2004/1/12
2003年MBP
鈴木秀司の5m35 in 国体
どうして厳しい状況で5m35をクリアできたのか?

 2003年最優秀新人賞(山口有希)、最優秀選手賞(末續慎吾)に続いて、MBP賞(Most Bikkuri Performance)を選んだ。1月9日の日記にも書いたように鈴木秀司(高知陸協)が、国体成年男子棒高跳で2位となったときの5m35である。
理由は、やはり日記にも書いたが、鈴木のシーズンの流れ、試技の内容などから、自己記録に6cmと迫る高さをクリアできるとは、正直予想できなかった。以下に改めて理由を書き出しておく。
@シーズン3試合目で4m20がシーズンベスト
A養護学校の常勤講師となり、練習不足。かつ、跳躍練習はほとんどしていなかった
B最初の高さの4m80を1回、次の5m00を2回失敗するなど、成功した5m35の2回目まで9本の試技を行なっていた
C浜松出身の鈴木にとって会場の袋井は準地元で、プレッシャーがかかるかもしれない
D以上のような状況で“正確な助走”ができるとは考えにくい
 多少、こじつけに近いものもあるが、以上が記録が出にくいと考えた理由である。しかし、実際は以下のような試技内容で、自己新の5m45に挑戦した。
4m80 ×○
5m00 ××○
5m10 ○
5m20 ○
5m30 ○
5m35 ×○
5m45 ×××
 鈴木自身のコメントで、上記の状況を克服できた経緯を紹介しよう。

@に関して
「昨年の高知国体でずっと一緒に練習していた祐介(近藤祐介)が6位に終わって、その結果が悔しくて、自分の出身地の静岡で勝負しようとずっと思っていました。シーズンの前半は試合に出ず、後半勝負と思っていました。8月の国体選考会は大雨の中だったので4m20に終わりました。9月の全日本実業団は最初の4m80が跳べずに記録なしでしたが、いい感じにはなっていたんです」
Aに関して
「どうしても土日がメインの練習。ぶっちゃけ10歩助走で、ゴムバーの4m80くらいしか練習では跳んでいません。ただ、それ以外の基本的な練習はできていました。そういう意味で不安はなかったのですが、跳躍につなげていないという部分でちょっと…。でも、中学2年以来、17年間の積み重ねがあったから跳べたのだと思います」
Bに関して
「高知に来たとき(97年)から今日まで、目標はずっと5m50でした。でも、目の前の高さを確実に、1本1本跳ぶことに集中しました。4m80が2本目で5m00が3回目でしたが、逆にそれで、感覚が戻ってきた。その後は5m10・20・30と1回目で35が2回目。今までと違って高さへの意識がまったくなくて、1本1本、悪いところを直そうとして、その結果、反発に上手く乗ることができたと思います。5m45はさすがに、本数が多かったせいで腰が痛くなってしまいましたが、技術とかより気力だけでした。
 今回は勝負をして引退したかった。いい調整をして、最高の状態で、納得のできる試合をしたかったんです。今日の僕のコーチはコバやん(小林史明)で、ずっと“イケる、イケる”と励まし続けてくれました。できれば、コバやんや大地(沢野大地)とかと一緒の試合に出て終わりたかったんですが。今日は覚(安田覚)があそこまで頑張ってくれたから(5m40を1回目にクリアして優勝)、35を跳ぶことができました」
Cに関して
「中学・高校時代の陸上部の仲間や恩師に応援に来てもらいました。今日会うのが、中学のとき以来という子もいましたよ。1カ月くらい前から知っている人にはみんな連絡して、自分にプレッシャーをかけました(練習を追い込んだり気持ちを盛り上げるために、というニュアンス)。やっぱり地元という気持ちがありますから、最後は見ている人を盛り上げたいじゃないですか。5m00の3本目から、スタンドに拍手を求めました。本当に棒高跳をやっていてよかった、幸せだと思えました」
Dに関して(はコメントでなく)
 世界選手権後に沢野大地を取材した際、ニシスポーツの増谷監督から「これまで国際大会で失敗してきた日本選手は、大舞台で助走が狂ってしまったのが原因」と話してくれた。国体の鈴木はどう考えても、助走が正確にできにくい状況だった。それを、恵まれない練習環境を逆手にとってフィジカル的にも上手く調整し、技術的にも「17年間の積み重ね」でベテランらしい調整力を発揮した。だが、それだけだったら、(それなりに重い)ポールを持って正確な助走ができたかどうか、疑問を感じる。
 やはり、地元という普通だったら巡ってこない試合環境を利用したのが決め手となったのではないか。劣っていた(と思われる)フィジカル面に、アドレナリンが多く出る地元の緊張感をミックスさせ、その結果、自身の助走を甦らせた……という説なのだが、どうだろうか。


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