ATSUYAなメール
その6
2002年5月30日
伊東浩司さんとの想い出
寺田さま
私がこの世で最も尊敬するアスリートである伊東浩司さんがついに
引退してしまいました。「アマチュアに引退はない」とも語っておられたので、
「引退宣言」(サンスポの記事)のようなものはないものと思っていたのですが…
(寺田注:伊東浩司選手のサイトによれば、引退したわけではないようです)。
前にも一度、お知らせしたように、伊東さんは私の誕生日(7月29日)の
裏誕生日(1月29日)保持者(?)で、同じ1970年に兵庫県内で生まれ、
しかも同じB型のスプリンターでした。身長が10ッほど違ったために、
100mのベスト記録で1秒以上の差が生まれてしまいました。
寺田さんの日記を読んだところ、私が新聞を読んだときに一番感慨深
かったコメントに触れられていたので、少しうれしくなってメールを書く
ことにしました(ちなみに、本日は泊まりなので阪神間が平穏であることを
祈っています)。それは、「自分は200、400の選手」といい、「高野さんの
記録に挑戦できなかったことが悔い」というコメントです。
伊東さんの1学年下だった私は中2の秋(1984年9月22日)、
王子陸上競技場(先日、公認さよならイベントがありました)で開かれた
兵庫県中学校選手権の200mで、伊東さんが21秒8
を出す瞬間、スタンドで友人のストップウォッチをのぞき込んでいました。
友人は「中学記録や!」といい、私は「すげぇー」と言いました。中学記録は結局、
同年に名倉さんがマークしていた21秒6だったのですが、あの日、あの瞬間に、
伊東さんは私の「ヒーロー」になったのです。
高校ではやはり、沖縄国体(87年)400mでの高校新記録樹立が忘れられません。
札幌インターハイ400mは確かテレビ中継があったはずで、序盤から爆走する
伊東さんに、「おいおい大丈夫か」と思っていたら、あえなく大失速。最下位に
終わりました。そして、インターハイ決勝進出者がきれいに並んだ国体では、
雪辱の高校新。このとき、「伊東浩司はただでは済まない選手だ」と感動しました。
私は高校で競技を終えましたが、東京・世界陸上(91年)で活躍し、バルセロナ五輪
(92年)代表に選ばれた伊東さんを、ますます尊敬して見守っていました。
1993年春、運良くK新聞社に入社し、なぜか運動部に配属された私を待って
いたのは、「兵庫リレーカーニバル」の事前取材。「伊東さんのコメントがほしい」
という私の訴えに、先輩が「ほなら電話してみ」と言ったので、ドキドキしながら
「我が神」に電話したのです。バトンミスで勝てなかった高校時代の思い出などを
語っていただき、感動したものです。ちなみに、自分が中学時代に800mリレー
で出場したコラムも掲載した記事は、私の初めての署名記事でした。
私はなかなか担当をもらえず、フェンシングやママさんバレー、高校野球の取材
にいそしみました。雑誌を自費で購入して机に並べ、記録集を熟読する姿を見せる
ことで、内気な私は精一杯、「陸上担当をしたい」とアピールしました。
半年後、ようやく担当をもらいました。それは「テニス」でした。
1994年2月11日、チャンスはめぐってきました。メーン担当者は我が社共催の
姫路城ロードレース取材(谷口さんが出場!渡辺共則が10マイルで高校最高!)。
私は志願して大阪室内陸上の取材に行くことができました。「伊東さんの取材を
したい」と先輩に相談したところ、「それはいい考えだ」ということになりました。
私が伊東さんの取材をしたかったのは、一つの理由がありました。出場できなかった
とはいえ、五輪代表で、しかも1600mリレーの日本記録保持者でもある伊東さんが、
好調な大学生(井上悟や斎藤嘉彦らだったかな?)に押され、「過去の人」のような
扱いを受けているのでは―と感じていたため、「伊東健在」を本人の口から語って
ほしかったのです。
黙々とアップする伊東さんは近寄りがたい雰囲気がありましたが、レース後、
かばんを持って引き上げようとするところを捕まえました。そのときの伊東さんの
言葉は、10年近くが過ぎた今でも鮮明に覚えています。
「オールラウンドスプリンターを目指す。100、200、400mと両リレーで日本記録
をつくる。伊東はまだやれる―というところを見せてやる」といった内容でした。
正直に言うと、私は半信半疑でした。400mはともかく、100、200mで日本記録と
は。スピード養成のための200mはあっても、「伊東さんは400m選手」と思い込ん
でいた私は本当にびっくりしました。しかし、伊東さんは真剣な表情で、気迫がみ
なぎっていました。
その後の伊東さんの活躍ぶりは誰もが知るところでしょう。100、200mと両リレー
で本当に日本記録を樹立してしまいました。しかし、400mの日本記録に挑戦
する機会がなかったのは、私にとっても残念でした。五輪のマイルの快走を
見ていると、44秒台中盤は絶対に出ると思っていたのですが…。
高橋和裕が高校生チャンピオンになった日本選手権(94年)200mで日本人2位に入り、
「神戸は朝原だけやない」とつぶやいた伊東さんは、本当に泥くさい、
素質よりも努力、転んでもただでは起きない不屈のアスリートだったと思います。
沖縄国体のナンバーカード「28」をシューズ袋につけていたのも印象的でした。
こんなこともありまた。
記者として、「サインください」を禁じていた私は、アトランタ五輪(96年)の壮行会で意を
決し、色紙とマジックを購入。「お願いします」と言って伊東さんに渡しました。
すると、伊東さんは「会社に送ります」といって大きなかばんに色紙をしまってしま
い、「あかんかな」と思っていたところ、会社に届いたのは、JAPANのユニホー
ム(ランニング)でした。そこには「神戸出身スプリンター」と書かれ、伊東浩司、朝
原宣治、小坂田淳の名前がありました。
1996年6月の大阪での日本選手権を前に、私は展望で「100は朝原、200は伊東、400は
小坂田。神戸トリオで短距離制覇」といった記事を書きました。200mで日本記録を
出し、難なく優勝した伊東さんは会見で、「神戸新聞に神戸トリオで勝て!とあった
ので。とりあえず私は勝ちました」と話されました。
そのことを覚えていてくれたのでしょう。
私は感涙し、潤んだ目でユニホームを抱きしめました。
大阪での日本選手権と言えば、寺田さんと一緒に伊東さんの取材をしたことを覚えて
います。「20秒29の風景」みたいな内容でしたよね。余談ですが、あのときの
「インタビュアー寺田」の取材方法は、陸上記者・大原にとってすごく参考になりま
した。新聞記者は、概して結果や過程などに拘泥してしまいがちですが、ああいう切
り口の質問をすることで、違った視点でスポーツを取り上げられるんだと悟りました。
おくればせながら、その節はありがとうございました。
「日本初の(自称)伊東番記者」になってから約10年。私は村上春樹の故郷、芦屋
で「当たり屋共犯の男逮捕」といった原稿を書いています。伊東浩司という優れた
取材対象がなかったら、今の私はなかったでしょう。地元紙記者だけが味わえる
「喜び」を教えてくれたのも、伊東さんでした。大阪室内陸上での記事についた
見出しは確か「ポスト高野を目指す」だったように思いますが、高野さんが切り開い
た「JAPANスプリンター」のデコボコ道は、伊東さんが舗装し、2車線道路ぐら
いに整備したような気がします。9秒台の夢は、
末続や朝原がきっと達成してくれると思います。
感傷に浸り、久々に長々と駄文を連ねてしまいました。
「短距離王国」の称号を「寺田さんの静岡」に返さないよう、今年は100mの朝原、
200mの藤本、400mの小坂田にいっそうの奮起を促したいと思います。
それでは、また。
K新聞 O原A也
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