重川材木店
密着ルポ
2010-11

第3回
“次”が見えた
ニューイヤー駅伝
                    第1回 5年ぶりのニューイヤー駅伝出場
                         第2回 ニューイヤー駅伝迫る!

 37チーム中35位。5年ぶり2回目のニューイヤー駅伝に臨んだ重川材木店の成績である。目標だった順位は30位以内。重川隆廣社長兼総監督は「淡々と受け止めています、35位は35位ですから」と冷静に結果を振り返る。だが、その一方で「25位や20位は届かない夢と思っていましたが、今回のレースを“たら”“れば”で分析すると、20位の背中まで見えるレースだった」とも見ている。何より、翌年に向けて「何をしたらいいのか、課題がはっきりと見えるようになった」と前向きになることができた。重川材木店にとって2度目の上州路の戦いを振り返ると、重川社長が話していることの意味がはっきりする。

@想定以上の展開だった前半

●味わえなかった“1区の醍醐味”
 1区(12.3km)を任された村井健太は、“1区の醍醐味”を味わいたいと願っていた。だが、「味わえていませんね。あそこに加わってこそ面白い区間なんです」と肩を落とした。
 1区はかなりのスローペースで進んだ。上位と下位のタイム差がつかないスローペースは、村井にとっては好都合だった。途中、400 mとか500mくらいの距離で小刻みな揺さぶりが何度もあったが、「そういうのは不得意じゃない」と落ち着いて対応した。
 10km通過は30分00秒で村井も余裕があった。だが、そこから一気に叩き合いになり、村井は300m〜400mは集団で粘ったが、6番目に集団から後れ始めてしまった。
「久しぶりに全国の選手たちのスピードを痛感させられました」
 村井のタイムは36分35秒で区間33位。トップと34秒差、20位とは19秒差だった。タイム差だけを見たら合格点が与えられる。20位は2区(8.3km)のカギアで浮上したい順位。そことのタイム差が19秒ならカギアは走りやすい。区間順位は30位を下回ってしまったが、村井は1区の役割をかろうじて果たしたと言える。
希望していた1区を任された村井のスタート(右から3人目)
「最低限の役目は果たしました。でも、それは自分の力でできたのではありません。スローな展開になったのがラッキーでした」
 村井が悔いているのは、20位の集団についていけなかったこと。そこについていければ、自身のスパート力にも満足できた。
「悔しいですね。悔しい反面、やり甲斐を見つけられた嬉しさもあります。やっている意味を見つけられました」
 これまでの村井はニューイヤー駅伝に出られればいい、という取り組み方しかしてこなかったことに気がついた。
「勝負に食い込める練習を行なっていきます」
 村井はすでに、来年のニューイヤー駅伝に向けて、何に取り組むべきか、具体的なイメージができている。

●厳しい区間で
 3区(13.6km)の岩倉駿が厳しい区間を受け持つことになった。2区のカギアが期待に応え、19位まで順位を上げていた。岩倉は“抜かれても30位以内に踏みとどまる”のが役目だった。重川材木店は前半を30位以内で持ちこたえ、後半もその順位で粘る戦略でいた。
「中継直後に何人かに抜かれました。入りのスピードが全然違いました」
 周りは1万mが28分台の選手が多い。重川材木店のなかではスピードがある方だが、岩倉の1万mは29分39秒がベストだ。レベルが違った。
 4km前後で東京電力グループに追いつかれ、10km前後で佐川急便ら3チームに抜かれた。特に10km以降のペースダウンが大きく中継では28位と順位を落とした。
2区で14人抜きの快走を見せたカギア(左) 3区の岩倉(右)はオーバーペース気味だったが力は出し切った
 原因は最初の2km通過が5分40秒と速かったこと。10km通過は29分35秒と持ちこたえていたが、残り3.6kmを持たせることができなかった。
「最初の力みが後半に来てしまいました。オーバーペースだったとも言えますが、自分では力を出し切りました」と岩倉。
 その状況でも、岩倉は28位に踏みとどまった。区間33位だったが、入りのペース次第では区間30位以内の可能性は十分あった。豊岡知博監督も「2〜3kmあたりで自分のペースに戻して、大崩れしない走りができた」と評価した。
 前述のようにある意味、一番厳しい区間への出場だったが、岩倉は前向きだった。
「逆に良い経験ができたと思います。何が足りないのか、何が課題なのかはっきりしましたから」
 岩倉の課題は29分前半の力をつけること、その力でないと戦いにならないことを痛感していた。

●最長区間での快走
 4区は22.0kmの最長区間。各チームのエースが集まるこの区間で、河野孝志が区間20位と快走した。
「タイム(1時間05分40秒)を見て区間30位より良いのは間違いないと思ってホッとしていましたが、区間20位と聞いて、嬉しいというよりビックリしました。東日本の何チームかに勝っていますし、藤田敦史(富士通)さんに1分34秒差でしたから。藤田さんには2分半やられることも覚悟していました」
 かつて富士通に在籍していた河野にとって、藤田は偉大な先輩だった。
 河野が快走した要因としては、覚悟と落ち着きが挙げられるだろう。
 11月に貧血で走れなくなったが、慌てずにできる治療を行なった。薬を処方してもらったがそれだけに頼らず、貧血に良いといわれる食品やサプリメントを極力多く摂った。12月下旬のタイムトライアルではチームで1番になったが、その間も「長い区間は自分が走る」という覚悟は変わらなかった。
「入社前のハーフマラソンで良い記録を出して採用してもらいましたから、15km以上の距離は僕だと入社したときから思っていました。短い区間に回ったらチームに迷惑をかけることになる。意地でも長い区間を走りたかったんです」

最長区間の4区をで区間20位の快走を見せた河野
 レース中の落ち着きもプラスに働いた。1kmで西鉄に追いつかれ、15km付近までその後ろにピタリとついた。西鉄の選手から何度か前に出るように促されたが、28位のポジションをキープすれば良いと判断した河野は、それに応じなかった。結果的に、大阪府警に抜かれたが28位の順位を守り通した。
 河野はまた沿道で応援をする社長や会社の先輩、同僚、前所属チームの頃の同僚、そして自分の両親と、多くの知り合いの顔がはっきり認識できたという。それも調子の良い証拠だった。
 だが、河野の区間20位の快走にもかかわらず、4区終了時点のチーム順位は28位で3区終了時と変わらなかった。2人を抜いて、2人に抜かれたのだ。これは、河野の前にいた数チームが集団で好ペースを維持したからだ(区間順位も10位台だった)。
 それでも、「4区は強い選手が集まるなか、30位以内を目指す後ろのチームを引き離した」と、豊岡監督も河野の走りを高く評価する。重川社長も「河野の走りには言うことはないですね。雰囲気に飲まれず賢い走り方をしたと思います。4区終了時点までは全てが上手く進んでいた」と、その時点では選手たちの走りに手応えを感じていた。

A力を出し切れなかった後半につづく


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