2006/2/26
熊日30km寺田的観戦記+取材ネタも少し
記録的な高温多湿、
熊日としては珍しいレース展開の連続
●伝統のコース
伝統のコースである。今年で50回目の熊日30kmだが、第1回大会から現行コースが使われている。現在はびぷれす熊日会館と姿を変えているが、元の熊本日日新聞社前がスタート・フィニッシュ地点。スタート後は東進し、600mほどで左折して北上。さらに500mほどで右折する。しかし、曲がり角といえるのはこの2個所だけ。あとは旧国道57号線(大津街道)を北東にひたすら走る。1本道ではあるが、視界が開けたり並木道になったり、河畔を走ったり、そしてアップダウンがあったりと、単調なコースというイメージではない。
北東に15kmほど行き、菊陽町原水を折り返す。上りを意識するのは4.5km付近から。8.5kmまでの4kmで65mを上っていく。東京国際マラソンの36kmからの上り坂は3kmで25m。傾斜は熊日30kmの方が大きい。今回の大きな発見だった。
10km手前から折り返し点(15km)までは平坦である。 高低図(大会プログラム)
●例の少ない前半のハイペース
スタート直後にサイラス・ジュイ(流通経大)が先頭に立った。1km通過は3分00秒(ラジオ中継による)。熊日30kmのコース上には、1km毎に距離表示が大きくペイントされている。多くのマラソンのように距離標識をレースの日だけ、補助員が立てる方式ではない(1〜5kmは1km毎と、5km毎には標識も立てている)。標識方式では人為的なミスでポイントがずれてしまうこともあるが、熊日30kmではそういったミスはあり得ないのである。
ジュイの3km通過は8分46秒で坪田智夫(コニカミノルタ)、清水智也(佐川急便)、山下拓郎(亜大)の3人が食い下がっていたが、4kmではジュイが30m近くリードした。報道車は集団の後方から追い上げるため、この辺は肉眼で確認できない。ラジオ中継がレース展開の情報源である。5km通過(正式計時)はジュイが14分35秒で、坪田たちの集団が14分47秒だった。 ※5km毎の通過&スプリットタイム
大会歴代5位までのスプリットタイムと気象コンディションが大会プログラムに出ている。それを見ると、歴代の上位5つのうち4例が5kmを15分台で通過しているし、10kmは速くても29分48秒である。前半の上りは無理をせず、中盤以降でペースアップする。それが、熊日30kmで記録が出るときのパターンのようだ。わかった範囲での例外は、高橋健一(富士通)が優勝したとき(40回か44回)。25kmまでは、西本一也(九州参交)が28回大会(1985年)で出した1時間28分46秒の日本記録(当時)の通過を上回っていたという。
歴代5傑の気象条件としては、スタート時の気温で7℃が3回あり、高くても12℃、低くても4℃。それに対して今年は、懸念された雨こそ降らなかったが気温15℃と高く、湿度も90%と上がっていた。記録が出たときとは気象条件も違ったし、序盤のペースも通常とは異なる展開で今年のレースは進んでいった。
●山下の自重と、坪田の不調
要するに、速すぎたのである。坪田たちの集団でさえ、この日の気象条件を考えたらオーバーペースに近い。土橋啓太(日大)と山下の学生2選手は、先頭集団についていくとレース前日に話していたが、最初からつかなかった土橋の判断は間違っていなかったと思う。山下も6km付近で坪田と清水智の兵庫コンビから離れた。「このまま付いて行ったらつぶれる」と判断したのだが、これも決断するタイミングが遅れていたら、山下の1時間31分台の亜大最高記録はなかったかもしれない。
「後ろを振り向いたら集団がいたので、そこまで下がって、少し楽をしようと思いました」
山下はいったん集団まで下がった。
実業団2選手には意地もあっただろう。そう簡単にペースを緩めるわけにはいかなかった。といっても10km通過は30分12秒と、5kmからの所用タイムは15分25秒に落ちている。そこを14分47秒で駆け上り、10kmを29分22秒で通過したジュイは、驚異的だった。
日本人トップの2人の位置関係は、坪田がずっと清水の前を走り続けた。レース前のコメントにもあるように、来季のマラソン進出につながる内容を得たかったのだ。だが、13km付近で兵庫県の後輩に、前に出るように身振りでサインを送った。
「1kmの入りが3分00秒でも、最初からきつくかった。上りが終わるまでは、と頑張りましたが、上りきったら本当にきつくて、引っ張りきれないと思ったんです。先頭を交替してもらおうと合図をしました」
しかし、清水が前に出るとそのまま、僅かだが間隔が生じた。15kmでは1秒差。しかし、16kmの給水を機に、坪田が後退し始めた。15kmでは29秒も差をつけていた集団に、18kmで吸収されてしまったのだ。失速度合いが大きすぎる。
「気持ちが一度、切れてしまいました。棄権も考えたくらいです」
坪田は自身のこのあたりまでの走りを、暑さやペースのせいではなく、「自身の状態が悪かった」ためだと話している。確かに、日本代表を経験している選手(02年アジア大会と03年世界選手権)。序盤に多少の無理をしても、押し切りたいと考えるのは普通だろう。見る側もそれを期待していた。
だが、結果的に万全でなかった体調に加え、暑さと序盤のハイペース、そして13kmまで引っ張ったことが、16kmでの失速につながった見るべきだろう。
●清水の好調
坪田の不調があったとはいえ、清水の調子が上がってきているのも間違いなかった。2月の丸亀ハーフでは3位争いにトラック勝負で敗れたが、1時間02分28秒(6位)と自己記録を1分05秒も更新した。きっかけはニューイヤー駅伝2区で区間27位と、不本意な走りに終わったことだった。
「周りの期待が大きいのに、このままではダメだと感じました。具体的な方法は企業秘密ですけど、気持ちで大きく変わるものですね。練習でそれほどすごいペースで走り始めたわけではありません。年の初めでもあったので、切り換えをしやすかったこともあります」
企業秘密ということだが、大家正喜コーチの「力はあるのだから自信を持って行こう、と話しました。その後は練習でも、“前で前で”来るようになりました」という言葉にヒントがあるのだろうか。まったく別個に聞いたコメントなので、絶対にそうだとは言えない部分だが。
好調でなければ、13kmで坪田に前に出るように合図をされたとき、清水は前に出ることができなかったはずだ。
「13kmも引っ張り続けてもらったので、今度は自分が前に出て、少しでもいいタイムを出せればと思いました。少しですけど、すぐに差が開いてしまって、調子が悪いのかな、と思ったんですが、すぐにまた来てくれるだろうと。それが、折り返したらどんどん離れて行ってしまわれて…」
しかし、ジュイとの差は折り返しの15km地点では1分34秒もあった。逆転できるとは考えなかったという。それが25kmでは1分08秒に縮まった。それでも、残りの距離を考えたら逆転など考えられない。その後は報道車がフィニッシュ地点に先行したので正確な距離まではわからないが、ラジオ中継によれば1時間26分過ぎに並んでいる。28.5km付近だろうか。いちいち確認しなかったが、一気に抜き去ったのだろう。
●ジュイの変調
ジュイは20km過ぎの給水で明らかにリズムを崩した。後方の報道車から見ていても、それは明らかだった。一時はジョッグのようなスピードに。21kmまでの1kmは3分17秒である。そのときはスタミナ切れなのか、給水でのちょっとしたアクシデントなのかわからなかったが、その後は持ち直したことから後者だと推測できた。
しかし、下りにもかかわらずペースは落ちたまま。一時は1km毎を3分06秒に立て直したが、25kmを過ぎると再度ペースダウン。26kmまでは3分19秒、27kmまでは3分23秒、28kmまでは3分21秒と、往路とは別人の走りに。清水だけでなく、坪田と山田剛史(JR東日本)にも抜かれて、1時間31分42秒の4位でフィニッシュした。同じ学生の山下に抜かせないことで、最後に意地だけは見せた。
表彰式後に20km過ぎの給水と、前半のペースについて本人に確認した。
「1時間30分を切りたかったのに残念です。給水でむせて、リズムが狂った。前半はオーバーペースじゃありません」
選手自身の思いがあるにせよ、25kmからの失速は給水でのアクシデントだけではないような気がした。
●跨線橋
冒頭で第1回から現行のコースで開催されていると書いたが、実は1個所だけ変更されている。それが、往きの5km直後、帰りの25km直前の跨線橋である。短い距離の間に(往路なら)20mを駆け上がり、15mほど下る激しいアップダウン。変更されたのは1991年の35回大会から。西本一也の日本最高は、変更される以前に出された。
往路は跨線橋の直後からまた、緩やかではあるが上りが始まるが、くせ者になるのはむしろ復路だろう。21km過ぎから3kmほどリズムよく下ってきても、ここでもう一度、上りを克服しなければならない。西本の後、前述の高橋健一や高岡寿成(カネボウ)ら、名だたるスピードランナーたちがこのコースに挑んだが、跨線橋に行く手を阻まれた(という説を話してくれた監督がいた。新コースとなって西本の記録を更新し、1時間28分00秒まで縮めた松宮隆行の力がすごかったということだ)。
今回、ジュイの大幅なペースダウンに対しても、この跨線橋が最後のダメージを与えたのではないだろうか。
●坪田の復調
一気にペースダウンしたジュイを28.5km付近で清水が逆転したが、そのちょっと前から報道車内の興味は、別のところに移っていた。坪田が盛り返して集団を抜け出し、清水に迫っているとの情報がラジオ経由でもたらされていたのだ。そのあたりの状態がどうだったのか、レース後に坪田に聞いた。
「18kmで集団に吸収された後、とにかく粘って走ってみようと思いました。集団につかせてもらっているうちに、リズムを立て直すことができ、(体力も)回復して来ました。ちょうど21kmから下りでしたから、ペースを上げて行こうと」
この頃、山下も同じようなことを考えていた。集団に吸収された、というより自ら下がって加わったのが6〜7kmあたり。実業団2選手についたのははオーバーペースだったのかもしれないが、そのままじり貧にならず、10kmをかけて立て直すあたり、山下の能力も非凡なものがありそうだ。
「余力があれば20kmで仕掛けようと考えていました。1回仕掛けたのですが、つかれてしまって、実業団選手とは力の差があると感じました」
同じタイミングでペースアップをした、坪田のそれの方が大きかったのだろう。坪田は山下がペースを上げていたことに気づかなかったという。
坪田自身は、正確にどの距離で集団を抜け出したのか、気にしていなかった。とにかく、ペースを上げて清水を追った。25kmまでの5kmは清水を10秒上回り、14分57秒と唯一人15分を切った。
●記録的には低調
しかし、清水の走りも最後まで崩れなかった。「ラスト1kmで“何秒差だぞ”と声もかけてもらいました」と、追い上げに気づいていた。最後の5kmでも坪田が9秒つめたが、清水も15分20秒と走りきったため、逆転を許すことはなかった。100 m弱の差を保って、清水がびぷれす熊日会館前にフィニッシュした。
優勝記録は1時間31分09秒と、18年ぶりに1時間31分以上のタイムとなってしまった。好記録が出る熊日30kmの50回記念大会が低調になってしまったのは皮肉だが、この日の高温多湿の気象状況と、前半のハイペースを強いられた展開を考えたら、仕方がないだろう。むしろ、スタート直後に飛びだしてしまった清水、坪田、山下の3人が、崩れずに走りきったことは高く評価されてしかるべきだ。
もちろん、坪田に食い下がって3位となった山田も、これまでの戦績を見るとブレイクと言えるくらいの頑張りだった。広島経大では日本インカレのハーフマラソンで5位となっているが、希望した実業団チームに入ることはできなかった。ちょうどJR東日本がチームを立ち上げるタイミングだったのが幸いした。
「12月にホームページにプレスリリースが載って、自分が問い合わせた第1号だったんです。それで採用されたのでしょう」
それが事実とは思えない。この日も「まぐれっぽいですね。1時間32分台が目標で、そのタイムなら15位くらいだと考えていました」と謙遜するが、まぐれでこの日の悪条件は克服できないだろう。暑さに強い特性があるのかもしれないが。今後の注目選手が1人、誕生したのは確かだろう。
●50回大会の意味
清水にとっては、双子の兄の清水将也(旭化成)が3年前、日大4年時に1時間30分00秒(3位)の学生記録を出した大会での優勝。タイムは好条件の大会とは比較にならないが、坪田を破っての優勝ということで、3回目の30kmで兄に並んだといえるのではないか。本人は「追いついた感覚はありません。一緒に走って勝ったのならともかく。そう簡単に勝たせてくれないでしょう」と、厳しい自己評価をしていた。
2位の坪田は自身が思っていたよりも体が動かなかった。来季のマラソン挑戦に向け、収穫はあったのだろうか。
「良い面と悪い面があったと思います。力もなかったし、体調も上げ切れていませんでした。1回崩れてから立て直すことができたのは、初めてのことですが…」
学生日本人トップ、山下の自己評価はどうだろうか。
「気温が高い割には、まずまずの走りができたと思います。後半、脚が止まってしまったのは力不足。しっかり距離を踏んで、(来年のびわ湖が可能性が高い)マラソンに向けて練習を積んでいきたいです」
好記録が出る大会ではあるが、ここが最終目的というレースではない。その後の戦績の評価が微妙な選手もなかにはいるが、森下広一(旭化成)、犬伏孝行(大塚製薬)、大崎栄(旭化成)、高橋健一(ダイエー)、高岡寿成(カネボウ)らは、この大会の優勝をステップに、さらに大きな成果につなげている。上述の3人も、同じ考えで今レースに臨んで悪条件のなかを走りきった。
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