ウィグライプロスペシャル 第8回

高平慎士、真夏の夜の“夢の続き”

     ★Part3★直前のサブトラックと緊張感がマックスに達するコール場

                   【Part2】決勝前、選手村の24時間。北京五輪との違いは?からのつづき
●ウォーミングアップのメニュー
 高平慎士にとって決勝前のサブトラック、ウォーミングアップは、オリンピックで3回目、世界陸上も含めると6回目となる。ウォーミングアップで行うメニューはほぼ決まってきているが、そのなかでも小さな変化があったり、意識する部分が変わってきていたりしている。

高平 ロンドンではサブトラックに着いたのは16時半頃。アップを始める前にウィグライプロを飲みました。ロンドン滞在中の夜は、寝る前に毎日一包み飲みましたし、休みの日以外は練習開始前にも必ず飲んでいましたね。
 サブトラに入るとジョッグして、少し動いて、ストレッチをして、トレーナーさんにほぐしてもらって。そこまでは個人で行います。その後集合してジョッグをして、各自でドリルを行って、みんなで流しをして、その後でパート別のバトンパス練習です。2→3走で1回、3→4走で1回やりました。前日に予選でやっていますから、基本的に1回しかやりません。北京五輪も1回でした。
 ただ、北京では4走の朝原さんとのバトン練習で空振りしているんです。どうして空振りしたのか、今もって理由はわかりません。タイミングは合っていたので、もう1回やり直したりしませんでしたし、不安もなかったです。前年の大阪世界陸上ではレース本番で一度空振りしたくらいですから。
 バトンパスの練習後は自分単独で“出の練習”(リレーのスタート練習)を、イメージをつかむために3回行いました。ロンドンの競技場は少しカーブがきついので、そこに留意しながら行いましたね。北京もシードレーン(中央の4つのレーン)でしたが7レーン、ロンドンは4レーンでした。

●サブトラックのジャマイカ、アメリカ勢
 4×100 mR決勝前のサブトラック(ウォーミングアップ)で常連となっている高平だが、緊張感がなくなるわけではない。しかし、同じ緊張感のなかでも、20歳で出場したアテネ五輪、初めてメダルを意識した北京五輪の2回とは、見えているものは大きく異なっていた。

高平 アテネ五輪のことは、あまり覚えていることがないんです。北京五輪はジャマイカの3走パウエルから4走ボルトへのバトンパス練習を見て、よくこのスピード感でやれるな、と思っていました。もっとも、それが失敗して、それを見たフレーターが笑っていましたけどね。でも、それ以外はあまり覚えていません。
 ロンドンは日本のテントがジャマイカとアメリカに挟まれた位置だったこともあり、その2チームがどんな過ごし方をしているのかを見たりしていました。ジャマイカはボルトやブレイクのグループで1つのテント、パウエルやフレーター、カーターらは別のテントと別れていましたが、仲は良さそうでしたね。普段はファンキーな連中ですが、ここから本番に向けた仕上げだぞ、という段階に入るとスイッチが入ります。獣になりますね。
 アメリカのテントは、短距離はも
ちろんのこと他の種目の選手たち 五輪期間中、練習前に毎回ウィグライプロを飲んだという高平
も一緒です。トップ選手が揃っていて、プライドが前面に出ている雰囲気でした。スペアモンがよくしゃべる選手で、僕は大阪世界陸上のときから仲良くなっていましたが、「メンバーから外れちゃったよ」とこぼしていました。ゲイは1人寡黙な感じで集中していました。

●北京のサブトラックとは違っていた雰囲気
 ウォーミングアップの状況を高平から聞く限り、極度に緊張しているというよりも、やるべきことを淡々と行っている方に近い印象を持った。ウォーミングアップのメニューをこなすとき以外の日本チームはどのような雰囲気なのか。

高平 コール場に向かう前に円陣を組んで気合いを入れるのが日本チームの慣例ですが、はっきり言ってさまになっていません。普段は個人競技ですからね。北京のときは朝原さんが掛け声をかけましたが、それまでもずっこけることが多かったので「行くぞって言うから、オーッて応えてね」と、事前に段取りをされていました。ロンドンでも円陣は組んだのですが、掛け声をかけたのが誰だったか覚えていないのです。僕だったかもしれません。
 北京では高野監督、苅部部長、リレメン1人1人が、そのときの思いを話しました。補欠の齋藤君が「このチームでやれてよかった」ということを話したことで、雰囲気が盛り上がりました。ロンドンは1人ずつ話をすることはなかったですね。違うチームですから、どちらが良い、悪いということではありません。
 ロンドンの決勝前のサブトラックが、特に変わっていたということはありません。いつもの決勝に向かう日本チームでした。ただ、北京はやはり“最後感”があったのは確かです。朝原さんとリレーを走るのは最後だということを、リレメン全員が意識していました。オリンピックを楽しもう、自分たちの空間を楽しもう、そして朝原さんとの最後を楽しもう。そんな雰囲気でした。
 ロンドンはそういった“情”の部分よりも、よし行くぞ、という雰囲気が強かったと思います。ただ、“このメンバー全員でつかむチャンスは今回が最後”という雰囲気は見出せませんでした。先ほど(Part2で)お話ししたように“これが最初で最後”と思って臨むのがオリンピックだと、この8年間で強く感じてきたのですが、その部分は今回は薄かったと思います。

●緊張感がマックスに達した北京のコール場
 サブトラックから移動する先がコール場である。競技場のスタンド下の部屋なのだが、1つの狭い空間で、ライバルチームと肌と肌が触れ合うほど接近する。「こいつらと戦うのか」という緊張感が最高点に達する場でもある。一種の極限状態のなかでの選手たちの心理は、どのようなものなのだろう。

高平 コール場は1次コールと2次コールがあって、北京は確か1次コール場で1走、2走、3走、4走と違うブースに入れられました。大きな部屋で仕切りがあって4つの区画に分けられていた。ジャマイカやトリニダードトバゴの選手たちは、仕切り越しに話をしていました。叫び合う感じに近くて、末續さんと「動物園みたいですね」と話したことを覚えています。緊張感がマックスになって耐えきれなくなるので、仲間とのコンタクトで紛らわせようとするのです。単にテンションが上がって楽しんでいるだけの人もいますけどね。
 日本チームも例外ではありません。北京では2次コール場でチーム単位になりましたが、一緒になっても僕らの緊張感はマックスでした。末續さんは元々、思いきり緊張してそれさえも楽しもうというスタンス。北京では経験豊富な朝原さんでさえ、トラックに出てから大声で叫んでいたくらいです。僕の印象では、コール場でもアテネより北京の方が緊張されていました。塚原は叫びまくっていました。
 個人種目とリレーでは、緊張の質が少し違います。
 リレーは4人いることで若干、ほっとできるところはあります。個人にはない部分です。でも、4人いるからこそ失敗できない、というプレッシャーもかかります。個人は失敗しても、自分が責任をとればいい、と考えることもできますが、リレーではそれができません。リレーは安心感もあるけど、それが緊張にもつながる。気持ちに振れ幅ができるのです。

北京五輪スタジアムのスタンド下はこんな場所。この写真はコール時ではなく、表彰式後の一シーン。銅メダルの日本と金メダルのジャマイカ<写真提供:高平慎士>

●“いける”予感がコール場だった理由
 Part1で紹介したように、高平は予選のコール場で“いける”予感がしたという。どうしてサブトラック、あるいは選手村ではなくてコール場だったのか。

高平 “入れ込み方”が最高点に達するから感じられたのだと思います。そこまではリレメンも、チームジャパンの一(いち)100m選手だったり、一(いち)200m選手だったりするわけです。選手村やサブトラックでは、日本チームの選手やスタッフもいて“4人だけの空間”にはなっていません。九鬼が外れたときに予感がしてもおかしくなかったのですが、Part1でお話ししたようにまだ、確信を持てる材料が少なかった。それがコール場に入って4人が1つの空間に固まり、「この4人で」という気持ちが最高に高まった。そこで感じられたのだと思います。
 北京のときは齋藤には申し訳ないのですが、“4人だけの空間”をコール場以外のシーンでも作れていました。純粋に物理的な空間とは違っていたと思います。むしろ、4人以外の人たちが気を遣ってくれていました。塚原の脚は大丈夫か、末續さんの調子はどうか、僕と朝原さんがしっかりとつなげるのか。それとは対照的にメンバーの4人は、やるべきことをやればいいんだから、という落ち着きがありました。
 ロンドンで“いける”予感がしたタイミングとして、コール場だったことが良かったとか、悪かったということではないんです。ロンドンでも周りのサポートがあって初めてあそこまで行けましたから。
 それに、僕が感じられたかどうかの問題であって、予感があってもなくても、実際の結果は同じだったはずです。単にコール場がどういう場所なのか、を示すエピソードだと思いますね。

●コール場での過ごし方の進歩
 コール場の過ごし方で全てが決まるわけではないが、レースでのパフォーマンスに影響が出ることもあるだろう。アテネ五輪の個人種目で散々な出来だった高平が4×100 mRで良い走りができたのは、前述のようにコール場で安心感があったからだったのかもしれない。北京五輪では個人種目でもシーズンベストを出し、ロンドン五輪では自身初めて準決勝に進出した。

高平 コール場では精神的にフラットな状態を作ろうとしています。ここにいる連中と勝負をするんだ、ということで緊張するのですが、勝ち負けよりも、自分の力を発揮するための精神状態を作り出すんです。
 ロンドンは1次がチーム単位で招集されて、2次が走順毎に別々になりました。北京とは反対で、2次コール場で別々に離されてしまったのです。
 アテネ、北京と比べたら徐々に、そこでの気持ちのコントロールはできるようになってきました。20歳の頃は英語に対して神経が過敏になっていて、役員の言葉に必要以上に集中していました。選手の誰かがウォーっと叫ぶといちいち反応していましたし、隣の選手がスパイクのヒモを縛ったら、自分も同じことをしなくてはいけないんじゃないかと思っていた。他人の家に泊まりに行く感じでしたね。
 それがアメリカに毎年行くようになって、英語にも徐々に免疫ができてきました。ロンドンではホームグラウンドと同じ、とまではいきませんが、ある程度は自分のテリトリーを作れるようになってきた。
 北京の2次コール場には70mくらいの走路が隣接していて、そこでアップを行うことができました。4人でスタジアムに入って、第4コーナーからトラックを逆回りに歩いて4走、3走、2走という順に所定の位置で留まっていきます。
 ロンドンの2次コール場も走路があって、アップができるのは北京と同じでした。
 そこから、1走から順に呼ばれていって、スタジアムの中に移動していきます。山縣が呼ばれてアイコンタクトをして、江里口が呼ばれても同じようにして送り出しました。僕が出ていくときは飯塚に送り出してもらいました。
 北京五輪から4年。やるべきことはやってきた4年間です。アテネから北京までの4年間よりも中身は濃かった、という自負もありました。いよいよ、“夢の続き”を見るときがやってきました
Part4につづく
ロンドン五輪後は練習内容に少し変化も表れている(Part6かPart7で言及)

今後は以下のような展開で高平選手の言葉を紹介していく予定です。
【Part1】予選のコール場で感じた期待感の正体
【Part2】決勝前、選手村の24時間。北京五輪との違いは? <テーマ>「次回があると思ってはいけない」
【Part3】直前のサブトラックと緊張感がマックスに達するコール場
【Part4】“冷静な3走”を極める<場面>トラックに出てからバトンパス直前まで
【Part5】リレーの“思いやり”は究極の技術<場面>2・3走のパスと3・4走のパス
【Part6】<テーマ>8年間の成長 <場面>3走を走っているときの感覚
【Part7】<テーマ>リオへのスタート <場面>5位でフィニッシュした直後。帰国後


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