重川材木店密着ルポ
崇高なる職人ランナーたちの挑戦

E 重川隆廣社長の魅力 その1
建築業でのサクセス・ストーリー

@大工のチームで全日本実業団駅伝出場を A<萩野智久>エースの取り組みがチームの求心力に
B<林隆道>アメリカ帰りの異色ランナー
C箱根を走った選手と、走らなかった選手
D建築業と陸上競技の両立を目指す選手たち

 ゆっくりで明瞭な話し方だが、話し相手からの提案には素早く結論を出す。笑顔の似合うジェントルマンだが、社員には厳しい態度で接することも多い。フレンドリーな物腰だが、相手に不誠実さがあればズバッと指摘する毅然としたところもある。
 重川材木店陸上競技部の生みの親、重川隆廣社長は地元・西川町では立志伝中の人物である。家族で営んでいた材木店を受け継ぎ、建築業にシフトして業務拡張に成功。今では8年連続で高額納税法人に名を連ねる優良企業に成長させた。
 毎朝起床するのは午前4時という生活。5時前には出社し、社長自ら設計図面を作製する(一級建築士でもある)。7時前後から社員も出勤をし始め、打ち合わせを行う。
「そうすると、残りの半日、私が動かなくても会社は動いていきます。社員が動きやすいステージを早めに作っておくわけです。先手必勝という考え方ですね」
 社長の残りの時間は、再度図面に向かうこともあれば、建築現場に出向くこともある。外部のさまざまな人間と会うことも多い。もちろん、選手たちの練習に顔を出すことも。つまり、早朝出勤により社員が動ける状況をつくり、その後は自由に動く。自由なその時間こそが、経営者にとっては重要になるのだろう。
経営者として成功し、次は駅伝を特殊な形で成功させようと情熱を注いでいる重川社長

 その重川社長は、小さい頃から陸上競技に興味を持っていた。材木店を経営する父親が新潟県縦断駅伝を走っていたこともあり、箱根駅伝のラジオ中継を聴いていた。
「若松軍蔵選手が10区で逆転して中大が6連勝したときなど(1964年)、ラジオにかじりついていましたね。自分も駅伝を走りたいな、と思いました。東京オリンピックが開催されたのが中学2年生のとき。その年の6月に新潟で国体が行われ、エキジビションの5000mを円谷幸吉選手と沢木啓祐選手が走っていたのを覚えています。新潟県高校駅伝はコースの一部が西川町でしたから、中学の3年間、補助員として間近にレースを見ることができました。隣町の吉田商高は毎年上位を走っていましたし、中3のときには県のチャンピオンもいた。当然のように吉田商高に進みました。私は3人兄弟の真ん中で一番、勉強ができなかったので、跡を継ぐのは自分だと思ってもいたのです」
 ちなみに、兄は中大に進み、弟は京大で陸上競技部にも所属していたという。重川社長自身は高校時代、5000mが15分50秒台だった。当時としては、決して悪い記録ではなかったが、1969年に高校を卒業すると、予定通りに実家の仕事を手伝い始めた。しかし、陸上競技への情熱は持ち続け、新潟県縦断駅伝を目標に走り続ける日々。中学の1学年後輩である鶴巻健(現重川材木店監督)が箱根駅伝を走ると、応援に行ったりもした。
 だが、脚の故障のため、卒業2年後に競技生活をあきらめざるを得なかった。結局、父親が取ったことのある新潟県縦断駅伝の区間賞を、自分は取れなかった。それが、ずっと心に引っかかってはいた。だが、その思いも、仕事に熱中することで徐々に薄れていった。

社長室には建築関係のおびただしい数の書籍・雑誌は
もちろん、建築設計用の図面製作の設備も

 走ることをあきらめるのと時を同じくして、自身の家業である材木店の先行きも、明るくないと考え始めた。
「一生懸命にやると、先が見えてくるものなんです。材木店は厳しいと思い始めました。でも、木材を生かした仕事をしたかった。消費者に近いところで、木材を使った仕事は何かと考えたら、建築の仕事がいいのではないかと思ったのです」
 21歳の年に新潟工高の定時制に入学し、24歳で卒業。設計図面の描き方などを習得した(難関といわれる一級建築士の資格を取ったのは29歳のとき)。材木店を徐々に、住宅建築業に移行させていった。その頃で印象に残っている仕事が、ある大手銀行専務宅の建築だったという。それまで建てた3軒の住宅の写真と、自身の目指す数寄屋建築の分厚い本を3冊持ち、まったく初対面の相手に「建てさせてください」とお願いしたという。26歳の駆け出し建築屋が、社員3500人の銀行のナンバー2の住宅建設を請け負うこととなった。
 重川社長の優れている能力の1つとして“相手の話を理解する力”を、周囲の人間はよく挙げている。筆者も、この重川材木店陸上競技部の記事を書くに当たって、「こんな記事がいいのでは」と提案すると、すぐに詳細な部分までイメージしてくれる。仕事の話がテンポよく進むのに驚かされた。人の話を理解し、相手の気持ちになった提案をすることができる能力に秀でているのだ。
 銀行専務宅の仕事を受注できたのも、相手の希望を正確に理解し、それに沿ったなかで、重川社長ならではのアイデアを盛り込んだ設計ができたからだった。
「工事が終わって専務から、“50歳くらいの人間のようなそつのなさだ”と言われました。それができた理由を考えると、親父が怖かったからじゃないかと思うんです。材木の選択をする際、親父の気に入った木材を選ばないと、ひどく怒られたんですね。相手の考えていることを理解しないことには、仕事が進まないと思い知らされました。だから、お客様の考えていることが、よくわかるのです。その人の気持ちになって、設計をすることができるのでしょう」
 重川社長をつねに近くで見てきた鶴巻監督も、それを裏付ける話をしてくれた。
「お客さんに喜んでもらうことが、社長の考えの根本にあります。つねに視線がお客さんの方を向いている。100万円儲けるのでなく、50万円でいいから長く、いいお付き合いをしたいと考える。だから信頼してもらえるのでしょう。今でも、ほとんどの設計の打ち合わせを、社長自身がしています」
 重川社長が毎朝、図面に向かっているのはそのためだ。細部を煮詰めていくのは社員に任せるが、「お客さんの考えを、プロとして形にしていく出発点の部分」という理由で、非常に重視している。そういった姿勢が、後述する陸上競技部のビジョンにも反映している。

電話の相手に丁寧に対応する。時折り柔和な笑顔を見せる
 重川材木店の売り上げは、右肩上がりに伸びていった。さすがに、いきなりではなかったが、10年以上頑張って30歳半ばになると、伸び率も飛躍的に高まった。年間売り上げ3億円を35歳で突破。5億円は37〜38歳、10億円は43歳のときだった。26歳時の銀行専務宅の仕事はフリーの大工を5〜6人雇い、自身も毎日のように現場に詰めて完成させたが、今では自社に36人の大工を抱える会社に。この人数を自社で抱えるのは、日本で10社もないという。
 ここまでの業務拡張を、営業マンなしで成し遂げた点が高い評価を受けている。
「住宅というのは、自社の作品をつねに展示しているようなものです。建築希望の方は必ず、あの住宅はどこが造ったのかと、気にするもの。口コミで評判も伝わります。しっかりした仕事をすれば、それが営業にもなるわけです。だから、どんな小さな仕事でも全力投球をしてきました」
 早朝に図面を描き、9時以降は現場に出て大工たちの手伝いをしたのも、社長自らが陣頭に立つことで、現場の士気を高め、いい仕事をすることが目的だった。
 そうして40歳頃になり、業績が順調に伸びてゆとりが生まれると、京都の建築専門学校で数寄屋を学び、さらに仕事の奥行きを求めた。その後は自身が、新潟大学工学部や新潟女子短大で非常勤講師を務めるまでになる。
 その重川社長が50歳を過ぎて、陸上競技部を持つことを真剣に考えるようになった。「そろそろ社会貢献を」という気持ちもあったし、自身が成し遂げられなかった“速く走ること”を、身近な人間に実現してもらいたい気持ちも大きかった。

F重川隆廣社長の魅力 その2 チーム戦略と選手への愛情 につづく
G鶴巻監督とオツオリ・コーチの役割

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