陸上競技マガジン2008年8月号
INTERVIEW
為末 大(APF)
限界の先へ。

●不調の中でも発揮した“らしさ”
 まさか、というシーンが展開された。故障明けの為末大(APF)がスタートから先行した。終盤で成迫健児(ミズノ)が逆転すると誰もが思っていたが、最後に“ひと伸び”があったのは為末の方だった。
「リミッターを切ったとしか言いようがありません。スタートからかっ飛ばしたことは覚えているんですが、その後のことはよく覚えていないんです。最後は、何かに押された感じですね。運もありました。ヘルシンキ(世界選手権)と同じ7レーンだったことで、不思議な感じはありました。逆のレーンだったら、違う結果になっていたかもしれません。ただ、ヘルシンキは8番になってもよかったのに対し、今回は最悪でも2位に入らないといけなかった。博打を打つに打てない状況で、精神的にロックがかかっていたはずなんです。でも、結果的にそれを破ることになりました」
 3月末から1カ月半ほど、走る練習ができなかった。日本選手権も、前日の予選は50秒87かかった。今季48秒台を出している成迫には勝てない、と考えるのが普通だろう。為末自身も含めて誰もがそう思っていた。
 日本選手権に向けた記者会見の席上、高野進強化委員長は為末の不調を認めつつも「“特殊な能力”を持っている選手ですから」という表現で、僅かの期待を表明していた。それが、ものの見事に的中した。
 実際のところ、日本選手権の優勝記録は49秒17と良くはない。だが、“スモールサイズ”で為末らしさが存分に発揮されたのが日本選手権だった。
●大一番を前に続いた葛藤の日々
「4月、5月は本当に苦しかったですね。NTCのグラウンドを裸足で歩くだけという毎日で。100 mの芝生を100往復とかしていましたよ。こんな状態でオリンピックに行けるのか、と思ったこともありました」
 左のふくらはぎ(アキレス腱に近い部分)を3月下旬に痛めた。3週間ほどで練習を再開すると、今度は右のふくらはぎを痛めて、また3週間の中断。走る練習が1カ月半できなかった。ハードルを本格的に跳び始めたのは6月2日。14日に福岡大競技会に出場したが、ラストの直線で失速して51秒28。その日、為末は次のように話した。
「人生で一番遅いタイムかもしれません。(日本選手権に向け)ひと言でいうとピンチ。練習量もこれまでで一番少ないでしょう。でも、痛みが出なかったのはよかった。一度心が折れたら終わりです。根拠はないけれど、トップ争いできる気もするんです」
 闘争心が萎えることはなかったが、不安を拭い去る根拠を持つまでには至らなかった。
「特にきつかったのはレースの10日前。練習で、(日本選手権での好成績は)到底不可能と思われるタイムでしか走れなかったときでした。その後は、激昂しそうな自分になっていることに気づきました」
 インタビューなど、理路整然と話すことで知られる為末。豊富な知識と独自の世界観を、相手にわかりやすい例え方で説明する様は、スポーツ選手というよりも文化人に近い。だが、それは一面の為末でしかない。広島の野山を駆けめぐって育った“原(げん)・為末”は、喧嘩っ早いガキ大将だった。
「人の立場を考えずに、ストレートな表現をしてしまったりしました。気を抜いたら、通りがかりの人を突き飛ばすんじゃないか、という心理状態にまでなっていました。自分では、レースの瞬間だけそうなって、普段は大人として振る舞える人間だと思っていたんですが…。いずれにせよ、競技人生でプレッシャーが一番大きかった」
 予選は2組の1位で通過したものの、50秒87は決勝進出者のなかで8番目のタイムだった。予選後には次のように話している。
「3日前から体調が上向いて、今日、一歩を踏み出した感じが良くて、行けるかなと思いました。ただ、1周そつなくというか、前半で行ってしまうと力尽きる不安があったので、省エネを心掛けて走りました。決勝は(成迫に次ぐ2位で)オリンピック代表を狙う消極的なレースではなく、チャンスがちょっとでもあるなら優勝を狙います。願わくば、成迫選手の外側のレーンがいいですね。その方が、自分が思う通りのレースができます」
 レース直後の高揚感も手伝ったのか、強気な部分も顔を覗かせていた。
●腰位置の修正で光明を見出す
 ところが、冷静に見たら体調自体が良くない。その目安の1つが1台目の踏み切り位置が「遠い」こと。シーズンイン直後にはよく経験するが、日本選手権の時期では珍しい。今年は前述の福岡大競技会が危なかったし、日本選手権の予選も同様だった。
 それが決勝前のアップでは、“これは”という感覚も得られていた。
「予選のビデオを見て腰が高いと感じたので、決勝のウォーミングアップ中に、腰の位置を一段下げてみました。私はジョグはしないで流しから入るんですが、そのときにやってみて、ドライブが効いてギューッと地面にへばりつく感じがあった。その後にストレッチとドリルを行い、スパイクを履いて1台目までを4〜5本やりました。“いける、いけるぞ”と思いながら。(06年はハードルを跳ばずに)スプリントだけをやっていたから、自然と腰高になっていたのでしょう。ハードルを上から見るのは鉄則ですが、私は(比較的)下から見るんです。そういえば昔はそうだったと思い出しました」
 レースが近づくにつれ、少しずつ好材料は出てきていた。だが、それで成迫に勝てるとは思えなかった。他ならぬ為末自身が、成迫の能力を高く評価していたからだ。
「“安全に”“2位でいいから”と、自分に言い聞かせていました。成迫選手以外の選手に負けるのがすごく怖かったんです。ピストルが鳴って歓声が上がったときも、“行くなよ”と。でも、2、3歩目ですごい勢いがついてしまった。そうなってから手綱をしめようとすると、かえって体力を使います。“行ってしまえ”となったのですが、そこから後のことはよく覚えていません。8台目くらいから、成迫選手が横にいるな、とわかったくらいですね」
 去年の日本選手権では、バックストレートの風を瞬時に察知して体力を温存。フィニッシュ前の成迫との競り合いを制した。レース中の意識と無意識の境界を決めるのは難しいが、そのときは「意識して動かした方」と言う。その点、今回の日本選手権は、何かを意識した展開ではなかった。本能的な部分だけで戦っていた。それこそが“原・為末”といえる部分だった。
●子供の頃から備わっていた特殊な能力
 そういうときの方が、為末自身も予想できない力が発揮される。銅メダルを獲得したエドモントンとヘルシンキの世界選手権が、“原・為末”の力が発揮された最たる例だという。もっともヘルシンキは、荒天のなかでの外国勢の焦りを計算していた。自身の特徴である先行策をさらに強め、微妙な力の上げ下げでライバルたちを翻弄した。本能的な部分に、昨年の日本選手権のような“意識して動かした”部分が加わっていた。
 しかし、いつもなら減速の大きいフィニッシュ前で力を出せるのは、戦略や戦術では説明がつかない部分だ。
「最後に不可思議というか、理屈では出るはずのない力に押されるのです。それはいつでも出せるものではありません。いつでも出せたら能動的ですが、その力が発揮されたときは受動的に、走らされている感覚になるんです」
 中学・高校と全国タイトルを取り続け、高校3年時の世界ジュニアでは400 mで4位。同じ年に地元で行われた広島国体では、400 mと400 mHの2冠。高校生初の45秒台(45秒94)と、高校記録を1秒近く縮める49秒09を記録した。
「中学の頃から“勝負所でなぜか勝つな”と自分で思っていました。国体の2つの記録は、銅メダルのときと似た部分はありましたね。400 mでは200 m通過が22秒0くらいでしたから、当時の自分としてはすごい飛ばし方です。400 mHもそうで、先生の指示はスタートした瞬間に忘れてしまって、気づいたらぶっ飛ばしていました。世界的な大会かどうかよりも、自分の思い込みでしょうね。今回の日本選手権もそうですし、3年のインターハイも2年間故障で出られなかったから、追い込まれた心理状態になっていました。そういうのがわかっていたから、会社をやめたり(03年に大阪ガスをやめてプロに)、レースでもいくらでも負けたりするのだと思います」
 “特殊な能力”と言った高野強化委員長は、為末のこの特徴を次のように説明してくれた。
「心理学的には“フロー状態”と呼ばれるものだと思います。アドレナリンが一番良い覚醒水準になる。彼は中学の頃から、自分のストーリーを持っていて、無意識的にその中に入り込めるのではないでしょうか。ここにはまったらこうなる、と。決勝に行ったときに過去のストーリーがよみがえって、本来の“化けた為末”が出てくるんです。考えてやっているわけではなく、ピストルが鳴って無意識に出てくる。それを“押される”という、外からの力に感じるのでしょう。真似できるものではありませんね」
●「奇蹟は、もう1回起きる」
 “原・為末”とは対照的ではあるが、今は戦略性の高い為末。北京オリンピックで戦うには、この“特殊な能力”を使うしか方法がないことはわかっている。昨年の世界選手権前にインターバルの14歩を9台目まで伸ばす戦略を考えていたが、その頃から、最後の世界舞台となる北京は“本能で戦う”というニュアンスの発言をしていた。
「いつでも出せるものではない」という部分とは相反するが、そこを為末がどう計算しているのだろうか。
「そういうものだけで戦えると思ったら、宗教的になってしまいます。トレーニングなどで積み上げて戦うのが本来の姿。だからこそ理詰めでやっていくし、決勝のレースに行っても直前までは、どうやって速く走るか理屈を考えていると思います。日本選手権も腰の位置を低くする走りをやっていなかったら、負けていたかもしれません。そこを追い続ければ、よくなる感触はあります。ただ、最後の踏ん張りだけは、練習では捨てます。はまれば最後まで持つと思っていますから」
 ふくらはぎの痛みが完全になくなったわけではない。それでも、日本選手権1週間後の南部記念に「試合の興奮状態になれば痛みを感じない。良い練習になる」と出場した。オリンピック本番までにスパイクを履ける練習は「試合を入れて8〜9回。1日1日が重くなる」と予想しているが、為末が力を発揮してきた“追いつめられた状態”だろう。
「日本選手権は実際のスピードは速くなかったのに、魂が燃えた感じがすごくありました。疲労が残るのでもなく、身体の状態は日本選手権を境に良くなった。練習ができていなかったからタイムは49秒台でした。これを48秒とか、47秒台に持って行くには身体も仕上がって、さらに精神的にも高ぶって来ないと出せないでしょう。準決勝までは自分の力で勝ち抜いて、決勝になったら何かが起こってくれる。日本選手権で奇跡が起きたら、もう1回くらい起きる気がするんです。自分はそういう人間だと思っています」
 意識的には出せない“原・為末”を、最後の大一番で出す戦略を、着々と実行している。そのための大きな布石となったのが日本選手権だった。


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