2001/5/6 水戸国際
その時(その2)

 その時は、ついにやってきてしまった。2人が出会ってから7年目、ちょっと風の強い、2001年5月6日の午後だった。場所は晴天に恵まれた水戸市立競技場。

 山村貴彦(日大)は直線に出ると、「今日はおかしい。バランスが悪い」と感じていた。山村は、他の選手に比べると上体の揺れが出るタイプだが、それでも軸がしっかりしていて、うまいバランスで揺れ、推進力につながっていた。だが、この日は推進力につながらない。昨年痛めた、右脚の故障の影響だった。
 第4コーナーの出口では、僅かにリードを奪っていたが、間もなく小坂田淳(大阪ガス)にかわされた。差は、開く一方。この日の小坂田に、この日の自分の調子では勝てそうになかった。小坂田だけでなく、6レーンの外国選手、そして、山村の視界には入っていなかったが、8レーンの邑木にもかわされてしまった。
 最後の直線で、邑木のことまで山村の意識にあったのかどうか。おそらく、小坂田のこと、自分の走りのことしか意識になかったのではないだろうか。これは、あくまで記者の推測だが。

 3月に日大400 mブロックの取材をした際、4×400 mRでライバルとなる法大に関して話を聞いていた。その際、日中対抗室内で好調だった邑木のことも山村に質問したが、普段は記者の質問の意図をくみ取って、いい話をしてくれる山村が、気のせいか言葉少なだった。
 力をつけている邑木を警戒していたのか、あるいは実績では明らかに上の自分と比較されることを、潔しとしなかったのか。本人から話し出すのならともかく、あえて第三者が立ち入って質問すべきではない。あるいは、単に取材する側の思い込み違い、ということもある。

 レース後しばらくして会うと山村は「7年目で初めて負けました」と、邑木に敗れたことを自ら口にした。そして、上述のバランスが崩れていた話も、聞くことができた。その原因は、右脚の故障にあった。山村の右ヒザのちょっと下は、氷がテーピングで固定されていた。
 山村の表情はいつもと同じ、明るく快活な青年のものだった。終わったことを、くよくよしても仕方がない、そんなふうに感じているようにも思えた。だが、6年間負けていなかった相手に負けたのだ。悔しくないはずはない、と思うのだが、これも第三者が推測で記事にすることではない。
 2人のこれまでの戦績(その1参照)と、2人のコメント、表情を記事にするだけにとどめたい。