2001/5/6 水戸国際
その時(その1)
その時は、ついにやってきた。たぶん、生涯忘れられない日になるだろう。ちょっと風の強い、2001年5月6日の午後だった。場所は晴天に恵まれた水戸市立競技場。
ホームストレートに入ると、1つ内側の7レーン、小坂田淳(大阪ガス)が向かい風をものともせず、グッグッと前に出ていく。8レーンの邑木隆二(法大)はコーナーの出口で1〜2m小坂田に遅れていた。もちろん、それを追いかけようとしたが、この日の小坂田は、1週間前の織田記念(邑木46秒49、小坂田46秒50)とは違った。とても、追いつけない。それどころか、2m、3mと差が開いていく。小坂田のさらに1つ内側、オーストラリア選手にも追いつけない。
4レーンの山村貴彦(日大)との差は、フィニッシュまで確認できなかった。確認できなかったということは、勝ったとは思えなかったということだ。なぜなら、邑木は同じ大阪出身の山村に、高校時代を含めて1度も勝ったことがないのだから。
邑木は大阪高、山村は清風高の出身。私学高校同士、大阪高校短距離界を二分するライバル高だった。山村は高2で国体で3位でベスト記録は46秒76。その年の邑木の記録は48秒95。高3時の97年には山村はインターハイ200 mと400 mの2冠、日本選手権ではシニア選手を抑えて優勝(46秒10)してしまうスーパースターだった。邑木もインターハイ5位、記録も47秒27と高校リスト4位に進出したが、山村とはいぜん1秒以上の差があった。
大学入学後の2人の戦績と年次別ベストの推移は、以下の通り。
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年次ベスト |
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関東インカレ |
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日本インカレ |
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日本選手権 |
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山村 |
邑木 |
山村 |
邑木 |
山村 |
邑木 |
山村 |
邑木 |
1998 |
大1 |
46.56 |
47.47 |
2位・46.56 |
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4位・46.97 |
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1999 |
大2 |
46.01 |
46.43 |
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1位・46.05 |
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dnf |
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2000 |
大3 |
45.03 |
46.41 |
1位・46.62 |
2位・46.75 |
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1位・46.45 |
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邑木は昨年の関東インカレで0.13秒差と、山村に迫っていることを実感できた。4×400
mRのラップでも、対等に渡りあえた。だが、山村は春季サーキットの好成績でシドニー五輪代表に選ばれた。5月の関東インカレは、調子の谷間でもあったのだ。それを証明するかのように、9月のスーパー陸上で山村は45秒03の日本歴代2位を出してみせた。
今季、邑木は室内で好調だった。天津、北京、横浜と日中対抗室内3連勝。もっとも、この種目だけは中国のレベルが高くないし、邑木自身は“日中対抗で調子がよかった選手は、その後がもたない”との風評が気になった。
5月6日の午後2時6分。フィニッシュしてしばらくすると、邑木は自分が3位であることを告げられた。邑木が初めて山村を“競争相手”として意識したのが高校2年の時。6年目にしてついに、その相手に勝つことができた。記録も46秒20の自己新。
表彰所で感想を聞くと、「嬉しいです。最高です」とのこと。やや声が小さめだったのは、6年間の道のりの苦しさを噛みしめていたからだろうか。それとも、すぐ後ろで表彰を待つ、大阪出身の藤原夕規子(グローバリー)がいたから、恥ずかしかったのだろうか。それとも、已然として山村との間に横たわる、1秒以上の自己記録の差を思ってのことだったのだろうか。その理由は、本人だけがわかっていればいいことである。
いずれにしろ、これで邑木の視界が、いっそう世界へと向けられることになる。
「世界選手権が第一の目標ですから、それに向けていい一歩になりました。A標準は日本選手権で出して、そこで優勝したいです」
はっきりと、大きめの声で言い切った邑木だった。