2008/10/25 日本選手権リレー
“休養”に入る佐藤美保が会見
「節目、節目で色んな人と出会ってここまで続けてこられた」


●休養を決めるまでの経緯
「北京五輪への思いが途切れたとき、一区切りをつけようと思いました」
「アテネ・オリンピックが終わって、次の北京オリンピックまで4年間、頑張ろうと決めて、その過程で(中国電力・佐藤敦之と)結婚をして、夫婦揃ってオリンピックに出ることが夢になりました。その夢は半分しかかなわなかったのですが、日本選手権が終わって思いが途切れたとき、次にどうしたらいいかを考えたら、気持ちの面で一区切りをつけようと思いました。主人はこれからも競技を続けるので、広島に行って、サポート中心の生活をしたいという気持ちになりました。主人は私が続ける気持ちになったとしたら、きっと応援してくれたと思いますが、まだ続けた方が良いとかは、特に言いませんでした。(肉体的な限界は?)それはまったく感じていなくて、今回は気持ちの面が大きかったです。秋のシーズンは目標が何も見えませんでしたから」

●休養という言葉を使った理由
「復帰は次に目指したいものはこれだという気持ちが盛り上がったとき」
「自分の中で引退という感じ方をしていないからです。家庭があって、主婦をやって、子供も授かるかもしれませんが、そういった生活が順調にいっている中で、また走りたくなるかもしれません。一度引退と言ってまた走るのもどうかと思うので。母親でも活躍している選手は、海外ではよく聞きますし、赤羽(有紀子)さんもそうですし。(具体的にどうなったら復帰するというイメージが?)気持ちがしっかりと固まらないと動けません。次に目指したいものはこれだという気持ちが盛り上がったときでしょうか。それがいつになるかは、わかりません。広島では生活を第一に考えて、そのなかで余裕が出てきたら、になると思います。(800mは中断があるときつい種目だが?)戻ってきたときに何の種目をやるかはわかりません。色々な種目に興味があります。ハードルはないと思いますが(笑)。くぐった方が速いですから」

●競技生活を振り返って
「1分台は出せるときに出しておかないと難しい」
「オリンピックを目標にやってきて、その前年にヘルニアの手術をしたときは、『ダメかな』という不安に駆られました。そこであきらめていたらアテネ五輪も含めてその後の競技生活はありませんでした。アテネが終わって4年後を目指したときも、1人の選手としてだけでなく、夫婦として出たいと思って頑張ってきたこともすごく充実していました。1分台には相当にこだわりました。出せるときに出しておかないと難しいのだな、というのが実感です。後悔の気持ちが大きいのですが、やってきて足りなかった部分はわかっています。それを全部クリアしたら行けると思っています。それを実行する気持ちになれたら、もう1回挑戦したいと思います。高校の時に400 mに距離を伸ばしましたが、走幅跳を選んでいたらここまで続けられなかったと思います。そこが1回目の大きな転機でした。その後も節目、節目で色んな人と出会って、オリンピックもそれがあったから行くことができたと思っています。京セラをやめたときも、その後は何も決まっていなくて陸連の競技者支援を受ける申請をしました。その最後で川本先生と出会って、ナチュリルでお世話になることができました。元々短距離出身ですから、細かい動きを指導していただいたことはすごくプラスになりました。自分のこれからのことを考えても、良い出会いがたくさんありました」

●今後のこと
「あと一歩まで来ている選手へのアドバイスなら」
「自分が学んできたことを多くの人に伝えたい気持ちはありますが、指導者向きではありません。マネジャーみたいだって言われてきましたし(笑)。それでも、あと一歩まで来ている選手にちょっとアドバイスしたり、相談に乗ることならできると思います。選手によってタイプが違うのですべてにあてはまるわけではありませんが、私はこうしてきたという感じでは話ができると思っています」

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