2007/2/3 別大マラソン
前日ドキュメント
チームメイトにつかないペースメーカー
レース前日、選手たちは本番のアップを始めるのと同じ時刻に、練習に出るのが普通である。10:30を過ぎると三菱重工長崎の黒木監督と選手2人がホテルの玄関に姿を現した。今回、堤忠之選手は第3集団のペースメーカー。ところが、チームメイトの原和司選手は第2集団で走る予定だという。
黒木監督の説明によれば、同じチームの選手のサポートではなく、自身の目標とするレースに向けての練習と位置づけられるかどうか、を基準にして引き受けているという。
原のマラソン全成績
回数 氏名 年 月日 大会 成績 記 録 1 原 和司 2004 3.07 びわ湖 11 2.12.11. 2 原 和司 2005 3.06 びわ湖 40 2.21.48. 3 原 和司 2006 3.05 びわ湖 32 2.24.35. 
“ダブルあつし”の鉢合わせ
“ダブルあつし対決”と注目されている藤田敦史選手(富士通)と佐藤敦之選手(中国電力)の2人が、10:50頃、ホテルの玄関で鉢合わせとなった。
藤田選手はこれまで、マラソンレース前日は1000m×1で最終刺激を入れていた。走る距離やタイムにこだわっていたのでなく、感覚を重視していたという。ところが、今日は「50分程度のジョッグ」だという。こちらの会見記事にもあるように、今回の藤田選手は“追い込みすぎない”ことをテーマとしている。その考えが、前日の練習にも反映されていた。
お互いをどう意識しているかは、こちらの共同会見の記事を参照してほしい。マラソンの直接対決は、下記のように一度もない。2003年の札幌ハーフでは、佐藤が日本人トップの3位で、藤田は5位だった(タイム差は18秒)。
藤田のマラソン全成績
回数 氏名 年 月日 大会 成績 記 録 1 藤田 敦史 1999 3.07 びわ湖 2 2.10.07. 2 藤田 敦史 1999 8.28 世界選手権 6 2.15.45. 3 藤田 敦史 2000 12.03 福岡 1 2.06.51. 4 藤田 敦史 2001 8.03 世界選手権 12 2.18.23. 5 藤田 敦史 2002 3.17 東亜 1 2.11.22. 6 藤田 敦史 2005 3.06 びわ湖 10 2.12.30. 7 藤田 敦史 2005 12.04 福岡 3 2.09.48. 8 藤田 敦史 2006 12.03 福岡 8 2.11.50. 
佐藤のマラソン全成績
回数 氏名 年 月日 大会 成績 記 録 1 佐藤 敦之 2000 3.05 びわ湖 4 2.09.50. 2 佐藤 敦之 2001 12.02 福岡 11 2.14.41. 3 佐藤 敦之 2003 3.02 びわ湖 5 2.08.50. 4 佐藤 敦之 2003 8.30 世界選手権 10 2.10.38. 5 佐藤 敦之 2004 3.07 びわ湖 4 2.08.36. 6 佐藤 敦之 2005 10.09 シカゴ 16 2.19.44. 7 佐藤 敦之 2006 3.05 びわ湖 dnf dnf 
6年前の優勝者・西田は「セカンド記録が目標」
佐藤信春監督(JALグランドサービス)と話をしていると、西田隆維選手も姿を現した。01年の別大優勝者。2時間08分45秒は、別大で出た日本人最高記録であり、最後の2時間8分台である。同年のエドモントン世界選手権以降は、右アキレス腱の痛みで練習が積めず、レース出場も少なくなっていた。マラソン歴を確認し、以下のように判明。世界選手権前のエドモントン・マラソンは、試走のために出場したもので、マラソン回数には数えていない。
西田のマラソン全成績
回数 氏名 年 月日 大会 成績 記 録 1 西田 隆維 1999 3.07 学生 2 2.17.43. 2 西田 隆維 2000 3.05 びわ湖 13 2.13.46. 3 西田 隆維 2001 2.04 別大 1 2.08.45. 西田 隆維 2001 5.20 エドモントン 3 2.26.02. 4 西田 隆維 2001 8.03 世界選手権 9 2.17.24. 5 西田 隆維 2004 2.08 東京 19 2.15.29. 6 西田 隆維 2005 3.06 びわ湖 35 2.20.30. 7 西田 隆維 2006 2.05 別大 dnf dnf 
まだ復調途上ということで、自己記録までは厳しい状況。
「練習は全てこなすことができスタミナは問題ありませんが、スピードにどの程度対応できるかが、手探り状態です。感覚をつかんだのが最後の刺激でしたから。どの集団につくのか、考えているところです。この一覧からもわかるように、セカンド記録との差が大きい。セカンド記録を目指します」
内冨恭則の現役ラストランは初マラソン
昼頃には内冨恭則選手と尾崎輝人選手の中国電力勢も到着。尾崎選手もペースメーカーだが、堤選手と同様でチームメイトのサポートではない。佐藤選手は先頭集団で走るが、尾崎選手は第2集団のペースメーカー。目標としているのは5月の海外マラソンだという。
3000mSCの98年アジア大会金メダリストの内冨選手が、別大をラストランに選んだのは次のような理由から。
「引退を決めたのが10月。その時点では駅伝を走る可能性も残っていたので、トラックを最後にはできませんでした。来週からはもう通常勤務になるので、時期的に別大しかなかった。(丸亀など)ハーフで引退するよりも、マラソンを走って終わりたかった」
儀礼的なラストランとも思われがちだが「11月から40km走を6本やった」という。5km18分ペースと速くはないが、走るからには本気で、ということだろう。
テクニカル・ミーティング
12:30から行われたテクニカル・ミーティングでは、ペースメーカーのケニア3選手と北川敬大選手(大塚製薬)、尾崎選手、堤選手が紹介された。
第1集団のペースは15分10秒で最長32kmまで集団を引っ張り、ゴールの想定タイムは2時間8分台。第2集団は15分25〜30秒、第3集団は15分50秒〜16分00秒。
テクニカルミーティング後には中国電力・坂口泰監督に取材。
佐藤選手と家谷選手のカコミ取材
13:30から招待選手の記者会見。最初に外国5選手、続いて日本人4選手。日本選手の会見の様子はこちらの記事にした。続いてカコミ取材の時間が設けられていて、佐藤選手のところに。全部を紹介することはできないが以下のコメントが印象的だった。
「これまで、苦しくなると肩がつり上がってしまっていました。気持ちが前のめりになると出てしまう傾向があったので、ジョッグや歩きでもそこを意識しました。これまでは出ているとわかっていても、気持ちでねじ伏せようとしていたんです。気持ちに動と静があるとしたら、動でねじ伏せてやろうと。でも、(それを駅伝などでやると)疲労が出てスタートラインにもつけなかった」
家谷選手にも少し話を聞くことができ、マラソンの間隔が空いてしまった理由や、家谷選手オリジナルともいうべきネタを聞くことができた。
「最初の頃は若さと勢いでマラソンを走れましたが、走れない時期が出て、1回マラソンを離れようと判断しました。トラックやロードをしっかりできるようになってから、もう一度やろうと。ここ1〜2年、駅伝やハーフでは力を出せるようになりました。明日の展開としては、30kmまで一定のペースで行って、そこからヨーイドンとなるのが理想です。逆転満塁ホームラン(一発で代表入り)を狙うのでなく、バットを短く持ってセンター前にはじき返す。相手がもたついたらランニングホームランになる可能性もある」
宗猛監督が語る渡辺共則の変化
記者会見後には旭化成・宗猛監督に話を聞くことができた。渡辺共則選手がニューイヤー駅伝7区区間2位、朝日駅伝1区区間3位(日本人1位)と、安定して力を発揮できている理由について、次のように話していた。
「ニューイヤー駅伝のとき、チームの3〜7番手あたりが横一線の状態でした。これまでの共則を考えると悩んだが、調整段階の10kmを1人できっちりと走っていたので7区に起用した。朝日駅伝の1区はさらに評価できる。駅伝、ロードレースときっちり走れているときの共則は強いですからね。(変わったのは)大阪の世界選手権を目標とできたことが大きい。中学は大阪ですし、北海道で2度勝ったことで、代表になれば本番でも、暑い中でそこそこ走れる自信をつかんだ。世界選手権を意識することで、練習の気持ちが変わりましたね」
父は別大優勝者。初マラソンの上岡宏次
上岡宏次(日産自動車)選手の父・忠明氏(ノーリツ監督)は、第18回大会(1969年)の優勝者。記録は2時間14分03秒2だった(ベスト記録は2時間13分30秒前後)。上岡選手の目標としている記録はもっと上であるが、第1集団にはつかない予定だ。
「15分25〜30秒の第2集団が、今の僕にはちょうど良い。そのまま行ければ十分で、後半上がれば2時間10分を切ることもあるかもしれない。イーヴンで行くか、後半を上げて、しっかりマラソンを走るのが目標です」
慎重になっているのは初マラソンということもあるが、3年前の経験も影響しているのだろう。2004年のニューイヤー駅伝では2区で区間2位の快走。20人抜きを演じた。だが、それで「変に意識が高くなってしまった」と反省する。
「初マラソン最高を狙いたいとか、欲張ってオーバーワークになってしまった。その結果で故障をして、手術しないといけなくなった。25歳で日産自動車に入って間もない頃で、エリート選手に負けたくないと、ハングリー精神をむき出しにしてバンバンやっていた頃です。坪田(コニカミノルタ)や油谷(繁・中国電力)さんに勝って、一気に上を見すぎてしまった。手術してからは変に欲張らず、ちょっとずつやったらスタートラインに立てました。その方が近かったんです」
寺田的陸上競技WEBトップ