2002/3/3 びわ湖マラソン
武井、マラソンでも勝負強さを発揮
メジャーレース優勝は91年の日本インカレ以来
“常勝男”、10年後の変貌
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 10年間勝利がなかったとはいえ、武井はやっぱり勝負センスを備えた選手だった。
 瀬古監督によれば途中、「40kmまでは辛抱しろ」と声をかけたという。だが、武井は36km付近で4人の集団を抜けだし、単独でトップを行く諏訪利成(日清食品)を追い始めた。
「本当は自分の力で追いたくなかったんです。外人選手を使って差を詰めたかった。でも、外人2人が詰めようとする気配がなかったので、自分で行きました」
 これには「あいつの判断が正解だった」と、現役時代に稀代の“勝負師”と謳われた瀬古監督も脱帽した。かつて、武井がトラックで勝っていたときのパターンは、最後の直線勝負で勝つこともあったように思うが、終盤にリズムに乗ったロングスパートをかけて引き離すシーンも印象に残っている。
 この日の武井は、まさにその走りだった。35kmから40kmの5kmを15分09秒にペースアップ。シドニー五輪8位のウアーディ(フランス)が一時、必死に追走を試みたが、武井が寄せ付けず、最後はウアーディが根負けした。

 しかし、マラソンに関してはこれまで、武井はここまで勝負に徹した走りができなかった。自ら「技術的に下手だった」と言うのである。2年前のびわ湖で2時間9分台をマークした際に、偶然気づいたことがあった。
「あのレースは給水をする際に集団の中の位置取りを下げてみたら、偶然にもいい走りができたんです。体調やこなした練習はかなり滅茶苦茶でしたから、まぐれと言ってもいいくらい」
 以前はレース中にあっちに動き、こっちに動き、と無駄なエネルギーを使っていたという。それに気づいたのが2年前のびわ湖だった。
 だが、その次のレースとなった昨年のパリは、シューズのひもを結び忘れて失敗した。眼鏡もとって走るつもりがしたまま走ってしまい、雨で視界が悪くなった。逆に天候のいい日は眼鏡をかけようとしないため、視力が悪い。初マラソンのフランクフルトでは、トップの選手がバテていたのに気づかなかったし、2年前のびわ湖は、五輪代表となった川嶋伸次(旭化成)が遠くない位置にいることを確認できなかった。

 瀬古監督はこれまで武井が勝てなかった理由を、「2時間9分台の力をこれまでも持っていたのに、試合に合わせられなかったから」と、分析する。
「99年のベルリン(29位)はパスポートの期限切れに気づかなくて、現地入りが3日も遅れました。昨年のパリは絶好調なのにシューズのひもを結び忘れた。今回も、3日前に親知らずを痛くして薬を飲んでいるんです。ドーピングに引っかかる心配のない薬でしたが、“またやったか”と思いましたよ」
 記者の前では自身の考えを理路整然と話す武井だが、瀬古監督から見たら、抜けているところだらけのようだ。「監督からは怒られてばかりです」と武井本人も苦笑い。とても、かつて常勝を誇ったエリートランナーらしくないエピソードだ(こういった印象は、周囲が勝手につくっている部分が大きいとは思うが…)。

 しかし、初マラソンのフランクフルトと、2年前に前を行く川嶋に気づかなかった話には、本当の理由が別にあった。
「あの2レースは前の選手の状況が見えていませんでしたが、まあ、それは自分の意識が前にいっていなかったことの言い訳に、視力の悪さを使っていたわけです。どちらも、自分の意識が前の選手を抜くことまで考えていなかった。視界には入っていたはずなのに、見ていなかったんです。seeとwatchみたいなものです。2年前の五輪選考会も、後輩の佐藤敦之(早大、現中国電力)を引き離すことだけに向いていました」
 2年前、元“常勝男”は精神的にも普通の選手になっていた。それが、このびわ湖で再び世界を狙える位置にカムバック。勝負勘も取り戻し、技術も身につけた。本人さえ希望すれば10月のアジア大会で、91年のシェフィールド・ユニバーシアード以来11年ぶりに日の丸を付ける可能性は濃厚。そのとき、武井の目はしっかり前をwatchしているはずだ。

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