2002/3/3 びわ湖マラソン
武井、マラソンでも勝負強さを発揮
メジャーレース優勝は91年の日本インカレ以来
“常勝男”、10年後の変貌 前編 後編
「もう、地にまみれて長いですからね。注目されない選手になってから。そのあたり(の気持ち)は、他の選手と一緒です」
かつてまばゆいばかりの光彩を放った選手に、低迷期の心境を聞くには、きっかけがないときついものがある。今回の優勝で、武井隆次(エスビー食品)にその話を聞くチャンスが訪れた。武井のメジャーレースでの優勝はなんと、早大2年時の日本インカレ(5000m&1万m2冠)以来。実に10年半ぶりの勝利の美酒だったのである。
高校・大学であれだけ勝ち続けてきた選手が、実業団に入ったあと、そしてマラソンに転向後も勝てない時期が続いて、どんな気持ちで競技に取り組んでいたのか――この質問に対する武井の答えが冒頭のコメントだった。
武井といえば國學院久我山高時代の89年に、5000mで高校生初の13分台をマークした選手。その年の高知インターハイは1500mと5000mの2冠。早大でも、2年時(91年)の日本インカレは5000m&1万mの2冠。箱根駅伝も4年連続区間賞で、当時は“常勝男”のイメージがあった。
「低迷していたと言われますが、大きく分けて2つの時期がありました。25(歳)まではトラック中心で、やってはケガ、やってはケガで、文字通りダメでした。それ以降はマラソンに適応できるまで、成功と成功の間が長かったというだけで、僕の中では失敗だらけというわけではありませんでした。世間が求めるようにはいきませんでしたが、ある程度の間隔ではそれなりに走れていたと思っています」
25歳までは、トラックで走れるイメージを追い求めていた。しかし、アキレス腱の故障を繰り返す。アキレス腱はキックの強いトラックランナーに多い故障部位だ。
「アキレス腱もありましたが、トラックだと予選と決勝の2本を走らないといけないじゃないですか。それがダメでした。どんなに予選を抑えても、2本目(決勝)が走れないんです。これは1本ですむ種目がいいのかなと、徐々にマラソンを考え始めました。1万mではきついというのは、その前から感じていましたし」
武井が“低迷”している間、早大・エスビー食品を通して同学年の花田勝彦は、94年アジア大会(5000m)、96年アトランタ五輪(1万m)、97年世界選手権(マラソン)、そして2000年シドニー五輪(1万m)と日本代表に。記録的にも1万mで27分台を連発していた。だが、その花田もマラソンとなると2時間10分が切れない。
もう1人の早大・エスビー食品を通じての同学年、櫛部静二(現城西大コーチ)は練習ではすごい走りをし、マラソンのたびに期待されながら、実際のレースでは結果を出せないパターンが続いていた。
さらには一昨年のこの大会でエスビー食品選手としては瀬古監督以来14年ぶりというサブテンを達成しながら、昨年は後輩の西田隆維が2時間8分45秒を別大で記録して優勝。日本代表入りで先を越されたばかりでなく、エドモントンのマラソン・コース下見には西田の付き添いという形で同行した。
身近のそういった選手を見ながら、そして勝てなくなってから10年間を過ごしてきたのだ。本人は前述のように、25歳以降は「成功もしてきている」感覚だったのだろうが、そう簡単に割り切れるものだったのだろうか。複雑な心境だったのではないかと、傍から見ると感じてしまう。そういった選手の心情や陸上競技に取り組む気持ちを、第三者が正確に推し量るのは不可能だろう。だが、田幸コーチの話を聞いていて、その中に少しヒントがあるように思った。
「隆次は結果が出ない時期もずっと、マラソンで勝つことを見据えていたんじゃないでしょうか。その途中、つまり準備している間は駅伝やトラックで結果を出せるとは限らない。センスのある選手がセンスに頼ると、マラソン練習に疑問を持ってしまうんです。ゆっくり走っているとスピードがなくなってしまうんじゃないかって。それでトラックに戻ってしまうと中途半端になる。低迷している時期を、スタミナをつける時期と割り切れるかどうかです。
マラソンしかないと、腹をくくってチャレンジしたことが彼を変えたのでしょう。隆次が気持ち的には一番、安定して(練習を)続けていたように思います。マラソンは持っている力を、結果として出すのが難しい競技なんです。花田も櫛部も、能力はすごいのでしょうが、それを42.195kmで表現するという点で、現時点では武井に劣っているのだと思います」 後編に続く
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