重川材木店密着ルポ
崇高なる職人ランナーたちの挑戦

G 若いチームに経験を
鶴巻監督とオツオリ・コーチの役割

@大工のチームで全日本実業団駅伝出場を A<萩野智久>エースの取り組みがチームの求心力に
B<林隆道>アメリカ帰りの異色ランナー
C箱根を走った選手と、走らなかった選手
D建築業と陸上競技の両立を目指す選手たち
E重川隆廣社長の魅力 その1 建築業でのサクセス・ストーリー
F重川隆廣社長の魅力 その2 チーム戦略と選手への愛情

「強くなりたい」という気持ちの面では人後に落ちない重川材木店の選手たちだが、“経験”という面では足りない部分も多い。そこを補うのが監督の鶴巻健と、ヘッドコーチのジョセフ・M・オツオリの役目である。しかし、ただ競技経験を伝える指導者なら、人材は他にもいるだろう。他の実業団チームとの違いを理解した上での指導、アドバイスができる人材ということで、この2人が招聘された。

バネのある軽快なフォームで練習するオツオリ
 オツオリが重川材木店に入社したのは今年の10月。山梨学大、トヨタ自動車で活躍後、一度ケニアに帰国して自動車関係の仕事や、長距離のコーチをしていたが、昨年8月に2度目の来日。茨城県の企業でフルタイムで働きながら走っていたところに、重川材木店からコーチ就任の話があり、興味を持った。
「9月に新潟に来て、会社や仕事の様子を見させてもらいました。話を聞いて、これから全日本実業団駅伝に出られるチームだと思いました。社長の熱意も感じることができた。箱根駅伝や実業団駅伝での私の経験を、チームに役立てたい」
 流暢な日本語を話すオツオリ。アフリカから新潟へ。彼の入社は、地元メディアでも大きく報道された。そのくらいオツオリの知名度は高い。1989年の箱根駅伝エース区間の2区に、初のケニア人選手として出場。2区を4年連続して走り、3年連続区間賞。4年時は区間2位だったが、山梨学大を初優勝に導いた。ユニバーシアードでも1万mで銅メダルを獲得するなど、国際舞台でも活躍した(詳しい経歴は重川材木店のWEBサイト参照)。
 競技的実績もさることながら、オツオリが信頼されているのは真面目な性格、競技に取り組む姿勢が周囲への範となるからだ。
 山梨学大時代に寮で同室だった中沢正仁先生は、後に高橋尚子を県岐阜商高で指導することになる人物だが、オツオリの“生活ぶり”に驚いたという。朝の4時には起床し、朝練習に対してもできる限りの準備をしていたという。当時、創部間もない山梨学大が短期間で優勝できたのは、オツオリの競技に取り組む姿勢が、チームの雰囲気作りに大きく影響していた点も指摘されている。
 その一方で、トヨタ自動車時代の終盤は、思ったような成績が残せなかった。真面目な性格ゆえ、練習のやりすぎで疲れが蓄積したり、故障につながったりした。その経験も指導者として生かすことができるだろう。
「コーチは簡単にできるものではありませんが、疲れの取り方、故障にならない方法、今の練習がどこにつながっていくかなど、アドバイスできることはしていきたい。仕事と練習、休養のバランスも大事です。時間がとれるとき、仕事があるとき、疲れがあるときと、リズムの作り方があります。実井(謙二郎・日清食品)さんなど、コーチをやっている知り合いから、参考意見を聞くこともできる。(隣にいる)南波さんは、ストライドが大きくスピードの出る動きができると思います。とにかく、選手が結果を出してくれることが一番嬉しいです」
 自身もしばらくは走り続けることで、選手へのカンフル剤の役割を果たそうとしている。5000mなら14分30秒前後で走れるから、チームでも2〜3番手の力がある。20kmなら萩野をしのぐかもしれない。そして、来春には、ケニアから選手をスカウトして連れてくる大仕事がある。強いだけでなく、自身のようにチームにプラスとなる選手をと、考えている。
「カーペンター(大工)の仕事も覚えたかった」と積極的

「やる気のある選手ばかりが集まってきたチーム。練習をきっちりやって適正な休養をとれば、記録は伸びていきます。選手たちのやる気をなくさせないようにするのが、私の役割だと思っています」
 落ち着いた丁寧な話し方。監督の鶴巻健は穏やかな紳士然とした人物だが、その競技歴はオツオリを除けば、重川材木店関係者の中で一番だろう。日大3年時に関東インカレ3000mSCに優勝、4年時には5000m4位、1万m3位、3000mSC2位と3種目に入賞する獅子奮迅の走りっぷり。箱根駅伝は2年時に8区2位、3・4年と山登りの5区で区間2位と4位。4年時にはチームの優勝に貢献した。
 当時の経験から学んだことは多いが、そのうちの1つが休養の重要性だった。
「入学してから毎日、20kmを走りました。毎日です。さすがに、夏になってケガをしまして、2週間ほど練習を休まざるを得なかった。ところが、故障が癒えて練習に戻ったら、タイムが2分も伸びたのです。それから、休養、回復ということを考え始めました」
 試合を続けすぎて失敗したこともあった。
「関東インカレ前でしたが毎週2回、月に8回30kmを練習したことがありました。そこで走り込めたのですが、関東インカレ以後大きな試合が続いて、調整練習の繰り返しで走り込む練習ができなかった。どんどん走れなくなっていったのですが、練習日誌を見ると月に250kmしか走っていないのが続いていたのです。これがよくなかった、これが上手く行ったという経験を、運動生理学の本なども読んで理論と照らし合わせ、レポートにして選手たちに渡しています」
練習を見守る鶴巻監督。新潟県が生んだ名ランナーの1人
 実業団は現在のホンダに進んだ。陸上競技部が創部されたときのことで、練習時間も十分に確保されていなかった。工場では45℃の熱さの中での作業をすることも。週に2回、15時で作業を上がって練習ができたが、仕事仲間からは必ずしも歓迎されなかったという。それでも、仕事との両立は、できないことではなかった。
「工場の作業も暑さ対策と、前向きに考えました。仕事と競技、慣れてくると走れるものです。ダメだダメだと思うと走れない。どんな環境でも感謝の気持ちを持てば、走ることができると思います」
 今の重川材木店は、火曜、木曜、土曜日が練習日として、早めに上がることが認められている。土曜日は隔週で休みとなる。
「その日に練習の山を持っていけば、他の実業団と対等にやっていけます。午後、時間をもらってゴロッとしていたり、ダラダラ練習するより、ピリッとやった方がいい」と、自身の経験から確信を得ているし、選手にも自信を持つように話している。
 何より、重川隆廣社長の身近で、長く接してきた人物である(E重川隆廣社長の魅力 その1参照)。重川材木店陸上競技部の理念と目指す部分を、誰よりも理解している。
「新潟県には実業団チームがありませんでした。そこに、長距離・駅伝のファンで、情熱のある重川社長がチームをつくったんです。一番の理解者ですよね。それだけ、選手も我々も活動がしやすい。仕事との両立も、結局は選手に跳ね返ってくる部分です。実業団の競技は職場の応援があってこそ。そのためには、仕事も一生懸命にやらないと。選手が走ることばかり見ていると、会社の業績が落ちたときに真っ先に、選手の連中はなんだ、と言われかねません。そこは、陸上部発足の時に、選手たちにしっかり話しています」
 陸上競技は、ただ一生懸命に走ろうと思っても、それができるわけではない。生活がきちんとでき、職場での居場所があって初めて、不安なく走ることができるのだ。

 選手のバックアップは何も、練習時間や練習場所といった、物理的な部分だけではない。選手のメンタル面の充実も、1つの要素だろう。その部分さえ上手くなされていれば、練習時間だ環境だという面は、ある意味些細な要素となる。選手たちが走る意欲を持ち続けるためには、鶴巻監督とオツオリ・コーチの果たしていく役割は大きい。


2区・南波から3区の萩野へのタスキリレー
実業団駅伝へ第一歩
 11月14日に岐阜県下呂市で行われた第34回北陸実業団駅伝(7区間83.0km)に、重川材木店が初出場した。4時間28分08秒で参加4チーム中最下位。各区間の区間順位とタイムは以下の通りだった。
1区(10.4km) 林 隆道 区間3位 32分14秒
2区(7.2km) 南波寛人 区間4位 25分20秒
3区(15.5km) 萩野智久 区間3位 49分18秒
4区(13.9km) 内田竜太 区間4位 47分02秒
5区(14.0km) 細山敦史 区間4位 45分02秒
6区(11.6km) 国分隆宣 区間3位 36分00秒
7区(10.4km) 古賀五徳 区間4位 33分12秒
 トップのYKKとの差は17分33秒。現在の戦力からこの結果は覚悟していた。しかし、重川隆廣社長兼総監督は苦戦の中にも、今後につながる一筋の光を見出していた。
「個々のタイムはとやかく言いませんが、トータルでは4時間20分が目標でした。8分8秒オーバーしてしまいましたが、それは“末広がり”ということで…。コースがわかったのが収穫です。起伏がある難コースで、15kmの距離でも20kmの練習が必要でしょう。我々の年度はこの駅伝が区切り。来年の北陸実業団駅伝までを1年間と考えます。それまでの1年間、そこに照準を合わせていきます」


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