2006/12/24 全国高校駅伝
須磨学園、初V後の変更点とは?
「大きな走りでスピードをつけることが将来につながります」
(長谷川先生)

 須磨学園の駅伝初優勝は3年前の2003年のこと。その翌年から長谷川重夫先生は選手の動きを変更した。単純にいえばピッチ走法からストライド走法に。その狙いはなんだったのだろう。

 須磨学園が川島亜希子・真喜子(元UFJ銀行)の双子姉妹らを擁して、都大路に初出場したのが1994年。10年目で頂点に達したわけだが、その間、加納由理(資生堂)、大山美樹(元三井住友海上)、堀江知佳(佐倉AC)、北山由美子(天満屋)、藤岡里奈(パナソニック)、坂田昌美(京セラ)、勝又美咲(第一生命)と、実業団でも活躍した多くの選手を輩出してきた。
 しかし、その初優勝の翌年から動きの変更に着手した。ロードで長い距離を走り込むことができるピッチ走法から、トラックで速いスピードを出すことができる大きな動きに。3年前より以前の選手全員が小さな動きだったわけではないが、その傾向は明らかにあった。

 その理由を長谷川先生は、2度目の優勝を飾った今大会のレース後に、次のように話した。
「大きな走りでスピードをつけることが、次の段階で生かされると考えました。マラソンとなったらまた別なのでしょうけど。でも、大きな動きから小さな動きに変えることは比較的簡単ですが、小さな動きを大きく変えることは難しい。大事なことは、高校の次の段階で大成すること。夢を託せることだと思います」

 ちょうど、小林祐梨子が入学してきた年。小林は全日中中距離2冠でジュニアオリンピック3000mの優勝者。高吉理恵もジュニアオリンピック3000m3位、当時2年生だった広田愛子も全日中800 mで6位。
「中学では1500mを中心にトレーニングをしています。高校でもその流れで、筋力づくり、動きづくりをしっかり行えば、しっかりとしたスピードが付きます。小林が特別ではなく、他の選手たちにとっても、それが理想だと思いました。ただ、(トラックの)3kmは走れても、(駅伝の)4kmはどうか、という懸念はありました。実際、ピッチの方が故障も少ない。でも、そこでさらにスピードにこだわって、こうして結果が出て、間違いではなかったと思います」

 しかし、そういった大きな変更を、高校駅伝全国優勝と、結果が出た翌年から始めたのはなぜだろう。結果が出たのなら、その方針を続けても良かったわけである。
「優勝をして感じるところがあったのだと思います。もう、改善していく点が見つけにくかったこともあって、新しいことに挑戦したかった。それが、筋力のないちょこちょこ走りではなく、ダイナミックな走りでした」

 それが、チームの運営方針にも現れた。1年前の全国高校駅伝で2位と敗れたとき、長谷川先生は「心のタスキリレーはしません」と言い切った(05年の記事参照)。あくまでもトラックで走力をつけた延長が駅伝、個々が記録を縮めることが駅伝の記録を短縮することになる、と言いたかったのだろう。
「駅伝も陸上競技の1つの種目としてとらえました。駅伝のメンバー8人に入れなかった選手は普通、そこで気持ちが切れてしまいます。それが今年は、トラックの3000mで記録に挑戦して行けました。9分45秒だった選手が9分20秒(台?)に記録を縮めています」

 須磨学園の2度目の優勝には、高校エリートチームの進むべき、1つの方向が現れていた。


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