重川材木店密着ルポ
崇高なる職人ランナーたちの挑戦

C 関東の大学を経験した2選手<竹石 実・南波寛人>
箱根を走った選手と、走らなかった選手

@大工のチームで全日本実業団駅伝出場を A<萩野智久>エースの取り組みがチームの求心力に
B<林隆道>アメリカ帰りの異色ランナー

 選手にも7割は社の本業に対して働いてもらい、競技は残りの3割で頑張ってもらう。そして、本業に従事できない3割分は自身が個人的に負担する。重川隆広社長の考えは明確だ。
「学生選手と話していて、90%以上の環境を求めてくる場合には、“あなたの競技力は?”と質問します。日本で10番以内に入っているのなら、競技に専念するのもいいでしょう。でも、箱根駅伝レベルだったら、それがナンボのものですか、と言いたい。そのくらいでは引退後に競技関係で食べていくことはできません。そのレベルの場合は30歳、40歳、50歳になって何をやりたいかが大事なんじゃないでしょうか」
 だが、競技力が日本代表レベルにあるのなら、また異なってくるべきだと考えている。
「仮にオリンピック選手ならば仕事がゼロでもいいのです。県の代表選手レベルなら、地元で利益の上がっている企業がある程度、負担すべきだと思っています。でも、県の代表レベルでは40歳、50歳となったときに、競技経験だけではやっていけません。そういった選手が食べていけるように仕事面でも育てるのが、企業の役割だと思っています。
 ですから、仕事もきちんとやって、競技にも取り組める人間しか採りません。大工の技術を身につけたい、設計の仕事を覚えたいという選手で、全日本実業団対抗駅伝に出たいのです」
 そういった考えの下、重川材木店に集まった選手たち。萩野と林も特徴ある経歴の持ち主だが、その他の選手たちも、2人に負けず劣らず、個性的である。関東の大学に進学し、箱根駅伝を目指した経験のあるのが、今回紹介する竹石実と南波寛人である。対照的な経験をしてきた2人が今、重川材木店という共通の磁場に引き寄せられ、同じ目標を持った。
練習開始前に重川社長(左端)の話に耳を傾ける選手たち。右から南波、オツオリ、林、内田、萩野

 コーチ兼任の竹石実はすでに36歳。重川材木店ではオツオリとともに、数少ない箱根駅伝経験選手である。現在は故障中のため、年内は休養に専念。その間は仕事もフルタイムでこなしているが、選手としてもまだまだ頑張るつもりだ。
「来年度の全日本実業団対抗駅伝出場が、一番の目標です。(全盛時の力はないので)つなぎの区間でしょうが、後半の長い区間を走れたらベストです。言ってみれば返り咲き。そうすることで、周りをビックリさせたいですね」
 燕高では石川インターハイ5000mで5位と、新潟県史上初の同種目での入賞を果たした。しかし、適性はトラックよりも長い距離にあった。日大では関東インカレのハーフマラソンで2位、箱根駅伝は3年時に10区区間2位、4年時には4区区間2位で、チームの2年連続総合2位に貢献した。 ※ベスト記録は@大工のチームで全日本実業団駅伝出場を A<萩野智久>エースの取り組みがチームの求心力に
「箱根駅伝で優勝して、競技はきれいさっぱりやめるつもりでした。実業団はプロみたいなものですから、走るのをやめた後のことを考えたら、不安も大きかった」
 実際、普通の就職活動もした。しかし、箱根駅伝で“悔しい2位”が続き、不完全燃焼の思いが残った。“マラソン向き”の走りだと評価してくれる声も多く、雪印で競技生活を続けた。全日本実業団対抗駅伝は6回走り、マラソンでは2時間14分25秒まで行ったが、アキレス腱を痛めて98年に引退した。
 しかし、雪印を退職して新潟に戻るまでの4年間、フルタイム勤務ながらも走り続けた。工場勤務と営業をやったが、特に営業だと夜の付き合いもあるので、終業後の練習ができるかどうか見通しが立てられない。朝だけは確実に抑えるのがポイントだったという。それでも、14分40秒の力は維持できた。
建築中の個人住宅に床暖房の設備を設置する作業を手際よくこなす竹石
 現在の仕事は床暖房の施工工事。入社して2年目だが、そろそろ仕事のコツもつかみつつある。重い機材を扱うため、ハードな作業になることも多い。
「けっこう腰に来ますが、筋トレにもなるかな、とプラス思考でやっています。体全体を使って物を持つと、負担が軽くなるんですよ。小さい筋肉ではなく、体全体の筋肉を使うわけです。これは、走ることにも言えることじゃないかと気づきました。体幹の大きな筋肉を使って走ることと共通しています。基本的にマイナス思考の人間ですが、(重たい物を持つことだけでなく)考え方1つで物事の見方は一変しますね」
 前述のように故障が癒えるまでフルタイムで仕事を行なっているが、竹石も週3日の練習日が認められている。
「練習日以外は18〜19時に終業して、その後に軽く走れたら十分でしょうね。仕事がもっと長引いたら走れませんから、やはり、朝練習で最低限の部分を抑えておくことが必要です。土日は隔週で連休になります。土曜日は朝練習プラス午前に距離を踏んで、午後は休養に充てます。休養も必要なことです。日曜日は朝練習でしっかり距離を踏み、あとは家族サービスなどプライベートな過ごし方になります。仕事をしながら練習もして、家庭生活とも両立させるベストパターンだと思っています。地元に戻って実業団で走れるとは思ってもいなかったので、こういう形でチャンスをいただき、やってやろうと思っています。闘争心は衰えていません」
 雪印でフルタイム勤務で走り続けていた頃を考えれば、14分30秒は出せると計算できるという。体力的な部分が落ちているのは仕方がないが、工夫でカバーできる部分もある。競技のベテランという部分だけでなく、生活全体を上手く活用して走り続けているからこそ、競技力を維持できている。重川材木店らしい選手である。
長身、腰高のフォームでスピード感あふれる走りをする南波。後方はオツオリ
 南波寛人も“関東の大学”を経験した選手だが、箱根駅伝には出場経験がない。
 南波は近年注目されている実業団チームの、くろしお通信監督の松浦忠明氏の母校である村上桜ヶ丘高出身。3年時に14分50秒をマーク。インターハイ路線は新潟県大会8位止まりだったが、関東学院大に進んで1年目(01年)には1万mで30分23秒25を出した。箱根駅伝メンバー入りを十分に狙えるタイムだったが、02年、03年と試合にはほとんど出られず、今年の2月に大学を中退して新潟に戻ってきた。
 ひとことで言えば、箱根駅伝を目指す練習が南波には合っていなかった。
「トラックも走りたかったし、色んなレースに出てみたかったのですが、大学では20kmや30kmといった走り込みばかりでした」
 そういった練習で下地ができて記録の伸びる選手も多いが、南波はタイプ的に、走り込みが多いと疲れがたまる一方で、故障も頻発するようになった。2年時には脛の痛みが長期化した。3年に入っても練習が続けられず、部内にも居づらく感じてしまった。
「もう少しノビノビ走りたかった。あのままだと、走ることが嫌いになってしまいそうだと感じて、中退しました。どうしても走ることをやめたくなかったのです」
 新潟に戻ってアルバイトをしていたときに、重川材木店に勧誘された。仕事が自分に適しているかどうかで何カ月か迷ったが、仕事をして、走ることを続けたかったという。練習時間がとれるのは、竹石と同じで週に3回。学生時代よりも少なくなっている。
「土曜日に一番きつい練習をやって、日曜日は原則的に休養です。火曜日がロングジョッグで、木曜日は練習の流れや自身の状態を見て判断します。ポイント練習の回数も、走行距離も学生時代より減っていますが、今から考えれば学生時代は長い距離を走っても、ダラダラやってしまう傾向がありました。時間もあって、遊んでしまうこともありましたから。今は仕事をして走る生活。仕事で“疲れたな”と思っても、“あー、やめよう”とは思わず、“短い時間しかないからこそ、集中して走ろう”と思えるんです。大工仕事で腰に来ることもありますし、筋肉痛の状態で練習を開始することもありますが、無理やり長く走るのでなく、ジョッグをするにしてもスピードを上げてピリっとやるなどして、短い時間で効率を考えてやっています」
 正直な感想を言えば、学生時代も今と同じように考える力があれば、距離を重視する練習の中でもやりようはあったように思う。学生生活も律することができたはずだ。ただ、人生にはタイミングがある。その人間の精神的な成長と身体的な成長、周囲の環境が合わなかったとき、弱い部分が現れて挫折してしまう。
 そういった選手が1人で練習を続けるよりも、新しいチームの一員として、環境を変えて再スタートをして成功することもまた、少なくない。志さえ持ち続けていれば、挫折した経験が、次に必ず生かされるのだ。今年5月、新潟スタジアムの1万m記録会で27分43秒94の日本歴代5位をマークした大森輝和も(前述のくろしお通信の選手)、箱根駅伝に向けた練習が合わずに中大を中退した選手だった。
「重川材木店への入社を迷ったのは、入ってまたやめたら、その繰り返しの人生になってしまうと思ったからなんです」
 それでも走り続けたい気持ちが勝って入社を決めた南波。人間として一回り成長した選手は、競技者としても強さを身につけていける。そういった再生の場を提供することも、重川材木店の特徴の1つと言えるだろう。

D建築業と陸上競技の両立を目指す選手たちにつづく
E重川隆廣社長の魅力 その1 建築業でのサクセス・ストーリー
F重川隆廣社長の魅力 その2 チーム戦略と選手への愛情
G鶴巻監督とオツオリ・コーチの役割

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