重川材木店
密着ルポ
2010-11

第1回
5年ぶりの
ニューイヤー駅伝出場
                         第2回 ニューイヤー駅伝迫る!
                         第3回 “次”が見えたニューイヤー駅伝

 感動のニューイヤー駅伝初出場から5年。“大工のチーム”重川材木店が2度目のニューイヤー駅伝出場を決めた。5年前のメンバーから全員が入れ替わり、2010年には豊岡知博監督を迎えた。“新しい重川材木店”となって臨んだ北陸実業団駅伝での戦いを追いながら、今季のチームや選手個々の特徴を取材した。5年前との違いは何か。しかし、“仕事との両立”“仕事のできる選手が強くなる”という重川材木店の理念は、5年前と変わることなく継承されていた。

@5年前との違い

●フィニッシュ地点での喜び方
 2010年11月14日。北陸実業団駅伝フィニッシュ地点の下呂市金山振興事務所前に、アンカーの岩倉駿がガッツポーズで飛び込んできた。19連勝したYKKには勝てなかったが、2位までがニューイヤー駅伝(全日本実業団対抗駅伝)の出場資格を得る。岩倉のフィニッシュは重川材木店が5年ぶりのニューイヤー駅伝出場を決めた瞬間だった。関係者から歓喜の声が挙がったのは5年前と同様だったが、選手たち全員が手放しで喜んでいるわけではなかった。
 1区・市川裕貴「色々な人にお世話になった恩返しができた」
 2区・カギア「気持ちよかった。ニューイヤー駅伝に出たかっ
たから」
 3区・高橋秀昭「ゴール10分後に棟梁から電話をもらったん
ですよ」
 4区・河野孝志「“やった”というより“ホッと”した」
 5区・村井健太「嬉しさはさほどありません。ホッとしただけ」
 6区・宮入一海「ホッとしたくらいですね」
 7区・岩倉駿「初めての全国大会出場。言葉が見つからない
くらいに嬉しい」
 補欠・登石暁「嬉しさがなかったわけではないですけど、“無
難に通過したな”という感想」
 5年前は実質的に強化1年目で出場を果たした。急造チーム
が心をひとつにした。心をひとつにしたのは今回も同じだが、5年
をかけて徐々に作り上げてきたチームである。数年前から在籍し

喜びをかみしめる重川社長兼総監督
ている選手もいれば、今季加入した選手もいる。
 また、戦力的にもある程度の余裕があり、「今年は出ないといけない」と考えていた選手が多かったことも、選手個々に感想が違うこととなって表れた。
 重川隆廣社長兼総監督の思いに、5年前との違いがよく表れている。
「フィニッシュに間に合わなかったこともあり、勝ったぞ、という喜び方ではありませんでしたね。でも、全国大会出場という事実を認識して、徐々にこみ上げてくるものがありました。前回は選手集めからニューイヤー駅伝までアッと言う間の出来事でした。今回は4年間予選落ちして、その間に色々な経験をチームがしてきました。数年をかけて編成してきた点が違います。以前からいる選手と、今年入ってきた選手と、新監督と私でつくり上げてきたチーム。練習だけでなく、産みの苦しみという意味で、この4年間が必要だったのではないでしょうか」
 数年をかけて編成してきたチーム。その特徴が北陸実業団駅伝の随所に表れていた。

北陸実業団駅伝2位の表彰を受け
る高橋(右)と村井(右から2人目)
●22秒差まで迫られた5区
 重川材木店はニューイヤー駅伝キップを争う高田自衛隊に、4区終了時点で1分29秒差をつけていた。ところが5区で、村井健太が22秒まで差を詰められてしまった。北陸大会は連絡車が認められている。高田自衛隊の車からの掛け声が5区(14km)の終盤、重川社長と豊岡監督が乗る車にも聞こえてくる。重川社長がそのシーンを振り返った。
「6、7区で2分は勝てると思っていましたから、負けるとは思いませんでした。それでも、勝ち負けに関係なくかなりのストレスを感じました。準備期間が長いのに対し、実際の勝負は4時間15分で決まってしまいますから」
 実際に走っていた村井はどう感じながら走っていたのか。
「小さなアップダウンはありますが、5kmまでは下りの比率が大きいコース。自分は下りが得意ですから5kmまで全力で行ったのですが、そこから脚に力が入らなくなったのが誤算でした。平坦な道が上りに感じてしまうほどです。残り2kmくらいから高田自衛隊の掛け声が聞こえ始めましたが、ペースを維持するのが精一杯で、上げることはできませんでした」
 村井は10月の合宿で良い練習ができたが、合宿明けに脚に痛みが出てしまった。しばらく練習を中断。北陸実業団駅伝にぎりぎりで間に合わせた。「10km以降は不安がある」と豊岡監督は思っていたが、それでも2番目に長い5区に起用した。その理由を次のように説明する。
「村井はここ数年チームの主力としてやってきた選手。短い区間では成長がないと判断しました。長い区間を走れれば自信になりますし、走れなければ課題を見つけられる。本人はつらかったと思いますが、こういう経験をしないと成長しないと思います」
 豊岡監督のメニューには“フリー”が多いと村井は感じている。昨年まで20km走をやる場合、最初は3分30〜40秒で入る設定にしていた。その設定がないのである。村井が次のように振り返った。
「一度、僕が3分10秒で入ったら、15kmまで行けたんです。それから“オレも、オレも”とやる選手が増えた。フリーだからペースを落とすのでなく、やったことのないペースで行ってみる。そういう部分が今回、結果に出ている選手が多いのかもしれません」
 結果を出せなかっただけに断定する話し方ではないが、村井自身もそこに道筋を見い出しているようだった。

●勝利を確定させた宮入&岩倉の調整力
 22秒差でタスキを受けた6区(11.6km)の宮入一海は、高田自衛隊との差を知らなかったという。中継所付近は携帯電話の電波が入らず、具体的な情報を得ることができなかった。
「後ろに1チームいることはわかりましたが、それが高田自衛隊とは思いませんでした」
 連絡車の重川社長や豊岡監督は、宮入がわかっているものと思っていた。戦術として情報を伝えなかったわけではない。「宮入の走りに不安がまったくありませんでしたから、特に声をかけたり叱咤激励をする必要がありませんでした」と重川社長。
 宮入は最初の1kmを3分00秒と抑えめに入った。後半の厳しい下りに備えての判断だったという。それでも2kmを過ぎると高田自衛隊を引き離し始めた。力が違ったということもあるるが、「万全な体調ではなかった」と振り返る宮入の調整能力が発揮された結果でもあった。
 宮入は背中と腰に痛みを抱え、3週間前の1万m記録会では30分45秒もかかった。その時点でチームの練習から離れ、独自メニューで本番に備えたのだ。
「最初の1週間はエアロバイクを中心にやりました。脚の痛みを悪化させずに体力を戻すためです。2週間前に15kmの距離走を3分15秒ペースでやって、なんとか行けるかなと手応えを感じました。その後はショートインターバルをやって合わせました」
 宮入は重川材木店密着ルポ2009の第3回で紹介したように、6年間、チームに属さずに1人で走ってきた。その経験が今回生かされた。6区終了時には高田自衛隊との差を1分46秒と広げ、ニューイヤー駅伝出場をほぼ決定づけた。


6区の宮入から7区の岩倉へのタスキリレー

 ところが、7区(10.4km)の岩倉駿にタスキが渡ったとき、予想外のことが起こった。繰り上げスタートがあり、高田自衛隊と他に数チームが重川材木店の中継20秒後に走り始めたのである。
 それでも岩倉は冷静だった。高田自衛隊のアンカーの選手とはトラックで何度も対戦していて、1500mでは負けても1万mでは勝っていた。
「追いつかれるとしても、その分相手は力を使っているはず。追いつかれても負けないと思っていました。連絡車からも1分差をつけられなければいい、と指示がありました。まあ、何か変化があるにしろ、追いつかれてから対処すればいい。その辺を一通り考えてから走り始めました」
 こういった試合度胸は、レースに強いと言われている岩倉の特徴だ。
 ただ、岩倉も決して好調だったわけではない。レース前の最終3000mが不本意だった。8分48秒というタイムの割に身体がきつく、脚の回転や腕振り、接地などに違和感があったという。
「もう少し刺激が必要だと感じて、60分ジョッグのなかに1分間走を10本くらい入れました。それで感覚はつかめてきたのですが、時期的には試合に近すぎて、大腿に張りが残った状態でレースに臨んでしまいました」
 実際、5kmを過ぎて脚が重く感じ始めたが、高田自衛隊の選手を引き離すことには成功していた。2回目のニューイヤー駅伝出場に向け、まったく危なげのない走りで岩倉がフィニッシュ地点まで走りきった。

A新人たちの思いにつづく


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