2005/10/31
福島国体10周年スペシャル
10年前の転倒
今回の岡山国体が60回だから、1995年の国体は50回大会。福島開催だった。地元の熱の入れようはすさまじかったという。その期待に応えて福島県は、陸上競技では男女総合優勝を達成した。その年のインターハイに優勝した400 mの高橋弘樹(小高工高)と3000mSCの榊枝広光(日大東北高)が期待通りに優勝。少年B男子100 mの宮田貴志(郡山高)と少年A女子100 mHの藤田あゆみ(清陵情報高)は、“期待以上”の優勝だったかもしれない。他県から福島県の教員となった篠崎浩子も成年共通女子砲丸投を制し、全盛時は過ぎていたとはいえ、山下訓史も成年A男子三段跳に2位と健闘。地元出身の雪下良治も成年共通男子110 mHで3位。
そのなかにあって福島大は、当時はまだ新興勢力の1つ。その年の7月にOBの雉子波秀子が200 mで日本タイ(23秒82)をマークしていたが、まだ、県内選手を中心に育成している段階だった。
そういった地元勢の状況で陸上競技最初の種目に選ばれたのが、成年共通女子400 mHだった。東京五輪のオープニング種目に男子100 mが指定され、その第1組に飯島秀雄が出場してトップでフィニッシュしたのは有名なエピソードである。地元に勢いをつけようという配慮は、珍しいことではない。
成年女子400 mHの地元代表は、その年、安積女高から福島大に進んだ吉田真希子だった。94年に61秒37の記録を残しているものの、専門は中学3年時に全日中6位となっている800 m。高校でも2・3年時にインターハイ準決勝まで進んでいる。大学でも800 mで頑張ろうと考えていたが、選考会で敗れてしまった。出場できたのは400 mH。ハードリングはお世辞にも上手いとは言えないが、夏合宿で一気にレベルアップした練習をこなすことに成功し、それなりの自信をもって臨んだ大会だった。
実績のない吉田が決勝に進出すれば、選手団の士気が上がるという計算もあった。
オープニング種目の第2組。当時、日本のトップだった佐々木美佳(七十七銀行)らを抑え、吉田はトップで第4コーナーに差しかかっていた。ホームストレート側のスタンドが目に入る。応援もすごかったのだろう。
「一瞬、トップだという思いが頭をよぎって…」
気が付いたら8台目のハードルで転倒していた。
信じられないことに、吉田はすぐに起きあがって63秒23の4位でフィニッシュしている。トップは2年後に400 mで日本記録をマークする田中こずゑで60秒30。400 mHで転倒した選手が、トップと3秒差でフィニッシュした例など、他にあるだろうか。そこに懸ける思いが強くなければできないだろう。
しかし、どんな気持ちで選手団テントにもどったのだろう。今でこそ日頃から、川本和久門下生のリーダーとしてドンと構えている吉田だが、当時はまだ19歳である。帰る場所がない、と感じていたのではないだろうか。
その気持ちを和らげたのが、川本監督の言葉だった。選手団に向かって、次のように話したという。
「吉田は攻めたから、ああいう結果になったんだ」
文字にしたら大したことはないが、そのときの口調は、選手たちの胸に届くものがあったのだろう。その後の福島県選手団の活躍は見事で、最終的には男女総合優勝を果たした。
しかし、吉田個人の気持ちは、総合優勝しただけでは収まらない。国体で400 mHは最後にするつもりだったが、とてもこのままでは終われない。
「中学生の頃から地元国体で点を取るんだと、ずっと思い続けてきました。白虎隊のような一途な思いでしたね。挫折感、喪失感は例えようもなく大きかった。それから、第二の競技人生が始まったようなものです」
現在の吉田は、400 mHの日本記録保持者であり、世界選手権にも出場した。しかし、一足飛びに今の力をつけたわけではない。徐々に練習をできる体力を付け、当初は苦手だったスプリントの動きを、必死で身につけた。初の日本選手権優勝は、福島国体5年後の2000年だった。そして、翌01年には日本記録を7回更新してこの種目の第一人者となり、4×400 mRでエドモントン世界選手権に出場した。
02年には日本人初の56秒台をマーク。03年には55秒台に突入し、今度は個人種目でパリ世界選手権に出場した。02〜03年にかけ、400 mでも国内負け知らずの時期があった。昨年、今年とやや精彩を欠いているが、この種目のパイオニアとしての評価は揺るぎない。女子短距離・ハードル界への貢献は、地元国体の転倒を十二分に穴埋めし、10倍にして返したと言っていい実績である。
ところが、人間の気持ちは、それほど単純に割り切れるものではないようだ。
「あのとき欲しかった物がまだ、手に入れられていません。いくら日本記録を出しても…。だから、競技を続けているのだと思います」
日本人初の55秒台も世界選手権代表という肩書きも、福島国体の失敗の挫折感を埋めていないというのだ。だったら、何を成し遂げればいいのか。
「現在、あの頃の福島国体と同じような目標に位置づけられ、同じような気持ちで臨める大会で、あのとき欲しかった結果に見合う結果を得られたらいいと思うんです」
福島国体から10年。当初は「日本記録を出すまでは」という思いだったと、01年の最初の日本記録更新の際に話していた。だが、そのときが来ても、福島国体の喪失感を埋められなかった。その間の吉田自身の成長により、彼女の中の“福島国体”に相当する目標が、どんどん大きくなっていったのだろう。
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