2009/2/24 藤田敦史公開練習&共同取材
初マラソンから丸10年、10回のマラソンを走った32歳
藤田にとっての東京マラソンとは?
そのA 故障のなかった1年間を過ごせたのは? その@
藤田は2007年の福岡で失敗し、北京五輪代表を逃した。富士通サイトの記事によれば、30km手前で筋痙攣に襲われていたという。最後は気持ちに脚が追いつかず、前につんのめるように走っていたのが痛々しかった。
すでに31歳。オリンピックに挑戦する最後のチャンスと考えていただけに、ショックは大きかっただろう。
▼富士通サイト記事からの引用
思うような走りができないまま8位という結果で福岡国際マラソンを終えた藤田は、痛めた脚の回復より気持ちの整理に時間がかかった。“またオリンピックに行けなかった”という悔しさだけではなく、同時期に母親が病気で他界し、“走り続ける意味”を悶々と自問自答していた。辛い現実が重なった藤田だったが、その後、気持ちの中で今までにはなかった変化が生まれる。
2008年春。北京オリンピックに行けなかった「けじめ」と、自分に足りないものを求めてチームに戻ることを決意した。この頃、「これまで自分のために走ってきたけど、“チームのために”走ってみたい。今まで自分の好き放題にやらせてもらったのだから・・・」という気持ちが藤田に現れるようになった。そして、チームのもとに戻ってきた藤田は「今年は年内のマラソンには出場せず、駅伝に全力をかけます」と話し、春のトラックレースからチームメイトと共に走り出した。
2007年福岡の失敗の原因を、藤田はどう分析したのだろうか。31歳という年齢での失敗は即、引退に結びつくことが多い。そこから再起できたのは、まだやれると感じた部分があったはずだ。
藤田「自己分析して2つの課題が浮き彫りになりました。1つはスピードへの対応力がなかった。最近のマラソンは1km3分を切る(ペースアップがある)のが当たり前です。自分の場合は目一杯で走っての3分です。それで体に無理が生じて痙攣になったのでしょう。もう1つは筋力不足。昔から、器具を使った筋トレは好きではありませんでした。筋肉は走って付けないと意味がないと考えていましたから。でも、年齢とともに、走るだけでは追いつかないのではないかと。それでこの1年はまず、トラックや駅伝を利用してスピード強化に取り組みました。器具を使った筋トレも積極的にやるようにしました。練習中に起伏を走ることに加えて、器具を使った筋トレです。(富士通の他の選手に教わったということはなく)自分で走っていて弱いところがわかります。最初に疲れるのがどこという感覚が、自分の中にあるんですね。そこを徹底的に鍛えてきました。2007年の福岡では腿の裏に来ました。(やっているのは)太腿の前と後ろ、そして体幹ですね。前後の筋肉はつけやすいのですが、側面がつけにくいので、そこも注意してやっています。そうすることでブレが少なくなり、体への負担も軽減されました」
富士通サイト記事にあるように、この1年間はトラックと駅伝の強化を優先してきた。練習環境を4年ぶりに、駒大から富士通に移したことが、その目的にプラスに働いた。
だが、スピード一辺倒の練習というわけでもなかった。この日の藤田のコメントにも、「駅伝のため走り込みが少なくなっていた」というものがあったが、先日のニューイヤー駅伝優勝報告会時の取材では、「この1年は量も質も上がりました。マラソン練習期間に入っていきなり多く走るのでなく、いつでもマラソンを走れる状態にしてきたんです」と話していた。ちょっと聞くと、矛盾した内容だが…。
藤田「駅伝が近くなって練習の走行距離が少なくなりましたが、年間を通じて距離を上乗せして走ってきました。チームの練習が30kmだったら僕は40kmを、チームが40kmだったら僕は50kmを、というふうに。今までのスタイルは、マラソン練習期間以外は40km走はまったくやっていませんでした。この1年は定期的に40km、50kmをポンポンと入れてきました」
駅伝優勝報告会時には「練習を落としたかといったら、むしろやっている」と話していた。駒大で練習していた頃は、きつい練習をやったら中2日はつなぎの練習だった。それを福嶋監督は2日セットで行うこともあれば、中1日でポイント練習を課すこともあった。当初は「俺の体でこれができるのか」とさえ感じたという。
そうすると、もう1つの疑問が生じる。
質も量もレベルを上げて、故障に結びつかないのか。かつては、脚に不安があっても練習をセーブできず、それが致命的な故障につながっていた。その@のマラソン全成績表にあるように、2002年3月から05年3月まで、3年間もマラソンに出場できなかった。大会前になると主催者や富士通から、藤田の欠場リリースがマスコミ各社に送られてきたのは一度ではなかったと思う。
ケガをしなくなった理由を駅伝優勝報告会時には「何が良かったのかわからない」と前置きしながらも、次のように話していた。
「何かに気をつけたかと言ったら、今まで通りです。治療やアイシングなどのアフターケアもそう。一番変わったのは合宿の機会が増えました。今までは学生の休みに合わせていたのが、富士通では最低でも月に1回はできます。夏はほとんど合宿に行きました。それと最年長ということもあって、自分のことだけでなく、下の選手のことも考えて練習してきました。アドバイスをしていくなかで、自分にも当てはまるものがあったんです。自分を客観的に見られるようになったというか。これまでは“やるんだ、やるんだ”だった自分が、体調の変化に気づいてセーブするようになりました」
24日の共同取材時には、福嶋正監督も藤田の言葉を裏付ける内容の話をしていた。
福嶋監督「以前の藤田は“休めなかった”ですね。こちらがダメだと言っていても、夕方になったら勝手に走りに行っている。練習をやらないと不安だったんでしょう。走らないことがストレスだったんです。今は走らないと決めたら、走らなくなりました。ジムでウエイトなんかをやっています。ストレスをためないようになれたんじゃないでしょうか。具体的な方法まではわかりませんが。寮でも若い選手と、意外にうまくやっているんです。たわいもない話などをしていますから。今回の練習でも、1月下旬に足の甲が痛くなりました。以前の藤田だったら無理してやって、東京マラソンは欠場になっていたでしょうね」
そのBにつづく
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