2001/3/11
名古屋はどうしてスローペースになったのか?
選手、指導者のコメントを基に考察すると――

松尾は、大南は、永山は何を考えながら走ったのか?

 2時間26分01秒、日本歴代8位の記録が誕生したレースをスローペースだったと言っていいものかどうか、見解は人それぞれだろう。だが、ここでは敢えて「スローペースだった」と言わせてもらう。
 レース前日の記者会見で、中間点の通過タイムはどれくらいを希望するか? という質問が出た。スピードに不安のある甲斐智子(デンソー)は「1時間12分〜13分」とコメントしたが、他の選手はだいたい「1時間11分〜12分台」か「先頭集団についていく」と話していた。同じ世界選手権選考レースの東京と大阪は、ともに1時間10分台で通過している。名古屋の前半が向かい風になることとを考えても、11分〜12分台というのは、妥当なところだった。
 ところが、実際の通過は1時間13分03秒。優勝した松尾和美(天満屋)は次のように言う。
「ハーフの通過タイムが遅すぎて、ショックでした。トラックや駅伝で勝ったことのない選手ばかりでしたから、1位は考えていませんでしたが、タイム的には(2時間24分台も)行けると思っていたんです。そこで、記録よりも勝負に切り換えた方がいいと思いました」
 2位の大南敬美(東海銀行)は次のように振り返った。
「みんな優勝を狙っていて、誰も前に行こうという感じがありませんでした。自分も勝ちたい気持ちが強くて…。前半が遅くなった時点で、もう勝負しか頭にありませんでした。(世界選手権代表を意識して2位、3位でも2時間25〜26分台を出そうなどと)タイムは気にしていませんでした。最後の5kmまではすごく余裕があったんですが…」
 今回のように前半がスローペースになったら、追い風になった時点で誰かがボーンと出ないと、牽制し合ってしまう。出られるか出られないかは、どんな練習ができたか、どんな体調に仕上げられたか、というフィジカル的な部分で左右されるが、メンタル的な部分に左右されることも多い。レース前日、「松尾は2時間23分台も可能な仕上がり」、と話す天満屋・武冨監督に「山口(衛里)さんみたいに、スタートから飛ばすこともあり得るのか」という質問が出た。だが、「そういう性格じゃありません。様子を見ながら行くタイプです」と、武冨監督は答えている。
 22km過ぎでペースメーカー役の選手がいなくなった際、松尾が前に出たが「結果的に前に出された」と振り返るくらいだから、スピードが上がるわけはなかった。
 唯一、永山育美(デンソー)が前に出たときが、流れが変わるチャンスだった。26kmまでの1kmは3分41秒を要したが、永山が先頭に立ったことでペースが上がっている(1km毎のスプリットタイム表参照)。松尾は「永山さんはスピードのある選手。このまま行ってくれないか」と思ったという。
 ところが、永山サイドにも自信はなかった。
「積極的に行ったわけではなく、松尾さんについていたら知らないうちに前に行かされていたんです。下がりたかったんですが、状況がつかめなくて迷っていたら、30kmで下がるように指示があって…」(永山)
「渋井(陽子・三井海上)みたいにバンバン行けるパワーがあれば行かせたのですが、まだ、あそこまでの力はありません。変に前に出さされている感じでしたので、(中途半端な走りでは)離せないと判断しました」(永田ヘッドコーチ)
 永田ヘッドコーチとて、凡記録を望んでいたわけではない。「いいラビットが35kmまで付いて、スーッと行けていれば、ポーンと行けたかもしれません」。永山のスピードを、マラソンのハイペースに生かす方法だ。だが、実際にはスローペースになってしまった。
 永田ヘッドコーチは、永山を世界選手権に行かせたい気持ちが強かった。レース前には「日本人3番でいいぞ」と声をかけている。中盤で集団を引っ張り、終盤落ち込むより、終盤までもつれた展開の方が、永山のスピードを生かせると考えたのかもしれない。だが、結果的には8位と最後で崩れてしまった。「あそこで行かせてやれば、もっといい形になったかもしれませんが…」。もちろん実際にどうなったかは、誰にもわからない。
 話をレース展開に戻そう。30km地点でのデンソー陣営の指示は、他チームの選手にもそれとわかるほど、はっきりしたものだった。松尾は「あれで記録は絶対に無理だと思いました」と言う。31kmでは縦長だった集団が、横長になってしまった。
 松尾は言う。
「5kmのタイムも17分40秒とか、かかっていて、タイムは絶対に無理だから、もうちょっとタメて、タメて、と自分に言い聞かせていました。スパートをかけたのは35kmぐらいからです。優勝を意識し始めたのは、残り4〜5kmでした。ただ、(競っているのが)大南さんのどちらなのかは、わかっていませんでしたけど」
 35kmから40kmまでは16分47秒と、それ以前の5kmと比較して1分近くも跳ね上がり、松尾と大南敬美のマッチレースになっていった。
 35km以降のペースアップで松尾が日本歴代8位、大南敬美が歴代10位をものにした。だが、世界選手権参加内定基準が「2時間25分59秒以内で日本人トップ」となっていることからもわかるように、また、99年の東京以降高速レースが続いていることからも、そして選手のレース中の意識からも、名古屋のレースはスローペースだったと言っていい。
 ただし、2時間28〜29分台でフィニッシュした選手、つまり40kmまでの5kmに18分台を要した選手にとっては、絶好のペースだった。その結果が、日本マラソン史上最多の11人が、2時間20分台をマークする結果となった。だが、これまでは94年大阪の7人が最多だったのである。当時と比べ日本のレベルは、はるかに上がっているはずだ。2時間26分以内の人数が過去最多、と言われるレースこそ、今後は望みたい。