小野真澄特集
3rd attempt 1st attempt 2nd attempt
小野真澄という棒高跳選手の考え方………ほんの一部分だとは思いますが
シドニー五輪代表を逃した後、小野は実業団に登録したまま、2000年秋に大学院に復学。それ以前は、ミキハウスの長期合宿制度を使って静岡県新居町に滞在することが多かったのだ。
世間には、小野の気持ちが競技から少し離れたのではないか、という見方もあった。実際、小野の記録はその年(2000年)の後半、3m台に低迷する。同学年のライバル、近藤高代に負ける試合も増えていったのも事実。しかし、2nd attemptの本人のメールにもあるように、小野の気持ちが棒高跳から離れていったわけでは決してない。
小野は元々、北海道教育大を卒業後もCFAという地元のクラブで、特に指導者も付けずに1人で頑張っていた選手だった。札幌手稲高時代に走幅跳とやり投でインターハイ全国大会に出場、全国高校混成では12位になっていたが、大学は体育の勉強ができて自宅から近いという理由で北教大に決めた。陸上競技中心の生活ではなく、アルバイトや趣味のスノーボードにも時間を多く割いていた。学生時代、特に1〜2年のうちは「練習は3日に一度だったり、1週間やらなかったり、ということもざらです。棒高跳をやっているという意識もなかった」と言う。
つまり、かつては生活全部が陸上競技というよりも、生活の一部が陸上競技であり、棒高跳だったのだ。そういった選手が元の生活環境に戻ったからといって、競技に対する情熱が冷めたことにはならない。
小野の略歴の紹介になるが、大学3年生の頃から棒高跳への意識が高まり、4年時(98年)には大学院へ進学して本格的に棒高跳をやろうと決心。大学院(CFA登録)1年目の98年12月に日本人初の4mの大台を征服。翌99年にはミキハウスに入社して、島田コーチに師事するため静岡県に長期留学した。
一般種目には数少ない、“高校時代に弱かった”トップ選手。陸上競技を職業に、という意識もなかっただろう。そのせいか、オリンピック出場に対する考え方も、他の選手とは少し違っていた。以下は2000年の屋外シーズンイン前の、小野のコメントである。
「基本的には“限界まで跳ぼう”という気持ちで棒高跳をやっています。オリンピックだけを目標にしていると、ケガなどでそれが目指せなくなったときに、何もなくなってしまいますから。でも、自分は陸上競技を、“競技”をしているんだという気持ち、自己満足ではなく勝負をしてみたい気持ちが生じてきて、オリンピックとかに出たい部分がちょっとだけ強くなりました。以前は1人でやっているという意識でしたが、今はサポートしてくれる人、練習をここまで見てくれる人など、一緒に大きな課題に取り組んでくれている人たちがいますから」
2nd attemptで紹介した「私は跳べると思った高さは必ずクリアします。2年前はそれが4m00でしたし、今は4m30なんです。跳べない高さは絶対に口にしません」というコメントにおいても、4m30は五輪A標準ではなく、“自分がその時点で跳べる最高の記録”という意味で目標にしていたわけである。
しかし、人間の営みは、個人1人だけで成立しているわけではない。有形無形に社会や他者との関わりが生じてくる。周囲がある選手に対してオリンピック出場を臨めば、その選手の意識に変化が生じるのは、当然である。そのあたりの心理が今回、天津で2年ぶりに自己新記録を跳んだ際に表れている。来年のパリ世界選手権B標準の4m30を跳んだときよりも、4m22の成功ときの方が嬉しかったというのだ。
再び、彼女が自身のWEBサイトに載せているコメントを紹介したい。
-----------------------------------------------------------------
実は振り返ってみると、4M30を跳んだ時よりも、4M22を成功した時の方が嬉しか
ったです。結果として30の方が価値あるものですが、22の方が私にとって最高の
瞬間だったのです。
2年間が報われた1センチ更新。壁を越えた瞬間でした。
シドニーへの挑戦では、ここまで私を集中させることができませんでした。なぜだか
わからないけれど、今まで応援しつづけてくれた皆さんにいい知らせを届けたい!
この気持ちが私を支えました。やっと、シドニーが終わった気がします。
-----------------------------------------------------------------
4月から、札幌市の中学校の教員となった小野。市側には、競技を続けるために配慮してもらうことは、特に相談していない。他の教員たちと同じように業務をこなす。
それでも、小野の棒高跳への情熱が冷めたわけでは、決してない。
最後も、彼女のWEBサイトのコメントで締めくくりたい。ミキハウス最後の試合となった、西田杯の結果を報告しているなかでの文章である。
-----------------------------------------------------------------
室内シーズンの最後の試合であり、また私自身の
ミキハウス陸上部として最後の試合でした。日本記
録の更新をねらっていきましたが、惜しくも4m31は
失敗し、結果は4m20でした。悔しくて、外のシーズ
ンでは4m40は必ず跳ぼうと思っています。この2ヶ
月で4m20で満足できないほど私の意識は成長しま
した。
ミキハウスをやめることはとてもとても寂しいことで
すが、ここまでやってこられたのも、ミキハウスのお
かげであり、今後40をねらっていこうと思うのも、
この重要な2ヶ月があったからだと思います。
最後の最後までありがとう、ミキハウス!!
4月からどこまでできるかはわかりませんが、アスリ
ートである以上は記録更新を貪欲にねらっていこう
と思っています。
いままで応援してくださった皆さん、ありがとうござ
いました。
-----------------------------------------------------------------
寺田的陸上競技WEBトップ