Stories of CramerJapan
第1回 原田塾
1組1組に真剣な視線を送る原田塾長
 
A塾長の理論と背景、塾長の願い @受講者の目線

●キーワードは「股関節」と「重心への乗り込み」
 第4回のクリニックも中盤になると、徐々に動きを“通し”て行うようになる。例えばマイクロハードルを使ったドリル。最初はインターバルを2歩で行い、重心への乗り込み方と股関節の使い方を意識しやすい状態で行うが、それを、ハードル間を1歩で行うようにする。次にはインターバルの距離を延ばし、ストライドの大きな動きで行う。スピードも上がり、実際の走りに近くなるが、最初のドリルと同じような感覚で行いやすい。
 ハードルを使ったドリルの後はスパイクを履き、スティックを等間隔に置いてのドリル。「さらに股関節を使い、上から乗り込んで行ける。よりスプリントに近い練習になります」と原田塾長。
 そしてクリニック終盤には、スタートから第2加速段階、そして中間走と、通した走りを行うようになった。分習法から全習法に変わっていくのである。

 原田塾長の言葉の中に頻繁に出てくるのが「股関節」と「重心への乗り込み」である。
「今のトラックは脚を引き上げる意識を持たなくても、地面の反発で上がってくる。振り降ろしを強調して重心に乗り込むことが、実際の速い動きにつながります。そのためには、ヒザとか足首とか、小さい部分で動かそうとしたら無理。実際、そういう子どもたちが多いのです。そうではなくて、股関節を使って根本から動かしてやる。大腿二頭筋や殿筋など、大きな筋肉を使うことが有効です。腰の動きも、その補助となる。ヒザに力を入れたらダメですけど、反発をもらうためには伸ばして接地することが重要です。肩から腰、股関節、ヒザへのバランスが大事になります」
 これは原田塾長だけでなく、日本のスプリント界で主流となっている考え方。「重心への乗り込み」や「股関節」は、そのキーワードだ。それをどのようなドリルで動きを自動化させるか、どんな言葉で動きを変えていくか。そこが、それぞれの指導者の腕の見せ所、個性の部分になる。

スティックを使用してストライドを調整し、重心への乗り込みを意識しやすくする

●1970年代の名スプリンター
 原田塾長は1977年に200 mと400 mで日本記録を更新した、かつての名スプリンター。最終的に日本は参加をボイコットしてしまったが、1980年のモスクワ五輪に4×100 mRを派遣しようという動きがあり、ショートスプリントに重きを置いた時期があった。同年の日本選手権には100 mで優勝。トップスピードも速いロングスプリンターだった。
 しかし、現役時代のベスト記録は10秒50と21秒06、そして46秒70。現在では高校生レベルのタイムである。その理由はトラックの違いにある。1991年の東京世界選手権以降、世界的にも国内的にも、硬くてスピードが出やすい“ファストトラック”が主流となった。それをきっかけに、トラック種目の記録短縮は上昇カーブが大きくなる。
 原田塾長の現役時代後半はオールウェザー舗装でも、表面がチップ状で軟らかく、反発が小さかった。現役時代前半はさらにかけ離れた、土のトラック(シンダーやアンツーカ)である。日本インカレなど、年度によって土のトラックになったりオールウェザーになったりした。
「練習メニューの距離や組み合わせ方なんかは同じでしたが、感覚や動きは相当に違っていたと思います。土のトラックの時は、地面を押す動きではなく、引っかいて蹴り上げていました」
 当時の短距離のドリルといえば“腿上げ”である。とにかくヒザを高く引き上げる動きを、どこの学校の生徒たちもひたすら繰り返した。原田塾長は腿上げ自体よりも、“引き上げる動き”だけが強調されたことが、日本の短距離界にとってマイナスだったと分析している。
 原田塾長は強化委員会の男子短距離、女子短距離の要職を歴任してきた。その間に東京世界選手権があり、陸連医科学委員会が測定したバイメカニクス・データなども参考に、多くの選手のを見て、動きを見直してきた。自身の現役時代の感覚に頼らず、今のトラックにどんな動きが適しているかを、研究し続けたのである。
「自分でも何度もドリルをやってみて、こんな感じで進むんだ、ということを確認しました。この感覚を入れたらどうかな、と試行錯誤をしてきました。もしも自分が現役時代に今の動きができていたら、記録ももう少し伸びたかもしれませんね」
 これは、1990年以前に選手時代を送った指導者たちが、多かれ少なかれ感じている部分だろう。しかし、原田塾長のように当時と現在の違いを身をもって体験したことで、今のトラック向きの走りを理解しやすかったのかもしれない。

原田塾長の弟子の1人、小島初佳選手が特別ゲストとして練習に参加
菅原新コーチも得意のスタートを実演指導

●簡単そうに話すことの重要性
 埼玉県中学通信2年女子100 mに優勝した野崎友美選手(山王中)も、原田塾に参加している1人。クリニックの後、新しく教わったことをノートに書き出して、学校に帰って顧問の先生に相談し、先輩たちと一緒に行っているのだという。「顧問の西田裕先生と、先輩方の助けがあって、ここまでやってこられています」と話す、中2にしてはしっかり者の選手だ。
「スタートで一番、成果が出ていると思います。押す意識を加えたことで、8歩目くらいまでがタッタッタと素早く行けるようになりました」
 原田塾長は、本稿で紹介したことを中学生たちにも話してはいるが、難しくならないように注意している。高度な理論は“難しそうに話す”ことの方が簡単なのだ。“簡単そうに話す”ことの方が難しい。松村選手にしろ野崎選手にしろ、中学生がここまで理解し、考えているということは、原田塾長が“簡単そうに話している”からだろう。
 新鮮な理論が理解しやすければ、原田塾に参加することが楽しくなる。松村選手もそうだが、積極的に原田塾長や新井コーチ、菅原コーチに質問をする選手が多い。川田先生が松村選手のことを、次のように話していた。
「吸収できるものがたくさんあるから、自分が変わっていける。それが楽しくて仕方がないのでしょう。元から陸上競技には真剣な子。春先に11秒36を出してから一時、考えすぎていたところもありましたが、タイミング良く原田塾に参加でき、魔法の言葉をかけられたように立ち直りました。本当に、いいきっかけになったと思います」
 原田塾長も考えるクセを付けることは大切だという。「高校・大学と進んだときに、環境が変わっても大成すると思います」。やらされた練習で強くなった選手は、やらせてくれた指導者がいなくなったとき、何をして良いのかわからないのである。

 原田塾は今回で一応の区切りとなるが、秋の開催も検討している。原田塾長は、継続することの有効性を強調した。
「間をおいて何回か選手たちを見ることで、キチットしたスプリントを身につけさせることができます。次までにここをやっておいてね、と声を掛けておくこともできる。子どもたちも、動きが変わってくることを感じられる。そこがすごく大事だと思いますね。その中から1人でも陸上競技が好きになって、高校でも頑張ると思ってくれる選手が出てきたらいいですね」
 指導者にも積極的になって欲しいと呼びかけている。
「いい選手がいても、自分の専門種目でないことが多いわけです。そういった場合も、原田塾を利用して欲しい。選手を送ってくれれば、先生たちともコミュニケーションがとれます。指導法で悩んでいたら、どんどん聞いて欲しい」
 まだ4回しか実施していないが、競技面で結果を出しただけでなく、選手や指導者の中身にも好影響を与えている原田塾。陸上界注目の試みがスタートした。




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