2001/5/6 水戸国際
その時(その3)
その時は、やっとやってきた。1年半ぶりだろうか。ちょっと風の強い、2001年5月6日の午後だった。場所は晴天に恵まれた水戸市立競技場。
男子400 mには3人の外国選手が出ていたが、日本選手との力の差はなかった。バックストレートは追い風。200 mは山村貴彦(日大)と小坂田淳(大阪ガス)が21秒8前後と、ほぼ同じくらいのスピードで飛ばしていた。
第4コーナーを出ると、4レーンの山村がリード。山村は外国3選手とともに、シードレーンを占めた。昨年、日本選手に負けたのは大阪グランプリ1レースだけという勝負強さ。45秒03の日本歴代2位という記録からも、日本選手で唯一シードレーンに入ったのも当然だった。
だが、7レーンの小坂田も僅差で続いていた。直線にはいるとすぐにトップに躍り出て、以後は後続の追い上げを許さなかった。彼だけが、向かい風を受けていないようにも思える強さだった。
45秒72は自己4番目の記録。それよりも、今年に限っていえば世界選手権A標準ということの方が、意味が大きい。小坂田は昨年すでに、45秒05とA標準を大きく破っているが、世界選手権代表選考では、「選考会でA標準を破り、日本選手権3位以内に入る」ことで、自動的に代表に内定する規定が、今回から打ち出されているからだ。つまり、昨年のA標準よりも、今年の選考会のA標準の方が、より有効なのである。
小坂田はこの日、シードレーンでない7レーン。それが幸いした。
「シードレーンだと守りに入ってしまいがちなんです。今日は7レーンだったので、思い切ったレースができました。一昨年のイメージがどうしても強くて、去年は何をやってもうまくいきませんでした」
小坂田は一昨年、セビリア世界選手権で2次予選に進出し、秋の日本選手権にも優勝。99年のうちにシドニー五輪代表に内定していた。そして昨年のシーズン、日本選手間でも勝ちがなかった。45秒05の日本歴代3位を出したスーパー陸上でさえ、最後に山村に胸一つかわされていた。
「風が強かったので、記録よりも勝つことを考えていました。久しくガッツポーズしていなかったんですよ」
99年の日本選手権以来、1年半ぶりにやっと、その時がやってきたのである。シドニー五輪でバトンを落とし(接触して落とされた)、悲劇の主役となってしまった小坂田の顔に、久しぶりに満面の笑みが広がった。
技術的には、200 mから300mの走り方をポイントとした。
「いつもは弱気になるところですが、今日は200からスピードを維持するつもりでいきました。(仮に国内で)200から300で落としてゴールで勝つことができても、世界では通用しません。これまでも、そこで行っているつもりでも、あとでビデオを見ると走れていなかったんです」
400 mの場合、この200 mから300mの走りが重要とは、よく言われることである。最後の直線に備えて、本当に全力を出すわけにはいかない。200 mまでの100 mは10秒3〜6くらいのスピードで走ってくるわけで、そのスピードを実際に維持したら、300mで力つきてしまうのだ。
だが、400 m強い選手ほど、この区間で差をつけるのである。マイケル・ジョンソン(米)がその最たる例だ。200 mまでは他の選手とほとんど同じタイムだが、この区間で5m以上の差をつけて直線に出てくる。これは、セビリア世界選手権のバイオメカニクスデータから明らかになっている(このあたり、データ面から記事にできそうです)。
「今日はアウトに誰もいなかったので、自分のペースで行けたんです」
ここでも、7レーンであることが幸いした。だが、今後は、いつでもアウトレーンで走るわけにはいかない。山村と、隣り合わせのレーンになることもあるだろう。
「広島(織田記念・日本人3位)ではみっともないレースをしました。300mでトップのつもりが、200〜300で落としてしまっていて。こいつら(山村&邑木)に負けて。最近タメ口ですからね。『元気ー』とか」
小坂田はタメ口の後輩を、非難しているわけではない。「小憎らしい奴。でもレースに勝つことで、タメ口をきけなくしてやる」というニュアンスで、明るく、前向きに後輩との関係をとらえている。このコメントも、笑顔で話しているのだから、間違いない。それに、大阪人同士(正確には2人とも兵庫出身)。当人同士が感じているノリがあれば、それでいいではないか。
男子400 m特別企画「その時」
その時(その1)
その時(その2)