オリンピアン2002年10月号
オリンピックロード
三村芙実

扉ページ写真  本誌に掲載できなかった日下部先生とのツーショット(2点とも寺田撮影)

トップアスリートが競技人生を振り返るとき、特別な出会いや巡り合わせを口にすることがある。
その点からすれば、三村芙実はすでにその条件をクリアしているのかも知れない。
いくつかの絢(あや)に導かれ、三村は世界ジュニア選手権で金メダルを手にするところまでたどり着いた。

欲しいのは金メダル
 7月にジャマイカで行われた世界ジュニア選手権女子1万メートル競歩は、三村の特徴が発揮されたレースだった。特徴の一つ目は、スタートからずっと先頭を引っ張ったこと。
初めての国際大会でここまで積極的になれるのは、日本選手に限らず、珍しいことだ。「あくまでも勝負を重視していました。スピードを上げて飛び出したのではなく、まわりのペースが遅くて先頭に立ってしまったんです。強引に下がって自分のリズムを崩すより、前の方が歩きやすいと判断しました。国内のレースのように、ですね」
 確かに、昨年終盤から国内のジュニア同士のレースでは、すべて独歩となっていた。「世界で戦うのは初めてでしたし、最後まで行くのは苦しいかな、とも考えましたが、1000メートルまでに“このまま行こう”と決めました」
 日本選手団の競歩コーチである小坂忠広は、そのときの状況を説明する。
「1周(400メートル)1分45秒のペースを想定いましたから、三村にはついていくように指示を出していました。ところが、スタートしたら1周目が1分51秒。三村がとっさに自分のペースに持っていったんです。彼女本来のセンスが発揮されたと判断し、我々コーチ陣もそのまま行かせることにしました」
 レースはなかなか集団が崩れない。8000メートルの時点でまだ5〜6人がいたが、そこでロシア選手が仕掛け、集団が崩れた。しかし、その選手は自滅する形となり、再度、三村が先頭に。9200メートルで中国選手との一騎打ちとなった。三村は決して中国選手を前に出さず、ラスト1周は競り合いから、三村が1万メートル競歩では経験したことのないスピードに上がった。ここで、三村の二つめの特徴が発揮された。競歩選手としての最大の武器といっていい、理想的な歩型だ。
「競歩選手には2つのタイプがあります。股関節の柔らかな動きでストライドを稼ぐ選手と、腰の前後の動きでピッチを早める選手です(ピッチを速めればストライドも若干は伸びる)。ピッチだけに頼るとリフティング(両足が地面から離れる歩型違反)をとられやすくなります。両方ができる選手が世界で戦えるわけですが、三村もその数少ない選手です」(小坂)
 競歩は失格が付き物の種目。歩型が乱れる選手は走っていると見なされやすく、失格が心配となってペースを上げられない。トップ選手でさえそうなのである。その点、三村のフォームは理想的で、通常でも力むことなくスピードを出せるし、ペースを上げても歩型が乱れないのだ。
 最後の1周では、3つめの特徴ともいえるメンタル面の強さが、並行して発揮されていた。
「実際には第2コーナー(残り300メートル)で中国選手が離れたようですが、レース中はずっと後ろにいると思っていました。苦しかったんですが、“あと何秒か我慢すれば金メダルが取れる。この何秒かを楽したら銀か銅だ。(欲しいのは)金メダル、金メダル”と自分に言い聞かせて歩いていました」
 最後の1周は1分39秒1。それまでの平均ペースよりも8秒もペースが上がっていた。それに耐えた三村は、世界ジュニアでは日本選手で史上2人目となる金メダルを獲得した。

銅を目指しても銅メダルは取れない
 三村は、富士見中学時代に全国中学駅伝に出場するなど、県レベルでは長距離で注目されていた。2000年に熊谷女高入学し、同校陸上部監督の日下部秀一と出会ったことが、三村の今日を決定付けた。高校入学後も長距離ランナーとして頑張っていた三村が、初めて競歩を歩いたのは高校1年の12月。11月の高校駅伝埼玉県予選で2位と敗れた同校は、11月末の関東高校駅伝には出場できても、12月の全国高校駅伝には出場できない。日下部は関東大会後のその時期、毎年、練習に競歩を取り入れているのだ。
「駅伝の休養の意味合いが強いんですが、腰の位置が高くなるなど、走るフォームもよくなります。歩かせてみて、才能がありそうな子や競歩が好きになってくる子を、1月末の神戸の大会に出場させるんです。神戸は夜景がきれいだぞ、とか言って連れて行きます」
 神戸の大会は、男女20キロの日本選手権競歩と一緒に行われる全日本ジュニア選抜競歩。全日本の大会だが、出場するために標準記録などはない。この大会で三村は、2位になる。先輩で国体4位になった競歩選手がいたが、その選手の初競歩とほぼ同じタイムだった。
「可能性は感じました。フォームとしては、リズム感はないけど股関節は柔らかかった。今思うとそれがよかったんでしょう。股関節の動きができる子はなかなかいないんです。ピッチだけでいく選手は、浮いてしまって(歩型で)苦しむことが多いですから」
 だが、日下部はまだ、三村を駅伝の次期エースとして育てたかった。熊谷女高はチームとしての駅伝が優先だった。

 競歩で2位になったころ、三村は左アキレス腱を痛めていた。その後も思いのほか故障が長引き、2月、3月と走る練習がほとんどできなかった。高校2年の4月時点では、そのシーズンを競歩と3000メートルと、双方を視野に入れることになった。
 競歩選手として好運だったのは、その年から、インターハイで競歩が開催されることになったこと。前年まで高校生の競歩種目は、インターハイ2週間後くらいに別大会として行われていたのだ。
「4月10日くらいにアキレス腱が奇跡的に治った」という三村は、インターハイの県北予選に3000メートルと3000メートル競歩で出場。3000メートルは県大会で落ちたが、3000メートル競歩は全国大会3位と、表彰台にまで上がってしまった。
「3位には嬉しくて、こんなことがあるんだ、と満足していました。でも、インタビュールームに行くと、1位の選手には記者の方たちがブワーっと集まって、違う空間になっていました。やっぱり1位は違うって感じましたね。そして、私と同じ2年生で2位の選手が“悔しい、悔しい”って涙を流すんです。私とは気持ちが違ったんだ、って思いました。そのときから、気持ちで負けないようにしようって思いました。
 世界ジュニアでも、このときの気持ちを忘れずに「絶対にメダルを取ってやる」と考えていた。持ちタイムでは3番目だったが「もしも8番目のタイムでもメダルを狙っていた」と三村。
「自分の力はこれくらい、と考えて目標を設定したら、その目標も取れないと思います。銅と決めてしまったら、銅も取れません」

目標はアテネ・オリンピック
 インターハイが終わって、三村は変わった。
「自分がインターハイの2人と同じ気持ちを持てたら、勝てるかもしれない」
 国体ではスタートから飛び出して、いっさい後ろを気にしなかった。秋の国体5000メートル競歩を皮切りに、三村は独歩での連勝街道を進み始めた。2年の秋に3000メートル競歩の高校記録を樹立。「高校記録保持者になってしまいましたからね」と、日下部も三村の競歩専念を認めざるを得なくなった。
 今年に入って同種目の日本最高記録、5000メートル競歩の高校最高記録、1万メートル競歩のジュニア日本記録を次々に樹立。ここまで成長できたのは、スピード練習が三村に合っていたからではないか、と日下部は分析する。
「競歩界ではゆっくり長くという練習が多いと思うんですが、私はスピード練習が中心。ときどき、ゆっくりを入れるパターンです。それで、速い動きが自然と身に付いたのでしょう」
 前述のように、最初から腰の柔らかい動きができた三村は、練習で速いリズム、ピッチを獲得していったのである。この三村の成長に合わせるように、2年に1度開催の世界ジュニアが行われた。
 メンタル面の貪欲さは、金メダリストとなった今も衰えていない。世界ジュニアからの凱旋レースとなった8月のインターハイも、大会新記録で優勝。にもかかわらず、悔しさを隠せなかった。
「世界ジュニアで意識を高めて、インターハイでは12分台で優勝することをイメージしていました。それが、世界ジュニアでホッとしてしまって、それで体調を悪くしてしまった。まだまだ気持ちが足りないのだと思います」
 このメンタリティーが健在なら、三村を行く手を阻むものはない。来年は、初競歩の地である神戸で、初の20キロ競歩(日本選手権競歩)に挑戦。一気にパリ世界選手権代表を狙う。
「今回、ジュニアで歩いてみて、シニアで世界に行ってみたいと感じました。来年の世界選手権、そして2年後のアテネ・オリンピックに出るのが目標です」
 三村がそう意欲を見せれば、日下部は次のように言う。
「発祥の地であるアテネでオリンピックが開催されるなんて、絶対に“巡り合わせ”だと思うんです。それに可能性があるのなら、取らないといけないと思います」
 来年3月でやっと18歳。どんな出会いが三村の競技人生に待ち受けているのだろうか。


●主要競技歴
1997年 富士見中1年時に全国中学駅伝4区(2km)24位 ※98年1月
1999年 全国中学駅伝4区(2km)17位 ※00年1月
2000年 熊谷女高に進学
      全日本ジュニア選抜競歩3kmW 2位(15分27秒) ※01年1月
2001年 インターハイ3000mW 3位(13分41秒97)
      国体少年共通5000mW 優勝(22分49秒12)
      関東高校新人3000mW 優勝(13分04秒08=ジュニア日本記録)
      全日本ジュニア選抜5kmW 優勝(22分34秒) ※02年1月
2002年 埼玉県高校3000mW 優勝(12分53秒53=日本最高記録)
      埼玉県記録会5000mW 優勝(22分11秒69=高校最高記録)
      北関東高校3000mW 優勝(13分03秒63)
      日本ジュニア選手権1万mW 優勝(46分02秒58=ジュニア日本記録)
      世界ジュニア選手権1万mW 優勝(46分01秒51=ジュニア日本記録)
      インターハイ3000mW 優勝(13分04秒44)

(プロフィール)
みつむら・ふみ◎1985年3月1日、米国シアトル市生まれ。埼玉県・熊谷女高3年。小学校1年時まで米国で祖父母とともに生活。今年7月の世界ジュニア選手権女子1万mWに46分01秒51のジュニア日本記録で優勝。同大会史上日本選手2人目の金メダリストに。159cm・43s。