ウィグライプロスペシャル 第7回
ロンドン五輪直前特集 高平慎士&高瀬慧 編

200m代表コンビのクロストーク
対照的な成長過程の2人がロンドンで描く軌跡


  200mのロンドン五輪代表の高平慎士と高瀬慧。同じ富士通所属で、出身大学も順大で同じである。背格好も似通っている2人だが、それぞれの成長過程は大きく異なる。先輩の高平は20歳でアテネ五輪に出場し、4×100mR銅メダリストとなった前回の北京五輪を経て、ロンドン五輪を短距離最年長選手として迎える。それに対し高瀬は24歳のシーズンで出場する今回が初五輪。日本の一線に躍進してわずか2年目である。2人に成長過程の違い、お互いの関係の変化を語り合ってもらうことで、それぞれの特徴とロンドン五輪の位置づけが明確になった。

●急成長の背景
 昨年の東日本実業団で20秒53の日本歴代10位(当時)をマークして日本のトップレベルに浮上した高瀬。テグ世界陸上は4×400mRのみの出場となったが、今年の日本選手権は200mで優勝して個人種目でもロンドン五輪代表入りを決めた。表2にあるように3年前の大学3年時には21秒が切れなかった選手。高平と比べると、五輪代表入りでいえば、ちょうど1サイクル(4年)違うのである。逆にいえば、ここ数年で急成長した。それを先輩の高平はどう見ていたのだろう。そして、高瀬自身はどう分析しているのか。
高平 大学の後半で何かをつかんだのだと思います。動きもはまっている感じが出てきて、スムーズに進むようになりました。本当に一気に来ましたからね。400m寄りのメニューでしたが、坂などの冬期練習では苦しいところで率先して前に出ていました。最近はケガもしなくなって、やりたい練習ができるようになったのが大きいと思います。体が太くなって安定感が出てきました。結果が出るに伴って意識レベルも上がってきた。日本のトップ、国際大会の代表というところを明確に目標にし始めたのが見ていてもわかりましたね。
高瀬 大学の後半から、何をやったらいいのかがわかってきました。大学3年の関東インカレがターニングポイントでしたね。予選で肉離れをしたことで、それまで漠然としていた考えが明確になってきたんです。ウエイトや補強に積極的に取り組み始めて、それらをどう走りに結びつけるかを考え、そして走り自体のコツもつかめてきました。ケガも減ってきて、タイムも伸びて、陸上が面白くなってきました。1、2年の頃は何をやったらいいのかわからなかったし、タイムも出なくて先が見えていませんでした。コーチや先輩たち、周りの人たちがアドバイスをしてくれたおかげで気づくことができたんです。

表1 高平と高瀬のプロフィール比較
高平慎士 項目 高瀬慧
10秒20(+1.3)2009年 100m 10秒43(−1.5)2012年
20秒22(+1.3)2009年 200m 20秒42(±0)2012年
46秒01・2003年 400m 46秒46・2010年
1984年7月18日 生年月日 1988年11月25日
北海道 出身 静岡県
旭川六合中 中学 長田南中
旭川大高 高校 静岡西高
順大 大学 順大
富士通 実業団 富士通
A型 血液型 O型
180cm 身長 179cm
62kg 体重 62kg
27.5cm シューズ 26.5cm
91cm 股下 不明
240cm前後 最大ストライド 不明
既婚 婚姻 独身
●2011年と2012年の違いは精神面
 今季の高瀬は、記録の伸び幅は昨年ほど大きくはないが、何かがまた違っていた。昨年はシーズン日本2位の記録を持ちながら、日本選手権は5位と敗れて個人種目の世界陸上代表を逃した。今年は前述のように日本選手権を勝ちきった。高瀬自身は昨年との違いをどう自己分析し、高平は成長し続ける後輩にどんな期待をかけているのだろうか。
高瀬 精神面の成長があったと自分では思っています。去年の日本選手権は舞い上がってしまって自分の走りができませんでした。東日本実業団でタイムを出して、高平さんにも勝てるんじゃないかと周りから言われて、変に意識をしてしまったんです。大学4年の冬期練習は“世界陸上を走りたい”とは思ってやっていましたが、“行ければいい”くらいの気持ちでした。そんな考えでは、日本選手権を走る覚悟が足りないのは明白です。その結果が前半だけ突っ込んで、後半で脚が止まる走りしかできませんでした。
 テグ世界陸上をリレーで経験して、やっぱり個人で出ないとダメだと痛感しました。世界に目を向けられるようになったのが大きかったです。今年は勝負を意識しすぎず、自分の走りに集中できました。
 あとは練習での走り方も変えましたね。レースの3、4日前にタイムトライアルをしますが、昨年までは力んでいて後半で相当にきつくなっていました。つねに100%を出そうとしたことがマイナスに働いてしまったんです。それを今年は80%で走る練習を多くして、レース前の刺激もマックスを出さないようにしました。昨年の練習の方がタイムは速いのですが、今年の方が感覚は良い。練習の幅が広がったと感じています。
 僕の中では大学3年の関東インカレまでが成長の第1段階で、昨年の日本選手権までが第2段階、今は第3段階に入っていると位置づけています。
高平 陸上競技の練習は「これが正解です」というものはありません。だから突き詰めてやるのは難しい。それでもトントン拍子に来ているときは、やれるところまでやった方が良い。そのなかで足下を見て、進みたい方向を大事にやってきたのが大学後半からここまでだと思うんです。
 昨年のテグ世界陸上は個人種目に出られず悔しい思いをしたはずです。ロンドン五輪に個人で出ることで一歩を踏み出しますが、そこで何を感じて何をするか。僕も最初のアテネ五輪は色んなことを感じました。末續(慎吾・ミズノ)さんと朝原(宣治・大阪ガス)さんの間をつなぐ3走をするなんて、考えてもみませんでしたから。今回の高瀬は年齢も違いますからまったく同じではないでしょう。僕とは違う景色を見られるかもしれません。でも、日本チャンピオンになった意味は世界に目を向けることだと思うんです。今後は世界しか見ない取り組み方をして、いつまでも日本選手権でとどまらないようにしてほしいですね。オリンピックでどう変わるか。本人次第だと思うんですけどね。

表2 高平と高瀬の年次別成績
高平慎士 高瀬慧
200m記録 国内主要大会 日本選手権 国際大会 200m記録 国内主要大会 日本選手権 国際大会
  全日中110mMH4位     1999        
22秒14 全国高校100m予選     2000        
21秒33 全国高校100m3位     2001        
20秒97 全国高校1位/100m5位   世界ジュニア
400 mR7位(2走)
2002        
20秒63 日本学生3位 8位 ユニバーシアード
400 mR1位(2走)
2003        
20秒59 日本学生2位 1位 アテネ五輪1次予選
/400 mR4位(3走)
2004        
20秒55 日本学生1位/100m2位 1位 世界陸上1次予選
/400 mR8位(2走)
2005 21秒70      
20秒35 日本学生1位/100m1位 2位 アジア大会3位
/400 mR2位(4走)
2006 21秒60 全国高校準決勝
/400m準決勝
   
20秒52 全日本実業団1位 2位 世界陸上2次予選
/400 mR5位(3走)
2007 21秒73      
20秒58 全日本実業団1位 1位 北京五輪2次予選
/400 mR3位(3走)
2008 21秒31 日本学生準決勝    
20秒22 全日本実業団1位 1位 世界陸上2次予選
/400 mR4位(3走)
2009 21秒16 日本学生4位    
20秒78 全日本実業団2位 3位 アジア大会400 mR
予選(2走)
2010 20秒93 日本学生3位
/400m2位
400m5位  
20秒49 全日本実業団2位 1位 世界陸上準決勝
/400mR予選(3走)
2011 20秒53 全日本実業団
1位
5位 世界陸上1600mR
予選(1走)
20秒56   3位   2012 20秒42   1位   
※種目名がないものは200m

●「アテネ五輪は“ファン”でした」(高平)
 では、高平自身は初出場だったアテネ五輪では何を感じ、それをどう生かして北京五輪で活躍できたのだろうか。アテネ五輪時は大学2年の20歳。世界ジュニアとユニバーシアードのリレーは経験していたが、オリンピックで戦うには何かが足りなかったようだ。
高平 アテネ五輪は競技者として行っていませんでした。“ファン”でしたね。まあ、20歳として感じることはたくさんありましたけど。日本代表の中に身を置くこと自体、「僕はここにいて良いのか?」と感じてしまっていた。個人種目は何もさせてもらえませんでした(200mは1次予選で21秒05・±0)。「オリンピックはこういう世界なんだ」と感じたものはありましたけど、何も残りませんでしたね。その場に立った経験を持ち帰っただけ。経験を受け容れて生かす器がありませんでした。4×100 mRは4番になってメダルを目指せる位置にいることはわかりました。それでも室伏(広治・ミズノ)さんや野口(みずき・グローバリー。現シスメックス)さんの金メダルを見て、ちょっとやそっとではできないことだという認識をつきつけられたましたね。

●「北京五輪は“競技者”でした」(高平)
 こう話す高平だが、アテネ五輪後に成長したのは疑い得ない。でなければ、北京五輪の活躍はなかった。
 確かにアテネ後も国際大会で苦しんだ。2005年のヘルシンキ世界陸上も1次予選を突破できず、記録はまたも21秒台だった。2006年のアジア大会も3位。国際大会でやっと21秒を切ったが、20秒81(+0.7)のシーズン5番目の記録で、それほど評価できなかった。
 だが、2007年の大阪世界陸上では2次予選まで進出し、20秒77と国際大会の自己最高をマーク。シーズン自己3番目の記録だった。そして北京五輪は1次予選で20秒58(±0)、2次予選で20秒63(+0.2)とシーズンベストと3番目の記録で走った。4×100 mRでは周知のように銅メダルの活躍。

 高平自身は200mでもっと高いレベルに到達したかったのだろう。それで上記のような言葉になった。結果的に、アテネ五輪の経験を生かしきれなかった、という結論を出さざるを得なかった。
高平 4年後の北京五輪は“競技者”として臨めたオリンピックでした。多少ですけど、地に足をつけてやりたいことがやれた。ただ、“競技”をしに行っただけで、上を目指す姿勢が持てなかったと思います。
 しかしアテネ五輪のリレーの経験が役立ったのは確かです。「決勝ってこういう感じなんだ」という経験ができましたから。スタジアムの張りつめた雰囲気とか、世界のトップ選手が集中している緊張感とかを肌で感じられました。リレーでこんなだったら、個人の決勝は超面白いだろうな、と実感できました。
 朝原さんや末續さんとコミュニケーションがとれたのも、リレーがあったから。朝原さんがドイツやアメリカ留学された経験、末續さんの世界陸上の決勝の経験(2003年パリ大会200 m銅メダル)を聞いて、感じられたものがありました。
 北京五輪のリレーではまた違ったものを見ることができましたね。コール場で朝原さんや末續さんが気持ちをコントロールしていく様子も、塚原(直貴・富士通)がどう叫んでいるかも見ていました。外国選手は、個人種目では同じ組の選手たちしか見られませんが、リレーはその国のトップ4人を見られるんです。アテネではそこまで余裕がありませんでしたけど、北京では他の選手にも目を向けられました。

順大・佐久間和彦コーチが語る高平と高瀬
「高瀬の去年の日本選手権は、キャリア不足が出てしまい、ガチガチになって残り50mで止まってしまいました。『今年は何がなんでも個人でオリンピックに行こう』と話し合って、日本選手権は頑張るのではなく、オリンピックをイメージして質の高い走りをすることを目標にしました。それを表現してくれましたね。
 4月の出雲陸上の100mで大瀬戸(一馬・小倉東高)君に勝って、300 mで金丸(祐三・大塚製薬)君も抑えたことで気持ちに余裕ができました。昨年のテグ世界陸上の1600mRで45秒台のラップで走ったことも財産になっていたでしょう。
 高平君にもよく話したことですが、レベルが同じであれば、リラクゼーションの競争になる。“最大の努力は最大のパフォーマンスを生まない”のです。他人と競うのでなく自分の走りができるかどうかが勝負のカギになるんです。
 高瀬の成長過程が遅いのはやはり、高校時代にそこまで根を詰めてトレーニングをしていなかったからでしょう。今もそうですが、当時はもっと細身の体でした。東海大会を見ましたが400mは前半から突っ込んで後半は完全にバテていましたね。
 大学3年くらいからトレーニングができてきて、筋肉も少しずつついて、精神的にもタフになってきました。そこには高平君の存在が欠かせなかった。ずっと彼を目標にやってきましたから。
 高平君は大学2年でアテネ五輪に出ることができ、良かった部分も多かったのですが、負の遺産も持ち帰ってしまった。外国選手に前半から前に行かれたとき、ガチガチになってしまうのがクセになり、その後かなり苦労しました。
 高瀬は年齢的には24歳ですから、心の持ち方が違うと思います。世界陸上も経験しているので、かなり落ち着いて臨めるはずです」
※高瀬の現在の専任コーチ。学生時代の高平のコーチも務めた

●「北京五輪の頃は別次元でした」(高瀬)
 高平がアテネ五輪から北京五輪の間に苦しみながらも成長し、リレーでは北京で銅メダルという結果を出した。その頃の高瀬は何を考え、高平のことをどう見ていたのだろうか。北京五輪のあった2008年は順大の2年生だった。順大を拠点にしている高平とは、もちろん面識があった。
高瀬 メダルを取ったシーンは、みんなで寮のテレビを見ていました。感動しましたよ。スゴイな、日本人でもやれるんだと思って。ホント、鳥肌が立つくらいに感動しました。でも、そのときは別次元のこと、としか考えられなかったですね。高平さんは憧れの先輩ではありましたが、自分が日本代表になるなんてことはまったく思っていませんでした。「こんな人といつも練習しているんだ」と思って、また感動しました。
 高平さんに近づけたな、と感じたのは大学3年の冬期からです。外周走でそれ以前は後ろを走っていました。全然ついて行けなかったのですが、その頃から差が詰まり始めました。でも、高平さんに勝つんだ、という気持ちはあまりありませんでした。まずは秋元さんに勝ちたいと思っていました。
※秋本延大・順大で高瀬の1学年先輩。200mは20秒83がベスト。2009年日本インカレ2位。
 代表を意識し始めたのが4年生のときです。関東インカレに(400mで)優勝して、日本選手権に出場して。日本選手権は5位でアジア大会出場はできませんでしたが、実業団で続けるには日の丸は最低条件だと考えるようになりました。
 高平さんということでいえば、やはり昨年の東日本実業団で20秒53を出してからです。僕の中で“憧れの存在”ということは変わっていませんが、同じくらいの所を目指せると感じました。

●「高瀬には世界観を話せるようになった」
 一方の高平は当時、高瀬に対しどう接していたのだろう。それが、高瀬の成長とともにどう変わってきたのか。ロンドン五輪代表となってアドバイスしたことは…。
高平 食事をおごるとか、普通の大学の先輩後輩という関係でしたよ。日の丸を背負えるレベルの選手だとわかってからは、自分の世界観も少しずつ話すようになりました。
 大学1、2年生に僕の世界観を見せると、それは押しつけになってしまうんです。アドバイスはしますけど、経験を踏んでいない選手にレベルの高いところをいきなり見せても、受け容れられませんから。高瀬が大学3年、4年と変わってきて、社会人になり、日の丸を意識するようになってからは、彼とのコミュニケーションが僕にとっても勉強になるようになりました。順大で練習している選手のなかでも、話せる範囲が一番広い相手でしょうね。
 僕が朝原さん、為末大さん、末續さんからしてもらって嬉しかったことを高瀬にもしてあげたい。それが具体的に何かといったら、説明するのは難しいんですけど…。この立場になってみないとわからないこともあって、良い意味でお互い、はけ口になっているところもあります。

高平慎士とウィグライプロ
「ウィグライプロを飲むとリカバリーが違います」
ウィグライプロだけに頼っているわけではありませんがリカバリーが違うと感じています。ウエイトトレーニング後のリカバリーをウィグライプロが補ってくれていますね。あとは風邪をひかなくなったことも良かった点です。飲むのは基本的に、一日の終わりに1包で、試合前になると増やします。きつい練習の前に飲んだり、後に飲むこともあります」
高瀬慧とウィグライプロ
「継続的に練習ができるようになりました」
ウィグライプロを冬期から飲み始めましたが、中断するとちょっと体が重く感じました。飲んだときは朝がスッキリ起きられるようになりました。基本的に練習の前後に飲んでいますが、ウエイトトレーニングをした日は、一日の終わりにも飲んで1日3包飲んでいます。風邪をひかないようになりましたし、継続的に練習ができるようになりました」

●「準決勝で戦うことで見えてくるものがある」(高瀬)
 大きな成長を遂げてロンドン五輪に臨む高瀬。五輪初出場であるが、高平の初出場時より年齢的には4歳上になる。そして、高平という手本を身近に見て、感じてきたことで、初出場でも高いレベルを見ている。高瀬はロンドン五輪を成長のワンステップと位置づけているし、高平も“ロンドン後”の高瀬に期待しているところがある。
高瀬 高平さんは「アテネ五輪で競技者ではなかった」と言われましたが、僕がそれと同じでは高平さんの近くにいた意味がありません。ロンドンには出るだけではダメで、勝負をして何を感じ取れるか、が重要だと思っています。そのためには個人の200mでは準決勝以上、4×400mRでは決勝進出という目標でいます。
 日本選手権で20秒4台を出すことができました。そのタイムまで来たら20秒1台、0台を目指していくべきだと思っていますが、自分の中にはまだ明確なアプローチの仕方が見えていません。オリンピックという同じ舞台に立って外国人選手たち見て、そして戦うことで見えてくるものがある。20秒1台、0台へのきっかけづくりをロンドンでしたいと思っているんです。
高平 感じ取れるだけ感じ取ってほしいですね。そして、僕より先に引退してほしくない(笑)。それはともかく、今後どちらのリレーを走るようになっても、日本の中核を担える選手に成長することを期待しています。それだけの経験を積み、タイムを出し、ステータスといえる存在になってほしい。
 それは簡単なことではありません。実際に今回、塚原君が代表になれませんでした。5年以上続けて日の丸を背負い続けるのは誰にでもできることではないんです。
※北京五輪と07年と09年の世界陸上で100mと4×100mR代表。北京は銅メダルメンバーの1走。
 でも、経験者が残らないと、チームとしての方向性とかが残らない。僕も朝原さんや末續さんをみて、思いきりやれて、感じ取るものがあった。そういう人たちの経験を生かせるからやれているんです。ロンドンの4×100mRは北京のメンバーが僕1人だけになってしまいましたが、江里口(匡史・大阪ガス)君が09年の世界陸上から4年続けて代表入りしているのでやれると思っています。全員初出場になったら厳しくなりますね。
 日の丸チームで戦い続けることで上が見えてきます。「リオ五輪は高瀬さんじゃないとダメ」と言われるくらい、頼れる存在になってほしいですね。
ロンドン五輪4×100mR代表。左から江里口匡史、九鬼巧、
山縣亮太、高平、飯塚翔太。高平が最年長で、高平と江里口
以外の3人は学生という若いチーム
ロンドン五輪4×400mR代表。左から中野弘幸、東佳弘、高瀬、
金丸祐三。記録的にも国際大会実績でも金丸がチームリーダー。
高瀬も昨年のテグ世界陸上に続く代表

●「ロンドンにはファイナリストになるために行く」(高平)
 自分以外の選手をここまで客観的に語る選手は多くない。言ってみれば“選手らしくない”のだが、それが高平らしさでもある。高平が“客観的な第3走者”として力を発揮できたのは、普通の選手とは少し違った目を持っているからだった。
 高平自身も「ロンドンで競技は終わり」というつもりはない。

高平 ロンドンには「ファイナリストになるために行く」という意識です。北京五輪の“競技者”は先ほども言ったように、上を目指す感覚が弱かったんです。今回はファイナリストだけを考えていて、そのためには準決勝で真ん中のレーンで走りたい、だったら予選はトップ通過するくらいでないといけない、と思って臨みます。上を目指せる意識になっているのが北京とは違います。
 アテネから北京の4年間よりも、北京からロンドンの4年間の方が、すごく内容が濃かった。2009年は20秒22の自己新が出せて、ゴールデンリーグ(現在のダイヤモンドリーグ)でトップ選手と戦えました。でも、メダルを取って次の目標を持ちにくくなった時期もありましたし、少し休んで調子を落とした時期もあった。アジア大会でバトンミスもしましたね。それでも、この4年間の方が計画的にやってこられたと思います。良いことも辛いことも経験しましたが、それらをすべてロンドンに生かせるようにしたいですね。
 ロンドンで何を感じられるかで、その後の僕の競技人生が決まっていくと思っています。


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