました。この写真でもわかると思います。上を向いて何かを見ていたシーンがありましたが、涙が流れ落ちないようにしたのかもしれません(本人未確認)。
 公式会見でのコメントも記事にしました。
 荒井謙選手にはふだん、この日記には三枚目キャラで登場してもらっていますが、国際舞台を目指す彼の真剣な思いもわかっているつもりですし、日本選手権をケガの影響で大敗したときに見せた涙には、心を打たれました。だから、村上選手がメダリスト公式会見で荒井選手たちとの合宿に言及したときは嬉しかったですね。涙が出そうになりました。ちょっとだけですけど。たぶん、小山先生と浜元先生の涙を見た直後だったからです。通常は取材中、こんな感傷的な気持ちにはならないのですが、日本代表の取材をするときくらいは許されるかな、と思っています。

 しかし、ミックスゾーンとメダリスト会見を合わせても、7分ぶんくらいのコメントです。会見後に高野進強化委員長のカコミ取材が予定されていましたが、ここは村上選手のぶら下がり取材を優先せざるを得ませんでした。そのときのコメントがこちらの記事です。

 その村上選手は今日が、愛媛に帰る前の最後の東京滞在ということで、かなりの本数の取材を受けていたようです。ある筋からの情報では。スズキ陸上部の渡辺辰彦事務局長も、嬉しい悲鳴を上げているのではないでしょうか。

 村上選手とは関係ありませんが、今日はちょっとすごい発明をしました。5時間をかけて手製の自家製取材ノートを作ったのです。これまでの取材メモのパターンを分析して、エクセルで記入しやすい雛形を作成しました。といっても、あまり細かく設定すると汎用性がなくなって不便です。特に通常種目用はまあ、白紙に手書きで雛形を記入してもいい程度のものです。そのほか3000mSC用、5000m用、1万m用、インタビュー用と全部で5種類。いずれマラソンを含めて6パターンになる予定です。
 B5の紙にプリントアウトして(40枚くらい)、宅急便のちょっと厚紙の封筒を切ってノートのカバー代わりにして、ダブルクリップ2個ではさんで完成。これだけなら簡単ですが、最初はA4の紙とクリアファイルでやろうとして上手くいきませんでした。B5のノートに慣れていたためか、メモを取るのにA4は大きすぎるのです。重さも気になりました。
 この自家製ノートの利点は、デジタル保存と2次利用、3次利用のシステムに連動している点です。昨年購入したコピー機のスキャニング機能を利用して、かなりの書類をPDFファイルにしています。その作業をやっているうちに思いつきました。
 寺田の場合はメモを取る字が大きいせいもあり、毎年、取材ノートが50冊以上になります。10年分となると保存場所もバカになりません。その問題を解決できますね。

 村上選手と関係ないと書きましたが、少しはあります。今回の世界選手権でも強く感じたのは、やはり現地に行って選手の表情を近くで見て、直に言葉を聞くことで、感動が大きくなるということです。それをメモしてある取材ノートは、記者としてはもちろんのこと、自分の人生で見た場合でもかけがえのない宝物です。それを押入の奥に埋もれさせてしまうのは、本当にもったいないことです。
「そういえばあのとき」、と思ったときにさっと読み返すことができたら、どんなに素晴らしいだろう、と改めて痛感しました。それが、今日の作業につながったのでした。強烈な体験をすることによって、日常を変えようという意識が強くなった例だと思います。


◆2009年9月4日(金)
 日本インカレ1日目の取材をしました。
 男子100 mは準決勝まで。江里口匡史選手が強そうですが、気になったのは対抗と目される安孫子充裕選手と木村慎太郎選手。準決勝2組終了後にフィニッシュ地点に行くと、上手い具合に1組目の安孫子選手がいてくれたので話を聞きました。
 2組目の江里口選手には取材陣が殺到。少しだけ話を聞いたあとは、3組目の木村選手のレースに注目しました。というのも、ベルリンでスタート前のルーティンにクレームをつけられ、凹んでいたからです。スタンドからはブーイングも受けたと、本人が言っていました。もちろん、故意の遅延行為などではなく、パフォーマンスにプラスに働くと判断してやっていることです。
 今大会からはやめているようですが、その点がどう影響しているのか。そもそも、ルーティンの具体的な動きは注目して見たことがなかったので、動き自体も教えてもらいました。それを言葉で説明するのは難しいのですが、狙いとするところは文字にできそうです。
 明日の決勝の結果次第では、少し記事にできるかもしれません。

 世界選手権組では男子1万mWで鈴木雄介選手と藤澤勇選手が対決。スタート直後から2人だけ集団から離れて、別のレースをしている印象さえありました。
 スタンドで400 m毎のラップも計測していたのですが、途中からグラウンド・レベルに降りで棒高跳ピット近くに移動。我孫子智美選手が4m22の学生新にバーを上げていたからです。4m22のあとは4m37の日本新に。
 従来の学生記録は我孫子選手が日本選手権でクリアした4m20。競技後の取材中に「どうして4m21ではなく4m22にしたのか」という質問が出ました。「次に4m37の日本新にバーを上げたかったから、上げる幅を15cmにしたかった」という我孫子選手の答え。「バーの上げ幅が15cmでも16cmでも変わらないのでは?」という問いには「気持ち的なものです」と話していました。このあたりは第三者には理解できない微妙なところです。
 残念ながら3回とも失敗しましたが、話を聞くと、14フィート6インチのポールを使ったとのこと。この長さのポールを使っているのは、確認できた範囲では我孫子選手1人だけです。

 今回、学連関係者に話を聞いておきたいと思っていたのが新型インフルエンザ対策。流行したら、駅伝のメンバーが足りなくなる事態が起こることも十分に予想できます。それが何チームにもなったら大変です。ということで、学連の尾縣貢先生に質問をしたら、ちょうど今日、強化委員会で話し合ったあとでした。
 日本学連主催の駅伝では、補欠の人数を上回る感染者が出たら、登録メンバー以外の起用も認めるということでした。関東学連も同じ措置をとるかどうかは、明日の話し合いの結果次第とのこと。

 その駅伝がらみの話題としては、男子1万mで優勝したダニエル選手が、箱根駅伝5区出場への意欲を口にしました。
「僕が1年のときの順大も、そのあと好成績を残した駒大、早稲田、東洋も、5区がキーポイントになっています」と、外国人選手とは思えないような、しっかりした考えを日本語で話します。5区は寒くなるよ、と記者から言われると「僕のラストレースだから暑くても寒くても頑張ります。寒くなっても、暑いと思って記録を出します」
 1万mの2位には1年生の村澤明伸選手が入りました。有力選手の多くが欠場したレースですが(合宿の疲れとか、試験との兼ね合いが理由のようです)、ケニア2選手に競り勝っての2位&自己新は価値があると思います。
 聞きたかったのは、シーズン前半の活躍は高校時代の貯金が大きかったと思われますが、夏合宿を経てのレースでは、学生になってからの練習の成果も加わります(選手の成長に、どの練習が何割の効果が出ていると決められるものではありませんが)。その辺を、村澤選手がどう考えているのか。ここでコメントを紹介してもいいのですが、記事にするチャンスもあるかもしれません。でも、どうでしょうか。

 その他の種目では男子やり投が見応えがありました。
 2投目に優勝候補筆頭(と言っていいですよね)の山田啓太選手(筑波大)が70m44でリードしましたが、4投目に佐藤寛大(仙台大)選手が72m87で逆転。ベスト8に入った時点での順位は山田選手がリードしていたので、試技順は同選手が最後。その6投目で70mラインを大きくオーバーし、逆転か? と思われるアーチをかけました。
 しかし、記録は72m68で19cm届かず佐藤選手の優勝が決まりました。
 昨年も85cm差でしたが、この種目の19cm差の勝負は、スゴイと思います。と思って2年前も調べたら36cm差でしたし、3年前も45cm差。4年連続で1・2位差が1m未満というのですから、なんと言っていいのかわかりません。負けた選手のやりきれない思いが続いているのか、潔く負けを認めているのか。


◆2009年9月5日(土)
 日本インカレ2日目を取材。
 今日一番の話題はなんといっても江里口匡史選手の10秒13。日本選手権のときの10秒07よりも強さを感じました。その理由は、こちらに記事にしました。とにかく、今日の10秒13と2位以下の圧倒ぶりは、強く印象に残りました。
 しかし、江里口選手の衝撃があまりにも強かったため、他の選手への取材に神経が回りませんでしたね。木村慎太郎選手や後藤乃毅選手はできれば話が聞きたかったのですが、木村選手にちょっとだけになってしまいました。日本選手権との差は開いてしまったとはいえ、木村選手がきっちり2位を確保したことや、江里口選手の代のインターハイ・チャンピオンである後藤選手の成長は、取材したかったところ。もう少し上手く立ち回れたんじゃないかと、ちょっと後悔しています。

 女子100 mは高橋萌木子選手が3連覇。江里口選手も3連覇ですが、この2人、共通点も多いですね……と書いてから探しているのですが、学年とか、ユニバーシアードのメダリストであることとか、ライバルが欠場した今年の日本選手権で優勝したこととか。4×100 mRもチームの勝利に貢献しました。
 違いとしてはレースの“型”が挙げられます。全般型の江里口選手に対し、後半型の高橋選手。ともに2次加速を課題にしていましたが、ここまでを見る限り、江里口選手の方が課題克服に近づいているようです。
 ただ、今大会の4×100 mRは高橋選手の印象が上回りました。アンカーでの逆転劇は圧巻。男子優勝の早大も1走の江里口選手もかなり飛び出たと思うのですが、アンカーのゴボウ抜きは目立ちます。ですから、上回ったのはあくまでも印象です。

 コメントは全種目の優勝者を聞いているわけではありませんが、ピンと来るものがある選手、種目は聞くようにしています(聞きたくても、他の取材と重なって取材できないことも多々あります)。
 そのうちの1つが女子ハンマー投優勝の佐藤若菜選手。仙台大の4年生で、昨日も男子やり投で仙台大の佐藤寛大選手(3年)が予想を覆して優勝しました。投てき種目というと強化できる拠点大学が限られている印象がありましたが、最近は九共大や九情大など地方でも頑張っている大学があります。
 仙台大はどういう取り組み方をしているのか、関心がわいてきたのです。
「他の大学がどうされているのかわかりませんが、仙台大では自分で、自分の投げを理解するようにしていることが特徴かな、と思います。先生からアドバイスをいただくのはもちろん、学生同士でも意見を言い合います。それを、言われっぱなしではなく、自分の感覚と照らし合わせるなどして、必ず自分で考える。1人で投げるときでも、ここが悪いからこうなっているんだな、とわかるようになります」
 取り組みとしては当たり前かもしれませんが、こうして結果が出ていることを考えると、かなり精度の高い取り組みになっているのだと思います。「地方だから負けても仕方ない」という意識があったら、精度は低くなると思います。

 インカレということで4年生たちが頑張っていますが、今日は女子三段跳の前田和香選手(筑波大)、男子ハンマー投の知念雄選手(順大)、男子走幅跳の皆川澄人選手(東海大)と1年生3人が優勝。昨日の男子三段跳・岡部優真選手(福岡大)を加えると4人になりました。三段跳の2人は出場資格記録の5傑リストで2位でしたが、皆川選手はランク外、知念選手は4位。岡部選手と知念選手の話が聞けなかったのが残念。


◆2009年9月6日(日)
 日本インカレ3日目の取材。順番は正確に思い出せませんが、取材した選手・種目を書いていきたいと思います。
 男子800 mは横田真人選手(慶大)が1分49秒21で優勝。この記事を読んだ選手も多く、スタート前には「1分46秒ペースで行くんだろう?」という声も掛けられたようです。しかし、8月に入ってから体調を崩し、練習を積めなかったとのこと。ハイペースに体が慣れていない状態では、そこまで敢行できません。
 それでも、誰も先頭に立ちそうにない雰囲気を察知して、最初から先頭に立って、最後の直線で引き離す横綱レースぶりはさすがでした。
 まあ、横田選手があそこまで言ったら、他の選手たちが“引っ張るだろう”と思うのは当然かもしれません。ただ、今すぐは無理でも、自分もハイペースに挑戦してやろう、と考える選手が現れるのが横田選手の望んでいるところ。そのためにはトレーニングを積めていないといけないのですが、みんなでハイペースに持ち込めば、それだけでもレベルはアップするような気もするのですが……甘いですかね。

 男子200 mは齋藤仁志選手(筑波大)が圧勝しました。顔触れから見て順当な結果ですが、100 mで準決勝落ちしていたのです。
 齋藤選手は口にしにくいこともズバっと、それでいてさわやかに、さばさばとコメントする選手。4×100 mRメンバーから外れた北京五輪から帰国後も「誰かがケガでもしない限りメンバーに入るのは無理だった」とか「それを望んでいる自分がイヤだった」と公言していました(質問されたからですが)。
 今年の関東インカレでも自チームの失敗をズバッと斬り捨てていました。「あの性格だから北京五輪の補欠が務まったのではないか」という意見も聞かれたほど。
 その齋藤選手が今大会の100 m準決勝後は、足早に立ち去りました。20mほど歩くと感情が爆発して、袋に入った自身の荷物を殴り、蹴飛ばしました。200 mに優勝したので、「荷物に八つ当たりしていたね」と、突っ込みを入れられていました。
 それには「いやぁ、人に当たるわけにはいきませんからね」と、いつもの齋藤節が出ました。「でも、リレーのことを考えて、(バトンを持つ)左手ではなく右手で殴ったんですよ」
 まあ、殴ったのは衣類の入った袋ですからね。
 ミックスゾーンの壁(パーティションの衝い立て)に頭突きもかましたそうで、「これがその痕跡ですよ」と指し示してくれましたが、特に傷がついているようには見えませんでしたね。
 ちなみに100 mの不調は、左脚のハムストリングが「限界に来ている」のが理由。200 mでも「直線で脚が止まりそうだった」と言います。インカレでなかったら走っていなかったでしょう。今季、ケガが多い理由も分析できています。
「股関節、ひざ、足首とやっています。バランスが崩れているのが原因です。足首の捻挫もあって、自分の特徴である接地がおかしくなっていた」
 来季への構想なども聞けていますが、長くなるので、そのあたりは別の機会に紹介したいと思います。
インカレ最終日ネタ、つづく…といいのですが

 男子400 mHは吉田和晃選手と今関雄太選手の順大コンビがワンツー。前半から飛ばす吉田選手に対し(6台目で13歩)、今関選手は前半はかなり遅れていました(14歩)。ホームストレートに出たところでも5〜6番手だったような気がします。そこからの今関選手の追い上げがすごかったですね。先行する選手たちを抜いて行き、最後は吉田選手にも0.16秒差に迫りました。
 今関選手はトワイライト・ゲームスで初49秒台を出したときに、「吉田に続くか、できれば勝ちたいですね。世陸で疲れている時期なので、そこをつけたら…。勝つには悪くても49秒台中盤が必要でしょう」と話していました。
 しかし昨日の予選後は、「思ったより出ていません。50秒8くらいと思ったら51秒11。吉田も思ったより良い(50秒50)ので…」と、やや弱気な発言をしていました。不安要素を抱えているのかな、という推測もしてしまったほど。終盤、あそこまで追い上げたのは予想以上でした。不安要素があったなら、前半を抑えたのが良かったのかもしれません(取材はしていないのではっきりとは言えませんが)。
 吉田選手にすれば辛勝。連戦に課題のある同選手。前日に4×400 mRの予選に出たことが、少し影響してしまったのかもしれません。ただ、自己新を出せる状態ではなかったといいます。「学生の大会なら、前半は自分が一番速い。自分の走りを固定すれば(状態が多少悪くても)49秒台は出せます」。この辺が強さなのでしょう。
 現在は13歩と15歩しか使っていない吉田選手ですが、今後は14歩(逆脚踏み切り)の導入にも取り組むといいます。「今は15歩に切り換えるところで0.3秒はタイムが落ちますが、14歩ができれば0.1から0.2秒に抑えられる。この冬に逆脚を練習します」

 順大勢では菊池敦郎選手が3000mSCで4連勝1500mと合わせて2冠を達成しました。3000mSCでの4連勝は史上初とのこと。3000mSCといえば小山隆治選手、山田和人選手、そして岩水嘉孝選手と、順大が歴史に残る選手を輩出しています。が、4連覇はできなかったわけです。学生記録保持者の新宅雅也選手(日体大)もできなかったようです。
 走力のある選手はインカレでは、対校得点のことも考えて5000mに出ていたのかもしれません。その点、菊池選手は3000mSCが専門に近いランナーということが、4連覇にはプラスになったのかもしれません。
 その意味では、1500mとの2冠の方が価値が高いような気もします。過去にこの2種目の同一大会Vはあったのかと思って調べると、過去に1回だけ外国人選手がやっていました。菊池選手は日本人初の快挙ということになります。
 話しも聞きました。1500mと3000mSCではリズムが違うと思ったので、その辺も突っ込ませていただきました。

 男子走高跳では高張広海選手が2m22の好記録(自己タイ)で優勝。そのコメントも取材したかったのですが、今日は2位の衛藤昂選手の話を優先しました。2m19と4cmの自己新。恥ずかしながら知らない選手でしたし、高専(鈴鹿高専)の選手ということも、興味を引きました。
 聞けば4年生だと言います。つまり、大学でいえば1年生に相当します。昨年のインターハイで3位だったと聞いて、こちらの勉強不足が恥ずかしかったです。ただ、「東海選手権で海鋒(佳輝)先生にアドバイスを受けたのが良かった」と話したときは、海鋒先生が何者か理解できました。高知インターハイ優勝者で、1990年の北京アジア大会代表。学生時代の2m24は筑波大歴代4位。岐阜県の先生になってから2m26まで記録を伸ばした先生です。
 うーん。そんな昔話を知っていても、今日はそれほど意味がなかったですね。
 でも、最近の岐阜県の試合は何度も取材に行っていて、海鋒先生の審判ぶりも見かけています。「審判をしているときの旗の挙げ方に独特のアクセントがあるんだよね」と、衛藤選手に言いかけてやめました。

 記録的には男子棒高跳の笹瀬弘樹選手(早大2年)の5m50が学生歴代6位タイ、円盤投の堤雄司選手(国士大2年)の53m50が学生歴代6位(オーバーエージ選手もいますが、歴代順位は陸上競技マガジンの順位づけに則りました)。
 この2人のコメントも取材。できれば、堤選手も記事で紹介したいところですが、ちょっと時間的に厳しい状態です。
 4×400 mR終了後には安孫子充裕選手に不調の理由を取材。金丸祐三選手には、脚の状態やスーパー陸上への意気込みを聞きました。
 総合優勝は男子が順大、女子が筑波大。得点状況の分析は特にしていませんが、順大は得意種目での大量得点が効いた印象。筑波大は砲丸投、円盤投の大量得点でしょうか。
 閉会式後には両校の選手が喜びを爆発させていました。順大の写真筑波大の写真


◆2009年9月7日(月)
 昨日までの日本インカレ取材では、4年生選手の就職につても話題になりました。競技の話が一段落したあたりで、記者の誰かが選手に質問します。
 日本代表クラスでは金丸祐三選手と齋藤仁志選手が、実業団チームを持つ会社で話が進んでいるようですが(たぶん別の会社)、まだ最終的な内定は出ていないとのことで社名は明かせないようでした。吉田和晃選手も「具体的にはまだ」という状況。
 大変なのが横田真人選手。話が進んでいた会社への入社が、白紙になってしまったそうです。世間一般ではたまにあることですが、当事者にとっては大変なショックでしょう。それでも、横田選手はかなり前向きでした。生き方の軸がしっかりしているからだと思います。
 鈴木崇文選手と高張広海選手の東海大跳躍コンビの話は今回聞きませんでしたが、どうなのでしょうか。6月のスプリント挑戦記録会 in TOTTORI時点では、進路について迷っていたモーゼス夢選手も、続ける方向に気持ちは傾いているようですが、受け入れ先は見つかっていないようです(これは、ある筋からの情報)。

 インカレは国体やインターハイと違って、地方紙の記者はなかなか出張に来られないのが実状です。北海道新聞は東京支社の社会部の方で、土曜日は竹田小百合選手(三段跳)の2位がトップニュースだと予想していたら、皆川澄人選手の1年生V(走幅跳)が飛び出して、嬉しい悲鳴をあげていました。今日は堤雄司選手が学生歴代上位記録で優勝。北海道記録(大垣崇選手の52m68)と北海道出身選手の記録(宮内優選手の53m00)の違いなど、情報を提供させていただきました(お礼に、千駄ヶ谷駅前のカフェ情報をいただきました)。
 南の沖縄では男子ハンマー投の知念雄選手が、まさかの1年生V。共同通信のT村記者と、某カメラマンが沖縄の新聞社からのリクエストへの対応で忙しそうでした。

 神戸新聞の元陸上競技担当の大原記者からは、携帯にメールが届きました。
 我が後輩、蛭田がインカレの砲丸投げを制したと藤村(現陸上競技担当=寺田注)から聞きました。感無量です。大山君(小野高で大原記者と同期=寺田注)に会うことがあれば、大原が祝福していたとお伝えください。しかし、吉田も山田もモーゼスも、みんな我がテリトリーの阪神エリア出身やないですか!
 吉田和晃(西宮市立甲武中)山田壮太郎(西宮市立浜脇中)モーゼス夢(尼崎市立小田北中)。竹原は神戸、蛭田は西脇の子ですね。みんな、よく頑張ったぞ!


 今日は夕方の17時から尾崎好美選手の取材。第一生命の寮で30分ほど話を聞かせてもらいました。掲載されるメディアは東レPPOテニス2009の大会プログラム。9月2日の日記にイニシャルで書きましたが、「宣伝してください」と秋山編集者から言われたので、実名で書いても大丈夫になりました。
 東レPPOテニスは女子だけの大会。これまでも、その年に活躍した他競技の女子選手のコラムを掲載してきました。過去2年間は卓球の福原愛選手とフィギュアスケートの浅田真央選手。顔触れの豪華さから、ちょっとプレッシャーがかかっていました。
 テニスは寺田の専門外ですし、尾崎選手もそれほど詳しいわけではありません。それでも、取材後には「なんとかなるな」と思いました。陸上競技の違いと共通点をこちらで探して質問をすれば、トップ選手なら“それなり”の考えをもっています。面白い記事になりそうです。
 正確には、なりそう、ではなく、なりました。帰りがけに最寄り駅のスタバで一通り書き上げました。尾崎選手の一人称なので、比較的書きやすかったです。明日、尾崎選手にチェックもしてもらって、細部に手を入れて完成です。


◆2009年9月8日(火)
 10:30から中央学大の取材でした。陸マガ増刊の大学駅伝2009秋号用です。
 昨年はあまり、競技会以外の学生駅伝取材をしなっかたので(そういえば箱根駅伝予選会も全日本大学駅伝も行きませんでした)、今日は新鮮な気持ちで取材ができました。
 一番よかったなと思えたのは、練習を見学できたこと。1日の練習だけを見て、そのチームの特徴をこうだと断定することはありませんが、その後の指導者や選手への取材で突っ込むポイントを見つけることもできます。見つけられないケースも多いのですが、今日の練習には中央学大の特徴が出ていたので、それが可能になりました。
 ひとことでいえば、動きづくりをここまで重視しているのか、という驚きを持ちました。トラックもその一部に組み込んだクロカン・コースが設定されていて、そこを選手たちがジョッグするのがメイン練習でした。トラックでは一部の選手が動きづくりのドリルを行なっています。ジョッグしている選手にも、ドリルを行っている選手にも、指導スタッフがかける言葉は同じなのです。

 4月に取材させてもらった佐久長聖高と似た練習風景だな、という印象を持ちました。佐久長聖高と中央学大では多くの点で対照的です。狙いとするレースの距離が5000mと20kmという点が一番違います。入学する選手の素材も大きく違うように思います。
 トレーニングの違いも絶対にあるはずですが、その辺は1日だけの取材では見えてこないのでしょう。数カ月単位で練習メニュー表を比べれば、少しはわかるかもしれません。
 それでも、長距離走のトレーニングに対して、両チームはどこか共通点(考え方)があるということだと思います。

 取材全体の感想としては、大学駅伝の取材は面白いな、と改めて思いました。
 チームには年々受け継がれている伝統がありますが、選手の力量やタイプの違いによって、その年、その年のチーム作りが違ってくる。それがはっきりと見て取れるのが、学生駅伝の面白いところですね。
 今回の中央学大でいえば、こちらが考えていたテーマは“木原真佐人選手卒業後のチームづくり”です。エース不在という点に加えて、1万mのタイムなど全体的に大きく落ち込んでいる。
 そこを突っ込んでいくと、予想通りの部分も出てきましたし、そこまで頑張っているのか、という部分も出てきます。本当に面白いな、と思ったのは、動きづくり重視の部分と、木原選手がが残したものがつながっていた点です。
 詳しくは10月2日発売の「大学駅伝2009秋号」で。


◆2009年9月12日(土)
 昨日、今日と重川材木店の取材で新潟に行ってきました。
 加茂市にある関連会社・緑の森・木材工場の研修施設を使って1泊2日のミニ合宿をしているところに、寺田も一緒に泊まり込ませてもらっての密着(?)取材でした。
 昨日は16:30からの15km走に、重川社長(兼総監督)の車に同乗して、カメラ取材をメインに行いました。綺麗な風景のなかでの練習の様子を紹介するのが狙いです。逆光が多かったので苦労しましたが、シャッターチャンスが何回もあったので助かりました。
 この写真は黄金色の水田をバックに走る選手たち。右端の選手は清水康次NTT西日本監督にそっくりでした。顔もそうですが、走り方も。
 夕食を挟んで3人の主力選手にインタビュー取材。競技レベルでいったら、5000mで14分も切れない選手たちです。それでも、話を聞いていて面白いと感じました。
 寺田はいつも面白かったと書いていますが、そう感じる理由はどうやら、競技レベルとイコールではないようです。その選手が一生懸命に競技に取り組んでいるかどうか、だと思います。
 21時頃には取材を終了。お風呂に入らせていただいた後は、事務所をお借りして24時まで仕事。

 今朝は4:45に起きて、ネットのチェックなど先に仕事を少し。5:30から朝練習も撮影がメインの取材。まだ暗い中での練習なので苦労しましたが、多少暗くても朝練習らしい雰囲気の写真が撮れたと思います。
 その後、朝食前に重川社長へのインタビュー。
 選手へのインタビューでも少しは話が出るのですが、選手個々の頑張りがチームのなかでどう位置づけられるか、という部分はやはり、指導者の話を聞かないと記事が書けません。重川社長からも面白い話を聞かせてもらいました。
 ただ、今回の記事は前回(前回は新人選手を紹介しながら、重川材木店というチームの特色を出しました)と違って、個人の頑張りの部分が前面に出る記事になりそうです。
 1週間後くらいにこのサイトに記事が載る予定です。


◆2009年9月14日(月)
 大リーグ、シアトル・マリナーズのイチロー選手がメジャーリーグ9年連続200本安打の偉業を達成しました。同時代に生きていてよかった、と思える数少ないスポーツ選手です。
 今回のイチロー選手の記録は、陸上競技の記録とは質が違います。イチロー選手は1本1本、安打を重ねた(高い頻度でヒットを生み出した)結果の記録ですが、世界記録や日本記録などは、その一瞬にずば抜けて高いパフォーマンスをした結果です。野球でも時速何kmの速球を投げたとか、場外ホームランの飛距離が百何mあったとか、という記録は陸上競技に近いのですが。
 ただ、イチロー選手に近いイメージの陸上選手もいます。あくまでも寺田のなかのイメージですが、室伏広治選手がそうです。

 室伏重信先生の前日本記録(75m96)を超えるところまでは、行ってくれ行ってくれ、という気持ちで見ていました。それを実現したのが1998年の4月。そこからが本当の世界との勝負だと本人は言っていましたが、そんなに簡単には行かないだろう、と思っていました。
 それが、同じ98年の後半4試合で更新し、78m57まで日本記録を伸ばしました。そこから先は本当に、世界で戦えるレベルです。ハンマー投の日本選手が世界で戦うというイメージを、我々の世代は持てていませんでした(菅原武男選手のメキシコ五輪4位入賞を、同時代で経験した人間はまた別だと思います)。
 翌1999年には秋に79m17と自己記録をさらに伸ばしました。この年は1回だけの更新ですが、確か、腰を痛めたのだと記憶しています。
 そして2000年には5月に80m23と大台に乗せると、シドニー五輪こそ不覚をとりましたが、そのシーズンで3試合の記録更新を果たし、81m08まで記録を伸ばしました。
 さすがの室伏選手でも、これ以上伸ばすとなると何年もかかるのでは、と思っていたのですが、2001年4月に82m台に乗せると、3カ月後には83m台に。ミズノの中村次長が「広治は底が知れない」とおっしゃっていたことが記憶に残っています。
 室伏選手は2003年に84m86(当時世界歴代3位)まで記録を伸ばしていますが、イチロー選手と同様、同じ時代に生きてよかったと思っているスポーツ選手です。
イチロー選手の話題、続く予定です

 そのイチロー選手ですが、自身を“天才”と評されることを否定しているようで、その理由を「自分はどうして安打が打てるのか説明できるから」と話したそうです。寺田のなかではイチロー選手は“天才”だと思っています。これは“天才”の定義の仕方が違うからです。
「天才(てんさい)とは、天から与えられたような、人の努力では至らないレベルの才能・その人を指し、主にきわめて独自性の高い能力的業績を示した人を評価したり、年若いのにあまりに高い才能を示した人への賛辞的形容に使われる。」(Feペディア)
 という定義が一般的で、イチロー選手もこれに近い定義をしていると思われます。
 これを陸上界に当てはめると、ものすごい中学記録を出した選手が天才といえるかもしれません。そこまで突き詰めて考えなくとも、すごいパフォーマンスをしてしまうのですから。
 でも、そういった選手が大成するかといったら、必ずしもそうではありません(為末大選手や女子走高跳の佐藤恵選手のような成功例もありますが)。ですから、寺田は陸上競技マガジンの編集者だった頃、“天才○○”という見出しは絶対に付けませんでした。“大器”もそうです。そういった選手の多くは単に、人よりも肉体的な成長が早かっただけ、という気がします。為末選手もそういったニュアンスのことを、専門誌の手記や著書に書いていました。
 でも、人よりも発達が早いことが悪いことかといったら、むしろ良いことかもしれません。スポーツにおける発想は、身体的なところが大前提条件としてあって初めて、人とは違った独自の発想ができるようになるように思います。そのヒントに、早い年代から触れられるのですから。
 伸び率が鈍ってしまうことで精神的に追いつめられるかもしれませんが、そこでくじけない心の強さがあれば、為末選手のように色々な角度から自分の可能性を探ることができます。そういう意味でも、昨年、今年と好記録を出している中学生選手が多いですけど、ぶれないで頑張ってほしいと思います。

 では、なにをもって“天才”と定義するのか。陸上競技の世界だからそう思うのかもしれませんが、他の選手から突出した実績を残した選手が“天才”だと寺田は思っています。こつこつと積み上げてきた結果でも、素晴らしい肉体を持っていた結果でも、気持ちを強く持ち続けた結果でも、自身の理論をつきつめた結果でも、なんでもかまわない。過程や素材ではなく結果で判断する……という考え方って、やっぱり変でしょうか。
 寺田のなかで最高ランクの天才選手は室伏広治選手です。2番目のランクが高橋尚子選手、為末大選手、末續慎吾の3人。最近の選手でメダリストばかりですが、3番目のランクは高野進選手、野口みずき選手、高岡寿成選手、瀬古利彦選手、増田明美選手、有森裕子選手と、ちょっと以前の選手やメダリストでない選手も入ってきます。
 戦前の織田幹雄選手や南部忠平選手、田島直人選手は入らないのかとクレームが来そうですが、ここは自分が時代を共にした選手に限らせていただきます。生きた時代が違うと、この手の評価はできないと思うんです。データを見ただけでしている評価ではないのです。一緒に生きて、自分がどう感じたか、を重要視したランク付けですので。
 ちなみに4番目のランクは山下訓史選手、伊東浩司選手、朝原宣治選手、溝口和洋選手、阪本孝男選手、澤野大地選手、岩崎利彦選手、山崎一彦選手、今村文男選手、野口安忠選手、福島千里選手、丹野麻美選手、杉森美保選手、吉田真希子選手、森千夏選手、弘山晴美選手、山下佐知子選手です(時間がたったら増えているかもしれません)。
 天才選手というより、功績のあった選手という印象ですが、そういう定義の仕方なので。


◆2009年9月19日(土)
 さて、今日もイチロー選手ネタの続きです。
 先日の日記を読み直して“大リーグ”という言葉は、もしかして今は使わないんじゃないか、メジャーリーグと表記するのが一般的じゃないか、という気がして焦りました。先日のTBS世界陸上打ち上げの会場で、林アナに「巨人・阪神戦の行われている後楽園で…」と話したら、「東京ドームだよ。後楽園はNGワード」だと指摘されたことを思い出したからです。
 でも、各新聞のサイトを見ると、朝日も読売もスポーツ紙も“大リーグ”と使っていますね。NHKとかは“メジャーリーグ”と言っている気がします。活字メディアとしては、文字数が長くなる表記は受け容れにくいということも影響しているのかもしれません。まったくの憶測ですが。

 その朝日新聞のWEBの記事で、イチロー選手が9年連続大リーグ200本安打を達成したときのコメントに次のようなものがありました。
「打撃に関して、これという最後の形はない。これでよしという形は絶対にない。でも今の自分の形が最高だ、という形を常につくっている。この矛盾した考え方が共存していることが、僕の大きな助けになっていると感じている」
 これって、陸上では普通の考え方だと思うんです。野球では珍しいのでしょうか? あるいは、イチロー選手が陸上選手に近い考え方をしているのか。元プロ野球担当、大リーグ担当という陸上記者もそこそこいるので、スーパー陸上あたりで聞いておきましょう。

 14日の日記に“天才”の定義について書きました。これも読み直したのですが、やっぱり世間一般には受け容れられない定義の仕方かな、という思いが強くなってきました。天才じゃないけど努力で強くなった、とか、信じる道をこつこつ続けて結果を出した、という考え方のほうが単純でわかりやすいでしょう。
 だったら、その定義に同意しろよ、と言われそうですが、それも素直に首肯できません。若年時にすごい記録を出し、その後いなくなったような選手に“天才”という言葉を使いたくないのです。天才なら、そのくらいの壁を乗り越えてみせろよと言いたい。そのくらい、寺田のなかで“天才”という言葉は重みのある言葉なのです。
 突出した結果を出して初めて、使いたい言葉なのです。
 ところが、“天才”という見出しを付けたことがあるかといえば、実は一度もありません。14日の日記に名前を挙げた室伏広治選手や高橋尚子選手に対してもです。“天才”という言葉自体を、なくした方がいいんじゃないかと思うくらいです、スポーツの世界では。そのくらいに定義が難しいし、軽々しく使いたくない言葉だと思っています。

 記者の世界はどうか。陸上記者のイチローこと佐々木一郎記者は、寺田から見ると天才的です。発想というか、目の付け所が違うのです。スポーツ新聞的な発想が多いのですが、一緒に取材をしていて「そこはオレも気づきたかった」と思うことも多々あります。先日、同記者の下で働いたことがあるという後輩記者の方と打ち合わせをしましたが、「考えていることが違う」と言っていました。
 ただ、1つだけ指摘しておきたいのは、イチロー選手の本名は鈴木一朗です。佐々木記者は一郎ですから、“朗”と“郎”が明らかに違います。単に漢字の話ですけど。


◆2009年9月20日(日)
 イチロー選手のメジャー9年連続200本安打に触発されて、“天才”の定義についてちょこちょこと書いてきましたが、為末大選手も自身のサイトで“天才の世界”という書物の紹介をしながら自身の考えを書いています。視点が違っていて当然ですが、やはり“突出した結果を残した選手が天才”という寺田は定義は、能力の特徴や、天才的な選手たちに共通する部分を見ない定義なので、そこが問題のような気がします。

 ただ、寺田も天才的な選手にはこういう特徴があるだろうな、と感じていたことがありまして、同じことを為末選手も書いていました。
「そしてこれは私が最も同意する場所なのですが、人生のある特定の時期に、他の事に全く頓着せずにそれだけに邁進している、しかもそれが持続的に行われている人物とあります。それはどういう事かと言いますと、ある時期損得とかそういう計算が全く働かずに、ただすべきだからする、もっと言うと自分の意志ではなくて何かに突き動かされるようにしてしまう事を言っています」
 というところから続く4段落分です。

 以前にも書いたかもしれませんが、記者やテレビ局のディレクターたちのなかにも、かつての全日中優勝者とか入賞者という方が数人いまして、(勉強の方でも)名門大学の競走部などを経て取材者の立場になるわけです。彼らと上り詰めていく選手との違いは、この部分だと感じていました。というか、当人たちがそう話していました。記者になっていく人たちの方が、俗にいうバランスが良いタイプで、通常の社会にも適応していく人たちです。
 トップに上り詰める選手の方が、周囲の目などを気にせずに突き進める(天才ということで話を進めてきましたが、ここではトップ選手とさせてください)。そうしたトップ選手でも、現役を引退して指導者やサラリーマンになると、社会的なバランスがとれた人間に変わっていきます。例外もあるかもしれませんが。

 話は変わりますが、スポンサーである計測工房・藤井社長のブログには、インドネシアの大会の話題が載っていました。計測工房としては、1月のサイパン・マラソンに続いて海外進出第2弾です。本人は「ずいぶんとさび付いていた」と書いてらっしゃいますが、ビジネスも英語でこなすところはさすがです。
 寺田の英語は旅行では使えても、ビジネスでは使い物になりません。ベルリンでもそれを痛感させられました。
 ボルト選手のコメントを聞こうと男子100 mのメダリスト会見に出たときです。2〜3割はわかるかなと思っていたら、1割も聞き取れませんでした。かなり、さび付いていました。質問の方は2〜3割くらいわかるのですが、ボルト選手のコメントはさっぱり。ネイティブの英語は“壁”ですね。メダリスト会見の質疑応答は紙でプレスセンターに出るので、事なきを得たのですが。
 セビリア大会のときなど、なんだかんだでモーリス・グリーン選手の記事とか書いているのですが、たぶん、グリーン選手の英語はネイティブでも聞き取りやすい部類だったのでしょう。寺田も英会話学校に通っていた時期でしたし。
 ちょっとだけホッとしたのは、大新聞のそこそこ英語取材に慣れている記者たちも苦労したそうで、現地でボイスレコーダーに録音したファイルを、翻訳部署に送ったりして訳してもらったりしたそうです。
 それでも、2年後のテグ大会に向けて、スピードラーニングでも始めようか、という気持ちがなきにしもあらず、です。

 藤井社長も頑張っていますが、M&K・幹渉社長も頑張っています。
 秋に何かをやるとお聞きしていましたが、その全貌が今日、発表されました。詳しくは東京リレー2009フェスティバルをご覧いただきたいのですが、
「一方、一般種目に目を転じると、小〜中学生では長距離種目に挑戦する選手たちと比較しても圧倒的に多いですが、高校生になると激減し、さらに大学生や社会人では、一定以上のレベルに達している選手を除いては、競技を続けることすら困難で、参加できる大会も極めて少ない状況です。」
 と開催趣旨を書かれているように、トラック&フィールドの将来を考えてのイベントです。我々メディアはトップ選手の動向を中心に報道せざるを得ません。こうしたイベントは本当に貴重です。注目させていただきたいと思います。


◆2009年9月21日(月)
 クリール11月号の発売は明後日ですが、連休の関係ですでに配本はされていて、寺田のところにも届きました。陸上競技ファンにとって一番の目玉企画は「銀メダルの表と裏 尾崎好美選手×山下佐知子監督インタビュー 」です。これは本当に面白いインタビュー記事でした。
 レースを振り返ってもらうことから始まりますが、これは定番というか、必要不可欠な部分です。2番目に尾崎選手のフォームが今回、とりわけ綺麗だったことについて触れています。樋口編集長が世界選手権のレース当日(翌日?)のブログ「脚が長く見えるフォームをしている」と尾崎選手のことを書いていて、寺田も同じ感想を持っていたのです。

 実は先日の東レPPOテニス・プログラム用の取材の際に、寺田もそこを突っ込ませてもらいました。尾崎選手も帰国してビデオを見直すと、我ながら綺麗な走りだった、と感じたそうです。プログラムには要点だけをピックアップして、他の事柄と関連づけて書いていますが、取材に対しては次のように答えてくれました。
「腰を入れろということをスタッフから注意されていましたが、昔はお腹を出すだけの走り方をしていました。でも、そのうちに仙骨の部分を入れる感覚というのがわかってきました。調子が良いな、今日は動いてるな、と感じるときは、腰が入っているんです。その感覚が最近わかるようになってきて、きつくなったなというときは腰が落ちています。世界選手権のときは、そこが一番良かったですね。人ごとのように綺麗だな、と思ってビデオを見ていました」

 クリールの記事ではベルリン当日の動きにとどまらず、山下監督の“フォーム論”まで出ていて、面白く読ませていただきました。尾崎選手が話しているピッチとストライドの話も、なるほどと納得のいく内容でした。
 フォームの話しに続いて、最終調整のメニューと、そのタイム設定の決め方も明かしてくれています。これは、市民ランナーにも参考になる部分だったのではないでしょうか。
 故障明けからの練習の流れや、3週間前の30km走のタイム設定を尾崎選手に知らせず、チームメイトが交互に引っ張った話は、ベルリンでも話題になって各メディアの記事にもなった部分ですが、ここももう一度丁寧に振り返ってくれています。
 そして最後には、レース2日前(?)までお酒を飲んでリラックスしていたエピソードも。
 全体的にインタビュアーが信頼されているから引き出すことのできた話題だな、という印象です。決して、奇をてらった角度から突っ込んでいるわけでなく、正面から斬り込んで奥の深い話を引き出している。多くの読者に喜んでもらえそうな内容です。


◆2009年9月22日(火)
 16時から川崎駅近くのホテルで、明日のスーパー陸上の会見
 寺田にしては珍しく早めに会場着。エレベーターでは主催新聞である日刊スポーツの陸上競技担当、佐々木記者と一緒になりました。村上幸史選手の連載記事(3 スケールの大きさ体感して)を読んだばかりだったので、「やりは投げるときにスピンをかけるんだって?」と声を掛けました。「そうなんですよ」と佐々木記者。元ラグビーマンの同記者は、アメフトやラグビーのボールを投げるときに、同様にスピンをかけることに着目したと言います。村上選手がそう話したようですが。
 ただ、その点に関しては、それ以上深く突っ込めることはなかったようです。実は事前にその点を相談されていて、寺田はやり投選手がスピンのかけ方の巧拙を話題にしていた記憶がなかったので、そう話していました。海老原有希選手がグリップの握り(かける指)を変えたと言っていましたが、それが関係するのでしょうか。次の機会に、確認しておきたいと思います……明日のスーパー陸上は慌ただしい取材なので、全日本実業団あたりがチャンスかも。元やり投選手のアシックス・吉田さんに聞く方法もありますね。

 記者会見は最初に村上選手が1人で、次にゲイ選手とフェリックス選手が揃って登場。その後で会見出席者全員でのフォトセッション、最後に日本の男女短距離4選手の会見という手順。
 村上選手の会見はこちらに記事にしました。寺田が質問したところは「Q.“ベルリンの再現”をするために、どんな練習をしましたか。その練習に以前との違いがありますか。」です。それに対する村上選手のコメントがスポーツ新聞の記事にも載ったので、役に立ったかも。
 ゲイ選手にはデイリー・ヨミウリのマランツ記者たちが突っ込んでくれたので、各メディアに必要なコメントが引き出せたように思います。ボルト選手とのレース後のパフォーマンスの違いを聞いてくれた記者がいて、それに対するゲイ選手の答えはユーモアもあり、かつ2人の違いも出ていてよかったと思います。
 寺田もフェリックス選手と2人に質問しましたが、かわされてしまったかなという感じ。でも、それすらも佐々木記者はネタにしてしまっていました。その辺は“天才的”というよりも“上手さ”でしょうか。

 会見後は事務的な用事をいくつか。会見前にも某スポーツメーカーと某テレビ局、某新聞社の方たちに接触。
 村上選手の会見記事を書き上げましたが、ネットに接続できずアップするのが遅くなってしまいました。朝日新聞福岡の増田記者と駅ビルで食事。色々と情報交換ができ、今後の仕事に役立ちそうです。


◆2009年9月23日(水)
 スーパー陸上2009の取材。
 会場の等々力競技場は昨年の日本選手権とスーパー陸上の会場。最寄り駅からちょっと歩く距離ですが、武蔵小杉駅と溝の口駅からの路線バスもそれなりの本数が出ているので、不便は感じないようになりました。日本選手権を開催した名残か、プレス席との動線は短く確保されていますし、ミックスドゾーンにマイクやモニターも設置されています。LANも完備されていて、プレス用インフラはしっかりとしています。動線が長すぎる日産スタジアムより取材がしやすいのは確かです。

 もう1つ書いておきたいのはプログラムが“日本一”であること。参加選手全員の顔写真が載っているのは、スーパー陸上だけです(人数の多い選手権試合では無理ですが)。ページ数が多くかさばって仕方のない大会もありますが、スーパー陸上は薄くて持ち運びも簡単。大会全体の見どころや選手紹介、各種目の見どころなど、観客に楽しんでもらうための工夫が随所に見られます。
 通種目毎の見どころの文章だけ見てみても、違うんですよね。当たり障りのない、無難な予想とは違います。プログラム単体で発売してくれないかな、と思えるほどの出来です。多少、強引なところもありましたが、それはやむを得ないところというか、許容範囲でしょう。

 肝心の試合ですが、村上幸史選手の頑張りが一番でしょう。凱旋試合ということで注目され、主催者サイドの一番の売りにしていました。村上選手自身、「ベルリンの再現を」と宣言してしまっていました。プレッシャーがかかって当然の状況ですし、やり投という種目の特性で記録は風に影響されます(今大会プログラムの記事の良いところは、無責任に好記録を期待するのではなく、そういった部分にも言及しているところです)。
 これらのマイナス要因をはねのけて、世界選手権と同じレベルの記録を投げ、観客の期待にしっかりと応えた村上選手は見事としか言いようがありません。
 もう1つ盛り上がった要因は、今季の注目種目である男女の100 mで、日本勢がしっかりと走ったこと。期待通りに走ったと言えると思います。
 先に行われた女子は福島千里選手が、アリソン・フェリックス選手を40m付近までリードしました。11秒42は向かい風の日本最高。何より、世界のトップ選手と2m差で走るシーンは、過去の日本女子短距離では見られなかったシーンです。
 男子はゲイ選手には格の違いを見せられましたが、“役者”と期待された塚原直貴選手と江里口匡史選手が、期待に違わぬ大接戦を展開しました。これは見応えがありましたね。塚原選手に9月に入ってからなんらかのトラブルがあったようですが、江里口選手がここまで成長しているのは予想以上でした。

 この3種目以外は、“積極的”にパフォーマンスを理解しようとする観客以外には、ちょっと不満が残る内容だったと思います。上記3種目はいずれも大会終盤に行われましたが、それまでは低調な大会という印象すらあって、新聞各紙記者は巨人優勝のあおりもあり、紙面をあまりとれないのでは? と心配していました。
 先ほど書いた積極的に理解するというのは、丹野麻美選手が53秒台でも外国人選手に勝ったことや、金丸祐三選手の45秒台の回数が高野進選手に次いで2番目に多い回数となったこと、110 mHのモーゼス夢選手が向かい風で自己記録に0.01秒と迫ったことなど。棒高跳の鈴木崇文選手の優勝も、外国勢と澤野大地選手を抑えてのものだけに価値があります。寺田明日香選手に勝った石野真美選手、丹野選手に0.30秒と迫った佐藤真有選手の健闘も光っていました。
 こういったところが一般メディアでも評価されるようになると、日本の陸上競技も盛り上がってくると思います。

 そういえば1つ、今年ならではのエピソードがありました。世界選手権代表選手のナンバーカードが、数字ではなく選手名をアルファベットで表記していましたが、そのことではありません。レポーターの安藤あや菜さんが眼鏡をかけていたことでもありません。
 男子100 mが始まる直前まで、記者たちはミックスゾーンで村上幸史選手か福島千里選手の取材をしていました。いざスターという段になって、モニターの前に大挙して移動しましたが、ポジション取りが悪かった寺田は見にくいアングルで見ることになってしまいました。
「誰か1回、フライングしてくれ」と遠藤記者(スポーツ報知)の後ろでつぶやいたら、本当にフライングがありました。おかげで、モニターをしっかりと見られる位置に移動できたのです。フライングが1回目で失格となる来季からは、こういった幸運もほとんどなくなってしまいます。


◆2009年9月24日(木)
 今日はアルバイトのA君が来てくれました。A君も昨日のスーパー陸上を等々力競技場で観戦した1人。話を聞くと、ミックスドゾーンに張り付かないといけない寺田なんかよりも、じっくりと競技を見ることができたようです。何度も書きますが、競技をじっくり見たい人は陸上競技を仕事にしたりしないで、お金を払ってスタンドから見ましょう。審判員もよっぽど偉くならない限りは、好きな種目を見ることはできないように思います。

 A君はかなりの積極派で、会場内でもあちこち場所を移動して観戦したといいます。棒高跳が佳境に入れば棒高跳の近くのバックスタンドに行き、走高跳のバーが上がれば走高跳の近くに、やり投に村上幸史選手が登場すればやり投に。やり投は、選手の後ろから見た後は、軌跡を見るためにバックスタンドの2階席まで移動するほどの熱の入れよう。
 しかし動き回りすぎたせいか、100 mは良いポジションで見られなかったと言います。一番の人気種目ですから、良いスペースは早くに埋まってしまうのでしょう。
 今年のスーパー陸上のトラック種目は8種目。100 mが男女、100 mHと110 mH、400 mが男女、400 mHも男女。800 m以上の種目はありません。場所取りは熾烈だったかもしれません。

 A君が面白かったことの1つにアスリートFMを挙げていました。高木直正先生(元順大ハードル・コーチ。岩崎利彦らを指導)、繁田進先生(東学大)、木越清信先生(元棒高跳学生記録保持者)、そして“記録のオーソリティー”野口純正氏らによる陸上トークを聞くことができるラジオ放送です。取材をしているとなかなか聞くことができませんが、観戦に深みが出るのは確かだと思います。
 陸上競技の人気を広げるには、好記録が出て盛り上がるだけでなく、陸上競技自体を好きになってもらわないと難しいでしょう。昨年の朝原宣治選手や今年の村上幸史選手のように、直前のオリンピックや世界選手権で活躍した選手が注目され、お客さんが入ってくれる。そういった人たちに、「来年も」とか「インターハイ南北関東大会に行こう」、と感じてもらわないといけません。そのためにはアスリートFMや昨日紹介したプログラムなど、補助的な手段が必要でしょう。陸上競技は“ただ見せている”だけでは人気が出ません。
 昨晩、スーパー陸上のビデオを見ました。解説者の谷川聡コーチ(選手?)が女子100 mで、福島千里選手の走りのすごさをさかんに説明していました。スタート前から、以前とは違って戦える雰囲気が伝わってくること、追い風でないレースでの11秒42の価値などを話していました。プログラムの種目毎見どころの女子100 mのページでも、外国人選手との差に注意を喚起していました。
 それで一気に陸上競技ファンが増えるとは思えませんが、些細なことでもいいので、できることをやり、1人でも陸上競技を繰り返し見てくれるファンを増やす。ベルリンの福島選手ではありませんが、それが「小さな一歩」だと思っています。


◆2009年9月25日(金)
 午前中にセカンドウィンドACの会報誌用の取材。9:30に小田急線沿線のセカンドウィンドAC事務所に。
 川越監督、嶋原清子選手、加納由理選手、尾崎朱美選手と話を聞かせていただきました。世界選手権で加納選手が7位入賞、北海道マラソンでは嶋原選手が優勝&尾崎選手が2位で2人とも自己新と、好成績が続いています。年齢的には3人とも30歳を越えていますが、勢いが感じられる。それこそが、川越監督の狙っているところでもあるわけです。
 セカンドウィンドACはご存じのとおり、資生堂から独立し、市民ランナーたちとともに歩むことで、実業団とは違うシステムでのチーム運営、選手強化を模索しているチームです。競技観も違ってきます。特に嶋原選手を見ていると、“国内のマラソン=国際大会の選考会”、“日の丸だけが競技をする全て”、という日本の実業団選手に多い考え方とは少し違っているように思っていました。それでも、今回の成績が示しているように、32歳になってなお力を伸ばしています。
 その辺を引き出せたらと思っていたのですが、簡単ではありません。一度書きながら判断して、万が一不十分であれば、月曜日の会見&祝賀会のときに補足取材したいと思っています。

 尾崎選手は妹の尾崎好美選手を今月初めに取材したばかり。同じ月に姉妹を取材した初の記者……なのかどうかはわかりませんけど。ちまたでは、好美選手の世界選手権銀メダルが、1週間後の北海道を走る朱美選手のプレッシャーになったのではないか、と言われていました。それをメインの話題にはしませんでしたが、確認はさせていただきました。直前に集中できないことも生じたようですが、最終的にはプラスの影響が大きかったといいます。
 加納選手からはテレビで映っていなかった30km以降の展開や、ベルリンで聞けなかった本音の部分も引き出せたかな、と思います。その辺は寺田の力というよりも、会報誌というメディアの性格ゆえかもしれません。
 全体的な感想としては、加納選手の世界選手権入賞が北海道マラソンに出場した2人に刺激を与え、北海道コンビが前半から速いペースで飛ばしたことが、加納選手にも刺激を与えました。そこに、市民ランナーである会員たちの存在やサポートも、有形無形にプラスの効果を及ぼしています。セカンドウィンドACというチームが、良い回転になっていると感じました。

 セカンドウィンドACの取材が終わったその足で、全日本実業団取材のため岡山に移動。岡山駅で電話を数本して、バスで桃太郎スタジアムに。スタジアムの外で富士通の佐久間コーチと今村文男コーチにお会いしました。佐久間コーチが「私も空港からバスできましたよ」と言うと、今村コーチは「私は歩いてきました」と言います。さすが、独特のユーモアで人を笑わせる今村コーチです。
 初日の今日は男女の1万mのみ。男子が3組タイムレースで、女子が2組タイムレース。男子・女子・男子・女子・男子の順で、参加資格タイムの遅いほうの組から順に行われました。
 男子1組は今井正人選手が1位。弱い組とはいえ、久しぶりの1位でしょうか。後で森下広一監督に話を聞いたら、この冬のマラソン出場も可能性があるようです。もしかしたら、ちょっと変わった目的で出場するかもしれないとのこと。中途半端な気持ちで出場した昨年の北海道とは違います。
 女子1組目は永田あや選手と脇田茜選手の豊田自動織機コンビがワンツー。タイムが全体的に悪いのは、ちょっと暑かったことと、湿度が高かったせいだと思います。2人が交互に先頭に立つなど、走りは積極的でしたから。今日の男女1万m5レースは、レース間の時間もちょっと余裕があったので、2人の話を聞くことができました。脇田選手はやっと故障が癒え、昨年の兵庫リレーカーニバル以来の1万mとのこと。永田選手は今年の兵庫リレーカーニバル以来の1万mでした。

 男子2組は福山良祐選手がトップ。2月の別大マラソンで、同じチームの西田隆維選手と一緒に取材をさせてもらっていて面識があったので、少し話を聞かせてもらいました。別大や途中棄権した東京マラソンと違い、この1年は年間を通じて練習ができているとのこと。素材としては良いものがあるのは多くの関係者が認めています。まずは世界ハーフ、そして駅伝をきっちりと走って、来年3月にマラソンという流れだそうです。
 JALの再生問題が政界でも話題になっている最中。S記者がその点を突っ込んでいましたが、「ニュースでよく見ますが、自分の力の及ばないところの話です。そこは考えないで、自分のやれることをしっかりやりたい」と話していました。
 女子2組目は条件を差し引いてもスローペース。福士加代子選手、中村友梨香選手の世界選手権代表コンビを抑え、ラスト勝負で木崎良子選手が日本人トップの2位。ラストスパートでも力まないことを課題に練習してきたとのこと。
 木崎選手は実業団2年目の24歳。中村友梨香選手と同期で、世界選手権という大舞台で自己新を連発した同選手の快走が、大きな刺激となっているようです。練習できついときには「一歩前に中村さんがいる」と思いながら走っているそうです。

 男子3組目はケニア勢が上位を独占。途中まで日清食品グループの北村聡選手と佐藤悠基選手が食い下がり、最後まで踏ん張った北村選手が日本人トップの9位。佐藤選手は遅れ、後方集団では浜野健選手に余裕があって、最後は三津谷祐選手と真壁剛選手を引き離して日本人2位。浜野選手は日本選手権でも良い感じの走りでしたから、その充実の理由を聞きたかったのですが、今日は三津谷選手の話を聞きに行きました。この冬のマラソン出場に向けて、どんな状態なのかを取材しておきたかったので。
 まだ、長い距離走などマラソン用のメニューはやっていないとのことですが、練習の継続や、それによるトータルの走行距離などは、明らかに増えているとのこと。後で森下監督に確認したところ、「例年の3割り増し」だそうです。
 三津谷選手は「一気に速い大会への出場でも怖くはありませんが、勝って次につなげたいので、初めてでもしっかりと勝てるところを」と言い、2月のマラソンを考えていると言います。森下監督と同じ別大デビューを考えているようでした。森下監督は「繊細な選手なので、この大会と決めて出られなくなったときが心配」と言いながらも、「(別大が)予定ではなく、目標となら書いて大丈夫ですよ」と認めていました。
 ちなみに森下監督は1991年の同大会で2時間08分53秒の初マラソン世界歴代2位(当時)で、中山竹通選手に競り勝ってマラソン・デビューを果たしています。


◆2009年9月26日(土)
 全日本実業団2日目の取材。
 まずは男子5000m予選中に長距離某チーム監督が、選手に檄を飛ばしているところの写真を撮らせていただきました(もちろん、本人の了解をとって)。今回の岡山行きは、実業団駅伝公式ガイド(毎日新聞)の仕事がメインでして、その関係の写真取材でした。そのチームの選手は2組目と3組目に出場。26回のシャッターチャンスがあったので、そこそこ良い表情の写真が撮れました。
 その最中に男子走高跳ピットを見ると、野村智宏選手がウォーミングアップ中でした(動きづくり?)。以前から、「2m10を跳べなくなったら引退かな」という話を聞いていましたが、はっきりやめると聞いたわけではありません。できれば、ずっと見ていたい選手ですから「来季もやるよね」と声をかけるとノーコメントです。もしかしたら、と感じました。

 忘れていました。野村選手といえば日大で、十種競技・池田大介選手の先輩。同選手のブログを紹介してくれたのも野村選手でした。その池田選手のブログに和製タイガーとして紹介されていたのが、WIND UP ACの赤堀弘晃さん。かつては100 m、400 mH、走幅跳、混成競技選手として名を馳せました。あの朝原宣治さんと同学年で、兵庫県インターハイでは朝原さんに走幅跳で勝っている選手。
 和製タイガーのタイガーは、阪神タイガースのタイガーではなく、ゴルフのタイガー・ウッズのタイガー。若い読者は赤堀さんの顔を知らないのでピンと来なかったと思いますので、ここに写真を載せて紹介させていただきます。

 野村選手に話を戻しますが、今日は2m05を跳べずに2m00止まり。寺田は見ていなかったのですが、走高跳の競技終了後に胴上げをされたと表彰控え所で聞きました。
 そこに野村選手も登場。特に涙は見られませんでしたが、アトランタ五輪から13年。色々な思いをもって競技を続けてきたことは間違いありません。
「コメントはブログに書いてね」で
 つづく、予定
すまそうとしましたが、記者にも人情というものがあります。話を聞かずにはいられませんでした。2m10を跳べなくなったことも一因ですが、引退を決意したのは次のような理由でした。
「走高跳には技術的なものもありますが、僕の場合は走れなければ跳べなかった。それが最近、走る練習ができなくなってきました。時間的なものもありますが、体的にもきつくなってきた。自信を持った練習ができなくなったことが大きな理由です。生徒の指導をすることと自分の競技と、両方中途半端な状態になってしまったので、どちらか1つにしないといけないと感じました」
 なんとか、コメントを全部紹介した記事を、年次別ベスト記録なども一緒に書きたいのですが、国体が始まったら作業をしている時間がありません。実業団の試合に行くと、書きたいネタが本当にたくさん出てきます。

 時間的には野村選手の話を聞くよりも前でしたが、女子200 m予選に櫻井里佳選手(スズキ)が走っていたので、個人種目出場は入社後初かな? と思って話を聞きに行きました。2005年の日本選手権女子400 mH優勝者ですが、2008年3月に右足底の手術をして、同年4月のスズキ入社後はマネジャーとして活動していました。リレーでは実業団の試合で走っているのを見たことがあったのですが、前述のように個人種目で見るのは初めてです。
 聞けば、今年の中部実業団対抗でも200 mを走っているとのこと。しかし、今後は母校の福岡大で練習をするために、九州に戻る予定だといいます。
「今年の静岡国際のときに、久保倉(里美)さんからもう一度一緒にやろうと言われて、感動して泣いてしまいました」
 手術後はまだ1回もハードルを跳べていない状態ですし、今日の200 mの記録は26秒55(−0.3)という現状です。しかし、最初からハードル間を15歩で行けたというバネや、逆脚踏み切りもスムーズにこなす巧緻性など、400 mH選手としての魅力の大きい選手。簡単な道のりではないと思いますが、復活してほしいハードラーです。

 次に話を聞いたのは櫻井選手とは同期入社の海老原有希選手(スズキ)でした。優勝記録は55m93でしたが、6回の試技中4回が55m台。最低記録は54m24でその差は1m69で、ものすごく安定していたシリーズでした。しかし、海老原選手によれば1回1回感覚を変えて投げたそうで、どうしてここまで記録の幅が小さかったのかは、わからないと言います。
 その次に話を聞いた近藤高代選手は、4m40の日本新にバーを上げましたが残念ながら失敗。「世界選手権から帰国後に跳躍練習をしたのは1回だけ。まさか4m20を1回で跳べるとは思いませんでしたが、感触的には4m40も不可能じゃないと思いました。3本目が惜しかったですね」と振り返ってくれました。
 近藤選手と話している最中に、野村選手の引退の話題に。2人は同学年です。ということで、通りかかった野村選手とのツーショット写真を撮らせてもらいました。21歳の年にアトランタ五輪に出場しその後も現役を続けてきた野村選手と、29歳の年にアテネ五輪に出場した近藤選手。競技人生は本当にいろいろです。
 近藤選手の方は来季も現役を続けるようです。今日に限らず「4m40は跳べる高さ」と話していますから、引退する理由はないでしょう。
 ちなみに、2人の学年は跳躍トップ選手の宝庫。女子走高跳日本記録保持者の今井美希選手、男子棒高跳で日本選手権を何度か制した安田覚選手、走幅跳五輪代表コンビの渡辺大輔選手と田川茂選手、三段跳17mジャンパーの杉林孝法選手たちだそうです。
つづく、はず

 今日は世界選手権入賞選手の実業団連合による表彰があって、表彰後にはカコミ取材の場も設定してくれていました。ありがたいことです。誰の話を聞きに行くか迷いましたが、尾崎選手は9月に入って一度話を聞いていますし、村上幸史選手・中村友梨香選手・塚原直貴選手・高平慎士選手・藤光謙司選手は今大会に出場しているので競技後にチャンスがありそうです。ということで、佐藤敦之選手の話を聞きました。会津料理屋が東京にあるのかも聞きたかったので。
 一番取材したかったのは、今後のトレーニング強度について。あちこちで報道されていることですが、今回のベルリン世界選手権に向けては少し抑えめのトレーニングで臨みました。本番では先頭集団の15km以降のペースアップにつかず、後半に追い上げて入賞しました。しかし、メダルを狙うとなるとトップ集団に着いていかないと厳しいわけです(絶対にそうとは言い切れませんが)。佐藤選手自身、今後は体調を回復させながら、追い込んだ練習を行う方法を模索していくとベルリンで話していました。その辺をもう少し突っ込ませてもらいました。
「それを、どこでやるかです。北京五輪前の練習でわかったのは、疲労がたまっているときにやってしまうと、さらにたまってしまうことです。この時期はハードにやってもいいというタイミングを、見極めてやっていく必要があります。冬のマラソンでいうなら、2時間8〜9分でしのぐレースと、2時間6〜7分で勝負をするレースとを、分けてやってもいい。マラソンは、次に向かうことを考えたとき、走り終わった後のダメージが重要です。福岡で2時間7分台を出したあとは内臓がボロボロでした」
 これは、最近の日本選手が抱えている問題への、1つの答えだと思いました。ダメージが大きくても回復に時間をかけられればいいのですが、そうも言っていられない立場の選手も多いと思うので。会津料理屋のことは聞くのを忘れてしまいました。

 男子200 mは高平慎士選手が優勝。コーナー出口のスピードが大事とベルリンでは話していましたが、今日は、そこで藤光謙司選手に差を詰められました。隣で見ていた朝原宣治さんは、「抑えてるんじゃないか」と話していました。しかし、直線の中盤から後半で引き離して快勝。向かい風1.6mで20秒63でした。
 高平選手は4×100 mRがあるので、レース直後には藤光選手に取材。スーパー陸上で久しぶりに走った400 mの疲れが残っているようです。
 女子200 mは渡辺真弓選手が23秒61で優勝。追い風1.9mで男子とはかなり変わりました。2位が23秒68の丹野麻美選手でナチュリルがワンツー。女子の4×100 mRは明日なので、2人とも話を聞くことができました。
 男子400 mHは成迫健児選手が49秒11で優勝。記録はまだまだですが、世界選手権後の取り組みにまずまずの手応えを感じているようです。

 続く女子800 mで快記録が出ました。久保瑠里子選手が最後の直線で陣内綾子選手を抜き去り、速報タイマーを2分02秒99で止めてフィニッシュ。正式タイムが2分3秒台になる可能性はありましたが、2分02秒99のままでした。これは杉森美保選手の2分00秒45、西村美樹選手の2分02秒10に続く日本歴代3位です。
 トラックを見える場所に出たのがスタート直前だったので、200 m通過が測れませんでした。しかし、それであきらめずに400 mと600 mを計測したのが報われました。
 2分03秒00とはわずか0.01秒差ですが、2分2秒台はイメージが違います。久保選手のレース後のコメントはこちらに記事にしました。

 続いて話を聞いたのが桝見咲智子選手。6m40(−0.1)で圧勝でした(跳躍は2回くらいしか見ていませんが)。今年はシーズン序盤と世界選手権を除き、悪くても6m40を越えています。その理由を「去年までは腰痛で跳躍練習ができませんでしたが、腰痛のない今年は、試合の2週間くらい前に最低でも10〜15本、跳び込むことができているからだと思います」と説明する。ベルリンの失敗の原因も「今までとまったく違う自分が出てしまった」と分析。ベルリンでミックスゾーンに行けなかったので、ここで話を聞くことができて助かりました。
 次は4×100 mRが終わった高平選手に取材。前半は「予定通り、ダラーンと行っていた」と言います。“ダラーン”というのはかなりデフォルメした表現だと思いますが、朝原さんが言ったように抑えめだったのでしょう。
「それでも先行している感じで、最後残っていたら行こうと思いました。(直線に入って)100 m走ったと思えず、これなら行けると思いました。向かい風(1.6m)で20秒6台が出ているとは思いませんでした。変な話、20秒63なら、ベルリンで準決勝に残っていたわけですからね」
 世界選手権と全日本実業団を比較して話してもらったら、かなり面白い話が聞けそうだな、と感じました。
 2日目ネタ、まだつづく?

 男子4×100 mRに続いて男女1万mWが始まりました。川崎真裕美選手が日本新を出したいと話していたのでよく見ておきたかったのですが、表彰控え所には円盤投10連勝(記録は56m55)の畑山茂雄選手がやって来ました。同選手のブログが先日、久しぶりに更新されて「大切な人がいなくなって」という記述があり、ちょっと気になっていました。聞けば、お父上を亡くされて、今季前半は青森と東京を往復する生活だったようです。
「昨年6月に県の新聞社の表彰に代わりに出てくれたのですが、普段は記録のことなど言わない人でしたが、日本記録を達成してほしいと、そのときのビデオを見たら話しているんです。(今季は)気持ちばかり先行していましたが、ようやくしっくりしてきました」
 何度も書いていますが、パフォーマンスの上位記録のアベレージではすでに日本一になっている畑山選手です。

 1万mWは7000m過ぎから見ました。女子は川崎選手が公約通りに日本新を達成。しかし、レース後の話を聞いていると、“自己記録を更新した”という意識の方が強いようです。男子は20kmWの森岡紘一朗選手を抑えて、50kmWの山崎勇喜選手が優勝。“森”よりも“山”の方が上だったということです(すみません。特に意味はありません)。
 レース後は川崎選手と山崎選手の話を聞かせてもらいました。ベルリンで失格になった2人です。“川”と“山”です(すみません。特に意味はありません)。この2人のコメントはできれば紹介したいのですが、国体が始まってしまったら厳しいですね。

 大会2日目の締めは男女の5000m。これは同時進行ではありません。
 女子はフィレス選手が初日の1万mに続いて2冠を達成。日本人トップは3位の清水裕子選手で、ベルリン世界選手権代表の中村友梨香選手と福士加代子選手を抑えました。ただのスピードランナーではなかった、ということです。
 積水化学は1500mでも田中真知選手が4位と、やっと復活してきました。積水化学はかつて、高橋尚子さんが在籍し、全日本実業団対抗女子駅伝でも優勝しているチーム。野口英盛監督代理に話を聞くと、その辺のご苦労もあるようですが、立て直しの兆しは見え始めています。
 駅伝ということでいえば、第一生命も強そうです。5000mでは勝又美咲選手が7位、垣見優佳選手が8位。尾崎好美選手に続く層も厚くなっています(とっくにそうなっている?)。今回は実業団駅伝公式ガイドの取材がメインということもあり、勝又選手の話を聞きに行きました。
 男子は久しぶりに松宮隆行選手が好走して日本人1位。松宮選手と、日本人2位の大西智也選手の話を聞きました。
 そして最後に、野口監督代理の話を聞いて、長い1日が終わりました。
 改めて感じたのですが、実業団の試合は本当にたくさんの取材ができます。種目が多いということもありますが、取材規制がないというのが最大の要因です。規制はなくても、取材する側がきちんと節度をもって取材をしていますから、まったく問題は起こりません。
 スーパー陸上の日記で、インフラが整っていて取材しやすかったと書きました。言ってみればハード面で取材がしやすい大会ですが、実業団はソフト面で取材がしやすい大会。日刊スポーツ・佐々木記者も大喜びでした。


◆2009年9月27日(日)
 全日本実業団3日目(最終日)の取材。
 でしたが、朝は岡山駅近くのホテルでトヨタ自動車・佐藤敏信監督に約1時間のインタビュー取材。かなり深い話をする必要があったので、時間をたくさんいただきました。これは、実業団駅伝公式ガイドのための取材です。
 3日目の競技の方は……と書きたいのですが、今日は競技的な話題よりも、大物選手の引退の話題が相次いだのが目立ちました。昨日の野村智宏選手に続いて、男子400 mのシドニー五輪代表で日本歴代2位記録保持者の山村貴彦選手が引退。予選を通過できなかったので、その場で(おもに?)日大関係者が集まって長年の労をねぎらいました。胴上げもされていました。
 男子100 mでは小島茂之選手が今季限りで引退。本当の最後は10月の所沢の試合とのこと。しかし、今日は関係者が横断幕を持って駆けつけていました。最初はこっちの絵柄で写真を撮らせてもらいましたが、こちらの方が絵になると思って、小島選手に挨拶をしてもらいました。お願いしなくても、していたでしょう。
 同じ100 mでは準決勝止まりでしたが、新井智之選手が引退。この大会が最後だそうです。クレーマージャパンとのタイアップ記事を書かせてもらったことがありました。
 そして、男子400 mでは佐藤光浩選手が今季限りで引退。本当のラストランは国体の4×100 mRですが、400 mと富士通のユニフォームでは今大会が最後ということで、4×400 mR終了後に富士通の選手たちが集まって胴上げをしていました。

 話を聞いたのは室伏由佳選手、山村選手、そして畑瀬聡選手の順。畑瀬選手はボブスレー挑戦断念の経緯を「走り込みができるのは魅力ですが、砲丸投の練習ができないので」と話していました。日大での仕事との兼ね合いもあって、難しいと判断したようです。
 続いて取材したのは女子三段跳の吉田文代選手。成田高の先輩で日本記録保持者である花岡麻帆選手が持つ大会記録とタイの13m36(+0.5)で圧勝しました。今回もクウタン持参で試合に臨んでいました。クウタンを知らない人はいないと思いますが、念のために説明するとクウタンは成田空港の見習いヒーローで、「陸上部のマネージャー」(吉田選手)でもあります。
 7月に成田空港に取材に行った際、佐々木記者と「クウタンを陸上界に広める会」を結成しました。吉田選手に会長、または理事長には就任してもらいたかったので、今日の表彰後に打診をしました。
寺田「会長か理事長になってほしいのですが、どちらがいいですか」
吉田選手「会長兼営業部長ですね」

 ということに決まりました。寺田と佐々木記者が、陸連にならって2人で副会長に就任しました。
※3日目ネタ、あと少し書きたいのですが…

 その間にもフィールドでは男子やり投が進行していました。
 やり投が始まる前にフィールドに出て(カメラマンゼッケンがありました)、スーパー陸上で話を聞けなかった荒井謙選手に接触。銅メダルのベスト・アシスト賞的な選手で、村上選手とともにやり投を盛り上げていってくれる存在だと思ったのですが、スーパー陸上では68m37に終わっていました。
 桃太郎スタジアムは岡山国体で、それまで日本選手間で連勝が続いていた村上選手を、荒井選手が破った大会です。表彰控え室で携帯電話のゼレズニー選手の画像(映像だったかも?)を見せてもらいました。思い出の競技場で再度の金星も期待された存在です。
 しかし、話を聞くと腰の具合が思わしくなく、今日も厳しいと言っていました。残念ですが仕方ありません。ロンドン五輪に2人で出る、という大目標に向かって再起をしてくれるはずです。
 村上選手は4回目の79m46で快勝。スーパー陸上から中3日という強行軍でも結果を残しました。以前は、大阪GPで投げたら中部実業団ではまったく投げられませんでしたから、本人が言うようにベルリンでつかんだ感覚は確固としたものなのでしょう。
 しかし、今日の4投目は「逆の発想でスピードを落としました」と言います。
「今までは、(体が動かない状態でも)さらに上げようと力んでいました。今日の4投目は8割くらいの力で、気持ちよく、大きく動くことを重視しました。そういう投げ方があるのは以前から頭ではわかっていましたが、体ではわかっていなかった。調子が悪いときに、今日の技術は頼りになるかもしれません。もう少しレベルが上がれば、(国際大会でも)この技術は使えそうです。ベルリンでも、予選から全力で投げていたのは、決勝に進んだ選手では僕くらいでしたから」
 スーパー陸上のプログラムに書いてあったように、“進化するメダリスト”です。

 次に話を聞いたのは110 mH優勝の首藤貴之選手。日本選手権で大橋祐二選手と内藤真人選手のミズノ・コンビを抑え、いきなり2位になって注目された選手。どういった経歴の選手かすら知りませんでした。今大会では内藤選手が中盤でリードしたときは、同選手の復活Vかと思いましたが、9台目か10台目で首藤選手が逆転しました。もしかしたら、10台目を越えてからかもしれません。
 中学から大学までの戦績と年次別ベスト記録、今季急成長の理由などを根ほり葉ほり聞かせてもらいました。久しぶりの“一から取材”でした。これで、いつ名鑑用に資料を出せ、と言われても大丈夫です。
 そして、締めは男女100 mの塚原直貴選手と渡辺真弓選手。塚原選手は各紙の記事になったように、海外でトレーニングを積みたい意思表示をしました。渡辺選手に取材したことは、こちらの記事に反映させました。
※3日目ネタ、400 m系があと少しあります

 佐藤光浩選手の富士通ラストランとなった最終種目の男子4×400 mR。優勝した富士通のメンバーは1走から宮沢洋平選手・高平慎士選手・堀籠佳宏選手・佐藤光浩選手のメンバーでした。佐藤選手に花を持たせるために、アンカーに起用したようです。
 ラップは寺田の手動計時で
47秒37
45秒50
48秒53
46秒49

 で3分07秒89のフィニッシュ。
 3走の堀籠選手が48秒も要したため日本ウェルネスに追い込まれ、同チームのアンカーは杉町マハウ選手ですから、今の佐藤選手では危ないのでは? と思わせました。佐藤選手が踏ん張ってそこまで危なくならずに逃げ切ったのですが、盛り上げる一因をつくったのが堀籠選手。本人も照れ隠しでそんなことを言っていましたが、堀籠選手はこの日の400 mの優勝者です。調子が悪いというよりも、スタミナが持たなかったのでしょう。
 しかし、本当の意味で盛り上げたのは2走の高平選手でしょう。高平選手の好走がなければ本当に危なかったわけですから。ただ、レース後はかなり疲労困憊の状態で、佐藤選手の胴上げには加われなかったみたいです。

 競技は4×400 mRで最後ですが、閉会式までの待ち時間で、久しぶりに山口有希選手の話を聞くことができました。400 mのジュニア日本記録保持者で、アテネ五輪4×400 mR4位のメンバー。佐藤光浩選手と山口選手の低迷と軌を一にして、日本の4×400 mRも下り坂に入った気がします。
 朝原宣治さんが「肉体マネジメント」(幻冬舎)のなかで、山口選手のことに言及していました。「感覚をなくしてしまっている」と。寺田も関係した書籍だったので、かなり気になっていた部分です。
 山口選手も今日、「原因はいっぱいありますが、感覚がなくなったことが大きい」と話していました。「どんなに筋力を鍛えても、耐乳酸能力を高めても、一番大事なところが抜けているんです」
 感覚がわからなくなったのは、ケガのせいだったと思われます。昨年も肉離れを3回やっていますが、2006年から腰痛に悩まされた、ことが大きかったようです。それで、山口選手の特徴である前傾姿勢が思うようにとれなくなり、「上体が立ってしまって、力が真ん中に来ないんです」と言います。
「昔のことにすがっているようではダメ。自分がどうなるかをしっかりと分析しないと。以前は勢いだけで、分析とかは高野先生に任せっきりでした。変に以前の感覚も残っていて、それでよけいにわからなくなってしまっています。今、色々と模索中ですが、しっかりと分析して自立した選手にならないと。環境を自分でプロデュースするのも1つの能力だと思いますし、練習計画をしっかりと立て、道筋を見つけてやっていきたい」

 最後の最後まで、今回の全日本実業団は良い話を聞くことができました。昨日の日記に書いたように、たくさんの選手・関係者の話が聞けるという点で、素晴らしい大会だと思います。
 それに加えて今年は、スタンドの観客数が多かったように感じています。地元紙などが積極的に前打ちをしたとも聞きました。天満屋勢の活躍や、玉野光南高のインターハイ男子総合優勝なども、その遠因としてあるのかもしれません。岡山のSP記者こと朝日新聞・小田記者も、陰ながら喜んでいることでしょう。


◆2009年10月2日(金)
 トキめき新潟国体1日目の取材。
 会場には早めに着いて(今回は陸マガなので集団行動)、主な動線を確認。サブトラックまでの距離が近く、メーカーのテントや売店街へも例年より近いように思いました。ただ、競技場自体は大きいですから、場合によっては大変になることも。
 けっこう早めに昼食を買いに行きましたが、すでに売り切れていました。明日からは、コンビニで買って来たほうがいいかもしれません。

 今日は生憎の雨。記録は厳しいかなと思いましたが、風がなかったことが幸いして、少年A男子1万mでは西池和人選手の高2最高記録を筆頭に、6位まで28分台という好記録ラッシュでした。おそらく、日本人高校生が同一レースで28分台で走ったのは、佐藤悠基選手と佐藤秀和選手の高校新のときだけだと思います。今季、高校生でほぼ無敗の油布郁人選手、昨年優勝の田村優宝選手、昨年の全国高校駅伝優勝の佐久長聖高・大迫傑選手と役者も揃っていて、見応えのあるレースでした。
 今回は陸マガに記事を書きます(国体では久しぶり)。レース後は西池選手のコメントはもちろん、28分台の選手はなるべく多く取材しようと思いました。さすがに全員は無理かな、と思いましたが、ミックスゾーンで油布選手と田村選手の話を聞き、インタビュールームでは西池選手の話をじっくり聞くことができました。大迫選手に2〜3分、設楽選手に最後に30秒ほどポイントを絞って話を聞けました。珍しくフットワークが良かったのと、次の少年A女子100 mまでちょっと時間があったので助かりました。
 ちなみに西池選手の28分39秒04は兵庫県高校新記録。神戸新聞・O原記者に携帯メールで報告しました。

 もう1つ印象的だったのは少年A男子100 mの飯塚翔太選手(静岡・藤枝明誠高)。予選から明らかに別格の走り。ひと言で言うと余裕度が違うのですが、長身と上体の使い方でなんとなくですが、ボルト選手をイメージさせました。決勝も雨のなか10秒38の好記録で、インターハイ優勝の九鬼巧選手を抑えました。ただ、九鬼選手も10秒44の好タイムで、この2人が3位以下に大差をつけていました。
 知り合いの、静岡のA記者が「静岡のボルトです」と話していたので、取材中にそのことを話すと、本人は初めて聞いたという反応。実はA記者の個人的な意見だったのですが、共同通信・M記者も同様の印象だったらしく、陸連・原田ジュニア育成部長に意見を聞いて、この記事を出稿していました。
 失敗したのは、その場で10秒38が静岡県高校記録に0.01秒差であることに気づかなかったこと。10秒37は神戸インターハイ優勝者の杉本龍勇選手と、馬塚貴弘選手の2人が出しています。2人ともその後、オリンピック代表にまで成長しました。

 今日、目立ったのは三重県勢の活躍。少年A男子走幅跳で林風汰選手、少年A女子100 mで世古和選手と、宇治山田商高コンビが優勝(この2人は幼なじみだそうです)。成年女子5000mでも杉原加代選手が、ラスト勝負で快勝しました。
 林選手は最終6回目で西海亮選手と同記録で並んで、セカンド記録の差で優勝を決めたのですが、記録を見た直後は一瞬、勝敗がわからなかったようですが、スタンドの小池弘文先生が喜んでいらっしゃるのを見て、優勝がわかったといいます。
 三重県の強化体制についても、記者間で話題になっていました。

 今日、最後の種目は成年男子走幅跳。さすがに、フィールド種目は雨足が強くて選手たちは苦戦していました。この種目だけ表彰後のインタビューだったので、優勝した菅井洋平選手と3位の品田直宏選手に、少し技術的な質問をすることができました。品田選手は助走を大きく変えたブログに書いていたので、その辺を突っ込ませていただきました。
 歩数なども詳しく聞かせてもらいましたが簡単にいうと、助走スピードの最高到達点を変更するというものです。これまでは助走終盤に最大スピードになるように走っていましたが、助走中盤で一気に上げます。
「8歩目(その前に補助助走4歩)までが加速区間で、その後の2歩で上体を起こし、残りの10歩を楽に走ります。最後でスピードを上げようとすると、僕の場合は力んでしまう。新しい助走は後半で余裕が持つことができます。短距離タイプの自分の特徴を生かした方法だと思います」
 結果的にその方が、速い踏み切り速度になるはずだというが、助走中に見えてくる視界もまったく違ってくるので、その確証はまだ得られていないと言います。今後のバイオメカニクスデータなどと、すり合わせていくことになるのでしょう。
「8mちょっとで世界に行くのでなく、8m30〜40を跳んでメダルを目指したい」
 というのが、今回の思い切った助走変更の狙いです。


◆2009年10月3日(土)
 トキめき新潟国体2日目の取材。
 最初の決勝種目である少年A男子ハンマー投で柏村亮太選手(鳥取・倉吉北高)が1投目に66m82とジュニア日本記録を更新。4回目に67m04とジュニア初の67m台。5回目も67m19と記録を伸ばすと、最終6回目には68m33(ジュニア初の68m台)。大会前のジュニア日本記録を2m10、高校記録は2m70も更新しました。
 取材をしていくなかでローポイントとハイポイントの位置や、ターンへの入りの技術的な話になりました。記者たちが突っ込んだから出てきたのかもしれませんが、高校生でここまで話せる選手は少ないような気がしました。かといって、よくしゃべるタイプの選手でもありません。
 憧れの選手は室伏広治選手。2年前の秋田国体(円盤投で出場)のときに握手をしてもらったことがあるといいます。その室伏選手が高校時代に14ポンド(約6.351kg)で作った高校記録・73m52には及びませんが、現行の6kgで14ポンドの高校歴代2位・67m57を初めて上回った選手になりました。

 少年A男子ハンマー投と同時進行していたのが少年B女子砲丸投。こちらでも好記録が誕生していました。松田昌己選手(埼玉・西武台高)が高校1年生初の14m台をプットしました。
 今大会は陸マガの全種目掲載する短い記事は男子種目の担当(企画ページなどは男女の区別なく書きます)。ハンマー投の取材が終わったときには、松田選手への取材もほぼ一通り終わった感じでした。ご両親のスポーツ歴を聞くくらいしかできませんでした。

 今日は周回種目で好記録が続出しました。
●少年B女子1500mでは木村友香選手(静岡)が4分23秒11の中学歴代4位
●成年女子400 mHでは地元新潟の久保倉里美選手が56秒34の今季日本最高
●少年A男子400 mHでは安部孝駿(岡山)が50秒11の高校歴代4位、今季世界ジュニアリスト6位
●成年男子400 mHでは1位の杉町マハウ選手(群馬)と3位の河北尚広選手(香川)が自己新。2位の成迫健児選手も48秒台
●少年A女子800 mでは優勝の真下まなみ選手(埼玉)が2分05秒22の高校歴代4位で上位3選手は自己新(6、7位の選手も自己新)
●少年共通男子800 mも上位3選手が自己新
●成年男子800 m予選2組で3選手が1分48秒台(3人とも自体学選手)
●成年女子800 m予選1組で3選手が2分6秒台、予選2組で2選手が2分5〜6秒台
 会場のビッグスワンは過去にも、長距離や周回種目で好記録が出ています。おそらく、長居や横浜国際競技場(日産スタジアム)などと同様に、風が回るトラックなのでしょう。
 同じような風が吹くとすれば、明日の成年男女800 m決勝でも記録が期待できそうです。特に、丹野麻美選手が参戦している女子は、かなり面白くなるのではないでしょうか。

 ところで、国体で活躍している選手の代表が400 mHの成迫健児選手。2004年の埼玉国体に48秒54を制してから昨年まで5連勝。05年の岡山国体では48秒09の自己2番目の記録を出していますし(国体の大会記録)、昨年は地元の大分国体で優勝しました。“国体王子”とも言われる活躍を続けていたのです。
 今季は世界選手権でこそ失敗しましたが、秋シーズンは立て直すことに成功し、スーパー陸上、全日本実業団と49秒台前半の記録。成迫選手自身も手応えを感じていて、全日本実業団のレース後には「(今年も)国体王子になっちゃうかもしれません」と話していました。国体王子になることがイヤということではなく、それよりも国際大会での印象が強くなる活躍をしたい、という願望です。
 ところが、今日は杉町マハウ選手に敗れて2位。成迫選手は自身が考えていた通りに48秒台(48秒84)を出したのですが、母国ブラジルでオリンピック開催が決まった杉町選手の勢いが勝った形です。残念な形で“国体王子”の称号を返上することになりました。
 ただ、もしかしたら肩の荷が降りた可能性もあります。今後数年間の成績を見て初めて、成迫選手の新潟国体の意味が決まってきます。


◆2009年10月4日(日)
 トキめき新潟国体3日目の取材。
 朝の“車中打ち合わせ”では元独身ライターの曽輪っちと、女子800 mで日本新が出た場合の打ち合わせ。全種目総括記事の分担では女子が曽輪ライターで男子が寺田。ですが、少し長め(といっても、それほど長くないのですが)の記事では、そこまで厳密に男女で分けているわけではありません。
 それでも、メインの担当は曽輪ライターのままで、寺田は日本記録保持者の佐藤美保選手に電話をかけてコメントをもらう担当に。雑誌といえども今月のスケジュールでは、国体後に追いかけ取材をしている余裕はありません。

 指導者への取材も曽輪ライターの担当ですが、困ったことに今年もサブトラックに報道陣は入ることができません。初日に中国新聞・中橋記者と一緒に陸連にお願いしましたが、受け容れられませんでした。すでに数社から同じお願いがあったといいます。
 昨年の大分国体のときの日記にも書きましたが、熱心な記者ほど痛手を受けます。総合大会である国体で陸上競技のネタがなければ、いくらでも他の競技にスペースが行ってしまうのです。携帯電話で連絡して出てきてもらえばいいと運営側は言いますが、指導者がサブトラックを離れられないこともあります。そもそも、呼び出すという行為自体が、取材に協力をお願いする我々にはできません。
 報道陣が入れなくなったのは2〜3年前からですが、そもそもは選手・指導者たち現場側からの要望だったといいます。アップ中の選手に密着取材をされることに、現場サイドからNGが出たのです。我々ペン記者は競技前の選手に接触したりしませんし、トラックの中に入ることもありません。ほとんどが競技後の取材です。
 レース前の選手を追いかけるのは映像メディアだと思いますが、オリンピックや世界選手権を見ていると、ウォーミングアップ場の特定地点からは撮影が許されています。ベルリン世界選手権のテレビ放映でも、ご覧になっていたと思います。ですから、方法はあると思うのです。
 陸連も熱心な記者を閉め出そうとしているわけではない、と寺田は信じています。が、現状では、熱心な記者たちの取材活動に支障が出ているのは事実です。現場サイドに迷惑もかけず、運営側も不安にならず、熱心な記者も取材ができる方法があるように思うので、あきらめずに提案していきたいと思っています。
 さしあたって女子800 mで日本新が出た場合ですが、そのときは運営側に呼び出してもらうしかないだろう、という結論に。日本新、それも日本人初の1分台ともなれば、専門誌だけでなく、どの社も指導者のコメントが間違いなく必要になります。

 サブトラックといえばもう1つ、行かないといけない取材がありました。昨日の少年B100 mで、予選通過時には好調に見えた梨本真輝選手が、準決勝を欠場した理由を調べないといけません。梨本選手は昨年中学記録を出して全日中もジュニアオリンピックも制したばかりですし、今夏のインターハイでも1年生で唯一、決勝に進んだ選手ですから。
 幸い、スタンドでお会いした順大・佐久間コーチから、千葉県の短距離担当の先生の携帯番号を教えてもらうことができ(順大出身の先生でした)、サブトラックに行かなくても情報をゲットすることができました。
※国体3日目ネタ、続けたいです

 肝心の競技ですが(運営よりも競技の方に関心があります)、まずは少年A女子ハンマー投が終わって、担当ではありませんでしが、大会新記録で優勝した深部瑞穂選手(香川・観音寺中央高)の話を後ろの方で聞いていました。中学時代は砲丸投選手で「全然ダメ」で、高校からハンマー投に取り組んだそうです。「香川に元日本記録保持者の綾(真澄)さんがいらして、自分も綾さんのようになりたいと思ったのがきっかけ。自分からハンマーをやりたいと言い出しました」
 綾選手は地元の高校生と一緒に練習をする機会も多いのでしょう。地元で練習をすると、こういう効果も絶対にあります。この手の話を聞けるのも国体のいいところ。
 今回、四国勢の活躍が少なかった大会ですが、今日の成年男子棒高跳で2位になった荻田大樹選手(香川・関学大)もいますし、四国の伝統種目で活躍した選手が現れたことはよかったと思います。

 時間的には女子ハンマー投よりも前だったかもしれませんが、少年B男子110 mJHの準決勝で、白田耕平選手(東京・東京高)が5mくらいの大差をつけてフィニッシュ。少年Bとはいえ、全国大会の準決勝でこの差は衝撃的でした。タイムは14秒16の高1最高タイ。しかも向かい風0.5mです。
 あせってミックスドゾーンに降りていきましたが、寺田の他には誰も記者の姿がありません。白田選手も喜んでいる様子はなく、それよりも早く引き揚げようという雰囲気があります。取材のルール的には声を掛けてもいいのですが、この辺は選手のコンディションの方が重要です。取材はしないことにしました。

 成年女子200 mは福島千里選手が23秒40(+0.4)の大会新で快勝。地元の渡辺真弓選手がもう少し善戦するかと思ったのですが(この辺は川本先生が日記で触れるのではないかと)、0.57秒差の2位。でも、順位的には順当なところです。ミックスドゾーンで福島選手の話を聞き、インタビュールームでは渡辺選手のところに。
 たぶん地元紙の記者(女性)の方だと思うのですが、渡辺選手に限らずかなり技術的なことを質問してくれて、こちらとしては助かりました。これは正直、かなり珍しいケースです。テレビがどうしても「応援は聞こえていましたか?」とか「県民にメッセージを」という類の取材が多くなるので、活字メディアとしては、違う部分を出さないといけない、と考えたのかもしれません。あるいは、その記者の方の取材方針なのかもしれません。ちょっと新鮮でした。

 成年男子200 mは藤光謙司選手が20秒61(−0.5)の大会新で圧勝。20秒76の大会記録は3人の選手が持っていて、そのうちの1人が高野進強化委員長。1986年の甲府国体で出した記録で、もしかしたら最古の大会記録かと思って朝日新聞・増田記者と手分けをして調べたら、もっと古い大会記録が出てきました。女子走高跳の福光久代選手の1m91(1982年)とか。
 レース後は藤光選手にじっくり話を聞いた後、3位の斉藤仁志選手(栃木・筑波大)に少し話を聞くことができました。接地の技術が狂ってきていると日本インカレのときに話を聞いたので、その辺で何か試しているか知りたかったのです。「動きは最低ですね。何かやってもよかったのですが、栃木で出るのは最後になるかもしれませんし、自分のことばかり考えて準決勝で落ちたら顔向けできません」と、新しいことはしなかったようです。
 ところで、成年男子200 mの入賞者の顔ぶれを見ていて、あることにハタと気づきました。藤光選手以外は全員が学生選手。これって、かなり珍しいことではないでしょうか。それと関連してもう1つ。2位に安孫子充裕選手(山形)、3位に斉藤選手、5位に石塚祐輔選手(茨城)と筑波大3選手が揃って入賞しましたが、五輪&世界選手権代表経験のあるこのトリオが、筑波大選手同士として一緒のレースを走るのはこれが最後ではないかと。少なくとも、全国大会はもうありません。
 斉藤選手と石塚選手が4年生で、安孫子選手が3年生で送り出す立場。ラストレースで勝った安孫子選手に、ちょちょっと感想を聞きました。
「花束を渡して終わるつもりはありませんでしたから。ぶっつぶしてやるつもりで走りました」と、安孫子選手らしい答え。日本インカレのときに斉藤選手のキャラについて書きましたが、あとの2人も負けず劣らず個性が強そうです(石塚選手もかなりの情熱家と聞いています)。
※国体3日目ネタ、もうちょっと続けたいです

 成年男子1万mWは記録こそ今ひとつでしたが、面白いレースでした。日本記録保持者の藤澤勇選手(長野・山梨学大)が7700mからリードを広げていきましたが、森岡紘一朗選手(長崎・富士通)が最大で10秒くらい開いた差を、残り1000mくらいから詰め始めました。それでも、残り1周地点では約5秒差がありましたが、フィニッシュ前50mで抜き去ったのです。
 藤澤選手は「ラスト1000mが4分9秒かかってしまいました。一番落ちました」と言います。8000m前後で2つめの警告をとられ、最後は“7点になるか0点になるか”、という状況に追い込まれたなかで歩いていたようです。
 一方の森岡選手はラスト1周が1分30秒。このタイムは過去最速とタイ記録だそうです。藤澤選手に警告2がついたのはラスト3周で気づき、そこから差も縮まってきたといいます。その点、森岡選手は警告0。
「ラスト1周は思い切り突っ込みました」と言うので、1つくらい警告をとられてもいいつもりで行ったのか? と質問。「フォームありきを崩さないのが僕のスタイル。警告がつかないところで勝負しました」と、こちらの意地悪な質問にも端正な顔立ちを崩さずに言います。
 レース後に日清ファルマのウィグライプロを飲む習慣も崩しません。インタビュー後には、この写真のようにしっかりと摂っていました(決してやらせではありません)。

 その後に話を聞いたのは、少年B男子円盤投優勝の安保建吾選手(秋田・花輪高)。少年選手に、「憧れの選手は誰か?」と質問するのは国体取材の基本です。
秋本啓太さんです。小学校、中学校、高校と同じなんです」
 と嬉しそうに話します。秋本選手といえば二枚目スローワーとしても有名ですが、安保選手も先輩に負けていません。
 次も少年Bで110 mJHの準決勝で高1最高タイを出した白田選手の取材でした。これは陸マガに記事を書くので(といっても少ない行数ですが)、ここで詳しくは書きません。面白い話がいくつもあったので、どこを中心に紹介するか、ちょっと迷うところです。白田選手の話を聞いていて、昨年のジュニアオリンピックで話を聞いていたことを思い出しました。寺田は特にどこかの仕事というわけではなかったので、専門誌2誌の記者の後ろで話を聞いていただけでしたが。
 そのジュニアオリンピックのことを、最近の選手は「ジェイオー」と略しているようです。誰だったか忘れましたが、白田選手のほかにも、そう言っている選手がいました。“ジュニオリ”ではなく“ジェイオー”。いいかもしれません。

 続いて日本記録も想定していた成年女子800 m。ある意味、今大会で一番豪華なメンバーの種目です。日本選手権と同じ顔触れの成年種目もいくつかありましたが、女子800 mはそこに丹野麻美選手(福島・ナチュリル)が加わったのです。
 オープンコースになる100 mでは丹野選手が一瞬前に出ましたが、バックストレートでは陣内綾子選手(佐賀・九電工)がいつものように先頭に出て引っ張ります。250m付近ではラストランの佐々木麗奈選手(富山・龍谷富山高教)が並びかけますが、間もなく後退。代わって、1週間前の全日本実業団で2分02秒99(日本歴代3位)を出したばかりの久保瑠里子選手(広島・デオデオ)が陣内選手の背後につき、丹野選手がその後ろという位置取り。この3人がリードしていたと思います。
 600 mを過ぎて久保選手が仕掛けて前に出ようとするところで、さらに外側から丹野選手が前に出て行きました。
 通過タイムとラップは以下の通り。
200 m:  28秒85
400 m:1分00秒44(31秒59)
500 m:1分16秒16       (15秒72)
600 m:1分31秒44(31秒00)(15秒28)
800 m:2分02秒64(31秒20)

※先頭の選手で計測。寺田の手動計時です
 最後の直線では久保選手が詰めたようにも見えましたが、この辺は正確ではありません。久保選手に話を聞ければよかったのですが、ミックスドゾーンでは2分06秒51で5位の佐々木選手の話をまず聞きました。どうしても、引退する選手の方に行ってしまう性分のようです。

 1周目で陣内選手に並びかけたシーンは「予選の流れから、ベスト(2分05秒00)くらいは行ける」と思っていたからのようです。「2番手について勝負をしろ」と言われてもいたようですが、そこでちょっと頑張りすぎたのかもしれません。
 いずれにしろ、ラストランで2分6秒台というのはすごいというか、信じられないような頑張りです。そこを質問すると、次のような答えが返ってきました。
「中学、高校、大学と厳しさの中に楽しさを見つけてきましたから」
 それを、最後の最後まで貫き通したわけです。今日は1周目をもう少し自重すれば、自己新が出せたかもしれません。これまでも何度か自己新のチャンスがあっても、今回と同じように逃し続けてきました。2分5秒台、6秒台は何十回と出しているのに、自己記録は2000年の2分05秒00。それも彼女らしいような気がします。
「今日は、厳しいレースをした感じと、やりきった感があります」
 1対1で取材をさせてもらったことはありませんが、練習環境と年次別ベスト記録と国体での走りで、その頑張りぶりは伝わってきます。少し年上の吉田真希子選手からは“国体女”と呼ばれていたそうです(吉田選手の国体で取った点数もすごいのですが)。そういう選手がいる県は、雰囲気も締まると思います。
 インタビュールームでの取材は丹野選手に話を聞きました。本格的に800 mに進出したレースですし、久保選手は全日本実業団のときに話を聞いているので。
 でも、この種目は人材が多くなってきましたね。丹野選手と久保選手が2分2秒台で岸川朱里選手が2分3秒台。陣内選手にも期待できます。杉森美保選手は孤軍奮闘して2分の壁に挑みましたが、今は、複数選手で2分の壁に挑んでいける。このチャンスは逃したらいけないかな、という気がします。
※3日目ネタ、まだ続くかも

 成年男子800 mは口野武史選手(大阪・富士通)が優勝。昨日の予選2組で、下記のように自体学の3選手が1分48秒台を記録しました。
1 宮崎 輝 埼玉 自衛隊 1分48秒66
2 松本 啓典 福井 自衛隊 1分48秒73
3 鈴木 尚人 神奈川 自衛隊 1分48秒86

 女子800 m予選や男女の400 mH決勝でも好記録が多く出ていたので、追い風の部分が多かったのだろうと思って口野選手に話をすると、宮崎選手が最近、予選から速いペースで引っ張るレースをしているのだそうです。先週の全日本実業団でも同選手が予選から飛ばし、それに先着した口野選手が予選にもかかわらず、1分48秒73の大会新を出しました。
 “好記録=条件が良かったから”、と決めつけてはいけないということです。

 成年男子棒高跳は2位の荻田大樹選手(香川・関学大)が、久しぶりに鈴木崇文選手(静岡・東海大)に勝ったので話を聞きたかったのですが、担当種目ですから優勝した澤野大地選手(千葉・千葉陸協)を優先。これが大正解で、ベルリン世界選手権後に取り組んでいる技術的な部分を聞くことができました。
「今日は“下”が上手くいきませんでしたが、“上”はできてきています。(上でやろうとしているのは)上に真っ直ぐに上がること。視界がこれまでと違います」
 今日は、斜め上に上昇していく途中でバーを落とすのでなく、体は完全にバーよりも高く上がってから、落ちてくるときに落とす跳躍がありました。それが、良い傾向なのだそうです。特に5m70の3回目などはそれが表れていて、“下”で助走最後の2歩がうまくできていれば、跳躍に勢いがついてクリアできたと言います。
 しかし、以前の取材で助走がしっかりできて初めて、クリアランスの課題が意識できると聞いていました。
「それもありますが、“下”がちょっとした失敗だったら“上”も意識できます。5m70の1・2本目は助走の中間から力んでしまってダメでしたが、3本目に力んだのはラスト2歩だけ。そのくらいなら“上”の動きもやることができます」
 具体的な動きまで聞く時間がありませんでしたので、その部分は次回の取材に持ち越しですが、表彰に移動する間際に「国体で取った累計得点は何点?」と、雑談のつもりで声を掛けました。トップ選手のなかでは間違いなく、国体への出場回数が多い選手ですから。
 気軽に「何点くらいです」と答えてくれるかと予想していたら、足を止め、指を折りながら丁寧に数え始めてくれました。周りの競技役員の手前、「千葉の天皇杯ページで書くときは、こっちで数えるから」と言って表彰に行ってもらいました。千葉県選手の国体に対する思いの強さ、トップ選手が積極的に国体に出場する理由が何かあるのかな、と感じました。


◆2009年10月5日(月)
 トキめき新潟国体4日目の取材。
 朝は競技開始の1時間半くらい前に競技場に到着。その段階ではまさか、あそこまで忙しくなるとは予想できなかったので、原稿を少し書いた後、メーカーブース方面に足を向けました。
 ニシ・スポーツのブースには米倉照恭コーチがいらしたので、昨日、澤野大地選手が話していた“上”と“下”の技術が両立できるのか、という点を中心に、ベルリン後に取り組んでいることを話してもらいました。
 米倉コーチの話を聞いた後はスタジアムのスタンドに4コーナーから入って、記者席のある1コーナーまで直線コースを行かず、逆方向に4分の3周歩きました。すでに少年A女子やり投のトライアルなどが始まっていますが、スタンドで何人かの指導者の方と話をすることができました(状況が許される場合に限って声を掛けさせていただきました)。
 静岡県チームの筒井先生と杉井先生と少し立ち話をした後、第2コーナー付近で埼玉栄高の清田浩伸監督から、高橋萌木子選手のスーパー陸上での故障について詳しく話を聞かせてもらうことができました。
 高橋選手は個人種目の成年女子200 mは欠場しましたが、昨日の4×100 mR予選には出場。そのときに高橋選手本人にも少し話を聞きましたが、リレーの加速からのスタートなら大丈夫のようです。“欠場できない大会”を欠場したのは、今回が初めて(高校2年のインターハイ前に故障があったかもしれません)。そのくらい、大きな故障が少ない選手でした。

 1〜2コーナーの中間付近が、女子やり投のピットの後ろになります。
 ラッキーなことにそこで、日大・小山裕三監督にお会いしました。隣には今治明徳高の浜元一馬先生と村上幸史選手もいます。
 これはチャンス。2日目の少年A男子ハンマー投で高校新を投げた柏村亮太選手(鳥取・倉吉北高)の技術を解説してもらえる、と思いました。柏村選手が競技後の取材中に、ターン中のハイポイントとローポイントの位置を上手く修正できた、という話をしてくれました。それを6回の試技の中でやったと、そのときは受け取りましたが、後で取材ノートを読み直すと、以前の大会や練習中と比べて修正できた、と言っているようにも受け取れます(サブトラックに入れればそういった点も、選手本人か指導者に確認できるのですが)。
 柏村選手は日大に進学希望と聞いたので、小山先生にお聞きしていいかな、と思ったのです。そのお願いをすると小山先生は、柏村選手の指導者である田村弘典コーチ(北栄スポーツクラブ)に電話を入れてくれて、その場で電話取材をさせていただくことができました。ハイポイントとローポイントの位置の修正については、陸マガ11月号に書く予定です。
 サブトラックの47都道府県テント巡りほどではありませんが、スタンドの周回でも収穫はありますね。

 選手への最初の取材は女子1万mW。他の種目の間に行われるとラップも測れなくなってしまいますが、今日はトラック最初の決勝種目だったので、ラップも全周回計測することができましたし、1000m毎のペース変化も頭にインプットできました。川崎真裕美選手(茨城・富士通)に話を聞いているときも、そういった点が役立ったかな、と思います。
 先週の全日本実業団に続いての日本新。歩型も、この2レースならベルリンでも大丈夫だったと川崎選手は言います。ということはなおさら、世界選手権での競技人生初の失格が悔やまれるのかもしれません。
「6000mで日本新ペースと言われましたが、ガムシャラでなく、フォームを維持できる動きのなかで、自分の感覚よりも良い数字で行けました。夏場にかなり練習ができて、その成果が出ているのだと思います。体力的には競技人生で一番良い状態なんです。世界選手権は調子が良すぎて舞い上がってしまいました」
 陸マガにも記事を書きます。そちらは、国体らしく地元系の話が中心になるかもしれませんが。
※国体4日目ネタ、続くと思います

 そうこうしているうちに、少年共通男子走高跳の戸邊直人選手(千葉・専大松戸高)がバーを2m16に上げていました。これを1回目に、バーを揺らしながらもクリア。
 続く高さは2m20。これに成功すれば高校生では、21世紀に入って初の大台ということになりますが、これも1回目でクリア。今度もバーは揺れていました。
 バーは2m23の高校新に。1回目はそれほど惜しくありませんでしたが、2回目は腰まで抜けた惜しい跳躍。そして3回目。戸邊選手の体が綺麗にバーの上を抜けたように見えましたが(フィニッシュ地点から双眼鏡で見ていました)、今度もバーは揺れていました。
 高校新を見たのはいつ以来でしょうか。ずいぶん久しぶりだと思います。と思って記録集計号を見ると、2006年以来でした。8月のインターハイで中村宝子選手の200 m、9月の南部記念で高橋萌木子選手の100 mH、同月のスーパー陸上での小林祐梨子選手の1500mと、当たり年でしたね。男子はもっと見ていない気がします、今大会の柏村選手以外では。2005年の金丸祐三選手の400 m以来かな、と思ったら、2年前の国体でやはりハンマー投の弓田倫也選手の高校新を見ました。
 規格変更があると、新記録の印象が薄くなります。ただ、弓田選手の重心の低いターンはよく覚えています。取材もしました。
 戸邊選手のインタビュー取材が終わるとちょうど、少年A男子400 mのレース。山崎謙吾選手(埼玉・埼玉栄高)がインターハイに続いて46秒台で優勝。その取材をレース後すぐにミックスドゾーンで済ませると、専大松戸高の鵜澤監督の話を聞きに行きました。その時間帯が少年B男子3000mの予選なので、トラックを離れて取材に行くことができます。これはラッキーでした。
 サブトラックに来てくれ、と言われたやばかったのですが、鵜澤先生は千葉県選手団ではなく、ミズノのブースにいらっしゃるということで、ミズノのご協力をいただき、そこで20分くらい話を聞かせてもらうことができました。この辺は本当に幸運が重なりました。
 技術的には助走最後の「ふくらまして内傾する部分」が特徴ということです。今日、試技中に声をかけられたのもその部分。「上体が突っ込んでいるから、上体を起こして腰を沈めて最後の1歩を速く出せ」とアドバイスをされたそうです。
 この3年間で体力を重視してつけてきたこと、2m15から跳び始めなければいけなかったスーパー陸上がプラスになったこと、バーを揺らしてクリアするのも戸邊選手の特徴が出ていること、などを話していただきました。
 戸邊選手の記事も陸マガ11月号に。

 トラックに戻ってくるとすぐに成年男子110 mH。実は間に合わなくて、バックスタンド側から見ることになりました。リプレイを見られたのですが、レース展開が完璧に把握できませんでした。アウトレーンの西澤真徳(鳥取・福岡大)が優勝(13秒82 ±0)したのはリプレイでわかりましたが、レースのどのあたりからリードを奪ったのか把握しきれませんでした。バックスタンドから直線種目を見るのがいかに難しいか、再認識しましたね。
 取材はミックスドゾーンで内藤真人選手に。先週の全日本実業団に続いて予選はプラスの通過でしたが、決勝は4位と調子を上げています。故障期間が長かったので、1本目が難しいのでしょう。今年から日大の大学院に通っていますが、そこに話を向けると「これまでは野性的なカンが特長でした。その部分は残しながら、考えられる選手になりたいですね。専門的な知識を増やしてロンドンに向けてやっていきたい」と話してくれました。
 インタビュールームでは西澤選手の話を聞かせてもらいました。序盤からトップに立てるタイプではなく、今日も「5〜6台目で出られた」と話してくれたので、レース展開を書くこともできます。今年の日本選手権後に動きに工夫をしたことが、日本インカレ2位など安定した成績につながっていると言います。
「踏み切りの角度をブレーキがかからないように意識しました。力を入れるポイントを変えたんです。ハードルの前に抜けるイメージを持つようにしました」
 日本インカレに続く自己新です。
 その日本インカレ優勝者のモーゼス夢選手(大阪・国武大)は14秒21で最下位の8位。「スタートに着くときに腰が痙攣した」のが原因。今日のことよりも、スーパー陸上で向かい風のなか、自己記録に0.01秒と迫るハードリングを披露してくれました。そちらを振り返ってもらうと「父親が黒人ですから、外国人選手に囲まれても緊張しないで普通に走れました」と振り返ってくれました。確かに、それができると強みになります。

 おそらく、110 mHの取材をしている最中だったと思います。成年男子砲丸投で山田壮太郎選手(兵庫・法大)が18m64の日本新を投げたのは。正直に言うと、その試技は見逃しました。申し訳ありません。5回目までの記録は17m60台でしたから、予兆なく出た記録です。言い訳ですけど。
 で、そういうときはどうするか。同じ種目の選手や撮影していたカメラマンから、どんな状況だったのか、喜び方とか、表情とかを聞くわけです。自身の不覚にズシーンと落ち込みますが、なんとかします。
 とりあえずは、山田選手の取材で粘りました。織田記念や学生個人選手権などで取材はしてありますし、過去の記事はしっかりとコピーして持参しています。
 山田選手も陸マガに記事を書きます。競技の報道記事ではなく、巻頭のPEOPLEという短い人物もののコーナーです。M選手から聞いた話を導入部分に使わせてもらいました。
 その次に話を聞いたのが少年B女子100 mH2位の野瀬まどか選手(千葉・市船橋高)。千葉県は来年の国体開催県。今年の天皇杯最有力チームでもあるのですが、来年に向けての話を聞くには、少年Bで好成績を挙げた選手も最適かな、と思っての取材でした。
 聞けば、今大会の少年A100 mHに出た佐々木里菜(千葉黎明高)もまだ2年生とのこと。中学3年生にもハードルの有望選手がいて、千葉の女子ハードル強くしようと励まし合っているそうです。
※国体4日目ネタ、もう少しあります

 砲丸投の日本新を見逃したのは痛恨事ですが、トラックだけはなんとか見逃さないように頑張りました。成年男子3000mSCも最初から見ることができ、梅枝裕吉選手(三重・NTN)が先頭を好ペースで引っ張った意欲的な走りも、好位置で待機した松浦貴之選手(徳島・大塚製薬)の勝負に懸けた走りもしっかりと見ました。梅枝選手の積極性が1〜3位が自己新という結果に表れました。4位に終わった本人はかなり悔しかったと思いますが。
 優勝した松浦選手の記録は8分35秒21。この種目での徳島県勢Vは、大塚製薬・河野匡監督以来で27年ぶりだそうです。記録的にも河野監督の自己記録、8分34秒51まであと少しでしたが、松浦選手自身は今回は勝負にこだわっていて、そこまでは考えていなかったようです。今後どこまで記録を? という質問にも「記録を狙って出せる力はついていません。どんな状況でも焦らず勝負ができるようになることが、タイムにもつながっていくと思う」と話していました。
 とはいえ、河野監督の記録もそうですし、中央学大の同級生である篠藤淳選手(山陽特殊製鋼)の8分33秒44も目安になる記録ではないかと、こちらは思うのですが、もっと上のレベルを意識しているのかもしれません。
 松浦選手にインタビュールームで話を聞いていると、補助員が紙コップにポカリスエットを持ってやって来ました。それを受け取って、自社製品を美味しそうに飲んでいるのがこの写真です。昨日の森岡紘一朗選手もそうですが、決してやらせではありません。アドバイスは少しだけしましたけど。

 少年A男子やり投のディーン元気選手(兵庫・市尼崎高)の投てきは、ベストエイト後の3投は見ることができました。優勝記録の70m57は見逃しましたが、6投目の70mスローは見られたわけです。
「近畿選手権でラストクロスで右足つま先が着くとき、投てき方向に向けるように変えました。横を向いていた骨盤の向きを変えることで、体の真ん中に骨盤がポッと入ります。トルキルドセンのイメージで投げたかったんです。どうすればいいか頭では以前からわかっていたんですが、体ではどうしたらいいかわかりませんでした。近畿選手権の1週間くらい前の投てき練習で、その動きができるようになったんです」
 イギリスは父親の故国。3年後のロンドン・オリンピックに間に合えばいいのですが、それよりも先が期待できる選手かもしれません。

 女子4×100 mR準決勝のレース後に、ミックスドゾーンで花岡麻帆選手(千葉・成田国際高教)に話を聞きました。成年女子走幅跳では桝見咲智子選手(福岡・九電工)に次いで2位。昨年から競技生活よりも教員生活が中心になっています。今年の状況を考えたら順当な順位ですが、6m16(−1.0)の記録を見ると往年の力はさすがに維持できない様子。来年の地元国体が花道になる可能性があるかもしれないと思ったことと、千葉県の特徴を何か聞ければと思って話を聞かせてもらいました。
 力を維持できるかわからないと言いますが、「来年までできたら、千葉国体が節目になるかもしれない」と言います。「試合が練習になってしまっている」とも。ベテラン選手にとってそれは、悪いことではないのでは?と思ったのですが、良くないことなのだそうです。
「練習でこれをやって、試合で出そう、というのが以前の形でした。今は試合で試行錯誤してしまっています。これをやろう、あれをやろうと迷いながらやっている。それは一番よくありません」
 千葉国体が“花岡選手の花道”になる可能性が出てきました。本人は、「そこにたどり着けるかどうか」と、弱気なコメントをしていましたが。
 千葉県の成年選手が国体に積極的に出ている理由についても教えてもらいました。監督を10年以上務めている岩本一雄先生(東京学館高)の存在が大きいようです。

 最後に残った種目が少年B男子走幅跳。地元新潟の間島麟太朗選手(日本文理高)が昨年の全日中優勝者。会場が今国体と同じビッグスワンで連続優勝の期待もかけられていたはずです。しかし、今季の成績では松原奨選手(静岡・東海大翔洋高)の方がインターハイの成績も、ベスト記録(7m40)も明らかに上です。間島選手も7m09(+0.3)と健闘しましたが、松原選手が7m24(−0.6)で危なげなく優勝。
 インタビュールームでは松原選手のコメントを先に聞いた後、隣の間島選手のところに移動して話を聞いていました。無念の思いが語られているかと思いきや、清々しい話が続いています。ビッグスワン2連勝ができず悔しくなかったのか、という質問も出ましたが「悔しいですけど実力です。地元で自分の方が有利なのに、それでも松原君が勝った。仕方ありません」と、きっぱりと言い切っていました。
 こちらも清々しい気分で、4日目の取材を終えられました。


◆2009年10月6日(火)
 トキめき新潟国体5日目(最終日)の取材。今日も競技開始前に有意義な取材ができましたが、その内容は企業秘密です。

 最終日は少年の男女長距離と、男女の成年少年4×100 mRの4種目。約1時間で終了します。
 最初の種目は少年B男子3000m。優勝した高田康暉選手(鹿児島・鹿児島実高)の話をミックスドゾーンで聞きました。各記者からの競技に関する質問が終わったところで、お決まりの質問です。鹿児島の若手長距離選手にとって憧れの選手は? という問いに、高田選手は「市田先輩(兄弟)と、大野(龍二・旭化成)選手です」と答えてくれました。
 永田宏一郎選手は? と突っ込むと、あまり知らないような反応でした。SWAC選手の活躍が続く今日この頃ですので、さらに突っ込んで川越学選手は? と聞きたかったのですが、控えました。アテネ五輪代表の大野選手も、市田兄弟も高田選手と同じ鹿児島実高の先輩でした。永田選手は錦江湾高、川越監督は鹿児島南高ですから。
 しかし、後でJAAF Statistics Informationsを見ると、少年Bの鹿児島県選手の優勝は、その川越学監督以来のことであることが判明。高田選手が知らなくても、聞いてみるべきでした。20年ちょっと前のことですが、SWACの理念はその頃に芽生え始めていたのかもしれません。

 少年A女子5000mは赤松眞弘選手(岡山・興譲館高)が15分46秒16の大会新で優勝。4000mから赤松選手が前に出て、残り2周からリードを奪い始めました。ラスト1000mが2分57秒と速かったですね。ラスト400 mも68秒4。データをそこまでたくさん収集していないのですが、高校生としてはかなりのタイムではないでしょうか。
 成年少年女子4×100 mRは埼玉が45秒48で優勝し、北海道が45秒51で2位。高橋萌木子選手(埼玉・平成国際大)と福島千里選手(北海道・北海道ハイテクAC)がアンカーで対決し、福島選手が終盤まで追い上げました。高橋選手が故障上がりということもありましたが、いつもと違うパターンで新鮮でした。
 3位には45秒96で大阪が入りました。メンバー的に有利と見られた京都に勝った理由を、曽輪ライターに聞くつもりでしたが忘れてしまいました。

 最終種目は成年少年男子4×100 mRで、沖縄が40秒04で初優勝。2位の奈良には木村慎太郎選手(早大)、3位の長野には塚原直貴選手(富士通)、4位の山形には安孫子充裕選手(筑波大)がいます。沖縄の各選手のベストタイムは以下の通り(直接、聞きました)。
1走・与那国塁:10秒87、22秒16
2走・知念玲亜:10秒55、21秒05
3走・当眞裕樹:10秒55、21秒15
4走・木村 淳:10秒58、21秒07

 粒ぞろいのチームが、スーパーエースのいるチームに勝ったという印象です。まあ、リレーは総合力ですから。女子はスーパーエースのいるチームが1、2位ですが、それも総合力です。
 沖縄はリレーの決勝進出すら初めてのようですが、知念選手は中部商高時代にリレーのインターハイ優勝経験があります。
「走力だけで勝てないのがリレーです。お互いの良いところを引き出せるかどうか。お互いのコンディションを見極めて、足長も調節します。レース会場に入ってからも、それを言い合える雰囲気が沖縄チームにはあります」
 3走の当眞選手が学生トップクラスに成長したことも大きかったと思います。今国体では成年200 mで7位、6月の日本学生個人選手権は3位。その当眞選手が「なんくるないさぁ」という沖縄言葉を教えてくれました。どうにかなるさ、という意味ですが、なげやりな意味ではなく、現実を受け止めて前向きに向かっていくというニュアンスがあるのだそうです。
 それが今回発揮されたとは言いませんでしたが、スーパーエース不在のチームでも「なんくるないさぁ」の精神で立ち向かったとは、言えるかもしれません。

 と書いておいてなんですが、アンカーの木村選手はかなり強いように見えました。塚原選手が6、7位からすごい追い上げを見せて3位にまで上がってきましたが、トップを走る木村選手との差がどんどん縮まっているようには見えなかったのです(実際には0.3〜0.5秒くらいは縮めていると思いますが)。
 インターハイは200 m2位、今国体は少年A400 mで2位の選手。もしかし、加速走が得意なのでは、と思って加速付きの100 mのタイムを質問しました。
「9秒2とか9秒3とか出ています。練習中なので風が追い風かもしれませんけど。向かい風で9秒5、6もあります」
 日本のトップ選手でも、リレーの区間タイムは9秒0〜1台です。練習中の手動計時タイムとはいえ、高校生でこのタイムは強いでしょう。こうした選手をときどき見つけられるので、リレーは面白いです。福島千里選手も高校2年か3年時に、リレーの3走(日本Bチームか何か)ですごい走りをして、関係者が評価していたことを思い出しました。
※国体5日目ネタ、続くかも

 競技終了後はサブトラックへ。競技実施中は規制で入れませんでしたが、全種目終了後は取材解禁です。しかし、警備員からストップが。入れると聞いていたので、確認するようにお願いしましたが、なかなか確認がとれません。国体はいくつもの組織が合同で運営しているので、指揮系統が単純ではないのでしょう。
 同じようにサブトラ取材をしようとしていたのが沖縄のメディア。最終日に行われている競技はほんの少しですから、男子の4×100 mR優勝(写真を載せるのを忘れていました)に割くスペースは大きくなって当然です。幸い、サブトラの入り口のすぐ左側が沖縄県のテントでした(外側から見て出入り口の右側が地元新潟で、その右側の北海道から左回りに北から順に並んでいました。例年通りです)。スタッフにゲートまで来てもらって、塀越しに取材をされていましたね。

 寺田が行きたかったのは四国の県のテント。陸マガでは近年、インターハイや国体で地区別総括の記事を出していて、そのためのネタを集めたかったのです。20分後に入る許可が出ましたが四国の県はすでに引き揚げていました。20分前に入ってもいなかったので、サブトラに入れなかった実害があったわけではりません。
 四国取材はできませんでしたが、新潟県チームの志田哲也先生に少し話をきくことができましたし、その後はちょうど、天皇杯の千葉県チームが集合写真を撮影するところだったので、専門誌カメラマンたちに加わって集合写真を撮らせていただきました。花岡麻帆選手と戸邊直人選手が近くにいてくれたので、ワンショットで撮ることができました。戸邊選手が指でつくっているのは千葉陸協のマークだそうです。
 撮影後には岩本先生に少し、話を聞くことができました。「日本代表選手たちが本気で出てくれる」という話が出たので、成年のトップ選手が積極的に国体に出ている理由を聞くと「“出ろよ、このヤロー”ですよ」と岩本先生。
 しかし、それだけで選手が出るわけではないのは自明です。その辺の理由を花岡選手が話してくれました。
「気が向いたら食事でもどうだ、とさりげなく声を掛けてくれて、親身になって色々と話を聞いてくれる。岩本先生が呼んでくれるなら、という気持ちをどの選手も持っていると思いますよ」
 我々には強面(こわもて)の印象がある先生ですが、選手間の印象は違うのだと思います。

 ということで、新潟国体も終了しました。朝早く(毎朝8時集合)から夜遅くまで仕事をしていたので、オレンジガーデンに行くことができなかったのが残念です。
 今国体の取材は、最高ともいえる取材環境でした。スタンドのプレス席のすぐ裏に、記者室が用意されていて、モニターもあったので時間がとれたらパッと記者室に行って原稿を進められました。LANケーブルもあってネットにも接続できたので、データがパッと入手できます。
 記者席からミックスドゾーンまでもスタンド裏を回る必要はなく、短時間で行くことができましたし、ミックスドゾーンとインタビュールームもすぐ近く。スーパー陸上が行われた等々力が便利だと書きましたが、その上を行く便利さでした。
 JAAF Statistics Informationsも、全種目の戦評を書くときに大変役立ちました。
 記録もそこそこよかったですし、話題もそれなりにありました。充実した取材ができた大会だったと思います。
 それだけに、サブトラックに入れなかったことが残念です。以前に書いたように、選手サイドからの要望ですし、主催者など管理する側からすると、事故が起きるのがどうしても気になってしまうのでしょう。理解できないわけではありません。
  先日書いたように、取材する側の便宜を図りつつも、選手に迷惑をかけない、主催者も不安にならない方法を見つけていければいいのですが。


◆2009年10月16日(金)
 国体の日記を書いている間に、実際のカレンダーは16日です。国体前後の話題も交えながら、この10日間を振り返る……のは難しいのですが、とにかく書き進めたいと思います。

 国体最終日の6日は、夕方17時が柏村亮太選手と戸邊直人選手の高校新コンビの原稿の締め切りでした。13時頃に新潟発の新幹線に乗ったのですが、高崎駅で降りて、新幹線の待合室で原稿を書き上げました。電源コンセントがあって、無線LANも使用できることを、昨年の群馬リレーカーニバルの帰りに確認済みでした。大宮駅ではコンセントがなかったと思います。
 その日の夜中が、残りの人物ものの締め切り。西池和人選手(というよりも28分台高校生最多)の記事は3日目の夜あたりに終わらせてありましたが、川崎真裕美選手、白田耕平選手、飯塚翔太選手の記事を7日の朝までに書き上げました。
 7日は夕方の5時が地区別総括記事の締め切り。正直、やばいと思っていましたが、ちょっとの遅れで4地区分を書き終えました。今まで、それほど書きたいと思わなかった類の記事ですが、書いてみると意外と面白かったです。一覧表を見て、地区毎の特徴をつかもうとすると、色々なことが見えてきたからでしょうか。
 少年A男子砲丸投で回転投げだった沼辺翔太選手(青森)や、少年A男子走幅跳で2位だった西海亮選手(大阪)たちは最初から、この地区別総括用に取材ができていました。少年Bで活躍した近畿の選手が、特に男子は例年よりも少ないと感じていたので、昨年の少年B走幅跳で優勝した西池選手に大会序盤で話を聞けたのはラッキーでした。

 入賞者が極端に少なかった四国も、その入賞者たちに四国らしさがあったのでなんとか書くことができました。記事の締めに土佐礼子選手と村上幸史選手を出すのはどうかな、とも思いましたが、激励の意味も込めて名前を出させていただきました。
 その四国記事用に河北尚広選手の自己新について調べていて、すごいことに気づきました。杉町マハウ選手と成迫健児選手には届きませんでしたが、河北選手は49秒04と3年ぶりの自己新で3位。今年の7月で29歳(末續世代でした)です。為末大選手が29歳のときに48秒73を出しているので年齢別日本最高ではないのですが、400 mH選手でこの年齢で自己新は珍しいのでは、という直感が働いて、50秒未満の自己記録(日本歴代27位まで)が出たときの年齢を調べてみました。
歴代順位 記録 氏名 年月日 年齢
1 47.89 為末 大 2001.08.10 23
2 47.93 成迫 健児 2006.05.06 21
3 48.26 山崎 一彦 1999.05.08 27
4 48.34 苅部 俊二 1997.10.05 28
5 48.64 斎藤 嘉彦 1998.10.04 26
6 48.65 千葉 佳裕 2001.05.20 22
7 48.66 吉形 政衡 2005.09.19 23
8 48.84 河村 英昭 2000.09.09 25
9 48.85 吉沢 賢 2004.07.10 26
10 48.95 庄形 和也 2005.09.19 22
11 49.04 河北 尚広 2009.10.03 29
12 49.20 吉田 良一 1987.07.19 22
13 49.21 勝木 秀和 1993.06.12 24
14 49.23 小池 崇之 2005.07.03 20
15 49.45 吉田 和晃 2009.08.15 21
16 49.59 長尾 隆史 1978.09.25 21
17 49.66 今関 雄太 2009.10.03
18 49.73 鈴木 伸幸 1998.07.04 23
19 49.74 大森 重宜 1982.10.08 22
19 49.74 大本 裕樹 2000.09.02 21
21 49.76 増岡 広昭 2008.10.04 22
22 49.79 対馬 庸佑 2007.06.30 25
23 49.88 岩崎 淳 2000.05.20 21
24 49.89 井原 直樹 2007.06.30 25
25 49.93 垣守 博 1987.06.07 19
25 49.93 吉岡 彰寛 2002.10.23 24
27 49.97 若江 真志 2001.09.15 21
 苅部俊二選手(現法大監督)が28歳で48秒34の日本歴代4位(当時日本新)を出しているのが、この種目の最高齢自己新。河北選手はそれを上回ったわけです。本人はブログで、微妙な心境であることを吐露していますが、胸を張っていいことではないでしょうか。
 その場で気づかずに取材をすることができませんでしたが(気づいても杉町選手と成迫選手の取材を優先せざるを得ませんでしたが)、しっかりと記事にしておかないといけないところです。
 30歳の日本最高は苅部選手の48秒99。来年の、格好の目標では?

 佐藤光浩選手の引退と、それに関する笹野浩志選手のネタなども書きたかったのですが、明日は箱根駅伝予選会の取材で朝が早いので、この辺で(実業団・学生対抗にも行きたいのですが、どうしようもありません)。


◆2009年10月17日(土)
 今日は箱根駅伝予選会の取材でした。
 考えてみたら去年は単行本の仕事が重なって、取材に来られませんでしたね。2年ぶりの立川。今年は陸マガと、某紙の全日本大学駅伝展望記事と、寺田のこのサイトの仕事を兼ねて取材でした。
 全日本大学駅伝展望用には駒大をマークしないといけません。チーム状況を(完全には無理でも)把握することが一番の狙いで、「次の全日本では…」というコメントを聞ければなお良いわけです。箱根駅伝の予選ではありますが、学生選手は箱根駅伝のためだけに競技をやっているわけではないので、そのくらい聞いてもいいはずです。怒るとしたら、箱根駅伝のことしか考えられないメディア関係者かもしれません。
 本サイト用にはトップフィニッシュ選手と、トップ通過チームを予定していました。
 そして、陸マガ記事は東農大と順大が担当ですが、一番の難題がこの順大記事でした。通れば問題ないのですが、今年の戦力から順大の本大会出場が52年連続で途切れてしまう可能性もありました。最近は取材中に何度も、順大OBたちから「うちの大学は大丈夫か」という声を聞いていましたし。

 取材はしやすくなっていました。巨大スクリーンを、記者席から座ってみられるようになっていました。これは本当に助かります。
 しかし、予選会取材の難しさは、各大学の陣取っている場所を把握するのに時間がかかることと、細かい戦績を知らずに指導者や選手たちに話を聞かないといけないところです。
 個人トップの村澤明伸選手(東海大)はタイムもわかったうえで取材ができます(正式ではありませんが問題ありません)。しかし、東海大が通過できたかわからない段階で取材をしますから、選手としては話しにくい面もあります。

 その後がもっと大変です。
 チーム順位がわかってから駒大の取材に行きましたが、深津卓也選手の3位と、高林&宇賀地選手が59分台でフィニッシュしたところまではわかっていても、4番手以降の選手、タイムまでは把握できていません。
 大八木監督を取材中に「1年生の初20kmに不安があり、故障上がりの星に引っ張ってもらった」という話が出てきましたが、こちらは、星選手が結局何番で、1年生のトップは誰かということもわからずに話を聞いているのです。
 1チームに1担当者がつけるメディアだと違ってくるのですが、ほとんどの記者はそうも行きません。今日でいえば「1年生のトップは上野(渉)君ですよね」と、憶測の質問をはさみながら話を聞いていました。

 次に話を聞きに行った東農大も同様です。チーム1位(全体で4位)の外丸和輝選手以外は、何も知らない状態で話を聞きに行きました。
 予選会の取材はもう、仕方がないと思っています。成績を把握していない選手の名前が監督の取材中に出てきて、重要な役割を果たしたということなら、「何位だったんですか?」「何分だったのですか?」と聞くしかありません。
 東農大では外丸選手以外の選手にも話を聞こうと思ったのですが、誰が良いか前田直樹監督に指名してもらい、清水和朗選手の話を聞くことになりました。そこではもう、成績はもちろん学年や、どんなポジションの選手かまで、予備知識なしの“ゼロから取材”を敢行しました。
 突っ込んだ話を聞くことはできませんが、それが箱根駅伝予選会です。

 最後に取材に行ったのが順大です。残念ながら13位で本戦出場が途切れてしまいました。理想を言えば、予選落ちが決まったときの選手たちの表情を見るために、ずっと順大の選手・関係者の側にいるのがいいに決まっています。が、それができないのが現実です。
 寺田が行ったときはすでに、仲村明監督に話を聞いているのはI記者1人だけ。他の記者たちは、その側で順大OBの大物指導者と雑談を始めていました。しかし、I記者だけでも話を聞いていたのは幸いでした。
 話を最初から聞き直すことはできませんが、上手い具合に突っ込みを入れれば、なんとかこちらの聞きたい部分を引き出すことはできます。
 それに、順大の場合は以前に何度か取材をしていて、“順大らしさ”を把握できています。そこがどうしてなくなってしまったのか、という点を、今のチームに即して質問していくことができました。仲村監督がいつものように冷静だったこともあり、なんだかんだで粘って話を聞かせてもらいました。結果が悪かったケースなので“面白い話”とは言えませんが、予選会取材としては例外的に“深みのある話”が聞けたと思います。200行くらいの記事でも書けそうな内容でした。

 取材を終えたのはたぶん、記者のなかで寺田が最後だったと思います。記者席にもどって記録をもらい、焼きそばとたこ焼きの昼食をすませるとすぐに、会場の撤収時間になりました。作業部屋に戻るとちょうど、予選会のテレビ放映が始まるところ。予選会の個人成績がネット上に出ていなかったら、現場で受け取ったリザルトをアップしようかとも考えていましたが、大会公式サイト(予選会ではなく箱根駅伝の)に出ていました。
 テレビを見た後には、早起きの反動が出て眠ってしまいましたが、21時頃には村澤選手の記事をサイトにアップ。トップ通過チームの記事も書く予定でしたが、駒大スポーツに早くも予選会の記事(大八木監督と4年生選手コメント)が出ていました。ネタもかぶりそうなので、こちらは中止することに。
 その後、23時くらいまでネット上を見ていましたが、実業団・学生対抗の成績は見つかりません。日本ジュニア&ユース選手権の成績は山梨陸協サイトにありましたが、実学は共同通信と時事通信の記事くらいで、2位以下の様子はわかりませんでした。
 箱根駅伝は予選会でも情報がすぐに伝わるのに、トラック&フィールドのトップ選手が出る実業団・学生対抗は何も情報が出回らない。お金の動いている規模が違うからですが、それだけが理由でしょうか。


◆2009年10月18日(日)
 昨日の夜、横田真人選手のブログに“ササキ”なる人物から、今日の日体大でのスタート時間を問い合わせる書き込みがありました。それに対し横田選手から「16:20スタートです」とのリプライがあったのが今朝の11時でした。
 小島茂之選手の引退レースは所沢。1分46秒台が出るかもしれない横田選手のレースは日体大。どちらに行こうか迷っていましたが、場所が近いという理由で日体大に行くことにしました。寺田の住んでいる多摩市から日体大のグラウンドまで、小田急で柿生まで行き、柿生駅からバスに乗れば(1時間に1本しかありませんが)1時間もかかりません。

 15:30前に日体大に着くと、平田中距離部長(自体学)やアコム・平野コーチ、順大・近野コーチという中距離強化の面々に、NTNの逵中正美監督の姿もあります。聞けば、かなりのメンバーが出場するようで、トラックでは昨日の実業団・学生対抗で自己新を出したばかりの口野武史選手がアップをしています。お馴染みのアコム・堤大樹選手の姿も(パッと見て印象的な選手です)。昨日の実学で口野選手以外でも、順大の牧野康博選手と岡昇平選手、堤選手が1分48秒台の好記録を出したことを教えてもらいました。今季の1分49秒未満の選手数は10人になったそうです。過去最多でしょうか?
 日体大・石井隆士監督のところに挨拶に行くと横田選手もいます。お互いに会釈するくらいで言葉は交わしません。プログラムをいただき、大会名が日体大フィールド最終競技会であることを知りました。混成競技の大会も併催されていましたが、トラック種目で残っているのはもう、特別種目の男子800 mだけです。
 正直にいって、大会自体に緊迫感はありません(大会の醸し出す緊迫感の有無については、思うところがあるのでいつか書きたいと思います)。ひと言でいえば秋の記録会。若手には自己新のチャンスがありますが、一線級の選手にとっては冬期の課題を明確にするとか、そういった位置づけの大会です。通常ならば。

 昨日の箱根駅伝予選会取材後に、日刊スポーツ・佐々木記者が「明日は横田君の取材には行かないんですか? 日本記録が出るかもしれませんよ」と言ってきましたが、まさかね、というのが寺田の反応でした。
 確かに、9月末のテグ国際で2年ぶりの自己新(1分47秒04)、その翌日の早慶戦1500mでも自己新、10月12日の筑波大競技会で1分47秒50ということで、記録が出る兆しは感じられます。しかし、これまでの常識で考えて、この時期の、小さな試合でテンションを高めることは至難の業。それとトラック種目では、なかでも400 mと800 mは特に、記録会で自己新を出すのは難しいというのが寺田の持論です。
 しかし、7月の日清ファルマ・タイアップ記事の取材時に横田選手は、小さな試合でもアップのなかでテンションを高める方法を会得した、というニュアンスの話をしていました。実際、筑波大競技会では1分47秒50という好記録で走っています。ひょっとすると1分46秒台後半が出るかもしれない、と思いました。
 最終的に行くことにしたのは、スタート時間が朝早くなかったことと、佐々木記者の「日本新を見逃したらベルリンのときのように後悔しますよ」という脅し文句が理由でした(ベルリンの世界選手権では、あるパフォーマンスを見逃してメチャクチャ悔しがりました)。

 日体大に到着した3時半頃はまだ少し風があったのですが、日が暮れていくにしたがって風がやんでいくのが日体大です。長居や横浜のように構造的に(巨大スタンドなどで)追い風部分が多くなるのでなく、無風状態になるのが日体大で記録が出やすい理由です。
 800 mは4組あって、口野選手や横田選手は最終組。カメラは一眼レフではなくレンズ一体型しか持っていません(この辺も日本新を予想していなかった証拠)。1〜3組めで練習をしましたが、こちらのページで紹介したように、トラックの外側からでは背景が今ひとつ。4組目はインフィールドから撮ることにしました。通過タイムを200 m毎に測りたいで、フィニッシュ地点ではなく、少し第4コーナー寄りの位置に移動しました。
 日本新までは予測していませんから、こちらはリラックスできています。通過タイム計測と、カメラマンをゆとりをもってこなしていました。日体大では過去にも、上野裕一郎選手や佐藤悠基選手の高校新を取材していますし、小林祐梨子選手がもしかしたら記録を出すかもしれない、というレースもありました(3000mの日本新?)。カメラ&通過タイム計測に少しは慣れています。

つづく
 こちらのテンションが高まったのは最後の直線でした。600 m通過が1分18秒台で、レース前に平野コーチから聞いていた設定通り。写真撮影をしていたのでスピードの感じ方が鈍くなっていましたが、ホームストレートに入っても走りが乱れている様子もなかったですし、ひと言でいえば勢いが衰えていないように見えました。
 最後の直線でシャッターを押した後は2位の口野選手も小差で追っていて、そちらに目が行ってしまいましたが、フィニッシュ直後のタイマーは1分46秒13で止まりました。
 気持ちの準備ができていなかったので、日本新と気づくのに一瞬の間がありました。久しぶりに、取材中に叫んでいました。いつ以来でしょうか。松宮隆行選手の5000m日本新か、福島千里選手の日本新か。
 繰り返しますが、日本選手権やインターハイのような緊張感はない大会です。選手たちがフィニッシュ後に雄叫びを上げたり、ガッツポーズを繰り返すシーンは、普通で考えたらなかったと思います。横田選手のフィニッシュ後は関係者の喜びと驚きが渦巻いたと思いますが、取材している人間まで叫んでいるのですから、運営をしていた日体大の学生たちは驚いたかもしれません。
 佐々木記者が「取材に来て良かったでしょ」という顔でこちらを見ます。勝ち誇った表情ですが、今日のところは許すしかありません。
 正式計時が0.05秒もずれることはまずないのですが、絶対にないとは言い切れません。正式計時が1分46秒16と確認してから、フィニッシュ後の表情を撮りに行きましたが、その間、ほんの数秒か10数秒ですが横田選手から目を離してしまいました。どういった喜び方をしたのか見ていなかったわけで、記者としては大チョンボ。明らかに冷静さを欠いていました。

 そこからはとにかく、横田選手の表情を追いかけました。選手たちと喜びを分かち合っている間は、その様子をそのまま、カメラに収めます。それが一段落した後は、お約束のタイマー撮影です。新記録の快挙を伝えるには一番の絵柄ですから(井村久美子選手が6m86を跳んだときに、ピョンピョン跳びはねて記録表示板撮影に向かったのが印象的です。ちょっと前ですけど、1500mか1マイルで日本新を出したときの田村育子選手も嬉しそうでした)。
 通常の日体大長距離競技会だったら、次から次にレースが進行するのでタイマー撮影はできなかったかもしれません。ラッキーでした。絵柄に苦心したのは、写真のページの通りです。この辺は、佐々木記者よりも寺田の方が絵心がありました(あとで威張っておきました)。
 タイマー撮影の後は一度、本部席近くにいたコーチ陣のところに行っていますが、何をしに行ったのか記憶がありません。それからフィニッシュ地点に戻って、横田選手にインタビューを始めました。取材に来ていたのは佐々木記者と寺田の2人だけ。快挙の大きさに比べると寂しい取材風景ですが、手書きのナンバーカードの大会でもきっちりと走ったことの裏返しです。取材する側としても数が少ない方が、話の方向を上手くコントロールできるはずです。
 ところが、佐々木記者が何を思ったのか、いきなり「ペースを今日の設定にした経緯は?」と聞き始めました。日本新の感想や、出した瞬間の気持ち、レース中に感じていたこと、といった基本的な質問事項をすっ飛ばしたのです。それに、ペース設定などの話題は寺田が聞く役目。取材の連係が今ひとつのスタートでした。

 おそらく、佐々木記者の中で、こういう記事にしたいというイメージがかなり明確にできていたのでしょう。日本新を出せた要因を明確にする上で、そこが重要になると。
 タイム設定を質問された横田選手は、実際にそのタイム通りで走れたこと、ペースメーカーの中村康宏選手が走りやすいリズムで先導してくれたことを話してくれました。その話を聞くと寺田も黙ってはいられません。ペースメーカーの走りのリズムの違いで、走りやすさに違いがあるのか、と突っ込みました。ただ、その後はきっちりと、新記録の感想も聞きましたけど。
 その辺のやりとりは、こちらに記事にしましたが、この後は練習のこなし方や、レース中の感覚という部分を突っ込んでいきました。そこは陸マガか、このサイトで記事にしたいと思います。佐々木記者は卒業後の競技環境や、社会的に見たときの横田選手の特徴などを突っ込んでいました。共同取材の場ではありますが、そういう独自性のある突っ込みを他の記者がしたときは、記事にしないこともあります。
 1つだけ書かせてもらうとしたら、「東京23区の生まれで、日本新レベルで競技をしているのは自分だけ」という横田選手のコメントでしょうか。これは、漠然と考えることはありましたが、言われてみたら明らかに特殊な部分です。一瞬、谷川聡選手もそうじゃないかと思いましたが、谷川選手は町田で育っているので23区ではありません。ここを突っ込んでいけば、面白い取材ができるかもしれません。

 取材中に石井監督がいらして、リザルツを我々にも手渡してくれました(ありがとうございます)。横田選手には陸連への申請手続きはこちらでやっておくから、と話しかけていました。陸連事務局にも電話を入れ、ドーピング検査(24時間以内に実施しないといけないようです)のスケジュールを打ち合わせていました。こういったところは、我々には想像しにくい運営側のご苦労です。
 横田選手の取材後には、ペースメーカーを務めた中村選手に話を聞き、続いて平野コーチにも。この2人への取材から、陸連中距離ブロックの強化方法が、今年の800 m全体のレベルアップにつながっていることがわかりました。
 そして、最後に1分46秒71の日本歴代4位を記録した口野選手に。横田選手の日本新もすごいのですが、1分47秒台と1分46秒台を2日連続で出した口野選手も、それに劣らずすごいことだと思います。過去に2日連続で好タイムで走った例や、600 mの1分19秒通過をどう感じるようになったか、などを聞きました。

 取材終了後は青葉台駅に移動してスターバックスで原稿書き。今日だけは、佐々木記者におごらないわけにはいきません。レジの女性店員が「(会計は)別々ですか?」と聞いてきたので、「今日だけは一緒です。次に来たときは別々でお願いします」と念押しをしておきました。察しのいい店員さんで、「はい」と言って対応してくれたのは運が良かったですね。こういうとき、“何言ってんだこの人たち”という顔をされたら立つ瀬がありません。
 ということで、もう一度、青葉台のスタバに行くことになりました。どんな記録を取材した後に行くことになるのか、楽しみです。


◆2009年10月19日(月)
 夕方、カフェで原稿を書いているとA新聞Hデスクから、携帯メールが届きました。
「横田の日本新を見ていたそうですね」
 寺田のリプライは事実だけを簡潔に伝えました。
「横から見ていました」
 フィニッシュの瞬間でいえば、斜め後ろからですが、フィニッシュだけが日本新ではありませんから。
 Hデスクからの再リプライは、話題が変わっていました。
「慶應ボーイの日本新はいつ以来ですか?」(Hデスクは昔の早稲田ボーイ)
 すかさず返信しました。
「戦前には、大江季雄をはじめわんさかいます。が、戦後となると、棒高跳の喜田武志の一人だけ。1965年に4m80の日本タイ記録」
 実は昨日、青葉台のスタバで元慶應ボーイの佐々木記者が調べていたことです(日本記録変遷表は寺田が持っていました)。紙面に載ったかどうかわかりませんが。

 早慶のOB記者には慶大選手の日本記録が重要のようですが、寺田にとっては口野武史選手の富士通新記録(1分46秒71)の方が重要でした。あの笹野浩志さんが何度も挑んでは跳ね返された1分47秒の“壁”を、入社1年目で破ったのです。文字も大きくしておきましょう、口野選手が笹野さんの富士通記録(1分47秒02)を破りました、と。
 ここだけの話ですが、笹野さん本人はこのサイトを読んでいないので、何を書いても大丈夫なのです。以下のようななエピソードがありました。
 9月28日にセカンドウィンドACの祝賀会があって、そこで笹野さんとお会いしました。前日の27日は全日本実業団の最終日で、佐藤光浩選手が富士通のユニフォームでのラストラン。4×400 mRで優勝した直後に、富士通の選手たちが佐藤選手を胴上げし、その写真を本サイトに掲載しました。まあまあよく撮れていたので笹野さんにも「寺田的に載せた光浩選手の胴上げ写真見てくれた?」と聞いたら、見てくれていなかったのです。
 あの手の引退絡みのネタは一般読者よりも、その選手と関係した人たちに見てほしいわけです。それを、昨年までチームメイトだった笹野さんが見てくれていない。ちょっとショックでした。

 しかし話を聞けば、笹野さんの気持ちの中では今もまだ競技者スプリットが大きいようなのです。陸上競技のテレビも見られないし、記事も読みたくない。キャラとしては俗にいう“いい奴”なので見過ごされがちなのですが、そのくらいの強烈な意思を持って800 mに取り組んでいたわけです。このサイトを見てくれていなくても、それは仕方のないことと思いました。
 褒めているのか茶化しているのかよくわからない話になってしまいました。
 笹野選手の全盛期のラストは本当に迫力がありました。チャンスさえあれば1分46秒台は間違いなく出ると、個人的には思っていました。しかし、将来のことも考えて、1分47秒台を出しながらも昨シーズンで引退。それから1年も経っていないので悔しさはあると思いますが、気持ちのどこかでは後輩の1分46秒台を喜んでいるのではないでしょうか。


◆2009年10月24日(土)
 今日はJO(ジェイオー)の取材で日産スタジアムに。
 わざわざ書くのは野暮というものですが、知らない(年輩の)人もいるかもしれません。JOはジュニアオリンピックの略称です。
 といっても、一番の目的は砲丸投の新日本記録保持者、山田壮太郎選手(法大)の取材です。通常なら陸マガ用の取材は、選手名など伏せておくのですが、今回は現場で目撃されてしまったので隠す必要がなくなりました。

 今回の取材は競技や技術的な部分よりも、“人となり”を紹介するページです。寺田的にはスポーツ選手の場合、競技や技術的なものへの取り組みにこそ“人となり”が一番よく表れると思っていますが、世間的には「競技や技術とは別のもの」が“人となり”の定義です。陸マガも世間と同じ定義をしているので、その線に沿って取材を進めました。
 といっても、山田選手の足跡をたどれば、どうしても競技に対する取り組み方の変化が大きな要素にならざるを得ません。山田選手の特徴は、陸マガ11月号の国体記事にも書いたように、高校時代のトップ選手でないところ。投てき種目では珍しい例です。かつてのライバルたちが競技から遠ざかっていくのに対し、山田選手は逆にのめり込んで来て、今では世界を目指すまでになっています(この点もすごい話を聞くことができました)。
 もう1つ目立つのは、法大という投てき種目が盛んでない大学で強くなったこと(大学6年目ですが)。砲丸投の歴代リストを見ればわかるように、上位は日大、筑波大、国士大、東海大で占められています。山田選手以前の法大記録は16m台。
 これらのことから、山田選手は競技人生の節目節目で、普通の人とは違う選択をしてきたのではないか、という仮説を立てて取材に臨みました。その成果は陸マガ次号で。山田選手の一人称記事なので寺田の視点はあまり反映されないのですが、それでも、山田選手の特徴が表れていると思います。

 取材とは別に、以前から山田選手に確認したいことがありました。内容次第では記事にもできる話かなと思っていましたが。それは、山田選手の名前です。山田選手は甲子園球場のある西宮市生まれ。山田太郎にちなんでつけられたのではないか、と。実際、中学では野球部に入っていたこともあったと聞いていましたし。
 しかし、「いや、それはないと思いますよ」と山田選手。
 人の名前をあれこれと詮索するのはやめた方がいいと思います。個人的なことですし。千里という名前の選手に、「どうして万里じゃないのですか?」と聞くのは失礼だと思いますし。まあ、イチローとかISHIROとか、名前をネタにしている記者をいじるのはいいと思いますけど。
※JO2日目ネタつづきます

 山田選手の取材が終わると日本選手権リレーの男女4×100 mRです。スタンドでレースを見た後、コメントも少しだけ取材。男子は優勝した早大の木村慎太郎選手、女子は3位でしたが平成国際大・高橋萌木子選手の話を聞かせてもらいました。ナチュリル勢は明日の4×400 mRでもチャンスがあるという判断です。
 木村選手を取材中に小島茂之選手の引退レースの話も出てきました。横田真人選手の出る日体大に行ったため、取材に行けなかったレースです。結果は以下の通り(早大競走部サイトから抜粋)。
6レーン 塚原 直貴(富士通) 10秒44(-0.5)1着
3レーン 江里口匡史     10秒50(-0.5)2着
5レーン 小島 茂之OB    10秒56(-0.5)3着
4レーン 木村慎太郎     10秒58(-0.5)4着
2レーン 大前 祐介OB    11秒05(-0.5)5着
8レーン 中川 博文OB    11秒10(-0.5)6着
1レーン 中川 裕介OB    11秒10(-0.5)7着
7レーン 田村 和宏OB    11秒15(-0.5)8着
9レーン 相川 誠也OB    11秒32(-0.5)9着

 唯一、早大以外で出場した塚原直貴選手が勝って、江里口匡史選手が2位。3位に小島選手で4位に木村選手。「小島さんにすっきりした気持ちで退いてもらうためにも勝っておきたかった」と、木村選手は申し訳なさそうに話していました。日本選手権2位の選手に勝ってしまったら、まだできると思ってしまますからね。
 小島選手は引退後もアシックスで働きますが、選手としては木村選手がアシックスに入社して後を継ぎます。かつての中学チャンピオン。学生後半の2年間は、しっかりと日本のトップに定着しました。満足できる学生競技生活だったようにも見えましたが、本人はそうではないと言います。
「僕の陸上はここで終わりじゃありません。築き上げてきたものを崩さないように、10秒20がにせものにならないようにしないと」
 シーズン終盤の取材ではこういう話が出てきます。それも楽しみの1つです。

 今日、楽しみにしていたのは、大瀬戸一馬選手と君嶋愛梨沙選手の取材。中学生の取材は機会が少ないので貴重ですね。こちらに記事にしたように、大瀬戸選手が中学記録に0.01秒と迫りました。それも、雨で低温という悪条件。中学生では力が1つ抜けていると感じました。
 コメント取材は、インタビュールームにテーブルが2つセッティングされていて、そこに上位3選手が着席し、テーブルの向かいに記者が座って話を聞く方式。珍しいと思いますが、取材をするのが専門誌関係者2〜3人だけなので、効率の良いやり方ではないでしょうか。寺田はその邪魔をしないように、専門誌関係者の後ろに立って話を聞いています。質問をするのも、どうしても聞きたいことがあったときにだけ。全日中を取材していませんから出しゃばりません。
 例えば今日も、大瀬戸選手と専門誌記者のやりとりで、全日中では後半に追い込まれた話が出てきました。今日は追い込まれた感じはまったくありません。JOだけ見ている記者には、そういったところは突っ込めないですから。
 でも、後ろで話を聞いていると、今回は記事にしなくても、今後の取材に役立つこともあります。新潟国体では少年B110 mJHに優勝した白田耕平選手(東京高。準決勝で高1最高タイ記録)を取材していて、そういえば「去年のJOで話を聞いていたな」と思い出しました。1年前の話の内容までは思い出せませんでしたが(役に立ってない?)。

 明日の種目を見ると、今日ほど有力選手が出ません。日本選手権の4×400 mRも、そこまで盛り上がりそうにない。寒さを考えたら東大阪大敬愛高も、インターハイで出した高校記録更新は難しいでしょう。抱えている原稿も1つや2つではありません。ライバルのO村ライターも来ないようなので、正直、取材に行くかどうか迷っていました。
 そんなことを考えていると、朝日新聞事業部のO氏と廊下で会いました。イケメンのマラソン仕掛け人として有名な人物です。JO会場で会うとは思ってもみない人物。もしやと思って「横浜国際女子マラソンの打ち合わせ?」と質問すると、図星でした。神奈川陸協と打ち合わせをするために毎日来ていると言います。
「日産スタジアムに日参しています」と、イケメンのイメージを壊すようなダジャレまで言うのですから、寺田も明日も来ることにしました。福岡国際マラソン(これも朝日新聞主催)関係の原稿を抱えているのですが…。


◆2009年10月25日(日)
 今日も日産スタジアムでJO(ジェイオー)の取材。
 昨日の日記で行くか迷ったと書きましたが、心の奥では行くと決めていたのだと思います。昨日、朝日新聞M記者に福岡国際マラソン関係原稿の締切を伸ばしてもらったときは、気持ちがとっても爽快(壮快?)になりました。やっぱり、トラック&フィールドのシーズン最後の取材機会ですから。
 シーズン最後といえば、昨日の木村慎太郎選手のように競技以外の話題も出てきます。2年前は日本選手権リレーが佐藤美保選手が、広島移転と休養入りのためナチュリル最後の大会になりました。昨年は佐藤真有選手が独身最後のレースでした(当時は木田真有選手)。
 今年も何かあるのなら先に聞いておきたいと思い、会場入りしてすぐにナチュリルのテントに(スタンド裏なので正確にはテントはありませんが慣用句です)。川本和久監督に聞くと「T野結婚とか?(笑) 今年はないですよ」とのこと。昨日の4×400 mR予選は青木沙弥佳選手が苦しい走りだったので、栗本佳世子選手のサプライズ起用があるのか質問しましたが、それもないようです。昨日は2走の青木選手で早大に先行されたので、走順についても質問しましたが、アップを見て決めるということでした。

 中学生の取材ではAクラス男子3000mのインタビューを念入りに聞きました。
 中学生にも色々なタイプの選手がいて面白いのですが、優勝した前田晃旗選手はかなり控えめなタイプ。「優勝狙ってました」「あいつに絶対に勝つつもりで来ました」と天真爛漫に話す選手も多いのですが、それとは正反対のコメントが多かったと思います。話のなかで頻繁に、2位に入った打越雄允選手の名前が出てきました。
 打越選手は全日中の1500m優勝者で、ラストに強いという評価が選手間に定着しているようです。父親は1995年の世界選手権代表だった打越忠夫JR東日本コーチ。レース前にスタンドで姿をお見かけしました。
 その打越選手に関して、スプリントが優れていることを示すあるネタが取材中に話に出てきました。ただ、これは某編集者の独自ネタになると思うので、ここで書くのは控えておきます。いずれ紹介できると思いますが。

 日本選手権リレーの4×400 mRは、女子が豪華対決でした。前回優勝のナチュリルと、日本インカレ優勝の早大と、高校新の東大阪大敬愛高。東大阪大敬愛高が今季の記録では一番ですが、メンバーを世界選手権代表で固めたナチュリルは負けるわけにはいかないでしょう。
 昨日の予選で2走の青木選手の走りを見たときは「危ないかも」と思いましたが、3走の渡辺真弓選手の走りを見て「負けないだろう」と確信しました。その渡辺選手を2走に起用してきました。早大の2走が好調の津留加奈選手で、東大阪大敬愛高は世界選手権代表の新宮美歩選手。そこで仮に前に出られても、今の渡辺選手なら余裕を持ってついて行くことができる。
 実際、その通りの展開になって、最後は2人をかわしてトップで3走の丹野麻美選手につなぎました。その時点で勝負あり、です。
 しかし、レース後に川本監督に話を聞くと、記事にも紹介したように、早大や東大阪大敬愛高を意識した走順ではなかったときっぱり言います。「見ているところが違うよ」と同監督(川本監督の日記も参照)。
 冷静に各選手のレベルを考えたら、その通りでした。どうしても我々メディアは、目の前の素材で構図を考えてしまいます。今回でいったら、東大阪大敬愛高というスーパー高校生チームが、王者のナチュリルに挑むという図式です。東大阪大敬愛高には世界選手権代表の新宮選手もいますから、番狂わせの可能性もあると。それはマスコミ的な視点でしたね。注意しなければ、と反省しました。
 渡辺選手の400 mの力を、外部の人間には把握できなかったというのもあるのですけど(と言い訳も少し)。
※JO3日目取材ネタつづくのか?

 その一方で、男子4×400 mRは何がネタになるだろうか、と悩んでいました。どの大学も、インカレのように最強メンバーで臨んではきません。よくいえば、来季を考えての若手主体の布陣。悪くいえば、日本選手権なのに二軍メンバー。でも、それが日本選手権リレーの特徴でしょう。
 男子は特にないかなと考えていたら、意外なところからネタが跳び込んできました。ナチュリルのテントから引き揚げてくる途中、愛知教大の木越清信先生にスタンド裏で出くわしました。棒高跳の元学生記録保持者。一瞬、高校生の勧誘に来てらっしゃるのかと思いましたが、数年前からJOに高校生は出ていません。
 聞けば、男子の4×400 mRに愛知教大チームが出ていて、しかも決勝に残っているとのこと。そこまで強い大学になっていたとはまったく知りませんでした。穴があったら入りたい心境ってやつです。
 でも、そのくらいでひるんでいては記者は務まりません。
 そのレベルにあるということは、3分10秒前後の記録は持っているということ。「だったら、中京大中京高の愛知県記録を破ったとか?」と突っ込みました。中京大中京高のベスト記録は、おぼろげながら3分11秒台だったような記憶があったのです(正確には3分11秒01でした)。
 これが大正解でした。7月の西日本インカレで3分09秒21だそうです。日本インカレでも3分10秒86を予選で出していますが、このときは予選落ち。
 大正解と書きましたが、かなりいい加減な発言でした。リレーの県記録はメンバー全員が、その県の登録でないといけないようです。愛知県記録を中京大中京高ではなく、中京大が持っている可能性もあったのです。
 窮地を運良く切り抜けてしまうのも実力です(違うかもしれない)。

 ということで、男子4×400 mRは愛知教大に注目しましたが、残念ながら3分14秒05で最下位の8位。寺田の手元の計測では49秒33、47秒27、48秒72、48秒73(もちろん手動)。
 あとで木越監督から教えてもらったデータでは、各選手とも高校時代の実績は以下の通り。

1走:西 淳史(院1年)。ベスト記録は48秒47、400mHが51秒34。混成でインターハイに出場。豊田西高から一般入学。
2走:東 哲久(院2年)。ベスト記録47秒62。名古屋高時代にリレーでインターハイに出場。
3走:礒部 慶(院1年)。ベスト記録48秒35。200mのベストが21秒3。インターハイは200mで準決勝まで進出。
4走;中野弘幸(3年)。ベスト記録46秒74。名古屋高時代に4×100 mRでインターハイに出場。100mのベストが11秒0。

 西日本インカレは1走が下記の日比野選手。
1走:日比野洋平(2年)。ベスト記録48秒84。インターハイの出場経験なし。小牧南高出身。一般入学。

 このメンバーで3分10秒を切るというのは素晴らしいと思います。高校歴代なら2位相当。今日の結果は俗にいうところの“全国大会の洗礼”でしょうか。愛知教大の4×400 mRは今回が初の全国大会決勝だったそうです。予選で力を出し切ってしまったのか、全国大会の決勝のプレッシャーか。高校時代の実績のない選手たちには、全国の決勝はかなりのプレッシャーがかかるらしいです。
 しかし、そういう舞台を何度も経験して、力を出せるようになっていくわけです。今後が楽しみなチームですし、そのなかから個人でも良い選手が育ってくるかもしれません。
「推薦入試も陸上競技の枠があるわけではなく、陸上での合格者は毎年4〜5名程度」(木越監督)とのこと。全天候のトラックはあるということですが、夜は自動車のライトで照らして練習をしているといいます。“手作りチーム”といっていいかもしれません。そういうチームの頑張りは、強豪校以外(高校も大学も)で地道にやっている選手の励みになります。


◆2009年10月31日(土)
 今週はまあまあ、充実していました。
 月曜日には都心に出て、15時からある会議に出席。某新聞の全日本大学駅伝展望記事の締め切りも重なっていましたが、(土)(日)のJO取材前後と月曜日の午前中とで長めの3本を書き終えていたので、なんとかなるかなと考えていました。会議後3時間ほどタリーズで頑張って、先が見えました。
 最近タリーズは、コンセントが使える店舗が増えているので助かります。無線LANもドコモの定額制に先週入ったので、時間を気にせずに使えるようになりました。

 火曜日は福岡国際マラソン関連の原稿を書き上げました。寺田にとって特に思い出深い大会です。コラムということもあり、個人的な気持ちを込めて書いても良いケース。先週いっぱいだった締め切りを延ばしてもらって、念入りに書きました。
 瀬古利彦さんと高岡寿成コーチを取り上げさせてもらいましたが、2人を比較するのが狙いではありません。日本マラソン史における偉大なランナー2人が福岡国際マラソンをどう走ったか、を書かせていただきました。2人の違いを際立たせるために比較させてもらっているところもありますが、優劣を論じるのが目的ではありません。
 2人だけが偉大なランナーだったと言っているわけでもありません(オリンピックのマラソンでは…)。たまたま、その2人について考察する機会や、取材をさせてもらう機会が多かったというのが理由です。コラムですから。
 いずれ、もう少し詳しく紹介できるかな、と思っています。

 水曜日はよく覚えていないのですが、木曜日と金曜日のスケジュール変更と木曜日の取材準備、さらには来週のアポ取りとか、このサイトのサーバー移転の準備とかをしたと思います。サーバー移転はここ数年の懸案事項でした。ずっと、移転先のサーバーはどこがいいか検討していましたが(容量や料金だけでなく、安全性や使用できるプログラムなども重要です)、ベルリンから帰国後にやっととりかかることができました。

 木曜日は13:00から都心に出て、陸マガ次号の村上幸史選手記事の取材。某専門誌ではかなりのページ数を割いています。それに対して陸マガは**ページだけ。高岡コーチ引退のときもそうでしたが、少ないページ数で読者の印象に残る記事を書かなければいけません。
 正直、かなりのプレッシャーがかかります(先方はライバルのO村ライターが担当していますし)。編集長は「コンセプトが違うから大丈夫ですよ」と言ってくれますが、当事者としてはそう簡単に大丈夫と思えるものではありません。
 しかし、編集者がコンセプトと言うからには「責任はこちらでとります」と言っているわけで、少しは気が楽になります。「ライターの腕次第です」と言われるよりはいいかもしれません。
 実際、テーマを絞って突っ込ませてもらって(そうせざるを得なかったのですが)、村上選手が面白い話をしてくれたので、良い記事が書けそうです。話が本当に面白かったので、予定していた三人称の記事から村上選手の一人称の記事に変更することに。

 その取材からの帰路、新宿で乗り換える際に横田真人選手に電話取材。これも陸マガに記事を短く書くことになったので、テーマを絞る必要が生じました。日本新の際に現地で取材した内容でも大丈夫かなと思ったのですが、そこは専門誌で活字にするのですから、念には念を入れようと思いました。
 横田選手の記事は新宿のカフェで7割方書いて、その夜中に終わらせました。珍しく、これとこれを書こうと、事前に頭の中で構成したとおりに書き進むことができました。レース展開とレース直後のコメントは、カコミにして本文の外に出したのが正解でしたね。

 金曜日も都心に出て某広告代理店に。11月末に海外に行くことになるかもしれませんが、正式な返事は来週することに。例年の11月末の仕事と、今年入りそうな仕事をチェックしてみないといけません。せっかく声を掛けていただいたので、できれば行きたいと思っているのですが。

 そして土曜日の本日は、村上選手の原稿に取りかかって文字数には6割程度進めました。その間に、須田紗織選手(M&K)が60mで7秒52の日本新を出したという情報が飛び込んできました。M&K監督の幹渉社長によれば、予選が7秒52で追い風1.1m、決勝が7秒53で無風だったとのこと。先に100 mの予選も走っていて、そのときは良い走りではなかったそうです。それが60mになったら「加速局面の姿勢がガラッと変わった」と言います。11月3日の水戸競技場オープン記念の100 mがあるので、100 m決勝は欠場したそうです。
 60mの室内日本記録は7秒40で、北田敏恵選手と伊藤佳奈恵選手の2人が持っています。それとは0.12秒の開きがありますが、須田選手とその2選手とは、100 mの記録でいうとかなりの差があります。と書いてから正確に調べると北田選手11秒48、伊藤選手11秒62、須田選手11秒71で、伊藤選手とはそれほど大きな差ではありませんでした。ただ、2人とも自己ベストは当時の日本新。スプリンターとして格上という感じです。
 明日はM&Kが大会事務局をしている東京リレー2009フェスティバルの取材に行きますので、そこで“100 mの後、何が変わったのか”を取材することにします。幹社長が共同会見の場を設けると約束してくれました。もしも男女混合4×100 mRで日本最高記録を出せば(優勝したチームが日本最高記録とのこと)、2日連続の日本(最高)記録の快挙です。


◆2009年11月1日(日)
 今日は東京リレー2009フェスティバルを取材しました。
 朝の10時前に大井ふ頭陸上競技場に。以前、箱根駅伝予選会が大井ふ頭で行われていた時期に取材に来ていますが、競技場を発着場所に使っていなかったような気がします。当時は予選会が今ほど注目されていませんでした。関東学連幹事長の成績発表に、テレビ中継で何百万人が注目することもなかったと思います。それがなんだと言いたいわけではありませんが。
 東京リレーの趣旨は一般種目の普及です。長距離は市民ランナーが参加する大会が山ほどあるのに、一般種目に関してはそういった大会があまりにも少なすぎます。東京マラソンのようにトップアスリートが真剣に競い、市民ランナーが楽しめるような大会を創設したいという狙いです。
 その辺の趣旨は、こちらのページで感じ取っていただければと思います。

 個人的には、色々な取材ができたといいますか、色々な人に話を聞くことができたのが楽しかったです。
 まずは成田西中の海老原亘先生に、久しぶりにお会いしました。ハンマー投の70mスローワー。もう少し頑張れるというタイミングで先生になりました。
 中学生取材がほとんどないこともあり、最初は昨年の全日中優勝チームが出ているのか、という認識でしか見ていませんでしたが、海老原先生の顔を見た瞬間に「そういえば」と思い出しました。全日中の記事か、優勝者名鑑の指導者欄で名前を見ていた記憶がよみがえったのです。
 成田西中といえば短距離が強い印象です。投てき選手はどうなのよ、と質問するのも海老原先生の経歴から自然な流れですが、生徒の希望はやはり、短距離が多いのだそうです。身体的に投てきの適性のある選手もあまりいないようです。ただ、専門外の短距離でもここまで頑張っているのですから、投てきでこれという人材に出会ったときには期待できそうです。

 日本工大駒場高の川島康男先生を幹渉社長に紹介していただき、色々とお話を聞くことができました。成田西中とは対照的に、1・2年生では女子の4×100 mRが組めないのだそうです。今回は3年生選手の力を借りての出場。秋シーズンはどうしても新人戦中心の試合日程にならざるを得ません。東京リレーは願ってもない大会でしょう。
 それはφ(ファイ)にもいえると思います。現在は中学生主体のクラブチーム。基本的には陸上部がない学校の選手が集まり埼玉県を拠点に活動していますが、なかには東京の学校の選手もいるそうです。中体連の試合にも個々の学校から出場していますが、リレーが組めるのは中体連以外の試合に限られます。東京リレーは中学3年生選手たち4人でメンバーを組みましたが、高校入学後はどこで走るのか決まっていません。ということで、中学最後のレースとして出場したそうです。
※東京リレー取材ネタ、続きます

 話をしたのは選手・指導者だけではありません。M&Kの梶川洋平選手の紹介で、YONEXの方とも話をすることができました。すでにランニングシューズを発売していますが、今後、陸上競技にも進出してくるかもしれません。
 一度メールをいただいたことのあるNMTCの福壽社長も声を掛けてくれました(どうして顔がわかったんだろう?)。NMTCは、こちらのサイトをご覧いただくとわかりますがオリジナルグッズの製造販売、陸上競技の家庭教師、陸上競技教室などを主な事業にしています。社員のほとんどが大学を卒業して間もない若い企業(学生社員も1人)。それだけに失敗を怖れず(と感じました)、意欲的にビジネスに取り組んでいます。
 そのNMTCが運営しているのがニューモードACです。「陸上を続けたくても続けられない人のために、一緒に会社を作ってやっていく」(福壽社長)という基本方針。サイトに強化支援選手として載っている4人が、日本選手権などに出場しているトップ選手。社内では「1.5流選手」と呼んでいるそうですが。
 ただ、通常の実業団のように、選手の収入を会社が100%保証しているわけではありません。「ウチの給料が半分、アルバイトが半分という割合」で活動しているそうです。仕事は主に、自身の人脈を生かした営業で、その成績による歩合給だそうです(基本給プラス歩合給の形)。
「ウチの仕事をすることでアルバイトの時間を減らせます。そうして強くなって、実業団チームから声を掛けらるようになったらそちらで頑張ってほしい。ウチをステップにしてくれたらいいんです」と副壽社長。これはM&Kの幹渉社長とも共通する考え方です。
 こういった会社が若い力で運営されている。YONEXのように資本力のある企業が進出してくるのも歓迎すべきことですし、NMTCのように草の根的に生まれてきた企業が頑張るのも、陸上競技に携わる者として嬉しいことです。

 大会のトリは男女混合4×100 mR。M&Kが期待通りに優勝(44秒19=日本最高記録)しましたが、異色のチームが出場していました。茶髪・金髪・長髪という出で立ちで、陸上競技会では完全に浮いた存在。トラック脇にいるだけで周囲の目を引いていました。
 それがポポロACというチーム。記録も57秒07で、明らかに一般人レベル。これこそ、東京リレーの趣旨に合った参加者だと思いました。
 フィニッシュ後に少し話を聞かせてもらったのですが、意外なことに“登録者”でした。ポポロACは織田フィールドを拠点に活動する市民ランナーたちのクラブで、市民マラソンでも登録者の部に出場する選手も多いそうです。話を聞かせてもらった4走の大場孝広さんは福岡国際マラソンにも出場すると言っていました。
 市民ランナーのなかにも高校時代は短距離選手だった人もいて、その人たちが寺田のサイトで東京リレー2009の開催を知り、出場したいと言い出したのが経緯だそうです。「思ったよりレベルが高く、敷居がちょっと高いと感じた」というのが大場さんの感想。
 市民レベルの選手がもう少し増えていくのが、東京リレーに今後望まれる部分でしょうか。


◆2009年11月20日(金)
 11月1日を最後に日記が途切れてしまいました。
 過去の例を見ても、11月に書けなくなることが多かったと思います。毎週のマラソン・駅伝取材が始まりますし、実業団駅伝と箱根駅伝の雑誌用の取材と締め切りも続くのが11月です。そういえば昨年は、書籍2冊の締め切りが重なったので学生駅伝関係の取材と仕事はできませんでしたっけ。
 取材した大会やチーム・選手をざっと書き出すと、下記のような感じになります。
・東日本実業団駅伝(11/2-3)
・D社H監督の電話取材
・S社N監督代行の電話取材
・T社Sコーチの電話取材
・東洋大(陸マガ箱根駅伝増刊用)
・中部&北陸実業団対抗駅伝(11/8)
・小出義雄佐倉アスリート倶楽部代表インタビュー(実業団駅伝公式ガイド用)
・青学大(陸マガ箱根駅伝増刊用)
・横浜国際女子マラソン前々日会見&K監督インタビュー(11/13)
・早大(陸マガ箱根駅伝増刊用)
・横浜国際女子マラソン(11/15)
・W大W監督の電話取材
・S社Oコーチの電話取材
・T社S監督の電話取材


 このほか、毎週ある会議にも出席していましたし、営業にも行きましたから、3日に2日は取材に行くか都心に行くか、という感じでした。一概に言えませんが、我々の仕事で週に4日取材に行ったら、かなり忙しくなります。5日行ったら書く方が追いつきませんね(いつも?)。
 昨日までに陸マガ箱根駅伝増刊と、実業団駅伝公式ガイドの女子の方は、原稿を終わらせました。今週末に入ると思っていた取材が来週になったので、少しだけゆとりができたわけです。
 と、忙しさを理由にしていますが、原稿を書くのが遅い、時間の管理が下手クソというのが日記を書けない要因でしょう。

 でも、11月1日で途切れたのには、もう1つ理由があります。2日は東日本実業団駅伝の前日取材でしたが、そのときに富士通・福嶋正監督からカマシ選手に関するいい話を聞いたので、それを丁寧に書きたいと思ったからです。
 季節柄(?)、来春入社するダニエル選手(日大)の話になったとき、福嶋監督がカマシ選手の話を始めました。ダニエル選手と入れ替わりで、ケニアに帰国するのがカマシ選手です。寺田もかねがね、カマシ選手について、もう少しクローズアップされてしかるべきだと思っていました。2001年の世界陸上エドモントン大会1万m金メダリストにもかかわらず、ほとんど取り上げられていません。
 実際、金メダルを取った頃のスピードは、来日後はありませんでした。富士通に入社した2005年以降はヘルシンキ世界選手権代表にはなっていますが、ニューイヤー駅伝では区間5位が最高です。
 にもかかわらず、福嶋監督は「カマティ(※)には感謝している。4年間でやるべきことをやってくれた」と言います。
※福嶋監督はカマシでなくカマティと言います。そちらの方が正しい発音なのだと思います。

 福嶋監督のコメントを紹介するのが、カマシ選手について一番理解できそうです。
「キャリア的にカマティに残っているのは、マラソンでケニア代表になることなんです。実績としても2時間7分台で2回走っていますし、ゲブルセラシエが世界記録を出したベルリンのレースでは35kmまで食い下がった。2時間5分台も出せる選手なんです。ロンドンやシカゴで勝ったり、ケニア代表になるには日本でやるよりも、ケニアに帰国してレベルの高い選手の中でもまれてやっていく方が良い。今のうちに戻った方が良いと、本人とも話し合って決めました。決してクビにするわけではないんです。ルールは守るし、こちらの言うことも理解してくれる。人間的にもいい奴です」
 東日本実業団駅伝は滞在日数が180日に満たなかったため出場できませんでしたが、ニューイヤー駅伝には出られます。金メダリストの最後の駅伝に注目したいと思います。


◆2009年11月23日(月・祝)
 国際千葉駅伝の取材で天台の陸上競技場に。ヘルシンキ世界選手権と重なって行けませんでしたが、4年前のインターハイ会場です。来年の国体会場でもあります。そういったことを思うとちょっとだけ緊張します。
 スタート前は指導者の方たちに接触して情報を入手する絶好の機会です…が、今年は指導者の方の数が例年よりも少なかったです。レース後に中国電力・坂口泰監督の話を聞けたのですが…。また、電話取材ですね。
 その代わりというわけではありませんが、マラソンの賞金について情報を入手することができました。今年3月の東京マラソンから賞金が導入されましたが、横浜国際女子マラソンでは賞金が出ていませんでした。
 レース終了後にS記者から質問されて、そういえばどうなったんだろうと思ったのです。取材中、特に質問する記者もいませんでしたし。
 非公式な会話中だったのでここで書くことはできませんが、なるほどと思える理由でした。

 レースは日本が快勝(学生選抜というのなら日本チームも陸上界の慣習的にいえば、日本代表ではなく日本選抜なのですが、一般世間にアピールすることを考えると日本代表とした方が効果的です。ここも現実的な選択)。陸マガ記事にも書く予定ですが、国際駅伝らしいレースでした。ひと言でいえば、選手権駅伝のようなプレッシャーはかからないけどトップ選手らしいレースをした、ということだと思います。
 レース中に、競技場に帰ってきた選手を取材できるようになりました。小林祐梨子選手、竹澤健介選手、赤羽有紀子選手を取材。優勝が決まっていないので、優勝の感想を避けてのコメントを聞くことになります。那須川瑞穂選手には実業団駅伝に向けての話を聞かせていただきました。
 レース後は坂口監督、佛教大・森川監督、日本チーム会見、赤羽選手にぶら下がり、学生選抜3選手会見という順番で取材しました。
 森川監督の話が面白かったです。今大会で一番驚かされたのは、学生選抜アンカーの吉本ひかり選手(佛教大)。中村友梨香選手と新谷仁美選手に、30秒近い差をつけての区間賞です(2人とも実業団駅伝に向けて追い込んでいる最中のようですが)。
 森川監督の話は多少の謙遜はあったと思いますが、練習は量的にも強度的にも、それほどやっていないと言います。それよりも、メンタル的な要素やチーム力学(?)的な部分を重視されてやっているようです。かといって、ピリピリした雰囲気でもないといいます。
 吉本選手が強くなった理由として、「去年の選抜駅伝に3秒差で負けて、プリンをやめたこと」を挙げていました。最初は冗談かと思ったのですが、その後の話を聞いているうちに納得できました。そういうところに、競技に取り組む姿勢が表れるのでしょう。
 機会があったら取材してみたいチームだと思いました。

 あとは坂口監督の話から、佐藤敦之選手が世界選手権の頃よりもさらに良い状態になってきていることがわかりました。これも明るいニュースです。


◆2009年11月24日(火)
 午前中は旭化成・宗猛監督に電話取材。昨日の九州実業団駅伝で大野龍二選手と岩井勇輝選手が出場しなかった経緯や、ニューイヤー駅伝の展望を取材させていただきました。昨日の結果を見たときは、今回の旭化成は苦しいかなと感じていましたが、取材後は印象が違ってきましたね。
 陸マガの展望記事に反映させたいと思います。

 夕方から都内某所である会議に出席。
 終了後、Aコーチに電話取材。
 その後、書店に行って上海のガイドブックを購入。金曜日からの上海マラソン取材の準備を、少しずつ進めています。初めて行く場所は地図を見て、取材時の動線を確認できてくると、イメージが明確になってきます。


◆2009年11月25日(水)
 午前中に電話を数本。13時にはW社N監督に電話取材。
 それから八王子ロングディスタンスの取材に。駅でいうと自宅最寄り駅から3駅の近さなので、13:45からのC組に間に合いました。
 昨年は関東学連の記録挑戦競技会と合同開催でしたが、今年は再び、元の単独開催に。理由は実業団の現場サイドから、元の水曜日開催の要望があったからだといいます。学生の大会は土日開催が原則ですが、今週末まで開催をずらすと、合宿に入るのがその分、遅れてしまう。僅か3〜4日の違いですが、この時期になるとその3〜4日が大きいのだそうです。
 水曜日の八王子ロングディスタンス、週末の日体大長距離競技会へ連続出場することも可能になります。

 B組では信田雄一選手がトップ。苦しそうな表情をしていましたが、粘りのある走りを続けて、クレーマージャパンの副賞をゲットしました。聞けば、日立電線の選手の副賞ゲットは3人目。ニューイヤー駅伝でも頑張りそうです。
 A組は木原真佐人選手が28分09秒38で1位。昨年の日本選手権で出した記録に次いで自己2番目。今日は八王子にしては風がない日でしたが、気温が20℃くらいあり、コンディション的には決してよくありませんでした。
 実際、レース直前にペースメーカーのタイム設定が、400 m毎が69秒に変更されました。木原選手は途中、66秒台に上げる周回もあったほどの好調ぶり。2位選手とのタイム差が46秒01もあることから、木原選手の走りがすごかったことがわかると思います。
 カネボウ入社後は故障も多く、学生時代の走りができませんでした。東日本実業団駅伝も4区で区間11位。復活の理由をレース後に、音喜多監督と木原選手に取材させてもらいました。


◆2009年11月26日(木)
 重川材木店の取材。
 先日の北陸実業団駅伝は1区選手のインフルエンザもあって3位と敗れ、ニューイヤー駅伝出場権は獲得できませんでした。
 寺田のサイトのルポは、同駅伝出場を想定して始めたものですが、出られないからと尻切れトンボで終わるわけにはいきません。
 今日の取材でも良い話を聞くことができました。10日くらいでアップしたいと思います。


◆2009年11月27日(金)
 上海出発。7:40に羽田空港に着。羽田の国際ターミナルは初めてです。次の更新は上海から。

 上海に11:45頃に到着。東京と同じくらいの気候だと聞いていましたが、ちょっと温かい感じ。20℃くらいはあるでしょうか。
 空港は上海に2つある国際空港のうち小さい方。入国手続きを終えて外に出ると、本当に上海? と思うくらいの規模です。日本の地方空港に毛が生えた程度でしょうか。
 でも、隣接する国内線のターミナルは、かなり大きいようにも見えました。正確ではありませんが。
 地下鉄がまだ開通していなくて、バスも宿泊ホテルの近くには行っていないようです(ガイドブックを見る限り)。空港からはタクシーを使わざるを得ません。
 このタクシー乗り場がびっくり。200 mくらいの人の列です。東京ディズニーランドも真っ青……かどうかわかりませんが。でも、タクシーもものすごい数が待っていて、7列で乗車させていく効率的なシステム。30分待ちは覚悟しましたが、10分ちょっとで乗れてしまいました。
 ホテルまで40元。1元14円で計算すると560円。まあ、いいでしょう。

 中国は昨年も、北京に行きました。タクシーから見る光景はちょっとですけどイメージに違いがあります。北京のビルの方が横に大きくて、上海のビルの方が縦に長いという印象。日本の臨海地区と同じような雰囲気のビルが多かったです。
 北京の方が軍事的なことを意識しているのか、単に土地面積に余裕があるのか。
 ホテルは1920〜30年代の名門ホテルとのこと。ガイドブックにも“レトロムード満点のクラシックホテル”として載っています。
 これがホテルの部屋から見た中庭(?)と向かいの棟、これも窓からの風景。部屋の中はこんな感じ(   )で超豪華です。
 でも、楽天トラベルで調べたら1泊1万円ちょっとの金額。去年の北京五輪はものすごく汚いホテルで1万7000円だったか1万9000円でした。ところ変わればというよりも、時期が変われば、という感じでしょうか。本来、中国では外国人は、綺麗なホテルにしか泊まれないと聞いています。

 ホテルに着いたらさっそく打ち合わせ。一応、行動予定は日本にいるときに立ててきました。今日はこれから東レ上海マラソンの展示会(エクスポだと思います)に行って、その後で交歓会に出る予定です。

 展示会会場はホテルの最寄り地下鉄駅から4駅のところ。
 地下鉄ではかなり時間をロスしました。券売機で切符を買うのには一発で成功しましたが(降車駅を表示させてから料金をチェックする方法も、外国人にはちょっとわかりにくいのですが)、自動改札でエラー表示。何度やってもダメ。インフォメーションデスクのようなところに行きましたが、10分くらい待たされました。
 待つ人間が立つスペースが広かったこともあり、平気で割り込んで駅員に声をかける輩があとを絶ちません。でも、そのおかげで切符の磁気異常が多いことがなんとなく理解できました。寺田の切符にも駅員が簡単に入力(?)し直して、「プリーズトライアゲイン」。北京の地下鉄よりも英語が通じそうな雰囲気でした。
 ホームはこんな感じ
 降車駅で自動改札を出るときにもエラー。有人改札で待つこと5分。「タッチじゃなくて○○に入れてください」。よく見ると、カードの挿入口が下の方にあります。ほとんどの人は、定期券なのかプリペイド式なのかわかりませんが、タッチして出ていくのですが、そのとき限りの切符の場合は挿入して回収されるようです。
 海外で電車に乗るときは、この手のことはつきものですね。

 地下鉄の外はこんな感じ
 展示会は、東京マラソンでいうEXPO。メーカーや他のロードレース大会、地元観光協会や商工会議所などが、所狭しとブースを出店している……はずですが、会場に足を踏み入れるとこんな光景が目に飛び込んできました。入り口のお兄さんに会場地図を見せて「ここだよね」と確認。間違いはないはずです。
 確かにシューズやウエアなどスポーツ用品も売っていますし、ジェレミー・ウォリナーもセールの札には載っています。でも、スポーツとは関係のない普通のシャツやシューズもたくさん置いてある。会場のレイアウトからして、単なるマーケットの雰囲気なのです。
 ところ変わればこういうものか、と思いながら写真を撮っていたら、親切なお兄さんが「オマエはあっちだよ」と、同じ建物の隣の入り口を教えてくれました。
 その入り口は明らかに東レ上海マラソンです。大会の目玉選手である白雪(ベルリン世界陸上金メダリスト)選手が手を振って出迎えてくれました。
 EXPO会場はこんな感じで、ナンバーカードを配布するデスクが壁に沿ってズラッと並んでいて、それに囲まれるように展示スペースがあります。展示していたメーカーは冠スポンサーでもある東レミズノ大塚製薬日清オイリオと日本のメーカーがほとんど。最後にニューバランスがありました。それと、すでに交歓会会場になっていたスペースに、東京マラソンなどいくつかのマラソンのブースがありましたが、これで全部です。東京マラソンのブース数を思い浮かべていたので、あまりの少なさにビックリしてしまいました。
 これは、その後の交歓会を見ていても感じたのですが、まだまだこれから、という大会なのでしょう。と同時に、参加者は2万人以上なのにEXPOがこの規模ということは、マラソンがまだまだ世間に浸透していないのだと思いました。
 逆にビジネスをする側にとっては参入する余地があるというか、期待できる市場なのだと思います。

 その後の交歓会の写真を4枚ほど。
 まずは女子ハーフに出場する大塚製薬の伊藤舞選手。自己ベストが目標だと話していました。日本ケミコンの正井裕子選手も出場するようです。
 この2枚( )は招待選手が壇上で紹介されているところ。このときだけでなく、つねにバンドが壇上にいて、生演奏の音楽を会場いっぱいに響かせていました。上海流でしょうか。
 チアリーダーたちの演舞など、アトラクションもかなりありました。レベルは…よくわかりません。


◆2009年11月28日(土)
 午前中は東レ上海マラソンのコース下見をしました。
 7:10にホテルを出発してスタート地点の世紀広場に。この広場だけでなく、上海のメインストリートである南京東路を利用してのスタートということになります。これがスタート地点の後方の南京東路。走り出す方向を撮ろうとしましたが、パラパラをやっているおばさんたちの集団や、行き交う人々、ジョギングをする人が多くて…。単に、広角で撮らなかっただけですね。
 その後はバスでコースを見学。
 移動中の写真は撮れませんでしたが、5km地点の静安寺まではそれなりに上海らしい景観だったと思います。人民広場や特徴あるデザインのマリオットホテルなどですが、我々がイメージする上海とは少し違います。さらに10km付近の中山西路を過ぎると、何というのでしょうか、これという特徴がなくなるのです。外人の目から見たらそれなりに中国っぽい要素もありますが、変哲がないと言われても仕方のない景観です。
 これは来年以降、コース変更を検討しているということなので、改善されていくことを期待したいと思います。やはり上海といえば租界時代の建造物が残る外灘や、明代に造られた中国式庭園の豫園浦東の超高層ビル群などを巡るコースにしないと参加者の増加は見込めないでしょう。マラソンはマラソン、観光は観光と分けて考える人もいるとは思いますが。
 フィニッシュ地点の体育館はかなり大きな施設で、広さ的には問題なさそうです。すでに看板広告や関係設備の設営がほぼ終わっていました。
 写真を4枚掲載しておきます。   

 フィニッシュ地点から昨日も行った展示会会場に移動。
 着いたのは11時頃で、クローズまで残り1時間というタイミングでしたが、昨日よりも盛況でした。ナンバーカード交付デスクの一番手前は日本人用でした。メインスポンサーが東レということもあり、昨年は100人以上が出場しています。
 ブースでは、昨晩は開いていなかった地元工芸品のブースが目につきました、ミズノのブースも昨晩とは違って大盛況でした。

 11:30に隣接しているオリンピック倶楽部ホテルに。選手や関係者の宿泊しているホテルです。しばらくロビーで待っていましたが、日本関係者は誰も通りません。某マラソン事務局のT氏のアドバイスで日本食レストランに行くと、富士通のワウエル選手と高橋健一コーチ、大塚製薬の伊藤舞選手と天羽恵梨コーチがいらっしゃいました。
 昨日の日記に書き忘れましたが、高橋コーチには昨日の交歓会で少し話を聞かせてもらいました。富士通は東日本実業団駅伝で9位と振るわなかっただけでなく、個人レースでもパッとしません。しかし、昨年も11月は同じような感じでしたが、ニューイヤー駅伝では優勝しました。そういう調整をしているのではないか、という仮説を持っていたので、それをぶつけてみました。その答えは陸マガの展望記事かどこかで書きます。
 伊藤選手には食事後にインタビュー取材。内容はこちらに記事にしました。取材後に天羽コーチとのツーショット写真を撮らせていただきました。

 伊藤選手取材後にT氏と昼食(寺田は秋刀魚定食)をとっていると、シスメックスの藤田信之監督やトスプランニングの坂井社長たちが食事に来られました。藤田監督には電話で取材のお願いをしようと思っていた矢先で、さっそく取材のお願いをしました。
 ロビーでの原稿書きをはさみ、15時過ぎから3階のチャイニーズカフェで藤田監督に取材。K通信Y記者と一緒に、たっぷりと話を聞かせてもらいました。
 寺田が一番聞きたいと思っていたことは、故障からの“戻し”について。野口みずき選手の復帰がずれ込んでいることもありますが、最近その手の話を取材中に聞くことが多かったのです。竹澤健介選手のことで誰かかから話を聞きましたし、昨年は土佐礼子選手のことも。つい先日、トヨタ自動車・佐藤敏信監督にも故障中のトレーニングについて聞きました。
 藤田監督の話では、野口選手の場合走ったり補強をしながら治すのが難しい個所だったそうです。詳しいことは、いずれ、何かの記事に生かしたいと思います。
 藤田監督の経歴に関してこちらの知識が断片的な部分も多く、良い機会だったので質問させてもらいました。グラウンドの部分を除いてもすごく面白い話の連続でした。指導者として成功する方にはやはり、原体験ともいえるすごい経験があります。酒井勝充監督しかり、坂口泰監督しかり。
 海外に来ると、国内にいるときよりも取材時間をとってもらえることがあります。今日の藤田監督も***分も話をしてくださいました。2002年のロンドン・マラソン翌日の土佐選手取材を思い出しました。

 夜はホテルで原稿書き。
 1つ書き忘れました。昼食後にロビーで原稿書きをしているとき、明日の優勝候補であるマチャリア選手が外出から戻って来ました。2〜3年前の福岡国際マラソンでちょっとだけ、話をしたことがある選手。正確にいうと英語のできる記者の隣で立っていただけですが。
 今日は突撃取材。その成果はマチャリア選手が勝ったときに。
 書いて問題ないネタを1つ。サムエル・ワンジル選手が明日、オーストラリアで15kmのレースに出るという情報を教えてもらいました。たぶん、ゴールドコーストでしょう。ゴールドメダリストinゴールドコーストです。


◆2009年11月29日(日)
 東レ上海マラソンの取材です。
 7:30スタートなので5:17に起床して、6:10にはホテルを出発しました。6:30には現地に到着。スタートまで1時間ありましたけど、その辺をうろうろ。初めての大会はまず、色々と見て歩くことが大切です。たぶんですけど、東京マラソンやシカゴ・マラソン(寺田がスタート地点を取材したことのある都市型マラソンがこの2つです)よりも、選手の近くで取材できたと思います。
 中国らしかったのが、人垣を軍隊が担当していたこと。6:30にはスタート地点の100 mくらい前方にこんな感じで隊列をつくっていました。スタート地点に向かっていくと、道路の両脇にこんな仕掛けが。きっと、何かが飛び出してくるのでしょう。
 スタート地点に行くと、6:40頃でしたがすでに、このように一般参加選手たちがスタートラインに着き始めています。ストレッチをするおじさんがいると思えば、思いっきり踊りまくっているお兄ちゃんもいます。後でわかったのですが、早い者勝ちで前から並んでいたようです。
 ちなみに、参加人数はフル、ハーフ、健康(5km)と全部門で2万677人です。そのうち日本人は184人。

 その後は、隣接する選手のウォームアップエリアに。エリート選手も市民ランナーも同じです。これは市民ランナーのクラブでしょうか? お揃いのTシャツで旗を振り歌を合唱していました。こんな感じの集団がいくつかありましたね。何かのコミュニティでしょう。
 日本のシスメックス・藤田監督、日本ケミコン・泉田監督、大塚製薬・河野監督らの指導者の方たちに加え、イベント関係の方も含めた日本の関係者たちにも挨拶。
 富士通・高橋健一コーチには、ペースメーカーのワウエル選手のタイム設定を聞きました。5kmを15分15秒(プラスマイナス10秒)で25kmまでという契約だそうです。てっきり、今日の気象コンディションを見てから最終決定があったのかと思っていたのですが、数週間前に決まっていて、その後は特に指示はなかったそうです。予想よりも寒いコンディションだったはずなのですが。

 スタート直前にはこの写真のように、スタート地点脇の雛壇に役員の方たちがズラリと並びます。
 スタート10分前にエリート選手が位置に着き、そのうちの有力選手数人が紹介されていました。先日の横浜国際女子マラソンも同じように選手紹介がされていましたね。
 7:30にスタート。大都市マラソンお馴染みの光景です( )。スタート直後のこの雰囲気は全世界共通なのでは?
 7:45には健康マラソン5kmの部がスタート。爆発音とともに、紙テープと紙吹雪が打ち上げられました。

 バスでフィニッシュ地点に向かったのですが、ハーフマラソンのフィニッシュには間に合いませんでした。これは予想していたことで、今回はエリート選手の取材もしますが、大会全体を見ることが一番の仕事でしたから仕方ありません。女子のハーフマラソンで伊藤舞選手と正井裕子選手のワンツーを人づてに聞き、さっそく取材に。選手の表彰控え所に自由に入ることができ、2人の話を聞くことができました。
 どうやら、ミックスドゾーンは設けられていません。IDを持っている関係者はほぼ入ってこられるようですが、取材するメディアの数も多くないようで、この数ならまったく問題ないと感じました。
 お国柄の違いが、表彰式に選手を連れて行くときに表れました。日本では表彰担当の役員が取材をしているところへ声を掛けます。記者たちもすぐに取材をやめようとしますが、最後に二言三言、話しながら取材の輪を解く感じになります。今日は中国語で声を掛けられたわけですが、表彰だということはわかります。いつものように話をしながら取材を終わりにしようとしていたら、いきなり5人前後の役員(女性が多かったと思います)が「表彰だよー」と合唱するのです。もちろん、何を言っているのかわかりませんが、同じ言葉を一斉に発したのは間違いありません。
 すぐ近くで大勢から大声を発せられることが、これほど圧倒されることとは知りませんでした。一種の人海戦術でしょうか。中国式なのか、上海式なのか。
「これはまずい」と思わず思ってしまいますから、確かに効果はあると思います。日本人の中庸的なスタイルとは合いませんが(…中庸は中国で生まれた思想?)。表彰する側の、偉い人を待たせたらいけない、という慣習でしょうか。
 でも、表彰後も自由に選手とは話ができたので、取材にはなんら問題ありませんでした(泉田監督のダジャレも面白かったです)。表彰の写真も、選手のフィニッシュして歩いてくるエリアから撮影ができて、ありがたかったです。
女子ハーフマラソンの1、2位
テレビのインタビューを受ける伊藤選手
 記録がいまひとつ伸びなかったわけですが、その辺のことはこちらに記事にしました。

 女子ハーフマラソンの取材中に男子のフルマラソンがフィニッシュ。優勝はアスファ選手(エチオピア)で、2時間10分10秒で2連勝。昨日、話を聞かせてもらったマチャリア選手が2時間11分36秒で2位。アスファ選手は英語があまり話せないようで(寺田もですが)、ノリのいいコーチ兼エージェントのエチオピア人が通訳してくれました。15km付近からリードを奪ったといいます。ペースメーカーの富士通・ワウエル選手が25kmまで先導すると聞いていたので、あれ? っと思いました。
 そこで表彰になって、その間にワウエル選手と高橋健一コーチを運良く見つけることができました(ID規制がないからです)。聞けば、10kmまではワウエル選手に誰もついて来なかったといいます。いよいよ謎が深まりました。いったい、どんなレース展開だったのか。
 2位のマチャリア選手は昨日の取材時も、左脚のふくらはぎ(アキレス腱の上のあたり)が気になると話していました。マチャリア選手にはレース展開と、先頭集団がペースメーカーに着いていかなかった理由を聞こうとしましたが、ここまで突っ込んだ内容になると寺田の英語力では難しくなります。元陸連事務局の砂原さんが近くにいらしたので、通訳していただきました。この辺は記事にしたいと思います。

 女子は世界陸上優勝の白雪選手が欠場。大会の看板選手だけに主催者にとっては痛かったと思いますが、その辺も考慮してかスタート地点には姿を見せていました。優勝は2時間27分49秒で魏亜楠選手(表情が豊かな選手です)。そこそこ長く頑張っている選手です。大会主催者と、日本の代理店が通訳を用意していてくれたので、話を聞くことができました。
 来年は中国でアジア大会が開かれます。その代表がどうなりそうなのか質問しましたが、選考の仕方などははっきりしていないようです。まあ、そういう国が多いですよね。

 表彰の合間には、集まった観客(とフィニッシュした選手)向けに、表彰用の舞台でアトラクションも行われていました。前々日の交歓会のときにも出演したマイケル・ジャクソンのそっくりさんが登場。この人はかなり上手いです。
 一般参加選手たちのフィニッシュシーンも1枚載せておきます。これも万国共通でしょうか。達成感を感じている人が多かったように思います。
 スポンサーのブース(日清オイリオ 大塚製薬)も盛況でした。人の集まり方は、日本よりも激しいというか、密度が高い感じがしました。
 今回はエリート選手だけでなく、日本から参加した市民ランナーの方も取材しておきたいと考えていました。幸い、先ほども書いたように選手がフィニッシュ後に進んで行くエリアに入ることができたので、日本語を話している人を見つけることができました。
 話を聞かせてもらったのは加賀陽一さん(左)と上野勝宏さん。記事の体裁にするのか、日記で書かせていただくのがいいのか、少し迷っています。どちらかの形で紹介する予定です。

 会場を後にしたのが11:45頃。日本のマラソン取材の感覚だと16時頃ですが、朝が早かったので午前中に終了。午後にもう1つ、何か行動ができそうです。


◆2009年11月30日(月)
 東レ上海マラソンの取材から帰国しました。フライト所要時間も3時間くらい。時差1時間というのは本当に楽ですね。

 昨日の午後の行動を紹介しておきましょう。
 ホテルで原稿を2時間半ほど書いた後、上海を代表する観光スポットである外灘(ワイタン、またはガイタン。英語名The Bund)に。わざわざ書くまでもないのですが、目的は観光ではありません。その土地を代表する場所のカフェで原稿を書くのが、外国に行ったときの定番仕事法です(国内でもやっていますけど)。観光よりも原稿。カフェで原稿さえ書けば、その場所に行った気分に十分浸ることができます。
 ホテルの最寄り地下鉄駅から2つ目の人民広場駅で乗り換えて(この駅は地下鉄にしてはすごい大きさでした)、そこから1つ目の南京東路で下車。上海一の繁華街と聞いていますが、そこには目もくれず東へと歩きました。黄浦江(揚子江の支流。川幅400 mとか)まで300〜400mの距離のはず。黄浦江西岸を走る中山東一路沿い、全長1.1kmほどの地域が外灘です。
 クラシカルな西洋風の建物が現れてきて、いよいよという雰囲気に。前方には東方明珠電視塔(467.9mでアジア第1位、世界では第3位)をはじめとする黄浦江東岸の近代的なビル群も見えてきました。
 でも、曇っているんです。こればかりは、どうしようもありません。

 数分で黄浦江西岸に出ました。黄浦江をはさんで見えるビル群がこれ。曇っているし、もやもかかっている感じでイマイチどころかイマサンくらい。南を見ると1920年代に建てられた西洋風街並みが見えるのですが……。こんな感じでした。微妙というよりも、期待をかなり下回りました。こうして工事をしていない建物だけを撮るとそれなりなのですが、実際はこんな感じで工事をしているので、レトロな雰囲気はまったく味わえません。道の反対側(黄浦江西岸に接している部分)も工事用の塀で視界が遮られています。最初はもやだと思っていたのですが、工事の影響かほこりっぽいのです。すかさずマスクをつけました。
 南に数百m歩くと有名なRICOHの看板が見える交差点に出ました。写真を撮るとそれなりの雰囲気を醸し出していますが、実際にはそんなことはまったくありません。さらに、どんなに歩いてもカフェなどありません有名ブランド店でいくつか営業している店もありましたが、飲食店の営業はあれだけ近くで工事をしていたら無理でしょう。
 帰りは1本裏通りを歩いてみましたが、ただ暗いだけの路地通りでした。晴れていたりして、光線が違えば少しは違った雰囲気になるのかもしれませんが。
 来年の上海万博に向けて、大規模な補修工事が行われているとは聞いていたのですが、これほどとは思いませんでした。現状ではマラソン・コースに組み入れることなどできません。
 結局、1時間ほど歩いても外灘にカフェは発見できず、繁華街の南京東路に戻りました。百貨店らしきビルに入ると、こんな吹き抜けのあるお洒落なファッションビルでした。その1階にダンキンドーナッツ(ちょっと自信なし。ドーナツの有名チェーン店)がありましたが、上海まで来てそれはどうかと思って南京東路をもう少し歩きました。昨日まで何度も見かけたスターバックスが、こういうときに限って見つかりません。上島珈琲で妥協することに。昭和の雰囲気のする店で、原稿を1時間半書きました。

 19:00からホテルの近くの上海料理店で、東京マラソンや広告代理店、SEIKOの方たちと会食。
 今回の取材でわかったことの1つに、多くの日本人の方が中国の大都市マラソンを支えていることが挙げられます。当日の早朝まで東奔西走されていたと聞きました。そのご苦労をよく表しているエピソードを1つ、お聞きしました。陸上ファンや関係者が読んだらものすごく面白いエピソードなのですが、向こう5年(10年?)間くらいは書くわけにはいきません。
 そのエピソードとは直接関係はしていませんが、SEIKOの担当者の1人のI澤さんは、関東インカレ2部で3位に入った400 mハードラーでした。ベスト記録は52秒台。電通の庄形和也さん(48秒95がベスト)とも仕事をすることがあるそうです。


◆2009年12月1日(火)
 今日の昼までに陸マガの横浜国際女子マラソン原稿を書き上げました。
 それほど多い文字数ではありません。レース展開と選手・指導者のコメント、大会の位置づけの説明など、基本的な要素を書いたら埋まってしまうくらいの分量です。
 しかし、今回の横浜のように記録が悪かった大会は、通常の書き方だと平凡な記事になってしまいます。何かしらの特徴を明確に出す書き方にしないと、読んでも何の印象も残らなくなってしまう。
 もちろん、些細なことを無理矢理に誇張するのではありません。今回のレースに表れていたのに、注意しないと見落としてしまうような要素にスポットを当てるのです。

 嶋原清子選手に関しては、自己新で優勝した北海道マラソンから2カ月半のインターバルだった点を書き込むことで、彼女の特徴がわかるように書いたつもりです。
 レース記事の方が難しかったですね。優勝が2時間27分台と記録的には物足りないレースでしたが、北京五輪の金銀メダリストを抑えてのアビトワ選手(ロシア)の優勝と嶋原選手の2位。ただ記録が良くなかった、というだけのレースではなかったと思います。
 かといって、どんなレースにも価値があるという書き方だと、「選手を甘やかしている」というご批判をいただきます。
 それとは別に風や周回コースの影響、有力日本選手の出場が少なかったことなどが問題点として指摘されていました。世間的に評価しにくいところを、専門誌でどう書くべきか。今回に関しては横浜に移ってまだ1回目ということで、風や周回コースが記録に影響する、という断定的な書き方はしていませんが…。

 とにかく、陸マガ1月号をご購読願います。文字数は少ないですけど、それ以上の価値は込められた(?)かもしれませんので。


◆2009年12月2日(水)
 Hondaの明本樹昌監督に電話取材。面白い話を聞くことができました。陸マガのニューイヤー駅伝展望記事に反映させます。TBSサイトのコラムにも生かせるかもしれません。陸上競技ファン以外にはマニアックと映るかもしれませんが、そういった類のネタをわかりやすく書ければ価値はあると思いますので。
 元日産自動車監督の加藤宏純さんにも電話で、少し話を聞かせていただきました。ここでも奥深い話を聞けました。文字にするのは難しいネタですが、話をするときには適した内容だと感じました。

 東レ上海マラソンも、そろそろまとめないといけません。11月29日の日記にも紹介した市民ランナーの加賀陽一さん(左)と上野勝宏さんの取材に、参考になる話が多かったと思います。

 加賀さんは4回目、上野さんは5回目のマラソンで、加賀さんが3時間17分36秒(自身による計時)で約5分、上野さんが3時間19分59秒(同)で約7分、自己記録を更新しました。加賀さんは「40歳になってから健康のため」に走り始め、市民ランナーのクラブには入っていないそうです。練習での走行距離は週に70km程度。仕事の担当エリアが上海ということで、東レ上海マラソンに出てみようと思ったそうです。
 まずは記録が出やすいかどうか。
「天気が良く涼しかった。2個所ある陸橋以外はほとんどフラットで、走りやすいコース」というのが加賀さんの感想。エリート選手たちは、寒さや向かい風が記録に影響したと話していました。両者の感想の違いは、スタート直後に速いスピードが必要なエリートのレースと、徐々に体を温めていける市民ランナーのレースの違いかもしれません。
 次に路面の硬さについて。加賀さんは「15km以降がコンクリートのような路面になった。いつもはそんな早い段階で太腿に来ることはありませんが、今日は25kmで来ました」と言います。伊藤舞選手は「足底が張ったかな、と思います。レース中に来ることはあまりないので、(路面が)硬かったからかもしれません」という話し方でした。

 コース後半の風景については、両者とも良い印象はなかったようです。
「後半が寂しかったですね。沿道の人がコースを横切りますし、排気ガスも気になりました」と上野さん。
 スタートも改善の余地があります。エリート選手たちはウォーミングアップ場が狭いことを指摘していましたし、市民ランナーの2人はスタート位置での並び方が大問題だと言います。
「日本ではタイム順に前から並んでいくのが普通なのですが、ここは早い者勝ちで並んでいきますし、ハーフマラソンのランナーも一緒です」(上野さん)。「我先にと割り込んで走り出しますから、ものすごく危険です」(加賀さん)

 個人的に一番感じた課題は、外灘や豫園などの上海を代表するスポットを走らないことです。外灘が工事中で今年走れないのは仕方がありませんが、上海マラソンと銘打って海外から参加者を募るのであれば、著名な観光スポットを外すのはマイナスだと思われます。まして、今のコースは後半の景観がよくありませんし、市民ランナーの方たちが感じたように路面の問題があるならなおさらです。
 これらの問題点は、寺田の感想も交えさせていただいて、日本でのPRを担当している代理店に伝えておきたいと思います。


◆2009年12月4日(金)
 朝のJAL便で福岡入り。福岡国際マラソンの会見に臨みました。
 13:26に会見場の西鉄グランドホテル2階の鳳凰の間に行くと、「開場は1時半からです」と受付でストップをかけられてしまいました。一種のフライングです。寺田の福岡取材に懸ける思いが強すぎたのでしょう。
 5分後に「一番乗りは俺だ」と勇んで鳳凰の間の扉を開けると、朝日新聞・増田記者がすでに最前列でスタンバっていました。主催新聞の特権ってやつです。「ちょっとずるいぞ」と思いましたが、“掃除好き”の増田記者のこと。会場を綺麗にしてくれていたのかもしれません(増田記者は名前が“そうじ(創至)”。全日中優勝だったか2、3番)。

 そんなことは実はどうでもよくて、重要なのは受付で受け取った福岡国際マラソンのプログラムです。この日記でも何度か書いているように、寺田がコラムを書かせてもらいました。タイトルは「平和台の坂」。サブタイトルが「瀬古利彦と高岡寿成」。ドキドキしながらページをめくりました。
 プログラムの後ろの方に過去の成績が数ページにわたって載っているのですが、そのページの直前に、3ページにわたって掲載されていました。これはもう感動しました。自分の書いた文章が載って感慨にひたることは最近ではほとんどありませんが、福岡国際マラソンだけは別格です。
 その記事中にも書いたのですが、寺田が専門誌を読むようになったきっかけが福岡国際マラソンの記事でした。瀬古局長が優勝して2位が喜多秀喜監督、3位が宗茂さん。瀬古局長の福岡での強さは書くまでもありませんが、最近のファンは詳細を知らないだろうという前提で、簡単に紹介しました。寺田にとっては“簡単な紹介”のつもりですが、知らない読者にとっては“念入りな紹介”だったと思います。それでも、かなり文字数を削ったんですが。
 瀬古局長自身からも福岡の思い出を聞くことができましたし、レース中のエピソードの確認をとるために喜多監督にも電話をしました。この取材は嬉しかったですね。自分が一読者だった頃に読んだ記事の裏側を、色々と聞くことができたのですから。

 コラムの執筆依頼を受けたのは瀬古局長だけでなく、高岡寿成コーチとセットで書けると思ったからです。高岡コーチは皆さんの記憶に新しいと思いますが、4レース連続で2時間8分を切りながら、2003年の福岡で国近友昭選手と諏訪利成選手に敗れてアテネ五輪代表を逃しました。
 トラック長距離種目の日本記録を全て更新し、シドニー五輪では1万mで入賞した選手。その足跡も全て、マラソンで世界と戦うための準備とまで位置づけました。福岡で五輪代表切符を取ることも、当初からのプラン通りです。そのくらいに強い思いで臨みながら、あと一歩のところで勝利の女神に見放された選手でした。
 当初増田記者とは、サブタイトルを「福岡に愛された男、愛されなかった男」とする方向で話をしていましたが、コラムを書いていて変更しました。その理由を説明するのは難しいのですが…。
 瀬古局長優勝の福岡記事が陸上競技記者の道に入ったきっかけだとするなら、高岡コーチは一番長く取材した選手。どちらも、思い入れの深い人物なのです。その2人を福岡国際マラソンのプログラムで書けたらもう、何もやり残したことはない…と言ったら大袈裟ですが、それに近い感覚になったのは事実です。そのくらい、寺田にとっては大きなことだったのです。
 ここまでの文章では「平和台の坂」というタイトルの意味がわからないと思います。平和台に坂なんかあるのか、と思われた方も多いのでは? これは、平和台陸上競技場への取り付け道路の坂のことです。ほんの少しの坂なのですが、その坂が苦しかったと高岡コーチから何度も聞いていたのです。その話を瀬古局長にしたら……というのがコラムの一番の核となる部分です。いずれ、このサイトでもきっちり紹介したいと思います。

 ということで、記者会見以降の出来事は省略……したらいけませんね。
 会見はTs・ケベデ選手とバラノフスキー選手、国内招待の佐藤智之選手とモグス選手の4人が出席。全体会見後に個々の選手のカコミ取材ができる九州&毎日方式。福岡と別大とびわ湖で実施されていますが、東京と女子3大会も導入してほしいやり方です。カコミ取材はモグス選手のところに。来年3月あたりに記事を書くかもしれない選手なのです。
 佐藤選手とTs・ケベデ選手のコメントも、他の記者から聞かせてもらうことができました(間接的なコメントはサイトには載せない主義です)。
 会見後は部屋にこもって原稿書き(初めて西鉄グランドホテルに泊まりました)。書きかけだった陸マガのシーズン総括の記事を書き上げました。総括といっても短めの記事です。
 その原稿を書く前に、プログラムの他のページもざっと目を通しました。
 増田記者も3個所くらいに記事を書いています。福岡のメイン担当ですから当然なのですが、ここでも「ちょっとずるいぞ」と思いました。今季の男子マラソンを振り返ったページがあって、その書き始めがとってもインテリジェンスな香りが漂う文章なのです。
 ベルリンの世界選手権のことを書いているのですが、「ブランデンブルク門」「18世紀末」「ナポレオン」「東西ドイツ統一」といった歴史的な言葉を惜しげもなく使っている。寺田のこてこての陸上競技文章とは大違いです。歴史路線で書くなら書くと言ってくれれば、ユンカーとかビスマルクとかアウステルリッツ(三帝会戦)とか、こちらも書き込むことはできたのです(こう見えても西洋史専攻)。後で抗議をしておきました。
 でも、増田記者のおかげで一生の思い出となる仕事をすることができたのです。こんなところで恐縮ですが、心から感謝の意を表したいと思います。


◆2009年12月5日(土)
 福岡国際マラソン前日。
 今日は大会本部ホテルの西鉄グランド・ホテル滞在を最大限に利用できた1日でした。といっても、午前中は原稿書き。福岡に持ち込んだ原稿量は過去最多かもしれません。
 昼頃、ロビーに行くと、ペースメーカーの三津谷祐選手がコースの下見に行くところに出くわしました。さすがに、車には同乗できないので、戻ってくるのをロビーで原稿を書きながら待ちました。
 その間に、河野匡長距離・ロード特別対策委員会副委員長に、今回の福岡に日本人有力選手の参加が少なかった理由を取材できました。
 三津谷選手が戻ってきたところで、少し取材ができました(ホテルの取材禁止区域外で)。すでに皆さんご存じと思いますが、2月に初マラソンを予定しているので、それに向けて参考となるデータを収集するのが狙いです。「マラソンの雰囲気や、強い選手のアップを見ること」が目的だと言います。
 9月の全日本実業団の際に夏までの練習について取材させてもらっていますが、その後の練習の流れを聞かせてもらいました。夏までは1本1本で距離の長いメニューをこなすのでなく、継続的な量の多さを求めていました。しかし、11月に入ってからは「40km走も2本」走るなど、個々のメニューも長い距離をこなすようになったそうです。

 15時頃に部屋に戻って原稿書きの続き。知り合いのHディレクターとWディレクターにも、ちょっと事情があって電話取材。
 夕方、またロビーに行ってサイトの更新作業(無線LANで)。部屋でもネットはつながりますが、サイトにデータのアップができません。ホテルではときどき、そういうことがあります(海外でそうなったらかなりやばいです)。
 今回はエレベーターで旭化成・宗猛監督と一緒になりました。ロビーで宗監督の仕事が終わるのを待って、カフェで取材をさせていただきました。この取材も、福岡の日本人選手がここまでひどくなった理由を聞かせてもらうことが目的でした。
「マラソンに本気で取り組む選手が少なくなっている。きちんと練習して出るのではなく、チョコチョコっとやって出ている。特に福岡に出るとなると、夏場の暑い中でトレーニングをする必要があります。涼しい時期に楽にやろうと思うと、2〜3月のマラソンになってしまうのでしょう。自分たちが現役だった頃は、福岡は体調が悪くても、無理をして走りたい大会だった。事実上の世界一決定戦だった。今の選手にはそんな思いはないですから。マラソンへの思い入れ自体も、小さくなってしまっている。選手の“マラソン離れ”が進んでしまっているように思う。今回はアジア大会の選考に入っているのも一因。来年11月のアジア大会には出たくないのでしょう。ウチは佐藤も、来年のびわ湖に出る予定の清水(清水将也)も、アジア大会を走りたいと言っているし、佐藤などは福岡を走ってニューイヤー駅伝を走るのが当たり前になっている」
 選手の“マラソン離れ”という部分は、現場の指導者でないと実感できない部分ですが、福岡に思い入れをもって走ったという部分は、立場は違っても共感できる部分でした。

 夜も部屋で原稿書き。福岡だからなのか、珍しく集中できて筆が進みました。
 一安心してぶらっと外に食事に行きました。サイトの更新はドコモの無線LANができるモスバーガーで。
 部屋に戻った後も原稿書き。


◆2009年12月25日(金)
 今年も残すところあと僅か。やっと日記が書けるので(日記上は20日ぶりですが実際は9日ぶり)、福岡国際マラソン以降を駆け足で振り返ろうかと思ったのですが、それも難しそうなのでクリスマスらしい“心温まる話”を1つ2つ紹介したいと思います。

 福岡国際マラソンはご存じの通りの結果です。Ts・ゲベデ選手(エチオピア)は2時間05分18秒の国内最高記録で優勝したのに対し、日本勢は下森直選手の9位が最高。8位以内の日本選手がゼロというのは、同マラソン歴史上初めてだそうです。タイム的にも、瀬古さんが大学2年で初めて日本人トップになった1977年以来の低さ。三津谷祐選手のペースメーカー記事は別として、日本勢には明るい話題が皆無でした。
 陸連幹部の会見時には当然、その部分を突っ込まれました。駅伝偏重の現状や、日程の問題(これも駅伝が絡んできますが)など、関係者が認識していないわけではありません。でも、どうすればいいのか、これという解決策があるわけではない。あれば、とっくに実施しています。
 陸連幹部の口からは具体的な実業団のチーム名まで出て、こういう部分まで会社がお金をかけて大変なのだという説明までありました。陸上競技ファンもそうだと思いますが、我々メディアも実業団の現場が置かれている状況を、肌で実感していません。駅伝を頑張らないといけない大変さを知らずに、口だけ「駅伝よりもマラソンだよ」と言うのは簡単です。それだけでは、何の解決にもならないということです。それでも、言い続けないといけない部分でもあると思いますが。
 実は今日も、このあと秘密結社Fの集まりがあります。テーマは福岡国際マラソン再建。集まる全員が、福岡国際マラソンのプログラムに名前の載ったことのある人間たち(寺田が一番回数は少ない)。福岡への思い入れのある人間ばかりです。
 主催者や関係者が聞いたら「なんだよ」と思われるのでしょうが、非公式の集まりですからやるのはこちらの勝手です。この手の集まりが日本で何百とできたら、問題は解決するかもしれません。初めの一歩だと思っていますし、いつかは福島千里選手のように「小さな一歩です」と言えるときが来ると信じて参加したいと思います。

 すみません。心温まる話題を書くのでした。
 日本人トップの下森直選手は最後まで、日本人トップということを自身でも評価しませんでした。日本人トップに対して記者たちは「どこがよくてこの結果が出たのか」という聞き方をします。下森選手が話したのは自己新が出た理由として、こういう取り組みをした、という話でした。記事によっては、日本人トップになれた理由のようなニュアンスでそこが書かれてしまっているかもしれません。
 繰り返しになりますが本人は最後まで、日本人トップという点を評価しませんでした。
 しかし、火曜日に追加で電話取材をさせてもらったときに、走り終えるのを待っていた家族とのやりとりを聞かせてもらうことができました。それが陸マガで記事にした、
 取材が終わるのを家族が待っていた。レース前はいつも「1番になってね」と送り出してくれる6歳の長女が、花束を渡してくれた。「日本人で1番だったよ」と父親は報告した。
 という部分です。
 会社や陸連のサポートは順位や記録によって左右されますが、家族は見返りを求めているわけではありません。「日本人で1番だったよ」というコメントが心にしみたような気がしました。

 福岡では表彰式のときに聞いた川内優輝選手の話も、ほのぼの系の話題でした。陸マガに書くことはできませんでしたが、朝日新聞には記事が出たのでよかったです。機会があったら紹介したいと思います。
 心温まる話……というよりも、ちょっと良い話かもしれませんがもう1つくらい、全日本実業団対抗女子駅伝から紹介できればと思っています。


◆2009年12月26日(土)
 昨日の非公式福岡国際マラソン再建会議ですが、さすがに「これで問題解決だ」といえる案が出たわけではありません。ただ、「これは!」と思える案が1つ出ました。寺田もまったく思いつかなかった考えです。実現するには選手の頑張りが必要なのは当たり前ですが、成功したら男子マラソンの起爆剤となるかもしれません。
 ストレートに書いても良いのですが、今日一日考えていて、フィクションの体裁をとるのも面白いかなと考えるようになったところに、クリール樋口編集長から電話が来ました。箱根駅伝速報増刊号の打ち合わせで、さっそくその案を話しました。速報号にはふさわしくないということで却下されましたが、少しは興味を持ってくれたようで、何かの形で公にできるかもしれません。

 話は変わって福岡国際マラソン後にあった“ちょっと良い話”は、全日本実業団対抗女子駅伝の取材時のことです。
 その話の前に書いておきたいのは、今回の3区が素晴らしく面白かったということです。先行する資生堂の藤永佳子選手を三井住友海上の渋井陽子選手が追い上げていると、天満屋・中村友梨香選手と第一生命・勝又美咲選手が後方から追い上げてきて渋井選手と3人の集団になりました。その3人が追い上げて、藤永選手とデンソーを吸収して5人の集団になりました。
 世界選手権欠場から復帰レースとなった渋井選手は、この区間を10回以上も走っている“3区の永世女王”的な存在。中村選手は日本選手権5000m優勝、世界選手権1万m7位と今年のトラック実績ではナンバーワン。藤永選手は世界選手権マラソン代表。
 勝又選手は2年前の1区区間賞で、その後は故障に泣かされましたが山下佐知子監督が「3区に使ってみたい」と言い続けていた選手。須磨学園高出身で、県西宮高の中村選手とは高校時代のライバルでした。
 これだけの選手だけでもすごかったのですが、藤永選手とデンソーが後れて渋井、中村、勝又の3選手が競り合っているところに、中村選手から28秒も後方でタスキを受け取ったワコール・福士加代子選手が6.3kmで追いついたのです。4人が横1列に広がったシーンは迫力がありましたね。
 福士選手のすごかったのは、そこで休まなかったこと。5kmを15分14秒で通過したときは「あとは死ぬだけだな」と思ったと言いますから、ゆとりがあったわけではないはずです。個人種目だったら追いついたところで休んで、終盤勝負に備えたのでしょうけど、そこはチームで戦う駅伝ということで、スピードを緩めず突き進みました。
 久しぶりに手に汗握ったというか、興奮しましたね。その後ことあるごとに、あの3区はすごかったですね、という話をしまくっています。監督さんたちは全員、同意してくれています。そのうちの1人は「前の日の日本酒がなかなか抜けなかったんですが、あれで目が覚めましたね」と話してくれました(大会前日というのは、選手の親御さんや関係者たちと、付き合いがあるのです)。

 全日本実業団対抗女子駅伝の取材は、選手や指導者たちを相当数、話を聞かないといけません。少なく見ても20人は聞きます……正確に数えたら今回は22人でした。フィニッシュ後にすぐに優勝チームの会見があり、その後に長良川国際会議場で表彰式があります。徒歩で5〜7分くらいの距離があることと、スタンドの応援団に挨拶をする時間を主催者が考慮してか、表彰式まで少し時間があります。それで、これだけの人数の取材が可能になるのです(ニューイヤー駅伝はここまでの人数は取材できません)。
 表彰式が始まる直前だったと思います。日本ケミコンの泉田利治監督とすれ違いました。 泉田監督といえばダジャレの名手。陸上界3大ダジャレ好き指導者の1人に数えられています。
 日本ケミコンは一昨年は6位と10何年ぶりかに入賞をしました。環境面、活動予算面で制約のあるなか、大健闘でした。翌年の実業団駅伝公式ガイドで取り上げさせていただき、利府まで取材に行きました。昨年は17位と順位を落としてしまいましたが今年は10位。健闘の部類と言っていいと思います。
 監督とすれ違う際に「ベストテン返り咲きですね」と声を掛けました。寺田なりに含みを持たせたつもりでした。

 話は少しさかのぼらないといけません。
 11月3日の東日本予選の際に、あるチームのことを「日本ケミコンとは対照的にエリート軍団ですね」と寺田が言ったところ、泉田監督が「いとしのエリート軍団だね」と返してくれました。サザンオールスターズのいとしのエリーは、今の選手にも通用するとは思いますが、微妙になってきているのも事実です。
 11月末の東レ上海マラソンでもお会いしました。女子ハーフマラソンで大塚製薬の伊藤選手が優勝し、日本ケミコンの正井裕子選手が2位でした。
 表彰待機所で2人に取材をしていると泉田監督がやってきて、何か話をされて、そのオチに「コンドルは飛んでいく」という、昔流行った南米の曲名を言ったのです。たぶん、今の選手は知らないだろうと思って伊藤選手に聞くと、案の定「わかりません」とのこと。すかさず「優勝したら(取材などで)忙しくててんてこ舞いと、次の矢を放ってくるあたりはさすがでしたけど…。
 とはいえ、音楽ネタですべったのは事実です。そういった経緯もあり、10位と健闘した岐阜の駅伝後に、往年の名物歌番組である「ザ・ベストテン」(TBS系列でした)を出してみたのです。
 泉田監督はそれには応えず、「選手たちには言ったんだよ」と切り出してきました。
寺田「なんて言われたのですか?」
泉田監督「おれたちゃ犬猫病院だからよ、って」
寺田「犬猫病院……ですか?」
泉田監督「そう。ペットの病院」
寺田「???」
泉田監督「おれたちは10位(獣医)だからよ」


 2年前の6位の直後は、泉田監督もかなりテンションが上がってたのでしょう。「ダジャレばっかり言っているただの親父ではないことを示すことができた」とレース後に話してくれました。本人が公の場でそう言われるのなら、選手に質問しても良いと判断。利府に取材に行った際に質問させてもらいました。ある選手が「日本ケミコンは監督がサプリメントだと、他チームの選手から言われます」と教えてくれて、公式ガイドの記事にもしました。
 日本ケミコンの練習量はかなり多いと思います。高校時代に実績のない選手がエリート選手に勝つためには、地道に走り込まないといけないという考えが泉田監督の基本方針です。地味できつい練習にどう前向きに取り組めるかで、日本ケミコンで強くなるかどうかが決まってきます。程度の差こそあれ、長距離はどこでもそうなのでしょう。そのために指導者もあの手この手を考えます。
 そのうちの1つがダジャレだとは言いませんが、泉田監督が自身のダジャレ好きのキャラを選手と接する際に役立てているのは確かだと思います。

「おれたちは10位(獣医)だからよ」と、記者に平気で言い放つ。そんな泉田監督の生き方と言ったら少し大袈裟ですが、何かが寺田の琴線に触れました。「そういうのもいいな」と思いました。
 何が“そういうの”なのか説明するのは難しいのですが、自身の置かれた環境のなかでできることを精一杯やればいいのかな、という気持ちに、少しだけなれたような気がします。泉田監督と日本ケミコンがそうだと言っているのでなく、寺田が勝手にそういう生き方もいいと思っただけです。
 昨年の北京五輪以降、目標を見つけられずにいる寺田です(以前に書きましたっけ?)。これまで以上に大きな大会(オリンピックとか)の取材ができるわけでもないし、今の仕事がビジネスとして拡大できないことは、独立してからの9年間でよくわかりました。
 自身に閉塞感を感じていたところに福岡国際マラソンのプログラムの仕事がありました。この道に入るきっかけとなった瀬古局長の福岡優勝と、最も長く取材した高岡寿成コーチのことを書くことができ、「これって区切りにするのにちょうどいいかもしれない」という文字が、頭のなかでうっすらと点滅しました。
 でも、他にやりたいことがあるわけではありません(仕事に追われない生活には憧れますけど)。

 そういう心理状態で取材した全日本実業団対抗女子駅伝で、3区の争いを素直にスゴイと感じることができ、泉田監督のいつものダジャレに接して……という話のどこが“ちょっと良い話”なんだと思われるかもしれません。客観的には“どうでも良い話”の部類に入るかもしれませんが、寺田にとっては“ちょっと良い話”でした。


ここが最新です
◆2009年12月27日(日)
 考えてみたら今週末は、試合取材がない数少ない週末でした。個人的にもある終末が近づいていまして(単なるダジャレと受け取ってください)、そんなときに赤坂の本屋で購入したのが「終末のフール」(集英社文庫)です。
 著者は伊坂幸太郎坂水千恵選手(ナチュリル)がブログでお気に入りと書いていた作家で、寺田も何冊か書店でぱらぱらとページをめくったこともありました。いつか読んでみたいと思っていた作家の1人です。
 実際に読んでみたら、面白かったし上手かった。上手かったというのは、読者をまったく飽きさせないことを指しています。ストーリーテラーってやつですね。
 面白かったというのはもちろん内容のこと。3年後に小惑星が地球に衝突して人類が滅亡する背景設定と、そういった極限状態のなかで顕在化する人間の行動や心理、ちょっとした偶然が引き起こすドラマといったところを、実にうまく描いています。作っているのか、伊坂氏の自然な思考なのか。いずれにしても、才能を感じました(でも、「肉体マネジメント」<朝原宣治著、幻冬舎新書>の方が面白いです。陸上競技ファンには)。
 元々、寺田の好きなミステリーでデビューした作家と聞いています。何冊か読むことになるでしょう。

 全日本実業団対抗女子駅伝後の話題としては、12月15日の陸連のアスレティックアワードがありますね。銀メダルの尾崎好美選手でなく、銅メダルの村上幸史選手がアスリート・オブ・ザ・イヤーでした。この点は陸連が、投てき種目史上2人目のメダリストを積極的に評価したということです。ほとんどの人が納得できる選考でした。
 疑問を感じたのは優秀選手賞に福島千里選手が選ばれなかったこと。K通信T記者や何人かの記者が疑問の声を挙げ、陸連にも問い質していました。
 優秀選手賞は全員が世界選手権入賞者です。判断の“物差し”を完全に一本化しましたが、アスリート・オブ・ザ・イヤーを世界選手権の順位にこだわらずに選んだように、ここでも陸連の積極的な評価が欲しかったところです。
 主催者が自由に選んでいい賞ですが、だからこそ単純でない線引きをしてもよかったと感じています。陸マガのアスリート・オブ・ザ・イヤー投票では、間違いなく福島選手が上位に入ると予想しています。

 そもそも、賞の選考は投票にした方がいいでしょう。
 陸連は賞を選考する組織……かもしれませんが、強化をする組織でもあります。今年は村上選手で不満は出ないと思いますが、複数選手が甲乙つけがたい成績を残すケースも出てくるでしょう。92年バルセロナ五輪の年のように森下広一選手と有森裕子選手が2人とも銀メダル、04年のように野口みずき選手と室伏広治選手の2人が金メダル、というシーズンもあります。
 そういうとき、強化を担当している組織が「こっちのほうが優秀だよ」と決めてしまったら、選手は「なんだ。陸連はそう思っているんだ」と考えます。陸連にとっても選手にとってもいいことはない。「投票の結果だから」と言えば、選手も納得するしかありません。
 投票でどうしても陸連が選びたい選手が入らなかったら、特別賞(陸連賞)を設定すれば漏れてしまうことはありません。
 A新聞O田記者も投票派。陸連内部からも「外部の有識者も入れて、選考委員会を作った方が良い」という意見も出ていましたし、やはり陸連内部から「書いていただければ、より良い賞にしていける」というご意見もいただいています。

 小心者の寺田が陸連にもの申すのは4年ぶり。前回は世界選手権男子1万mの選考ミス(大森輝和選手と三津谷祐選手)のときでした。国体のサブトラック取材を求めているのは、普通のお願いです。


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