2006/4/15 東海大・日大対校
4年ぶり400 m出場の末續
2年半ぶりに試合に復帰した
山村
2人にとっての200m・300m通過タイムの意味


 オープン400 mは4年ぶりにこの種目を走る末續慎吾(ミズノ)と、04・05年と故障で試合を走っていない山村貴彦(サイボウズ)の2人が出場することで注目を集めた。山村が1学年先輩。ともに高校時代に全国一を経験し(末續は国体)、00年のシドニー五輪は大学3年と2年で出場した。末續によれば2人の直接対決はほとんどなく、97年の京都インターハイ200 m決勝(山村1位、末續8位)以来かもしれないという。インカレの4×400 mRも走順が違って一緒に走っていない。
 末續が5レーンで、1学年上の山村が6レーン。スタートから末續が飛ばし、第2コーナーを出てすぐに(110m付近)で山村を抜き去った。

    200m   300m  400m
末續 21秒44 32秒82 46秒86
山村 22秒31 34秒14 48秒11
※200 mと300m通過は日大スタッフによる手動計時。400 mは正式計時

 末續の200 m通過は寺田の手元でも21秒42で、複数の専門誌記者の計測も同じだったので、21秒4と言ってよさそうだ。山村の200 mに関しては22秒1という計時もあった。
 300mまでは末續が差を広げる一方。小坂田淳(大阪ガス)が昨年マークした300mの日本記録は32秒68。今日はバックストレートが強めの追い風だったとはいえ、直線を2回走る単独種目と違って、曲走路が200 m近くを占める中でのタイムである。実質的には日本記録を上回るようなタイムと言っていい。
 最後の直線で末續は大幅にペースダウン。山村がほんの僅かだが差を詰めた。 フィニッシュ後、末續はトラックに仰向けとなり、なかなか起きあがれなかった。対照的に山村は、すぐに記者たちの取材に応じ始めた。
 記録が低調だったことには、低温とホームストレートの向かい風が影響したと思われる。

「300mを32秒台で入るなんてことは、普通の400 mの選手はしません」(末續)
 末續は400 mを走りきることよりも、前半のスピードに重点を置いていた。レース後のコメントのうち、そこに関する部分を要約すると以下のようになる。
「前半は相当に楽でした。でも、(周りのスピードに合わせたくないので)100 mで見ないようにしました。出し惜しみをしないようにと。意識した動きもできましたね。300mまでは、これは行ったかな、と思いました。欲を言えば200 mから300mまで、もう少し上げられました。ちょっと、我に返ってしまいました。でも320mからへばりましたね。バケツから水を“じゃー”っとひっくり返して、320mで“こんこん”と(空に)なった。最後は血を吐くかと思いました。高野先生はあのあと(最後100 mを)12秒台で行くのですからすごいですね。でも、見ていて面白くなかったですか? 300mを32秒台で入るなんてことは、普通の400 mの選手はしません。そこが純粋短距離系の選手と400 m系の選手の違いでしょう。でも、1周でどれだけ身体が変化していくか、そういった部分の状況判断については、400 m系の選手の感覚は素晴らしいと思います。かといって、それを知りすぎても(思い切り行けなくなり)ダメだと思います。バケツをひっくり返すようなレースしかできませんが、それで400 mでどこまで行けるか。400 mは僕の知らない世界。それを走ることが短距離選手としての器を大きくすることになるんです。それが200 mと距離が半分になったときに、どんなレースになるか。さらに100 mと、そのまた半分になったときにどうなるか」

 4年前に出した自己ベスト、45秒99には大きく及ばなかった。対校戦の組でトップの太田和憲(東海大4年)にも0.12秒届かず、「一緒に走っていたら食われたのでは」と、認めている。だが、4年前はシーズン最盛期の8月に、標高1000m以上の場所で出した記録。その点、今年の末續は12月のアジア大会まで、長いシーズンとなることを見越して「4月までは冬期練習」という流れ。いきなりショートスプリントの速い動きをすることは避け、「あえてスイッチが入らないように」したのだ。
 その状態でも、400 m選手のように全体のペース配分をしたら、末續にとってはキャパシティを大きくすることにならない。200 mの21秒4という通過タイムには、そういった意味があった。
「スピード練習をちゃんとして、200 mを20秒台前半で走れるようになって、気が向いたらまた出るかもしれません。しばらくは走りたくありませんけど」
 そのときは、今回よりも確実に1秒は速く走れるという。

「22秒で前半を入っておけば、あとは後半を作れると46秒は出ます」(山村)
 一方の山村であるが、2003年のアジア選手権4×400 mRを最後に、試合から遠ざかっていた。故障を繰り返し続けたためだが、原因は左アキレス腱の痛み。特に、アテネ五輪前に無理をしたことが、故障を長期化させることになった。この2年間で手術をしないで治療をする決断や、富士通を退社することなど、多くの人生経験を重ねた。その甲斐あって、サイボウズと契約を結ぶことができ、トレーニングもこの冬は充実したものとなった。

 だが、丸々2年以上のブランクがあったことで、試合勘はなくなっている。それを取り戻すのが目下の課題で、4月5日には早くもレースに出場した。雨も降っていて、風が強くて肌寒かったこの日よりも、さらに寒いコンディション。いきなり速い動きをすることは避けることにした。48秒24で1位にはなったが、2位とは0.01秒差。「398mまでは負けていました。前半が24秒で後半も24秒」というレースだった。
 それがこの日は、200 mを22秒前半で通過できた。日本記録保持者の高野進(現東海大コーチ)がイーヴン型だった頃(88年ソウル五輪まで)は、前半の200 mが22秒前後だった。決して遅すぎるタイムではない。末續が速すぎたのだ。この日の山村の前半には、長いブランクを埋めるための速い動きをする意味があったのだ。

 山村は、まだまだだと話す。
「以前のような動きはまだできていません。末續のように、グロッキーになるまで追い込めていませんから」
 それでも、山村の表情は明るい。
「今は走れるだけで嬉しいですね。それに、22秒で前半を入っておけば、あとは後半を作れると46秒は出ます。次は47秒20が目標。日本選手権のA標準です」
 45秒03の日本歴代2位の記録を持つ男が、この目標を喜々として口にしているのだ。手応えを感じているからこそ、一歩一歩、段階を上っていけばいいと焦らない。
「でも、大阪の世界選手権には間に合わせますよ」
 話題の金丸祐三(法大)よりも前に、大阪の高校生として日本選手権を制したのが山村である。


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