2001国際千葉駅伝
10連覇に導いたもの―― ◆前編◆ 後編
脚に不安のあった渋井が逆転の当事者になれた経緯
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日本の10連覇で幕を閉じた女子のレース。レース展開を見ると、意表をついて4区に起用した渋井陽子(三井住友海上)が逆転劇を演じ、日本の“計算通り”の快勝に映ったかもしれない。だが、実際はそんな簡単なものではなかった。エチオピア、ロシアといった外国勢も、例年になく強力だった。脚に不安のある選手もいたし、スケジュール的にピークを持ってくるのが難しい選手もいた。そんななか、日本女子はいかにして勝利を手にしたのか――。
渋井の4区起用は、そこがポイントとなる区間と読んでのこと……ではなかった。レース前週の火曜日に左ヒザの後ろを痛めてしまった。練習が大きく中断したわけではないが、「ごまかしながら」(渋井)走っていた。当初は10km区間が予定されていたが、この微妙な痛みの影響を考え、負担の軽い5km区間に変更されたのだ。
まして、渋井は外国のどの国が強いとか、どの選手が世界選手権やオリンピックで入賞しているかなど、まったく気にしていなかった。自分にタスキが渡る時点で日本がリードを奪っているものと決めつけていた。つまり、自分が逆転の当事者となることなど、考えていなかったのである。それが、実際は1秒差の2位。
「(逆転して目立てる)おいしいところなんて、思わなかったです。まじで、やばいと思いましたから」
しかし、その割に走りは冷静だった。エチオピアのデンボバがかなり速いペースで入った。渋井は脚の状態を考慮したのか、やや遅めの入り。その結果、2人の差はアッと言う間に開いたが、すぐに自分のリズムに戻った渋井は、1.5 km付近でデンボバを抜き去った。5区への中継では2位エチオピアに42秒差をつけ、独走態勢を築いていた。
「エチオピアが15分06秒(08)の選手だってあとから聞いて、速い人だったんだって、ビックリしました」
渋井の5000mのベストは15分35秒79。駅伝の10kmの記録からして、15分10秒台は十分可能と思われていたが、この差は、駅伝にかかける気持ちの違いが出たように思えた。前述のように渋井も、必ずしも完調ではなかった。所属チームの駅伝である11月3日の東日本実業団対抗女子駅伝と、12月9日の全日本実業団対抗女子駅伝の間に行われる大会でもある。日本選手全員に言えることだが、コンディションの調整は難しい。だが、決していい加減な走りはできない。
三井住友海上の鈴木秀夫監督も、他のレースと同様に、渋井の力を引き出すことに細心の注意を払っていた。ここで下手な失敗をしたら、この1年間で築いてきた渋井の評価が落ちてしまう。レース直前に渋井をコースの下見に行くと言って連れ出し、道に迷う振り(と思われる)をしてドライブにしてしまい、脚に不安を感じていた渋井の緊張を解いたのも、鈴木監督なりのリラックス法だったのではないか。
もっとも、「15分30秒か35秒と思っていた」のに、15分15秒の区間新で走ってしまうのは、渋井の力がついていることに他ならない。
こうしてトップに立つと、あとは駅伝を知り尽くしている日本の独壇場だった。
「渋井さんが(1位に)上げてきてくれたので、私もトップで渡したかった。私も見たのですが、アンカーは本当にすごいコース。ゆとりをもって走ってもらいたかったので、もっと差を開けようと、前へ前へと突っ走りました」
5区の岡本治子(ノーリツ)のコメントが、日本選手の気持ちを代表していた。5区のエチオピア・デファルも5000m15分08秒36の記録を持っているが、15分23秒92の岡本が区間タイの好走で引き離した。駅伝はトラックの持ちタイムで決まるわけではない――言い古された言葉ではあるが、駅伝の本家・日本が国際駅伝という場でそれを実証した。
あとは、田中めぐみ(あさひ銀行)がフィニッシュテープを切ればよかった。「(フィニッシュのポーズは)渋井さんと同じ部屋だったんですが、今までずっと指で連覇の数を表してきていたので、10本指のゴールはしたくないと話していたんです。それで、シンプルにガッツポーズでいきました」
区間距離が変わっているとはいえ、フィニッシュタイムの2時間13分33秒は、アトランタ五輪代表5人を動員し、“ドリームチーム”とも言われた96年の日本がつくった大会記録を、実に27秒も更新するものだった。
(後編に続く)
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