ウィグライプロ
スペシャル
第3回



尾田賢典
遅咲きランナーのこだわり





A20歳台の終盤に自己変革

@成長と足踏みから
◆入社6年目の08年が転機となった。佐藤敏信監督(前コニカミノルタ・ヘッドコーチ)の就任とともに練習を見直した。尾田は特に、ポイント練習とポイント練習の間のつなぎの日の練習を工夫するようになった。

尾田 ジョッグの日の練習を普段から増やすように改めました。佐藤監督が来られる以前からコニカミノルタと合同合宿をしていましたが、自分はポイント練習でいっぱいになっているのに、向こうの選手は間のジョッグもしっかり走っていました。身近では高橋(謙介・09年ベルリン世界選手権補欠)さんが、そういう姿勢で練習に取り組んでいらして、それを見てはいましたが、自分もやれるとはまだ思えなかった。僕も90分、120分のジョッグはやっていましたが、単発でしかできなかったんです。
 しかしそれが実行できれば、1回の練習では違いが出なくても、年間をトータルしたら大きな違いになる。普段から土台づくり、基礎体力づくりが必要かなと感じるようになりました。佐藤監督が着任されてチーム全体がそういう意識になりましたね。徐々に、きついときでもジョッグがしっかりできるようになり、それが当たり前になってきました。慣れるまではきつかったですけどね。長期合宿でもそれができるようになると、体ができてきたなと実感できました。ポイント練習もしっかりこなせるようになりましたし、試合でも好不調の波が小さくなってきました。


40km走のスタート前


◆練習法を改めた1年目は記録に表れなかったが、翌09年には1万mでは28分08秒13と当時の自己2番目の記録をマークし、世界選手権B標準を突破した。日本選手権でも過去最高の3位に。10年には27分53秒55と念願の27分ランナーの仲間入りも果たした(参照)。


尾田 09年は練習の流れに一番手応えのあった日本選手権でした。5月に新潟で行われた記録会で標準記録を破って、優勝すれば代表になれる状況でした。世界大会を狙う意識はずっと持ち続けていましたし、その気持ちは毎年強くなっていましたね。しかし、6月の日本選手権は3位。落胆はかなり大きかったです。
 27分台は毎年狙っていたのですが、それまでは力がなかったのでしょう。10年の秋に出せたのは練習が継続できたことが一番大きかったと思います。夏の陸連ボルダー合宿では、他チームの選手と一緒に40km走などをしっかりとこなせました。そういうのが自信になってレースにも結びついた。チームに高林(祐介)が入ってきて、27分台を出した
レースに出場していましたが、「こいつには負けたくない」と思って走っていたことも要因の1つです。

◆練習の手応えが良くなってくるのと同時に、トラックにこだわっていた気持ちがマラソンにも向くようになった。09年2月には熊日30kmで2位となり、翌10年には初マラソンに挑戦することも決めた。

尾田 08年の夏を越えると練習ができる実感が大きくなって、マラソンができるかな、やってみたいな、と思い始めました。若い頃は「マラソンは将来やれればいい」くらいにしか考えていませんでした。体がまだできていませんでしたが、練習を変えたら体も変わってきた。監督とも面談して、マラソンを視野に入れた30kmを走ろうということになったんです。熊日30kmでは三津谷君と良い勝負ができたので、あとはもう少ししっかり土台を作ればマラソンに行けると感じられました。マラソンに挑戦してみようという気持ちが確固としたものになりましたね。

40km走序盤と5kmの折り返し

◆熊日30kmが09年2月。出場を予定していた10年の東京マラソンはアキレス腱と股関節の痛みで出ることができなかったが、前述のようにその年はさらに練習が充実し、1万mで待望の27分台を出すことができた。そして11年2月の東京マラソンを2時間09分03秒で走破。1万mで自己新をマークした4カ月後にマラソンで成功した例は、近年ではかなり珍しい。トラックでスピードを研いた選手がマラソンに進出する場合、長い距離向きのフォームに変更するのに時間がかかるからだ。尾田もトラックではバネを効かして跳ねる動きが特徴だった。


尾田 マラソンではフォームを変えています。トラックではバネを使っていますが、ロードを走るときはある程度、抑える意識で走っているんです。最近ではそれほど跳ばなくなってきたと、自分では思っています。じっくりとやってきたことでフォームが安定してきたと思いますね。どちらかというとトラック練習の方が好きですし、スパイクを履いて走りますからバネも使わないことはありませんが、トラックでも以前よりは跳ばなくなってきました。練習で距離を踏むと自然とバネもなくなってきます。スピードが出にくくなって、マラソン練習中のインターバルなど苦しんでいますよ。大きな動きはできなくなっていますから。

◆尾田の場合1万mから4カ月でマラソンを走ったというよりも、08年から3年の歳月をかけてマラソンに進出してきた、という見方の方が正しいのだろう。しかし、尾田の特徴がスピードを生かしたマラソンであることは疑い得ない。マラソンを走るときのフォームも、他の選手と比較したらトラックの動きに近い。それはマラソン練習にも表れている。佐藤監督は「(高橋)謙介のように10日間の合宿で3本も40km走をやることはできません。尾田のスピードを殺さないようにやっています」と言う。尾田自身、あまり追い込むとアキレス腱に痛みが出ることもあり、無茶な走り込みは避けている。では、どのような工夫が尾田のマラソン練習といえるのだろうか。

尾田 これが正しい練習というものはないと思いますが、自分では体調や体の状態によって練習を考えていく必要があると思っているんです。ポイント練習はしっかりとやって、その間のつなぎ方を工夫する。08年からジョッグの量を増やしましたが、ただ多く走ればいいというものでもありません。特に重視しているのが良いリズムでジョッグをすることです。東京マラソンでも途中何回か身体が重いかなとか、苦しい場面もあったんですが、リズムだけは保って走ることを考えていました。
 でも、本当にきついときはリズムの良いジョッグも難しくなります。疲労が大きいときは走る時間を減らしたり、本当にゆっくりのジョッグになります。プールで歩いたり泳いだりすることも疲労回復の手だてになります。ただ、きついきついと言ってダラダラやるのが続いたらダメなんですよ。メリハリをいかにつけるかが大事だと思います。そのときの自分の状態に合わせ、何をしたらいいかをしっかり考えるようにしています。それができないと、それまでやってきたことが無駄になってしまうんです。
 それは長い目で見たときも同じです。1万mにこだわってきたことを無駄にしないために、今をどうしたらいいかを考えて取り組んでいるわけです。1万mをやったことが無駄だと思ったら、今もタイムは伸びていなかったでしょう。失敗したから無駄ということはありませんし、失敗して学ぶこともあります。しっかりと反省して、自分のものにしていくことが大事だと思います。

士別で40km走中の尾田。左から中盤、終盤、フィニッシュ
◆尾田の姿勢は何ごとにつけても前向きである。プラス思考の固まりといっていいだろう。1万mの記録が伸び悩んだ時期も「目的意識に欠けていた」と反省する一方で、その失敗を次のステップに生かしてきた。冒頭で紹介したように30歳の初マラソンも遅かったとはまったく考えていない。アキレス腱痛もアイシングをしたり、自身で小型の超音波治療器を購入して合宿にも持ち込むなど積極的にケアをしている。ウィグライプロを飲み始めたのも、日常から少しでも回復に努めようとしている姿勢の表れだ。その結果、ポイント練習を休むことはほとんどなくなった。

尾田 積極的に攻める気持ちは、つねに持ち続けてきました。レースでも必ず先頭集団で走ります。後ろの方から行って、落ちてくる選手を拾っていく走りは学生時代からしたことがありません。それは後ろにいたら、勝負所で勝負ができないからです。日本選手権に出なかったら世界に挑戦できない。それと同じですね。
 東京マラソンは初めてのことでどうなるかわかりませんでしたが、攻めの気持ちで走りました。とにかく先頭の流れに乗ることを考えて、ある意味無心で走りました。最後に失速しましたが、30km以降も攻めの走りはしようと思っていたんです。1月に2週間走れなかった影響が終盤で出てしまいましたが、中盤までは2時間7分台も見えていたレースでした。7分台までは絶対に出したいですね。マラソンは2回目、3回目となると難しさも出てくると聞いていますが、上を目指す気持ちはしっかりと持ち続けたいと思っています。




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