2014/7/12 南部記念
道産子ジャンパー&岐阜経大コーチ
品田直宏
世界ユース金メダルから11年後の南部記念初優勝

A南部記念初Vは「思い通りにいかなかった競技人生」の結果なのか?

@学生大会3連勝中の松原と師弟対決からの続き
 地元開催の南部記念に品田直宏が優勝したのは初めてである。
「ケガで欠場したケースを除けば、今年が10回目の出場だったと思います」
 札幌国際情報高3年時(2003年)に世界ユース選手権で金メダルを獲得し、記録も7m87の高校歴代2位を跳んでいる。それから11年。品田にとって思い入れのある大会であり、1回くらい勝っていてもおかしくない。大学4年時の100mB決勝でトップでフィニッシュしたことがあるが、個人種目では走幅跳の3位が、南部記念の過去最高順位だった。
 品田自身が「思い通りに行かなかった」と言う競技生活の結果が、今回の南部記念初優勝だったといえるかもしれない。

 南部記念は言うまでもなく、札幌出身で1930年代に走幅跳と三段跳で世界的に活躍した南部忠平氏の名前を冠した大会だ。三段跳は1932年のロス五輪で金メダル。日本人五輪金メダル第1号の織田幹雄さん(1928年アムステルダム五輪)に続いたが、走幅跳は7m98と当時の世界記録を跳び、ロス五輪で銅メダルを獲得したパイオニア的な存在だ。
「定かではありませんが、小学校5年生のときの選抜リレーが初めての南部記念出場だったと思います。どの年か覚えていませんが、会場で井上悟さん(100m元日本記録保持者)、伊東浩司さん(100m現日本記録保持者)、土江寛裕さん(アテネ五輪4×100 mR4位)のサインをもらったこともあります。中学も選抜リレー、高校でもリレーで出場して、大学生になってから個人種目の走幅跳と100mに出るようになりました」
 父親が陸上競技の指導者だった影響も大きいが、南部記念を通じて“世界”を意識できたことが、世界ユース金メダルと、品田の早い成長を促したのではないか。

 早熟型の部類に入るのは間違いないが、インターハイ100mで2位になったスピードを生かし、まだまだ記録を伸ばしそうな勢いがあった。
 だが、学生時代の品田は伸び悩む。表からもわかるように、大きく落ち込んだわけではなかったが自己記録の更新は社会人1年目と、5年間の歳月を要した。学生時代の品田は短距離ブロックで走ることをメインにしていたが、走幅跳の記録には結びつけることができず、大学4年時には「完全にブレーキがかかっていた」と、反り跳びからシザースに空中動作を変更した。
 シーズンイン前に肉離れをしたにもかかわらず、社会人1年目(2008年)は日本選手権で7m93の自己新を跳んだ。北京五輪代表を取ろうと、しっかりと合わせたが2位と敗れた。優勝したのは同学年の菅井洋平(ミズノ)だった。

品田の年次別ベスト
西暦 学年 シーズンベスト
2000 中3 6m70
2001 高1 7m23
2002 高2 7m54
2003 高3 7m87
2004 大1 7m69
2005 大2 7m64
2006 大3 7m77
2007 大4 7m86
2008 社1 7m93
2009 社2 7m86
2010 社3 7m83
2011 社4 7m86
2012 社5 7m34
2013 社6 7m70
2014 社7 7m82
 品田が入社した濃飛倉庫運輸は岐阜県の企業で、2012年の岐阜国体で得点源となることを期待されての採用だった。国体の成年選手は地元の中学生、高校生がアイドル視する存在でもある。日本代表に入ることも望まれていた。
 だが、09年以降のシーズンベストは7m80台が続いた。自己記録を更新できなかった理由を「いくつかケガがあったことも関係しているとは思いますが、トレーニング内容がよくなかったと思います」と品田は振り返る。
「体力トレーニングばかり行い、技術トレーニング、特に動き作りや踏切ドリルをまったくと言っていいほどやっていなかった。体力トレーニングも何かに特化したものというわけではなく、あれも、これも、と色々なことをやり、走幅跳に必要のないトレーニングも多く行っていたように思います」
 品田は日本選手としてはスピード、パワー、バネの全てが備わっているタイプ。練習などもオールラウンドにできたことで、強化ポイントを見出しにくくなっていたようだ。また、スプリント能力が高いため「走れなきゃ跳べない」という思いが強すぎたのかもしれない。それが跳躍の技術練習を疎かにしてしまうことにつながった。「結局のところ、能力が高いことがアダとなってしまっていたように思います」

 それでも、国体で上位入賞できるレベルは維持していた。
 だが、肝心の2012年はシーズンベストが7m34に落ち込んだ。前年からヘルニアに悩まされたが、五輪イヤーの2012年は室内で7m71と強引に調子を上げた。その跳躍で踏切脚の半月板を損傷。踏切脚がしっかり使えないため逆脚にも負担がかかり、肉離れを起こす悪循環に陥った。シーズンのほとんどをリハビリに費やしたという(Bでも言及)。
 シーズン後半は流しもできない状態で、岐阜国体は7m08で24位。出場選手中、下から3番目という屈辱的な結果だった。
「暗黒時代でしたね」
 本人が言うまでもなく、傍から見ていても苦しい競技生活だったと想像できた。
 南部記念で勝つことも、品田の意識から遠ざかっていた。
B南部記念初優勝は、世界へのスタートラインに再び立った証し に続く


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