寺田的陸上競技WEBスペシャル

箱根駅伝を目指す男子長距離
チームに女性指導者

関東学院大に800mアジア
大会4位の岸川コーチが着任

「覚悟を持って大学側の気持ちに
応えたい」

  
岸川朱里(きしかわあかり)
1985年9月生まれ(33歳)横浜市出身。新栄高(神奈川)→日体大→ノーリツ→STCI→長谷川体育施設
新栄高3年時に800mでインターハイ2位。日体大では1年時に世界ジュニア(現U20世界選手権)に出場した。同年のアジア・ジュニア選手権は4位。関東インカレは2年時から3連勝。日本選手権も2010年、11年と2連勝した。09年の東アジア大会2位、10年アジア大会4位と活躍した。自己記録は11年に出した2分03秒34で、当時日本歴代6位(現日本歴代9位)。2009年から3シーズン連続2分3秒台をマークし、久保瑠里子、陣内綾子らとともに日本女子選手初の1分台を目指した。
[主な資格等]国際陸上競技連盟CECSレベル1コーチ資格・メンタル心理カウンセラー・上級心理カウンセラー

 箱根駅伝を目指す大学男子長距離チームに初めて、女子指導者が誕生した。関東学院大陸上競技部コーチに4月1日付けて岸川朱里氏が就任する(3月から練習に合流)。関東学院大は過去6回箱根駅伝に出場し、OBでは尾田賢典が2011年世界陸上マラソンに出場しているが、2004年を最後に箱根駅伝本戦から遠ざかっている。岸川コーチは800mで日本選手権優勝2回、2010年広州アジア大会4位と、日本トップレベルの中距離ランナーだった。自己記録の2分03秒34は当時、日本歴代6位(現日本歴代9位)。異質のタイプのスタッフ加入で、関東学院大がどう変わっていくだろうか。

「男性にない何かを出していけたら」
 岸川氏がコーチ就任のオファーを受けたのは11月初旬だった。
「すごく悩みました。関東学院大の成績は気にしていましたが、まさか自分にこういう話が来るとは。正直、驚きました」
 岸川コーチは横浜市出身で、箱根駅伝は大学入学以前から身近な大会ではあった。日体大に入学すると1・2年時には補助員という形で箱根駅伝に携わった。
「1年の時は1区の走路員をやりました。2年のときは平塚中継所でしたね。1年のときは日体大が準優勝したことも印象に残っています」
 2区に熊本剛(3年。卒業後はトヨタ自動車)、3区に保科光作(2年。日清食品グループ)、5区に北村聡(1年。日清食品グループ)、10区に山田紘之(4年。コニカミノルタ)と、後に実業団で活躍する選手が育っていた。
 日体大のグラウンドには箱根駅伝に出場する男子長距離選手たちがいた。同じ陸上部員として会話をする機会もあったが、その後の岸川コーチに箱根駅伝と直接的な関わりがあったわけではない。自身の競技レベルが上がり始めると、国際レベルで戦うことや、日本人初の1分台を出すことに集中していった。
 大学時代までは短距離的なアプローチで800mを走り、卒業後に上野敬裕氏(現関東学院大GM=ゼネラルマネジャー)の指導で長距離的なアプローチも行ったが、岸川コーチ自身に長距離のトレーニング経験はない。
「長距離チーム全体の指導をするのは難しいですけど、中川(禎毅)監督の下で勉強し、指導法を吸収させていただく予定です。その立場なら、これまでの私の経験も生かせると思います。中距離的な練習も、長距離には必要な時代になっています」
 関東学院大側も変化を求めていた。
 昨年10月の箱根駅伝予選会は23位、上位10人の総合タイムは11時間07分51秒で、予選通過ラインとは21分00秒差があった。過去10年間も20位前後で、本戦出場に迫ったことがない。
「大学も覚悟を持ってオファーをしてきたと思うので、私も覚悟を持ってその気持ちに応えたい。2016年に現役を引退して以降、コーチとして現場に関わりたい気持ちはずっと持っていました。それが色々な巡り合わせで、箱根駅伝を目標とするチームになったわけです。与えられたチャンスを生かしたい」
 女性指導者は実業団駅伝や大学駅伝でチームを優勝に導いているし、近年では高校駅伝でも珍しくなくなっている。中学生の全国大会では、それ以前から女性顧問が活躍していた。だが、箱根駅伝を目指すチームでは岸川コーチが初めてだと言われている。
「あまり男子選手だから、女子選手だからと違う接し方をするつもりはなくて、どちらも選手として同じように接すると思います。ただ、せっかく女性指導者という立場なので、男性にない何かを出していけたらいいかな、とは思っています」
 現時点では、女性指導者だから何か特別なことができる、と言い切ることはできない。
 中川監督も「岸川さんはプレッシャーもかかると思いますが、気楽に、学生と一緒に成長してくれたら」と、過度の期待はかけない。
 関東学院大が結果を出し、岸川コーチが指導者として実績を積んだときに初めて、箱根駅伝の女性指導者としてプラス要素を出せた、と言うことができる。

3月13日に練習に合流した岸川コーチ。選手たちへの最初の挨拶

分担は育成チームと故障者だが、チーム全体のフィジカルトレーニングも
関東学院大学では、2019年度より、単年度の箱根駅伝予選会の成績を重視する「強化チーム」と、将来的な活躍を目標とした「育成チーム」にフォーカスした強化策をスタートさせる。
 岸川コーチが担当するのは育成チーム。5000mの自己記録がAチームは14分台、育成チームは15分台と大まかに基準があるが、15分台の選手でもハーフマラソンが強ければ強化チームに入ることもある。主に、強化チームを中川監督が指導し、育成チームは岸川コーチが担当、上野GMが補佐する体制だ。
「チーム全体のフィジカルトレーニングや、動きづくりのためのドリルなども指導する予定です。故障者のリハビリトレーニングも担当します」(岸川コーチ)
 中川監督は育成チームと故障者を岸川コーチに任せる理由を、次のように説明する。
「チーム全体の底上げが関東学院大の課題です。箱根駅伝や予選会はハーフマラソンの距離ですが、そのタイムを上げるためには5000mの走力が基礎になる。故障者については、昨年の箱根駅伝予選会も、走ってほしい選手が2人間に合いませんでした。故障中のトレーニングもしっかりと行って、故障明けの復帰を早くすることが狙いです」

 上野GMは、フィジカル強化については、明確なポリシーを持っている。
「昨今、様々なフィジカル強化策が打ち出され、箱根駅伝に出場している大学も、積極的に取り入れていますが、"走りに繋がる強化"でないと意味がないと思っています。スピード=筋力という側面が大きいのですが、走る上で使う筋力を高めることが重要ですね。このあたりは、岸川コーチの現役時代から、試行錯誤しながら取り組んできた部分なので、きっといい指導をしてくれると思います」
 岸川コーチも、現役時代から走る以外のメニューにしっかりと取り組んできた。
「大学時代に黒須雅弘コーチ(現東海学園大)に指導していただき、動き、フォームが変わったときに記録が伸びました。ケガも減りましたし、こんな楽に走れるんだ、と感じた経験があります。動きが崩れたら上野さんに指摘してもらったり、黒須さんにアドバイスを求めたりしていました」
 関東学院大の学生たちも走るメニュー以外のトレーニングの重要性は、しっかりと認識している。長距離種目は当然、スタミナ系の練習が大きなウエイトを占める。だが、何千歩、何万歩と同じ動きを繰り返す種目である。動きが少しでも変われば、記録に反映する率は大きいかもしれない。
 実際、体幹トレーニングだけでなく、「筋力トレーニングも行いたい」という声が、学生たちからも出ていた。岸川コーチの招聘には、そういった背景もあったのだ。

体幹トレーニングを行う様子を観察する岸川コーチ

勝者のメンタルを浸透させる役割も
 中川監督は「チーム全体に勝者のメンタルを浸透させる役割」も期待する。
「学生たちは目標設定もそうですし、それをクリアする気概も足りないと感じています。練習は私も狙いを説明しますし、学生たちも自身の現在の力を踏まえて設定ペースなどを判断しています。問題はレースの方です。レースの計画を3〜4日前に提出させ、試合後に振り返るようにしていますが、行動がどこまで戦略的にできているか、物足りない部分が大きい」
 岸川コーチの経験では、2009年の東アジア大会と翌2010年のアジア大会が、レベルが停滞している関東学院大の参考になりそうだ。
 東アジア大会は2位。優勝した中国選手は自己記録こそ上だったが、シーズンベストの推移を見ると下り坂で、09年のシーズンベストでは岸川コーチの方が勝っていた。それに対して10年アジア大会は4位だったが、決勝に進んだ8人中岸川コーチの自己記録は7番目だった。
 その2大会を岸川コーチは、「まったく違う気持ちで走った」と言う。
「東アジア大会は勝てた試合だったかもしれません。スローペースになったら前に行くように上野さんから指示を受けていましたが、スタート前に弱気になってしまって、できませんでした。練習してきたことが出せなくて、何のためにやってきたんだろう、とむなしさが残ったことを今でも思い出します。アジア大会はその反省から、攻めの走りをしました。ランキングが下の方だったので、予選もタイムを狙わないと決勝に進めません。予選も決勝も、積極的なレースプランで臨んで実行できました」
 今の関東学院大も、予定通りの練習を行ってもレースで結果が出ない選手が多い。岸川コーチの言葉で、行動が大きく変わる学生も現れるのではないか。練習の前後で学生たちに話をするだけでなく、ミーティングが岸川コーチのミニ講習会のようになることもあるだろう。

今後、指導をしていく場所となる関東学院大のトラックの前で

「人になれ、奉仕せよ」の精神で
 岸川コーチには学生たちに、「少しでも上の競技レベルを見て欲しい」という気持ちが大きい。アジアで戦い、世界と戦うために海外に何度も出て、日本人初の1分台を目指した取り組みは「全てが試行錯誤でしたが、やり甲斐を感じられた」という。
「自分にとって、究極の技術とはどんなものなんだろう。走りを極めるとは、どういうことなのか。杉森(美保・800m2分00秒45の日本記録保持者)さんが1分台に最も近づいた選手ですし、女子800mで東京五輪以来の五輪出場も果たしました。でも杉森さんと同じ方法が自分にはできないかもしれないし、自分に合った他の方法があるかもしれない。年齢が30歳に近くなっても、何かやれる方法がある気がしていました。自分の走りを突き詰めることで、トレーニング方法はもちろん食事や休養のとり方、メンタル面まで、あらゆるものから吸収しようと貪欲になることができました」
 競技レベルが高いに越したことはないが、仮にレベルが低くても、やり甲斐は感じられるはずだ。自分の走りを真剣に追求すれば、その過程で得られるものは何かしらある。
「その結果として記録が出ればうれしいですし、引退が近くなって記録が出なかった時期も、今考えれば走りを追求していくプロセスを楽しめていました」
 駅伝というチームスポーツならでの醍醐味も、学生には感じてほしい。自身は学生駅伝に出場した経験はないが、インカレで総合優勝を目指してチーム全員で頑張ったことがある。
「筑波大が強くて一度も勝てませんでしたが、関東インカレで2位に入ったことがありました。その頃の仲間が卒業後の現役時代も、今の活動も応援してくれています。学生時代の人間関係が今も私の財産になっている。箱根駅伝は注目度が高くてプレッシャーも大きいですけど、目標が明確で、そこを大学の4年間で目指す過程が、その後の人生にも大きくプラスになると思っています」
 実は関東学院大の陸上競技部も、人間的な成長を目的としている。中川監督は"人になれ、奉仕せよ"の建学の精神を、陸上競技を通じて学生たちに身につけさせようと指導している。"人になれ"は「いかなる差異もない、人間という普遍的な価値を追求すること」(関東学院大ホームページから抜粋)である。
「以前、大雪が降ったときに、寮の近くのバス停でバスが立ち往生してしまったことがありました。陸上部の学生たちが自主的に救援活動をして、バス会社や地元から感謝されました。そういった人間形成を目指した指導をしています。そこに岸川さんの女性指導者としての目線が加わり、どういうプラスが生じるか、楽しみな部分ではあります」
 岸川効果は、最初は目に見えない部分から生じるのかもしれない。だが、やがては競技力として現れ、そして箱根駅伝復帰という形に結びつく。そのための一歩を関東学院大と岸川コーチが、2019年の春に踏み出した。


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