小野真澄特集
2nd attempt                                1st attempt  3rd attempt
苦しんだオリンピック・イヤー

 2年前の西暦2000年、20世紀最後のオリンピックがシドニーで行われる年だった。シドニー五輪では女子棒高跳が初めて採用されることになっていた。つまり日本の女子棒高跳選手にとっては、五輪代表第一号となるチャンスだった。
 日本陸連はシドニー五輪の代表選考に際し、A標準突破を条件とすることを打ち出していた。B標準は楽に突破していたのだが、A標準は4m30。小野が4m30さえ跳べば間違いなくシドニー五輪代表になれる状況だった。

 2月の日中対抗室内横浜大会で4m21を跳んだ日、小野は以下のようにコメントした。
「私は跳べると思った高さは必ずクリアします。2年前はそれが4m00でしたし、今は4m30なんです。跳べない高さは絶対に口にしません」
 小野の言う4m30は必ずしも、“オリンピックA標準”という意味ではない(詳しくは後述)。だが、この日から4m30に挑戦する日々が始まった。

 しかし、室内の勢いが屋外シーズンにつながらなかった。
4月22日 群馬リレーカーニバル 1位・4m00
5月3日 静岡国際       3位・4m00
5月13日 国際GP大阪     3位・4m00
6月10日 台北国際       2位・3m90
7月16日 南部記念       1位・4m00
 静岡と台北では、近藤高代(長谷川体育施設)に敗れてもいる。

 結局、4m30は跳べず、女子棒高跳五輪代表第一号にはなれなかった小野。故障があったのか、技術的な狂いがあったのか、それともメンタル面に問題があったのか――。陸上競技のパフォーマンスには、選手のいろいろな側面が影響する。ここがこうだったからダメだったとは、特定しにくいものだ。だが、選手の気持ちが徐々に、追いつめられていったとしても不思議ではない(そうならないこともあるかもしれないが)。
 皮肉にもシドニーへの最後の挑戦は、小野の地元・札幌で7月に行われた南部記念だった。地元関係者が「地元のヒロインをオリンピックへ」という気持ちになるのは当然である。会う人の多くから、“オリンピック”という言葉を含んだ激励を受けたのは、想像に難くない。誤解されないように記すが、小野がそのことを「プレッシャーに感じている」と漏らしたのを聞いたことは、一度もない。

 南部記念後に小野が知人・関係者に送ったメールには以下のように記されていた。
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皆さまいかがお過ごしでしょうか。
先日、7月16日 オリンピック出場をかけた最後の競技会が地元札幌でおこなわれました。結果は4M00で優勝したものの、オリンピック出場の夢はかないませんでした。やっと解放されたという安堵感と、悔しさと、久しぶりに納得のいくジャンプができたという充実感など、複雑な気持ちで一杯です。
今は少し休んで、これからのことを考えていきたいと思っています。
今まで応援してくださって、本当にありがとうございました。オリンピックはいけないけれども、棒高はもう少し頑張りたいと思っています。10月から大学院に復学し、札幌にいることが多いので、札幌にお立ちよりの際は是非ご連絡ください。
本当にありがとうございました。
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