重川材木店密着ルポ
崇高なる職人ランナーたちの挑戦

F 重川隆廣社長の魅力 その2
チーム戦略と選手への愛情

@大工のチームで全日本実業団駅伝出場を A<萩野智久>エースの取り組みがチームの求心力に
B<林隆道>アメリカ帰りの異色ランナー
C箱根を走った選手と、走らなかった選手
D建築業と陸上競技の両立を目指す選手たち
E重川隆廣社長の魅力 その1 建築業でのサクセス・ストーリー

 重川社長の陸上競技への情熱が再燃したのは、現在陸上競技部のマネージャーを務める浜田亨が、拓大から入社したのがきっかけだった。
「拓大だけでも、家業が建築関係という選手が2人いたのです。だったら、箱根駅伝出場の15チーム(当時)で30人はいる。父親は建築業を継いで欲しいと思っているが、子供はもう少し走りたい、というケースも多いかもしれないと感じました。30人のうち、4人に1人の割合でうちに入って、建築業の修行をしながら走り続けてくれれば、8人は集まるのではないかと計算したんですね。全国を探せば、絶対にいるはずだと思いました。陸上競技部を創設したい気持ちはずっと持っていたのですが、一気に現実的に考えられるようになりました」
 浜田の入社が2000年のこと。それから重川社長は、精力的に陸上競技部創設に乗り出した。日大とホンダで競技経験のある鶴巻監督の伝手(つて)を使い、実業団チームの関係者にも積極的に接触。陸上競技部の運営に必要な知識を集めていった。2003年4月には竹石実が入社し、競技会でも重川材木店の第一歩を記した。そして今年、4月に萩野智久と古賀五徳、6月に林隆道と内田竜太、8月に南波寛人と国分隆宣が相次いで入社。そして10月にはコーチ兼任のオツオリと、駅伝が組めるメンバーが揃った。
 鶴巻監督によれば、重川社長が当初考えていたのは、新潟県縦断駅伝への自社選手の出場だったという。自身が区間賞を取れなかったことから、その夢を誰かに託したかったのだろう。だが、浜田の入社を契機に、全日本実業団対抗駅伝にも出場できるチームが作れると、本気で考え始めた。目下の目標は、2005年度に北陸実業団駅伝でYKKを破って、全国大会に駒を進めることだ。
「そのためには14分0秒台の選手が4人は必要で、そのうち1人はケニア選手を考えています。オツオリ・コーチがスカウトして、来春入社する予定です。あとは萩野と、その力のある新入社員2人を採用したいと思っています。残りの3人は14分25秒レベルの力が必要です。そこには、林以下の現在いる選手の成長を期待しています」

社長室で萩野(右)と北陸実業団駅伝の打ち合わせ

 すでに紹介してきたように、「実際に建築の仕事をしている選手たちで全日本実業団対抗駅伝出場」が、重川社長の夢である。しかし、その一方で、選手がレベルの高い走力を持つには、時間が必要なことも認識している。基本的には火曜・木曜・土曜の週3日が練習優先の日であるが、現在も、萩野は本人が希望すれば、毎日15時で仕事を上がることができる。
「全日本実業団対抗駅伝の2区を考えたら、萩野でも厳しい。1万m28分台前半の選手が必要ですが、毎日15時上がりでは、その力を維持できないかもしれません。3日間くらいは12時上がりにしないと。建築技能者だけで出場することにこだわりすぎて、私が死ぬまで出られなかったら、それもどうかと感じています。1〜2人の契約社員を採用することも、選択肢に入れています。浜田が入社したときに感じたことが、思ったより難しいのだとわかりました。55人の社員では選手数を確保するのも大変です。土地もまだ空いていますから、新しい分野に業務を拡張することも考えています」
 ただ、契約社員選手となれば、それなりの結果を求められそうである。現在、重川社長は社員の仕事に対しては「100%を求めている」という。それは、お客さんからお金をもらってやる以上、当然だと考えているからだ。だが、陸上競技部の成績に対しては、とやかく言ったことがない。「自分が100%を求めたら、今の選手では続けていけないでしょう。70%でいいと思っています」。それが、走ることだけが仕事になる契約社員となれば、話は別だ。「来年入社するケニア選手が、蓋を開けたら13分50秒とかかかるようなら、当然、帰ってもらうことになります」

10月の取材時には匠塾と陸上部の寮は一緒だったが、
11月には陸上部の寮が独立して別棟に移った
 重川社長の陸上競技部の運営には、匠塾(たくみじゅく)の創設、運営の経験が生かされているように感じられる。匠塾とは、簡単に言えば大工の養成学校(4年制)。重川社長が39歳のときに創設した。カリキュラムは講義と実技から構成され、仕事をしながら大工の技術を習得していける。新潟県から職業訓練校にも認定された。技能オリンピックの新潟県優勝者を11人も輩出し、テレビ企画の“大工王選手権”で優勝した若手大工もいる。
「いい住宅を造るには、腕のいい職人がどうしても必要です。仕事毎に雇った方が経営的には無難かもしれませんが、大工は1つの現場にかかると3〜4カ月は拘束されてしまいます。腕のいい大工は6〜7カ月先まで予定が埋まっていることもある。人間性も、腕も確かな職人を、つねに自分の仕事に携わっていてもらいたかった。そういった大工の養成には時間もかかるし、お金もかかる。でも、必要だと感じたから、とことんやりました」
 しかし、若く、血気盛んな人間の集まりである。創設当初は、色々な問題が起きた。警察沙汰もなかったとは言えないし、塾生の行動に近所の人たちが抗議に来たこともあった。最初の1〜2年は、やめていく塾生の方が多かった。徐々に軌道に乗り始めたのが、3年目ころから。
「4年目からは、優秀な資質の塾生も入ってくるようになりました。最初の頃は1つの現場で棟梁が、4〜5人の1年生の面倒を見なければいけませんでした。棟梁自身の仕事がなかなかできません。それが徐々に、4年生がいて3年生、2年生、1年生と現場にそろうようになり、上級生が下級生に指導できるようになっていきました。あとは、今はもうやっていませんが、3年目から毎朝、日曜日以外は6時20分から校長の私も含めて、ラジオ体操をやることにしました。日常生活を規律正しくさせることが狙いでした」

朝練習にも顔を出す重川社長(右端)。
左がオツオリ、中央が萩野
 駅伝のチーム育成にも、通じる要素が感じられる話ばかりである。重川材木店陸上競技部も、今はまだ創設されたばかりで、レベルも高くなければ、チームとしての組織的な練習システムも確立されていない。何人かの脱落者も出るだろう(スムーズに仕事に移行していけるシステムになっているわけだが)。
「陸上競技部も3〜4年したら、上手く行くようになると思います。実際、最近は14分40秒の入社希望者は、結論を待ってもらっている状況です」
 大工たちと接するときも、重川社長が技能的な指導ができるわけではない。それは、陸上競技に対しても同じ。個々の練習方法は、選手自身に任されている(練習日誌は重川社長が念入りにチェックしているが)。
「練習メニューの細かい部分に関しては、私自身にこだわりがあるわけではありません。彼らが好きなようにやって、伸びていけば一番いいと思っています。現在は個々の力量にも差がありますから。今後、チームとしての基礎ができてきて、目指す試合が一緒になってくれば、合同練習をする方向で考えています。できれば来春から、それができる体制となれればいいのですが」
 大工やその卵たちに対する重川社長の接し方は、愛情にあふれている。重川社長が目指す質の高い建築を、実際の形に造り上げていくのが、彼ら大工なのだから。現場に手伝いに行くのは当然で、毎晩のように酒を酌み交わしていた時期もあった。
 同じように、自身の走ることへの夢を実現しようとしている選手たちにも、同じような愛情を持って接している。小さな記録会でも、選手の応援のために出向き、トラックのすぐ外側から大声を張り上げる。自己新を出す選手がいれば我がことのように喜び、選手と陸上競技の話をするときは、本当にいい表情となる。
 その辺が、大会社にはあり得ない、温かみのある部分である。“叩き上げの実業家”としての魅力にあふれている人物、それが重川隆廣社長だ。林隆道はアメリカ滞在中に重川社長と電話で話をして、「この社長の下でなら」と、入社を決意したという。選手全員が、林と同じ気持ちで重川材木店陸上競技部に加わったと見ていいだろう。

G鶴巻監督とオツオリ・コーチの役割 につづく

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